30万人都市をなくす

■ [イラク]ファルージャを二度と住めない「死のまち」に。

『アラブの声』より転載します。

8日付のサウジアラビアのアル・ワタン紙が報じた。

 本紙が信頼すべきイラクの情報筋から得た情報によれば、米国当局は現在、来る総攻撃で将来二度と住むことや復興が再建が出来ないように、ファッルージャを完全に破壊する計画をイラク暫定政府と練っている。(略)

この計画はまた、西部地域の主要部族を首都から遠隔のヨルダン方面の地域に移住させることも含まれる。

http://d.hatena.ne.jp/miyutomo2/20041109#p1  はてなダイアリー – 遠くまで。

コピペばかりしてすみません。

イラク人をジェノサイドなどできるわけないのにそうしようとしている。というかそういう発想しかできない。・・・

レジスタンスが旧市街を取り戻す

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20041129  はてなダイアリー – 【ねこまたぎ通信】によれば、次のようだ。これはエマンさんに話を聞いて以来、受けていた印象とだいぶニュアンスが違います。どうなっているのかな? 自衛隊撤兵を急げということにはなるが・・・

 ○ レジスタンスが4度目の包囲網突破/旧市街を取り戻す

 ○ ファルージャから初めて米軍が退却

 26日午後9時に届いた速報において、イスラム・メモ通信員は、ファルージャを包囲する米軍が同日、レジスタンス勢からのグラッド、タリクによるロケット攻撃にさらされたと伝えてきた。

(略)

実際に、この3日間ばかりは、レジスタンス側は本来の力を取り戻して掌握する地域を広げ、その結果、ファルージャの65%はレジスタンスが支配するようになっている。

http://www.geocities.jp/urknews/resistance_report_2004Nov26.html

11月26日 レジスタンス・レポート も同様の記事。

マスカルポーネ

大晦日には、下記のレシピを参考に、マスカルポーネ・チーズを利用して、レアチーズムースのようなものを作りました。

元旦に皆と(お雑煮ほかのご馳走のあと)なんとか美味しく食べることが出来て嬉しかった。真っ白でとても軽く仙人の食べ物みたい。

(アジア人にならなければならぬ、なんて言ってる割に言行不一致。)

http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/1340/rea-cheesemu-su.htm

自分のした事実を認めること

 慰安婦問題を考える枠組みとしては、下記の星野智幸さんの意見が正しいと思います。引用させてもらいます。

  でも私が一番おぞましく感じるのは、漠然とちまたに漂うリベラル嫌悪である。今回の問題も、従軍慰安婦をめぐる考え方が根っこには横たわっているのに、従軍慰安婦自体を問題化させまいというような風潮を感じる。今年は戦後60年を迎える。10年前、戦後50年のときには、従軍慰安婦の存在を疑う人は圧倒的な少数だった。過去におこなったことはおこなったこととして認め、しかるべき反省と和解をし、次のステップに進もうという、冷戦崩壊後にふさわしい空気が主流だった。

  それから10年たって、従軍慰安婦の問題を考えること自体を「偏向」と見なす人が急増している。戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。あいつらの言い分を呑んでたまるか、みたいな気分から、戦後に実証されてきた事実を葬ろうとする。言い分を呑まないことと、自分のした事実を認めることはまったく別の話だ。これではまるで、横田めぐみさんの骨がニセモノだったという鑑定結果を、「捏造」と切って捨てる北朝鮮の態度と変わらないではないか。かさにかかって「なかった」と言えば、本当になかったことにできるとでもいうのか?

http://www.hoshinot.jp/diary.html

星野智幸の日記 1月26日

 リベラル嫌悪の奥には、女性への侮蔑、朝鮮半島や中国大陸の人間への軽蔑がある。持てる既得権益を手放し分配する以外に行き詰まりを打開することはできないこの日本社会で、その現実を受け入れられない層が逆ギレしている。いくら家庭内で暴れまくっても現実は変わらないのに暴れている、子どもじみた反応。それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、朝日新聞を始めとする旧リベラルのメディアたち。(同上)

 もう一つ結論部分も引いておく。非常に明快。ただそこまで言い切ってよいかどうかは疑問も残る。新自由主義イデオロギーが勝利しており、それが出自からすると異質な悪質なナショナリズムなどと癒着している(せざるをえない)というところかと私は思う。それと朝日新聞などが、「それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、」という指摘も重要。

(2/6朝7時訂正)

答え

福沢諭吉 p243『文明論之概略』岩波文庫 でした。(「の」の字が違っていた。)

全然面白くなかった? 

