東条有罪?

ポツダム戦争受諾によって長い戦争が終り、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、復員*1)戦士も銃後の庶民も、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。

(吉田満「戦後日本に欠落したもの」*2

「東条有罪。」というタイトルは適当ではないかもしれない。

男も女も老いも若きもが、戦争中の自分の根源にある一切のものを抹消したいと願った、と上の吉田の文章は言っている。

その願いは性急なものであった(ように書かれている)。自己/他者の戦争責任を追求するという困難な課題に取り組もうとする姿勢につながるものではない。

ただ、「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という巨大な共通体験だけが存在した。したがって「戦争はいけない」という文言は単なる美しい言葉ではなく、巨大な共通体験に裏打ちされたものであった。

しかし即自的な体験はいくら巨大なものであっても、60年経ったらすみやかに崩壊する(ことも多い)。

「戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したい」という切迫あったのなら、「東条有罪。」が求められたことになる。

自己の戦争責任から逃れるために東条を犠牲にした、と語りうる場合もあるかもしれない。自己の戦争責任にあらためて真摯に向きあうのだという決意を持つ場合は。

「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という体験自体を歪曲しようとする勢力が大きくなっているのが現在である。わたしは途方に暮れる。

 しかし、戦争にかかわる一切のものを抹消しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらには戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。

(略)

 日本人はごく一部の例外を除き、苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務にしばられていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さのなかに埋没した。

(同上の続き)

*1:福音。野原註

*2:p9『鎮魂 吉田満とその時代』isbn:4166604368

新しい野蛮状態!

 何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか?*1

 21世紀に入ったいま、おそらく世界中の人々の多くがこの問いを、(再度)強く問いかけざるを得ない時代になっている。

 カントによれば、啓蒙とは「他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」から抜け出すことである。*2

(悟性は、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、認識を成立させる。

理性は、悟性作用を統一し体系に纏め上げる。)

つまり、理性というものは体系の正しさ無しには成立しえない。カントにとっては自然科学(ニュートンなど)の勝利が体系の正しさを保証したと考えられた。しかし自然科学以外の領域では万人の認める体系は、いまだすんなりとは成立していない。

カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。

しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。

p130-131*3

 理性は素材を体系に纏め上げる能力であるから、体系という視点から見て見えにくい部分は無視し勝ちになる。

 一般的なものと特殊的なものとの同一性は「純粋悟性の図式」によって保証されている、とカントは考えた。しかしながら保証が必要だったからそうなっているにすぎなかろう。わたしたちの社会では「存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。」学校や工場や事務所は加工と管理のシステムである。生きることを点数や金額という数bitの数字に変えてくれる。

 「その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。」

 「理念」や「ユートピア」という言葉はいまは流行らないのですが、それはそれをある既知を延長した平面に存在しうるものと矮小化して考えてしまったからではないか。そうではなく既知の平面を離れた垂直性のベクトルとしてなら〈ユートピア〉は非在の輝きをかいま見せるのではないかと思われた。

*1:序文『啓蒙の弁証法』

*2:参考p127『啓蒙の弁証法』

*3:『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー・アドルノisbn:4000040545

1989年天安門のハンストの書

 この光まばゆい五月、われわれはハンストを行う。このもっとも美しい青春のときに、われわれは一切の生の美しさを後に残していかざるをえない。だが、なんと心残りで、不本意であることか!

 にも拘わらず、物価が高騰し、役人ブローカーが横行し、強権が掲げられ、官僚が汚職している状態に国家がたち至り、多くの志をもつ人々は海外へ流浪し、社会の治安が日増しに悪化している。この民族存亡の瀬戸際にあって、同胞たちよ、すべての良心ある同胞だちよ、どうかわれわれの呼びかけに耳を傾けてほしいI・

 国家はわれわれの国家であり、

 人民はわれわれの人民であり、

 政府はわれわれの政府である。

 われわれが叫ばずに、だれが叫ぶのか?

 われわれがやらずに、だれがやるのか?

