概念の欠如が引き寄せる言葉(序文の位相で) |
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批評と反批評 |
3 |
戦闘概念の衰弱 |
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申し立ての極限 |
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差し戻し |
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忌避 |
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制裁 |
13 |
韻律(の越境) |
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話と生活 |
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秘密調査委員会 |
18 |
空間と留置品と共に成長する深淵 |
20 |
世紀末のための反詩 |
22 |
死を前にして |
23 |
地獄へ至る門 |
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発生の時間域 |
26 |
ワープロによる刊行 |
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カテゴリー: 未分類
HANBoardについて考える PART12 抄
シモツカレ氏が(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20111225#c1325285499 )
何か言っているので、原型を
http://twilog.org/noharra/date-101204 から復旧してみた。(2012.1.3)
http://teri.2ch.net/test/read.cgi/korea/986434444/ ← 元サイトはまだ読める。
395名無しさん@ハングルいっぱい 投稿日: 2001/04/27(金) 「当然教育内容も変わる」と言いつつ、変ってこなかったのが朝鮮学校 なんじゃないですか。教育内容が変われば、一条校並どころか一条校そのもの でしょう? http://bit.ly/h0tkux
「399 経営が成り立つかどうかは別にして、オウムがきちんと文部省の指導要領にしたがった授業をして、その上で、オウムの思想信条を教える授業を加えたような学校をつくったとしたら、一条校の扱いを受けることになるでしょう。恐ろしいことですが。」同サイトの呟きより。
「399 思想信条については、むしろそれが原因で、許可されたりされなかったりすることはないように思います。」が下に書いた文につながる。 朝高校は1条校になろうと思えば十分なれた、ただ金正日崇拝教育を捨てさえすれば、ということが読み取れるように思う。が呟きなので不正確。
408 教育内容が変わる:CASE1-独自のカリキュラム(現状に近い)だが政治思想的な内容は排除し、授業は韓朝鮮語。 C2-日本学校のカリキュラムに依拠しながら、民族科目は自前の教科書(検定済)をつかった韓朝鮮語の授業。 C3-日本学校の教科書を使うが副読本は自前のものを使う。
413なんで「米津篤八」氏の名前が伏字なんですか?あの人が日本人一般の感覚からして異常な意見の持ち主であることは疑いのない事実なのだし、彼に対する皆さんの意見はまっとうなもの(彼が基地外じみた反論をするかは別として)なのだから、伏字にすることなく、堂々としていればよいのでは?
「426 朝鮮学校が一条校として認定されないのは、朝鮮学校が思想教育をしているからではなくて、朝鮮学校が文部省の教育要領に従った教育をしていないからです。 しかしながら、日本政府も国民感情も、朝鮮学校における思想教育を問題にしているのが実情かと思います。」同下
戦略的には2つあって、基本カリキュラムを全く文部省に沿う形で作り、一条校になって残りの時間で、思想教育なり民族教育なり朝鮮語教育なりを貫く方式が一つ。 もう一つは、全く思想教育を取り除き、民族教育や朝鮮語教育のみを基本にしたカリキュラムで、文部省から妥協を引き出すこと。→
→このためには、情報開示は絶対必要な条件となるでしょう。」 以上2ちゃん426番の意見。 基本カリキュラムを文部省ががちがちに固めている現状は良くないのでかえてもらって、金正日崇拝教育をやめて1条校になればよいだけの話です。ただ政治的力を持っている総連が学生より金正日が好きなだけ
435 むかし、ハンボードでキム・ググンさんが初登場して北朝鮮関連で重要な提言をしたことがありました。そのとき、米吉が本筋じゃないところで揚げ足を取って、議論を逸らし、ググンさんを消耗させましたね。ああいう奴を野放しにしておいて良いはずがない。
