「アウシュビッツ」なしで日本はやっていけるのか?

id:clawさんの発言より

・・・過去の侵略戦争と植民地支配について、南京大虐殺について、従軍慰安婦制度について、日本の為政者は「和解のための言葉」を持っていない。別にキレイゴトでなくていいのだ。「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないようにして、今後のショウバイに支障の出ないようにするか」という打算さえあれば十分である。ところが実際には打算も戦略も存在しない、独自の戦略がないから「自分自身の言葉、あるいは少なくともオリジナリティを感じさせる言葉」もない。

・・・なぜそうであったかについて考えるのもよいが、とりあえず一つの参考すべき例として、かつては共にファシズムの枢軸をなしていたドイツ、その政治家の言葉に注目してみよう。重要なことは「過去への反省」うんぬんではなく、「これからの長期戦略を踏まえて、今どうする、そのために何を語るか」ということにある。

http://d.hatena.ne.jp/claw/20050128

▼CLick for Anti War 最新メモ – オトナになる方法

日本は、中国、その他のアジア諸国の民衆に対し「大東亜戦争」において大きな加害を行った。

 謝罪は行われたか。「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたこと」について1994年村山首相は、反省とおわびをした。これでは不充分だと思う。わたしたちは「アジアの大義」を掲げて世界大戦を戦った。それなのにゲリラでもないアジア民衆の女性・子どもをレイプしまわっていた。女性国際戦犯法廷で64名の被害証言女性たちなどによって明らかにされたことから判断すると、性奴隷、レイプといった面だけから考えても、日本軍の行為はアジア人蔑視という根本を持っていたといえる。「アジアの大義」を掲げながら、レイプしまわっていたことは、絶対的矛盾である。誇りある者なら深く恥じる、という場所から動くべきではない。

clawさんの意見は、倫理とは別の見地からのものである。罪が罪であることをアジア諸国が忘れてくれる、あるいは無理矢理忘れさせることができるのならそれでも良いかも知れないが、それができないのなら、「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないように」するための「反省のための言葉」をもたなければどうしようもないんじゃないですか、と言っている。 安倍某をはじめとする人々は一見勇ましそうだが、勇ましそうな言葉を吐くことで国内的にだけ自らを慰めているだけだ。恥ずかしいだけなら良いが、国益を損ねているのではないか。

クリスマス休暇

guldeen 『ところで「慰安婦」証言の中の「日本軍の“クリスマス休暇”の時期」ってなんですか?』

えっ。わたしの引用の中には「クリスマス休暇」という言葉はないですよね。下記がソースかな。

http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1101741339/ 祝★朝鮮人元売春婦の金よこせ請求を棄却

88 :日出づる処の名無し :05/01/17 22:05:34 ID:wm7v9Do8

405 名前: 名無しさん 投稿日: 02/12/27 19:44 ID:UoVjc+9Y

「日本軍のクリスマス休暇には1日数十人の相手をさせられました。

今でもクリスマスが近づくとあの地獄の瞬間瞬間を思い出します。」

「精液をかけられ過ぎて、今でも牛乳やバターを受け付けれません。 」

「食べ物がないって言ったらこの死体の人肉を煮て食え」

「行為を拒否するとヘビでいっぱいの水溜まりに落とされた」

「性病にかかったと言ったら「無菌化する」と言って秘所に焼けた鉄棒をつきさされた」

「女の首をはね大鍋で煮てその煮汁を飲まされた」

「妊娠したら腹を裂かれ胎児を引き出された」

「精液を浴び過ぎて今でもマヨネーズが食べられない」

「ある占領地では74歳の老女まで強姦された。 」

参考HP

アジア女性基金 推奨 http://www.awf.or.jp/06.html

「従軍慰安婦問題」再考

http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/542b/542/542ianhu.html

「9時から6時までは一般の兵士、6時から10時は下士官、10時以降の泊まりは将校と、寝る間

も与えられなかった慰安婦たちは、男の腹の下で食事をした」

戦時中の日本にはクリスマス休暇やぶっかけもののAVがあったらしいです(藁

山田盟子著「女性たちの太平洋戦争」より。なのかな?

