地村夫妻という人たちがどういう方なのかさしたる興味はない。なら書かなきゃいいのだが。今日新聞の一面に載っていた。22歳から16歳のわが子に対し日本名を付けたという。いままでの名前は偽りのものだったのか。その子への愛情といままでの名前への愛情は切り離せるものなのか。親子を取り巻く政治的社会的関係が(今にして思うと)不本意なものであったとして、20年の歳月はリセットなどできない。今までの名前を変える必要などない。家庭内のことだから勝手にすればいいのだが、私が書いているのは、おそらく逆の作用(日本名に改名するのが自然だとする意見)が家族に働いた可能性があるに違いない、と思ったからだ。日本は北朝鮮に負けないぐらい不自由な国である必要はない。
カテゴリー: 未分類
根源的なものにたいして受動的
高島氏の本からのノート。丸山真男は山崎闇斎のことを「あまりに敬虔な朱子学者」と呼んだそうですが、高島氏によれば、朱子学と闇斎学は全然違う、ということになります。*1
例えば「天地の間は唯理と気のみ。しこうして神なる者は、理の気に乗りて出入りする者なり。」という文は朱子の文であり、闇斎の文でもある。しかし、同じタームを使って述べていても発想の根拠が違うのだ。違いを簡単にまとめると、以下の如し。
朱子学:
人は聖人となり、太極という天地の動きの根源そのものになると考えられている
主体性の極限へ向けての能動的な上昇の方向を持つ
闇斎学:
教えによって、この太極から流出する働きにひたすら随順することが思われている
根源的なものにたいして受動的
天理はすでに人に与えられて内在するものであり、それを自覚にもたらすものが教えであり学問にほかならない
で、ここから話は急に飛ぶが、
昨日NHKの広島をテーマにした番組「復興」というのを見て、市の中心部がすべて焼け跡になりわずかなビルの残骸以外文字通り何もないリアルな画像を見て、ショックを受けました。それがわずか数年で力強く復興していくのはやはり人類史に残る「復興の物語」として普遍的な力を持つものです。そしてアメリカの犯罪をあくまで追求するという方向をとらなかったことについても、追求することは正義を求めることであるがやはり憎しみを保存し場合によっては強化することであるので、少なくとも半ばは良かったと評価すべきでしょう。何もない荒野のイメージからの衝撃を持たずにヒロシマに言及してはいけないと、自戒しなければいけないと思った。
そして広島では今年も例の如く「平和の誓い」なるものが宣言された。いまグーグルで探したら適当なものがなかったので、だいぶ古いものを引用する。「広島平和宣言(昭和57年)
燈燈無盡‐ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。」http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/hiroshima-j/etc/20040305org00m040995000c.html
ここでは、「ヒロシマの平和の心」というのがアプリオリに置かれている。ここには「天理はすでに人に与えられて内在するものであ」るのだという前提と、したっがって私たちがしなければいけないことは「それを自覚にもたらす」ことつまり平和教育、「教えであり学問にほかならない」という方法論がある。これって闇斎主義そのものではないか。とちょっと思った訳であります。
わたしはこれまで戦後平和絶対主義を、宣長の思想や京都学派など色々なものと似ていると強弁してきました。わたしの主張は飛躍と矛盾ばかりだといわれるでしょうがもうちょっとがんばって材料を集め、数年がかりでなんとか話をまとめたいと思っています。