697すでに1962年、全貌社より、「楽園の夢破れて」という北の実体を正確につかんだルポが、出版されたのだそうです。著者の関貴星氏は、日本人の養子となり、日本国籍を持っていた在日朝鮮人で、自ら北へ帰国の意志があったため、日朝協会施設団に加わって、あらかじめ北を視察なさったのだ。
701 67年頃にも、「北より南へ」という北から、漁船を奪って、韓国に亡命してきた人が、手記を発表し、民団が、日本語に翻訳し、出版した事がありました。当時、父が、民団の役員だったもので、うちの家にも一冊有り読むように言われ、通読しましたが、どうも、信じる気になれなかったものです。
以上。http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)からのコピーです。
在日問題に興味を持つ日本人と在日との議論の蓄積は、朝鮮総連の不利益になる。まあそうだろうね。 無償化排除反対原理主義者は、過去の議論を何も知らない。
海老蔵中道右派 『>私があなたから新しく得た知識は何もないので私からすればそれは事実としか言いようがないのですが。また検索しますか?(笑)
あなたの弱点と思われる法的政治的な知識については、こちらがわざわざ先回りして自発的に説明してあげてますからねえ。それで初めて知ったことも多かったくせに、その親切を逆手に取られるとは、見事な悪代官振りですw
越後屋の図った便宜は越後屋が勝手にしたことで拙者は一切知らん、と言う訳ですか。
私みたいに、知らなかったことは知らなかったと正直に謙虚に言っては?自分が上から教える立場に立たないと気がすまないとは、まるでどこぞの国のお方のようだ。
いいですか。我々はお互いに得意分野と不得意分野を持ってるんですよ。
>>法的視点と政治的視点については、私の方が明らかに優れています。それは、ここの数少ないであろう読者には、明らかです。
>は?どこが?私がいつどこで論破されたのでしょうかw確かに私は法律家ではありませんが。で、法と政治的「視点」であなたがどこで優れているのでしょうか?
読み返した読者の方はご存知ですよ。あなたの知らない法的政治的知識を、私はあなたから歴史的知識を得たことに感謝して教えて差し上げたのですが。
それにしても、私は論破などとは一言も言っていないのだが、なぜ論破にこだわるのか。そういえば、あなたはしきりに自分の意見に同調するよう圧力をかけてこられます(論破強制圧力?)が、虚しいと思いませんか?違う立場の意見も尊重しましょうね。私は常にそうしているつもりですが。
お互い未知のことがいくつか既知のことになった。その点だけでも、お互いにとって少しはメリットになったはずです。
>>あなた方左翼
>私が左翼であることを実証してください。印象操作極まれりですね(笑)
うむ。これはそのとおりですね。野原氏は左翼を自称されているが、あなたにはそれを匂わせる発言はあるものの、実証は出来ないので、撤回いたしましょう。
>>私は、アウェイで戦って勝つことが楽しいので
>ホームで負けるのが耐えられない人ということですね。
いやあ。それならあなたこそホームをお知らせになっては?
青狐さんなんですか?
ホームで負けるのが耐えられませんか?
>>必要だから言及した論点にすぎません
?え?なぜ私が売国奴だの被害者ファッショだのと罵られその為の釈明を求められなければならないのでしょうか?それが必要な論点?
また誤解か曲解か印象操作ですね。
まあ、あなたの挑発的言辞に売り言葉に買い言葉で答えた私の未熟さは反省しましょう。
しかし、上記の論点とは、私があなたのコメントに答えるためには必要と思って論及したが、あなたは今回の米下院決議案にかかわる問題ではないと言われた、それらの論点のことを言っています。
>>へイデン法訴訟濫発と類似した状況が生じ得る危険があることは、実は誤りではないのです。
実に興味があります。では法的「知識」に優れた海老さんの講釈をお聞きしましょうか。
1.カナダでは米連邦最高裁とは違う判断がされる可能性があります。そして、カナダは既に米ビッグファームの活動領域に組み込まれています。カナダでの法案というのも1つのポイントなのですよ。
2.米連邦最高裁でもわずかですが判例変更の可能性があります。あなたのお好きな少数説のロジックがここで登場します。現に、ローラバッカー議員は、最終的に失敗はしたものの、ヘイデン法訴訟進行中に連邦政府の公式見解(条約で解決済み)が出たことに対して、政府見解の違憲判断ができるような法案を提出していました。
3.訴訟の入口の訴訟要件では、米加は過剰な管轄を有しているので、実体審理に入ってしまう可能性があります。その段階で日本の国会決議がされると、内容によっては少数説のロジックを基礎付ける有力な証拠の一つが出来上がります。
>>それまで議論されていなかった広義の強制説が吉見氏の『資料集』で初めて登場したという事実
>不十分ですね。吉見氏が最初に「従軍慰安婦問題はまさに慰安婦の官憲による強制連行の問題こそが核心(本質)である」という趣旨のことを述べていなければ「すり替え」にはなりません。さあ、お得意の検索をどうぞ(笑)
