家族なしには主体になれない(2)

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923

はてなダイアリー – strictkの日記 で、野原9/23に触れていただいた。

以下長くなったが、応答というより言い訳です。

☆☆ はじめに

strictkさんの全体のタイトルが「家族以外にも子供を育てる自由を。」である。このタイトルだけを読んでわたしは私の偏狭な性格を少し反省した。そのスローガンに野原は異議がないし、strictkさんもhippieさんもそうだろう。同意できる点を確認もせず違和感だけ提出しても、議論は実り少ないと。

今回の議論の出発点は、二つ在り、Aは自由民主党の一部の「現憲法24条は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。(cf野原0706)」という意見、(E)は皇太子発言である。(hippieさんは後者には触れていない。)

Aに反対する主張が、B「憲法24条の改悪を許さない共同アピール」である。http://www.geocities.jp/herasou/kaeru/whatsnew/wn_20040707_stop.html

A改憲派:B護憲派(人権派)という構図である。それに対し、hippieさんは、C「護憲」というスローガンは既得権防衛的であり社会変革(それは当然少数派が多数派を説得することだ)に繋がらないのではないか、とする。わたしはこのことに強く賛成したい。hippie氏は、性別二元論に反対する(男/女二つのカテゴリーのどちらかに帰属していないと存在とは認めないとする社会的強制、と理解してよろしいか?)。それはもっともだ。

「「結婚した男女二人で構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っている」というhippie氏の文章にもわたしは半分以上賛成だ。家族を国家(を形成すべき社会)の構成要素としてみるという家族観にわたしは反対しているからだ。家族を、ロマンティックラブイデオロギーや近代家族に還元するフェミニズム風家族観にもわたしは反対する。hippieさんの立場はフェミニズムから進化した(?)ホモ(バイ)セクシュアルあるいはクイアー風のものなのだろうがその差異はここでは取り上げない。野原(わたしたち)はアンティゴネーを証人に立て、家族は国家より古いと主張する。

「子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。」ということで、野原は何を言いたいのか?「結婚しない自由」は「欲望し主張する主体というもの」を無意識のうちに前提としている。ここで、「欲望し主張する主体」は「家族」を通してしか生成できないと仮にするならば、わたしたちは出口のないループに閉じこめられることになる。即ち1)家族が否定されるべきものであり、2)家族以外はわたしたちを産みだしえない、という矛盾。ここで野原は岡野氏の発想を借り、わたしたちを産みだすものを<家族>と呼ぶ(つまり現在の家族以外に拡大された色々な形態を含む)。そのことにより2)の命題を強く肯定することにより1)を否定する(<家族>を肯定する)ことになった。

(1)

 介護保険導入時の論争に見られた、家族による介護か家族外による(を含めた)介護か、という論争の布置を子育てに応用し、その前者に野原を位置づけておられるようだ、strictkさんは。残念ながらそれは見当違いである。この点について、野原は後者の側に立っている。

 strictkさんは、高齢者の介護の問題についてはどうか、という問題を投げかける。「痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。」介護を家庭内でのみ行うことと、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランとが対比される。そして、「ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。」が強調される。 そして、「子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。」と結論される。以上すべてに野原は異論はない。

 野原は「子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ」、という主張はしていない。したがってstrictk9/23は野原9/23への反論にはなっていない。独立して読めば条理の整った良い文章である。

 野原が「それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。」と言っても良いだろう。だが、わたしが言っているのはカッコ「 」のついた「家族」であり、血縁を前提とした家族ではない。「家族」とはstrictkさんが高齢者介護について丁寧に説明してくれたような外部介護者との関係を含む。場合によっては外部介護者たちだけのネットワークでもよい。

前回「(2)「家族」の「 」について」という章を設けて説明したつもりだったが、説明が下手だったようだ。

岡野氏は「そのプロセス(欲望と言葉を獲得する)を見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係、を強調している。 即ちそれを、「家族」と呼んでいるのだ。*1それは当然ながら現在法的に家族と認められている関係である場合もあるだろうが、そうでない場合もある。具体的には書いていないが数年以上持続する関係でないとまずいのではないかと思われる。 すなわち、「家族」とは<見守る>という持続的関係においてだけ定義されているのであり、法的な家族であるかどうか、男女であるかどうか、血縁関係があるかどうかは関係ない。