 たとえわれわれの肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとってはまだ重すぎるとしても、それでも、われわれは行く。行かざるをえないのだ。歴史がわれわれにそう求めている!

 われわれのもっとも純潔な愛国の情が、われわれのもっとも優秀な無垢の魂が、「動乱」だと言われ、「下心がある」と言われ、「一部の人間に利用されている」と決めつけられた。

 われわれはすべての誠実な中国公民に請い願いたい。ひとりひとりの労働者、農民、兵士、市民、知識人、社会の著名人、政府の役人、警察官とわれわれに罪名を与えた人に請い願う。

 あなたがたの手を胸に当てて、良心に問いかけてみてほしい。われわれになんの罪があるのか? われわれは動乱なのか? われわれが授業をボイコットし、デモを行い、ハンストし、身を捧げるのは、いったいなんのためなのか? だが、われわれの感情は再三にわたって弄ばれた。われわれが飢えを忍んで真理を求めても軍警察に打ちのめされ、学生の代表がひざまずいて民主を求めても無視され、平等の対話を要求しても再三延期され、学生リーダーは身を危

険にさらしている……。

 われわれはどうしたらよいのだ?・

 民主は人生でもっとも崇高な生きる感情であり、自由は人が生まれながらにさずけられた権利だ。しかしこれらはわれわれ若い命と引き換えにしなければならないとは、これが中華民族の誇りなのか?

 ハンストはやむをえず行い、行わざるをえないのだ。

★ 生と死の間で、われわれは政府の顔つきを見てみたい。

★ 生と死の間で、われわれは人民の表情を探ってみたい。

★ 生と死の間で、われわれは民族の良心をはたいてみたい。

 われわれは死の覚悟をもって、生きるために闘う!

 しかし、われわれはまだ子供だ。まだ子供なのだ! 母なる中国よ、あなたの子供たちをしっかりと見つめてほしい! 飢えが無情にも彼らの青春をむしばみ、死がまさに近づくとき、あなたはまだ手をこまねいていられるのか?

 われわれは死にたくない。われわれはしっかりと生き抜きたい。

 なぜならわれわれはまさに人生でもっとも素晴らしい年齢なのだ。われわれは死にたくない。しっかり勉強したいのだ。祖国がいまだこのように貧困であるとき、われわれは祖国をおいて死ぬ理由はない。死は決してわれわれの求めるものではない!

 だが、ひとりの死か一部の人間の死で、さらに多くの人々がよりよく生きられ、祖国が繁栄するならば、われわれには生き長らえる権利がない。

 われわれが飢えるとき、父母よ、どうか悲しまないでほしい。われわれが命と決別するとき、おじさん、おばさん方、どうか心を痛めないでほしい。われわれの望みはただひとつ。それはあなたがたにより良く生きてほしいのだ。われわれの願いはただひとつ。どうか忘れないでほしい。われわれが求めるのは決して死ではないのだということを!民主は数人のことではなく、民主的事業も一世代で完成するものではないのだから。

 死が、もっとも広く永遠のこだまとなることを期待する!

 人将去矣 其言也善

 鳥将去矣 其鳴也哀

 (人のまさに去らんとするや、その言や善し。鳥のまさに去らんとするや、その鳴や哀し)

 さらば、仲間たち、お身体をお大切に! 死者と生者は等しく誠実である。

 さらば、愛しい人、お身体をお大切に! 心残りだけれども、別れを告げなければならない。

 さらば、父母よ! どうぞ許してください。子供は忠と孝を両立させることはできない。

 さらば、人民よ! このようなやむをえない方法で忠に報いることを許してほしい。

 われわれが命をかけて書いた誓いの言葉は、かならずや共和国の空を晴れ上がらすであろ

                              北京大学ハンスト団全学生

 *1

*1:p214-217 譚璐美『「天安門」十年の夢』isbn:4105297031 より

平和

いまある戦争の不在を絶対化してはならない。現在の国家バランスの中でも「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」はおおいに存在する危険性がありしたがってそれらと闘っていかなければならない。排外主義を排し平和を守り、よりよい平和をつくって行かなければならない。そう読めばよいと思った。