歪曲による論点すり替えですね。あなたが急に持ち出した『吉見氏自身が説を変更したかどうか』は問題ではありません。それまで狭義の強制連行しか論じられていないところに、吉見氏が新説の広義の強制説を掲げたのは、明らかにそれまでの議論からの論点のすり替えでしょう。
あなたは、私が前回指摘したとおり、吉見氏の『資料集』以前に広義の強制を論じていた著作を呈示すればいいだけなんですよ。その著作が存在するなら、多数の歴史資料に精通しておられるあなたには、検索渉猟は造作も無いことのはずです。
>あなたの積み残しの「検索」をまとめます。
不要なものをオミットすると、以下のようになりますね。
>・ホンダ議員の真の意図或いはそれを伺わせる発言
お待ちください。ファイリングしときゃよかった。
>・事実と認めるには不十分であったがバーターで仕方なく認めたという政治家(ちなみにあなたの論法を使うなら対外的に責任とるのは首相クラスでないといけないようですから宮沢氏、百歩譲って河野氏となります。また韓国から打診してきた人間がそのクラスであることもお示しください)
日本側の政治判断の証拠は、以下の石原氏の発言です。
>>>>>>>慰安婦強制連行 河野談話は総合的判断 石原前副長官、「謝罪」の経緯語る
1997年03月09日 産経新聞 東京朝刊 社会面より全文引用
元慰安婦への謝罪談話を発表した宮沢内閣の加藤紘一、河野洋平の両官房長官を官房副長官として補佐した石原信雄氏(七〇)は八日、川崎市麻生区の自宅で産経新聞のインタビューに応じ、「いくら探しても、日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが、総合的に判断して強制性を認めた」などと語った。
石原氏との一問一答は次の通り。
--河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているが
「随分探したが、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」
--一部には、政府がまだ資料を隠しているのではという疑問もある
「私は当時、各省庁に資料提供を求め、(警察関係、米国立公文書館など)どこにでも行って(証拠を)探してこいと指示していた。薬害エイズ問題で厚生省が資料を隠していたから慰安婦問題でも、というのはとんでもない話。あるものすべてを出し、確認した。政府の名誉のために言っておきたい」
--ではなぜ強制性を認めたのか
「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当官から報告を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例もあった。談話の文言は、河野官房長官、谷野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官(いずれも当時)らと相談して決めた」
--聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信ぴょう性は
「当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣き叫ぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側が話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性にあたるものがあると認識している。調査内容は公表しないことを前提にヒアリングを行っており公表はできない」
--韓国側の要請は強かったのか
「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したということ。元慰安婦へのヒアリングを行うかどうか、意見調整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた」
--それが河野談話の裏付けとなったのか
「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話に『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意思に反して行われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況から判断して、強制にあたるものはあると謝罪した。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞き、宮沢喜一首相の了解も得てのことだ」
--談話の中身を事前に韓国に通告したのか
「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う」
--韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある
「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償は済んでいるとなる」
--元慰安婦の証言だけでは不十分なのでは
「証言だけで(強制性を認めるという)結論にもっていったことへの議論があることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから、弁解はしない」<<<<<<<
最後の文はなんと巧妙な。あなたも私から法的思考を学び取ったのですね。
石原氏が韓国からの打診は非公式だと一貫して発言していることを逆手に取っての条件付けですね。いいでしょう。その点の直接の証拠は当然無いですが、有力な間接証拠を提示しましょう。金大中大統領が、『日本の補償を求めないことと引き換えに』生活支援をした事実です。
http://www.awf.or.jp/fund/news/news_11/a_05.html
>・横田氏の言及しているNGO中韓のロビーであるかどうか
誤解か歪曲か印象操作ですね。
この問題でのNGOの主力が徐玉子氏の率いる韓国系団体とホンダ議員の支持団体の中国系団体であることは、各団体自ら公然と行動して示しています。
横田氏の発言は一般論かもしれないが、該当記事の記者は、文章全体の論調から考えるに、横田発言をこの問題のロビイストのNGOの立場を擁護する論調で引用していますね。』(2007/03/29 10:17)
* 海老蔵中道右派 『>あなたが「野原氏を中傷したのが先」というのは認めてらっしゃると、で、こうなったのも相手にも原因があると言い訳がましく責任転嫁しようとして(左翼にウイルスメール送られたことがあるとか←知らんがな)、
誤解か歪曲か印象操作ですね。
元コメントでは、自分に非があると認めた上での発言。責任転嫁する意図は文面からも真意からも全くありませんよ。
>案の定その後すぐに同様のことをやらかしたと。いや、何ともはや素晴しい反省ぶりで。またやらかすんじゃないですか?あなた。
被害者の認識には被害者意識から正常さを欠く点が多いことを自ら証明してしまい、自分の未熟さを痛感しましたが、同時に、慰安婦の証言も冷静に検証すべきことの証左ともなりましたね。身を削って失敗した甲斐があったものです。
>>私のコメントを誤解曲解して断言したり印象操作をされることが多いが
>あなたの書き方がまずいのかもしれませんよ。何しろあなたは最初「政府や軍が主体的に関与していなかったら、それは朝鮮人が多かったという業者の責任です。」と言っておきながら私が主体的に関わっていたことを示すと「公安(←ここは大爆笑ポイント)と風俗業者の関係と何の違いもない」と言い出して、ではどこに「公安慰安所」があるのかと突っ込まれれば、「解釈の違い」だと逃げ、「ゆーき」さんからツッコミが再度入ったら、今度は問題は法的責任の問題だとすり替えた。しかもこだわっていた「公安」のくだりは単なるミスで最初から法的責任の問題を言っていたのだと。
こんな議論をする人の意図を全て酌める人なんていませんよw
いや、あなたが法的知識に欠けているだけです。読み返せば分かりますが、私は最初の常石さんのブログでの発言から今まで一貫して法的責任を第一に考えて主張しています。国家責任といえば、法的責任をまず考えるのは、近代人の常識です。全くすりかえていません。
私のうっかりミスの公安にこだわったのはあなただけ。ゆーきさんは、私がミスしていることに気づいたからツッコミを入れただけ。そのツッコミから、お互いの議論の齟齬が主体的という用語の意味の理解の違いに起因することに先に気づいたのは私で、あなたはそれ以前には気づいていませんでしたよね。』 (2007/03/29 10:36)
* 海老蔵中道右派 『私が議論の齟齬の原因に気づいたのは、それが原因なんですよ。
私は国家責任といえば当然法的責任のことだと考えて論じていたのに、あなた方は責任の内容や性格を考えずに漠然とした責任などと言うものがあるかのように考えて議論を進めていることに気づいたからです。
だから、ゆーきさんのツッコミのすぐ後に、法的責任は否定するが道義的責任は肯定するとコメントし、以後の議論を整理しようとしたんですよ。』(2007/03/29 11:20)
* 海老蔵中道右派 『もうついでだから、あなたの以前のコメントにも答えておきます。
>>学者は専門分野については確かに高い能力を有するが、それ以外の分野では必ずしもそうではない。
>このコラム子の能力が高い?随分と人を見る目がおありになるようで。
コラム子の能力のことは言っていません。吉見氏ら性奴隷派の国際法の少数説のパッチワークが説得力に欠けることを言っています。
>宮台さんがお好きのようですが彼は「愛国/売国」=「国益計算能力の多寡」と定義していますよね。以前も言いましたが安倍や上記のような保守派の計算能力が笑ってしまうほど低いのはあなたも認めざるを得ないのでは?
