【第2文】Government is a sacred trust of the people,

政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

 原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。

the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。

 でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。

論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。

停電する自由

 昨日夜中パソコンしてると突然パソコンが切れた。停電である。だが街路や回りの家の電気はついている。ウチだけヒューズが飛んだのだ。(なぜか理由をさぐらないといけないがここではしない。*1)12時過ぎだったからしばらく暗闇でうろうろしてから蒲団に入り眠った。それまで十数分、色々なことを思った。わたしたちは何かしようとするときいつもまず手近のスイッチを押してから考える癖が付いている。だがいくらスイッチを押そうが何も反応しないのだ。電気に頼り切った生活に今さらながら気付く。できることはなにか。触覚だけでなく聴覚も残っている。そう言えば、地震の直後暗闇で小さな音楽会とかなかったのであろうか。(六甲大地震’95のことだ。)あの時は食糧もなくパニくっていたのでそんな企画はなかったようだ。あったら素晴らしかっただろうに。あの時月が綺麗だったのは覚えている。あの時は電気だけでなくガスも水道も止まった。イラクでも何処でも停電の多い国は多いが日本はあまりない。私たちの生活とはなんだろう。なぜパソコンで文章を打つのに手書きでは書けないのだろう。わたしの自由とはなんだろう。わたしは停電する自由しか、断食する自由しか与えられていないのに、その自由に気付いていないのではないか。

 ちなみに引用しようとして消えてしまった立岩氏の言葉。「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。」*2

*1:ウチは中古住宅でどういうわけか、ヒューズとブレーカーが二重にある。翌朝すぐとりあえずつないだ、いまからヒューズを買いに行く。

*2:p128『自由の平等』

絶対零度な闇

いっさいの忘却。存在の夜の底への深い降下。無知の発する限りない嘆願。不安の河に溺れること。深淵の上の方を滑ってゆくこと。そして、完全無欠な暗闇の中で、深淵の恐怖を味わうこと。孤独の寒さの中で、人間の永劫の沈黙の中で、戦慄し、絶望すること。……私は神をもはや知らない。*1

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月〔拾遺1342〕

(和泉式部)

和泉式部とバタイユの間にはちょっと見、類似があるように思える。即ち、暗闇と絶望。でもやっぱり全然違いますね。和泉式部の場合、闇には湿度と温度があり切り裂かれた絶望につり合うだけの暗黙のアニミズムがあり、後半の救済を用意している。バタイユはただの暗闇ではなく完全無欠な暗闇を体験し打ちのめされ絶対的絶望におちいる。

*1:p89『内的体験』

日本にとって一番大事なこと

 1937年7月8日北京郊外の廬溝橋で銃撃戦があった。7月11日午後8時停戦協定が成った。ではなぜ、日本軍は8年間も中国大陸全体に兵を展開し続けたのだろう?「中国軍は弱すぎてとうてい日本の敵ではない、廬溝橋で事件が起こったそうだが、ちょいとおどしてこらしめてやるか、華北一帯を完全に日本の支配化におくという年来の希望を達成するいい機会だ、という程度の」決意をもって、北支出兵を決定した。それだけなら良かった。中国軍が弱いというのはおおむね嘘ではない。それから8年の間、兵を退く(停戦する)機会がなかったわけではない。だが一度も退却は選択されなかった。

 どういう条件になったら止める、という条件を明確にせずに兵を出兵させることが最悪のことである。この反省は日本人にとって最低限の、だが決定的に重要な反省である。

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」はこの反省に基づいて作られている。

2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。

8条5項 対応措置のうち公海若しくはその上空又は外国の領域における活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該活動を実施している場所の近傍において、戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には、当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。

8条4項 防衛庁長官は、実施区域の全部又は一部がこの法律又は基本計画に定められた要件を満たさないものとなった場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。

 現在自衛隊はひきこもっている。8条5項に該当すると思う。サマワ周辺は非戦闘地域でなくなったと思う。もう少し危険に成らなければそこまでは言えないとする判断もありうる。だが<日本で一番大事なこと>は「客観的にみてある条件を満たさなくなったときは兵を退く!」という一点にある。いかに困難であろうとその決断を貫くことが、戦死者たちから委託された神聖な任務なのだ。

