古事記の神 (間のあいた続き)

えーと、一ヶ月ほど前、古事記の1番から17番までの神の名を掲げました。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050421#p1

それ以後も宣長『古事記伝』を読もうとはしているのですが、遅々として進まず、まだ(2)のp44です。古事記の最初で有名なエピソードは、イザナミ「啊,汝俏壯男也!」イザナキ「啊,汝麗美人也!」*1

と、イザナミが死んでイザナキが黄泉国へオルフェウスのように追いかけていく話の二つです。ですが、野原はそこは省略し、「故,吾者當為御身之禊!*2

汚いところにいっちゃったから禊ぎしよう、とイザナキは言った。」ところから。12柱の神が出てくるがいずれもマイナー。

117. 衝立船戸神 (つきたつふなと)

118. 道之長乳齒神 (みちのながちは)

119. 時量師神 (ときはかし)

120. 和豆良比能宇斯能神 (わづらひのうし)

121. 道岐神(道俣神) (ちまた)

122. 飽咋之宇斯能神 (あきぐいのうし)

123. 奧疏神 (おきざかる)

124. 奧津那藝左毘古神 (おきつなぎさびこ)

125. 奧津甲裴弁羅神 (おきつかひべら)

126. 邊疏神 (へざかる)

127. 邊津那藝左毘古神 (へつなぎさびこ)

128. 邊金甲裴弁羅神 (へつかひべら)

面倒なので二つだけ例を挙げるが、次のようにすべて「投げ棄つる・・・神の名は・・・」と列挙されている。

投げ棄(う)つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。(略)

投げ棄(う)つる御褌(はかま)に成れる神の名は、道俣神。

 『古事記伝』ではけっこう14頁も説明があって、最後に、前半の六神は陸の路(くにがみち)の神、後の六神は海つ路(ぢ)の神なり、とされている。

 道俣神 (ちまたの神)は文字通り、分かれ道に立つ神、塞(さえ)の神ですね。最初の船戸神 (つきたつふなとの神)(又はふなど)は、船という字があるので海を連想するのは間違いで、「杖が突き立っている道の曲がり角という名の神」だそうで、やはり塞(さえ)の神ですね。本(もと)の名前は“来なとの祖(さえ)の神”と一書にある。塞(さえ)の神とは、異境との境に神がいて外界からの悪霊邪気の侵入を防ぐ、そうした神である。邑落の境に「船戸の神」が石や木で立てられていた。だから衝立(つきたつ)船戸の神になっていると。*3

「袴の股の分かれたるところ“ちまた”の如し」と『古事記伝』にある。脱ぎ捨てられたパジャマのズボンのように曲がりくねり、最初とはまったく違った方向へ向かってしまう細い分かれ道を想起する。辻という漢字は日本で作られたものだそうだが、古事記より前の時代には、そうした直角に交差する十字路という物自体ほとんどなかったのではないか。十字路が成立するためには道が太く平でまっすぐでなければならず、それを可能にする交通と文明の光が必要である。その光を得て大きくレベルアップした塞の神が猿田彦*4であるが、ここでは十字路がなかった時代の塞(さえ)の神を感受しなければならない。

*1:久遠さまヴァージョンhttp://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/kojiki/01.htm#kamiumi01

*2:同上版

*3:cf.西宮一民・神名釈義

*4:神名釈義No276

追記

水玉消防団の上記レコードを数年ぶりにA面だけ聞いてみた。良かった。カムラのベースなどのリズムが重層的野性的で。上記は1981年の制作。概要は次の通り。CDにもなってるんだ。「ピーターパンにはなれない」が良かった。 

http://home.att.ne.jp/alpha/voice-arrow/mztama.html

2002/11/23の時点では、ヴォーカルの天鼓が水玉消防団21なんてユニットを組んでライブもやっているらしい。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/1400/sound/live_021123.html

http://www.asahi-net.or.jp/~uh5a-kbys/discj/mizutama.htm 水玉消防団/満天に赤い花びら

amgunさん。バトン回してくれてありがとう。

水玉消防団は「ギャルバンの走り」などとも言われるらしいけど、メンバーの半数が30を過ぎて初めて楽器を手にしたという、驚異のオバサン(失礼!)パンクバンドでした。その傾向性(フェミニズム)の濃さにもかかわらずサウンド重視の男の子にも一目置かれていたように思います。