別に好きではありません。イデオロギー的には私とあなたの中間的立場かと思って、一部にせよあなたも納得しうる議論として紹介しました。
安倍氏らの国際的戦略の欠如については同意します。
>宮台氏は歴史学の専門家ではないですしこの問題に関する彼の議論には賛成できない部分が多々あるということも付け加えておきます。
私も歴史問題に関する氏の発言を全面的に支持するものではないですが、専門外だからこそできる論点整理の中立性は評価しています。
>被害者の主張は絶対だとも思ったことはないので「否」ですかね。
それなら、慰安婦の主張にも信用性に欠けるものがあることは理解されてるんですよね?それが私の言う真の犠牲者を冒涜する詐話師的慰安婦なんですが、あなたはそれが全く存在しないとお考えですか?
>「従軍慰安婦なかった派」の主張があまりに酷いのでそちらの方の批判が主ですが。
この点こそ、私があなたから聞きたい一番重要な点ですね。ぜひ、2、3の具体例をあげてご説明願いたい。
>当事者が約束を認識していないのに約束違反(信義違反)といいうるのはなぜですか?
上記引用記事によれば、少なくとも石原氏と宮沢首相の間では了解済みだったようですね。
>櫻井氏のデマゴーグぶりは有名ですよ。
>http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/
で「櫻井よしこ」を検索されてはいかがでしょうか?
ご紹介感謝します。かなり他者の元の発言内容を都合のいいようにまとめているようですね。故意か過失か気になります。
ノーモアさんは、青狐さんなんですか?
>>日本政府は法的責任も道義的責任も履行済みなのに比して
>誰もそう評価してくれていないわけですけどね。
これこそ問題のこじれる根本原因ですね。
天安門事件の冤罪部分があることを嫌った中共の気持ちも良く分かります。
日本政府は、旧領土国(韓国)と条約を締結して実質賠償を支払い法的責任を履行した唯一の国で、かつ、世界各国にあった軍売春婦に対して女権伸長にかんがみ率先して世界一早く道義的責任を履行したことをどんどん世界各国に広報していかねばなりません。麻生外相の外務省2000人増員計画も、今のスノビズム無責任官僚気質がはびこる外務官僚ではない、戦略的な官僚を養成するなら大賛成です。日本が大使館を置いていない小国があんなに多いとは…
>>日米韓の友情の架け橋のプロジェクト
>本当に友情が生まれるんでしょうか?私はあなたのような相手に対して不信感むき出しの態度を改める方が先だと思いますけど。
国際関係では、自国の国益を主張するのが当たり前です。私は韓国側のメンツが立つ方法まで考えてコメントしたでしょ?
あなたの外国や外国人を無根拠に信用できる無防備さの方が見ていて危ういです。あなたが外国人なら納得しますが。あなたが個人的に謝罪賠償したいのなら止めはしませんが、国家は国民の拠出した財貨によって成り立っているのですよ。
>河野談話を否定する動きにより悪影響が生じたことはありましたが。
それには同意します。戦略の欠如と甘えがありますね。
>河野談話を踏襲する形で国会決議をするのは賛成ですよ。
実態に合致しておらず、誤解を生みやすい表現でもあるのに?せめて秦氏私案くらいにしないと…』(2007/03/29 12:29)
* 海老蔵中道右派 『>管理人殿
ノーモア氏のコメント
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070319#c1175144636
を読みたいのですが、見当たりません。』(2007/03/30 11:11)
* nomore21 『ノーモアです。ブログを作り、コメントはTB先に移しました。』(2007/03/30 11:27)
はじめまして
なんだか分からないうちに、登録してしまいました。
とにかくまあ日記を書いてみよう。えー、
リヤカー
何も積んでいないリヤカーが交通事故に遭い、三つに分解する夢をみた。
浅田農産の卵って
10個230円もするブランド品なんだと聞いて、へー。
墓は不可避のものだ。裸体にすることも、劣らず不可避のことだ。(バタイユ)
(註:意味不明な引用)
2項目削除しました
連続シンポジウム
