N・Bさん発言(5回目)(1/27 19時)

1/29夜ここに上げる。

# N・B 『 ご返事ありがとうございます。前提の確認はヤッパリ必要ですね。今回、私は最初からNHK問題に関心を持っていたので、民衆戦犯法廷に話がずらされること自体が「不快」だったのです、しかも「法学者」がそれを「法学」の知識を使って支援しているのでちょっといらだっていました。ただ、このあたりは田島さんの介入で大分変わりそうなので、「法哲学」の議論を含めきちんとしたことはそちらを参照してください。

 ですが、責任理論については答えなければなりません。私は、例えば東京裁判での松井大将が不作為の責任を問われて処罰されたことや、公害裁判など、現代の司法の場には強い責任理論(そうは名乗らなくても)が相当入っているのではないかと思います、

天皇の責任は曲がりなりにも近代社会に生きていた以上先にそのレベルで問われるべきではと思います。ただ、民衆法廷の側の意図はそうではないかもしれません、おおやさんが書かれたことはその意味で妥当かなと思います。

 で、もうひとつですが「強い責任理論」という言葉は、責任のインフレーションというフレーズの説明のために出しました、ですからこの場合に適用するのはちょっと…。ただ、私は法学は本当に素人なので具体的にはわからないんですね。その点は「専門家」に期待するしかないんです。

>N・Bさんの発言は

 全くそのとおりです。もちろん、それとは別に政治的・モラル的「右左」があることも確かだと思いますが。

 「天皇有罪」と「著しく正義に反する場合」を結びつけることは、法律的にはともかく歴史的・思想的には興味深いことですね。

私は「天皇」の罪を問わないことは、むしろ合衆国が決めたことだと思っています。そこでの合衆国の決定が、戦後・高度成長以降の日本人の行動の前提ではないでしょうか。日本人の「ねじれ」は主体性は確立したいけど、高度成長の成果は手放したくない、それを不当に手に入れたのではないかという不安を消し去りたいという衝動があるといったところではないかと思います。バブル崩壊以降に表面化したのもそのせいだと思います。

 

>野原燐の立場。

 1については重要ですね、「具体的他者」というところは、抽象的他者を想定してしまいがちな私(だけじゃないね)には痛いですね、ただ、生活上の「他者」(がいない)という問題も私にはあるんですが。

 もうひとつ、デリダの場合は「正義」「他者の声」は常に切迫したものと想定されるところが重要だと思います。

 2についてですが、権利はなくても義務はあるということはあります。それに「おせっかい、興味本位の自由」という問題があります。あえて権利といいいたい気もするんですね。

 3については上の「ねじれ」を前提にした上で興味があります。野原さんにはぜひもっと突っ込んでほしいです。期待してます(えらそう)

 ところで、田島さんがおおやさんにしたコメントでの「法実証主義(純粋法学)」ですが、自然権のような法の外の正義を認めないこの思想(有名なケルゼンが「純粋法学」を唱えました)は結果的にナチスを手助けすることになってしまったわけです(ラートブルフなどの批判)、厄介なのは、カール・シュミットはケルゼン批判者だったわけです、どちらも法治主義の維持という目的を共有していたが、シュミットはナチス体制を支持し、ケルゼンは亡命するはめになったわけです。(このあたり、百円で買った「法思想史」の引き写し)。

 要するに、法を超えた正義というのは非常に「コンテクスト依存的な」厄介なものなんです。私は、社会状況と思想のかかわりはに強く興味を持っています。ただ、まだまだ勉強しなきゃいけないことは多いです。

 ところでデリダと法学は「批判法学」と一括される学派で結びついています。でも、この学派の入門書など全くないようです。私は主に「20世紀の法思想」中山竜一に頼っています。

 どうも、焦点の絞りきれない返事ですいません。では。』

虐められたから開戦に至ったのではない

時代の空気は変わり、日本の右傾化は留めようがないのだろうか?