(霊の真柱やっと読了)

近藤一さん講演会

日時:7月10日(日)  13:00受付 13:30開始

場所:名古屋市教育館 第8研修室

    (地下鉄栄駅下車 3番出口から北へ徒歩すぐ)

資料代:500円

講演:ある日本兵の二つの戦場

    第1部 証言 中国山西省と沖縄の戦場で

    第2部 今日、現地を訪問して思うこと

講師:近藤一氏(こんどうはじめ氏)

     1920年に三重県で生まれる。40年に入隊後、翌年中国山西省独立歩兵

    第13大隊第2中隊に赴任、治安警備やいくつもの作戦に参加。

      44年、上海より沖縄に渡り、嘉数高地の激戦や首里攻防戦に参加。

    南部に撤退し「万歳突撃で米軍の捕虜に。

     戦後、「初年兵教育」としての中国人刺殺から沖縄戦の悲劇まで、

    その「加害と悲劇」について学校や集会などで語り続けている。

     今年、社会評論社より「ある日本兵の二つの戦場‐近藤一の終わらない戦争」

    (内海愛子・石田米子・加藤修弘編)が出版された。

主催:不戦兵士・市民の会 東海支部

    連絡先:TEL 090-2184-9078

聖徳太子はフィクションではないのか?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p5

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p2

以下で書いたのですが、一昨日ある集まりでもハードコピーを何人かの方に渡しました。

ブログだとどんなことでも書けるが、紙を渡すとなると気のおけない仲でもひどく“恥ずかしい”。こうしたメディアが表現内容に及ぼす影響といったものも興味深い。

 テーマは、扶桑社教科書が騒がれているが、現行の指導要領に従った普通の教科書も、一部に見逃し得ない問題が問題がある! というものです。

聖徳太子はフィクションではないのか?

(1)子供の小学校教科書を見て、聖徳太子が大きく取り上げられているのをみて、疑問に思った。

「偉人としての聖徳太子」の存在は歴史学においてはほぼ否定されている。(参考:大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫など。

「憲法17条と『三経義疏(さんきょうぎしょ)』が聖徳太子の作品でないということは今日の古代史学会の常識に属することであるし、聖徳太子の実在を証明するものと考えられてきた天寿国繍帳も後生のものであることは間違いないのである。p36」)

 それに反し、教科書(私が見たのは大阪書籍H17年2月発行(3大書 社会613))では、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問題意識のもとに彼の17条憲法をはじめとする業績が紹介されている。

小学校学習指導要領解説に次のようにあるので、このような聖徳太子の紹介は文部科学省の指導をそのまま実現したものである。

 “「天皇を中心とした政治が確立されたことが分かる」とは,聖徳太子の政治や大化の改新によって政治の仕組みが整えられたことや,奈良時代に天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることである。(略)

 実際の指導に当たっては,例えば,聖徳太子の肖像画やエピソードなどからその人となりを調べる学習,大仏の大きさから天皇の力を考えたり,大仏造営を命じた詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習,(略)などが考えられる。”

 聖徳太子は日本の基礎をつくった偉人であると日本書紀に描き出され、またそれだけでなく民衆の大きな信仰の対象でもあった。しかしいずれもそれは7世紀初めの歴史的現実ではなく、8世紀以降に作り出されたものであった。事実でない人物を登場させて彼の「願い」を小学生に理解させようとすること、これが子どもが日本人になるためにどうしても必要な第一歩なのだろうか。非常に疑問に思う。

(2)<願い>とは何か?