誤情報の流布(5/2 20時7分追加)

誤情報の流布に加担してしまった。反省しおわびします。

(1)あるMLで、5/1 20時40分に流れたもの。

イラクでの米軍による虐待・性虐待の画像が公開されています。かなり酷いものです。

http://www.albasrah.net/images/iraqi-pow/iraqi-pow

(2)上記を5/2朝8時頃このダイアリーに貼る。野原はその後外出。

(3)同じMLで、どすのメッキーさんからの下記の指摘有り。(9時25分)

「 虐待は事実ですが、映像は、誤情報が流布されているようです。 上記は、最近のイラク情勢とは関係のない、レイプ画像は軍服を着て撮ったポルノサイトの写真で、軍服がイラク駐留米軍のものではない、日付がおかしいとの指摘がされているようです。」

(4)野原帰宅後上記メールを読み、日記の記事に

「誤り情報が混じっているとの指摘あり。」という文言を追加。19時ごろ。

(5)「イラク人への米英兵による虐待(訂正後)(5/2 19時43分)」

に差し替える。

他に、下記掲示板も参考にした。

http://awn.ath.cx/cgi/bbs2/light.cgi

(6)「訂正前」の野原発言の結論は下記。

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、わざわざイラクへ行って確認したらこういうものだった、ということで帰ってきたらよかろう。”

この文章を訂正するとすれば、

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、イラク戦争に続く占領については少なくとも現在イラク人の為のものにはなっていないようだ。日本の自衛隊はわざわざイラクへ行っているのだから、ファルージャにおける市民への攻撃の無法性や監獄での虐待の真相を早急に確認してほしい。それらが実際「イラク人のため」という目的によって合理化できるものかどうか?できないなら直ちに帰ってきたらよかろう。”

男子を購買するの自由

「資本家階級の女子が堂々として待合いに出入りし以て、吾人男子階級の者を快楽の犠牲として取り扱いつつあることの完き自由なる」

(北一輝『国体論及ぶ純正社会主義』みすず第一巻)

不正に貫かれた単一支配

「彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。」マルクス*1

商品に価値がある、そのことが主体にとってあたりまえとして受け止められることをマルクスは批判する。ある前提を受け入れることによって不定型なわたしは主体になる、そしてそれ以後わたしは何かを制御できる主体で有り続け、わたしがなにかメタレベルによって作られたものだということはわたしの認識の外部にありわたしににはたどり着けないことになる。

 崎山氏の本の最後の部分を引用しておきます。

 それは、不正に貫かれた資本制の単一支配に敗北するべき「理由」は、わたしたちの内在的な可能性のなかには一つとしてない、ということだ。

 多数性・多様性にみちた、いくつもの世界のつながりによって、地獄でしかないこの単一支配の世界さえも、はじめて存在しうる。そして多数で多様ないくつもの世界は資本の所有物ではけっしてない。それはわたしたちが生きる場であり、人びとの生を支えるそれらの世界をアタリマエに希求するわたしたちが打ち倒されることは、絶対にありえない。

 さまざまな世界を人びとのつながりあいのなかで信じ、わたしたちの生きる世界に変えつづけていくこと。わたしたちに必要なものは、この単純な真理なのである。

「世界を、不正な=単一支配」と呼ぶことにはわたしは賛成したくないという思いをずっと持っていました。それを天皇制と呼ぼうと資本主義と呼ぼうと。ただ今までのマルクス主義者と崎山氏との間には微妙だが大事な差異があるようにも感じる。世界を不正と名指しながら、「わたしたち=正義」という逆像を成立させることを避けようとし、それにまあ成功しつつあるという差異が。

*1:p35『資本』崎山政毅から孫引き isbn:4000270087

家族なしには主体になれない(2)

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923

はてなダイアリー – strictkの日記 で、野原9/23に触れていただいた。

以下長くなったが、応答というより言い訳です。

☆☆ はじめに

strictkさんの全体のタイトルが「家族以外にも子供を育てる自由を。」である。このタイトルだけを読んでわたしは私の偏狭な性格を少し反省した。そのスローガンに野原は異議がないし、strictkさんもhippieさんもそうだろう。同意できる点を確認もせず違和感だけ提出しても、議論は実り少ないと。

