(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、

1.男と女は遺伝的にちがう

->遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。

2.それは嗜好にも出る。

->差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。

3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。

->現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。

4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

北朝鮮は飢餓へ

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=107 RENK東京 – ニュース

9/29の李英和講演会について上記で三浦氏が書いてくれています。

幾つかあげると。

まず、モンゴル国境で妹をかばって中国国境警備兵に銃殺された少年(RENK里子)について、李代表がテレビの報道番組のビデオを流しながら報告。この一家は当初からRENKが保護しようとしてきたが、残念な結果に終わったこと、しかし、今父親と妹は韓国におり、中国で行方不明になった母親を何とか救出するという責務が残っている事などが報告された。

さらに、李代表は、もちろん逃げる難民に対し銃を水平で乱射する行動は許せるものではないが、現場の証言によれば、中国の兵士はさらに銃剣で倒れた少年の遺体を突く行為にまで及んだ。しかも、中国政府はまるで殺された少年がテロリストでもあったかのような(武器を持っていたとか銃を奪おうとしたとか)虚偽を平然と述べており、あらゆる意味で許し難い姿勢であることを強く批判。

代表によれば、脱北者の多くは、何とか年内は持つかもしれないが、来年からは食糧事情は再び90年代危機に匹敵する飢餓が訪れると考えていると言う。この予想には数字的根拠があると李代表は言う。

北朝鮮における米の値段の推移

2003年7月1日  この時期金正日が経済の自由化、改革を発表する

           米1キログラムはこの時点で40ウオン

     9月                 180ウオン

2004年1月                 300ウオン

     3月末                400ウオン

     7月                 500ウオン

     8月初めから           700から900ウオン

     9月                 1400ウオン

最後に、「現在の中国の対難民政策に、多くの人達が抗議の声を挙げることを呼びかける」と結ばれている。

わたしも彼の意見を強く支持したい。

美しき日々

今日酔っぱらって帰ってきて何げなくテレビを見てたら、韓流のドラマをやってた。数人の若い男女がもつれあいながらドラマがどんどん進んでいくようで、演技とか上手くない俳優も多いし、吹き替えの声はそれ以下で何だか今ひとつ紙芝居っぽいんだけど、でも場面の転換が早く、10人以上の登場人物のどの組み合わせにも秘められた過去があるようで、つまり、ヘテロな恋愛だけじゃなく兄弟愛や親子愛、友情などすべての引き合う力の強さが張り巡らされており、とても面白かった。

http://www3.nhk.or.jp/kaigai/beautiful_days/

美しき日々 Beautiful Days

石垣りん死去

 詩人の石垣りん(いしがき・りん)さんが26日午前5時35分、東京都杉並区の病院で死去した。84歳だった。

 20年、東京・赤坂生まれ。34年に高等小学校を卒業して日本興業銀行に入り、75年の定年まで勤めた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/003.html

 ひたすらに心に守りし弟の

 けさ召さるるとうちひらく

 この姉の掌(て)に照り透る

 真珠(まだま)ひとつのいつくしさ。

(石垣りん「眠っているのは私たち」・ちくま文庫『ユーモアの鎖国』p265)

昭和一八年七月、彼女の弟に召集令状が来た時の詩。

彼女は当時そうしなければならなかったとおり「おめでとうございます」と言って彼を送り出した。

この発語は彼女が生きている限り、過去のものとならなかった。

 とうぜんの義務と思ってあきらめ、耐え忍んだ戦争。住んでいた町を焼かれても、人が死んでも国のためと思い、聖戦も、神国も、鵜呑みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか。私の場合ならないのです。

 戦争当時とは別な状況。現在直面している未経験の事柄。新しい現実に対して、私は昔におとらずオロカであるらしいのです。

 もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます。

 ………………

 戦争の記憶が遠ざかるとき、

 戦争がまた

 私たちに近づく。

 そうでなければ良い。

 八月十五日。

 眠っているのは私たち。

 苦しみにさめているのは

 あなたたち。

 行かないでください みなさん どうかここに居て下さい。(「弔詩」より)

(同上 p267)

2004年自衛隊はイラクに派兵された。小泉首相の態度は最悪の無責任だ。死者たちはいまも、「苦しみにさめている」のだろうか。死者たちの言葉を聞く者たちは死に絶えつつある。大義のない戦争は継続している。

N・B氏発言(3回目)

(1/25 21時、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

連続投稿、歓迎していますよ!

