日本にとって一番大事なこと

 1937年7月8日北京郊外の廬溝橋で銃撃戦があった。7月11日午後8時停戦協定が成った。ではなぜ、日本軍は8年間も中国大陸全体に兵を展開し続けたのだろう?「中国軍は弱すぎてとうてい日本の敵ではない、廬溝橋で事件が起こったそうだが、ちょいとおどしてこらしめてやるか、華北一帯を完全に日本の支配化におくという年来の希望を達成するいい機会だ、という程度の」決意をもって、北支出兵を決定した。それだけなら良かった。中国軍が弱いというのはおおむね嘘ではない。それから8年の間、兵を退く(停戦する)機会がなかったわけではない。だが一度も退却は選択されなかった。

 どういう条件になったら止める、という条件を明確にせずに兵を出兵させることが最悪のことである。この反省は日本人にとって最低限の、だが決定的に重要な反省である。

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」はこの反省に基づいて作られている。

2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。

8条5項 対応措置のうち公海若しくはその上空又は外国の領域における活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該活動を実施している場所の近傍において、戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には、当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。

8条4項 防衛庁長官は、実施区域の全部又は一部がこの法律又は基本計画に定められた要件を満たさないものとなった場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。

 現在自衛隊はひきこもっている。8条5項に該当すると思う。サマワ周辺は非戦闘地域でなくなったと思う。もう少し危険に成らなければそこまでは言えないとする判断もありうる。だが<日本で一番大事なこと>は「客観的にみてある条件を満たさなくなったときは兵を退く!」という一点にある。いかに困難であろうとその決断を貫くことが、戦死者たちから委託された神聖な任務なのだ。

誤情報の流布(5/2 20時7分追加)

誤情報の流布に加担してしまった。反省しおわびします。

(1)あるMLで、5/1 20時40分に流れたもの。

イラクでの米軍による虐待・性虐待の画像が公開されています。かなり酷いものです。

http://www.albasrah.net/images/iraqi-pow/iraqi-pow

(2)上記を5/2朝8時頃このダイアリーに貼る。野原はその後外出。

(3)同じMLで、どすのメッキーさんからの下記の指摘有り。(9時25分)

「 虐待は事実ですが、映像は、誤情報が流布されているようです。 上記は、最近のイラク情勢とは関係のない、レイプ画像は軍服を着て撮ったポルノサイトの写真で、軍服がイラク駐留米軍のものではない、日付がおかしいとの指摘がされているようです。」

(4)野原帰宅後上記メールを読み、日記の記事に

「誤り情報が混じっているとの指摘あり。」という文言を追加。19時ごろ。

(5)「イラク人への米英兵による虐待(訂正後)(5/2 19時43分)」

に差し替える。

他に、下記掲示板も参考にした。

http://awn.ath.cx/cgi/bbs2/light.cgi

(6)「訂正前」の野原発言の結論は下記。

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、わざわざイラクへ行って確認したらこういうものだった、ということで帰ってきたらよかろう。”

この文章を訂正するとすれば、

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、イラク戦争に続く占領については少なくとも現在イラク人の為のものにはなっていないようだ。日本の自衛隊はわざわざイラクへ行っているのだから、ファルージャにおける市民への攻撃の無法性や監獄での虐待の真相を早急に確認してほしい。それらが実際「イラク人のため」という目的によって合理化できるものかどうか?できないなら直ちに帰ってきたらよかろう。”

男子を購買するの自由

「資本家階級の女子が堂々として待合いに出入りし以て、吾人男子階級の者を快楽の犠牲として取り扱いつつあることの完き自由なる」

(北一輝『国体論及ぶ純正社会主義』みすず第一巻)

不正に貫かれた単一支配

「彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。」マルクス*1

商品に価値がある、そのことが主体にとってあたりまえとして受け止められることをマルクスは批判する。ある前提を受け入れることによって不定型なわたしは主体になる、そしてそれ以後わたしは何かを制御できる主体で有り続け、わたしがなにかメタレベルによって作られたものだということはわたしの認識の外部にありわたしににはたどり着けないことになる。

 崎山氏の本の最後の部分を引用しておきます。

 それは、不正に貫かれた資本制の単一支配に敗北するべき「理由」は、わたしたちの内在的な可能性のなかには一つとしてない、ということだ。

 多数性・多様性にみちた、いくつもの世界のつながりによって、地獄でしかないこの単一支配の世界さえも、はじめて存在しうる。そして多数で多様ないくつもの世界は資本の所有物ではけっしてない。それはわたしたちが生きる場であり、人びとの生を支えるそれらの世界をアタリマエに希求するわたしたちが打ち倒されることは、絶対にありえない。

