旧日本軍の人体実験、外国人犠牲者のリスト見つかる
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戦時中に旧日本軍に逮捕された後、関東憲兵司令部から731部隊に特別移送され、細菌を使った人体実験の犠牲となった外国人(「特移扱い」と呼ばれ
た)22人の名簿と資料が1日、中国の歴史研究者によって初めて公表された。犠牲者は旧ソ連の兵士やスパイ、旧ソ連のために活動していた朝鮮人スパイな
どで、旧ソ連人15人、朝鮮人6人。
名簿と資料は、旧日本軍が未廃棄のまま残し、黒竜江省・吉林省の資料館や中央の資料館に保存されていた日本語書類の中から見つかった。書類は関東憲
兵司令部司令官が署名発行したもので、外国人犠牲者の氏名・性別・年齢・本籍地・職業・身分・当時の住所・逮捕地点とその理由、各憲兵隊長による「特移
扱い」伺い、関東憲兵司令官による承認番号などのデータが、比較的完全な形で残っている。(編集NA)
「人民網日本語版」2005年8月2日
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太初に日神があって、
イザナキ、イザナミが国生みをしたのは天神の命を受けてであるという要素は、古事記と日本書紀の一書一に出てくる。
これは新しい追加要素だと思う人もいるかも知れない。けれども、このような要素は沖縄の創造型神話にもあるのだ。
p75 大林太良『日本神話の起源』徳間文庫 1990年
オモロ「昔始めからのふし」に、次のような話があるという。
太初に日神があって、伏して下界を見ると、島のようなものがあったので、アマミキヨ、シネリキヨの二神に詔して、これを治めしめることにした。二神は天降って数々の島をつくり、日神はさらに詔して、そこに天つ民をつくらずに国つ民をつくらせた。(同上)
次に、新井白石は次のようなアイヌ神話を記録している、ということのようだ。
蝦夷島の世のはじめに、老夫婦が来たり住み、食物が乏しいので苦しんでいた。夢に神が現れ、二人に、これをもって海をかきさぐって食物を獲よと教えた。目が覚めて、かたわらをみると、舟のかいがあった。教えに従って、それで海をさぐると、白く泡立つ下から魚がかずかず浮かび出たので、捕らえて食物としたのが始まりで、今の世までその魚が主な食料となった。ニシンがそれである。老夫婦の子孫がふえて、今日のエゾが島の人々になり、二人はその住んでいた江刺の地に神としてまつられ、老夫を恵比須といい、老婦を姥の神という。
(p76 同上)
アイヌ神話とはいっても、これは日本から入ったものだろう。「日本のオノゴロジマ神話の異伝あるいは派生物とみられる。というのが大林さんの見解。生活苦のリアルさみたいな話になっているのは作られた時代が新しいからだろうか、興味深い。
於是天神諸命以(天神の命を以て)
二神が 立天浮橋而 指下其沼矛以畫者 鹽許袁呂許袁呂迩畫鳴而 引上時、 自其矛末垂落之鹽累積 成嶋。是淤能碁呂嶋。
つまり、この三つの話においてはいずれも、「天神」とそれに命じられる神との関係は存在する。だが「海をかき回して」「島を作る」の、前半だけはアイヌにあるが、後半は古事記にしかない、ということになります。
もう一つの「女王の教室」
「女王の教室」終わりました。ちゃんと見てないけど。面白かったんですが、結論は新自由主義かい! みたいな思いもあり・・・
ところで、田島先生は、かっこいいね!