ちょっと……応答が遅れていてすみません。

# N・B 『 どうも、連続投稿すいません。あまり重大に取られるとちょっとまずいかなと思っています。ただ、誤解があるかもしれないのでとりあえずもうひとつだけ。前提として、私は野原さんの発言に賛成です、1月23日の『「正義の模索」を「高次の正義の設定」にすりかえるのはやめていただきたい』という意見は全く賛成です、あの日の書き込みはそれについての追加意見のつもりでした。このようなすりかえがただ現状追認だけをもたらすのは明白です。

    

 ところで、今までの議論の参考になるかもしれないような、書籍とネット上のやり取りをいくつか紹介します。ご存知かもしれませんが。

「アウシュビッツと表象の限界」未来社、「三点確保」山田広昭(現代に問題としてカール・シュミットを考えるためには、ライブラリ相関社会科学12号や現代思想03-12に寄稿されている方の論文がいいと思いますが、とりあえず単著を)、「1968」作品社(とりあえず座談会の後半を立ち読み、現代日本の話です)

 内田樹さんのブログをめぐるやり取りです、以下に差別言説への批判が厄介かという見本のようなものだと思います。

http://blog.tatsuru.com/archives/000672.php http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050114

http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/ http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/

 NHK問題について、まっとうな意見として。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/ 

http://deadletter.hmc5.com/blog/

 暇人に付き合ってくださりありがとうございます。私は暇ですからこれからも反応しやすいと思います。忙しいところ失礼しました。』

善に対する正の優越

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050210 note of vermilion で、下記サイトを教えてもらった。

http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/priority.html THE PRIORITY OF THE RIGHT OVER THE GOOD

ちなみにマイケル・サンデルは、「善に対する正の優越」には二つの意味があると説明している。一つは、個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならない (功利主義批判)、という意味で、もう一つは、上で述べたように、これらの権利を規定する正義の原理は、いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない、という意味である。 (see `The Procedural Republic and the Unencumberd self’)

Right であってJustice ではない、わけだが、それがどう違うのか無学な私には分かりません。ところで、「いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない」といくら言っても、すべての(ほとんどの)善は金に換算(表現)できるという思想によって私たちは制圧されているのではないのか。リベラリズムとは結局の所、権利=「かね」の自由を制限するなという主張ではないのか? という疑問も。

(2/11 12時追加)

“搾取されながら売春する”権利(7/5追記)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050618/p2 より

「人身売買罪の創設やテロリストの不法入国対策を盛り込んだ改正刑法、改正出入国管理・難民認定法などが(6月)16日午後の衆院本会議で、全会一致で可決、成立した。」とのことである。

○江田委員 ・・・(略)

今回の法律案につきましても、売春をすることについて同意をしている場合であっても人身売買罪が成立するのかどうか、そこを法務当局にお伺いいたします。

○大林政府参考人 御指摘のような事例におきまして、表面上被害者がみずから売春をして金銭を稼ぐことに同意していたといたしましても、本来は、不特定多数の相手方と性交等を行うことなどを希望しているものではなく、家族を貧困から救うため金銭を稼ぐには売春によるほかはないと考えてやむなく売春に及ぶに至ったと見る事案がほとんどであろうというふうに思われます。このような場合には、被害者の同意は自由かつ真摯な意思に基づくものとは認めがたく、当然に犯罪の成立が否定されるものではない、このように考えております。

「駆け込みたい」と思ったときにそうできる権利を保障していくべきだろう。

世界のじくじくした縁(へり)

「世界のじくじくした縁(へり)」という題の文を書きたいと思っている。

 私と世界は自明のものとして私に与えられている。私が健康である限り世界も健康である。語りうるものだけが世界である。あるいは語りえないものはしかるべき祭壇におさまっている。ものはあるかないかのどちらかであり、あるともないとも決められないものはない。

 そのような世界像が果たして正しいのかどうか、を問いたいのだ。そうではなく、世界の縁(へり)はつねに揺らいでおりじくじくと滲んでいるのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050212#p1 で「素顔は差延する」という奇妙なタイトルで、あるところである人が死んだ話を書いた(コピペした)。ある人とは誰か。ある若い妊婦と書いてあったがいまは名前は思い出さない。

「わたしは彼女を思い出さない。」この文章はパラドックス(成立しえない文)である。対象が特定できたとすればそれは思い出したということであり、「思い出さない」は虚偽になる。彼女という言葉が発せられた以上それはなにものかを指しているわけですから、「対象が特定できなかった」場合はありえない。忘れたものはその対象を名指しえない。

