http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050124k0000m070110000c.html MSN-Mainichi INTERACTIVE 話題
毎日新聞どっちかいうとひいきにしてたのに!
http://d.hatena.ne.jp/amai_oyatsu/20050124/1106509672
甘いおやつ – 発信箱:第2次「慰安婦」論争として 山田孝男(編集局) 経由
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050124k0000m070110000c.html MSN-Mainichi INTERACTIVE 話題
毎日新聞どっちかいうとひいきにしてたのに!
http://d.hatena.ne.jp/amai_oyatsu/20050124/1106509672
甘いおやつ – 発信箱:第2次「慰安婦」論争として 山田孝男(編集局) 経由
mojimoji 『記事の所在わかりました。
インパクション1997年11月号(通算105号) 「「償い金」は何をもたらしているのか」
年度も掲載誌もタイトルも全部間違い。どういう記憶力・・・。orz』(2/17)
ところで、わたしが1冊だけ持っているインパクションを見たら、西野瑠美子さんの「女性国際戦犯法廷は歴史に何を刻んだか」という短文が掲載されていた。(2002年 通算129号)
彼女が強調しているのは、以下のような点。
ビルマ(ミャンマー)のシャン州というのがどこら辺なのかまるで分かりませんが、下記に「ビルマ軍政によるシャン州における戦時下性暴力の行使」というレポート(日本語仮訳版)がありました。
http://www.ajwrc.org/doc/LtoR/LtoR_01.html License to Rape (日本語仮訳版)
「強かんの許可証」では、ビルマ国軍部隊がシャン州で起こした強かんなどの性暴力事件173件について詳細な報告がなされている。大部分は1996年から2001年の事件で、被害者は幼い少女も含む625人の女性だ。
シャン州の少数民族を威嚇し従属させる目的で、ビルマ軍政が組織的かつ広範囲にわたり部隊に不処罰で強かんを行わせていたことがこの報告で明るみに出た。
例えば、次のような記事になんとも思わないような社会では個人の自律性を説くなど画に書いた餅である。
警官不祥事防止へ「大切な人」同行 兵庫県警が写真携帯
現職警官が強姦(ごうかん)致傷や加重収賄容疑で逮捕されるなど、昨年、不祥事に悩まされた兵庫県警が、全警察職員に家族や恋人の写真を携帯させて勤務にあたらせることになった。5日から本格的に実施する。勤務中は常時、携帯を義務づける。抜き打ち検査で所持しているかどうかもチェックする方針。 「大切な人を思えばこそ、仕事もきちんとこなせるはず」という狙いだが、現場からは「犯人を追いつめる危険な任務の時にはちゅうちょしてしまう恐れがある」といった声も出ている。 【04年1月5日 朝日新聞】
こんな話は全然知りませんでした。「大切な人」などいないという人はどうなるのでしょう。というかそんな言い訳をしなければならないことが情けない。警察官であろうともわたしたちは勤務時間のあいだ職務に専念することとひきかえに給料を貰っているだけであり、存在丸ごとを組織に預けているわけではない。そうではないアプリオリに支配される世界に徐々に移行しつつあるというわけか?
ひとつのやり方は、戦後のドイツでみられたやり方で、事後的に、実質的正義の立場から、過去の”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くすという方法。例えば当時、ナチスドイツで、合法的だと思い、愛国心から夫の叛逆を密告した妻の行為を事後法によって断罪した。戦後ドイツにおいては、自然法の再生というスローガンのもとに積極的に罪刑法定主義(これも一種の自然法)が無視された経緯があります。この自然法への回帰は、日本国憲法にも色濃くみられ、国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、憲法的価値観の相対化を拒絶します。
(スワンさん)id:noharra:20050321#p3
「国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、」憲法のこの思想には賛成です。わたしは絶対護憲派ではない(憲法1条削除派)なのですが。
法実証主義/実質的正義の背反という構図自体、法学に暗いわたしにはわかりにくいですが、実質的正義の名の下に、多数派の価値観による抑圧がまかり通ってしまうことへの警戒みたいな感じ、ですね。そういう問題意識は大事なのだろうと思います。
もう一つの相対化の方法としては、「”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くす」とは云っても、それは結局(右翼的には)戦勝国の正義、(左翼的には)帝国主義者の正義にすぎないじゃないか!というもの。例えば現在アウシュビッツを言う言説に対しては、現在のイスラエルの暴虐を口にせずアウシュビッツだけ言うのはシオニズム寄りの態度だと批判することができる。(ちょっと話がズレたが要は間違いを名指す主体にも偏差があるという話。)
大東亜戦争の総括においては、竹内好の「対英米戦争は悪ではない、対中国戦争は悪。」という有名な発言があります。わたしは竹内のこの態度は基本的に良いと思っています。
2ちゃんねるからの引用(らしい)。
http://www.2ch.net/index-right.html
神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。
我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。』
これが、日本精神の真髄だ!と。かなり良くできているが、我が国は素晴らしいと言っているだけで、理念としては空白。(北畠親房の「天地の始は今日を始とする」という私が好きなフレーズが入っているので点が甘い。)
でも勇ましい気がするのでちょっとした戦争くらいならできるかも。
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050410#p5
でhizzzさんが、 女性国際戦犯法廷について書いている。(2)のとおり応答したのですが、4/10のhizzzさんの文章をもう一度引用し考えてみよう。
1.開催前から「天皇(裕仁)有罪」帰結が容易に推測できるイベであること
原告と被告の扱い(証人・弁護等の人員)に著しい差があった
「天皇有罪」と「東条英機ほか有罪」の両方を検事団は目指したが、証拠が整わなければ有罪にはならなかったと思われる。有罪を導いた手続の「荒さ」を具体的に指摘すべきである。
戦犯法廷の前史としての、日本の法廷への提訴が、門前払いに終わったことの「安易さ」、国境を越えた正義を貫こうとする決意が日本の法廷にあったのかを問うことなく、民衆法廷の瑕疵だけをあげつらおうとする態度の一方性。
2.「国際戦犯法廷」の戦後日本の歴史性を無視してること
数多くのBC級戦犯が、安易に処刑されていった事実に配慮が欠けている
「数多くのBC級戦犯が、安易に処刑されていった」ということがあったのだとしたらそれは東京裁判に連なる戦犯法廷の問題点ですね。
何を以て「戦後日本の歴史性を無視」と言っているのか、がよく分からない。
3.有罪の中身は「道義的責任」
民主主義下の法律では、「道義」はそもそも思想信条の自由に値し「道義的責任」は問えない
犯罪行為があったという事実認定の上で、その管理責任を問うた物であり普通の刑法の範疇における罪を問うている。
hizzzさんは、http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/womens_tribunal_2000/judgement001212.html を示して書いているのだが、ここには「道義的責任を問う」と書いてあるかな?法廷の実際を踏まえず自分なりの勝手なイメージで文章を書いているような印象があるが?