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50073630.html ララビアータ:希望
経験のある人には実感できると思うが、ホームパーティをうまく主催するためには、ある種「女性的」といってもいいような高次の感覚が必要となる。多方面に注意を張り巡らし、パーティに出ているどの人にも疎外感を感じさせず、それぞれの持ち味を引き出すように、さりげなくエンカレジせねばならない(これは、多くの皿を回し続ける皿回しの技にちょっと似ている)。どの参加者にも、内に引きこもっているよりも、自己を(できればエレガントに)表現するほうが楽しいという気分になってもらわねばならない。また、参加者のつたない自己表現からも、その最も面白く美しい部分を掬い取り、そこに光をあてるような上演をせねばならない。知らず知らずに自己(のより美しい部分)を表現し、受け入れられ、また受け入れられたことに気付いて、あるいはそうした新しい自分に気付いて、帰途に着いてもらうようにせねばならないのである。
オペラ座の正面階段を上るにつれて、心の中が音楽の予感に、シャンペンのように泡立つ――そのような祝祭的気分がかもし出されなければ、とても社交とは言えない。(同上)
(引用しなかった部分に「女王の教室」を思わせる部分が有ったのです。)
君主の責任
君仁莫不仁、君義莫不義、君正莫不正。
(『孟子・離婁章句上』p49岩波文庫版下)
君主さえ仁愛が深ければ国じゅうみな仁愛が深くなり、君主さえ義を重んじれば国じゅうみな義を重んじるようになり、君主さえ正しければ国じゅうみな正しくならないものはない。
原文 http://chinese.pku.edu.cn/david/mengzi.html
日本語訳 http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book8-2.html#16
君主を評価するという発想が、儒教の中には脈々と流れていたことが分かります。「天皇は神聖にして侵すべからず」に始まる国家無答責の思想が、東洋の伝統ではないということが。
戦争がなくなればそれでいい
禍津日神も戦争を憎んで、それを去らなければ戦争を下されるが、それは善人に戦争を下す神さまではない。戦争を承知しない神様である。戦争がなくなればそれでいいという神様である。ここに戦争を祓うことが可能になるべき道理がある。(略)
それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。
(p98山田孝雄『平田篤胤』畝傍書房 昭和17年)
これは嘘です。山田孝雄はこんなこと書いていません。「禍」と「穢れ」を戦争に置き換えてみました。
憲法9条の絶対平和主義を馬鹿馬鹿しいと今頃はみんな言うが、それはそうかもしれない。でも、<日本の伝統>に副ってないこともないのである。
憲法9条は<近代の超克>のヴァージョンアップ、いや戦争に負けたのだからヴァージョンダウンか?まあどちらにしても<近代の超克>の変種と理解しうる。憲法改正は<近代の超克>をさらに超克するといった形でしかなされえない、と思う。思想的に露骨に後退するようなことをするのは有害無益だろう。わたしは憲法9条が絶対だとも正義だとも思っていない。だが今時語られている改正案は程度が低すぎると思う。
だいたい、長い長い日本の歴史の中で最も優雅さから遠かった昭和の20年間に郷愁を持つとは、DV依存の変態か!
切断と現前のマジック
どんなことでも、我ながら「すらすらと平気に」どんどん出来てしまうのは幸せなことだし、そこに“ある真実”があることも疑えない。しかるに、上記折口の文章ではそのことに対し「不思議に思う」とされている。
凡庸な解釈では、行為する自己/意識する自己 の対立において後者の優位を信じるのは愚か、ということになるのだが、ここでは置いて、折口に従う。
「上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代」と宣長は言った。*1そうだとすると、わたしたちは現代人でしかありえず、古は理解しえないことになる。しかし宣長の主張はそうではなく、古事記は「いささかもさかしらを加えずて古より言い伝えたるままに記されたれば、その意も事も言も相かなって皆上代の実(まこと)なり。」わたしたちが求めている真実はすでにここ(古事記)に「古の語言(ことば)」として在る!「上つ代の言の文(あや)も、いと美麗しきものをや」!