 ある若い妊婦の話は、もちろん私に何の具体的関わりもない。あるメルマガで流れていたものをたまたま引用したのだ。それを引用した動機は二つ在る。一つはインドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人、そのことにわたしたちは関心を持つべきだという社会派としての関心。もう一つは、ある女性の死(殺されたこと)が私に関係あるのかどうか、という哲学的問いの素材としての関心。前者を否定できない以上、後者を取り上げるのは不謹慎だ。だがわたしの問題意識は2/12の段階でも後者に比重があった。

「ある人の死(殺されたこと)」とは私にとって何だろう。いまこのブログは二人の死者の名前をヘッダに掲げている。死者の名前を何に利用しようとしているのだろう。死者は決して語り得ない。したがって死者の名前に言及することは彼女のものであった何かをわたしが横領することであり暴力的である。だがヘッダの二人の名前は私によって選ばれある効果のためにそこに置かれている。わたしは幾ばくかの関係を彼女たちの名前との間に結んでいるのだ。また、id:noharra:11001201に、トマサ・サリノグ、朴永心という二人の女性の名前が証言と共に載っている。名前ではなく「従軍慰安婦」というおかしな普通名詞で呼ばれるだろう彼女たち。国際法廷とは普通名詞ではなく固有名としての彼女を奪還する闘いでもあった。この4人に対しては「あなたを忘れない」との思いを肯定する多少の人々の集まり(それぞれ別の)があるだろう。だが東アチェ郡の彼女について、「あなたを忘れない」と思っている人はほとんどいない。わたしにしてもそれほどの思いはない。そうした状況は是正されるべきだ。インドネシアにおける国家犯罪に対し、日本国家と国民はイスラエルのそれに対するよりずっと大きな責任を持っている。そのことは事実であり、皆がそれを自覚すべきなのだろう。

 一瞬通り過ぎたがそれきり私とは何の関係もないあるニュース。わたしが私である限り、知っているものだけでわたしは構成されている。というのは嘘である。世界の果てには幅広いじくじくした領域があり、そこではたくさんの殺人やレイプがある。そうであるのにわたしたちはそれを深くは気にせず生きている。2/12に書いた死者とわたしとの間には関係は成立していない。いや正確には「成立している」と記述する必要はない、とわたしは思う。

 わたしは奇妙なことを言おうとしているのだ。なんども書くが、「インドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人」としての彼女についてはわたしたちは関心を持つべきだ。だがそのようにその彼女をわたしたちの価値の内側に引き入れたとき、その外側にじくじくした領域は残る。

ナショナリズムと昭和維新

# index_home 『ある程度同じ思想信条を持ち合わせているといっても、やはり個人個人で違う人間ですから、細かい部分では差異があるのは当然なのでしょうね。でも、それで意見を交わしていくとまたお互いの論を高めあうことができるような気がします。(例えば「君が代の強制に明確に反対」という論理を各人で磨きあうことができる…とか) 

ちなみに>「パトリオティスム/ナショナリズム」を違う物として考えて、前者を肯定し後者の現実の国家組織への忠誠という面を全否定する>という論理なら、私も近いかもしれません。また細かく検討すると差異があるのでしょうけど。』

(野原)

おっしゃるとおりだと思います。さて、

id:noharra:20050324#p5 で尊皇攘夷運動について触れましたが、昭和でそれに近いエトスを持った運動としては、226などの昭和維新運動があります。

 hikaruさんの文章を始めて読んだのは偶然で、3月の始めでした。226事件被告たちの「ご法事」に行かれて、磯部浅一のご遺族にも会われた文章が印象的でした。226事件被告たちはあっさり殺されてしまったのに、その後に展開した大東亜戦争の罪まで被せられて可哀相です。戦後左翼史観は彼らに対し偏見に満ちた評価しかできなかった、のではないでしょうか。

 昭和維新派について知識があるわけでも無いのですが、そういったことも含めて、ナショナリズムについて語り合いたいです。

知性の不在

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050404#p1

意見が食い違わない範囲で「子どもたち一人一人が主人公」という認識なのか、単に高校生はもはや「教育」の「主人公で」はないのか。

「教育とは」「子どもたち一人一人が主人公である」と野原が書いたことと、わたしが fantomeyeさんの発言を否定したことが、矛盾していると、spanglemakerさんは指摘する。しかし、そうは思いません。

今回はfantomeyeさん個人の意見を問題にしているわけで、生徒会の決議でもなんでもない。「当局の指導する形の卒業式が正しく、それに反対するものは破壊者である」という論理は、「子どもたち一人一人が主人公である」と矛盾する。わたしだけでなく多くの人がそう思うだろう。