配偶者控除についての要望

配偶者控除については、全国女性税理士連盟というところがずっと前から熱心であるようだ。

http://www.jozeiren.com/yobo/20031011pa03.htm

配偶者控除等に関する要望書

平成15年10月11日

配偶者控除の見直し及び基礎控除引上げを要望する

 現行の配偶者控除制度は、女性の社会進出について中立的なものでなく、男女共同参画社会の実現を願う立場からは、将来において廃止することが望ましい。

  しかしながら、直ちに配偶者控除を廃止することは、現状では多くの問題があるため、以下を提言する。

1.配偶者控除の見直し

 納税者の配偶者に所得がない場合は、納税者の所得から配偶者の基礎控除相当額を控除する。

 配偶者に所得があり、その所得から控除しきれない基礎控除額がある場合は、その金額を納税者の所得から控除する。

2.基礎控除の大幅引上げ

  当連盟は、配偶者特別控除廃止の要望の時より、一貫して基礎控除額の引上げを要望してきた。

 最低生活費に満たない現行の基礎控除額は、大幅に引き上げるべきである。

 廃止という主張に対しては、女も働けというのか?とか反論されるわけだが、それはちょっと違うと思う。すでに少数派になっている専業主婦を優遇しているイデオロギー的制度になっているので、中立的なものにせよという主張である。

三者三様の矛盾??

(野原燐)

(α)推進派は、日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重要なメディア」であると深く信じており、何十年もかかって「目的」を遂行しようとしている。

(β)ところが、推進派の建前は「国家にとって国旗、国歌が存在するのは当たり前」という論理である。「君が代」の意味や理念を提示し、それによって教導しようとはしていない。

(β’)君が代を支えるべき意味は愛国心であるが、愛国心も理念として提示されることなく、自明性としてのみ語られる。

推進派にこのような矛盾があるため、反対派は、「君が代は宗教的存在だ」あるいはそれに類する命題をこちらの力で立証した上で、それに反論するという手順を踏まなければならず、疲れてしまう。

というような問題点があろうかと思います。

野原は以前から自分の根拠が、アナーキスト であると同時に (アジア風味)ナショナリストである という背反にあるように感じていました。

「戦後民主主義者たちというもの」は、口では平和、国際協調、普遍を唱えながら、身体では日米安保と一国平和主義下の資本主義的消費主義を肯定していた。矛盾を犯していたので、彼らの思想も批判していかなければならないと考えます。

君が代~愛国心(4/3追加)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050328#p2

紹介が遅れましたが、上記で

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318

からはじまった、君が代~愛国心についての錯綜した議論の

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050327

までの簡単なまとめが、記されています。

index-homeさん、 hal44さんのブログにも記事があります。

spanglemakerさんのブログにも。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050329#p1

またスワンさんは、上記でクローズアップ現代の反響(多数のブログのまとめ)をされており、コメント欄も賑わっています。

古事記は偽書だ

id:kuonkizuna:20050415 経由で

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-63.html 『古事記』とは何か—和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」 を読みました。

「内容、構成、日本語など、どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。」したがって、

「数多くの根本的な偽書説が提出されてきている」。

にもかかわらず戦後の左翼的史学・文学界自体、に「厳然としてタブーがあり、それは今なお存続している。」と論じている。mansongeさんは。

宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。この「日本語」とは、わが「日本」の固有性であり「日本人」であり「日本民族」である。

宣長が古事記を読むことで発見した、【日本】なるもののうちに私たちは生きている。であれば、古事記が偽書であってもそのような判断は、日本では出来ないことになる。

 紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。

 さて日本書紀と古事記の違いについて、上のようにmansongeさんは明快にまとめておられる。

 一神教(キリスト教)を深く取り入れた平田篤胤の直前まで、宣長が来ていたことは、id:noharra:20050326#p2 で述べました。

 改憲論議で、もはや誰も触れようとしないが、第九条以上に根本問題であるのが第一条から第八条までを占める天皇に関する箇条である。これは「天皇」の存在に関する問題ではなく、実は「日本国」とは何であり「日本人」とは何か(私たちは何者か)という問題なのである。(同上)

 「もはや誰も触れようとしない」というのは誤りであろう。「君が代」の根拠を問うと、なんらかの自明性、自同性という解答しか返ってこない構造に苛立ちを持つ人は多い。

 憲法1条削除を主張した途端、マイノリティに転化することは事実であるが、予め決められた「多数/少数」とは思想にとって何なのだろう。

 コメントスクラム、とはネットに於けるデモ であり、民衆の意志表示であるともいえる。だが自己の奴隷性を自己肯定することにだけ熱中しているのだ。理念の不在を神とする日本の、それが宿命なのか。いやそうではないと思う。宣長から大日本帝国そしてプチウヨへ受け継がれた同一性の論理、以外にも日本には多様な豊かな思想の伝統がある。

父母の交合の時に、滴る物は、微なれども

 二柱の神の、此の大八洲国を産み給えること、世の人、漢意を以て見る故、に、これを信じずして、種々なまさかしき説あれども、そはみな私ごとなれば、取るにたらず、ただ古えの伝えの随(まま)に心得べし。ただ人の児を産むが如く、御腹より産み賜えるもの也。(略)

