軍事大権の総括者(11/22追加)

スワンさんからコメントいただいた。

# swan_slab 『

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

こないだの憲法13条観(長谷部VS松井)と絡んで、私自身は民主的政治過程によっても奪うことができない【個人の尊厳】という観念を認めます。べつにマイノリティの人権がどうのということ以前に、多数決によっては奪うことができない本源的な生の平等を信じます。立憲主義は民主政を限界付けると考えます。

民主政は究極のポピュリズムに堕する危険を防ぐことができないし、制度的な欠陥や官僚制などに支えられていることなど、いろいろな意味で、民主政にそこまで信頼を置けないというのが正直なところです。

スワンさん、コメントありがとう。

わたしは「国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っている」とはとうてい思えないのです。国民の意思がどこにあるか、60年安保のような大騒動でも起これば議論の余地もあるがそうでない限り首相の意思がそれだと推定されます。という法的、政治的常識は覆しようもありません。ただまあネットという自由な言論空間の一部において、あらためてわたしたち一人ひとりの意思を確認することは別にやっても良いことだと思ったのです。

ただ国民という言葉を使ってしまうことには、それだけで一定の土俵(国民国家)の上に載ってしまっているという危惧(懸念)もあるのですが。

つまり上記の文章は、日本を民主主義国家として肯定的に把握しているという主張ではありません。(そうも読めるでしょうが)民主制についての判断はスワンさんに非常に近いと思います。

 ところで、私が最も強く訴えたいことは、下記にも書いたけれど、

・・兵を出した以上撤兵することは(どんな場合でも)非常に困難なことだ。

・・したがって、どのような条件において兵を退くということをあらかじめ厳格に定めておき、その条件を越えたら直ちに退かなければいけない。

・・条件違反の判断をきっちりしなければいけない。

ということです。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p1

これは、日本遺族会の会長の古賀誠氏の言っていることとほとんど同じであり、戦後日本が出発した時における「最低限」の反省であるはずです。*1

スワンさんが冬山登山の検討会の例で実感をこめて訴えたいとしておられることも内容的には同じだと思います。

 ところが小泉氏にはそうした問題意識が全くうかがわれず、首相(

軍事大権の総括者)としての最低限の条件を満たしていません。ある思考回路もった人々にとっては愛国テロの対象になるでしょう。

*1:なお、図式的にいっておくとわたしはほぼ極左であり遺族会とは多くの点で対立する。

あなたのなかの「善」を信じる

山下京子さん、被害者の母が、「酒鬼薔薇」が本退院することへの現在の気持ちを語っている。

 今年の8月、私どもは彼からの手紙を2通受け取りました。

 あれほど、「まずは手紙で、謝罪の思いを本人から伝えてほしい」と切望していたにもかかわらず、私はすぐには読む気になれませんでした。

 手紙を読んで事件の真相を知りたい、彩花の親として真実を知らなければならないと思う一方で、もしも、今よりもさらに辛(つら)く苦しくなって、自分がどうにかなってしまったらどうしよう、という怖さがこみあげてきたからです。

 そんな葛藤(かっとう)を繰り返しながら、10日が過ぎ、ある程度動揺がおさまった私は、ひとりで手紙を読みました。

 あくまでも私信なので、内容を社会に公表するつもりはありませんが、少なくとも劇的に私の気持ちを揺るがすものではありませんでした。そして事件の核心に触れるものでもありませんでした。

 しかし、2通目の手紙は人から強制されて書いたものではなく、彼の本心を吐露したという感があり、出会ったこともない彼の声を聴いているようで、読み進めていくうちに涙を流している私がいました。

 その涙の意味は自分でも理解できないのですが、憎悪や恨みという種類のものではなく、もっと静かな、ただただ哀(かな)しい、というのが一番近い感情でしょうか。

 そのときに思ったのは、仮退院時のコメントと重複しますが、彼が「社会でもう一度生きてみたい」と決心した以上、どんなに過酷な人生でも、人間を放棄しないでほしい。彩花の死を無駄にしないためにも、生きて絶望的な場所から蘇生(そせい)してほしいということでした。

 だからといって、けっして彼の罪を許したわけではありません。

 それでも、彼の「悪」に怯(おび)えるよりも、わずかでも残る「善」を信じたいと思うのです。

http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20041214/20041214i515-yol.html

