日本の自立/レイコフ

# N・B 『 なんかまた迷惑をかけてすいません今回は他の人まで巻き込んでしまって。

とりあえず、野原さんが最も違和感を覚えたと述べたところの釈明を、これは指摘されて気づいたんですが、私自身が確かに無意識に日本とアメリカと自分と身の回りの社会の関係を結び付けてました。どうも、自分の隠された動機を述べてしまったようです。

 ただ、日本の「自立」に関しては、メキシコのように国境のフェンス(農業労働などを行うために「不法」入国しようとして、今も数百万人が「不法」移民として働いてるそうです)が両国の歴史の反復であるかのように毎年多くの人の命を奪っている国では人々は嫌が上でも関係を意識せざるを得ません。やはり、日本では戦後の経済発展で受けた恩恵があまりに大きいので(もちろん、犠牲は別のところでら出たわけですが)忘れることが可能であったと思います。藤原帰一さんが「戦争を記憶する」でフィリピィンなどに比べた日本の鈍感さを指摘していたと思います。しかし、日本の経済や政治システムがどれほどアメリカから自立しているのかはまだ私にはよくわかりません(ヨーロッパに比べるとあからさまに行動は従属的ですが)。実は問題のエントリーについて書き込もうと最初はしたんですが。

 野原さんの「三者三様の矛盾」での推進派の矛盾が却って彼らの力になるという状況はある程度その辺りに理由があると思うのですが。もうひとつはスワンさんの指摘した「公共の福祉」に関する問題ですね(このあたりの皆さんの議論は大分参考になりました)。

>お互いにヘンな奴だと言い合うのは健全

 確かに何も見ようとしないよりは進歩だと思います。

>スワンさん

 ここに書き込むのがいいのか微妙ですが、とりあえずこのブログの文脈なので。えーと普通の意味での「モラル」にたいして、レイコフの「モラル」という概念は言語学者としての彼の人間の言葉の意味(メタファー)の理論に基づいて、私たちが政治的道徳的な思考や発言をするときに、大きくわけて二つの相容れないモラルのメタファーのシステムを持っている、それらは同じモラルを使うが優先順位の差によって違ったものになります、保守とリベラルであるというものです。そして、このシステム(モラル言語)に基づいて色々な同じ出来事や人物、議論に対する判断の違いが説明出来るというものです。レイコフは、90年代の保守の伸張などの論点に対する既存の(アメリカの)政治哲学や議論の無力と混乱を身にしみて問題の本を書いたそうです。レイコフの最近の情勢への分析は現代思想臨時増刊2001/10、「これは戦争か」で読めます。ただ、もちろん万能の理論でないことは前提ですが。

http://homepage2.nifty.com/nishitaya/intro4c12.htm

 第2節に、レイコフ理論の説明があります。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/

 レイコフの考え方の革新性について私なんかよりずっとよく説明しています。

 スワンさんへの返事としては、法を成立させる過程、それを解釈する法廷、その運用の場面などで、レイコフのモラルは働いているのではないでしょうか、「実質的正義」とはまさにこれらの具体的場面で意見が分かれるとき「モラル」の違いが露出することではないかと思います。もうひとつ二つの愛国心については、どうも、二つの「モラル」の違いと対応しているのではないでしょうか。

 なるべく短くするつもりだったのですが、わかりにくい長文申し訳ありません。』 (2005/03/24 10:21)

身勝手なこと喚き散らして(4/4追加)

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる – 梅の花もほころび。

azamikoさんのコメント欄が大変なことに!

fantomeye 『親とか教師の人からしてみれば自分たちはいいことしている、間違っていないと考えているのかもしれませんが、私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている以外のなにものでもないんです。国とかのやり方に文句があるなら役所でやってください。(略)

(野原)

fantomeyaさん はじめまして

「私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている」のは、横山教育長の側か?、それとも処分された教師の側か?

「子供たちが主役の舞台」を勝手に変更して「日の丸を正面に据える」よう変更を命じたのは東京都にすぎません。

もし自分の子どもがあなたと同じような考え方だったらと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうです!

女性国際戦犯法廷について(2)

上の続き。

コメントしたら返事をいただいた。

# noharra 『開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判よりは公正に近いと評価できる。』

# hizzz 『上記したように、自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動(「やられたらやりかえせ」的視点)という点においては、「女性国際戦犯法廷」も「東京裁判」も同列でしかない。以前カキコしたように「道義的責任」を問うこの問題は「法」では決して解決しない。なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまったということにおいて「公平」を掲げるポリティクスとしても、結果は致命的ですらありましょう。』

(野原)

「なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまった」というのは、「天皇有罪」に対して(日本人の誇りを傷つけられたとして)憤激し慰安婦に対するセカンドレイプにはしったりする反応を引き起こしたことを言っているのでしょうか。 

 レイプという具体的な犯罪があった場合、それを裁こうとすることは、正義をもたらすことにより暴力(の連鎖)から世界を救うことになると思いますが。

右翼も左翼も、自分たち以外(制度外の第三者)という存在を喪失している。そして喪失しつづけてるが故に、なんとかしようとして居丈高になり、更なるお手付きを重ねて、パンピー(=イデオロギー的正義思想を持たない者=ウヨサヨ制度外の第三者)の支持を減らす。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050213#p3