ケチは地球を救う

「人間の欲望の絶対量はたかが知れており、そう持っていたいとは思わないのだが、生産・所得と人間の価値とがつなげられていることによって、持つことの意味が肥大していくし、人はそれに下属することになる。」*1

その通りだと思う。例えばステーキ食べるにしても一人で2枚食べればせいぜいだ。旨い魚を食いたければ産地まで行けば倍もしない値段で良いのが食える。車はコンパクトカーの方が運転しやすいので楽だ。それ以上のものに「ステータス」とやらを感じるという文化によって辛うじて支えられているにすぎない。百チャンネルもあるテレビを契約したって一体何チャンネル見れるというのだ。パソコンも十万円ほど出せばしたいことは全て出来るようになった。消費が更新しないのも無理はない。一方でホームレスはどんどん死んでいく。分配は可能だから「してあげる」のではなく、「することに決めてしまう」のが良い。と立岩は言っている。

*1:p148『自由の平等』

デモとか好きなわけじゃないが

「私にはテロと戦う覚悟など一切ありません。万一、わたしの家族や親友がテロの犠牲になったらどんなことがあっても、小泉さんあなたに復讐します。イラク戦争はテロリズムの危険を増大させるだけだと、最初から分かっていたのに、あえて支持したのは小泉さんの責任ですから。」

http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/tentoHP-topB.htm

反戦ビラ入れで起訴、糾弾! 3月19日付で、反戦ビラ入れで弾圧を受けた3名の逮捕者が全員起訴されました。

野原でも言及したhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20040228

上記の件で、3人とも起訴というのはさすがにびっくり!! 日本はこのままいくと表現の自由とか政治活動の自由とかひょっとすると、数年でなくなる可能性もあります。皆さんも声をあげてください。

はい、デモに行って声をあげてきました。

「自己責任」論批判

http://www1.jca.apc.org/aml/200404/38896.html に小倉利丸さんからの「自己責任論」批判がでています。2ちゃんねらーに悪のりした形で、政府や一部マスコミは「自己責任」論を唱えている。要するにこれは、ヴォランティアやジャーナリストを「戦争遂行」という目的に対するノイズとしてまずもって捉える、という戦争主義の言説である。例としては、「自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに、大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題」(読売社説)など。

一部引用します。

わたしたちは、イラクにおける人質事件以降、政府および一部のマスコミが今回の人質事件の原因を危険なイラクに出向いた被害者たちやその家族にあると批判しはじめていることに大きな憤りを感じています。このような「自己責任論」による世論形成が、人命を軽視した安易な武力行使にむしびつき、今後のNGOなどによる海外での活動を大きく制約しかねないという危機感を大変強く持っています。政府や一部マスコミの主張する自己責任論は間違っています。

ところでわたしは自衛隊員が死んでもそれは自己責任だから国民は悼む必要はない、と主張している。自衛隊派兵は合法性の元に行われた。しかし非戦闘地域が無くなった今活動を続けるのは、違法である。*1また、その法律自体正当性が疑わしいものであって、今回の派兵には正義は存在しない。正義に沿わない職務遂行は形の上で「公務」であるだけだ。

海外における邦人保護について、彼/彼女が戦争遂行に沿わない行為を取っているときに差別的取り扱いをすることには反対である。

*1:「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を 通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。 テロ対策特別措置法と間違えていた。

安田、渡辺インタビュー

いまさらですが、安田、渡辺両氏のインタビュービデオをみた。何げなく見始めたら実は約1時間もある長いもの。見応えがあった。二人が自然体で、あったこと感じたことをしゃべっていて良かった。渡辺氏は「反日で何が悪い!」と発言。わたしのごとき“あいまいな反日派”にとっては励まされる発言だった。

○安田純平さんと渡辺修孝さんの27日の外国特派員協会の会見の映像(ノーカット版)

http://www.videonews.com/asx/fccj/042704_detainee_300.asx