 「家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。(strictk)」岡野氏においても外部からの支援は排除されるどころかむしろ要請されている。「ひとり一人がそうした主体「となる」プロセスを確保するために、家族以外の者たちが公的な支援を活用して、個々の家族の構成員に支援を与えることが必要なのではないか、という問題提起でもある。*2

(2)

とは言っても、strictkさんとわたしの差異は残る。

(野原さんは)「子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。」言い訳ばかりになりますがわたしはこんなことも主張していない。「子供を産む/産まないの自由」と「子供を産まない自由」は同義語であるので、上の文章は主張ではなく「産む」ことへの情緒的訴えかけかと思われますが、野原はそんなことは言っていない。

わたしが書いたのは「そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。」である。子供を作らなかった人に対し、子供を作った人の子育てに介入する可能性について書いている。(ここからも野原が子育てに対する外部からの介入支援に否定的でないことは分かる。)とはいっても、現状はそのような介入が行われるようなシステムにはなっていない。したがってそのような方向に社会を変えていくことには賛成である。即ち「家族以外にも子供を育てる自由を。」というstrictkさんの主張に賛成である。

「私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。」で始まるstrictkさんの考察は周到で説得力がある。わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。(野原自身文章を書いたりしている以上、選択可能な主体の側に属していることはもちろんです。)

「しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。」わたしたちは産む/産まないの選択可能性を持つ主体から出発したはずだった。ここの判断とは誰の判断なのだろうか。私たちの社会にはそうした圧力が不断に流れているのだろうか。確かに成人男女に対し、結婚し子供を作るのがまっとうなあり方だといった「常識」は存在する。政府も同様の事をPRしている。しかし政府のPRは少子化対策としてである。少子化という現実があるということは「産めという圧力」とは別に「産むな」という方向に働くベクトルがどこかに存在していることを意味している。と野原は考える。hippieさんとstrictkさんとの野原の差異はここにある。

 「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落すると思われる。正しい描写だとは必ずしも思わないが、そのようなこともあるのではないか。自己であるという義務と緊張を少し弱めると、産むことも受け入れやすくなるかもしれない。これは甘ったれたたわごとかもしれない。産むことの方が安易であると言うことの方が多いかもしれない。

(3)けっきょく

 strictkさんの発言の全体に対しわたしは特に異議はない。あえて言えば、「子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。」AとBの間にはだいたい第三者からの価値付けはすでに為されているわけでそれに対し自分の判断を確認し行為することが、自由と呼ばれるのではないか。

 hippieさんとの間にも、実際的な対立点は少ない。家族を国家(社会)の単位として過不足無いものと捉えている点に違和感があるに過ぎない。

*1:これは文中で説明していないので、野原の解釈。

*2:現代思想200409号p128

(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、

1.男と女は遺伝的にちがう

->遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。

2.それは嗜好にも出る。

->差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。

3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。

->現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。

4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

北朝鮮は飢餓へ

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=107 RENK東京 – ニュース

9/29の李英和講演会について上記で三浦氏が書いてくれています。

幾つかあげると。

まず、モンゴル国境で妹をかばって中国国境警備兵に銃殺された少年(RENK里子)について、李代表がテレビの報道番組のビデオを流しながら報告。この一家は当初からRENKが保護しようとしてきたが、残念な結果に終わったこと、しかし、今父親と妹は韓国におり、中国で行方不明になった母親を何とか救出するという責務が残っている事などが報告された。

さらに、李代表は、もちろん逃げる難民に対し銃を水平で乱射する行動は許せるものではないが、現場の証言によれば、中国の兵士はさらに銃剣で倒れた少年の遺体を突く行為にまで及んだ。しかも、中国政府はまるで殺された少年がテロリストでもあったかのような(武器を持っていたとか銃を奪おうとしたとか)虚偽を平然と述べており、あらゆる意味で許し難い姿勢であることを強く批判。