慰安婦たちの太平洋戦争―秘められた女たちの戦記:山田 盟子 ISBN:476982078X のことかな。ソース位ちゃんと書けよ。

慰安婦というのはどこの国の人か分からないけど、その人(あるいは通訳)がクリスマス休暇と表現したということでしょう。日本軍にはクリスマス休暇というものはなかったのかもしれませんが。

(2/13 20.58追加)

被害と加害

# index_home 『こんにちは。>そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。<この「誰が」を外に(特に中国・韓国等)に向けている人たちが多いのが昨今の現状なのかもしれないと思います。「多くの日本人が被害者だった」そのとおりです。でも、だからこそ「加害」の事実にあまり目が向かない、向けたくないという現状もあるのだと思います。日本の戦争に関する事実認識や教育などは、そこで歪みが生じているとも言われているようです。』

index_home hikaruさん、はじめまして。

被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。被害者だったという親(祖父)の世代は、軍部のせい、とかいってちゃんと恨みを持っているように思っていました。

 id:index_home:20050305#p2でソロモン諸島のことに触れておられましたが、同じ被害者といっても、南の島で苦労した人と内地にいた人も大部違うえしょうね。南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。

 加害の事実については、下記も見てください。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm(わたしたちは忘却を達成した)

愛国心

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、

α・自立した生活を自分で建設すること  β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること  γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと  くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。

 どうしたらいいんでしょうね~

森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)

自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。

この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。

(略)

結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。

http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/aikokushin.htm

“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。

 愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。

 愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。

*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ

君が代の強制は教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害する

 この論点についての反対派の代表的意見として東京弁護士会のものを掲載する。いまさらですが。

 東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/toukyou-benngosikai-ikenn.htm「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見

3 教育の場における「国旗・国歌」の取り扱いと、思想良心の自由への配慮の必要性

(1) 「君が代」・「日の丸」には、戦前の軍国主義国家における歴史的な経緯があり、国民主権という憲法の基本原則にはふさわしくないとの信条を持つ国民は少なくない。かかる意味で、「君が代」の斉唱を行なうか否か、「日の丸」を掲揚するか否かはまさに個人の思想良心の自由にかかわることである。

  日本弁護士連合会も、1999年の「国旗・国歌法」の国会上程に対して、会長声明で、「『日の丸』『君が代』は・・過去の忌まわしい戦争を想起させ、被害を受けた諸国民に対する配慮の面からも国際協調を基本とする現行憲法に相応しくないと指摘する声も少なくない。」、「『君が代』の歌詞は国民主権という憲法の基本原則に相応しくないとする意見があることも事実である。」、「政府は、法案は『日の丸』の掲揚、『君が代』の斉唱を強制するものではないと説明している。しかし国旗・国歌が尊重されるのは、国民的心情によるものであるべきで、法制によって強制の傾向が強まることは問題である。」、「今回の法案上程は、国民の間における混乱を持ち込みかねないものであり、あまりに性急と言わねばならない」として、国旗国歌法の制定に伴い、その掲揚・斉唱の強制の傾向が強まって、思想良心の自由を侵害する事態を懸念していた(1999年7月14日)。

(2) 学習指導要領においては、1989年以来、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱「するよう指導するものとする」とされている。しかし、学習指導要領は、「児童・生徒に対する教育をつかさどる」教師が教育を行うに当たっての大綱的基準を定めたものであり、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」ものであることに照らし、学習指導要領の内容が「教師に対し一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような」ものであってはならないとされている(1976年5月21日旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決(以下「旭川学テ判決」という))。ましてや、子ども達が学習するに際して、学習指導要領により学習内容を強制されることなどあり得ないことである。そのため、これまでは、成長発達の途上にあり、思想良心の形成途上にある子どもに対し、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱することを強制することが許容されるものとは考えられてこなかった。

(3) このような事情から、1999年の「国旗・国歌法」の制定に際しても、これを審議した国会において、当時の小渕内閣総理大臣は、「国民に対して強制することはない」旨答弁し、さらに、児童生徒に対する「国旗・国歌」の指導について「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。(1997年7月21日衆議院内閣委員会内閣総理大臣・小渕恵三)」と述べていた。

  また、起立をしなかった児童生徒がいた場合の指導のあり方に関し、国会審議の中で「何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならない (1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会政府委員)」と答弁されていた。

