「新しき古(いにしえ)」の精神

ではその古代復帰の精神とは何か?(中略)これは今日普通に唱えられている日本精神とか、国民精神とかいうような封鎖的な、排外的なものではなくて、道徳としては「直ぐな心」を第一に建て、理想としては「自然に帰る」ことを憧憬し、実際的には「洋学をもって砥石として更に日本的なもの」を磨き上げる進歩的な方向を求めるものである。これが見逃されてはならない。この道徳と、この理想と、この実際とが、具体的にどう一致するかは、半蔵においても、作者においても問題ではなく、ただそうした素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」こそ、彼らにとって「新しき古」の道なのである。

(青野季吉)

これは青野の『夜明け前』評から。上記「半蔵」とは島崎藤村『夜明け前』の主人公青山半蔵を指す。

朱子学がその社会倫理の根源とした仁をはじめとする徳目の実体を国学は否定したわけではない。徳を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。

わたしたちの現在の「右傾化」も、アサヒ*1に対する批判として形成された。平和主義を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。とも言える。

現在、祖国というものにわたしたちは、<素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」>を幻視することができるのだろうか。

私としては、ぷろれたりあ・インターナショナリズムやマルチチュードの想いを唱い上げることに異論はないのだが、・・・ 上澄みだけのプチブルの普遍主義、コスモポリタニズムより、「新しき古(いにしえ)」に魅力を感じないでもない。

*1:左翼的な物が権力になっているとする今までは多少とも存在したこと

同じ本を読んで

上記佐々木八郎氏の遺稿の一部は『あゝ同期の桜』という本にもでてくるらしい。*1

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/355.htm

海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 /トート号航海日誌(読書録)

小泉首相も、彼らと同じくらいの年齢でこの本を読み、「戦争は二度としちゃいかん」、「戦争をするぐらいなら、どんな我慢もできる」と感じたそうです」。

小泉首相が靖国参拝しましたね。参拝について首相は、「日本の平和と繁栄は、現在生きている方々の努力だけではない。戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々(らの)、尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。これからも日本が平和のうちに繁栄するよう、様々な祈りを込めて参拝した」と述べたそうです。参拝自体には賛否両論あるようですが、「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」という箇所はまさにその通りだと思います。

ある個人(例えば佐々木)は確かに自らの命を皇国に捧げた。だが、彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。」と言えるのか。多くの犠牲を出したが外敵を撃退したといった場合とは、犠牲の意味合いがかなり違っているはずだ。

 戦争は有限性のゲームである。しかし第二次大戦は(終わるまではおおむね)ドイツと日本に於いては最終戦争として無限性のゲームというイデオロギーのもとに戦われた。ナチスドイツと違い日本はそのことの(国民に対する支配者の)責任を取ってこなかった。

佐々木が苦悶の末に差し出した彼の命は、当たり前のように気にも止めず受領され、21世紀になっても日本=日本という同一性の神話を太らせるために使われる。

短い命を国家に捧げた彼の悲劇。彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」ということで彼らは少しでも慰められるのだろうか。例えば、結果的には少しでも早く戦争を止めておけば被害は少なかった、そうできなかった責任追及を果たしていく、そうすることが彼らの苦闘に応えることであろう。

*1:『きけわだつみのこえ』にもでてくるらしい。

mixiというもの

誘ってくれる人がいたので入ってみた。

コミュニケーションに不安のある野原ですが大丈夫か?

<坂本守信・松下昇>という題のコミュニティを作ろうという人が誘ってくれた*1ので入ってみた。

そこで書いた文章を転写する。

*1:mixiに誘ってくれた方とは別人

里親という言葉

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san

里親ブログのsidoさんは、(人間以外に里親・里子という言葉を使わないで)と言っておられます。

 sidoは、里親をしています。もちろん、人間の子どもを育てる里親です。

巷には、ペットの飼い主を「里親」と呼ぶ方もいますが、人間以外には使って欲しくないと思っています。

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san/archive/2005/05/23

もっと里親を増やして、養護施設にいるたくさんのC子ちゃんに、髪飾りを盗まなくても、ずっとそばにいる大人(里親)が与えられるようにしたい。

 大人は所詮いなくなると、人を好きになることをあきらめる子どもたちを無くしたい。人を好きになることで、人は人として輝くのだと思う。施設で暮らす全ての子どもに、自分だけの大人のいる家庭を与えて欲しい。

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san/archive/2005/05/28

 わたしは養護施設にも里親にも関わったことがない。だから初めてブログを数分読んだからと言って何が分かるものでもない。でもsidoさんの上の願いは美しいと思う。 (12/5 7時)

概念集・1   目  次

概念(序文の位相で)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051129

バリケード

法廷

監獄

フィクション

反日

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000123#p1

非存在

仮装

宙吊り

全共闘運動

大学闘争

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000122#p1

パタンランゲージ

委託

〈 〉焼き

ストライキ

文学

科学

不可能性

Let it be

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/itbe1.html

単位

n次闘争

オーパーツ

落書き

天然

id:mujigeさんへの質問

@mujigedari あらためてお聞きしますが、あなたは何がしたいの? 私にブログから削除せよ、との明示的要請がまだないのはなぜ?

posted at 12/7 20:30:02

中道右派 『>これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?

