脱北者の証言

 昨日、日本に住んでいる脱北者たちの証言を聞く会があった。

十人近くの人が順に話をした。それぞれ深刻な話なので圧倒される。

飢餓が最も深刻だったのは、97、98年ごろだったようだ。

道で倒れて死んでいる人をよく見たと言っていた。

また、そのころ公開処刑が毎週のようにあった、と。

金正日体制は人民を抑圧する不正義に満ちた全体主義であり、糾弾しなければならない。

言挙しない、神ながらの道

(野原)

N・Bさんが参照を要請されるレイコフというのがよく分からず(参照先urlをやっと見ましたが)、どうも応答しにくいです。

わたしはただのあまのじゃくなのかもしれない。*1

 どんな国家も自らを普遍的な理念として自己規定していると。その点で、スワンさんによれば、フランスのあり方と、アメリカのあり方は全く違うと。そうすると日本の状況はどうかというと、憲法の理念は平和主義と象徴天皇だという。平和主義も理念でありうるかも知れないが*2、そのような理念を現在の日本が持っているとは思えない。そうするとやはり“言挙(ことあげ)しない、神ながらの道”みたいな感じを受ける。「強い者=アメリカに随順する、それが一番抵抗が少ないやり方であり、ベターな方法だと」ということに直ちにつながるのかどうか分かりませんが、そんな感じを持ってしまいます。

「実質的正義」=「モラル」というものがよく分からない、みたいなところから先に進めません。「保守は厳しい父親のモデル、リベラルは慈しむ親の家族モデルに基づくため、」という二項対立は日本では成立しないのでないか。天皇とは男性であると同時に女性でもある。神話学とかのレベルでは明らかにそう言い切れると思います。

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」というのは柿本人麻呂の歌です。下記にありますが、「反反日、反ジェンダーフリー」ですので、批判のサンプルに良いかも。

http://www2.ocn.ne.jp/~nozakigp/2661.htm

*1:「丸山の観点からすれば、権威主義に対する解毒剤とは「あまのじゃくの精神」ということになるのであろう。http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/ より」

*2:国民国家の常識を越えていくという方向での理念

小熊善之氏批判

(1)「azamikoさんの行動は突飛である(段階を踏まずにいきなり最終手段を取っているような感じ)と私には思えます。」という評価自体が甚だ偏向している。

(2)ネットにおいて、少数意見を唱える者が袋叩きにあうのは自然なこと、という事実認定。

 この「事実」というのは、小熊氏によって捏造されたものではないか。全く異質な二つの「文化」を混同している。

α:15~10年前くらいのアメリカ(及び日本)において見られた、“フレーム”文化。インターネットが一般化する前のメーリングリストの頃の“華”とも言われた。これは発言者の強い個性を前提とするもので、「少数/多数」という布置が予めないからこそ成立する。β:それと去年日本の“イラク三馬鹿”騒動以降顕著になった、ナルシスティクな愛国言説による少数派叩き。「自己=多数派」という前提だけに依拠していると評価できるほど、発言者の自立した思想性は低い。

「言論の淘汰圧」という聞き慣れない言葉を使うことで、捏造が行われる。

(3)1,2からの結論として少数派は「より手段の妥当性にも拘るべきで、それらを失すれば非難を受けるのは致し方ない。」と結論する。

野原から見ると、(1)も(2)も誤りなので、全く納得できない。最初からazamikoさんを否定したいとするプチウヨ的イデオロギーそのものであるのだろうに、自己がそうであることを認めず、一見中立的な論理構成で目的を達成しようとしている悪辣な奴、ということになります。

うし 『小熊さん、はじめまして。

他人の行動が違法だと言い張るなら、どの部分がどのように法に触れるのか指摘すべきでしょう。あなたがどうして「見えない」のか野原さんには伝わりません。』(2005/04/08 23:07)

N・B 『 どうも、また書き込みです。とりあえずひとつ誤解していたことに気づいたので。小熊さんの書きこみは文字どおりに解釈すべきのものだったんですね。調べてみると、自分の意見を主張するためにブログのような突っ込みの入りやすい形態をとらない日記を実践なされているのを発見しました。野原さんは批判の内容からみて日記を読んでいるようですね。