宣長は上つ代を後の代から切断しながら、古事記に感動する宣長という回路だけに於いては、古はいままさに現前すると考えた。単に理解できるだけはなく現前し感動を与えるのだ。*2
宣長による切断と現前のマジックは、弟子たちにはもはや何のパラドクスとも感じられず、だたただ古言(伝統)が勉強され研究されつづける。その流れの中で、万葉が「すらすらと平気に」読めるようになってきたのだ。
「すらすらと平気に」のまっただ中で、ひとはそれに異和を感じることはできないはずだ。なぜ折口だけが「なぜこんなに、すらすらと平気に」という疑問符を提出することができたのだろうか。
*1:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040913#p1
*2:この<感動>が現在の靖国問題にまでつながってきた。
数分他人のブログを読んで分かる!こと
ネットでちょろちょろ、数分他人のブログを読んだくらいでなーにも分かるはずないだろ、という罵倒には十分根拠がある。
しかしその逆の面だってあるのではないか、という提起
noharra 『 そうですね。Panzaさんのいわれる通りですね。「その言葉を使っちゃいけないのか?」と問いを立てると議論になり、使う側には使うだけの理由があり紛糾してしまう。そうではなく、ただの感情論ではなく力を持った(おおげさに言えば関係の絶対性からの声に近い)発言には素直になるという態度を学びたいと思います。
「だから初めてブログを数分読んだからと言って何が分かるものでもない。」というのもまあ半分は嘘。1分でも数分でも、インターネット越しでも、かなり微妙な問題も分かってしまうことはあるものですから。
CLさんへ。 わたしは根が無作法者なんですが、(良い方に)誤解してもらっているようですので、これ以上言いません。まあぼちぼちよろしく。』(2005/12/07 21:26)
mojimoji 『何か、一発で分かってしまうこと、ってありますよね。何かが「十分に」分かったということではないのですが、しかし、分かってなかったことを発見させられて、認識枠組が大きく変化するのを感じるというか。そういう瞬間。
自立生活してる重度障害者に初めて遭遇したときもそうでしたが、sidoさん(とその近くにいらっしゃる施設出身者の人たち)のブログを見たときにも、何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。』(2005/12/07 23:27)
noharra 『mojimojiさん
sidoさんたちのブログを(アンテナを通して)紹介してくれてありがとう。
「何かが物凄い勢いで分かった感じがしました。スゴイですよね。」とわたしも語れるようになりたいと思います。彼らのブログの(向こうにある/なかにある)現実はあまりに重い。だが(わたしの力量には余りに重い)と結局のところ切り捨てるのではなく、「分かる」というその思いを大事にすべきなのでしょう。
CLさんもここだけで分かったとか言ってないで、読んでください。彎曲を覚悟しなければ触れられない真実がそこにあるかもしれないから。』(2005/12/08 06:02)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20051203#c
コメント欄より
概念集・5 目 次
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概念集5に関する序文 |
1 |
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幻想性と級数展開 |
3 |
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批評概念を変換し… |
7 |
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ゲームの(不)可能性 |
9 |
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スピット処理に交差するモアレ |
12 |
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電報の速度 |
14 |
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表現における遠心と求心 |
16 |
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資料の位置 |
18 |
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爆風の現在 |
20 |
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救援通信最終号を媒介する討論のために |
23 |
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裁判提訴への提起 |
25 |
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肉体と身体に関する断章 |
27 |
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包囲の原ビジョンへ |
29 |