ところで、「ヒロシマの平和の心」とは何だろう。我が家を中心に都会がすべて荒野になったときひとは何を思うのだろう。一つは「戦争遂行は間違いだった」という思いだろう。NHKの番組に出てきた広島市の課長さんなどは当然国家の戦争遂行を下部で職務として支えていたわけだ。彼は私のしてきたことは間違いだったと娘に懺悔する。儒教的には政治は民の生きることを支えるためにあるのだから、彼の懺悔は当然だ。だが平和とは何か。国家は戦争する権利はないのか。そうだ国家は戦争する権利はないのだ、と彼は考えただろう。日本国家は戦争する権利がない。アメリカも中国も、そして日本人の少なくない部分もそう考えた。だが三者の考えたことは(もちろん?)三者とも全く違ったことであった。そして59年後、ヒロシマの中学生は何を「平和」といっているのだろう。わたしにとって平和とは何か?それは自衛隊と米軍に守られた欲望資本主義の現状のことではないのか。それとは違う何かがある、と私は言えない。だからわたしは「平和」という言葉を肯定的に使っていくつもりはない。
戦争の不在を求めることが、国家による国家に至らないエスニックグループや個人に対する抑圧を放置することを伴ってはいけない。対北朝鮮融和主義には反対しなければいけない。
*1:isbn4-8315-5043-9 同書p39-40
小さな神たち
記紀で興味深いのは、理解できないような異様な音のつながりをもつ言葉(神の名前など)たちである。神話体系としては主神が誰でそれに次ぐものが誰なのかというヒエラルキーが不分明だ、と指摘できる。
古事記の最初の神々を木村紀子氏の整理により記してみよう。*1
1.天之御中主、天之常立神(とこたちのかみ)、国之常立神、
ここだけにしか名がみえない抽象観念的な独神、三神。
2.高御産巣日神(たかみむすひのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)
別天神で「隠身」といわれながら、後に天照大神と並び高天原の神としての存在が語られる二神。
イザナギ(伊邪那岐)、イザナミ(伊邪那美)
3.ウマシアシカビヒコジ神
ウヒジニ(宇比地邇)、イモスイジニ(妹須比智邇)
ツノグイ(角杙)、イモイクグイ(妹活杙)
オオトノヂ(意富斗能地)、イモオオトノベ(妹大斗之辨)
オモダル(於母陀流)、イモアヤカシコネ(妹阿夜訶志古泥)*2
全く地上的で卑小な具象形容をもつ神名のグループ。
3のグループは名前が出るだけで何の活躍もしないのですが、高貴そうでない奇妙な名前は興味深い。
1.のグループは、3.の感覚とは全く違った高い抽象性を操る能力(中国由来のものだろうが)をうかがわせるもので、3.よりかなり後代に追加されたものだろう。富永仲基の「加上説」の好例だと思うが、そう主張したひとはいたのだろうか。
*1:p58『古層日本語の融合構造』平凡社 isbn:458240328X
*2:豊雲野神は例外とする
(8)男女に差はある(10/28追加)
Cman 『あなた(方)の考えは、男女に遺伝的な違いがあるならそれを矯正すべきだということでしょうか?それとも遺伝的に違いはない、つまり、人間は空白の石版だと信じているということでしょうか?』
えーと。xyとyyだったかなとよく分からなかったので(恥)、
http://homepage2.nifty.com/kimura-c/topics/seibunka030309.html 性分化の機序 と言うところを見て勉強してみた。
(23,X;22本の常染色体と1本のX性染色体を含めて合計23本)
(23,Y;22本の常染色体と1本のY性染色体を含めて合計23本)
精子にはxかyか二つの可能性があるが卵子はyだけ、で授精で性が決定される。(例外はある。)つまり男女に遺伝的違いはあるでしょう。それで・・・
統計的な男女差とは例えば男女の平均年収の差とかだろうか。その差を「遺伝的に説明できる」とするその理屈が分からないのだが?
何故病院を襲うのか?