松下昇の『概念集・2』(~1989・9~)に「連続シンポジウム」という項目があります。連続シンポジウムは、坂本氏が1975年から中心的に取り組んでいた企画です。上記にある学友会嘱託職員としての立場も利用しながら。彼は岡山大学教官として懲戒免職を受けてから20年以上学友会の嘱託として大学に残り続けた。このような坂本氏の存在などを一切無視して全共闘論(68~69年論)なんか書いても、どーかな~~?ということになるのではないかしらね。
では、概念集から引用
--------------------
連続シンポジウム
一般的に了解されている概念を媒介しつつ、次第に独自の意味を内包して用いられ、ある段階以降、始めの水準から跳躍した〈同じ〉言葉で表記~発語される概念があり、六九年以降の〈自主講座〉や、七四年以降の〈自主ゼミ〉と共に、七五年以降の〈連続シンポジウム〉もそうである。それぞれの差異と連関を私の位相から素描すると、〈自主講座〉は、バリケード空間を解除しようとする全社会的な力に抗して、〈自主ゼミ〉は、バリケード以後の制度を内在的に破壊する仮装組織論として、〈連続シンポジウム〉は、バリケードが言葉としてさえ流通しない段階の祭として、それぞれの使命を自覚した瞬間に、既成の概念の水準から飛び立ち、同時に、既成の概念の水準を押し上げたのである。前記のニつは、別の活動様式を示すのではなく、むしろ、統一的~連続的に把握する方がよい。私自身の参加の仕方もそうである。
前二者については前二項で記したから、ここでは連続シンポジウムの生成過程と特性について記す。一九六九年の岡山大学闘争の過程で教官としての業務を拒否したという理由で七○年に荻原 勝氏と共に五ヵ月の停職処分を受け、七二~七三年の一○三教室を拠点とする単位自主管理闘争などにより、懲戒免職処分と刑事起訴を受けた坂本守信氏は、七五年から、サークル連合体(学友会)の公募した嘱託事務員となり、同時に岡山大学祭実行委員としても活動しはじめた。この大学祭に~一○三被告団~(刑事起訴の現場の教室の名称に由来する。)が公開的に、従って主体に学外者を含みつつ殆ど毎年おこなってきた企画が〈連続シンポジウム〉である。テーマとしては、基本軸に六九年以降の大学闘争の持続的課題(とりわけ、単位制、天皇制、家族制の批判的検討)を置き、大学祭の期間を通じて連続(1)的に討論してきた。そして公認された大学祭が終了しても、追求し続けるべきテーマについて来年度の大学祭までの全期間へ討論を連続(2)させ、同時に、討論の場を大学内に限定せず、生活~労働の場や法廷(前記の刑事起訴の他に、処分による公務員宿舎RB302の明け渡しを要求する国側と、処分取消請求を対置してたたかうものを含む多くの裁判過程がある。)や全国的な参加者の拠点~テーマへと連続(3)させてきている。
このように連続シンポジウムの〈連続〉性には、少なくとも三段階が連続している。シンポジウムであるから、酒宴を媒介する討論形態になることも多い。以上の特性は、大学闘争の具体的なテーマを討論する場のない現在の情況において、連続シンポジウムが毎年新しく入ってきて大学に失望する世代に対して持つ意味は大きい。活動のスタイルとしても、かりにストレートに授業に介入すれば大学当局より先に学生大衆から一瞬の内に拒絶~排除されかねない現段階において、サークル活動~大学祭という学生大衆が一定の関心を持ち、大学当局も予算を出している制度のすぐれた応用方法であり、一企画に過ぎない〈連続シンポジウム〉は大学祭、大学を逆包囲する成果を示してきた。
しかし、この数年の間、活動の根拠の再検討が迫られているのではないか。任意の活動ないし討論の場面に、予備知識のない人が参加したとして、この人は目前の場面が〈祭〉に関わるものとは思わないであろうという事実に危機が象徴されている。連続シンポジウムの位置を全く視ないままの批判はナンセンスであるとしても、関心を持ち、好意的に参加しようとする人でさえそうである、という危機は事実である。ついでにのべると、かっては岡山大学闘争の本質に深い洞察を示したにもかかわらず、七五年に辞職してからは別人のように保守化した荻原氏の固定した発想パターンによる坂本氏や共闘者(私を含めてもよい。)への批判的言辞は、連続シンポジウム的なものに連続する〈 〉過程への異和として把握すると構造がはっきりしてくるのであるが、内在的な弾カ性も情況性も失っていて、かれの頽廃ぶりをささやかに開示するに過ぎない。このことを踏まえて、連続シンポジウムに十年以上にわたって参加してきた広範画の人々を代表して私の見解を示そう。