(野原)

 これは少し当たっているような気もする。だがレイプの問題は本来イエオロギーの問題ではない。彼女たちは白人(オランダ人)でなかった、まともな国家を持たないアジア人女性にすぎなかったがために東京裁判の時点で裁判化されなかった。そこでアジア人と女性に対する差別が弱くなった50年後ようやく事実を事実として語りうるようになった。それをイエオロギー的言説であるかのように演出してしまっているのは、ナルシズムに汚染された日本の言説空間である。

貧乏人の連休の過ごし方

子ども二人家族4人、ふだんは多いとも感じませんが家族旅行にでも行こうものなら4万円単位でお金は飛ぶように出ていくので行けるものではありません。まして連休は混んでるし。だからといってべったり家にいても普段と同じではあまりにも単調です。どこかに日常性を離脱する契機が欲しいもの。“うちのおかあさん”はおとといからさっさと一人で友人宅に泊まりに行ってしまいました。家事労働全般を子どもと3人でやらなければいけません。ゴミ出し、洗濯物干し、食器洗い、ほんの少しでも普段はうちの子はやらない。今回も嫌がるので「やらないとおかあさんに(子どもの自立を助けるため)帰ってくるなと言うぞ」と脅して無理矢理やらした。

無意味

IP電話の調子が(最初から)悪いのを、苦情をいったら、光電話アアプタをF社に変えてみようか、と送ってきた。変えてみたが、電話全然通じず。しかたないので元に戻した。戻したらインターネットが繋がらない。しばらくごそそそしてやっとつながった。無意味なアーティクルですみませんが、書き込めるテストを兼ねて。愚痴!

(追記)駄目だったと言ったら、同じ製品をもう一度送ってくると言う。拒否できなかったが無駄だと思うが・・・

恥を知れ

え~っとう、だいぶ前から、id:drmccoy:20050518 マッコイさんに、応答しなければいけないと思いながら、気が進まずに後回しにしてきた。スミマセン

(本来複雑多様なものである現実を平板化した上で、テンプレート通りの言説を多量に繰り出してくる、といった印象をもった、ということかもしれない。)

ちゃんとした対話者でなくて申し訳ないが、わたしはまだマッコイ氏の文章を(関係部分)全部読んでいない。無視しているわけではない、と言うためだけにちょっとだけ(しかも全然斜めから)書いてみよう。

(1)

id:drmccoy:20050518でマッコイ氏は、わたしが紹介同意した加藤、宮台の主張などを次のようにまとめている。

 「A級戦犯をスケープゴートにして、極東国際軍事法廷(=東京裁判)を受け入れることで日本はサンフランシスコ講和条約(or 平和条約)を締結して国際社会に復帰した。A級戦犯を罪人として裁いたからこそ日本は国際社会に復帰できた。だからA級戦犯が祀られている靖国神社に首相が参拝すると、それを覆すことになってしまう」

上の文章の「日本」という主語を問題にする。(強引な批判である。)大日本帝国は戦争に負けた。唯の戦争ではない。プチウヨの諸君が自衛戦争なんていうのはみっともない。世界の帝国主義秩序を転覆しようとした攻撃的な戦争である。「大東亜の大義」なしに成立しえた戦争ではないのである。で負けた。負けたことをどう考えるか。A.負けた主体「皇国」を一部修正するだけで継続できるか。B.それとも負けた主体は倒産させて、新しい主体を立ち上げるか。

戦後日本がややこしいのは両方の面を持っていたからである。

A.ヒロヒトは退位しなかった。東京裁判はヒロヒトを訴追対象から除外した。戦後憲法の1条は天皇を保証している。

B.日本は天皇主権から国民主権に百%変わった。戦争放棄。戦力不保持。「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し*1」生まれ変わります。

戦後日本はAとBを適宜使い分けながら、戦後60年なんとかやってきた。その前提となったのは東アジアにおいて米国(米帝)がソ連などと対峙する冷戦構造において、日本が米国に従属する立場をとったことである。ここではA.対米軍事協力/B.平和主義となって、A.の枠の中でB.も主張することで日本は血を流すことなく繁栄を達成した(と言われる)。国共内戦、朝鮮戦争と戦後も戦火に見舞われた中国、朝鮮はいち早く回復を遂げた日本に国力において大きく後れをとり、日本は米国の後押しのおかげで戦争に対する補償なども極軽微に済ますことが出来た。日本は中国、韓国朝鮮に対する戦争責任の問題を、国民全体にが自ら答えなければならない巨大な問題として突きつけられることなく(幸か不幸か)60年やって来ることができた。

これは「対中国」「対韓国」などの問題ではない。日本は戦後60年そこそこ成功してやって来たにもかかわらず、その根拠がA/B と分裂したままだ。

そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。id:noharra:20050623#p1

「生きて俘虜の辱めを受けず」なら、敗戦の途端に1億人は自決しなければならない。自決した人はほとんど一部だった。自決もしなかったものの子孫がいまさら「自衛戦争」なんてことを言い出す。恥を知れ、と言いたい。

