虐められたから開戦に至ったのではない

時代の空気は変わり、日本の右傾化は留めようがないのだろうか?

 長期不況とあいつぐ危機に痛めつけられて、人々の心は傷ついた。情緒不安定で自己愛に満ちたナショナリズムを呼び起こした。この気分にとりつかれると、戦前も今も、国際認識が歪む。

http://www.ceac.jp/j/column/backnumber.html

 満州建国は絶対悪であると中国は主張する。わたしもだいたいそう思う。だが読者の皆さんはそう思いたくなければ思わなくても良いとわたしは思う。だが、「なかった派」のようにナルシズムにふけり、事実から全く乖離した歴史像をもてあそびはじめるのは、日本の遠くない過去の歴史に照らして危険!であることははっきりしている。

 満州事変以後、もし日本が国際協調的な外交路線をとれば、日本は全面的破滅を招かずにやってゆけたであろう。しかし満州事変の「成功」を見て軍人の後輩たちは先を争って大陸への軍事の進出を繰り返すようになった。対外強硬論と軍事力の発動が国益に適う立派な行為と国内では称賛された。国際協調論や他国の意向を配慮しての慎重論は愛国心を欠く「非国民的」な議論として侮蔑された。こうして30年代の日本はブレーキのない対外強硬論の社会へと傾斜した。

 言うまでもないが、国際社会は日本のそうした認識も行動も受けいれない。軍事侵略を受ける中国をはじめアジア諸国が悲鳴をあげ、反日感情をつのらせるのは当然である。西洋諸国にとっても、日本がアジアを排他的に支配するのは許せない。英仏蘭など既得権を持つ国にとって、それは脅威であり、米国も日本の暴挙に怒った。対中強硬論は、ドイツなど一部の粗暴な現状打破国を除く「世界を敵とする戦争」へと連なったのである。国際認識と対外行動の逸脱が日本を亡ぼした。

http://www.ceac.jp/j/column/050209-2.html 五百旗頭真

以上は高校の教科書に載っていることと大差ない。したがって引用する必要もないわけだが、そのような常識に反することを言い立てることを喜ぶひとが一部にいるため念のために引用する。

五百旗頭真さんは政治学者です。本は読んでいません。決して左翼ではない。

皇軍を裏切ることは罪か?

 1944.8.11の少し前、二人の皇軍兵士が脱出について相談しています。

 今日でもほとんどの兵隊が「グアムには救援が来ない」「日本は敗ける」と七、八分まで諦めている。しかし、あとの二分、三分の未知数がいざとなると問題である。「じゃ、脱出して生きよう」ということになったら、僕と星野上等兵がそうであったように「ひょっとして救援が来たり」「日本が敗けなかったり」したらという不確実な部分が急に大きな力となり、重石となってきて、それをはねのけるのは容易ではない。

 都合の悪い兵隊をさけ、内密でそういう話をもちかけることは、いまの状況下では至難だった。事をあせって無理押しすれば、企図がばれる危険が多分にある。元も子もなくなるようなことは、避けたかった。

 二人だけで決行するよりほか仕方なかった。残った戦友から足倒され恨まれることは、目をつむってこらえよう。力のある者は、あとからついてくるだろう。「あとで騒ぐだろうなあ」と星野上等兵がいった。「高橋少尉や渥美准尉などは、何といったって問題じゃないし、むしろ、僕はいまこそ“見ろ”といってやりたい気持だ。ほかの連中に悪いと思うが、この際どうにもならない」

 しばらくしてから星野上等兵がいった。「おふくろに悪いような気がして仕方がないんだ」

「裏切るような気がして?」

「理屈では分かっているんだよ。心の底では、どんなことがあっても息子が生きていてくれたほうがいいにはきまっている。だけど、そのためにおふくろが世間にたいして重荷をしょうことになると、かわいそうでならないんだ」

「世の中は変わるよ。世間の道徳観念は、急に反対のものにはなれないだろうが、少なくともいままでのようなことはなくなるよ。それでも悪ければ、日本へ帰らないようにするんだね。死んだ人間として生きるんだね」