この教科書でおかしいと思ったところは、日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁(最初の平城京の見開き2頁鳥瞰図を含めて)、後者が3頁である。私の大学受験歴史の感覚では当然後者の方が比重が大きいと思っていたので意外に思った。しかし飛鳥・奈良時代が“くにの始まり”の時代であり、歴史やアイデンティティのためには枠組みが必要であり、それを与えることなしには何も始まらないという発想もありうるだろう。かりにそれを認めたとしてもこの教科書の描き出す飛鳥・奈良時代は余りにも偏向しているのではないか。

飛鳥・奈良時代は、p18-25なのだが、p18に、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問いかけがある。p20-23は大仏建立が主題。p21に「わたしは仏教の力で国じゅうが幸せになることを願っている(略)」という聖武天皇の願いが8行にわたって記されている。p22には「多くの農民にしたわれる行基」が大仏づくりに協力したと述べられる。p25では、「教えのためには命をおしんではならない」とした鑑真が、5回渡航に失敗したのちやっと日本に着いたことが記される。8頁を通して“命を惜しまないほどの強い願い”でもって国造りを押し進めるといったイメージが与えられる、とも読める。わずか134頁で日本の歴史の全てを語りきらないといけないから大変なわけですが、この8頁だけが特別に精神性が高いように感じた。

(3)

歴史学者が科学の名に於いて、教科書からの聖徳太子の抹消を主張しても、大衆はけげんに思うだろう。右派がちょっと扇動すれば抹消反対が絶対多数になるだろう。わたしたちはどうしたらよいだろうか。とりあえず、飛鳥・奈良、平安時代をたった13頁で分かりやすく小学生に伝えるにはどうしたらよいか、自分なりの日本史像を造り、教科書を試作しようとしてみるべきかもしれない。もちろん、指導要領に囚われず、自由な立場で。その場合「日本史」である必要はないわけだが、ではどうするのかが問われる。

(2005.7.16 noharra  )

参考:指導要領   http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p7

   指導要領解説 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p8

自虐とは?

7/24コメント欄より

(削除)

noharra 『突然のTB失礼しました。

野原は「戦争を美化するな。」、という主張はしていません。

(1)「しかし自虐一色に染まる」とはどういうことでしょうか?わたしが参照先として示した、林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm の記述は「自虐的なもの」なのでしょうか?

(2)「同じ轍を踏むと思ってます。」

同じ轍はすでに踏んでいるのでは。イラクに復興支援のために自衛隊を出したが、現在のイラクは内戦状態で復興支援ができる状態ではない。ある条件のもとに出兵したが、事態がその条件に反すようになったのに兵を返せない。これは「支那事変」の泥沼化において見られたのと同じ事態です。

(3)

戦争をもう一度したいのだったら、今度は「南京大虐殺」と「沖縄における住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」みたいなことは一切しません、との強い信頼感を国民に与えることが必要でしょう。

「歴史は繋がってます。そこには戦争をせざるを得ない考えに至った理由があります。そこの部分をないがしろにして「悪行だから反対」と切り捨てていては」

「戦争をせざるを得ない」という主張をあなたがしているという前提で聞いているのです。「大虐殺」及び「住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」も「せざるを得なかった」ものだとあなたは主張しているのですね? と。』 (2005/07/26 07:31)

住民が死なない戦い方

いままでの経過。#pは続きがある場合あり

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050726#p4

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050726#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803#p2 

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050804/p1 で、これへの応答です。

(11)

「全て悪いこととは言えない」は部分否定だと思われるのですが、部分否定するだけで「歯止めが一切ない」というのは、乱暴にすぎないでしょうか?

