もう遅すぎますか?

「圧倒的に多数の日本人は誰もが自分たちは西欧文明圏に属していると思っている。」溝口雄三氏の文章だそうだが確かにその通りだろう。小学生の息子にきみたちはアジア人だと教えようとしたのだが上手くいかなかった。*1

 きらびやかなパーティにある男が出席している。楽隊が音楽を奏でる中、燦と光り輝くグラスを手にした紳士淑女が歓談している。恰幅のよい、富貴な生まれであるのが見て取れる人たちぱかりである。男はたいへん自分に満足している。貧乏な田舎の家族や親戚を足蹴にして都会に飛び出しトントン拍子に出世するうちに、いつのまにか自分だけこのような人たちの仲間に入れるようになったのである。そんな場に男の兄弟が突然姿を現したらどうなるか。流行遅れの安物の服を着ている。きらびやかな人たちが眉をひそめるのが見える。その兄弟が自分とそっくりであるとはいかに恐ろしいことか。

男は一人G7という金持同盟に入っている日本である。兄弟は一昔前の韓国である。

【「もう遅すぎますか?」--初めての韓国旅行 水村美苗】新潮200501月号 p340

道を歩いていて、あ、日本語が聞こえると思うと、それは韓国語であった。そして、そのような経験は二十年にわたるアメリカ生活のうちにそれこそ何百回となくあった。

 韓国人と日本人が似ているのは、韓国と日本の地理を考えればあたりまえのことにすぎない。地理が近ければ遺伝子も近い。また、地理が近ければ、言語も近い。(略)

 だが、近代日本を動かしてきたのは鹿鳴館以来の「脱亜」精神である。日本人から見て「亜」に属する人たちと自分がそっくりなのを認めるのは、「名誉西洋人」としての自分のアイデンティティーを危うくする。日本人はまさに韓国人とそっくりだからこそ、韓国人とはちがわねばならなかったのである。まさに韓国人とそっくりだからこそ、韓国人とはちがうと思いこみ、そう思いこむことによって、「名誉西洋人」としての自分のアイデンティティーを保たねばならなかったのである。(同上 p340)

 日本国内で無自覚に生きている限り、在日と出会うことはあっても韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける。世界とは、アメリカとそれに付随する欧州諸国でありそれ以外は発展途上国であり日本とはレベルが違うという意識。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」と水村は書いているが、日本人の意識は変わっていないように思える。日本人の自信の根拠は経済的優位にありそれはこの15年間でほとんどなくなったのだろう。だがわたしたちは経済的水位に自信を合わせるのではなく、かえってその落差を空虚なイデオロギーで埋めようとし、名誉白人意識は揺らいでいない。

わたしは日本人である自分が西洋人ではないことを、ほんとうの意味では知らなかったのである。(同上 p338)

 わたしはわたしなんだから、アジアも日本もそんなことはどうでもいいじゃないか、とつい思ってしまう。それのどこがいけないのか。大東亜戦争の総括ができていない。日本のほんとうの独立を悲願としてきた人たちがブッシュのポチになることを祝わざるをえないという(大笑い)な現状。それはきみたちの国にとっておおきな問題のはずだがそんな問題は存しないと皆がいうなら・・・、わたしは闇斎でも読みながらもう一つの日本を探求しよう(似たようなものではあるが)。

*1:「アジア」とは何か。大ざっぱであることを許容するとしてもそれは、中東、インド、中国の三つの全く異なった文化圏を無理に一つにした物のようだ。間違ったカテゴリーなのだから理解できないのは当然だろう

報道の自由の終わり

 番組改竄事件へのコメントとしては、研幾堂さんの下記が分かりやすく納得がいった。

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20050116

 今回の報道で、改めて一面の記事になるほど、新たに加わった事実は、放送前に政治家が、その修正を指示要求していたという点が、上記二政治家へのインタビューによる確認も含めて、明らかになったというところにある。

(略)

ところが、この報道は、ほんの数日のうちに、逆襲を受けて、現在、朝日新聞の劣勢というところである。NHKが、例の如く、知らんぷりと頬冠りと蛙のしゃっつらで、何らの問題も無かった、と逃げているのに加えて、不思議なことに、先の二代議士が、手のひらを返したように、放送日前に面談したことも、意見を述べたこともなかった、と言い始めたことで、スクープがスクープでなく、そのまま虚報となってしまうかの様相を呈してしまった。

朝日新聞については、その曖昧で、どっち付かずの態度と、報道の職分を、持てる力と地位にまったくそぐわない仕方でしか、果たしていないことについて、随分と罵った文章を書いていたので、今から、次のようなことを書くと、皮肉に聞こえるかも知れないが、そんな意図は全く無しに、今回の帰趨では、朝日新聞記者達には、頑張ってもらいたいと思う。朝日新聞がここで負けるならば、恐らく、日本の大組織のジャーナリズムは、政治と社会の流れに飲み込まれた活動しか出来なくなるであろう。(同上)