代表によれば、脱北者の多くは、何とか年内は持つかもしれないが、来年からは食糧事情は再び90年代危機に匹敵する飢餓が訪れると考えていると言う。この予想には数字的根拠があると李代表は言う。

北朝鮮における米の値段の推移

2003年7月1日  この時期金正日が経済の自由化、改革を発表する

           米1キログラムはこの時点で40ウオン

     9月                 180ウオン

2004年1月                 300ウオン

     3月末                400ウオン

     7月                 500ウオン

     8月初めから           700から900ウオン

     9月                 1400ウオン

最後に、「現在の中国の対難民政策に、多くの人達が抗議の声を挙げることを呼びかける」と結ばれている。

わたしも彼の意見を強く支持したい。

美しき日々

今日酔っぱらって帰ってきて何げなくテレビを見てたら、韓流のドラマをやってた。数人の若い男女がもつれあいながらドラマがどんどん進んでいくようで、演技とか上手くない俳優も多いし、吹き替えの声はそれ以下で何だか今ひとつ紙芝居っぽいんだけど、でも場面の転換が早く、10人以上の登場人物のどの組み合わせにも秘められた過去があるようで、つまり、ヘテロな恋愛だけじゃなく兄弟愛や親子愛、友情などすべての引き合う力の強さが張り巡らされており、とても面白かった。

http://www3.nhk.or.jp/kaigai/beautiful_days/

美しき日々 Beautiful Days

石垣りん死去

 詩人の石垣りん(いしがき・りん)さんが26日午前5時35分、東京都杉並区の病院で死去した。84歳だった。

 20年、東京・赤坂生まれ。34年に高等小学校を卒業して日本興業銀行に入り、75年の定年まで勤めた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/003.html

 ひたすらに心に守りし弟の

 けさ召さるるとうちひらく

 この姉の掌(て)に照り透る

 真珠(まだま)ひとつのいつくしさ。

(石垣りん「眠っているのは私たち」・ちくま文庫『ユーモアの鎖国』p265)

昭和一八年七月、彼女の弟に召集令状が来た時の詩。

彼女は当時そうしなければならなかったとおり「おめでとうございます」と言って彼を送り出した。

この発語は彼女が生きている限り、過去のものとならなかった。

 とうぜんの義務と思ってあきらめ、耐え忍んだ戦争。住んでいた町を焼かれても、人が死んでも国のためと思い、聖戦も、神国も、鵜呑みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか。私の場合ならないのです。

 戦争当時とは別な状況。現在直面している未経験の事柄。新しい現実に対して、私は昔におとらずオロカであるらしいのです。

 もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます。

 ………………

 戦争の記憶が遠ざかるとき、

 戦争がまた

 私たちに近づく。

 そうでなければ良い。

 八月十五日。

 眠っているのは私たち。

 苦しみにさめているのは

 あなたたち。

 行かないでください みなさん どうかここに居て下さい。(「弔詩」より)

(同上 p267)

2004年自衛隊はイラクに派兵された。小泉首相の態度は最悪の無責任だ。死者たちはいまも、「苦しみにさめている」のだろうか。死者たちの言葉を聞く者たちは死に絶えつつある。大義のない戦争は継続している。

最も安易な立場

どうして誰も最も虐げられた者、従軍慰安婦の立場に立とうとしないのか?それが言説にとって最も安易な立場であるのではなかったか。わたしたちはこの十年以上そう聞かされてきたのに。

