何びとの血も流さずに

 わたしは村上一郎の本を数冊持っている。だいたい30年近く前に買った物でそれ以来読み返していない。昨日キーワード「村上一郎」と「mkimbaraの読書録」を読んで、本を出して見た。1962年に書いた「ルソオの日に」という短文を読んだら、引用したくなったのでしてみます。

 六月二八日に、ぼくたちは、ジャン=ジャック・ルソオの生誕二五〇年記念日を迎える。

 五〇年前、間もなく年号が明治から大正に移るという年の同じ日に、ぼくたちの父や祖父はルソオの生誕二〇〇年を迎えたわけだが、この、大逆事件被告処刑直後の年に、ルソオを記念する行事が、いかに困難な状況のもとに行われたか。--それは、多くの日本民主主義・社会主義の先達にのこされている。また、その困難な行事に参加した、うぶな青少年が、行事を機に、どのような“回心”を体験(エアレーベン)したか、それも記録に残っている。それらの人たちの後半生は情ない末路をたどったかもしれぬ。が、ぼくはこの年の困難な精神のいとなみを尊かったと思う。

 五〇年を経て(略)・・・天下泰平のうちに、書く人も読む人もふくめて、ぼくらはルソオの日を迎えるのだ。ぼくらは、たいした戦いもなく、何びとの血も流さずに、この日を迎えるのである。だがこのようにして得た「民主」の世を、ぼくは、にがにがしく思う。(略)

そして数行のあと、かれはこうした情況への内心の思いを吐き出す。

沌沌。悶悶。そして愚劣。ぼくは「死語する死霊達」に唱和しないではいられない。*1

 村上の文章は適当につまんで引用することができない。一見平明な言葉面の背後に手に負えないほど強く複雑なリズムが潜んでいる。

 ところで、1962年が天下泰平だったとすれば、この30年間は一体何だったのか。天下泰平の自乗か三乗ぐらいか。わたしたちは民主主義あるいはルソオを自明のものだと思っているわけではない。ただの飾り言葉だと思っている。私たちにとって政治とはと問いを発しても、投票に行くか行かないかあるいはどの政党が良いかなどといった愚劣な問いに回収されてしまう。だが本当はそうではないことをわたしたちは知っている。わたしたちの職場でも町内会でも薄笑いの裏に血は流れている。戦わないものには見えないだけだ。だからといって、ルソオや民主主義のうらに、必ず<血>や<デモオニシなもの>の存在をかぎ取らないといけないのか。平和で豊満な日常に常識を持って生きていこうとするだけで充分ではないか。もちろん出発点はそれでいい。だが戦前の大逆事件以降の弾圧や正義無き大東亜戦争の死者たちの圧倒的存在感を察知するやすばやく遠ざかり、イノセントを(無意識のうちに)装ってしまう性癖をわたしたちは持っている。といってもまんざらはずれていないのではないか。

*1:p265『日本のロゴス』国文社 1970

自衛隊監視テント村が弾圧を受けた

下記サイトによれば3名の事後逮捕があったということです。大衆が、行った者はしかたない元気に帰ってきて欲しいという「しかたない」意識に傾いているので舐められた、ということでしょう。

2月27日早朝、私たち立川自衛隊監視テント村は「イラク反戦」を理由に全面的な弾圧を受けた。逮捕者3名、事務所・個人住宅の家宅捜索6ヵ所。これは小さな反戦市民団体としては大きな打撃である。令状には、1月17日に自衛隊官舎に反戦ビラを配ったことが住居侵入にあたる、とあった。 団地のポストにチラシ広告を投函する全ての行為がこの弾圧の対象になりうる。はてなダイアリー – 隔離される私と相互監視社会

自衛隊即時撤退せよ(続き)