児童殺傷事件・加害男性の退院前に遺族がコメント (読売新聞) – goo ニュース

大掃除

 家の外の道路を掃いていてふと上を見ると、木に汚い枯れ葉がたくさんついているのに気がついた。名前を知らないつるつるした葉の常緑樹にアフリカ原産のやたら生命力の強い朝顔が一面に巻き付いて今なお花を咲かせようかという勢いだ。大きな朝顔の葉は緑のときはましだが、枯れると焦げ茶色に縮んできたない。地面をいくらきれいにしても上から枯れ葉がすぐにまた落ちてくる。そこで蔓を切って朝顔を取り除いてしまえ、とやり始めたが、手が届くところはよいが、蔓をたぐり寄せても切れてしまう高いところにはどうしても残る。細い枝に何重にもより太い蔓が絡みついているのを少しづつほぐして取り除いた。結局小一時間かかって朝顔の一部を取り除いた。やれやれ。

 たった一坪強の庭でも、植物はたちまち手が届かなくなる高さまで繁りまわる。植物も生き物であり彼らの勝手に生きているのだ。

従軍慰安婦とデリダ

(1)

 id:noharra:20050119#p4では、裁判過程に登場する「慰安婦」の声が文脈を構成することの困難としてあるのに、裁判官の側はそれを、自動的に自分の文脈においてだけ評価し残りは切り捨て、それが当然だと思っている。という趣旨の岡野氏の文章を引用した。すなわち、デリダのいう<亡霊>としてわたしたちの前に彼女たちは現れた。

また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。

(略)あるいは、ナチの強制収容所というおよそ証言不可能な場所から生き残った人が、長くまもっていた沈黙を破って語り出す言葉のことを考えてもよいだろう。だがこうした言葉は客観的な出来事の証言であるばかりではなく、さまざまに矛盾し、時間的に混乱したものとしても現れてくる。彼らの経験した出来事が、およそ単純に現前するようなものではなかったからである。デリダに言わせれば、こうした発言を受け止めることが亡霊の声に応えることである。亡霊の命令や約束は、つねに自己分裂・自己矛盾しながら容赦なくつきつけられる命令や約束なのである。(廣瀬)

p119『デリダ』林好雄・廣瀬浩司 講談社選書メチエ isbn:4062582597

(2)正義を求める

正義に対して正当な態度をとる必要がある。

最初の正義とは、正義の言い分を聞くこと、正義がどこからやって来て、われわれに何を要求するのかを理解しようとすること。 

このとき、正義がやって来て要求をなすのは、特異なもろもろの固有言語を通じてであることを心得ていなければならない。

(cf.p47 『法の力』デリダ isbn:4588006517

正義は、他者の特異性へ自分を送り届ける。

われわれの特異性、すなわちわれわれの基礎が検証されなければならない。

正義を取り巻くわれわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界についての問いかけを絶えず喚起しつづける、ことが必要だ。

(cf.p47 同上)

“われわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界”とは天皇にほかならない。したがって天皇有罪という四文字は、それに賛成するにせよ反対するにせよわたしたちの思考の原点におかれる。誰もが知っている(のかも知れない)天皇有罪を決して口にしないという黙契のうちにわたしたちの社会は存在していた。「天皇有罪を口にすること」は有罪か?わたしたちの社会はその問いにどう答えるのだろうか?

・・・・・・・・・・

・・・天皇有罪・・・

・・・・・・・・・・

天皇有罪、をある人のある主張として理解するのではなく*1、わたしたちの起源、基礎、および限界として解剖していかなければならない。

「天皇有罪を口にすることが許されないこと」は、正義すなわち「ある公理への信奉者が脱構築によって宙吊りにされる瞬間*2」という体験から隔てられていることを意味する。