 この議論は、いちど解決できたものの蒸し返しだった。しかし、世の中が変わるという見通しが、僕の場合よりも星野上等兵の場合は非常に稀薄なようだった。どちらかといえば僕は、安価な、楽観的革命論に落ちがちであり、星野上等兵は、現状の社会組織から考えが脱却しきれないものがあった。星野上等兵に聞かれるままに、僕の考える新しい社会のアウトラインを説明した。彼は自分の母にたいする感情を、それで濾過しようと努めているようだった。

 認識票と印鑑を土に埋めた。グアムの土に。兵隊としてのおれは、あるいは、日本人としてのおれは、ここに埋まるのだと思いながら。

 ついに最後の乾パンが星野上等兵の雑嚢からとり出された。一枚の乾パンを二人で半分に割って口に入れた。

「これでおしまいだよ」

 星野上等兵は僕に、そう念を押した。

(p356-358『私は玉砕しなかった』横田正平 中公文庫isbn:4122034795

 この翌日かに彼らは走り、米軍に白旗を掲げ捕虜となる。捕虜としての待遇は良かった。皇軍では考えられないような贅沢な缶詰の食事。だが話はそこで終わらない。最後の乾板を二人で半分に分けて食べた友星野上等兵。「彼は投降してから急に陰鬱を超して、とげとげしくなっていた。僕にたいしても容赦なかった。母への未練が、彼をさいなみ、投降を後悔させているのではないかと想像した。」

 1947年3月横田は帰国できた。その後新聞記者に戻り、1985年に亡くなるまで活躍し続けた。だが彼は投降にまつわる上記のような話は一切口にせず、また再三の原稿依頼にも応じなかった。*1

“星野上等兵のおふくろ”は横田が死ぬまで彼を抑圧し続けたといえるのだ。

 横田さんがグアム島で白旗を掲げて投降し、捕虜となって敗戦後ハワイから帰国した話は新聞社のだれもが知っていた。私も本人からではなく、だれかから聞いた。しかし、どんなに親しくなっても、いや、親しくなればなるほどそのことは話題にできなかった。(略)

 戦争が終わってまだ一二、三年後のことである。(略)「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は理屈では莫迦げたことであっても、多くの死霊に囲まれた当時の人の心の片隅には澱のように残っていた。(同上書、石川真澄氏解説より、)

 仮に思想的批判があったにしろ同じ釜の飯を食った戦友である。生きるも死ぬも一緒という絶対的連帯がなければ軍隊というものは崩壊していくだろう。皇軍が絶対悪であるとすれば話は別だが、そうでない限り横田氏の行為を潔白と強弁することはできないだろう。「日本が日本である限り彼は裏切り者だ」。だが「日本は日本であり続けている」のだろうか。日本は負けた。戦陣訓を掲げた日本は負けたのだ。であればなぜ戦後の日本に亡霊としての“星野上等兵のおふくろ”は生きのび続けるのか。たしかに「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人と、投降者との間には絶対的な格差がある。だが「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人たちは投降者を敵視し裏切り者と指弾するだろうか。一年間ジャングルの中でトカゲのシッポなんかを食いつないで生きのび餓死寸前で生還した兵たちは、自分たちをそういった境遇に追いやった将校たちを自分たちで糾弾していくことはなかった。だがどちらか言えばそういう気持ちだったのではないか。投降者に対しては「上手いことやりやがって」という憤激はあったとしても、自分のなかにもそういう選択肢はあったはずであり批判を口にするまではいかないような気がする。戦場に行かず自ら手を汚さなかったものたちは、陰湿な非難をする。横田は確かに裏切った。だがきみたちもまた戦争体制への翼賛からGHQ翼賛へ消極的であっても決定的な転向をしたはずだ。大勢に従ったことは言い訳にならない。膨大な兵士たちは何の為に死んでいったのか?それは「日本という同一性」のため、などではないはずだ。逆に少なくとも一部の兵士は「日本という同一性」のために死ななくてもよい死に追いやられた。