 長期不況とあいつぐ危機に痛めつけられて、人々の心は傷ついた。情緒不安定で自己愛に満ちたナショナリズムを呼び起こした。この気分にとりつかれると、戦前も今も、国際認識が歪む。

http://www.ceac.jp/j/column/backnumber.html

 満州建国は絶対悪であると中国は主張する。わたしもだいたいそう思う。だが読者の皆さんはそう思いたくなければ思わなくても良いとわたしは思う。だが、「なかった派」のようにナルシズムにふけり、事実から全く乖離した歴史像をもてあそびはじめるのは、日本の遠くない過去の歴史に照らして危険!であることははっきりしている。

 満州事変以後、もし日本が国際協調的な外交路線をとれば、日本は全面的破滅を招かずにやってゆけたであろう。しかし満州事変の「成功」を見て軍人の後輩たちは先を争って大陸への軍事の進出を繰り返すようになった。対外強硬論と軍事力の発動が国益に適う立派な行為と国内では称賛された。国際協調論や他国の意向を配慮しての慎重論は愛国心を欠く「非国民的」な議論として侮蔑された。こうして30年代の日本はブレーキのない対外強硬論の社会へと傾斜した。

 言うまでもないが、国際社会は日本のそうした認識も行動も受けいれない。軍事侵略を受ける中国をはじめアジア諸国が悲鳴をあげ、反日感情をつのらせるのは当然である。西洋諸国にとっても、日本がアジアを排他的に支配するのは許せない。英仏蘭など既得権を持つ国にとって、それは脅威であり、米国も日本の暴挙に怒った。対中強硬論は、ドイツなど一部の粗暴な現状打破国を除く「世界を敵とする戦争」へと連なったのである。国際認識と対外行動の逸脱が日本を亡ぼした。

http://www.ceac.jp/j/column/050209-2.html 五百旗頭真

以上は高校の教科書に載っていることと大差ない。したがって引用する必要もないわけだが、そのような常識に反することを言い立てることを喜ぶひとが一部にいるため念のために引用する。

五百旗頭真さんは政治学者です。本は読んでいません。決して左翼ではない。

生きて虜囚の辱めを受けず

 従軍慰安婦テーマについてなどまとめたいを思いながらうまくいきません・・・

 さて今回は、「大東亜戦争」の一こまを扱う。

http://www.iwojima.jp/data/data2.html 硫黄島戦の経過

から抜き書きすれば、

1944.7.7 サイパン島玉砕。南雲忠一海軍中将以下約4万名、在留邦人約1万名が戦没。(人数には諸説あり)

8.3 テニアン島玉砕。角田覚治海軍中将以下約5000名、在留邦人約3500名が戦没。

8.10 グアム島玉砕。小畑英良陸軍中将以下19,135名戦死。米軍はマリアナ諸島を手中にしたことで、本土空襲の拠点を確保。途中にある日本の航空基地は硫黄島だけとなる。