しかしながら、最大の責任は、55年以上にわたって訴追も謝罪も行わず、補償などの有効な救済措置をなんら講じてこなかった日本政府にある。こうした政府の怠慢は、被害者たちが1990年以来繰り返してきた要求にも拘わらず、そして2人の国連特別報告者による細心な調査、さらには国際社会の正式な勧告を無視して、いまだに続いているのである。
http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/womens_tribunal_2000/judgement001212.html
ここからは被害者の求めたものは道義的責任ではない、と読みとれる。
まだ出現していない何かの媒介であり、その何かを共闘的に作り出していくための不可欠の条件である
松下昇の表現のあんぱん(違う)断片より。
わたしが何よりもおどろくことは、世の人がみな、自分の弱さにおどろくことがないという点である。だれもが、まじめくさって行動し、めいめい自分の分を守っている。しかも、そうするのは慣わしでもあり、自分の分を守るのが実際によいことだからというのではなく、まるでだれもが、道理や正義がどこにあるかをまちがいなく心得ているというふうである。
パスカル『パンセ』 断片374
みんな、あたかも自分のやってることに自信を持っているかのように「まじめくさって行動している」。口にする言葉といえば「・・・が自然だ」「・・・は当然だ」、だが本当には自信なんか持っいやしない。
一月半ぐらいして、私たち初年兵全員が東南角広場に集められました。初年兵が整列した前に立木が二本あり、各々に中国人が後ろ手に括られていました。その一〇メートルくらい手前に、二列に初年兵を並ばせて、小銃の先に着剣させ、「今日は人間を刺し殺す。人を刺す感覚をお前らの手と、体で覚える教育をする」と、言われました。いくら軍隊でも、「生きてる人間を殺すのか」と、一瞬ドキッとしました。「突け!」と号令され、二名ずつだだーっと走って左胸、心臓を突き刺した。生きていた人間を突き刺す、ということで、最初は足がふるえていましたが、七番目か八番目ぐらいに、私の番になると、もうそれは消え去って、私も同じように「突け!」と言われて走り、突き刺したんです。その感触は本当に豆腐を箸で突き刺すように、簡単にすっと入っちゃったんですね。人間の体というのは、銃剣で突くと、ほんとに柔らかく、すっと入るもんだないう、ただそれだけの感触で、可哀想だとか、人を殺した罪の意識というのは全然頭の中にはないんです。
刺突訓練のあとしばらくして、今度は首切りの実演がありました。
同じ東南角広場に集められると、今度は土下座した中国人が二人、後ろ手に括られていました。教官は准尉でしたが、その人が日本刀を持ってかけ声をかけて、さっと振り下ろしたんですが、首が完全に切れずに三分の一ぐらい繋がったままで前へ倒れたんです。血がバーッと吹き出した。その倒れた人を日本刀で、鋸のように引きながら胴体と切り離した。二人目は下士官の人が、中国の青龍刀という刀を持って同じようにやーっと振り下ろした。これはすぱっと切れました。生首がコロコロっと二、三メートル前へ転げ落ち、胴体がべたっと前へ倒れました。
それを見せつけられても、さっきまで生きていた人間が胴と首と離れて死んでしまい、死というものは案外簡単なものだなと思ったぐらいでした。だから死に対する抵抗感や殺すという行為に対しても段々無感覚になっていったと思います。初年兵の肝試しということと、チャンコロ殺すのに罪の意識があっては戦闘ができないということで、教育され、豚や鶏を殺すのと同じ意識に変えられていったのです。刺突訓練も首切りを見せたのも、目的はそこにあったのかなと考えます。これは私たちの隊だけではないらしく、北支では初年兵に対して、やはりあちこちでおなじようなことをやったと、後年読んだ本にも書いてありました。
(p56 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571)
今日本屋へ行って『BC級戦犯裁判』というのを買って帰ろうと思ったら出口のところで沖縄特集をやっていて、『ある日本兵の二つの戦場』というのがあった。良い本のようなので買ってみた。今p38-92だけ読んだが、とても良い本だと思う。
上記の部分が最も印象的というわけではない。現在靖国問題が語られるが、その前提には、私たちの近い先行者が行った“支那事変~大東亜戦争”とはどういうものだったのかというイメージと評価がある。
戦争は悪ではないという意見もある。大東亜戦争自体は国際法違反ではなかろう。であるとしても、1937年から皇軍が中国大陸で行った“支那事変~大東亜戦争”の実体は、どうひいき目で見たとしても、アジア解放といった美しいスローガンの正反対の、最低最悪のものだった。
それが事実だ。