と書いたのと同時に11時20分、newmemoさんから正解をいただきました。

さて、諭吉とは我が国最大の啓蒙家とかいわれているので、偏見を持ち読んでませんでしたが、読んでみると文章は分かりやすく迫力があり面白い。例えば、彼は西欧の歴史を概観し、宗教改革に言及する。ルター(ルーザ氏となっているが)と羅馬法王との争いは結局「唯人心の自由を許すと許さざるとを争うものなり」。結論的には「文明進歩の徴候」と評価できる。だがその争いとは「欧州各国これがために人を殺したこと殆どその数を知らず。」であり、「殺人の禍を計れば此の新教の値は廉なりと云う可らず。」という点もちゃんと注目した。p177 西洋と東洋どころか、鼠と人においても同じ基準で論じうるととするある種唯物論的な思想の強さは、やはり感心すべきものがある。

3/10と8/15のあいだに

 3/2のコメント欄から。

id:bluefox014 『>nohharaさん

東京には東京大空襲を記憶する平和公園も都営・国営の博物館も存在しない、という事実がなにかを象徴していると想います。土地がないわけではなく、例えばまさに空襲の現場だった両国国技館の横に東京都の土地がありますが、そこには江戸東京博物館のでっかい建物が建っています。TBの方法のご教授有り難うございます。』 (2005/03/08 03:04)

id:index_home 『コメントにお返事いただきありがとうございます。さらにコメントするのはここで良いのでしょうか?

>被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。

これは、私も同じように感じます。こちらで書かせていただいた被害と加害の受け止め方については、id:index_home:20050310#p2でも少し書かせていただいております。(勝手ながら、一応トラックバックもさせていただきました)

>南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。

同感です。』 (2005/03/11 16:10)

たてまえとしての反戦平和主義を隠れ蓑にして、「戦争がいけなかった」として8/15までの大小の権力の責任を詳細に検討していく営為をネグレクトしてきました、戦後日本は。「15年戦争ともいわれる戦争のすべてが悪だった」という史観を仮に否定するとすれば、次にどう考えるのか。

 普通に考えれば、もはやどんな反撃もできなくなっていた3/10東京大空襲の時点で戦争は止めるべきだった。そうしなかった責任を日本人は追及確認してこなかった。そして、自衛隊海外派遣の後もそうした歯止め抜きでナルシズムにふけりたいひとの方が多いみたいですね。

 「(対アジア)排外主義」を昂進させ取り返しのつかないところまで行く->「アメリカ」を敵に据え直し「アジアの大義」の原則に立ち返る(つじつまがあったのでほっとする)->世界中を敵に回し敗北する。。このサイクルを繰り返すのでしょうか?

本居宣長の神(迦微)概念(その1)

本居宣長の二つの神概念について書きます。

まず一つは、なんでもありの神 です。

「天地初発の時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神。」というのが古事記の冒頭です。「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。」(天はアマと訓(よ)めとかいてある)という漢字ばかりのが本来です。

この「神名」という二字について本居宣長(1730-1801)は『古事記伝・三巻』で長々と註釈する。

神名はカミノミナハ*1と訓べきことも、首巻に云り、カミ(迦微)と申す名の義(こころ)は未だ思い得ず、【旧く説けることども皆あたらず、】*2

神という漢字にはもちろん意味がある。宣長が云っているのは、「神という漢字」の意味でこの神を解釈してはいけない、ということだ。「かみ」という和語があった、本来の意味は分からない、だが中国からきた「神」とは当然違った意味を持った別の言葉だったはずだ、というのが宣長の立場。旧説、「上」や「鏡」から説明するなどは全部違っていると。

さて凡そ、カミ(迦微)とは、古御典などに見えたる天地の諸々の神たちを始めて、それを祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい海山など、その余(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物をカミ(迦微)とは云うなり、

【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなどにも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云うなり、さて、人の中の神は、先ずかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠(とほ)つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遙に遠く、尊く可畏(かしこ)く坐しますが故なり、*3

(略)】

鳥獣木草のたぐい海山など何でも神でありうる、また価値的にも優れたるだけを云うわけではない、悪やあるいは奇(あや)しきものよく分からないものである場合もある、というわけですね。基本的には天の神を神と云い、人の霊は鬼と云う中国での用例とは全然違います。明治以降の日本は古事記の読み方を始めとして、宣長から非常に大きな物を受け継いでいるのですが、さすがにこの神の定義だけは違います。キリスト教の絶対唯一神を規範として受け入れてしまった(無意識のうちにも)ため、鳥獣木草のたぐいはともかく、悪やあるいは奇(あや)しきものについては非常に抑圧的にしか語られなくなったのではないでしょうか。

抑(そもそも)カミ(迦微)はかくの如く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行(しわざ)もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、

大かた一むきに定めては論(い)ひがたき物になむありける、

まして善きも悪しきも、いと尊くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いともいとも妙(たへ)に霊(あやし)く奇(くす)しくなむ坐(し)ませば、さらに人の小さき智(さとり)以て、其の理などちへのひとへも、測り知らるべきわざに非ず、ただ其の尊きをたふとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき、

最も賤しい神の中には徳が少なくて凡人に負けるものさえいる。かの狐なんかも怪しきわざをなす、つまり「まことに神なれども」、いつもは微(いやし)き獣にすぎない。だけどそうした「いと賤しき神」ばかりを見て、「いかなる神といえども理を以て向かうには可畏(かしこ)きこと無しと思ふは、」「ひがごとなり(間違いだ)」と断じられる。