別の本の巻末にマリアナ攻防戦関係年表がついていた。グアム島についての最後の処だけ抜き書きしてみよう。

1944.8.10 

●小畑軍司令官、天皇と大本営に宛てて訣別電報打電。グアムとの連絡途絶。

1944.8.11 

●小畑軍司令官、又木山で自決。日本軍の組織的戦闘終わる。

●この後、日本兵、小グループに分かれ、密林内で終戦まで抵抗を続ける。

●武田参謀、10月末時点での日本軍の残存兵力を2500名と推定。

●1945年9月4日、武田参謀を長とする日本軍降伏。生還者1250名。

●戦闘開始時のグアム島の日本軍2万810名、戦死1万9135名。

●グアム島攻略の米艦船600隻、飛行機2000機。上陸した米軍5万4891名。戦死1290名。戦傷5648名。

(p445『私は玉砕しなかった』横田正平 中公文庫isbn:4122034795

 まず、戦死者の数を比べると、米軍1,290 に対し皇軍19,135 と約15倍になっている。15:1といえばもはや戦争ではなく一方的虐殺に近い。実際は虐殺というイメージとも違う。日本軍は食糧もなく武器も少なく早い時期に戦闘能力といえるほどのものを失っていた。しかしながら、皇軍には悪名高き「生きて虜囚の辱めを受けず」という命令(戦陣訓)があり、飢えてよろよろになりながらも降伏することができなかった。戦争シミュレーションゲームでは糧秣を取られたら次のターンで戦闘は終わる。しかしグアム島の場合、死ぬ以外のゲームオーバーは許されていなかった。7.25に組織戦闘力の大部を失い、7.28に高品師団長戦死、そして8.11小畑軍司令官自決となっても、とにかく終わる方法がないので、生きている限り闘い続けなくてはならない。約二千五百人がジャングルの中で生きのびようとした。一年間経ち半数が生還した。最後に餓死または病死していった千人は、天皇陛下の為に死んだといえるのだろうか。戦争で敵から殺されるのは仕方がない。しかしジャングルをはいずり回ったあげくに餓死するなんてことまでしなければならないとは天皇陛下も想定しなかったはずだ。いくら最終戦争ををうたおうがそれは目的のレベルの話であり、戦争というのはやはり有限性のゲームでしかないはずだ。「生きて虜囚の辱めを受けず」という命令は、近代国家の誇り(自らの国は自らで守る)え根底的に支えられるべき軍というものを、全体主義的宗教性に支配されたそれに変質させる。

 餓死または病死していった千人が肯定されるなら、生還者l250名は何処に生還したのだろうか。日本が負けることはありえない、そういう理屈の中で彼らは死んでいったはずだ。日本は継続している、天皇すら代わらずに。それでも、「彼らは日本のために死んでいった」と言いつのるのか。一度滅んでから出直してこい。

 わたしたちは戦後平和国家になったので、「生きて虜囚の辱めを受けず」だけを限定的に批判する作業を怠ってきた。戦後60年、亡霊を祀りおさめて消滅させるべき時期だが逆に、すべての戦死者たちが立ち上がって歩き出そうとしている。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

難民とアイドル

# hal44 『またちょっと書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050325

基本的なところでは異議があるわけではありません。

ただ、相互の思想の差異を確認するために少し書いてみます。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。

(野原)

 現在多くのプチウヨとかが口にするのは、被害者としての「横田めぐみ」です。日本人少女めぐみさんが無垢な被害者であり、彼女に対する加害者として「敵」=金正日一派=北朝鮮国家が名指されます。このような排外主義は私にとっても不快なものです。ですがそこで思考停止して良いのでしょうか。このごろ思うのは、めぐみさんというのは「日本人」というより「難民」である、ということです。彼女が失踪してから20年近く、少しは気付きながら日本国(外務省)は、国家と国家のつき合いを重んじて、一人の日本人の運命に深く関わっていこうとはしませんでした。それが数年前から家族会、救う会とかができて、少しづつ世間の注目もあつまり、ようやく現在のような(そういう言葉を使うことが許されるとしたら)国民的アイドルに成ることができたのです。世界中でひどい目にあっている女性たちはたくさん居り、めぐみさんにだけ注目することが正しいわけでは無いのは言うまでもありません。しかしいまでは有名になった「めぐみさん」自身たった2,3年前までは国民的レベルでは誰も知らない、見捨てられた存在であったわけです。めぐみさんを見捨てたまま知らん顔を続けるのが正しいわけではない、と言うことには同意いただけるのではないでしょうか。とすると、次の問題は、「めぐみさんに多くの人の関心を集める方便としてナショナリズムに訴えること」の是非です。これは例えば、韓国人慰安婦某女にできるだけ多くの人の関心を集める方便として韓国人ナショナリズムに訴えること、とパラレルな問題です。

 わたしはこのような方便を肯定すべきだと力説したいわけでは別にないのですが、全く無視すべきだと言うことにもならないと思っています。

またこのブログはいまヘッドに「米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。」という文を掲げています。パレスチナ人は毎日のように殺されているのに、何故パレスチナ人ではなくたまたま殺されたアメリカ人の名前を掲げるのか、という問題とも関わる問題にもなってきます。

 以上の話は、狭義のナショナリズムには関係ありません。ナショナリズムに類似のアイドル利用の大衆動員方法みたいなことをどう評価するかという問題です。

誰が式典をぶち壊したのか?