*1:天皇が有罪かどうかは、正義の言説ではなく、法の言説内部でしか決定できない。

*2:p48同上

彼女はどのような問題なのか。

返事が遅くなってすみません。

余裕もないのに、ある人につっかかったりしてしまい困ったものです。

 差別語問題の前提は、社会の現実と言説空間において大きな歪みが存在しているということです。その場合において、ある人が何気なくある言葉を使うことで、別の人を傷つける。それはある人が別の人を差別したことになる。何気なくある言葉を使うことがある人を権力的に上位におく行為になる*1そうすると、具体的な被害者がいなくても、そういう場合は差別的行為をしたことになります。ただ、<大きな歪み>を誰が認定し、行為者に認識させていくのかという大きなアポリアがあります。ある差別問題が社会的に認められるまでは、なんらかの“当事者による暴力的な糾弾”がないと、それが「問題である」とは誰も思わない。

 従軍慰安婦はサバルタン(認識されない人)です。現在、「それが存在したのかどうか?」が論点になっているようですが、かってはそんな論点は存在しませんでした。存在はした*2、だが、それが「問題である」とは誰も思わなかったのです。(非日本)アジア人女性は差別されて当然の存在であり、彼女たちが声を挙げる可能性はないと思われたのです。声を挙げても誰も聞かないだろうと。ところがある時“暴力的な糾弾”の代わりに彼女たちは裁判提訴という形を選択しました。それが大きく取り上げられることにより、彼女たちは初めてサバルタン(何か言っても聞き取ってもらえない人)ではなく半ば主体となったのです。しかし彼女たちの主張はほとんど(時効などの理由で)否認されました。そこで民衆法廷という新しいプロジェクトを行い、日本とアジアの民衆に広く訴えかけることにより、問題設定を公認させようとしました。しかし、2000年現在においては、すでに新しい右翼運動も起こっており、日本のマスコミに大きく取り上げられることはありませんでした。このような状況下で安倍晋三問題は発生した。問題は大きく騒がれても私が指摘したような状況認識を欠いたものがほとんどです。

 このような認識に立つとき、広い意味で日本の法律の世界にある人が「法は法である」みたいな立場で、「不快」を発言するのは、はなはだおかしいと思われます。

ところで、「実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。」野原はそういうタイプだった。反省!

とりあえず。

追記:

迅速に応答できず心苦しいのですが、できればどんどん継続していってください。よろしくお願いします。

(今は2/5ですが、2/4分に上げます。この日付操作は読者の皆さんにも迷惑かもしれませんが、発言順より、あるテーマをひとまとめにすることを優先するという方法を今のところ取っています。決定稿の前の段階でUPしてしまうのも迷惑でしょうね・・・ いろいろすみません。)

*1:同じ言葉を使ってもたぶんいつもそうなるとは限らない。

*2:ボルネオ島のバリクパパンの慰安所設置については、当時海軍主計中尉であった中曽根康弘元首相が回想録『終わりなき海軍』(文化放送開発センター出版部、78年)で自ら慰安所を作ったことを記述しており、軍が設置したことを示す証拠となっている。

  法廷・続(概念集6との関連で)

  法廷・続(概念集6との関連で)

 概念集10、11でも取り上げたナターシャさんに対する判決公判が1月31日に予定されていたが、1月17日の地震の影響で2月28日に延期された。

 1月31日までの段階では、概念集10~11に記した提起に関連する法廷の〈外〉部での論議のズレの突破に関心を集中していた私は、提起を法廷の〈内〉部へ居ける余裕ないし機会を持てなかった。地震による延期によって、初めて私がナターシャさんと意思交換をおこなう時間と姿勢をつくり出せるようになった意味は大きい。次のぺージ以降に掲載する〈ナターシャさんへの/からの手紙〉を参照していただきたい。それぞれの表現は、まだ〈序〉の段階であるとはいえ、この事件の各当事者、特にナターシャさんによる把握を深化させる契機になっているのはまちがいない。

 2月28日の法廷には、これまでで最も多数の傍聴者が参加し、入廷できない人もいた。私は入廷するナターシャさんの姿を見ていない。というのも、裁判官が入廷する時には、廷吏が「起立!」と号令をかけ、大抵の人(検察官、弁護人は全員)は起立するが、私は起立したことがなく、この日も座ったままだったので、前列の報道陣(13の全ての席が今日は埋まっていた。)の背中が、裁判官と同時に別のドアから入廷してくるナターシャさんを隠したのである。この事実は、マスコミがこの事件の巨大な意味を隠していることの象徴でもあると翌日の記事(このぺージ右に掲載)を読んで感じた。