*1:この本(原題は『玉砕しなかった兵士の手記』)は没後遺族によって発見され出版されたもの。書かれたのは捕虜になってまもないころか、帰国後の早い時期らしい。http://www.iwojima.jp/data/handbill.html(投降勧告ビラ)には、この本にも一切触れられていない秘密が記されている。

「ナショナリズム否定」の是非

# hal44 『野原さん、

ナショナリズムのよい使い方って、近年の例ではちょっと思いつかないですね。議論はあるでしょうけど、拉致問題に関しては、あのナショナリズムの高揚が、問題を不必要に拗らせてしまったと私は思いますし、レイチェル・コリーの件に関しては、アメリカ世論のナショナリズムは全く盛り上がりませんでした。ジェシカ・リンチとの扱いの違いとか考察の対象としては面白いですけどね。

社会開発研究とかで、第三世界に於ける、ナショナリズムの経済発展のための不可欠性みたいな事は議論されてますが、そのくらいかな、ナショナリズムが役にたつのって。』 (2005/03/26 00:48)

(野原)

 横田めぐみさんに焦点を当てることによって、「北朝鮮=悪」という排外主義が勝利するという不愉快な情勢が成立したことはまちがいありませんね。

竹島と独島は別の島だと思っていたという人が居て、そのとおり別の島ですよ、ということにしておいても、困る日本人韓国人はそれほど多くないと思うのですがね。さて。

 レイチェル・コリーの名前を利用することにより「レイチェルか/イスラエルか」という問題を焦点化することができる。「テロリストか/イスラエルか」という二項対立ではなく。ただアメリカ国内ではシオニストの影響力がものすごく強いので反シオニズムは少数派にとどまっているわけですが。

 ナショナリズムをどう考えるかはやはり難しい問題に成ってくるように思います。以下は、hal44さんの考え方に対する批判ではありません。

 戦後の進歩派は戦争の反省から「ナショナリズムからの卒業」といった態度を取っていたように思います。彼らが反日米安保、反自衛隊と結びついているうちは欺瞞が少なかったでしょうが、60年代以降安保反対を実際に追及する勢力は少数派になりました。進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。「生きて俘虜の辱めを受けず」というスローガンを作り多くの国民を死に追いやった責任も、「負けに決まった戦いをさっさと終わらせなかった責任」も、アメリカに対する原爆は戦争犯罪だという告発もしてこなかった。

「ナショナリズムからの卒業」派は、中国や韓国の国家ナショナリズムに対しては寛容でダブルスタンダードかもしれない*1。現在北朝鮮の人権状況を真剣に告発しないのはまずいと思います。

「ナショナリズムからの卒業」派は自身戦争を体験しながら、自己の存在を切り裂くようにはそれを総括せず、他人事のように全否定した。加害者としての側面を持つことを否定できない兵士たちの体験と自分たちを切り離し、ナショナリズムから絶対に卒業できない兵士たちを遅れた暗い存在と見なし放置した。

 ちょっと一方的な書き方になりましたが以上のような面もあると思います。

ナショナリズム否定論は正しいと(一応)思うのですが、その正しさの基準とは何なのか。最近学者とつき合って分かったことは「論文は正しく書かなければいけない」ということで、そのような正しさの基準で自分の全体(発言)を規制しているとするとそれはちょっと違うんじゃないか、と思っています。書斎で何冊かの本を読みこの考えが一番正しいと言い得たとしても、そう判断した自己は抽象的空間に存在する自己にすぎない。血しぶきを浴び飢えに苦しみ慰安婦を抱いたその体験の総体から、切り離されたところで「正しさ」を成立させてしまうことは、現実を極端に平板化させてしまうことになります。

「ナショナリズムからの卒業」というのは私の勝手なネーミングで、hal44さんの考え方には当てはまらないでしょうが、わたしが割り切れないとうじうじ感じているのはどこらあたりかを書かせてもらいました。

