日本人「慰安婦」制度の設置と運営は、当時存在した多数の国際法規範に違反している。国際法の規範には成文の条約のみならず慣習法も含まれる。当時日本が加入・批准していた条約としては、ILOが基礎をつくった「強制労働条約」と「醜業を行うための婦女売買禁止に関する国際条約」の他に、「ハーグ陸戦協約」などがあった。当時成文の条約としては存在しなかったが、国際慣習法として国際的に確立していたものとして、「奴隷状態の禁止」があげられる。
p8『日本軍「慰安婦」問題とは?』ナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館
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たぶん合ってる?
恥ずかしながら、エクセルのフォーム(?)。
A3に最初の人数を入れる。
G1に答えが出る。=SUM(G2:G14)を入れる。
G2に1を入れる。
B3に =INT(+A3/2)
C3に =-B3*2+A3
D3に =+A3-B3-C2
E2に 1。E3に =+E2*2
F3に =+C3*E3
G3に =IF(D3=1,0,1)*IF(D3=0,0,1)*F3
A4に =+D3+C3
B3:G3を下にずっとコピー。
A4を下にずっとコピー。(以上)
頼信紙
カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子
(塚本邦雄)
http://d.hatena.ne.jp/shimozawa/20050610 仏文学者の下澤さんのところから孫引き。
無人郵便局みたいなものが余りに一般的な物に成ってしまったので分からなくなっているが、無人郵便局というものが成立しうる<システムの底力>の存在を、否定的眼差しにおいて描き出したのがカフカ。みたいな理路だろうか。頼信紙(電報を頼む紙)という言葉の響きと紙の薄さのシンクロが印象的。
(6/12追記)
“フェミナチ”な方へ
<新しい事物>を世界へ投げ入れる可能性
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050706/1120590416 記識の外 – モヒカン族のために。
から、「ハッカー宣言」 * 作者: マッケンジー・ワーク, 金田智之 * 出版社/メーカー: 河出書房新社 の一部の一部。
004 ハッカーは新しい事物を世界へ投げ入れる可能性を創り出す。しかし、それは常に偉大な事物であるとは限らないし、良き事物であるとも限らない。だが、とにかくそれは新しいのだ。
(略)
我々は我々が生産する何ものかを所有しない。その何ものかが我々を所有するのだ。
130 情報はコミュニケーションを上回っている。ドゥルーズによれば、「私たちはコミュニケーションを欠いていない。対照的に、私たちはコミュニケーションを持ちすぎているのだ。私たちは創造することを欠いている。私たちは現前するものに抵抗することを欠いているのだ」。情報とはこの意味での抵抗であり、情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうことなのだ。
133 情報の、反復するコミュニケーションへの従属化は、情報生産者の情報所有者への奴隷化を意味している。
コミュニケーションについて一般的な理解は俗流ハーバマス主義ともいうべきものである。彼らは、物事を常にある人*1が予め理解している地平に回収してしまう。つまり彼らにとって<新しい>ことは起こらない。私たちが理解し合うとき<差異>は私たちの手により殺されている?のかもしれない。
つねに「情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうこと」が為されなければならない。
つまり、モヒカン族ブームの核心は、一見ポスコロ的PCに反するかに見える「ハンドアックス」という比喩の過剰さにある。
*1:大衆?
降伏禁止は民間人に強制されたか?
3)
住民に対し「生きて俘虜の辱めを受けず」というフレーズが強調されたかどうかは分かりません。
そのため沖縄では「一木一草」にいたるまで戦力化することがはかられ「軍官民共生共死」がうたわれた。つまり軍に全面的に協力し、軍が玉砕するときには県民も一緒に死ねということだった。
一方、主陣地のあった地域を見ると、佐真下のジルーヒジャグワーガマには日本軍が入ってきて、少尉が日本刀を振りかざし、「米軍の捕虜は絶対に許さない。捕虜となる者はこの刀で切り殺す」と住民を脅した。
本島中部の状況を見ると、日本軍がいなかったり、すぐにいなくなった地域では、米軍にすみやかに占領され、住民は集団で投降して助かり犠牲者が少なかったケースが多い。その際に移民帰りが投降を指導した場合がいくつか見られる。一方、日本軍陣地があり、軍民が混在していた地域では、集団で投降することは許されなかった。そのため米軍が接近し砲火のなかを南部に逃げ、そのなかで多くの犠牲者を出した。壕に残っていると、日本軍と一緒ならば米軍の攻撃を受けて犠牲になり、あるいはスパイ視されて日本軍に殺された。ただ南部という逃げ場が残されていたので「集団自決」にはいたらなかったと見られる。(同上)
以上により、降伏は許さない、という強い圧力を皇軍がかけ続けたのは事実だ。
すみませんが
9/4に、なんと古事記について小さな発表をしなければいけないのに、準備が全くできてない。
というわけで、、
黒猫さん 及び amoさん 応答 しばらく休止することになると思います。
岡野八代関係
この本の同じ第三章「<わたし>の自由と<われわれ>の責任」については
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050310 で触れました。
第五章 遅れる正義/暴力のあとで については下記で、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050119#p4
第四章 暴力・言葉・世界について に下記で触れました。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050312#p4
他者はどこにいるのか?問題については、下記も読んでください。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050312#p1
3/10分から、ちょっとだけペースト。
わたしとは「何ものにも先立つ自由な主体」でなければならない、という西欧の知の根拠にある前提を、わたしもまた無意識のうちに受け入れているのだ。
自由が責任に先立つという前提が<わたし>という同一性を構成し守っている。だが同一性とは錯覚によって守られているに過ぎないのではないか。世界よりもむしろ<わたし>のうちに「裂け目/切断」がある、その可能性を認めなければならない。
パキスタン大地震 緊急支援募金
オバハンこと督永忠子さんからの呼びかけです。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/tushin23.htm オバハンからの気まぐれ通信23
地震支援のために以下の基金を立ち上げました。皆様のご支援をお待ちいたします。また、出来るだけ多くの方々、お知り合いへも配信して下さい。
執行についてはあまり語られない。
法的思考は死刑判決というものをもってそこに執行の意味がすでに含まれるとし、執行というものは意味のない自動過程であるかのようにみなしたがる。わたしたちもそのような発想から逃れられない。しかし本当は違うのだ。判決を目指す公開の正義のゲームが時として数十年を要する複雑なドラマであることを人は知っている。しかし<一瞬>と語られるであろう執行もまたそれに劣らぬ複雑なアスペクトとドラマを持ったものであるのだ。ただそれらを語る言説を私たちがもっていないだけで。