「全て悪いこととは言えない」とは、部分否定のはずですね。即ち「否定すべき」=「黒」とすれば、「戦争中のこと=真っ黒ではない」、つまり1%から99%までの灰色だ、という主張だった筈です。しかし、最近では「靖国の死者を否定するのは許せない」つまり、限りなく真っ白に近い、という(意味の)主張が大声で発せられている、と言っているのです。

小泉氏にとって「罪とは何か」「反省とはなにか」、分かりません。そこで部分否定論者であるgkmondさんに、否定すべき点はどこなのかお聞きしたいと思ったのです。

沖縄で10万人以上の民間人が死にました。これは全く不可避の死者だったのでしょうか。本土を守るために沖縄が捨て石になった、という理解は間違いなのでしょうか。わたしは捨て石だと思います。国体護持*1のために、何万人もの住民が死ぬのもやむを得ないという戦争遂行の仕方。それは戦後の価値観からは全否定されるべきだと思います。

したがって、

id:index_home:20050625 id:index_home:20050805#p1 でも論じられている、「陸上自衛隊那覇駐屯地の幹部や隊員ら約百人が六月二十三日早朝、第三二軍司令官の牛島満中将らを祀った糸満市摩文仁の黎明之塔前で慰霊祭を行った。」といった行為も否定されるべきだと思います。

「あの戦争は百%間違っていた」と言うことで安心してしまい、上記のようなある特定の戦争遂行の仕方を批判することを忘れてはいけないと思う。

(12)

 私はむしろ戦前戦中に関して、国民の得ていた自由を最大限多く見積もるべきだと思います。被害者としての面は多少弱められるかもしれませんが、「この程度に自由は残っていたけれども、勝てない戦争に突き進んだ」という語られ方をしなければ、現在の状況の危うさを理解させる史料とはなりえないからです。

異議ありません。

ただ色川氏のようなインテリと、辺境の寒村の住民*2とでは圧倒的に違う、ものを考えるに当たって権力側の一方的判断を押しつけられた場合にそれを相対化しうる能力が。ということをよく考えるべきでしょう。テレビなどで意識が均一化し、誰でもいっぱしのことを言ったりする昨今と全く違う当時の雰囲気はわたしたちに想像することすら難しいように思います。そんな時代でも、なお下記のようなことはあったのです。

(座間味島)

 なお村役場から離れた阿佐の集落では「自決」をしようとする動きもあるが「阿真(西方の集落 筆者注)で捕虜になれば、腹一杯の食事が食べられる」という情報が伝わってきて住民はそちらに向かい、「自決」はおこなわれなかった。このことは米軍が生命を助けてくれるとわかったときにはけっして自決を選ばないことを示している例であろう。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

私は分からないわけですが、米軍に捕まると「残虐な仕方で殺される」と信じこんでいた人々が過半いた、と林氏は書いているみたいです。でそうだとしても、最後の自決までスムーズにいくわけではない。地獄の決断があり、いくばくかの生への可能性もあった。*3だからといってその自由は、色川氏が体験した自由とは同じ言葉で表すのが全く不適切なものです。

(13)

一七七人といわれる「集団自決」の犠牲者に対し、「「自決」を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。」だからといって手榴弾を配った軍の責任が無いはいえないだろう。「弾薬をくださいと頼んだが部隊長は断った。」と林氏が語る部隊長の名誉が、ほかの本で毀損されたかどうかを論点にした裁判が始まるという。大量の自決者を生んでしまったのは、皇国皇軍の構造的問題であり、それを一人部隊長に負わせるのは酷だという理屈は分かる。しかし皇国皇軍の構造的問題の批判は六〇年経っても充分出来ていないのだ。それなしにこうした裁判を提起することは、結局構造的問題はなかった(=一部の住民が自発的に死んだだけ)ということになる。一部の住民はなるほど無学だったかもしれないが、馬鹿だったわけではない。犠牲者を馬鹿にするのは許されない。

(6)

6)林博史氏の論文のどこが、誤ったソースによる誤った文章なのでしょうか。(野原)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper20.htm「沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から― 」という論文で、「沖縄戦を直接扱った書物は,今日までに200数十から300冊を越えるとみられる」とし、それらを概括している。

『鉄の暴風』 は,事実のあやまりや米軍占領下の制約などいくつか問題点を待っているがその後の沖縄戦記録の出発点となるものであった。(林)