常軌を逸しているとは思いません。

単にまとめただけと思われたとしたら、あなたは知的推理力と相手の意図の洞察力が欠けています。

永井論文の構成を示し、批判的検討を詳しく加える部分は詳しく引用し、あっさり検討する部分は短くまとめ、後でまとめて独立のエントリにしてもらうことで、一覧性を高め、議論の際も該当箇所が参照しやすいような再構成をする意図がありました。

>御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?

お断りします。

先に、あなたから得るものは何もないとか、逃げたとみなすとか、喧嘩を売られた方にお説教されるいわれはありません。

私は、単に喧嘩を買っただけです。

あなたのブログをご紹介くだされば、そこに移ってもいいですが。

もしかして、櫻井よしこ氏の検索を示唆した先のブログのブログ主さんですか?

>しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?

上記のとおり、そのことを考えて、初めから独立エントリにまとめてもらうつもりでした。

>>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。

>厚かましいにもほどがありますな。

どうぞご自由にそう思われてください。

市川海老蔵に似ていると良く言われるので、『厚顔海老蔵』とHNを変えましょうか?

>それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。

印象操作は止めてください。

元々私は、逃げたと断言した訳ではなく、逃げたのではないでしょうね?と質問しているだけなので、中傷ではないでしょう。誤謬です。

また、その点については、3月15日付けのエントリで、自分の誤謬を認め、あなたの感覚の正常さを褒め、自戒の念を示すと共に、今後のより良き指針とする決意を示したつもりだったのですが、これでは満足されませんか?謝罪と賠償をお求めになりますか?

野原氏は、私が自省の念を示しただけで、以後特に追及もされませんでしたが。

一方、あなたは私のコメントを誤解曲解して断言したり印象操作をされることが多いが、そのことを私が指摘しても特に気にされるそぶりも無い。別にそんなことで一々あなたが非を認めることを求めるつもりもありませんが。

お互い、礼儀と考えるところがかなり違うようですな。

やはり、人類普遍の真理道徳はありえず、最大公約数的な道徳的価値判断を含む比較的価値中立的な法による支配を目指すのが良いようですね。』(2007/03/28 11:42)

* ノーモア 『人を売国奴だの無知だのなんだのと罵っておいて、御自分に礼儀があると信じていらっしゃるところに心より憐れみを覚えます。

>喧嘩を買った?

バカを言いなさんな。あなたが勝手に野原氏を中傷したのが先でしょうが。私はそれを恥知らずの行為だと指摘したまでです。それから「印象操作」という言葉が安売りなさっているようですが、それを立証したいなら陰謀論や「(歴史学の専門では全くない)『M2』もこう言ってるよ」みたいな「印象操作」は止めて御自分の力で積み残しを解決なさったらいかがですか?今のところ私の議論にあなたはまともに太刀打ちできていないことをお忘れなく。

このコメント欄はあなたの質問に答える為だけにあるのではありません。あなたが長文を貼り付けて容量をオーバーさせれば他の人は書き込めなくなるんですよ。そんなことも分かりませんか?』(2007/03/28 11:54)

* ノーモア 『「野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?」

これが単なる質問?印象操作はそっちでしょうが(笑)

ちなみに私は野原氏はアク禁にすべきだと思います。理由は大量のコメントを連日貼り付けてすぐに容量をオーバーさせ他の人がコメント出来ないから。魚拓とりたいならとらせればいいんですよ。自分が勝ったと思っているなら自分でブログでも作って堂々と貼り付ければよろしい。出向きますよ、私は。』(2007/03/28 12:24)

* ノーモア 『それからついでに。私へのコメントは私宛にして下さい。分かりにくいので。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070318#c1174804311

ノーモアはなぜ論点のすり替えを追及しないかですが。

(1)まずご自分が論点のすり替えを行ったと認めるんでしょうか(笑)

(2)で、吉見氏が論点のすり替えをやったということを実証してください。

これもまた「検索」でしょうか(笑)』(2007/03/28 12:49)

353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。

F さん

昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。

さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1

 「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。

そのとおりだとわたしも思います。

処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html

http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html

上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。

「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。

死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」

死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。

 人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。

 自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。

そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。

                野原燐

http://replay.waybackmachine.org/20050127175829/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=353

*1:発言日不明

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。

デモとか好きなわけじゃないが

「私にはテロと戦う覚悟など一切ありません。万一、わたしの家族や親友がテロの犠牲になったらどんなことがあっても、小泉さんあなたに復讐します。イラク戦争はテロリズムの危険を増大させるだけだと、最初から分かっていたのに、あえて支持したのは小泉さんの責任ですから。」

http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/tentoHP-topB.htm

反戦ビラ入れで起訴、糾弾! 3月19日付で、反戦ビラ入れで弾圧を受けた3名の逮捕者が全員起訴されました。

野原でも言及したhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20040228

上記の件で、3人とも起訴というのはさすがにびっくり!! 日本はこのままいくと表現の自由とか政治活動の自由とかひょっとすると、数年でなくなる可能性もあります。皆さんも声をあげてください。

はい、デモに行って声をあげてきました。