ファルージャで一般市民に対して何が起きているのかを考えるとぞっとする。4月のやり方と同様に,米軍はファルージャ総合病院を襲い,病院を町から切り離した。4月と同じように,彼らは医療サービスを断ち切った。またひとつ,戦争犯罪を犯したのだ。
http://teanotwar.blogtribe.org/entry-bf969607c15436ebd7b359765e6c65bf.html Falluja,
米軍は封鎖したファルージャ市を包囲し、市の壊滅に乗り出す準備を行っている。米軍は今や路上を移動するものはすべて攻撃対象とし、屋外に出た15から55才の男性はすべて、躊躇することなく殺害する、と市民に通告した。
[ANSWER] ファルージャの民衆と共に立て より
自衛隊派遣延長反対
コリン・コバヤシさんから、パレスチナ・フォーラムというMLで来たアブデル=アミール・アル・リカービ(イラク民主的国民潮流)からの手紙。
長いけれど連帯の意志をこめて、転載します。
リカービ氏の意見に全面的に賛成だといえるほど、わたしはイラク情勢に詳しい訳ではありません。が、妥当な意見ではないでしょうか。
イラクの安定のためには、1月の選挙を成功させなければならない、とするアメリカ側の意見が日本でも浸透しているようです。しかしそこに民主主義を実現しうるのでしょうか。イラク国民の意思がアメリカ軍の撤退であったときに、議会はその意思を反映しうるのか? できないのなら、選挙を成功させても無駄ということですね。
とにかくわたしたちは自衛隊の駐留延長反対!!を大声で叫ばなければいけない。
グローバル・ウォッチ@コリン・コバヤシです。
CONDI(イラク民主化国民潮流)より、今日の自衛隊撤退要求集会に向かって、メッセージが出されました。複数のMLなどにBCCにて送ります。重複ご容赦下さい。以下に掲載します。転載可です。
____________________
イラクの現況を御伝えしましょう。
ファルージャ攻撃の実相は何か。
ファルージャはバグダッドから65キロ西にいった、砂漠が始まる入り口の人 口30万ばかりの小都市です。ファルージャは多少の放牧業と公務、とくに若者が服務している軍隊以外の仕事がない町でした。若い兵士でよく教育されたものは軍人学校に行き,士官となるのです。町はいくつかの小さな集落に囲まれており、それらはファルージャと生活面で密接な関係を持ち、とくに、家族関係を持っています。すべての住民は2-3の大きな部族に属しており、以前は遊牧をしたりしていましたが、その地域のバディア・アス=シャム砂漠の反対側のヨルダンやシリアと密輸入を営んでいたのです。それゆえ、シリアやヨルダンの部族とたいへんつながりが深く、それは部族ルーツの延長とも言えるのです。ということは,同時にこの地域では、部族的な連帯感が非常に強いし、サダム・フセイン政権の石油の思いがけない賜物によって,福祉国家となったずっと以前のことです。このように前置きを長く申し上げるのは、ファルージャがどのような町か理解していただきたいからです。
サダム・フセインは資源の欠乏を非常にうまく利用し、部族的な側面では、この地域を軍への志願者たちの宝庫にし,また体制の基礎に利用したのです。そして、野望を持ったこの地域の士官の一群が現れたときには、厳しい弾圧を加えたこともあります。ですから、この町を旧体制の根城だという説は、ひとりのザルカウィなるものが、低い鼻でこの地域の大きな部族を率いている,という説と同様に、根拠が薄いのです。たしかに、ファルージャには、経験を積んだ士官、兵士が沢山おり、部族の絆が強いのです。こうした事実によって、アメリカ軍に対して,抵抗する能力と意志、そしてイラク人以外のある程度の数のアラブの戦士がいることを説明できるのです。しかし、あくまでもそれだけのことです。
アメリカ軍はファルージャに対して、常軌を逸脱した大きな攻撃を仕掛けました。大半が3階建てのレンガ作りの家で構成されているこの小さな町は砂漠の真ん中にあるのです。アメリカ軍は、この攻撃を予定通りに行いました。それはイラク民衆全体を恐怖に陥れるのを目的とする戦略なのです。ファルージャにおいて,言語同断な武力鎮圧を行い,アメリカ合州国は、イラクの残りの部分すべてが降参して、アメリカのプレザンスが打ち勝つことのできない宿命として受け入れることを期待しているのです。これこそが、殺戮するための意志が実行されたファルージャの真実です。公式にはイラク政府は2085名の死者と1600名の捕虜をあげていますが、イギリスの情報は犠牲者の85%が民間人であると伝えています。「公式には」、アラブの戦士は前夜に逃げ出しており、そこにはいなかったことになっています。今、アメリカ軍は彼らを捜して、モスル、マフムーディイヤ、サマッラ,そしてバッソラなど、南部でも追求しています。迷子になった犬や猫が、住民の死体、男、女,子供の屍骸を食べ歩いている、というのが真実です。民間支援や医療支援が町に入ることは、故意に禁止し、市内に配達することを無限に遅れさせているのです。テレビで放映された人のみならず,複数の負傷者たちが故意に殺害されました。このような惨さは計算済みだというべきでしょう。軍事行為の規制される限界はなく、やり放題なのです。すべてが屈辱を受け、アメリカ軍によって寺院は破壊され,荒らされ、そこを兵士の休憩場所にしているのです(軍靴を履いた兵士たちが武器を持って寝ているアメリカ兵たちの写真をすでにテレビでみたことでしょう)。虐殺と侮辱、恐怖が、予防的、永続的戦争の武器です。「我々と一緒でないものたちすべては我々の敵である。我々に反対するものはどのような運命が待ち受けているか知るべきだ。死か、さもなくば逮捕だ」と、ファルージャ作戦の始めに、バグダッドで、アメリカの高官が表明しています。
抵抗運動の現状は?