彼らの「声」はある

N・B 『 私も精神的余裕はないのでブログなどを作ってません、ですからややずるいかなと思っています。こんな操作までしてくださってありがとうございます。

 私としては別に、おおやさんの弁護をしているわけではありません。あくまで、彼らの「声」はあるということがいいたいのです。

 少し話をずらしますと、星野智幸さんの10月31日の日記で『永遠のハバナ』という映画を紹介しています、私は映画そのもが3月公開なのでなんともいえないところがありますが、やはりあの映画をああいう風に紹介することは特にロシアについて書いた後では(実際キューバに行っていることからみても)、現在のキューバに一定のコミットメントをしてしまっていると思います(マイアミ・ヘラルドも誉めてるようだけど)。ここでそれが重要なのは、彼がレイナルド・アレナスという既に亡くなった「亡命キューバ作家」を愛読し、ユリイカの「アレナス」特集などに参加していることです。アレナスの観点からは、この映画へのあのような賛辞自体が「カストロの回し者」の証拠にみえるでしょう、グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。私はユリイカで独裁反対に安易にもたれかかって、アレナス全面賛美(また適当に書いてるんだ)を「芸術的に」書かれた仏文屋の方々にくらべて、アレナスを読みながらキューバに行き、自分のコミットメントを示される星野さんははっきりと違う

$H$$$$$?$$$N$G$9!#

 もちろんキューバについては逆の立場(上に書いたことはあくまで私の判断ですし)もあるでしょう、私の論点は、たとえラテンアメリカ全体の状況の中で考えてもアレナスの声と他の声(日本のいい加減な仏文屋ですら)は原理的レベルでは区別できないと思います。また、優れた作家の声がそうであるがゆえに尊重されてはならないとも思います。

 以上の話は、アレナスの「告発」が野原さんの意味でもより広い意味でも暴力的(たとえば当時のエルサルバドルの人に!)だと私が認識したことが前提です。従軍慰安婦とアレナスを並べるのは異論があるでしょうが、私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

上に書いたような前提を無視できるのは、(最も近くの)権力に寄り添っていることを気にしない人に限ると思います(これは最初の書き込みと同じく、社民党からヒンデンブルグ、さらにナチスへと次々とパトロンを変えたカール・シュミットを念頭においています)。

 というわけですが、星野さんのように徹底的にラ米にコミットした人と私みたいな半可通は違うわけです。そのあたりは2つ目の論点と重なってくると思います、さらにどうやって従軍慰安婦やアレナスと、私たち(現状認識の違う人を含む)は区別されるのかですがますます難しくなってきたので次回ですいません。

 「差別語~正当化」というのはもちろん慎太郎を念頭においてました。ちょっと誤解を招いたようで。しかし差別語は使用のありかたの問題だという原則を知らない人はいまだうんざりするくらいいますね。

 アレナスについては上記ユリイカや自伝「夜が来る前に」国書刊行会などを参照してください、星野さんのページなども。

 なお、おおやさんの立場に野原さん的な視点から批判している人もいるので彼のブログのコメント欄などを見てください。答え方もひとつの答えですし。

 少し答えがずれたみたいですいません。ただ、証言することで「主体のようなもの」となるというのは重要な視点だと思います、我々はみなかつてサバルタンであった「かもしれない」ということですから、それを突きつけられるのが怖い人もいるかも知れせん。』

すいません。今回の文章どうも分かりにくかったです。

1)アレナスはキューバ国家に抑圧された。

2)星野智幸さんは『永遠のハバナ』という映画を紹介している。これはキューバ国家の是認だ。

3)グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。

アレナスが抑圧されたのは事実だが、彼のキューバ国家攻撃は日本の軽薄なインテリなどによって増幅されている。アレナスの発言は結局“反キューバプロパガンダ”になっている。と、N・Bさんは認識する。

アレナスやラテンアメリカの情況に暗いのでこの理解も不正解かも。

従軍慰安婦とアレナスは、いずれも暴力的にある問題設定を成し遂げたひととして等値しうるのではないか、と。

私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

でこの結論部分が何を言いたいのかがよく分かりません。

その前に、アレナスのキューバ攻撃というのは結局反共攻撃ではないの?それだったら新しい問題設定ではなく古いものですが。*1

「明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。」

あえて話を単純化して、前回書いた「差別発言はいけない」説に立ちます。すると「違ったモラルを持つ人がいる」としてもそれはより正しい立場によって啓蒙されるべき人と位置づけられてしまう。そうしたらいけない、という意見ですか?