 判決は一区切りずつ裁判長によって朗読され、通訳が被告人に伝えた。判決は懲役8年の実刑ではあるが、930日(全勾留期間!)を刑期に算入しており、求刑12年から統計的に予測した場合の実刑10年、365日の刑期算入に比ぺると好意的であるともいえる。しかし、それは判決理由で事件の情況性や日本社会の責任に全くふれなかった(ふれることの怖ろしさに気付いた)裁判官の、せめてもの良心の証であるのかも知れない。

 ナターシャさんが退廷する時に一瞬眼が合い、私が手紙に記した法廷での私の指定席?との関連で私を識別したかの女が、ひときわ明るく微笑しているのが印象的であった。かの女は、舞踏を終えたように一礼してそのまま裁判官用とは別のドアへ向かって歩き出してから、あ、しまったというように手錠~腰縄を持ってやや困った表情の看守の方へ戻った。手錠~腰縄を花束のように受け取ったかの女は、ドアの所で手を振って去った。この一連の過程で、かの女は形式的な手錠~腰縄を解体し、超えたのであり、それは、判決の〈軽さ〉にホッとしたという以上に、権力や一般常識による事件把握を軽やかに飛び越えて、これからの監獄の向こうの、確実に子どもたちの待つ未来につながる旅へ楽しさを込めて出立して行く姿勢に対応していた。法廷が、これほど法廷らしくなく輝いて見えたことはない。

註--今後の服役期間は最大限に考えても2000年秋までであり、それまでに仮釈放の可能性も大きい。私たちのカレンダーに2000年の日付が出現した!【G12-12】

 p12 『概念集・12』~1995・3~

ヘイトスピーチの自由??

 2ちゃんねるなどでは下記のような人たちがいるとのこと。

この問題に関して「ヘイトスピーチも表現の自由に含まれるのであって、それに対しては対抗言論(more speech)によるべき」と(ある種原理的な)表現の自由市場論を展開する人たち

http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000098.html Dead Letter Blog : Hate speech は存在するか

(1)名誉毀損表現であれ何であれ全ての言論・表現の自由は保障されている。ただし他人の権利(例えば名誉権)を侵したとなれば話は別で、比較衡量の結果制約を受ける。つまりヘイトスピーチは原則許容→例外不許容、という「内在的制約説」。

(2)一般的な表現とは区別される「ヘイトスピーチ」なるものが実在し、それはそもそも憲法的保護に値しない。ただし公益性のある場合、公人に対するものである場合は許容されうる。つまりヘイトスピーチは原則不許容→例外許容という説。

上の問題をどう考えるべきか、よく分かりません。

君が代をめぐるスワンさん発言

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050320#p1

君が代をめぐる諸問題

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p3

靖国問題のフィロソフィ

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041003

「君が代と日の丸と式典」

スワンさんは、J・ロックだけじゃなく、数世紀間のフランス、アメリカの動向にも目を配りつつ論じている。

一番有名なのはこれかな。

http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk195a2.htm

1943USA連邦最高裁 バーネット事件連邦最高裁判決

東京都からの処分後退?

<転送歓迎>

「都教委包囲首都圏ネットワーク」のW*1(千葉高教組)です。

東京都教育委員会は本日(3月31日)、卒業式の

処分を発表しました。

内訳は、

小学校3名、

中学校1名、

障害児学校4名、

高校44名です。(計52名)

減給10分の1を6ヶ月間が4名(3回目の不起立者ら)、

減給10分の1を1ヶ月間が10名(2回目の不起立者ら)、

他は戒告(1回目の不起立者ら)です。

また、本日、青年法律家協会の弁護士が、竹の台高校でのビラまきの際に荒川警察署が不当な妨害を行ったことに対し、抗議に行きました。

警官20名が弁護士を包囲して、警察署の敷地内に一歩も入れない状態で、約40分くらい対峙してたそうです。その後、記者会見が行われたとのことです。

詳細は追ってお知らせしますが、今回、3回目の不起立者が停職とならなかったのは、やはりこの間の闘いと世論の高まりが大きいと思います。

彼らはそこまでできなかったのです。

起立している教職員もほとんどは強制反対です。また、世論調査でも強制には反対が多いのです。私たちは道理ある多数派なのです。

(略)

*1:野原が匿名化