従軍慰安婦問題は裁かれるべきか

 従軍慰安婦問題は道徳的に遺憾なことだったかもしれないが、法的に有罪ではないではない、と主張する人たちがいます。

 いまや上記星野氏も感じ取っておられるように“従軍慰安婦問題については見たり聞いたり感じたり”してはいけないという空気が日本国内を覆っているといっても過言ではない情況です。そこで、「法的に有罪ではない」が圧倒的に優勢なのではないか。

 しかしそれは違うだろう。http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050127 に野原が付けたコメントを自己引用。

「オランダが開いたバタビア(インドネシア)軍事裁判で35人のオランダ女性が被害を受けたことで、日本の軍人が死刑および2~15年の刑を宣告されたことが、「慰安婦」について裁いた唯一の裁判でした。p9全記録1」いわゆるBC級戦犯ですね。これを基準にすれば(実行者については)犯罪であることは認められた、ということです。非日本のアジア人女性はオランダ女性に比べてかなり差別されていたので、立件されなかっただけ、と理解できます。46-48年頃には各国にちゃんとした主権国家がまだなかったわけだし。

帝国主義国を警戒せよ

国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可からずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。

福沢諭吉 p256『文明論の概略』岩波文庫 

なぜ、アメリカとかを警戒しなければいけないのでしょうか?

今の亜米利加とは元誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐われて、主客処を異にしたに非ずや。(p252、同上)

事実は諭吉の言うとおりなのに、わたしたちはなぜアメリカのことをそういうふうには絶対考えないのでしょうか?

常識的判断

swan_slab 『こんにちは。門の外は建造物じゃない=構成要件該当性が認められない、という常識的過ぎる判断です。警察の逮捕・検察の行為は刑法の精神どころか一般人の常識的な判断能力をも逸脱したものといいうると思います。公権力の濫用として糾弾するべきですね。』(2005/03/09 07:26)

心だに誠の道にかなひなば

心だに誠の道にかなひなば

     祈らずとても神やまもらん

という歌があります。近世(あるいはそれ以前から)人々の間で広く受け入れられた「道歌」だそうです。北野天神、菅原道真の作と信じられた。

「心」「誠」(これはしばしば「正直」とおきかえられる)「神」の三者の関係を端的に表現した道歌*1 といわれています。

民衆において祈るとは、なんらかの功徳を祈ることであったでしょう。そして寺社へ行ったりましてや僧などに来て貰うことなど望めない庶民は(ちゃんと)祈ることもできないと考えられた。神との外面的繋がりがないところでもなお、「誠」「正直」であることによって、人間の「心」と「神」は通じ合う。神に通じる(わたし一個の)「こころ」を発見していったという点ではキリスト教(プロテスタンティズム)に通じる所さえあると評価できるかもしれない。

 わたしは昨日始めて知ったのですが、なかなか善い歌ではないでしょうか。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。・教育基本法1条」とかいってもそれだけではなんだかそらぞらしい。

「誠の道」と仮に名付ける普遍的価値があるとする。そしてわたし一個がそれを受肉することにより、ある「幸せ」の境地に辿り着けるのだ、とする信念。

この信念を肯定するかどうかですが、アナキストでありながら一応はイエスと答えたいと思います。もちろん、「祈らない」こと=君が代を唱わないこと=外面の秩序に恭順することは悪である。 という論理にしたがってのことです。

*1:p305『近世神道と国学』前田学 isbn:483151005X

公、天皇、国家に献身する精神

4/6の朝日新聞では「つくる会」教科書を特集している。

(扶桑社の歴史・公民の教科書)両分野を貫く形で強調されたのは、公、天皇、国家に献身する精神である。

歴史では武士道の忠義の観念に光を当て、「公のために働くという理念」としてコラムを新設した。武士を「究極的には天皇に仕える立場」と位置づけ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康らが天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調している。

ふーむ。「つくる会」教科書というのは、水戸学派のイデオロギーによって歴史を語るものなのだ。でも待てよ、尊氏は「廃主の命を奉じて、叛臣の名を免れ、光明院を擁立して以て正閏の分を乱す」*1人物ではないですか。尊氏について天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調しているのだとすると、大義名分論には反しますね。(水戸学とは何か分かっているわけではないのでまあちょっと書いただけですが。)

 中国では歴史の任務は「善を彰(あら)わし悪を貶(おと)す」ことと考えられていた。したがって歴史を学ぶことにより、いかなる権威や権力にも屈しない勧善懲悪の倫理的立場を理解することができるわけです。尊氏であれ誰であり彼がどの点において善でありどの点において悪であるかが書かれる。事実を直書するという方法により。それを鑑(かがみ)とすることで為政者は治世に資することができる。

 現代日本の右翼はまさにプチウヨであり、倫理とかいう言葉が大好きなようですが倫理という物の根本が分かっていない。天皇、国家なんてものは普遍的なものではない。倫理という限りは普遍的な善とか悪が語れなければ話しにならない。

 もちろん天皇は普遍的なものだ、と主張する神懸かり的な立場も有りうる。というよりも神道は、仏教、儒教という普遍思想との絡み合いのなかで自己を形成してきたので自己を普遍として語ることしかできない。「まことの道は、何れの国までも、同じくただ一すじなり。id:noharra:20050326#p2

 ところが明治になって採用した国民国家は、諸国家のあいだの一員でしかないのであり、多少大きくなって帝国を名のろうが、中国のように自己が世界の中心であると信じることはできない。ここにおいて国家神道を軸にした国家統合は最初から根本的矛盾を孕んでいた、ということが指摘できる。

 でもって現在のプチウヨは、「天皇、国家に献身する精神」などというアプリオリに普遍性を欠いた物を「公」という名前であたかも普遍であるかのように売りつけようとしてくる。

 倫理を欠いた献身などただの奴隷道徳であり、わたしたちはつい60年前に実際に国民全体で実践したではないか。これが分からない奴は馬鹿だ。

*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p177『日本思想体系・近世史論集』

確かに一致はする

上のエクセルの式で

A4に a=+D3+C3 と書きました。(a3-b3-c2+c3と同じ)これを、

A4に aa=+b3  に変えてから下にずっとコピーしても、C列の結果は変わりません。

1と0が並んでいますが、これを下から読むと

入力数字の2進法表示になります。

例:1000 ->1111101000

これを最初の1を削って、最後に1を追加し10進法に変えると、答えに成ります。

(2のk乗) > n > (2の(k-1)乗) の場合、( n- (2の(k-1)乗))×2+1

で答えが出るというのがdempax方式ですが、これを2進法で表現すると上記のようになります。

(5/14 22時)

モヒカンチェック(7/16追加)

http://ryak.net/fun/mohicancheck.html モヒカンチェック!

あなたはイロコイ族的刹那主義だそうです。

でもイロコイ族とは?? エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』ではイロクォイ族です!

■タイプ7になっちゃった方

[あなたはイロコイ族のようです]

あなたの行動指針は[快楽]です。何より、毎日が楽しい場所を望みます。

反面、厳しい現実から逃避して自分を甘やかしがちです。

楽しいことは共有できても、この人とは苦しみは共有できないかも、そう思われてることがありますよっ。

[タイプ7のあなたならこんなことはしない]

最後まで自分の記事に責任を持つ

毎日毎日、変化のない日常を記事にする

[たまにはこんなことをすれば吉]

一度に書き上げる記事を絞ってみましょう。

最後まで自分の記事に責任を持つ、意志はあります!