バクダッドのリバーベンドさんのブログから少し引用させてもらいます。http://www.geocities.jp/riverbendblog/

「2004年4月4日日曜日」の一部 バグダードとナジャフでは、アル・サドル支持者のデモが続いている。バグダードでは、グリーン・ゾーンとシェラトン・ホテルの近くに何千人も集まっている。怒りにみちた黒衣の大群衆。ナジャフでは、デモの群衆は、スペイン軍駐留地のすぐ外にいて、スペイン軍兵士は彼らに向けて発砲した。少なくとも14人が死亡、数十人が負傷と伝えられる・・・ (略)

 これだけははっきりさせておきたいのだけれど、私は、アル・サドルの支持者では”ない”。イラクを第2のイラン、サウジアラビア、クウェートにしようとしている聖職者たちは嫌いだ・・・だが、デモに対し、軍隊が銃弾と戦車で応じているのを見ると、心底激しい怒りがこみ上げてくる。集まった人々に向けて発砲するつもりで、デモを許可したってわけ? デモの人々は、武装していなかった、ただ怒っていただけ__最近ブレマーとその一派がアル・サドル派の新聞を発行禁止した。また、サドルの側近ナンバーツーが南部でスペイン軍に拘束されていると言われている(スペイン軍は否定しているが)。サドルの信奉者たちは憤激している。そして、(ちゃんと聞いてね)__その信奉者たるやほんとに半端な数じゃないのだ。(略)

そして、ラムズフェルドたちはアブサドル一派をアルカイダ並の主要敵に位置づけてしまった。自衛隊は「復興支援のために」イラクに存在する、なんていう理屈はいまやびしょぬれになったティッシュのように崩壊した。イラク人の集団と闘い彼らを殲滅する自衛隊を望む人たちだけが、自衛隊即時撤退に反対するだろう。

リバーベンドさんのブログ(の翻訳)によれば、かっては女性たちでにぎわっていた市場は今や女性たちにとって危険な場所になり、ほんの少数の女性たちしか見かけなくなった、とのことです。しかも女性たちは例外なくヒジャブを被っている。米軍はアフガンでは女性をヒジャブから解放したと宣伝された。1年間の米軍主導による統治はその逆をもたらした。つまり失敗したのです。

現代思潮社

わたしは、すがさんという人読んだことないし、好きでもない。ですが下記はすがが正しい、と思う。(小熊の『民主と愛国』は最初の所読んで良くない本だと思った。)(現代思潮社が現代思想社と誤記されていた)

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/21c-suga.htm

60年安保の時に、吉本隆明という人が6月行動委員会というところで、当時の中核を「三一書房」にあった、と鶴見が何度も言っているんです。ただ、ちょっと調べれば分かるんですが、当時の知識人界隈の雰囲気を知っていれば、それが間違っていることはすぐに分からなきゃいけない。6月行動委員会の中心は「現代思潮社」なんですが、何故か「三一書房」と言っているんですね。それをチェックできてないんですよね、2人(上野、小熊)とも。

北野勇作 ささやかな日常?

北野勇作はわたしが知らなかっただけで有名人のようだ。最近は『人面町四丁目』という新作も出たようでリンクも多い。そのうち下記が丁寧に批評していた。

http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1(風街まろんさん)

いままでのSFは青春小説だった、「状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描く」。それに対し「北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。」「いわば中年小説」とのこと。

なるほど。これはSFというより小説一般、いやむしろ現在の青春の不可能性そのものに関わる問題だ。いや「青春の不可能性」をテーマにしてしまえば青春小説になる。不可能性をその主観的形態「絶望」において描こうとするのが従来の小説であったとすれば、そうではない形態(ゲーデル的とでも言っておこうか)で描こうとするのが北野SFかもしれない。

モルデハイ・バヌヌ

オノ・ヨーコがジャーナリストのシーモア・ハーシュとイスラエルの核の内部告発者のモルデハイ・バヌヌに平和助成金を授与した。(ニューヨーク) 