つまりここで宣長は神の本質については論じていない。というより神とはこういうものだと一定に定めて論じること自体に反対している。人の智には限りがあって、「まことの理はえしらぬものなれば」、というのが宣長の強調するところ。カミは当然人智を越えたものであり、人から見た正邪の区別からも自由である。その本質はどうだとか論じる事自体が不当である、と。言われてみれば理屈ではある。

 世界や神を「理」とか「道」とか中国起源の形而上学カテゴリーで云々しても結局そうした理学の範疇論からでることはできない。お狐さんも神ですよと言えば滑稽なようだが、それでも目の前の狐一匹でさえ持っている不可思議というものを無化してしまう理学の暴力的裁断だ、と儒者の「さかしら」を攻撃するわけですね。これはこれでまあ面白いとも思えます。

(全然纏まりませんが、その2へ続く。)

*1:万葉仮名で書いてありルビが振ってあるが万葉仮名は省略

*2:『古事記伝』岩波文庫 p172

*3:だいたいこんな感じですが正確な引用ではありません

(4/10)野原

KMRさん「学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは充分な説明をしていません。」

 父母が学校で、「先生方が自己の意思に従い行動されることを支持するというメッセージを伝えるため」の手紙を渡すこと、それは特別なことであり、正当性を父母の側が立証しなければならないそうした問題だ。という捉え方に反対です。

十条さん

 ご意見に賛成です。コメントしていただいて助かりました。ありがとう。

他の方もコメントありがとうございました。

ナヌムの家 とハルモニ証言

下記の催しに行ってきました。

●4月21日(木曜日)同志社大学・今出川キャンパス・寒梅館クローバーホールにて

    午後4時~映画『ナヌムの家』上映 

    午後6時~李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ証言 

    主催・同志社大学実行委員会 入場無料

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050115 わたしは1/15以降本を読んだりしてすこし「従軍慰安婦」について勉強しコピペし論争したりもした。自分なりの慰安婦像ができていたわけだが、先日見聞きした映画と証言の慰安婦像はそれとはまったく違ったものでうまく言葉にできない。違った像、イメージといっても知的理解として違っているわけではない。

 ただ話のとっかかりとして知的な所から入ると、映画を見て気づいたのは、ナヌムの家のハルモニたちと支援者たちよる水曜デモ。毎週水曜日1992年から欠かさず続けられているという伝説的な集会(デモ)だ。映画に写っているそれは参加者10人から20人程度のひどく小規模なものだった。日本中のプチウヨから敵視されているにしてはひどく小規模な。プチウヨはしばしば「韓国」という巨大な物と彼女たちを同一視するのだが。

 元日本軍「慰安婦」として韓国政府に申告した方の数は約200人*1半数近くはすでに亡くなっているのではないだろうか。全体で約20万人ともいわれる全体像に対してあまりに少ない。少数派の問題であってもそこに思想的課題を深く掘り下げるのが思想家の仕事であるだろう。一方政治家の役割は妥協し相手を納得させることだ。顕在化している対象者が数百名程度なのになぜ妥協案を提示できなかったのか。相手が納得しない「国民基金」などという案をごり押ししようとしたのか。少数派の「慰安婦たち」自身ではなく韓国その他の国家さえ納得させられなかったのはどうしてか。つまらないナルシズムである思想でしか自己を支えられない勢力が強いからだろうか。大きな問題である現在の反日暴動問題も解決できないのではないか。

 でそんな話は映画には一切出てこない。ただハルモニたちの日常が坦々と描かれるだけだ。ただのぐちっぽいおばあちゃんたちの日常。もう生きてなんかいたくない、ずっと前からそうなんだといったネガティブな事ばかり言う女性。それでもデモには出かけていくのだが。10年間報われないデモ。*250年以上前の傷跡は彼女たちの存在のなかにいまも大きな空洞として残っている。そう理解することはできる。でもその空洞にどう向きあうべきなのかは私には分からないのだ。彼女たちとつきあうわけではないから別にいいといえばいいのだが。

 李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ証言は映画と違い衝撃的な部分も沢山含むものだった。だが、まとまりの良さという点では、id:noharra:20050125#p1 などで紹介した証言録とは比較にならない。皇軍=有罪の立証に向けて最短距離で組織された言説と違い、ノイズばかりである。

 最も印象的だったのは、日本の兵隊に教えられた軍歌をきれいな日本語で歌ってくれたこと。日本語への愛。最も憎悪すべき日本との抜き差しならない交流は、長い間潜在しながら、彼女の殆ど一生を貫き、愛という形でも現象する。

 わたしたちは最も憎むものをじつは愛している。そう書くと陳腐な逆説にすぎないが。

 レイプすること、比喩としてというと急に軽くなって意味がないが、生きることにおいてレイプすることは不可避であるだろう。親鸞的な深さで言うならばだ。*3人生は常にそこから始まる。反省することは可能であるしためらってはいけない。孔子も言ったように。

 ・・・

*1:パンフ『日本軍「慰安婦」問題とは』より

*2:ここで他人事として語ってはいけないだろう。わたしが日本国家の成員である限り私がハルモニたちの側に立つなら日本国家に働きかけをなすべきである。

*3:凡人である私は言ってはいけない、言うことができない発言である、が。という意味。