必死に「市民投票運動する」女性たちを見て(訂正前)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120107#p1 を訂正しました。訂正前分は下記のとおり。
必死に「市民投票運動する」女性たちを見て
石に彫りつけるほどの、祈りをこめて、言葉を彫りつけよ。
さて、康有為は、中国の人心が十分覚醒していないという現状認識を論拠として、「革命すれば内乱を引き起こす」と言った。*1
これに類似の論理は現在でも、よく見ることができるものだ。
韓寒の、中国人の民度論がそうだ。(私は韓寒の根拠に同意したい気持ちもある。ポーランド以西はともかくロシア以東では89年の変革は下部民衆にマイナスをもたらしたのではないだろうか。その原因は日本と共通する「民主主義の弱さ」なのか?)*2
また現在、大阪市と東京都で「市民投票運動」が展開されている。*3現在最初のハードルを越えられるかどうかの瀬戸際である。今までの活動家はほとんどこの運動に冷笑的である。曰く「市民投票運動主催者の今井某の思想はこういう欠点がある。彼は活動家としてこういう欠点がある。また今の時点で、市民投票して負けたらどうする!!それは反原発運動の敗北を絶対的に確認することになる。でもって現在どちらかというと負けるのではないかと私は思っている。したがって「市民投票運動」には加担しない。」などなど。
彼が守ろうとしているものが、自分の内側の「真理」、自分は正しいという信念(しかも一つの投票結果で毀損されてしまう程度に脆弱な)でしかないことは明白だ。
私も実は「市民投票運動」に積極的に賛同したものではない。「脱原発」よりも「経済産業省の責任追及」が先に議論されるべきだと思っている。ただし311から十ヶ月、「脱原発(反原発)」運動は、今までどおりごくごく少数派の運動に閉じ込められてしまっている。一方、小さい子供を抱えた「母親」などを中心にした、新しい形の必死なアクティヴィストたちが生まれている。「ごくごく少数派の運動」から脱却するためには彼女たちに注目しそれを育てようとうする立場に立つべきだと考える。(育てようとうする立場、がエリート主義だが、それについては後から考える。)私は活動家だとは言えないだろう。ただ強く訴えたいことがある。それは、「橋下氏による君が代の強制」反対である。それが何であれ、「ごくごく少数派の運動」にしか発展しない日本史の現在があるように思う。そのように考え彼女たちに注目しているのだ。
大阪市民投票が(直接請求に必要な署名は有権者数の50分の1で大阪市では4万2670人分の署名が必要となる。)その数の著名を獲得したら、橋下氏にクリティカルな問いを突きつけることになる。形式上は市議会であるが今の現状では橋下氏が発言すればそのとおりになる。つまり4万2670人という民意をどう評価するか?という問いが突きつけられるのだ。橋下氏の権威は、「民意」というものを自分だけが独占的排他的に代表(表象代行)しているということを公言しそれが承認されることに根拠を置いている。したがって彼は別の実体をもつ「民意」の登場を激しく警戒している。市民投票の依頼が来ても協力するなと維新の会関係者に命令したことをもってそれは分かる。仮に通れば、彼は「脱原発の民意」はすでに私が代表(表象代行)しえているのだから、改めて投票は必要ないと言うだろう。私たちは「橋下=民意」という彼が勝ち取った等式を毀損するために全力を傾けても良いのではないだろうか。
運動とは、敵と私に同時にクリティカルな問いを突きつける、そうしたものである時本質的だ。
章炳麟は康有為の愚民観を批判して、民智は「ただ革命によって開く」と主張し、人民の自己発展の可能性に期待をかけて、革命の道をきりひらこうとした。*4
今年辛亥革命百周年だったが、辛亥革命研究家たちはみな異口同音に「革命いまだ成らず」と言っている。平均地権という万人の生存権を目指す孫文の思想とはあまりにもかけ離れた中国の現状は認めざるを得ない。韓寒の認識も同じだろう。
したがって、「何かを獲得するものとしての革命」への幻滅が広がっていることは認めざるを得ない。
そうではなく、章炳麟とともに私がここで言っても良いかもしれないことは、「アクティヴィズム(活動)によってわたしたちは自己発展の可能性を生きる」ことができるのだということだ。「将来に何かを獲得するものとしての革命」ではなく「自己閉塞を打ち破り連帯を生み出していく楽しさとしての革命」である。
アントニオ・ネグリ
これに関連しているであろうネグリの言葉を、子安氏が引用してくれているので孫引きしたい。
「確信しているのは、大草原に火を放つような、そういう「火」が世界各地に存在しているということです。」
https://twitter.com/#!/Nobukuni_Koyasu/status/154744236280000513
(1/8転記)
*1:p256 近藤邦康『中国近代の思想家』岩波1985年
*2:韓寒は鋭い風刺エッセイで中国で人気の小説家・コラムニスト。1982年生。年末に3つのコラムを書いて議論を巻き起こした。http://kinbricksnow.com/archives/51764907.html など参照
*3:例えば→http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120106/20120106018.html
*4:p257 同上
a 『とにかく慰安婦問題については、小林よしのり著「戦争論2」の「総括・従軍慰安婦」を読んでみてほしい。
あらゆる関連本の中で一番良い。
この問題の全容も把握できる。』