 それにしても、小熊さんが主張する人間の本性が自らの行動がぴたりと一致なされるのはすばらしいですね。たいへん(特に人間に対して)純粋な方と認識しました。しかし日本国家への帰属意識がひときわ強いと思われるだけに昨今の情勢には内心忸怩たるものがあるのではないでしょうか。

>小熊さんへ

 ひとつだけ質問をすれば、現状をそのまま受け入れれば結果的に多数派になるはずですね?しかもazamikoさんの行動を突飛なだと感じて、同様に受け取ることが多数意見だからazamikoさんが袋叩きにされると書かれたのですからこの件に関しても多数派ですよね?2重の意味で多数派の立場にいるにもかかわらず、小熊さんが最初に中立として意見し、後では自分は多数派ではないという根拠はなんなのでしょうか(4月8日)?根拠がないと私はまだ反感を抱いたままになるのでたいへん知りたく思います、ぜひお答えをお願いします。

http://www.sumire.sakura.ne.jp/~oguma/tron/bottom.html

 なおもし書きこんだ方が別人でしたら深くお詫びします。』(2005/04/09 09:48)

ドイツにおける戦争犯罪者

6千人が多いか少ないか。日本では日本人に対する戦争犯罪者は一人も裁かれていない。逆に「軍人と遺族に40兆円(すべてのアジアへの賠償総額は1兆円)という巨額の恩給を支払い続けているのである。」*1

一方、ドイツでは、ニュルンベルク裁判のあと、ナチス戦犯を裁く特別法を作り、時効も無効にして、10万人以上を捜査し、6千人に有罪判決を出して処罰したのである。英仏の裁判所も今にいたるまで自己民のナチ協力者も含めて、終身刑などの厳しい有罪判決を出し続けている。

http://blog.goo.ne.jp/yayori2005/e/d3e1031f45e8ed5bd897d79626e2b72a

*1:軍人と遺族を戦争犯罪者と同一視しているわけではない。

難しい問題とは思わなかったのに!

ええと別にそれほど難しい問題では無かろうとは思いながら、日曜日から解けずに(文章にできずに)いました。

正しい答えを与える(に違いない)二つのフォーム(テンプテートといった方がよいのか)がある。なぜその二つが同値になるのかを説明せよ、という問題です。野原フォームと2進法フォーム。前者はややこしいので後者の表記法を基準にする。

後者は基本的に一つの式しかない。

α(n)=α(n+1)*2+γ(n) γは0か1です。

前者はややこしくてすっきりしません。A列をA(n)、それを2で割った余りC列を C(n)とする。

ややこしいのはA(n)の定義にC(n-2)がからんでいるからです。

具体的な例で考える。

与えられた数が102の場合。

(1)

C(0)=0 A(1)=102 C(1)=0 、 この場合A(1)=α(1) C(1)=γ(1)=0 

(2)次に、

α(2)=51 で、C(0)=0,C(1)=0 ですから

A(2)=A(1)-B(1)-C(0)+C(1)=A(1)-B(1)=α(2)

C(2)=γ(2)=1

(3)次に、

α(3)=25 で、C(1)=0,C(2)=1 ですから

A(3)=A(2)-B(2)-C(1)+C(2)

A(2)-B(2)=α(3)+1 -C(1)+C(2)=0+1=1 ですから

A(3)=α(3)+2=27

C(3)=γ(3)=1

(4)次に、

α(4)=12 で、C(2)=1,C(3)=1 ですから

A(4)=A(3)-B(3)-C(2)+C(3)=A(3)-B(3)-1-1=A(3)-B(3)

=α(3)+2-B(3)=(α(4)*2+1)+2-(α(4)+1)

=α(4)+2 偶数となりなんとか

C(4)=γ(4)=0 と同位相になります。

(5)次に、

α(5)=6 で、C(3)=1,C(4)=0 ですから

A(5)=A(4)-B(4)-C(3)+C(4)=A(4)-B(4)-1+0

A(4)=α(4)+2=α(5)*2+2 B(4)=α(5)+1 したがって、

A(5)=(α(5)*2+0)+2-(α(5)+1)-1

=α(5)+2-2=α(5) 偶数となりなんとか

C(5)=γ(5)=0 と同位相になります。

以上で、C(n-2),C(n-1) が、(0,0)(0,1)(1,1)(1,0)