(野原)

fantomeyeさん

「難癖つけて式典をぶち壊す大人のほうがよほど迷惑です。」と言われるが、azamikoさんはもちろん、去年今年処分されたたくさんの教師たちのうちで、「式典をぶち壊す」なんてことをした(できた)人は一人もいないです。

万一いるのだったら教えてください。前の日に手紙を渡しに行ったり、黙って座ったりしただけでしょう?

 式典の「粛々たる」進行が、妨害された例をまず挙げてください。

それがないのなら、普通の生徒なら何も問題は無いはずです。あなたは最初からイデオロギー的な過剰反応をおこしているのに、それをうまく無垢な生徒であるかのように偽装しているだけだ。と私には思えます。

「女性国際戦犯法廷」なるものを真面目に取り上げるひと

# drmccoy 『TBありがとうございました(?)。私如きどこの馬の骨ともつかぬ人間の文章を丁寧に引用していただき、誠にありがとうございます。ただ、 noharraさんのこの部分を拝見しますと、他サイトからの引用とそれに対するnoharraさんコメントのみですので、ご指摘の意味が私程度の人間には理解し難く、質問されているのか吊し上げられているのかもわかりませんし、「女性国際戦犯法廷」なるものを真面目に取り上げられている様子から、おそらく相互理解や議論は不可能とも思えますので、具体的なコメントは遠慮しておきます。』

(野原)

(1)「女性国際戦犯法廷」なるものを真面目に取り上げるひととは、相互理解不可能。という判断をされるのですね。貴ブログタイトルに「非論理的な世界」とあって?でしたが、あるテーマについて「まじめに取り上げる」ことを非とされる考えの方とは思いもよりませんでした。

(2)

「過去を反省しない」を否定しておられるようですが、それではどのように「反省して」おられるのでしょうか?

(3)

「日本人の慰霊の概念、だれであろうが死ねばみんな神様仏様であるというおおざっぱな感覚*1」についてはここで肯定してみましょう。そして、靖国参拝を父親の墓参りと同置する。

即ち政治的行為の思想性方向性が問われているのに、「わたしの心情の善性」でもって応答している。これでは他者の理解を得ることが出来るわけがありません。

靖国神社とは「日本の国を守るために、斃れた人達を祀る」ための神社です。大東亜戦争の少なくともその一部が間違っていたことは明らかです。それを日本が認めることで日本は国際社会に復帰し得たわけです。「大東亜戦争の少なくともその一部が間違っていた」のかそうでないのか、いずれにしてもそれは現時点での国家日本のメッセージとして他者を説得すべく発せられなければならない。それがないわけですから戦前への回帰としてヒステリックな反応が起こってくるのは、いわば当然です。

*1:大量殺害者宅間某なんかもだな?

「存在様式の変革」とは?

 松下昇は模索した。「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する*1」ことを。「任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する*2」という明確なヴィジョンを持って。

 「大学闘争は、たんに、虚偽にみちた大学の機構や当局者たちだけを批判してきたのではない。もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と格闘してきたのである。これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。*3

“もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体”。わたしは矛盾に包まれている。わたしたちは矛盾と闘うすべを知らないが、それがあることだけはありありと感知している。わたしたちの平穏な日常は一瞬にして、出口の見えないホラー映画のごとき暗鬱に包まれる。松下に近づこうとすることはそうした体験であるのだろうか。

 ・・・・

松下昇は私に最も近い思想家、テキスト作家であるはずである。であるがまた同時に〈ひどく遠い〉タブーの存在でもあるのだ。彼に接近する事に対する障壁は無いはずなのに、どこかでそれをむしろ作っているわたしがいる(ようだ)。わたしの問題はちょっとおいておいて、とりあえずすることができる(しなければならない)ことがあるので、していきたいと思う。*4