より高次の正義の存在

民衆法廷の主催者の立場と「東史郎裁判」についての孫歌の立場には、前者が「法的な手続きにのっとっていない(非正統的な」パフォーマンスを弁護し、後者が「法的な手続きにのっとっている」はずの判決を批判する、という違いはあるものの、「法」の外部にある「正義」の基準に照らして現行の(日本の)法体系を批判している、という姿勢では共通しているように思われるのだ。これはなにもこの両者に限ったことではなく、ポストコロニアリズムの立場から現行の(先進国の)民主・法治・自由の欺瞞性を批判する議論は、どうしてもこういったより高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢から免れていないのではないか、という気がする。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050123 梶ピエールの備忘録。

民衆法廷が「「法」の外部にある「正義」の基準に照らして」ものごとを裁いたというのは当たっていないでしょう。単に日本の裁判所で適用されるべき法より若干広めの「法」を基準にして裁いた、というだけのことでしょう。*1 とにかく「正義を模索すること*2」を、すぐに「より高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢」と言いかえるのはやめていただきたい。

*1:判決を読んでいないので詳細には論じられないが

*2id:noharra:20050122参照

正しく「暴力的に振る舞う」

# N・B 『 どうも、星野さんの引用が出ていたので思わず日ごろの鬱憤が出てしまいました。おかげでかなり話がずれてしまって、相手の批判に答えられくて逃げ回って、贅言を費やすみっともない人みたいになってすいません(最近見かけたので)。

 まず、アレナスについての基本的事実、彼はキューバ革命後『夜明け前のセレスティーニョ』で作家としてデビュー。しかし、その後当時のキューバの同性愛抑圧政策によって(現在は少しは変わったようですが)、出版ができなくなり投獄も体験し、1980年に亡命、その後はニューヨークで生活するが、1990年に自殺。遺著は自叙伝『夜になる前に』(すいません、まちがってました)。最後のラテンアメリカ文学の「ブーム」の作家だといえるでしょう。

 2、ですが私が星野さんの「紹介の仕方」(映画は国境を越えるとでも言い訳すればごまかすのは簡単なのに)は、やはり、現体制へのコミットメントを含んでいると判断します。その傍証として、チェチェンについての本の感想を対比したのです(こちらはロシアの現体制への明白な批判です)。これはあくまで私の判断です。ちなみに、私はアレナスは明らかにプロパガンダをしていたと思います(自叙伝を読む限り)。でも、彼を批判する権利は私にはないと思います。

 補足しましたが野原さんの理解は正確だと思います、わかりにくいこと書いてすいません。

>その前に、アレナスのキューバ~反共

 そうです、でもマッカーシーとソルジェニーツィンはあるレベルでは区別されるべきだということですね。古いものは何度でもよみがえるので。

 とりあえず、マッカーシー(あるいはロイ・コーン)と「対話」あるいは「議論」することが必要となってくると、しかしそのときに「従軍慰安婦」や「アレナス」のような声はあると、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」と相手が主張しても、そのこと自体を批判することは単純にはできない、なぜなら、私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。その前提の上で正しく「暴力的に振舞う」にはどうすればいいかを考えるということになるのではないかと思います。今回は補足ばかりですいません。

 ちょっとこれは質問ですが「反共」というのはヒットラーやレーガンから2ちゃんまで由緒ある政治的立場ですが、たとえばその下の星野さんの引用のように何かの力に言葉を使わされているとお考えなのでしょうか?(私はそう考えているので)』

またまた応答遅れてすみません。アレナスについて全然知らないのでちょっと書きにくいです。

 キューバとチェチェンの比較についてですが、もちろんこれについても無知なのですが、常岡さんがとにかくチェチェンはイラクの十倍以上人が死んでるとか強調していたのを思い出しました。キューバも封鎖された国家みたいになっているからひとは結構死んでいるかもしれないけど、でもチェチェンの情況は十倍ひどい、というようなことがあるのかな、とおもいました。応えに成っていませんが。

「従軍慰安婦」問題というものはすでに日本国家が存在を認めているものですね。ですから、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」という主張はおかしいことになります。ありうるとしたら、「契約によるもので支払った」という形くらいですね。

「私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。」もちろんそうだと思いますが、「ある部分」というのがどういう部分なのか、それが問題なんだと思っているなら言えばいいじゃないと思うのですが。

何かの力に言葉を使わされている、というのは反共、親共といったシーンで使うと平板に理解される危険がありますね。わたしたちが本当に困ったときも人権や差別という言葉を使って裁判に訴えたりもするわけですが、そのときわたしたちの思いは非常に遠い言葉たちを使ってしか表現できない。逆に小説やブログを書いたりするときは全く拘束なく自由に書けるのだが、実は誰かの口まねをしているだけの自分に気付く。慰安婦言説なんて典型的にステロタイプな左右の言説が行き来するだけの退屈なゲームと思われていましょう。でも今回やってみていろいろ考えることがあって面白かった。