(2/9追加)

*1:アレナス/キューバについて私はよく分からないので、反共だからいけないとか何も言いません、留保。

ナターシャさんへの手紙

ナターシャさんへの手紙

 はじめて手紙を出します。ほんとうはタイの言葉でかきたいのですが、私は、ほとんどわからないので、日本語でかくことをゆるして下さい。しかし、タイのことばの本をすこしよんで、こんにちわ、ということばだけでもタイのことばでかいておきます。

 わたしは神戸に住んでいるので、1月17日の地震や、それいごの、たくさんの不便さを味わっていますが、元気です。そして、ナターシャさんの裁判の判決が延期されたのを、よい方向へ応用するために、この手紙をかくことにしました。

 わたしは、1年前からナターシャさんの裁判や集会に参加しているものです。木村さんや、青木さんや、牧野さんや、そのほかたくさんの人たちと何度も話をしてきていますが、この人たちのようにはボランティアの活動をしているとはいえません。少しちがったところから、関心をもってみているのです。というのは、私は、1969年いらい日本や世界のたくさんの大学を中心におきた闘争に参加し、そのために職をうしない、いくつかの行為について裁判をうけてきている被告人で、今は外に出ていますが、闘争は何年もつづき、いくつかの留置所や拘置所に出入りしました。1985年と1986年には、みじかい間

ですが、大阪拘置所に入っていたこともあります。そして、いろいろな人が、いろいろな事件で拘置所に入れられ、裁判をうけていることを、じっさいに知りました。

 たくさんの事件の中で、私が、ナターシャさんの事件に大きい関心をもつのは、まとめてかくと、次のような理由からです。

①外国人が、日本の法律とことばで裁判をうけていること。

②タイ人女性が日本にきて、しごとをする時の苦しい面が、タイ人女性にだけ重くかかっており、日本の社会や男性に大きい責任があること。

③弱い立場にあるタイの女性どうしの対立の中で、いっそう弱い方のナターシャさんが、自分を守るためにもった包丁が、きづかないうちに相手を刺してしまったのに、殺人として起訴されたこと。

④二人の娘さんや父親の行方不明などのために日本国籍がとれず、判決のあとはタイへ送りかえされること。

⑤二人の娘さんと、拘置所の面会室ではなく、法廷で、だき上げながら話すようにしてほしい、と私たちが考えていること。

 このほかにもいろいろありますが、このような点に大きい関心をもっています。

 ①、②、③については、弁護士のかたがたが、よくやって下さっていますが、④と⑤については、もんだいが、せまい法律やきそくを、はみ出してしまうため、なかなかむずかしいようです。                   【G12-13】

 ④と⑤については、二人の娘さんが日本に残ること、法廷でちょくせつ話をすることのどちらも、じっさいにはできないだろうと思うと、私たちの力の弱さがざんねんです。ただ、ナターシャさんも、二人の娘さんがタイへもどることにさんせいしておられるようですし、しせつの保母さんや、牧野さんたちも、ついていかれるようですから、これが、せいいっぱいのところかもしれません。また、子どもをだき上げることについても、ナターシャさんが、11月25日の法廷で、「私は、いつの日か、子どもをだけるけど、リサさんは、だけない。」と語って、私たちのそうぞう以上の心の深さを見せて下さっていますから、法廷での出会いがじつげんしなくとも、ナターシャさんが、がっかりすることはない、と思います。ほんとうは、どんなにか、だきしめたいと思っているはずで、私たちは、むねが、しめつけられるような気がしますが…。

 判決の前に、私から、ぜひ、のべておきたいことがあります。それは、ナターシャさんに対する判決が、どのようなものであっても、この事件によって、日本社会のまちがっている面が、はっきりとしめされ、これをかえていこうとしている人たちが出てきていること、ナターシャさんの立派なたいどに心をうたれている人たちがふえていることです。このような動きを、さらにひろげていくために私たちは、これからも努力していきます。

 そして、ナターシャさんの方でも、自分のやってきたことに反省するところがあるとしても、けっして自分を、だめな、わるい人だとばかり思わないで、それいじょうに、日本の社会に大きい問題をなげかけ、日本の社会をよいものにしていくために役にたっているこという誇りをもっていほしいのです。また、そのことを、今すぐにでなくてもよいから、二人の娘さんに語ってほしいと思います。きっと娘さんたちは、わかってくれるでしょう。