の場合、すべてを当たった結果、

A(n)とα(n)の差は、0か2であり、したがって

C(n)とγ(n)は常に等しいことが分かった。

・・・

(数学的には不充分かもしれないので誰か指摘してください。)

(5/18 21:41)

鎮守の森

 今、NHKで宮脇昭さんとかいう植物学者が、日本の本来の自然、森の姿を研究しているという話をしていた。各地の鎮守の森が本来の森の植生をかなり残しているなどということを、宇佐神宮なども訪ねつつ語っていた。 

 篤胤の『霊の真柱』まだ半分しか読めないが、やはり神道の神髄はそうした言説ではなく、森や自然の持つ(かもしれない)霊性との交流にあるのかもしれない、と思わないでもない。だからといってわたしは当面できることとして本を読み続けるしかないが。

長新太

 絵本作家の長新太(ちょう・しんた、本名・鈴木●治=すずき・しゅうじ)さんが25日、中咽頭ガンのため東京都内の病院で死去した。77歳。(●は「秋」の下に「手」)

 長新太はやはりとにかく偉大である。

彼が居たことで、戦後日本もまんざらではなかったと思える。

(うちには『タコのバス』という絵本があった。)

アパルトヘイト・ウォールは国際人道法違反!

Stop the Wall !!実行委員会からのメールより。賛成なのでコピペします。

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     「壁」に関するICJ勧告から一周年

  私たちは「壁」建設の即時中止と原状回復を求めます

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2004年7月9日、国際司法裁判所(ICJ)は、イスラエル政府によるパレスチナ占領地域・ヨルダン川西岸地区における「壁」建設に関する勧告的意見を出しました。一周年を迎える今日、私たちは、イスラエル政府、日本を含む各国政府、国連機関、世界銀行などの諸機関がこの勧告を尊重し、その内容を実行に移すことを求めます。

 ICJは、2003年12月8日の国連総会(総会決議ES-10/14)に応じ、東エルサレムを含むパレスチナ占領地域におけるイスラエル政府の「壁」建設の法的な影響について、一年前の7月9日に以下のような勧告的意見を出しています。

・「壁」の建設は、パレスチナ占領地域での財産の破壊あるいは接収を伴っており、1907年ハーグ規則やジュネーブ第4条約(文民条約)などの国際人道法に違反する。

・「壁」の建設は、占領地域の住民の移動の自由を実質的に制限するものである。これは農業などの生産活動、医療、教育、水などの資源へのアクセスなどに深刻な影響を与えており、ジュネーブ第4条約などの国際人道法、国際人権規約、および関連する国連安保理決議に違反する。

・「壁」は、「グリーンライン 」と「壁」との間の区域に、イスラエル人入植地の大多数が含まれるよう湾曲した経路で建設されており、事実上の領土併合である。これは武力による領土の取得を禁じる原則に反しており、パレスチナ人の領土的主権と自決権を侵害している。

・イスラエルは、現在進行中の「壁」の建設作業を即時中止しなければならない。 また、イスラエルは「壁」建設のために接収した不動産を返還し、それらの原状回復が不可能な場合は当該被害者に賠償する義務を有する。

・この問題は、イスラエル・パレスチナだけでなく、国際社会全体の平和と安全に関わるものである。すべての国には、これら「壁」建設とそれにより引き起こされた事態の維持につながる援助をしない義務があり、これらの違法状態を終らせる努力をしなければいけない。

