niftyserveのFSHISO

 わたしは9年半ほど前、ニフティサーブでパソコン通信をはじめた。Fポエムというフォーラムに顔を出したりもしたが、FSHISO(現代思想フォーラム)というところを読んでたまに書き込みもしていた。3月末で終焉ということで今日訪ねてみたら今日が書き込みの最終日だったので試しにやってみたら書き込めた。あと過去ログ倉庫というところからだいぶダウンロードした。ダウンロードできないものあるのは何故だろう。

 Fshisoというところは、論争的口調自体を抑圧する傾向のある日本社会では例外的に、かなり攻撃的論争的論客のあり方がデフォルトであるといった独自の文化を持ったフォーラムだった。有名な訴訟事件を抱えながら、なお「反省せず」その文化を守っていたのは偉いと思うのだ・・・

 最初期の非常に初々しい文章の一節を引いておきます。マークさんという方の文章。

このHPでは、その線に沿って試行錯誤してゆきたいと思います。まだまだ参加者は少ないですが、ここでどんなことを語り合いたいか、皆さんから提起されるテーマがあればお聞かせ下さい。当面、自由に各自の問題意識を書いて頂いてからこのHPとしての討論テーマを決めたいと思います。

「FSHISO 哲学室 Vol.1 90/02」というログより

http://forum.nifty.com/fshiso/ <現代思想フォーラム>FSHISO

<公開の場で、わたしとあなたが対等に対話を交わすことにより何かを作っていくことができる>という<希望と緊張感>!!

それはその当時全然珍しいものではなかった(と思う)。

  わたしはいまでもそうした希望を大事にしたいと思っています。

国体護持とは?

 西武=堤家の国友会のニュースと、ニッポン放送の社員一同の声明文のニュースを続けて聞くと、あの<<国体護持>>*1ってのもそんなもんだったにすぎなかったのでは? とおもいますよね。

参考:

ニッポン放送の社員は全員「社員一同」が、ライブドアの経営参画反対だそうだ。

社員が全員反対論もなく意見が一致するなんてことはありえない。

つまり、ニッポン放送では、社員が自由な意見を発表できないってことだよね。

こういう企業には自由な空気がないのだから、マスコミとしてはふさわしくない。

http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050303#p2

「国友会」について

http://diary.jp.aol.com/applet/druhcfrzcms/20041105/archive

*1:百万以上の日本人がそのために死んだ

本居宣長の神(迦微)概念(その2)

 まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)

異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)

まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、

抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)

さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、

天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、

さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。

天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、

そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、

勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。

以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。

かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。

 それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。

  1. 万物は産霊(むすび)の神の産霊(むすび)の力によって生成した。
  2. 太陽でもある天照大御神が高天原を支配する。
  3. 此の世の総てはあまつひつぎが支配する。

という構造ですね。

前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3

 この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。

 ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。

ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。

ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)

それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。

*1:太陽のこと

*2:1786年

*3:前回は古事記伝巻三、1767年くらいなので、二〇年ほどは違いがある。とは言っても、この差異は同じ物の両面とみたい

認めるはずもないじゃない

# KMR 『十条さん、それとおそらくnoharraさんもそうだと思いますが、

私が問題としているのはあなた方の主張する「手紙を渡す」という『目的』の

是非ではなく、「学校に乗り込む」という『手段』の方是非です。

何度も書きますが、手紙を渡すだけならば郵送すれば済むことではないですか。

あるいは、azamikoさんの娘さん・Kさんに託して渡させるとか。

学校側は式典準備(押しかけたのは予行中)で多忙だったでしょうし、

昨今の教育現場が同様の国旗君が代問題で揺れているのは

彼らにとっても懸念だったことでしょう。

その状況でまさにピンポイントに、その国旗君が代問題で都の教育行政を

批判する文書を配布することなど、認めるはずもないじゃないですか。

元々のazamikoさんのエントリーのコメント欄でも指摘しましたが、

学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは

充分な説明をしていません。

揺ぎ無い正当性があるというのなら主張されているだろうし、

そもそも当日警察を呼ばれても構わず主張すれば良かったのではないでしょうか?』 (2005/04/06 08:23)

# KMR 『追伸。

>校長が認めていた場合にそうなる可能性はどのくらいですか?

逆の仮定で質問する意図が掴めませんが・・・。

都立高校の校長が、構内で保護者による都の教育行政を批判する文書の配布を認たら、ですか?

それは校長の管理責任を問われることになるので、「式典が崩壊」とは別の騒動になる可能性があるでしょう。

まさか、「式典が崩壊しなければそれで良いじゃないか」という反論を通すおつもりですか?