今回の議論の出発点は、二つ在り、Aは自由民主党の一部の「現憲法24条は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。(cf野原0706)」という意見、(E)は皇太子発言である。(hippieさんは後者には触れていない。)

Aに反対する主張が、B「憲法24条の改悪を許さない共同アピール」である。http://www.geocities.jp/herasou/kaeru/whatsnew/wn_20040707_stop.html

A改憲派:B護憲派(人権派)という構図である。それに対し、hippieさんは、C「護憲」というスローガンは既得権防衛的であり社会変革(それは当然少数派が多数派を説得することだ)に繋がらないのではないか、とする。わたしはこのことに強く賛成したい。hippie氏は、性別二元論に反対する(男/女二つのカテゴリーのどちらかに帰属していないと存在とは認めないとする社会的強制、と理解してよろしいか?)。それはもっともだ。

「「結婚した男女二人で構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っている」というhippie氏の文章にもわたしは半分以上賛成だ。家族を国家(を形成すべき社会)の構成要素としてみるという家族観にわたしは反対しているからだ。家族を、ロマンティックラブイデオロギーや近代家族に還元するフェミニズム風家族観にもわたしは反対する。hippieさんの立場はフェミニズムから進化した(?)ホモ(バイ)セクシュアルあるいはクイアー風のものなのだろうがその差異はここでは取り上げない。野原(わたしたち)はアンティゴネーを証人に立て、家族は国家より古いと主張する。

「子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。」ということで、野原は何を言いたいのか?「結婚しない自由」は「欲望し主張する主体というもの」を無意識のうちに前提としている。ここで、「欲望し主張する主体」は「家族」を通してしか生成できないと仮にするならば、わたしたちは出口のないループに閉じこめられることになる。即ち1)家族が否定されるべきものであり、2)家族以外はわたしたちを産みだしえない、という矛盾。ここで野原は岡野氏の発想を借り、わたしたちを産みだすものを<家族>と呼ぶ(つまり現在の家族以外に拡大された色々な形態を含む)。そのことにより2)の命題を強く肯定することにより1)を否定する(<家族>を肯定する)ことになった。

(1)

 介護保険導入時の論争に見られた、家族による介護か家族外による(を含めた)介護か、という論争の布置を子育てに応用し、その前者に野原を位置づけておられるようだ、strictkさんは。残念ながらそれは見当違いである。この点について、野原は後者の側に立っている。

 strictkさんは、高齢者の介護の問題についてはどうか、という問題を投げかける。「痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。」介護を家庭内でのみ行うことと、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランとが対比される。そして、「ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。」が強調される。 そして、「子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。」と結論される。以上すべてに野原は異論はない。

 野原は「子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ」、という主張はしていない。したがってstrictk9/23は野原9/23への反論にはなっていない。独立して読めば条理の整った良い文章である。

 野原が「それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。」と言っても良いだろう。だが、わたしが言っているのはカッコ「 」のついた「家族」であり、血縁を前提とした家族ではない。「家族」とはstrictkさんが高齢者介護について丁寧に説明してくれたような外部介護者との関係を含む。場合によっては外部介護者たちだけのネットワークでもよい。

前回「(2)「家族」の「 」について」という章を設けて説明したつもりだったが、説明が下手だったようだ。

岡野氏は「そのプロセス(欲望と言葉を獲得する)を見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係、を強調している。 即ちそれを、「家族」と呼んでいるのだ。*1それは当然ながら現在法的に家族と認められている関係である場合もあるだろうが、そうでない場合もある。具体的には書いていないが数年以上持続する関係でないとまずいのではないかと思われる。 すなわち、「家族」とは<見守る>という持続的関係においてだけ定義されているのであり、法的な家族であるかどうか、男女であるかどうか、血縁関係があるかどうかは関係ない。

 「家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。(strictk)」岡野氏においても外部からの支援は排除されるどころかむしろ要請されている。「ひとり一人がそうした主体「となる」プロセスを確保するために、家族以外の者たちが公的な支援を活用して、個々の家族の構成員に支援を与えることが必要なのではないか、という問題提起でもある。*2

(2)