*1:貴重な例外として韓国民主化運動との連帯の運動があります

認めるはずもないじゃない

# KMR 『十条さん、それとおそらくnoharraさんもそうだと思いますが、

私が問題としているのはあなた方の主張する「手紙を渡す」という『目的』の

是非ではなく、「学校に乗り込む」という『手段』の方是非です。

何度も書きますが、手紙を渡すだけならば郵送すれば済むことではないですか。

あるいは、azamikoさんの娘さん・Kさんに託して渡させるとか。

学校側は式典準備(押しかけたのは予行中)で多忙だったでしょうし、

昨今の教育現場が同様の国旗君が代問題で揺れているのは

彼らにとっても懸念だったことでしょう。

その状況でまさにピンポイントに、その国旗君が代問題で都の教育行政を

批判する文書を配布することなど、認めるはずもないじゃないですか。

元々のazamikoさんのエントリーのコメント欄でも指摘しましたが、

学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは

充分な説明をしていません。

揺ぎ無い正当性があるというのなら主張されているだろうし、

そもそも当日警察を呼ばれても構わず主張すれば良かったのではないでしょうか?』 (2005/04/06 08:23)

# KMR 『追伸。

>校長が認めていた場合にそうなる可能性はどのくらいですか?

逆の仮定で質問する意図が掴めませんが・・・。

都立高校の校長が、構内で保護者による都の教育行政を批判する文書の配布を認たら、ですか?

それは校長の管理責任を問われることになるので、「式典が崩壊」とは別の騒動になる可能性があるでしょう。

まさか、「式典が崩壊しなければそれで良いじゃないか」という反論を通すおつもりですか?

それはあまりに勝手な主張ではないでしょうか。』 (2005/04/06 08:31)

# 十条 『>「学校に乗り込む」という『手段』の方法の是非です。

論点をずらしてますよ。校長にとって、彼女の来校という手段は望ましくなかったかも知れない。でも私が指摘した論点はそこではない。そういう状況での校長権限の「運用」が論点なのです。

今回のケースでは、来校されてここにいる、手紙だけ渡して帰ってくれたら秩序が混乱するわけではない、だから手紙を渡して帰ってくださいね、という対応(校長権限の運用)もありえるわけです。ところが手紙を渡すと秩序が崩壊するみたいに、大げさに騒ぎすぎるのは、私から見たらアホみたい。大げさに騒ぎすぎ。』 (2005/04/06 21:09)

# KMR 『その辺は、azamikoさんの言動から見て目的が「手紙を渡すこと」だけとは受け取られなかったのではないかと考えています。

azamikoさんが、教頭に預けるとちゃんと教師達に届かないのでは無いか、と危惧したのと同様、教頭の方もazamikoさんの行動を疑い何かとんでもないことをやらかすのでは、と危惧したのではないでしょうか。

まあ、azamikoさん本人はそのつもりは無かったのでしょうが、あのエントリーに書かれたやり取りを見ると、azamikoさん自身の態度が相手の硬化を招いた、いわば自業自得のように思えますね。』 (2005/04/06 23:55)

# 十条 『本当にセキュリティ上の危惧が懸念されるような状況なら、校長と直接会う、という事態は起こっていないでしょう。セキュリティリスクが生じないという判断があったら、危機管理の常識で考えたら、3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。でも校長は会ってますね(笑)。つまりそれは、セキュリティ的に問題が生じていない、という判断があったということですよ。

KMR さんは当初、式典破壊の企図した行為に「他ならない」と確信をもって語っていたのに、結局は「危惧したのではないでしょうか」という憶測しか根拠がなかったわけですね。憶測だけで「他ならない」と語ってしまうその軽さ、とってもミットモナイと思う。』 (2005/04/07 00:30)

# KMR 『>3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。

校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

最優先で守るべきは生徒たちでしょう。

ただ、前にも書きましたが式の予行中だったということをお忘れですか?』 (2005/04/07 00:51)