と、幾つかの「事実のあやまり」があったことは認めている。

 ここで「以来」という言葉が使われていることからも分かるように、集団自決の初出は『鉄の暴風』と考えられ、この論文も「鉄の暴風」を資料としていると考えられます。

 ここまでのことから林論文を参考にはできない、というのが私の意見です。

集団自決を論じる者が、「鉄の暴風」を資料の一つとしている場合に、論文の全てを否定することができる。なんともおそるべき論理展開ですね。

しかも、林博史氏の論文のどこが誤っているのか、については一言もない。

どうも、これでは。「はじめに結論ありき」という汚名を免れ難いのは、gkmondさんである。

*1:という何だか訳の分からない目的

*2:「自決」したのは子ども、老人、女性がほとんどです

*3:チビチリガマの場合53/139が生存確率。

公平な心で読んでください

 大概は漢国の事実に合わせて徴(しるし)とし、古伝説に照してその実有なる事を暁(さと)し、また因(ちなみ)にすべて神祇の事に渉る事等を、古へ意を以て論(あげつら)はむとするなり。漢学の人々、願わくは孔子の「意なく、必なく、固なく、我なし」*1てふ情(こころ)にならひ、公平(おほやけ)なるこころを持(もち)て熟(よ)く見別(みわか)ち賜(たま)ひねかし。

(平田篤胤『新鬼神論』p138 日本思想体系50)

篤胤には新鬼神論と鬼神新論があり内容は似たようなもののようだ。神と鬼を一緒くたにするのは如何なものか、と思われるでしょうが、儒教(朱子とか)の伝統では、鬼神論というテーマ設定で考えることになっていた。

朱子は「天は理のみ」と言っている。つまり理という非人格的原理が普遍的に世界を支配しているという思想だ。ここからいくと神さまだとか幽霊だとか祖先の霊などというものは無い、少なくとも限りなく無いに近いということになるのが自然だ。

しかし篤胤は神道ですから、天津神や国津神を全否定する思想は許せない。そこで孔子(論語、中庸)のなかに、鬼神の実在を語った部分があるじゃないかということを50頁くらい延々と論じたのが新鬼神論です。

 引用した文章は、ただ自分と意見が違う人でも、公平なこころを持ってよく考えて読んでください。(納得できなければ反論してください)。みたいなとても開かれた心情を感じることができると思ったので引いてみた。*2

篤胤というと狂信的国家主義ということになっているが、そのへんのプチウヨの魂がひょっとすると腐臭を発しているのとは大違いである。

*1:「勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我をはらない」金谷治訳 岩波文庫『論語』p167   

*2:別に大した文ではない。

我祖宗の御制に背き奉り

我が国の軍隊は、世々天皇の統率し給うところにぞある。

昔、神武天皇、みずから大伴・物部の兵どもを率い、中国のまつろわぬものどもを討ち平らげ給い、高御座に即かせられて、天下しろしめし給いしより、二千五百有余年を経ぬ。(略)

古は天皇みずから軍隊を率いて給う御制にて、時ありては皇后・皇太子の代わらせ給ふこともありつれど、大凡、兵権を臣下に委ね給うことはなかりき。

中世(なかつよ)に至りて、文武の制度、皆唐国風に倣(なら)はせ給ひ、(略)朝廷の政務も漸文弱に流れければ、兵・農おのずから二つに分かれ、古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変わり、遂に武士となり、兵馬の権は、一向(ひたすら)に其の武士どもの棟梁たる者に帰し、世の乱れと共に、政治の大権も亦其の手に落ち、凡(およそ)七百年の間、武家の政治とはなりぬ。

世の様の移り換りて斯くなれるは、人力もて換回すべきにあらずとはいひながら、且つは我国体に戻(もと)り、且つは我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り、浅間しき次第なりき。

「軍人勅諭」明治15年

天皇の軍隊を高らかに宣言している。

鎌倉から江戸幕府まで長く続いた武士政権については「我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り、浅間しき次第」と否定する。

ただ最近のなかった派とは違い、「凡(およそ)七百年の間、武家の政治」があったことをしっかり認めている。