*1:憲法前文

「受忍しない」

手元に1枚の新聞の切り抜きがある。大江健三郎の、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」である。

「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」というのが冒頭の文章である。

読み進めると、「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」とある。まさにこのテーマについての当事者の一方の発言である。だからこれに触れて書いてみようと思ったのだが、なかなか書けない。

 はっきり言ってあまり良い文章だとは思えないのだ。最初の方に、石原昌家という人の文章が引用されている。

「沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法。認定基準の一つに、「集団自決」という項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ」

戦傷病者戦没者遺族等援護法というのは、「 恩給法の適用を受けない軍人・軍属及び準軍属が、在職期間内に傷病を受けた場合、その傷病の程度に応じて、本人またはその遺族に対し各種年金が支給する」ことなどを定めた法律らしい。いわゆる「集団自決」などの場合は純然たる民間人だから、上の説明からは貰えないように思える。*1

ところが実際には、「集団自決」などの場合でも貰えることがある。「集団自決」は国家の責任だから当然である。というか本来は別の論理で別の法律で出すべき筋のものである。そのような立法はなされなかった。このような場合に、行政は相手が「頭を下げてくること」を条件に恩恵的に年金を出すことがある。金を出すのだから頭下げてもらうのは当たり前って、それは民主主義国家じゃあないだろう。でこの場合の条件というのが「軍からの命令」の存在である。で曾野綾子以下の何人もの人がこの「軍からの命令」が真実のものかどうかをあげつらいはじめるのだが、これは行政にとっては大きな計算外れだったに違いない。行政にとって、この「軍からの命令」はその真偽を厳密に問うべき物ではないのだ、本来救済すべき遺族に対し救済を別の方法で与えるための便法に過ぎないのだ。

 私は戦傷病者戦没者遺族等援護法の認定基準について勉強したことはない。*2しかし、本来は軍人に対する制度である援護法を適用すること自体がおかしい。というところから考えた場合上のような理屈が成り立つ。その結果仮にAさんの名誉が毀損されたのであれば、責任は「集団自決」に正面から補償する制度を作らなかった国家にあるのではないか。

 このような「恩恵としての行政」の問題は、当然「自決」をどう捉えるか、軍に殺されたのか否かというイデオロギー的問題を当局寄りに解決することを伴う。

だからといって「靖国に合祀する」かどうか、は靖国神社という一神社の判断の問題であり、援護法の適用の問題とは全く無関係のはずだ。大江の(引用を含む)文章はここが全く不明確なので、悪文だと思う。

 そしてさらに文章の後半では、憲法13条幸福追求権がでてくる。「すべて国民は、個人として尊重される。(略)」

戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には(略)個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。

確かに大江にとっての真実はここにあるのだろう。

国家は戦争の時個人に死を強制する。したがって国家を拒否できないなら戦争を拒否すべきだ。そう言われれば納得する。

ただ、大江がもっとも美しいと讃える13条には「公共の福祉に反しない限り」という魔法のフレーズが含まれている。このフレーズにどう向きあうべきなのか、大江は問題点を提示しながらその問いには答えない。

 広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。

 例えば中国大陸のある作戦で華々しく戦いながら死んでいった兵士は「受忍できない苦しみをこうむったこと」にはならないのか、と反問してもしかたないだろう。「人間として決して受忍できない苦しみ」という修辞にこだわってもしかたない。それを記憶し、伝えることが本当に可能かどうかも分からない。ただ個人的に考えてどうしたって受けたくない苦しみには違いない。そのような苦しみをなくしていくためにはどうすればよいのか考えなければいけない。

*1:だいたい階級制度のきびしかった戦前の給料に基づく恩給法をそのまま継続した事自体が、戦争責任問題との絡みで問題なわけだが。

*2:だから厳密には間違いがあるかもしれない。

独裁とは何か

異論があっても、誰もそれを声に出して言わない時代のことである。

【宮崎学氏の発言より】

自民党、公明党が衆議院の議席3分の2を支配した。

(略)

第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。

2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。

 これが3分の2の議席占有の威力である。こうなるとどうなるか。

 つまり言えることは、自らに逆らうものは、実体的に殲滅するという「論理」の純化がはじまる。自民党内にとどまらず、その矛先は民主党の一部にも向かうであろう。そうするとである、議員が「職業」、つまり就職としてとらえているような意識水準の議員はひとたまりもなく寝返ることとなる。

 それでも抵抗する者には、難クセをつけて議員の首を切ればいいということになる。これは法的には何ら問題はない。

 こうして、平成型翼賛政治が完了する。そしてこの翼賛は、社会的にはそれぞれ内部に問題を抱える、警察、検察が下支えすることになる。

 まあ、ワシはこう見とる。

http://miyazakimanabu.com/archive/2005/09/20050914.htm 憲法第58条2項 ~スターリン党への変貌~