(2/13 21.39追加)

配偶者控除についての要望

配偶者控除については、全国女性税理士連盟というところがずっと前から熱心であるようだ。

http://www.jozeiren.com/yobo/20031011pa03.htm

配偶者控除等に関する要望書

平成15年10月11日

配偶者控除の見直し及び基礎控除引上げを要望する

 現行の配偶者控除制度は、女性の社会進出について中立的なものでなく、男女共同参画社会の実現を願う立場からは、将来において廃止することが望ましい。

  しかしながら、直ちに配偶者控除を廃止することは、現状では多くの問題があるため、以下を提言する。

1.配偶者控除の見直し

 納税者の配偶者に所得がない場合は、納税者の所得から配偶者の基礎控除相当額を控除する。

 配偶者に所得があり、その所得から控除しきれない基礎控除額がある場合は、その金額を納税者の所得から控除する。

2.基礎控除の大幅引上げ

  当連盟は、配偶者特別控除廃止の要望の時より、一貫して基礎控除額の引上げを要望してきた。

 最低生活費に満たない現行の基礎控除額は、大幅に引き上げるべきである。

 廃止という主張に対しては、女も働けというのか?とか反論されるわけだが、それはちょっと違うと思う。すでに少数派になっている専業主婦を優遇しているイデオロギー的制度になっているので、中立的なものにせよという主張である。

三者三様の矛盾??

(野原燐)

(α)推進派は、日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重要なメディア」であると深く信じており、何十年もかかって「目的」を遂行しようとしている。

(β)ところが、推進派の建前は「国家にとって国旗、国歌が存在するのは当たり前」という論理である。「君が代」の意味や理念を提示し、それによって教導しようとはしていない。

(β’)君が代を支えるべき意味は愛国心であるが、愛国心も理念として提示されることなく、自明性としてのみ語られる。

推進派にこのような矛盾があるため、反対派は、「君が代は宗教的存在だ」あるいはそれに類する命題をこちらの力で立証した上で、それに反論するという手順を踏まなければならず、疲れてしまう。

というような問題点があろうかと思います。

野原は以前から自分の根拠が、アナーキスト であると同時に (アジア風味)ナショナリストである という背反にあるように感じていました。

「戦後民主主義者たちというもの」は、口では平和、国際協調、普遍を唱えながら、身体では日米安保と一国平和主義下の資本主義的消費主義を肯定していた。矛盾を犯していたので、彼らの思想も批判していかなければならないと考えます。

君が代~愛国心(4/3追加)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050328#p2

紹介が遅れましたが、上記で

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318

からはじまった、君が代~愛国心についての錯綜した議論の

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050327

までの簡単なまとめが、記されています。

index-homeさん、 hal44さんのブログにも記事があります。

spanglemakerさんのブログにも。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050329#p1

またスワンさんは、上記でクローズアップ現代の反響(多数のブログのまとめ)をされており、コメント欄も賑わっています。

古事記は偽書だ

id:kuonkizuna:20050415 経由で

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-63.html 『古事記』とは何か—和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」 を読みました。

「内容、構成、日本語など、どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。」したがって、

「数多くの根本的な偽書説が提出されてきている」。

にもかかわらず戦後の左翼的史学・文学界自体、に「厳然としてタブーがあり、それは今なお存続している。」と論じている。mansongeさんは。

宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。この「日本語」とは、わが「日本」の固有性であり「日本人」であり「日本民族」である。

宣長が古事記を読むことで発見した、【日本】なるもののうちに私たちは生きている。であれば、古事記が偽書であってもそのような判断は、日本では出来ないことになる。

 紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。

 さて日本書紀と古事記の違いについて、上のようにmansongeさんは明快にまとめておられる。

 一神教(キリスト教)を深く取り入れた平田篤胤の直前まで、宣長が来ていたことは、id:noharra:20050326#p2 で述べました。

 改憲論議で、もはや誰も触れようとしないが、第九条以上に根本問題であるのが第一条から第八条までを占める天皇に関する箇条である。これは「天皇」の存在に関する問題ではなく、実は「日本国」とは何であり「日本人」とは何か(私たちは何者か)という問題なのである。(同上)

 「もはや誰も触れようとしない」というのは誤りであろう。「君が代」の根拠を問うと、なんらかの自明性、自同性という解答しか返ってこない構造に苛立ちを持つ人は多い。

 憲法1条削除を主張した途端、マイノリティに転化することは事実であるが、予め決められた「多数/少数」とは思想にとって何なのだろう。

 コメントスクラム、とはネットに於けるデモ であり、民衆の意志表示であるともいえる。だが自己の奴隷性を自己肯定することにだけ熱中しているのだ。理念の不在を神とする日本の、それが宿命なのか。いやそうではないと思う。宣長から大日本帝国そしてプチウヨへ受け継がれた同一性の論理、以外にも日本には多様な豊かな思想の伝統がある。