 私が、ナターシャさんの事件について書いた文章を二つ、いっしょに送ります。むずかしい字や、むずかしい考えでかいていあると思うかもしれません。それは私の力がたりないためで、もうしわけないことです。しかし、かいてある内容は、私の長い人生と、苦しいたたかいから生みだした*1もので、日本やタイのおおくの人たちによんでいただくだけのものはもっているはずです。まず、ナターシャさんに、そして成長された時の娘さんたちにもぜひ、よんでいただき、いっしょに問題のかいけつをめざしたいと考えています。

 できれば、この手紙が、私の文章と共にとどいたかどうか、〈ナターシャ〉という名前をタイのことばでどうかくか、だけでも返事してくだされば、たいへんうれしいです。

   1995年2月11日  神戸市灘区    松下昇

ナターシャ・サミッターマン さま              【G12-14】

ふりがな付き原本は、ここ。

p13-14 『概念集・12』~1995・3~

*1:原文「産みだして」だが誤植と判断した。

田中貴子『性愛の日本中世』

isbn:4480088849 ちくま学芸文庫 という本をやっと読み終わりました。

ちょっと雑然とした論文集ですが、非常に鋭い考察にあふれた好著です。最初の文章は「稚児」(ちご)と僧侶の恋愛を取り上げる。男色つまり同性愛である。しかし同性愛という現代のカテゴリーをそのまま中世に当てはめてはいけない、と著者は強調する。中世には中世特有の知と身体の配置があったのだ。そうして稚児の詠んだ和歌を調べ、「「夜離れ」を恨む「女歌」を多く詠んでますから、女のジェンダーになっていると考えてもよいと思うのです。」p22と言っている。そして稚児のセックスについても、それを単純に男性としていいのか?と問う。そしてジュディス・バトラーを引きつつ、「そのセックスもまた中間的なものへと変化したと思われます」とする。その当否については判断できないが、古くさいだけの古文書にも現代的問題が眠っていることを明らかにしており、スリリングである。

「愛は平等」という近代的な恋愛観に縛られていた人は「愛のかたち」がさまざまであること、しかしそれは決して常に対等なものではなく、時には搾取と被搾取者の関係になりうるということを、心の片隅に刻んでおいて頂きたいと思います。

ぶっちゃけて言えば関係は、大なり小なり常に「搾取と被搾取者の関係」である。しかしそう居直るのではなく、また搾取でしかないものを「稚児が神仏に等しい存在になる」などと仏教的観念で飾り立てることのグロテスクさをひたすら糾弾するのでもない。著者は実はひたすら幸せをめざす現代の性愛も、同じくらいグロテスクだと知っている(たぶん)。大なり小なり歪んだ関係のなかでせいいっぱい生きるものたちをせいいっぱい読みとろうと著者はしている。

 

このごろ「政治的」文章ばかりでしたが、本当は日本思想史とかのいろんな本を読んだりするのがメインのブログなのですよ!

邪悪な愛国心と正しい愛国心

# swan_slab 『hal44さんこんにちは

ちょっとよくわからないのですが、かりに愛国心が信仰心と同価に扱われ、それは魂の救済の問題だと捉えられたとします。しかしそうだとしても、ロックの制度制度の構想によれば、統治機構は世俗的事項にのみ関わると考えられていますから、たとえどんな形で愛国心を表現しようとも、それが社会公共の利益を害さないかぎりにおいて、寛容に扱わなければならないという理屈になると思います。

そして、もし仮に愛国心の涵養という問題が、公共的関心事項ではなく個人の良心の問題だとするならば、世俗的であるべき公教育(憲法20条)の場において、愛国心教育は忌避されるべきということになるでしょう。

しかし、愛国心とは、自発的結社によってさらに自己実現を目指すべき個人主義的な意味での信仰の問題と同視しうるかといえば、むしろ、共同体(アソシエーション)加入の契約(17世紀ニューイングランドにおいて観念されていたような契約)とパラレルなのではないかというふうに思います。