# KMR 『えーと、こちらが再反論してる状況なのに申し訳ないですが、azamikoさんの所でのやり取りで、この件について議論する意欲が失われてしまいました。

議論というのが勝ち負けを決めるものか、何らかのコンセンサスを求めるのか、それは各人によって異なるところですが、azamikoさんの所での議論を主、

こちらでの議論を従と捉えていたものを、あちらでの議論が上記のどちらも

望めないモノと判断した以上、こちらでの議論も無意味に思えてきました。

こちらの主張は全て引っ込めますので、負け犬とでも何とでもおっしゃって構いません。

どうもご迷惑をおかけしました。』 (2005/04/07 01:50)

# 十条 『>校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

そうですね。平時ではそうですね。ただ、リスクありと判断した場合は校長は会わず誰かが代理に立つ、となるのが危機管理の定石(式典の前日だからなおさらそう)。ところが校長が会っている。ということは「平時」状態・リスクなしと判断されたからですね。つまり、リスク発生という認識ではなかったという、なによりの証拠でしょうね。

式の予行中がどうかしましたか?3人を予行終了まで待たせて、職員室付近で会わせればいいだけの話。まさか、教師が予行の会場から直帰すると思っておるのですか?

とにかく話を大げさに、大げさにしないと気がすまないのですか?』 (2005/04/07 02:02)

甘ったれに未来はない

ただし、ドイツがはっきり謝ってきたのは、ユダヤ民族の抹殺という人類史上まれな行為に対してである。しかもすべてをナチスの罪として葬り去ることができた。日本とはいささか条件が異なる。

(若宮啓文)20050425朝日新聞

なんて甘ったれたことを言っているのか。アウシュビッツが現在まで「人類史上まれな」決して許されざる行為であり続けているのは、行為のひどさが客観的尺度で測って、皇軍の行為よりひどかったからではない。ユダヤ人たちが団結しその知力と財力を傾けてそのような認識を世界に定着させ続けているからである。一方、日本軍が蹂躙したのはアジア人たちでしかなかった。彼らは基本的には(この十年ほどの)中国と韓国を除けば、国際的力関係においてものの数ではなかった。だから日本は今までろくに反省せずともやってこれたに過ぎない。小泉首相はボタンを掛け違え、修復に成功していない。わたしたちはこのツケを払うのにあと50年は*1掛かるかもしれない。

*1:いやもっと

古事記の神 (間のあいた続き)

えーと、一ヶ月ほど前、古事記の1番から17番までの神の名を掲げました。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050421#p1

それ以後も宣長『古事記伝』を読もうとはしているのですが、遅々として進まず、まだ(2)のp44です。古事記の最初で有名なエピソードは、イザナミ「啊,汝俏壯男也!」イザナキ「啊,汝麗美人也!」*1

と、イザナミが死んでイザナキが黄泉国へオルフェウスのように追いかけていく話の二つです。ですが、野原はそこは省略し、「故,吾者當為御身之禊!*2

汚いところにいっちゃったから禊ぎしよう、とイザナキは言った。」ところから。12柱の神が出てくるがいずれもマイナー。

117. 衝立船戸神 (つきたつふなと)

118. 道之長乳齒神 (みちのながちは)

119. 時量師神 (ときはかし)

120. 和豆良比能宇斯能神 (わづらひのうし)

121. 道岐神(道俣神) (ちまた)

122. 飽咋之宇斯能神 (あきぐいのうし)

123. 奧疏神 (おきざかる)

124. 奧津那藝左毘古神 (おきつなぎさびこ)

125. 奧津甲裴弁羅神 (おきつかひべら)

126. 邊疏神 (へざかる)

127. 邊津那藝左毘古神 (へつなぎさびこ)

128. 邊金甲裴弁羅神 (へつかひべら)

面倒なので二つだけ例を挙げるが、次のようにすべて「投げ棄つる・・・神の名は・・・」と列挙されている。

投げ棄(う)つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神。(略)