数ヶ月前は,シーア派の聖都ナジャフが攻撃されていました。明日は、ファルージャと同じ虐殺がイラクの他の都市でも見いだされることでしょう。イラク人民が服従するのを拒否する限り、抵抗運動は移動しつつ、あちこちで起こるでしょう。そして弾圧も巡回しながら行われるでしょう。テロル(激しい恐怖)は、イラクのように占領され略奪された国を平和にすることはできません。提案されたもう一つの政治は、国全体のコンセンサスも得られない傀儡政権の受容でした。この政府は、選挙という政治的なプロセスを開始したいと言いつつ、非常事態宣言を発令しているのです。そのうえ、これに参加することを拒否することは、戦争行為と同じだと見なしているのです。以上の名目の元に、また政府のいう<政治的なプロセス>に無理矢理参加させるために、ナジャフで、ムクタダ・サドルに対する作戦を行ったのです。しかも、立候補と選挙の方法は、すべて封印され、事前に形が整えられ、つまり偽造されています。
この10日間くらいの間に起こったあらゆることにも関わらず、イラク人民は押しつぶされることもなく,無気力状態に陥ってもいません。イラクの抵抗運動は、とりわけ、占領と傀儡たちに対する一般化した民衆的な拒否の現れです。抵抗は増幅しており、シーア派であれ、スンナ派であれ非常に多様なイスラム教徒の小グループに属しているものから、バアス党(必ずしもすべてが旧政権に忠実なものばかりではない)関係から、偶然的な関係で地域的に立ち上がった無数のグループがあります。抵抗運動は,始まったばかりであり、統一的な組織体系はまだできておらず、戦略は明確化されていません。それゆえ、現場で起こることをすべて総合的に把握できてないのですが、統一的な抵抗戦線と政治意識を作る必要性をみな感じています。というのは、アメリカ軍を相手に、抵抗状況が爆発的に発生している事態が止まないとするなら、質的転換の緊急な必要性も感じており,そのための努力をしている最中です。
アラウイ政権について:
現在のイラク政府は、間違いなく傀儡政権で,アメリカのゲームを演じているのです。彼らのアメリカに役立つ作業を行っている。占領者によって作られた、あるいは協力する現場の政権なく占領することなど,今まであったためしはありません。サイゴン政権なくして、アメリカはヴェトナムに介入したでしょうか。これは主権を持った独立国家となるための<中間的>な、あるいは<過渡期の>政府ではありません。これらの言葉によってアメリカ政府が意図しているものは、現状をより安定的に、より正当化するためです。これはページをめくって全く新しいものを作り出すのではなくて,現在ある状況を強固にすることだけが意図されているのです。もし,選挙があるなら,そのことが目的です。選挙は、恐らくあちこちで勃発する抵抗運動で、延期され,実行することはできないでしょう。もくろまれている選挙は<民主的に>占領を主題にしているからです。恐怖を引き起こす攻撃は、イラク人たちに、もう希望はないのだと説得しようとしているのです。それゆえ、今、ファルージャで、このようなやり方で虐殺があったのです。
しかし,それはイラク人が望んでいることではないし,満足できることでもありません。8月にあったベイルートでの憲法制定会議準備会議はイラクのあらゆる潮流の代表者たち350名が集まり、憲法制定会議設立の必要性を主張し、この会議こそが政治的プロセスを行うのであって,傀儡政権ではないことを確認しました。憲法制定会議は,一つの政党ではありません。また複数政党の戦線でもなく、これは、多くの貧困と独裁政治、長い戦争と、最後には占領に取って代わられた禁輸処置の後、イラクの政治生活に初めて生まれるはずの基礎的な議会なのです。この会議を支持する署名運動が現在、全国で行われており、この憲法制定議会設立への要望を国際機関に提出し、イラク人の意志を考慮するように、また憲法制定会議実現を支援するように要請する予定です。多くの民衆的運動は、私たちのオルタナティヴな提案を支持するでしょう。
最後に日本の皆さんに肝心なことを申し上げましょう。