それはあまりに勝手な主張ではないでしょうか。』 (2005/04/06 08:31)

# 十条 『>「学校に乗り込む」という『手段』の方法の是非です。

論点をずらしてますよ。校長にとって、彼女の来校という手段は望ましくなかったかも知れない。でも私が指摘した論点はそこではない。そういう状況での校長権限の「運用」が論点なのです。

今回のケースでは、来校されてここにいる、手紙だけ渡して帰ってくれたら秩序が混乱するわけではない、だから手紙を渡して帰ってくださいね、という対応(校長権限の運用)もありえるわけです。ところが手紙を渡すと秩序が崩壊するみたいに、大げさに騒ぎすぎるのは、私から見たらアホみたい。大げさに騒ぎすぎ。』 (2005/04/06 21:09)

# KMR 『その辺は、azamikoさんの言動から見て目的が「手紙を渡すこと」だけとは受け取られなかったのではないかと考えています。

azamikoさんが、教頭に預けるとちゃんと教師達に届かないのでは無いか、と危惧したのと同様、教頭の方もazamikoさんの行動を疑い何かとんでもないことをやらかすのでは、と危惧したのではないでしょうか。

まあ、azamikoさん本人はそのつもりは無かったのでしょうが、あのエントリーに書かれたやり取りを見ると、azamikoさん自身の態度が相手の硬化を招いた、いわば自業自得のように思えますね。』 (2005/04/06 23:55)

# 十条 『本当にセキュリティ上の危惧が懸念されるような状況なら、校長と直接会う、という事態は起こっていないでしょう。セキュリティリスクが生じないという判断があったら、危機管理の常識で考えたら、3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。でも校長は会ってますね(笑)。つまりそれは、セキュリティ的に問題が生じていない、という判断があったということですよ。

KMR さんは当初、式典破壊の企図した行為に「他ならない」と確信をもって語っていたのに、結局は「危惧したのではないでしょうか」という憶測しか根拠がなかったわけですね。憶測だけで「他ならない」と語ってしまうその軽さ、とってもミットモナイと思う。』 (2005/04/07 00:30)

# KMR 『>3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。

校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

最優先で守るべきは生徒たちでしょう。

ただ、前にも書きましたが式の予行中だったということをお忘れですか?』 (2005/04/07 00:51)

# KMR 『えーと、こちらが再反論してる状況なのに申し訳ないですが、azamikoさんの所でのやり取りで、この件について議論する意欲が失われてしまいました。

議論というのが勝ち負けを決めるものか、何らかのコンセンサスを求めるのか、それは各人によって異なるところですが、azamikoさんの所での議論を主、

こちらでの議論を従と捉えていたものを、あちらでの議論が上記のどちらも

望めないモノと判断した以上、こちらでの議論も無意味に思えてきました。

こちらの主張は全て引っ込めますので、負け犬とでも何とでもおっしゃって構いません。

どうもご迷惑をおかけしました。』 (2005/04/07 01:50)

# 十条 『>校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

そうですね。平時ではそうですね。ただ、リスクありと判断した場合は校長は会わず誰かが代理に立つ、となるのが危機管理の定石(式典の前日だからなおさらそう)。ところが校長が会っている。ということは「平時」状態・リスクなしと判断されたからですね。つまり、リスク発生という認識ではなかったという、なによりの証拠でしょうね。

式の予行中がどうかしましたか?3人を予行終了まで待たせて、職員室付近で会わせればいいだけの話。まさか、教師が予行の会場から直帰すると思っておるのですか?

とにかく話を大げさに、大げさにしないと気がすまないのですか?』 (2005/04/07 02:02)

日本軍は設置し運営した

日本人「慰安婦」制度の設置と運営は、当時存在した多数の国際法規範に違反している。国際法の規範には成文の条約のみならず慣習法も含まれる。当時日本が加入・批准していた条約としては、ILOが基礎をつくった「強制労働条約」と「醜業を行うための婦女売買禁止に関する国際条約」の他に、「ハーグ陸戦協約」などがあった。当時成文の条約としては存在しなかったが、国際慣習法として国際的に確立していたものとして、「奴隷状態の禁止」があげられる。

p8『日本軍「慰安婦」問題とは?』ナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館

たぶん合ってる?