投げ棄(う)つる御褌(はかま)に成れる神の名は、道俣神。

 『古事記伝』ではけっこう14頁も説明があって、最後に、前半の六神は陸の路(くにがみち)の神、後の六神は海つ路(ぢ)の神なり、とされている。

 道俣神 (ちまたの神)は文字通り、分かれ道に立つ神、塞(さえ)の神ですね。最初の船戸神 (つきたつふなとの神)(又はふなど)は、船という字があるので海を連想するのは間違いで、「杖が突き立っている道の曲がり角という名の神」だそうで、やはり塞(さえ)の神ですね。本(もと)の名前は“来なとの祖(さえ)の神”と一書にある。塞(さえ)の神とは、異境との境に神がいて外界からの悪霊邪気の侵入を防ぐ、そうした神である。邑落の境に「船戸の神」が石や木で立てられていた。だから衝立(つきたつ)船戸の神になっていると。*3

「袴の股の分かれたるところ“ちまた”の如し」と『古事記伝』にある。脱ぎ捨てられたパジャマのズボンのように曲がりくねり、最初とはまったく違った方向へ向かってしまう細い分かれ道を想起する。辻という漢字は日本で作られたものだそうだが、古事記より前の時代には、そうした直角に交差する十字路という物自体ほとんどなかったのではないか。十字路が成立するためには道が太く平でまっすぐでなければならず、それを可能にする交通と文明の光が必要である。その光を得て大きくレベルアップした塞の神が猿田彦*4であるが、ここでは十字路がなかった時代の塞(さえ)の神を感受しなければならない。

*1:久遠さまヴァージョンhttp://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/kojiki/01.htm#kamiumi01

*2:同上版

*3:cf.西宮一民・神名釈義

*4:神名釈義No276

追記

水玉消防団の上記レコードを数年ぶりにA面だけ聞いてみた。良かった。カムラのベースなどのリズムが重層的野性的で。上記は1981年の制作。概要は次の通り。CDにもなってるんだ。「ピーターパンにはなれない」が良かった。 

http://home.att.ne.jp/alpha/voice-arrow/mztama.html

2002/11/23の時点では、ヴォーカルの天鼓が水玉消防団21なんてユニットを組んでライブもやっているらしい。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/1400/sound/live_021123.html

http://www.asahi-net.or.jp/~uh5a-kbys/discj/mizutama.htm 水玉消防団/満天に赤い花びら

amgunさん。バトン回してくれてありがとう。

水玉消防団は「ギャルバンの走り」などとも言われるらしいけど、メンバーの半数が30を過ぎて初めて楽器を手にしたという、驚異のオバサン(失礼!)パンクバンドでした。その傾向性(フェミニズム)の濃さにもかかわらずサウンド重視の男の子にも一目置かれていたように思います。

(霊の真柱やっと読了)

近藤一さん講演会

日時:7月10日(日)  13:00受付 13:30開始

場所:名古屋市教育館 第8研修室

    (地下鉄栄駅下車 3番出口から北へ徒歩すぐ)

資料代:500円

講演:ある日本兵の二つの戦場

    第1部 証言 中国山西省と沖縄の戦場で

    第2部 今日、現地を訪問して思うこと

講師:近藤一氏(こんどうはじめ氏)

     1920年に三重県で生まれる。40年に入隊後、翌年中国山西省独立歩兵

    第13大隊第2中隊に赴任、治安警備やいくつもの作戦に参加。

      44年、上海より沖縄に渡り、嘉数高地の激戦や首里攻防戦に参加。

    南部に撤退し「万歳突撃で米軍の捕虜に。

     戦後、「初年兵教育」としての中国人刺殺から沖縄戦の悲劇まで、

    その「加害と悲劇」について学校や集会などで語り続けている。

     今年、社会評論社より「ある日本兵の二つの戦場‐近藤一の終わらない戦争」

    (内海愛子・石田米子・加藤修弘編)が出版された。

主催:不戦兵士・市民の会 東海支部

    連絡先:TEL 090-2184-9078

聖徳太子はフィクションではないのか?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p5

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p2

以下で書いたのですが、一昨日ある集まりでもハードコピーを何人かの方に渡しました。

ブログだとどんなことでも書けるが、紙を渡すとなると気のおけない仲でもひどく“恥ずかしい”。こうしたメディアが表現内容に及ぼす影響といったものも興味深い。

 テーマは、扶桑社教科書が騒がれているが、現行の指導要領に従った普通の教科書も、一部に見逃し得ない問題が問題がある! というものです。

聖徳太子はフィクションではないのか?