「男尊女卑は我が古俗」ではない

其の俗、国の大人は皆、四,五婦。下戸も或いは二,三婦。婦人淫(みだ)れず。トキせず。

(魏志倭人伝)

(習俗として、上層の者にはみな、四,五人の妻があり、下層の者にも時には二,三人の妻を持つ。婦人は淫らでなく、嫉妬しない。)

上層の男は多くの妻を持つが、沢山の下層の男は妻を持てない、というのが、一夫多妻制の社会である。伝の通りだと女の数がよっぽど多くないと計算があわない。

 ところで、1910年の白鳥倉吉「倭女王卑弥呼考」という論文は画期的なもので現在まで影響を与え続けているらしい。

彼は「大人は皆、四,五婦。下戸も或いは二,三婦」を引いて、こう書いた。

此の如く男尊女卑は我が古俗なりにしも拘(かかわ)らず、(後略)

しかしながら、明らかに矛盾を孕んだ断片から一方的な断言だけを引き出してくるのは無理がある。

また「男尊女卑は我が古俗なり」も「夫婦の制が判然と確立」していることも、明治の皇室典範制定に際して、女帝否定論者によって繰り返し我が国の“伝統”として持ち出されたことであった。

p195『つくられた卑弥呼』義江明子ちくま新書 isbn4-480-06228-9

「皇室典範制定に際して」のところを急いで読むと、「明治の」を飛ばして現在の議論と勘違いしそうだ。世の中には「一夫多妻」と聞いただけで涎を垂らすスケベオヤジもいる。しかしながら現在の自己の欲望を直ちに「伝統」「歴史」と言いかえることに自己の学識と知力を(あるいは無意識に)傾けてしまう学者先生に比べれば、そのイノセンスは愛されよう。

(『つくられた卑弥呼』は良い本ですよ。)

二・二六事件と中国侵略

 村上一郎の『北一輝論』という小さな本の最後に「私抄“二・二六事件”--「革正」か「革命」か?--」という文章がある。フラグメンテとされておりきちんとまとまったものではない。二・二六事件のことも戦争の歴史もよく知らないので難しかった。1970刊行の古い本であり、ここで批判の対象にしている『昭和史』という本はさらに古い。だが根本的な処では(世間の常識というか偏見は)あまり変わっていないのではないかと思う。少し長いが貼ってみた。

 いったいに、戦後の社会科学者の間における解釈では、五・一五事件も血盟団も神兵隊も二・二六事件もこみにして、日本型のファシズムとしてひとくくりである。それのみか、ニ・ニ六事件や五・一五事件の将校も、太平洋戦争への道を歩んだ「省部幕僚」もこみにされてしまう。皇道派と統制派という色分けをする者はあっても、それは一種の勢カ争いというように解釈され、当時の新聞記者の感覚以上には進んでいない。

 たとえぱ、満州事変以後の頃、「国内のゆきづまりを打開し、日本の危機を救うためには、“満蒙問題の解決”とならんで“国家改造”が必要であるとの見地から、軍国主義化の先頭に立ったのは、民間右翼とむすんだ青年将校であった」とみなす「昭和史」(新版)の著者、遠山茂樹・今井清一・藤原彰らの解釈は、非常に浅薄なところを含んでいる。この書では、その青年将校として、海軍の藤井斉、陸軍の菅波三郎を中心人物としてあげているが、この二人を中心とするグループが、「軍国主義化の先頭」に立ったものとは、どう考えても解釈できそうにない。また「国家改造」を、「満蒙問題の解決」と「ならんで」要求したのかどうかも、すこぷる疑問である。「満蒙問題の解決」をもし武カ解決という意味にとるなら、藤井斉にせよ菅波三郎にせよ、いずれも武カ侵略主義者や植民主義者であったという証拠はない。彼らが考えた「国内改造」は、満州のみならず、すでに日本が領土内に入れていた朝鮮の武カ支配をも、なろうことなら避けて、国内でやってゆけるような日本の改造である。だからこそ「国内改造」は「昭和維新」であったのであり、満蒙の武カ占有というようなプログラムを第一義約にもつものであったなら、けっして「維新」とよばれることはなかったであろう(「支那を救う」という言棄はニ・ニ六より前に五・一五で現れている。が、これは『昭和史』のいうニュアンスでない)。