  「国旗・国歌法」制定の際には、「学校における『国旗・国歌』の指導は内心にわたって強制するものではない」し、「学習指導要領は、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」旨が、政府によって繰り返し確認されていたのである。

(4) そもそも、学校は、子どもにとって人格の完成をめざして学習し、成長発達する権利を充足する主要な場なのであり、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」(旭川学テ判決)のであるから、学校において学習指導要領に基づいてなされる、「国旗」の掲揚・「国歌」の斉唱に関する指導に当たっては、それが、思想良心の形成途上にある子ども達への強制にわたらないような条件を確保する必要がある。

  そのためには、学校において日常的に思想良心の自由が確保されている実態を経験できることが必要であるとともに、児童生徒にたいし、事前に思想良心の自由を説明し、「国歌」斉唱時に「国旗」に向かって起立しない自由があることを説明し、起立しない自由を選択しても不利益を受けないことを説明し、そのような不利益を被ることがない状況を確保するなどの教育指導上の配慮が不可欠であると考えられる。

  現在、わが国でも多民族・多文化共生が求められる社会になっており、様々な国籍や文化・宗教の子ども達が、ともに学んでいるという学校の現状がある。「国旗・国歌」の指導に際しては、こうした外国の子ども達が自己の文化を享有し自己の宗教を信仰する権利への配慮の観点からも、上記の説明は重要である。

 さらに、教育は、教員と児童生徒の信頼関係において行われる。教員が児童生徒にたいして「国旗・国歌」への起立斉唱を強要することは、起立斉唱したくない児童生徒との信頼関係を損なわせることとなり、児童生徒の信頼できる教員から教育を受ける権利をも侵害することになる。

風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

JR西日本は何のために戦っているのか?

その路線(福知山線)は阪急電鉄と競合している(梅田-宝塚間)。というかわたしのような昔の人間にとっては阪急のイメージの方がかなり勝っている。これはJRの関係者にとって不愉快な事態だろう。だとしてもJRはなぜ勝ちたいのか?株主の利益のためか。

 率直に言って、あまり意味がないことに近視眼的心情を燃やしているのではと思う。鉄道は利用者の為にある。JRは勝とうとするために無駄なエネルギーを使うべきではない。

三大考とは

(ロートレアモン風に言えば)

“まぐわい”の上での太極図と創世記の突然の出会い

のようなものか。

天皇を中心とする政治のしくみ

「天皇を中心とする政治のしくみ」を聖徳太子が造ろうとしたというが。崇峻天皇を殺したのは蘇我馬子であり、太子はその同盟者であった(ことになっている)。「太子漠然として、曰く「此れ、過去の報なり」と」*1

もちろん、偉人としての太子がフィクションなら上記もフィクションだろう。だがそうでないという立場で記述するなら、上の疑惑にも答えて貰いたいものだ。

複雑怪奇な日本史を小学生に数頁で教えるのは不可能に近い。しかし日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁、後者が4頁である。事実かどうか不明の聖徳太子になど頁を割かず、平安時代にもっと頁をさくべきであろう。

平安時代では「藤原氏は、むすめを天皇の后とし、生まれた子を天皇にたて、天皇にかわって政治を進めていました。」と記述されている。この記述の水準からいっても上記のスキャンダルには答えるべきだろう。

「天皇を中心とする政治のしくみ」というのがどういう意味か全く確定できないのがこの混乱の原因だ。単に中央集権国家という意味で使いたいのか、あるいはすべての人民の存在の全てを捧げ奉るべき天皇という狂信主義へのベクトルをあながち拒否しない使用法なのか、それともまた別の意味なのか、まるでわけが分からない。

「訳の分かったような分からないような」言葉やフレーズを呑みこんだふりをして生きていく術、などわたしは子どもに教えたくない。

*1:「聖徳太子伝暦上」

それは敗戦ではなかった

 戦争に負けることは誰のせいで負けたのかという責任者を捜して叩くことにつながる。ところが日本では東条以下十数名は、天皇を中心にした支配層がアメリカに差し出した犠牲であり、最初から憎悪の対象ではなくしばらくしたら許されるべき存在だったと思われる。日本という同一性はいささかも傷を負わずに敗戦を生きのびてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050226#p3