日常的に連続シンポジウムに関わっている人々には厳しい表現になるけれども、方法としての、また取り上げるテーマの一定の〈正しさ〉にもかかわらず、活動の形態が衰退化し、既成のテーマや成果への閉鎖的な埋没を意識しえないか、意識しても脱出不可能なほど生活~生理の水準に拘束されているのではないか、と懸念する。
自主講座の場合は、闘争総体との緊張開係やテーマの衝撃力ないし普遍的展開カの有無から絶えず検証され、自主ゼミの場合は、直接に単位認定,卒業資格に利害関係を持つ参加者多数派や制度の重力から絶えず検証されるのに比べて、(現在の)連続シンポジウムの場合は、形態として持続し易い度合だけ、前記の場合に対応する検証のフィード・バック性を内包していなければならない。いや、それ位のことは充分に自覚しつつも、なす術もなく立ちつくしているのかも知れないが…。私は、あえて次のように提起したい。
拠点とか成果(人間関係を含む。)を持つことは、前記の水準のフィード・バック性を欠損させている場合には桎梏に転化しうるし、困難な問題に直面している時ほど転化しやすい。異時・空間に自らの方法(本質的な〈祭〉)を、まず自分だけのカで具体化してみよう、もはや帰るところはどこにもない、という情念を生きてほしい。これまで見慣れた拠点や人間を〈初めてすれ違う〉感覚で把握し、自己や他者の軌跡を六九年から現在に至る〈 〉過程の全テーマとの関連において、大衆団交位相で(いいかえると、関わりのある全ての人に公開され、声をとどけようとする深さで)共同検証するプランが必要ではないか。討論の展開によっては活動や生活の拠点を〈 〉へ委託しつつ。
このように提起するのは勿論、対象に自分を含めてであるし、他にだれも提起しない状態で私が提起するのは苦痛でもあるのだが、それを引き受けるのは、自主講座~自主ゼミ~連続シンポジウムの総体に関わってきた私の責任であり、また、これらの本質を名称がどうであれ未踏の領域で深化させていこうとする解放感に満ちた試みの一つでもある。この項目が連続シンポジウムに関わる人々の再出発の契機になることを願う。(松下昇)*1
-----------------------------
(4/21に前半だけ「紹介」した。4/27に後半を追加。)
*1:p11~12『概念集・2』~1989・9~
ラファでの学童保育(中学生)
学校では勉強しか教えない、と彼女は言う。(小柄だが内発するもののつよさに溢れた女性) 例えばお絵かきにしても、わたしはどうせ上手く書けないから止めておくとその子供たちは言う。遠慮しているのではない。日本人ならたぶん誰でも下手だとか上手だとかそんなことはどうでもいいのよ、とにかく書いてみましょうよ、と強く誘われた少年時代があるはずだ。でもこの国にはそうした文化がない。絵を描くことを楽しみ、演劇のまねごとをすることを楽しみ、スポーツを楽しむこと。彼らだって楽しむ時間を持つことが許されて良いはずだし、日々恐怖に怯えているかれらこそそうした時間を強く必要としているはずだ。そんなふうに思い、彼女寺畑由美さんはそこに出かけていった。世界でもっとも危険な町、ラファへ。
http://www4.dewa.or.jp/stageone/MP0521daiarytop.html
このサイトを見ると彼女のラファでの1年間の活動の概要が少し分かる。彼女に何が出来たのか。何もできなかったわけではない。彼女と二人のパレスチナ人スタッフは、子供たちと友だちになり彼らに楽しむ時間を与えることができた。