とは言っても、strictkさんとわたしの差異は残る。

(野原さんは)「子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。」言い訳ばかりになりますがわたしはこんなことも主張していない。「子供を産む/産まないの自由」と「子供を産まない自由」は同義語であるので、上の文章は主張ではなく「産む」ことへの情緒的訴えかけかと思われますが、野原はそんなことは言っていない。

わたしが書いたのは「そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。」である。子供を作らなかった人に対し、子供を作った人の子育てに介入する可能性について書いている。(ここからも野原が子育てに対する外部からの介入支援に否定的でないことは分かる。)とはいっても、現状はそのような介入が行われるようなシステムにはなっていない。したがってそのような方向に社会を変えていくことには賛成である。即ち「家族以外にも子供を育てる自由を。」というstrictkさんの主張に賛成である。

「私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。」で始まるstrictkさんの考察は周到で説得力がある。わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。(野原自身文章を書いたりしている以上、選択可能な主体の側に属していることはもちろんです。)

「しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。」わたしたちは産む/産まないの選択可能性を持つ主体から出発したはずだった。ここの判断とは誰の判断なのだろうか。私たちの社会にはそうした圧力が不断に流れているのだろうか。確かに成人男女に対し、結婚し子供を作るのがまっとうなあり方だといった「常識」は存在する。政府も同様の事をPRしている。しかし政府のPRは少子化対策としてである。少子化という現実があるということは「産めという圧力」とは別に「産むな」という方向に働くベクトルがどこかに存在していることを意味している。と野原は考える。hippieさんとstrictkさんとの野原の差異はここにある。

 「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落すると思われる。正しい描写だとは必ずしも思わないが、そのようなこともあるのではないか。自己であるという義務と緊張を少し弱めると、産むことも受け入れやすくなるかもしれない。これは甘ったれたたわごとかもしれない。産むことの方が安易であると言うことの方が多いかもしれない。

(3)けっきょく

 strictkさんの発言の全体に対しわたしは特に異議はない。あえて言えば、「子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。」AとBの間にはだいたい第三者からの価値付けはすでに為されているわけでそれに対し自分の判断を確認し行為することが、自由と呼ばれるのではないか。

 hippieさんとの間にも、実際的な対立点は少ない。家族を国家(社会)の単位として過不足無いものと捉えている点に違和感があるに過ぎない。

*1:これは文中で説明していないので、野原の解釈。

*2:現代思想200409号p128

(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、

1.男と女は遺伝的にちがう

->遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。

2.それは嗜好にも出る。

->差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。

3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。

->現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。

4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

北朝鮮は飢餓へ

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=107 RENK東京 – ニュース

9/29の李英和講演会について上記で三浦氏が書いてくれています。

幾つかあげると。

まず、モンゴル国境で妹をかばって中国国境警備兵に銃殺された少年(RENK里子)について、李代表がテレビの報道番組のビデオを流しながら報告。この一家は当初からRENKが保護しようとしてきたが、残念な結果に終わったこと、しかし、今父親と妹は韓国におり、中国で行方不明になった母親を何とか救出するという責務が残っている事などが報告された。

さらに、李代表は、もちろん逃げる難民に対し銃を水平で乱射する行動は許せるものではないが、現場の証言によれば、中国の兵士はさらに銃剣で倒れた少年の遺体を突く行為にまで及んだ。しかも、中国政府はまるで殺された少年がテロリストでもあったかのような(武器を持っていたとか銃を奪おうとしたとか)虚偽を平然と述べており、あらゆる意味で許し難い姿勢であることを強く批判。

代表によれば、脱北者の多くは、何とか年内は持つかもしれないが、来年からは食糧事情は再び90年代危機に匹敵する飢餓が訪れると考えていると言う。この予想には数字的根拠があると李代表は言う。

北朝鮮における米の値段の推移

2003年7月1日  この時期金正日が経済の自由化、改革を発表する

           米1キログラムはこの時点で40ウオン

     9月                 180ウオン

2004年1月                 300ウオン

     3月末                400ウオン

     7月                 500ウオン

     8月初めから           700から900ウオン

     9月                 1400ウオン

最後に、「現在の中国の対難民政策に、多くの人達が抗議の声を挙げることを呼びかける」と結ばれている。

わたしも彼の意見を強く支持したい。