 大八洲を産み賜えるも、其の如くにて、まず二柱の神の交合(ミトノマグハヒ)の滴(しただり)、女神の御腹内に、合い凝り成りて、さて御腹より産み出(いだ)し給うところは微小(ちいさ)き物なれども、其の物に、かの漂える物、寄り聚(あつまり)凝りて、国土とは成れる也。近くは人の身の成る始めにても知るべし。父母の交合(マグアヒ)の時に、滴(しただ)る物は、微(いささか)なれども、月を経て、児の形となるにあらずや。(略)其の中にも、殊に蛇などは、産まれたるほどは、尋常(よのつね)の小き虫なるが、年久しく経て、大蛇となるに至りては、ことの外に大きなる形ならずや。

(服部中庸「三大考」)*1

第五図の説明の一部。

精液の描写など博物学的で可視的な感じ。

*1:p260 日本思想体系50

「心の中の光と影」

藤原定家は1162-1241。

もう3首貼ってみよう。

宿ごとにこころぞみゆるまとゐする花の都のやよひきさらぎ

定家には珍しい庶民的雰囲気の歌。まとゐ=まどゐ(円居)で団欒。家ごとのさざめきの雰囲気の違いを肯定的に歌っている。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫(新古420)

「さむしろに衣片敷き今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」が本歌。夜がふける、衣を敷くはずなのに、定家では一見「風がふけ」たり「月を敷」いたりしてるように読め、難解になっている。邦雄によれば「肩すかしともいふべき修辞の妙」だというのだがそんなものなのかね。邦雄の読みでは、わたし(女)が男を待つがいつまで経っても男は来ないという歌。宇治の橋姫とは「宇治の里橋のあそび女」となっている。*1

わすれじよ月もあはれと思い出でよわが身の後の行く末のあき

我が死の後の行く末を、月よ、哀れと記憶に留めよ!という強い命令の歌。「これは景色としての月から遠く隔たった一種の呪物と化し、死後の世界まで照らし出すようなすさまじい光となってゐる。(邦雄)」戦争で(例えば異国の山河で)死ぬ前の晩に月が異様に照っていたといった情況を思い浮かべることもできる。

*1:p94『定家百首』

三井銀行員も東条を許さない

 東条は、このように自分と政治的に対立する者に、さまざまな圧力をかけて屈服させようとした。三井財閥の総帥池田成彬(第一次近衛内閣の蔵相)が反東条で動いているとみると、池田の三男・豊が兵隊に召集され、中国戦線に出動するため福岡で待機中だったのに目をつけた。池田のところに人をやって「政治的に自分と妥協してくれるなら、豊君を危険な戦線へ出さず、生命の安全な東京へ戻してやるがどうか」と告げさせた。

 池田はその場でこれを拒絶した。結局、豊は中国の戦線に送られ戦病死している。

週刊「世界と日本」という右翼系のミニミニ新聞がある。それの6月13日号に内外ニュース会長、清宮龍 という人が1面2面をほぼ全て使い「東条首相 狂気の弾圧政治」という文章を書いている。

 毎日新聞の新名丈夫記者 戦後東海大総長になった松前重義、国会議員浜田尚友、有馬英治、などが、東条の逆鱗に触れ、東条の命令で、指名召集を受け軍隊に入隊させられた。 

 政治家中野正剛は検挙され憲兵隊長によって取調中(一時帰宅し)、自決する。

 最も強調されるべきことは、やはり、陸将時代の昭和16年に「戦陣訓」を出し「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と全軍に布告したこと。

靖国神社はこれも肯定しているのかな?

プチウヨの諸君はどうかな?

小泉氏は「罪を憎む」そうだがこれらを罪と認識しているのかな?

 (以上について事実と違うという主張があれば歓迎します。お互いに事実を確認していきましょう。)

ハッピー=より高次の水準への訂正

上記「5つの価値」のうち省略したのは下記の1項目。

全体最適化

たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。

抽象的すぎてピンとこなかったのだ。「間違いの訂正」といっても何が間違いかはについて他人と同意するのは時として困難だ。したがって何を目指すのかをイメージとしてだけでも提示しておかなければいけないと思って書かれた規定だろう。希薄だがポジティブである。

「スパゲッティな」プログラムは悪い、その反対はエレガントで良い、そのような価値観を文章や人間関係、社会関係にも敷衍しうるみたいな感覚が基礎にあるのだろう。

掲示板*1などへの表現は、全当事者に向かって等距離に開かれている。したがって「幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。」わけである。

松下昇氏の文章の一部を引用しておく。

一 執筆~印刷~配布の全過程に関わろうとすること、全ての人がそうしうる情況をつくろうとすること、その試みが極めて困難であるが不可能でないことまでは視えてきた。訂正についても、具体的な作業を行う人の内的な意識を共有しつつ、この意識や労働対価の疎外形態の止揚をめざしている。

二 ①〈黒板〉~〈壁〉への直接表現や話体の言葉も、それらが影響を及ぼした幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。

②権力の表現所有~訂正に関する構造は、基本的には権力構造の打倒~解体によって〈訂正〉しうるが、権力が無視しえない、別の〈同一〉表現をつくりだし対置する作業が、拘束されている表現を固定化させないためにも必要である。

③人間~社会の行動軌跡~様式の対象的〈訂正〉の組織論の萌芽は、前記①、②を具体化する際に、モンテーニュのとった〈空虚〉への対し方の対極で〈 〉を媒介して出現しつつある。

松下昇『概念集・2』p28「訂正」より

*1:ブログとかも他者に強制的に開かれた表現であるという点では従来のHPより掲示板に近い