パトリオティスム

吾人の観たる多くの偉人は何物よりも故郷を愛するの念強かりしが如し。*1

故郷(パトリ)も愛せないくせに、「日本国及び国民の誇り」なんて言ってんじゃねえぞ。>プチウヨ

*1:中里介山『中江藤樹言行録』内外出版協会p26

男の暴力

怒りにかられた男に楽屋に引きずりこまれる。先ほど渡した名刺はクシャクシャにして投げ捨てられた。拳で4、5発殴ったうえ、男は私の髪をつかんで頭を壁に打ちつけた。私のリュックサックとバックを奪い、床に打ちすて、ふみつけにする男。男はリュックを拾いあげ、ふりかざされたリュックは凶器となって私の頭部を直撃した。持ち物が壊れ、メガネがゆがむ。そして、男は私の顔面に唾を吐き捨てた。(*1)

http://shibuya.txt-nifty.com/blog/2004/11/index.html ゆるい日記: November 2004 Archives 2004.11.01

「お笑い界は感覚がマヒしている」という言葉は正しくない。「オトコ界は感覚がマヒしている」と言うべきなのだ。「お笑いの世界は……」という時、人は自分の世界のことを棚にあげている。「まったく芸人はしょうがないね」なんて言ってりゃ、自分のしょうがなさに目をむけなくて済む。(同上より)

社会学者・渋谷知美さんのサイトから一部だけ引用させてもらいました。

id:eirene:20041101経由)

―島田紳助の暴力事件というニュースを聞いたとき、何の興味も持たず、テレビも見ないので忘れていた。今も詳細には興味がない。

うちの職場では、女性の課長が1割強しかいないから(そのうち)3割に増やすべくプロジェクト会議を開いたりしているようだ。平和な話である。もちろんセクハラ事件があって云々という話もあるのだがそれほど身近に感じていなかった。それで上記の暴力描写にちょっと驚いた。それだけ。

(追記)

野原燐が「それだけ」と書いているのはちょっとおかしい。

論点は少なくとも二つ在る。

この問題には、殴った側がベテランタレント、殴られた側が入社4、5年の社員という非対称性、そして殴った側が男性、殴られたのが女性という地位とジェンダーをめぐるふたつの非対称性がある。(同上)

という権力関係の不均等が、露骨な暴力シーンの表現を(マスコミにおいても、ブログにおいても)抑圧しているという問題。

それとわたしの身体に暴力性はある、という問題。

囚人の帽子(その3)

         有名な論理クイズ

 多湖輝の「頭の体操 第1集」の前書きにあった論理パズル。出典も書かれていたと思うが忘れてしまった。

 ギャグではありません。純粋な論理パズルで、私が知る限り、紙と鉛筆を使わずに解ける、最も難しいクイズです。

 白い帽子が二つ、赤い帽子が三つある。*1

 王様が三人の男を一列縦隊に並ばせて、それぞれに五つの帽子の中の一つを被らせ、残りの帽子の色が彼らにわからないように厳重に隠した。

 一番後ろの男は、前のふたりが何色の帽子を被っているか見えているが、自分の帽子の色はわからない。真ん中の男は、いちばん前の男が何色の帽子を被っているか見えているが、自分や後ろの男の帽子の色はわからない。いちばん前の男は誰が何色の帽子を被っているか、全くわからない。

 王様は、まず、いちばん後ろの男に自分の帽子が何色かわかるか質問した。男はわからないと答えた。次に、真ん中の男に同じ質問をした。男は、やはりわからないと答えた。

 さて、ここで問題。いちばん前の男は何色の帽子を被っているだろうか?

http://www3.tky.3web.ne.jp/~arsene/gag/logic.html

 多湖輝の「頭の体操 第1集」だってなつかしいですねえ!40年前です、歳がばれますが。

id:noharra:20041113#p3 に対し

id:dempax:20041123  で応答もらったが、

それを読んでしばらくして、最初の問題に二つの違った解釈がありうること。

どちらにしても、ちょっと不備のような気がしてきた。

いままだきちんと説明できません。スミマセン・・・

それに比べると上記多湖輝の問題は明快です。

*1:「その1」に合わせて赤と白を入れ替え。