私たちは、イラクの領土における自衛隊のプレザンスは戦争行為にあたることを、またこのプレザンスは占領に加担している行為であるとはっきり言いましょう。それは、昨年派遣され,現在駐留し、これから、派遣延長することを考えている現時点において、明らかなことです。暴力行為や、侵略行為、攻撃や虐殺をしていないとしても、このプレザンスの意味は一向に変わりません。というのも、自衛隊が何の攻撃を受けないと保障するものは,何もないからです。自衛隊が配置されている地方が,いつ何時、攻撃が発生するかも分からず,もしそれが起これば、自衛隊は余儀なくその動きに関与せざるを得なくなるからです。いずれにせよ、イラクにおける皆さんの国の軍事的プレザンスのせいで、日本がイラクに敵意を抱いていると解釈されているのです。日本の民間人は、彼らが政府と関係有る無しに関わらず、時には政府に反対の立場であろうが、拉致され、幽閉され、時には殺されるといったように、イラク人から敵意を持って扱われています。私たちは、常に、これらの行為を厳格に非難し、拒否してきました。残念ながら、私たちCONDIは,いつもこれらの日本の民間人をすべて救い出すことがきませんでした。彼らの苦しみと彼らの喪失は悲劇であります。イラクにおける日本の軍事的プレザンスとそれを決定した日本政府に責任がありますが、しかし、これらの犯罪の重みは、イラク人民の肩に、我々イラク人の意識にのしかかってきており、私たちは二重に苦しむのです。すなわち、占領行為とその行為がもたらすいくつかの結果です。日本の兵士たちが,宿営地に隔離されて何もしていないのなら、なぜ,そこにいるのでしょうか。アメリカ政権を喜ばすためなのでしょうか。日本はそれほどまでに、アメリカに服従しているのでしょうか。イラク社会にたいして、人道支援をおこなうために、私たちに報道されているように、水道工事や病院や学校建設をしつつあるというのでしょうか。もしそうなら、軍隊である必要性はありません。2003年12月,私がCONDIのスポークスマンとして日本を訪れたとき、日本政府に提案したように、友情と連帯に基づいた日本の民間のプレザンスこそが、必要なのです。
今、日本の軍隊はイラクから立ち去るべきです。自衛隊の派遣期間の更新をしてはなりません。
アブデル=アミール・アル・リカービ
(イラク民主的国民潮流)
漢字袋
というサイトを見つけた。
だいたいどんな漢字でも出るようだ。簡単な意味もついている。すごい。
(コピーアンドペーストはできないが。)
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/
# 漢字袋は安岡孝一と安岡素子が共同で製作中の「コンピュータ異体字典」です。
# 日本・中国・台湾のコンピュータで常用される漢字とそれらの異体字を、異体字群ごとに各ページにまとめています。
# 日本の漢字は音訓で検索可能です。 JIS X 0208のひらがなで入力して下さい。
# 中国の漢字(簡化字)は音で検索可能です。声調符号や「¨」は除いて、ASCIIの英小文字で入力して下さい。
# 台湾の漢字は総画数で検索可能です。 ASCIIの数字で入力して下さい。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/CJK.html
Character Tables by Koichi Yasuoka
こちらを見ると膨大な漢字をただひたすら眺めることができる。
ところで中華人民共和国の文字コード、GBコードは2001年から(GB18030)になっている。漢字27,484字、で現在中国国内での情報機器への搭載が義務付けられているらしい。
http://www.dynacw.co.jp/dynafont/oemWeb/psgi/g1/gb18030.htm
GB18030 font information
(参考)文字コード入門
より高次の正義の存在
民衆法廷の主催者の立場と「東史郎裁判」についての孫歌の立場には、前者が「法的な手続きにのっとっていない(非正統的な」パフォーマンスを弁護し、後者が「法的な手続きにのっとっている」はずの判決を批判する、という違いはあるものの、「法」の外部にある「正義」の基準に照らして現行の(日本の)法体系を批判している、という姿勢では共通しているように思われるのだ。これはなにもこの両者に限ったことではなく、ポストコロニアリズムの立場から現行の(先進国の)民主・法治・自由の欺瞞性を批判する議論は、どうしてもこういったより高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢から免れていないのではないか、という気がする。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050123 梶ピエールの備忘録。
民衆法廷が「「法」の外部にある「正義」の基準に照らして」ものごとを裁いたというのは当たっていないでしょう。単に日本の裁判所で適用されるべき法より若干広めの「法」を基準にして裁いた、というだけのことでしょう。*1 とにかく「正義を模索すること*2」を、すぐに「より高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢」と言いかえるのはやめていただきたい。