恐らく、日本においてロックの議論が当てはまりにくいのは、ロックが前提とした宗教的個人主義と宗教的多元社会を日本人が拒絶してきたからでしょう。極端な話、「一億総~」という形で、くに全体がロックが寛容の対象と見定めた結社(アソシエーション)と同視しうるからです。かりにロックの市民社会論が日本において流通、制度化されていたとしても、滅私奉公を是とした日本の社会では、戦前の天皇制はあのように機能した可能性はあると思います。

これを乗り越えるには、フランス的なドグマの革命で用いられた手法、すなわち既成の権威(カトリック)を、特定のイデオロギーの普遍性(自明の真理として事実性のなかに埋め込む、ある種のエッセンシャリズム)を強調することによって打ち砕く、大陸法的なやり方も適合的なんじゃないかという気がします。

しかしその場合、社会契約によってアイデンティファイされる個々人と国家との関係を常に再確認する教育システムが求められることになるでしょう。「我々は理念によって国家に集っているのだ」ということを再確認しなければ普遍的正義の自明性が崩れる恐れがあるからです。この功罪はフランスの近現代史をみればある程度、察することができると思います。

もうひとつは宗教的、文化的な多元的社会を目指すやり方。

日本はどの方向に舵をとるべきでしょうか。

hal44さんは>個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが>とアイロニーを表明します。

その「気づき」は、また別のアイロニーによって「虚妄」とみなされるかもしれない。自己の認識したアイロニーは、表現の自由市場において淘汰され社会に蓄積されない知恵かもしれない。しかし、「現時点ではこう思う」というアイロニーを人々が出しあっていかなければ、真理には到達しない。そのためには自己のアイロニーを主張し、他者の主張するアイロニーを正しくないという機会を十分にもたなくてはならない。それを目的論的に眺めれば、民主主義に資するからだということなるでしょうけれども、動機の面からとらえると、ウェーバーのプロテスタントの倫理じゃありませんが、個人の内的な自律性と自己実現の要求を不可欠の要素とすると思います。

例えば、クェーカーの教義は特定のドグマに毒されている、あの教派の洗礼の考え方はおかしい、あの集団のなかにいると不幸になると誰がが「気づいた」とします。しかしロックは、そんなのはある意味で自己責任だというわけです。ロックはそれ以上のことはいわない。しかし、この個人の尊重の考え方が前提になくては民主主義は成立しえなかった。私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。

>日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観>hal44さん

についてちょっと雑然と感じることですが、愛国心というのは、結局、共同体の自己保存に関する態度ということだと思うのです。フェチということではなく。そこで「正しい愛国心」と「不正な愛国心」という本質主義的なものがやっぱり観念されざるをえないのだろうか、そんなことを悩みます。刑法学でいう行為無価値的な発想ですが。

例えば、私たちが自ら、イデオロギーについて社会学的なアイロニーを認知しえた(気がついた)とします。例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。

その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。

ひとつのやり方は、戦後のドイツでみられたやり方で、事後的に、実質的正義の立場から、過去の”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くすという方法。例えば当時、ナチスドイツで、合法的だと思い、愛国心から夫の叛逆を密告した妻の行為を事後法によって断罪した。戦後ドイツにおいては、自然法の再生というスローガンのもとに積極的に罪刑法定主義(これも一種の自然法)が無視された経緯があります。この自然法への回帰は、日本国憲法にも色濃くみられ、国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、憲法的価値観の相対化を拒絶します。

これは法実証主義への反省の意味をこめていると理解されることが多いのですが、しかし、ナチスの犯罪は、法実証主義的配慮から自動的に行われたというよりも、当時信じられていた実質的正義(あるいは科学)の観点から虐殺が正当化された側面があります。また日本を空爆せんとするアメリカの兵士たちが地上にいる無辜の人たちの姿を想像し、自らの不正な行動に「気がついた」としても、自らの不正と折り合いをつけることができたでしょうか。

実質的正義の見地から、「悪い行為」を断罪するというやり方の功罪についてもう少し考えていきたいと思っています。

邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか。この点について、野原さんやみなさんはどう思いますか。』(2005/03/21 16:16)