(1)子供の小学校教科書を見て、聖徳太子が大きく取り上げられているのをみて、疑問に思った。

「偉人としての聖徳太子」の存在は歴史学においてはほぼ否定されている。(参考:大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫など。

「憲法17条と『三経義疏(さんきょうぎしょ)』が聖徳太子の作品でないということは今日の古代史学会の常識に属することであるし、聖徳太子の実在を証明するものと考えられてきた天寿国繍帳も後生のものであることは間違いないのである。p36」)

 それに反し、教科書(私が見たのは大阪書籍H17年2月発行(3大書 社会613))では、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問題意識のもとに彼の17条憲法をはじめとする業績が紹介されている。

小学校学習指導要領解説に次のようにあるので、このような聖徳太子の紹介は文部科学省の指導をそのまま実現したものである。

 “「天皇を中心とした政治が確立されたことが分かる」とは,聖徳太子の政治や大化の改新によって政治の仕組みが整えられたことや,奈良時代に天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることである。(略)

 実際の指導に当たっては,例えば,聖徳太子の肖像画やエピソードなどからその人となりを調べる学習,大仏の大きさから天皇の力を考えたり,大仏造営を命じた詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習,(略)などが考えられる。”

 聖徳太子は日本の基礎をつくった偉人であると日本書紀に描き出され、またそれだけでなく民衆の大きな信仰の対象でもあった。しかしいずれもそれは7世紀初めの歴史的現実ではなく、8世紀以降に作り出されたものであった。事実でない人物を登場させて彼の「願い」を小学生に理解させようとすること、これが子どもが日本人になるためにどうしても必要な第一歩なのだろうか。非常に疑問に思う。

(2)<願い>とは何か?

この教科書でおかしいと思ったところは、日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁(最初の平城京の見開き2頁鳥瞰図を含めて)、後者が3頁である。私の大学受験歴史の感覚では当然後者の方が比重が大きいと思っていたので意外に思った。しかし飛鳥・奈良時代が“くにの始まり”の時代であり、歴史やアイデンティティのためには枠組みが必要であり、それを与えることなしには何も始まらないという発想もありうるだろう。かりにそれを認めたとしてもこの教科書の描き出す飛鳥・奈良時代は余りにも偏向しているのではないか。

飛鳥・奈良時代は、p18-25なのだが、p18に、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問いかけがある。p20-23は大仏建立が主題。p21に「わたしは仏教の力で国じゅうが幸せになることを願っている(略)」という聖武天皇の願いが8行にわたって記されている。p22には「多くの農民にしたわれる行基」が大仏づくりに協力したと述べられる。p25では、「教えのためには命をおしんではならない」とした鑑真が、5回渡航に失敗したのちやっと日本に着いたことが記される。8頁を通して“命を惜しまないほどの強い願い”でもって国造りを押し進めるといったイメージが与えられる、とも読める。わずか134頁で日本の歴史の全てを語りきらないといけないから大変なわけですが、この8頁だけが特別に精神性が高いように感じた。

(3)

歴史学者が科学の名に於いて、教科書からの聖徳太子の抹消を主張しても、大衆はけげんに思うだろう。右派がちょっと扇動すれば抹消反対が絶対多数になるだろう。わたしたちはどうしたらよいだろうか。とりあえず、飛鳥・奈良、平安時代をたった13頁で分かりやすく小学生に伝えるにはどうしたらよいか、自分なりの日本史像を造り、教科書を試作しようとしてみるべきかもしれない。もちろん、指導要領に囚われず、自由な立場で。その場合「日本史」である必要はないわけだが、ではどうするのかが問われる。

(2005.7.16 noharra  )

参考:指導要領   http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p7

   指導要領解説 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p8