彼女の講演会に行くことができた。普通の大なり小なり政治的な集会とはかなり違いがあったと感じた。微妙な差なのだが。つまり政治的集会はある方向性に聴衆を導こうとするベクトルにおいて成立している。そのベクトルに賛成するから行くわけだが、仮に同意できない点があってもそれについては反対すればいいだけで、困惑させられることはない。寺畑さんの場合、ラファで子供たちを相手にするときと同じようにできるだけ聴衆を巻き込んで快調に語りを進めていく。語らないと理解して貰えないことは膨大にあり話は溢れるように進む。だがこどもたちはどう生きて行けばよいのか。確かに(日本でいえば東大なみに)ガリ勉すれば彼だけは海外脱出できるかもしれない。でもそれ以外のこどもたちはどう生きていけばよい。大人になっても失業率は6割だ。住んでいる家は明日にでも壊されるかもしれない。*1一つの選択肢は、シャヒード、自爆攻撃者になることだ。その選択支はもちろん不可避ではないが、日本で考えるほど簡単に非難できるわけではないのだ。子供たちには夢が必要だ。彼女たちはわざわざ出かけていってもそれを与えることができない。どうしたらいいのか。わたしたちは困惑に放り出されたままだ。
*1:5月18日現在もそこでは家屋破壊が進んでいるらしい。
刑事被告人となった後に
松下昇 『概念集・5 ~1991・7~』から、p25「裁判提訴への提起」の前半部分を掲載する。これは過渡的な掲載です。
裁判提訴への提起
解雇処分を受けた場合に地位確認の仮処分申請や解雇取消の請求を裁判所の民事部へ書面でおこない、法廷で処分の不当性を明らかにする方法をさすことが多い。もちろん裁判提訴の一般的な概念としては、警察ないし検察へ何かの事件の被害者として告訴したり、何かの不正を知った公務員として告発することを通じて刑事裁判を成立させることも広い意味で(かつ、身にしみて影響を受けてきた私としては特に)裁判提訴の範疇に入るし、民事においても、弁護士会などの無科法律相談に持ち込まれるテーマは離婚や交通事故が多数を占めており、これらのテーマが大衆にとっての裁判提訴のイメージに密接に関わっていることは確認しておいた方がよい。
このような確認の範囲からすると、冒頭でのべた解雇処分などにおける裁判提訴は先進的かつ自明の対応と視えかねないけれども、六○年代末以降の闘争過程においては必ずしもそのように把握されてきていない。共産党は別として、闘争参加者の基本的な姿勢は、活動の全領域において裁判所を含む国家権力の介入や、それへの依拠を拒否することであり、この姿勢は処分に対しても、流血を伴う党派闘争においても維持されてきた。私自身も七○年の懲戒免職処分に対して取消請求の裁判提訴をこれまでおこなってはいず、それは前述の姿勢の根拠への共闘からであるが、しかし、だからといって他の人の処分に対する裁判提訴を否定的には判断していない。判断の基準は次のようである。
①裁判提訴が闘争の問題点を闘争現場を越える広い場へ拡大し、その波動を闘争現場へ還流させうる時には意味がある。(ただし、現在の裁判制度や裁判官の良心を無批判的に信頼して勝訴を期待するのは論外であり、結果的に勝つためにもこれは鉄則である。)
②〈民事〉への裁判提訴は、できれば自分が〈刑事〉事件の被告人となった後で(A)、法律の専門家である弁護士に依拠せずに(B)おこなうのがよい。(A)は時間的な前後というよりは、存在の仕方の前後でいっている。なぜなら、現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでこそ、裁判提訴によって(さえ)闘争の意味を深化~拡大させうるからであり、(B)は、大学闘争の世界史性は専門のジャンルの解体を前提としつつ法の体系と秩序に立ち向かうことを不可避とするからである。(ただし、この意味を部分的にせよ共有する弁護士との共闘の可能性は残しておく。)
③大学闘争とよぱれるものの特性の中でこの項目と関連するものを指摘すると、問題点をとらえる方法自体の情況性や自らの関わり方を問題点に繰り込まざるをえない構造に出会ってしまうことと、発端の問題点を追求する過程が新たな問題点を作り出していくことである。従って、発端のレベルで裁判提訴に意味があるかどうかを固定的に判断するのでなく、裁判提訴を媒介~逆用して何を作りだしていくかということを常に構想している必要がある。この場合、波及効果の範囲を事件の幅だけでなく、可能な限り広く深い領域との関連で構想し、成果を開示していくことが望ましい。(なお、環境破壊、原発、選挙権などに関する共同訴訟の可能性と限界については直接討論したい。)