*1:判決を読んでいないので詳細には論じられないが
正しく「暴力的に振る舞う」
# N・B 『 どうも、星野さんの引用が出ていたので思わず日ごろの鬱憤が出てしまいました。おかげでかなり話がずれてしまって、相手の批判に答えられくて逃げ回って、贅言を費やすみっともない人みたいになってすいません(最近見かけたので)。
まず、アレナスについての基本的事実、彼はキューバ革命後『夜明け前のセレスティーニョ』で作家としてデビュー。しかし、その後当時のキューバの同性愛抑圧政策によって(現在は少しは変わったようですが)、出版ができなくなり投獄も体験し、1980年に亡命、その後はニューヨークで生活するが、1990年に自殺。遺著は自叙伝『夜になる前に』(すいません、まちがってました)。最後のラテンアメリカ文学の「ブーム」の作家だといえるでしょう。
2、ですが私が星野さんの「紹介の仕方」(映画は国境を越えるとでも言い訳すればごまかすのは簡単なのに)は、やはり、現体制へのコミットメントを含んでいると判断します。その傍証として、チェチェンについての本の感想を対比したのです(こちらはロシアの現体制への明白な批判です)。これはあくまで私の判断です。ちなみに、私はアレナスは明らかにプロパガンダをしていたと思います(自叙伝を読む限り)。でも、彼を批判する権利は私にはないと思います。
補足しましたが野原さんの理解は正確だと思います、わかりにくいこと書いてすいません。
>その前に、アレナスのキューバ~反共
そうです、でもマッカーシーとソルジェニーツィンはあるレベルでは区別されるべきだということですね。古いものは何度でもよみがえるので。
とりあえず、マッカーシー(あるいはロイ・コーン)と「対話」あるいは「議論」することが必要となってくると、しかしそのときに「従軍慰安婦」や「アレナス」のような声はあると、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」と相手が主張しても、そのこと自体を批判することは単純にはできない、なぜなら、私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。その前提の上で正しく「暴力的に振舞う」にはどうすればいいかを考えるということになるのではないかと思います。今回は補足ばかりですいません。
ちょっとこれは質問ですが「反共」というのはヒットラーやレーガンから2ちゃんまで由緒ある政治的立場ですが、たとえばその下の星野さんの引用のように何かの力に言葉を使わされているとお考えなのでしょうか?(私はそう考えているので)』
またまた応答遅れてすみません。アレナスについて全然知らないのでちょっと書きにくいです。
キューバとチェチェンの比較についてですが、もちろんこれについても無知なのですが、常岡さんがとにかくチェチェンはイラクの十倍以上人が死んでるとか強調していたのを思い出しました。キューバも封鎖された国家みたいになっているからひとは結構死んでいるかもしれないけど、でもチェチェンの情況は十倍ひどい、というようなことがあるのかな、とおもいました。応えに成っていませんが。
「従軍慰安婦」問題というものはすでに日本国家が存在を認めているものですね。ですから、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」という主張はおかしいことになります。ありうるとしたら、「契約によるもので支払った」という形くらいですね。
「私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。」もちろんそうだと思いますが、「ある部分」というのがどういう部分なのか、それが問題なんだと思っているなら言えばいいじゃないと思うのですが。
何かの力に言葉を使わされている、というのは反共、親共といったシーンで使うと平板に理解される危険がありますね。わたしたちが本当に困ったときも人権や差別という言葉を使って裁判に訴えたりもするわけですが、そのときわたしたちの思いは非常に遠い言葉たちを使ってしか表現できない。逆に小説やブログを書いたりするときは全く拘束なく自由に書けるのだが、実は誰かの口まねをしているだけの自分に気付く。慰安婦言説なんて典型的にステロタイプな左右の言説が行き来するだけの退屈なゲームと思われていましょう。でも今回やってみていろいろ考えることがあって面白かった。
(2/13 21.39追加)
問題
誰の文でしょう?
子を生むの一事は人も鼠も異なることなし。