恥ずかしながら、エクセルのフォーム(?)。

A3に最初の人数を入れる。

G1に答えが出る。=SUM(G2:G14)を入れる。

G2に1を入れる。

B3に =INT(+A3/2) 

C3に =-B3*2+A3

D3に =+A3-B3-C2

E2に 1。E3に =+E2*2

F3に =+C3*E3

G3に =IF(D3=1,0,1)*IF(D3=0,0,1)*F3

A4に =+D3+C3

B3:G3を下にずっとコピー。

A4を下にずっとコピー。(以上)

頼信紙

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

(塚本邦雄)

http://d.hatena.ne.jp/shimozawa/20050610 仏文学者の下澤さんのところから孫引き。

無人郵便局みたいなものが余りに一般的な物に成ってしまったので分からなくなっているが、無人郵便局というものが成立しうる<システムの底力>の存在を、否定的眼差しにおいて描き出したのがカフカ。みたいな理路だろうか。頼信紙(電報を頼む紙)という言葉の響きと紙の薄さのシンクロが印象的。

(6/12追記)

三井銀行員も東条を許さない

 東条は、このように自分と政治的に対立する者に、さまざまな圧力をかけて屈服させようとした。三井財閥の総帥池田成彬(第一次近衛内閣の蔵相)が反東条で動いているとみると、池田の三男・豊が兵隊に召集され、中国戦線に出動するため福岡で待機中だったのに目をつけた。池田のところに人をやって「政治的に自分と妥協してくれるなら、豊君を危険な戦線へ出さず、生命の安全な東京へ戻してやるがどうか」と告げさせた。

 池田はその場でこれを拒絶した。結局、豊は中国の戦線に送られ戦病死している。

週刊「世界と日本」という右翼系のミニミニ新聞がある。それの6月13日号に内外ニュース会長、清宮龍 という人が1面2面をほぼ全て使い「東条首相 狂気の弾圧政治」という文章を書いている。

 毎日新聞の新名丈夫記者 戦後東海大総長になった松前重義、国会議員浜田尚友、有馬英治、などが、東条の逆鱗に触れ、東条の命令で、指名召集を受け軍隊に入隊させられた。 

 政治家中野正剛は検挙され憲兵隊長によって取調中(一時帰宅し)、自決する。

 最も強調されるべきことは、やはり、陸将時代の昭和16年に「戦陣訓」を出し「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と全軍に布告したこと。

靖国神社はこれも肯定しているのかな?

プチウヨの諸君はどうかな?

小泉氏は「罪を憎む」そうだがこれらを罪と認識しているのかな?

 (以上について事実と違うという主張があれば歓迎します。お互いに事実を確認していきましょう。)

間違いは訂正すればよい!

モヒカン族とやらが流行っているという。世捨て人が流行りものに手を出すのも恥ずかしい。だけどまあ面白いかもしれないので引用して見よう。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80

モヒカン族 – モヒカン宣言

■ 宣言

1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する

2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない

3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい

だいたい賛成です。特に3. 「余計な装飾語はいらない」というのが理想ですが、私は意味なく相手の気分を害していることが多いのではとも思う。

■ モヒカン族5つの価値

校正

間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。

共有

アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。

ツッコミビリティ

校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。

(1項目略)

差異

お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。(同上)

正しい、というか反論しにくい。あえて言えば、読みとりにくい文体で書かれた文章をどう評価するか、という問題が考察されていない。

文学的には、文章とは伝達可能性と不可能性のバランスにおいて成立する。文章を書くとき、ツッコミビリティを高めるという意識を持って書くべきだというのは賛成だ。だが一方では他者には“全然分からない”といわれるそうした文章を書く権利も人は持つ。それは「詩」であり、文章(論説文)は自ずから別だろう、と言われるかも知れないが私はそうは思わない。例えば磯部浅一のように反逆罪で訴えられたらそれに対する反論は、論理=合法性を離れ詩に近づくだろう。だからといってそれを揶揄することしかできないものは、自らえらんだわけではない東条英機を許しながらあと千年生きることになる。

「その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。」わたしの文章にはソースの提示はあるが推論過程の提示がないな…

ちなみに、<野原燐 気付 自主ゼミ実行委員会>の原則は下記の通り。

1.公開。

2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。

3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。

考えてみればわたしたちの社会も、すべての市民の「自由な討論ですべてを決定する」というラディカルな原則を“原則としてだけは”とっくの昔に採用していたのだった。その場合、モヒカン宣言に類する心構えは当然必須ということになるべきだったろう。モヒカン宣言なるものがけっこう新しく見えるのは、「自由な討論ですべてを決定する」を真面目に押し進めようとする勢力がごく少なかったことを意味しよう。したがって、上記のような留保は付けつつも、モヒカン宣言に賛成し発展を祈りたい。