 戦後「進歩的」社会科学者の旗手である『昭和史』(新版)の著者のような論者たちには、いわゆる「軍部」の「革新政策」も、青年将校の「維新」運動の推進も、同一のものとしか解せられていない。また、これはたいせつなことなのだが、権藤成卿のような農本主義者の運動(自治農村協議会なぞ)も、社会ファシズムの運動も、くずれた社会民主主義者の運動も、『昭和史』(新版)ではたんに並列され、同一視されている。

 「つらつら思うに今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは蓋(けだし)武断政治を措きて他に道なし」と、永井荷風が昭和六年十一月十日の日記に記したこころも、わたしは省部官僚による「軍部」的な「革新攻策」ヘの期待ではなく(そこに真の「武断」はない)、けっして永続はすることのない「維新」断行への渇望の庶民的な表白であったと考えたい。省部幕僚・官僚の形成する「軍部」を荷風は終始嫌悪した。

 満州を攻略した軍人ならぴにその周辺の官吏・民間人・浪人たちの間にも、ただ単に満州を領有すれぱよいという考えがあったのではなかった。石原莞爾がまずはじめは満州の領有=軍政施行を考えており、それから満州建国=王道楽土の思想に転向するのはドラマティックである。そしてしかも、石原らの理想、理念は、その後の日本権力者の意向によりふみにじられ、建国=王道楽土の思想は一掃され、石原派は追われる。

 満州がまず武カ占領され、軍攻をしかれねぱならぬという関東軍の考えから、実際占領してみての人民の能力の高さ、抵抗の強さ(それまでもっと低く見ていた)におどろいて、石原莞爾の「転向」に急カーブしたいきさつは、わたしらの編集した『支配者とその影』(「ドキュメント・日本人」第四巻)で佐々木二郎が語っているとおりであり、「王道楽土」の理念が日本の中央権カによってくずされ、石原派が追放されるくだりは高橋和巳の小説「堕落」にくわしく描かれている。満州国を、真実のカイライ国家(正にそれのみの)と化したのは、「王道楽土」の理念に生ききろうとした大陸浪人や石原派の軍人や、その周辺の民間人・官吏たちではなかった。満州を小さいコンミューンの単位から組み立ててゆくことを嫌悪し、そういう方向を弾圧し、中央集権を強カに推進しようとした日本の権力と独占資本とが、満州国をまったくのカイライと化したのである。これは日本の「維新」を推進しようとする純真な青年の支持しない方向であった。

 満州の産業を財閥の手にゆだねると同時に、全土に憲兵の眼を光らせ、「憲兵政治」を確立する東条英機(関東軍参謀長)らの政策は、また当初の「王道楽土」の理念をふみにじるものであった。石原莞爾と東条英機との宿命的な対立も、この満州の支配の仕方において、まず開始されたのである。石原も一個のファシストであったが、彼は農村主義的ファシストであり、東条は、自分一個の思想には欠けたが、大ざっばにいって社会ファシストの上に戴かれた。

        * * *

 二・二六事件がもし成功していたならば--「成功」というのがどういうことかはむつかしいが--万が一にも日中事件はおこらなかったか、ないしおこっても小規模な戦闘のみで解決せられたろうという予想は立つ。多くの社会科教科書や左翼歴史の解説書が、二・二六事件を戦争体制強化のためのクーデターであるかのごとく書いているのは、まったくの誤解である。北一輝にも磯部浅一にもシナ侵略の意図はなかった。対米戦争の意図もなかった。ソ連に対する掣肘は考えられたが、それは「支那を救う」方向だった。

(p169-172『北一輝論』村上一郎 三一書房)