 同年7月20日には、国連総会が決議を採択し(ES-10/15)、これらのICJの勧告的意見を支持しています。

 また日本の原口国連大使は同年7月16日の国連緊急特別総会において、「壁」建設の継続を遺憾であるとして、イスラエルに適切な行動をするよう呼びかけています。

 しかし、過去一年間、「壁」の建設は中止されることなく続いています。さらにこの「壁」以外にも、イスラエル人入植者や軍のための道路が建設され、占領地域の人々の居住地域は分断され、互いから隔絶されています。これは、農民が彼らの土地や水源から切り離され、家族と家族が切り離され、子どもが学校から、また病人が医療施設から切り離されることを意味しています。私たちは、これらの政策がパレスチナ自治区の住民にさらなる困窮を強いていること、そして和平プロセスを形骸化させていることを憂慮します。

(略)

          2005年7月9日 Stop the Wall!! 実行委員会

軍部悪玉論

 我々はそろそろ軍部だけを悪玉に据える歴史認識から自由になるべきだろう。国を戦争に駆り立てるのは、一部の軍人なんかじゃない。分かりやすい物語と解決を求める、想像力のない国民なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050730/p1

おっしゃるとおりだと思う。

 先日こどもたちが今後使う(かもしれない)教科書の展示会があって(暇でもないのに?)見に行って扶桑社の教科書も見ることは見たが、時間がなくそれほどよく読めなかった。「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」を扶桑社とかが攻撃しているということらしい。だけど歴史家の間では、「軍部だけを悪玉に据える歴史認識」が大手を振るったということは今までなかったのではないか。極限的には、沖縄において住民自決を先導した部落の指導部などがそうなるわけだが、一般大衆の中にも多くの戦争体制への協力を強制する積極分子がいた。そうした人たちへの責任追及はあまりなされなかった。狭い地域社会の中で血で血を洗うようなことに成らなかったという言う面ではその方が良かったのかもしれない。しかし実際に追及され、裁かれたのは、軍、政府首脳のごく一部だけである。裁きを免れた岸信介以下の首脳たちの責任は追及されるべきだった。それだけでなく、一般大衆と軍、政府首脳の中間者、マスコミやイデオローグ、官僚、軍需産業首脳といった人たちへの追及も、なされるべきだっただろう。*1

 話がそれた。*2言いたかったことは、「軍部悪玉論」とは便乗派戦争協力者が自らの罪を軍部(結局は東条)になすりつける為のものだったと。そうすると最近の左翼的教科書とかは何の関係もないのでは、ということ。

 ところでまた話を外らすと、天皇の戦争責任論というのも、便乗派とか殺されないためにしかたなかった(左翼の)戦争協力者が自らの罪を天皇制になすりつける為のものだった、と言えないことはない。*3仮にそうだとしても、何度も言うように、“ヒロヒトかそれとも東条”に戦争責任が無ければ誰にも無くなってしまう。小泉の靖国参拝は東条無罪論であり、責任はなかった論である。「罪を憎んで人を憎まず」と言ったが、「罪」とは何か明言されておらず、罪を確定する意志はないと認められる。

「悪玉はAだ」というのは短慮だ、というのは常に一理ある。しかしそれを反復しているうちに、(例えば肉親が無惨に死んでいったそうした戦争を起こし、さっさと止めなかった)責任者に対する憎悪にもとずく責任追及というパトスが薄れてしまい、「悪玉」を存在させなければならないとする当為が希薄になってしまう。

 平和、平和と唱えるだけなら誰も傷つかない。しかもそれで効果がある(平和が得られる)ならそれが最上である。しかしながらそれだけではどうも収まりそうもない。

 真夏の真昼、私たちはカンテラを灯して「悪玉」を探している。

*1:文学者に対する戦争責任追及は為された。しかし追及の主体(転向左翼)が自らの便乗表現には目をつぶって、よりひどい人を追及したというものだったので迫力はなかった。参考:1956年、吉本隆明と武井昭夫の共著『文学者の戦争責任』

*2:どうもわたしの文はそれてばかり。

*3:?

死体を踏んで

『ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付で、「渡嘉敷の集団自決」の見出しで次のように報じた。

(略)

われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。

 そこには200人ほど(注・Gリポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。木の根元には、首を締められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。(略)

 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

確かに原爆はさらに大きな悲惨だったかもしれない。だが、日本軍が日本人を死に追いやり、親が子を殺したことの悲惨は語りようもない。

<憎悪>をとぎすまし持続しなければならない、と私は考える。