 さまざまな世界を人びとのつながりあいのなかで信じ、わたしたちの生きる世界に変えつづけていくこと。わたしたちに必要なものは、この単純な真理なのである。

「世界を、不正な=単一支配」と呼ぶことにはわたしは賛成したくないという思いをずっと持っていました。それを天皇制と呼ぼうと資本主義と呼ぼうと。ただ今までのマルクス主義者と崎山氏との間には微妙だが大事な差異があるようにも感じる。世界を不正と名指しながら、「わたしたち=正義」という逆像を成立させることを避けようとし、それにまあ成功しつつあるという差異が。

*1:p35『資本』崎山政毅から孫引き isbn:4000270087

家族なしには主体になれない(2)

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923

はてなダイアリー – strictkの日記 で、野原9/23に触れていただいた。

以下長くなったが、応答というより言い訳です。

☆☆ はじめに

strictkさんの全体のタイトルが「家族以外にも子供を育てる自由を。」である。このタイトルだけを読んでわたしは私の偏狭な性格を少し反省した。そのスローガンに野原は異議がないし、strictkさんもhippieさんもそうだろう。同意できる点を確認もせず違和感だけ提出しても、議論は実り少ないと。

今回の議論の出発点は、二つ在り、Aは自由民主党の一部の「現憲法24条は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。(cf野原0706)」という意見、(E)は皇太子発言である。(hippieさんは後者には触れていない。)

Aに反対する主張が、B「憲法24条の改悪を許さない共同アピール」である。http://www.geocities.jp/herasou/kaeru/whatsnew/wn_20040707_stop.html

A改憲派:B護憲派(人権派)という構図である。それに対し、hippieさんは、C「護憲」というスローガンは既得権防衛的であり社会変革(それは当然少数派が多数派を説得することだ)に繋がらないのではないか、とする。わたしはこのことに強く賛成したい。hippie氏は、性別二元論に反対する(男/女二つのカテゴリーのどちらかに帰属していないと存在とは認めないとする社会的強制、と理解してよろしいか?)。それはもっともだ。

「「結婚した男女二人で構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っている」というhippie氏の文章にもわたしは半分以上賛成だ。家族を国家(を形成すべき社会)の構成要素としてみるという家族観にわたしは反対しているからだ。家族を、ロマンティックラブイデオロギーや近代家族に還元するフェミニズム風家族観にもわたしは反対する。hippieさんの立場はフェミニズムから進化した(?)ホモ(バイ)セクシュアルあるいはクイアー風のものなのだろうがその差異はここでは取り上げない。野原(わたしたち)はアンティゴネーを証人に立て、家族は国家より古いと主張する。

「子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。」ということで、野原は何を言いたいのか?「結婚しない自由」は「欲望し主張する主体というもの」を無意識のうちに前提としている。ここで、「欲望し主張する主体」は「家族」を通してしか生成できないと仮にするならば、わたしたちは出口のないループに閉じこめられることになる。即ち1)家族が否定されるべきものであり、2)家族以外はわたしたちを産みだしえない、という矛盾。ここで野原は岡野氏の発想を借り、わたしたちを産みだすものを<家族>と呼ぶ(つまり現在の家族以外に拡大された色々な形態を含む)。そのことにより2)の命題を強く肯定することにより1)を否定する(<家族>を肯定する)ことになった。

(1)

 介護保険導入時の論争に見られた、家族による介護か家族外による(を含めた)介護か、という論争の布置を子育てに応用し、その前者に野原を位置づけておられるようだ、strictkさんは。残念ながらそれは見当違いである。この点について、野原は後者の側に立っている。

 strictkさんは、高齢者の介護の問題についてはどうか、という問題を投げかける。「痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。」介護を家庭内でのみ行うことと、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランとが対比される。そして、「ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。」が強調される。 そして、「子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。」と結論される。以上すべてに野原は異論はない。

 野原は「子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ」、という主張はしていない。したがってstrictk9/23は野原9/23への反論にはなっていない。独立して読めば条理の整った良い文章である。

 野原が「それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。」と言っても良いだろう。だが、わたしが言っているのはカッコ「 」のついた「家族」であり、血縁を前提とした家族ではない。「家族」とはstrictkさんが高齢者介護について丁寧に説明してくれたような外部介護者との関係を含む。場合によっては外部介護者たちだけのネットワークでもよい。

前回「(2)「家族」の「 」について」という章を設けて説明したつもりだったが、説明が下手だったようだ。

岡野氏は「そのプロセス(欲望と言葉を獲得する)を見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係、を強調している。 即ちそれを、「家族」と呼んでいるのだ。*1それは当然ながら現在法的に家族と認められている関係である場合もあるだろうが、そうでない場合もある。具体的には書いていないが数年以上持続する関係でないとまずいのではないかと思われる。 すなわち、「家族」とは<見守る>という持続的関係においてだけ定義されているのであり、法的な家族であるかどうか、男女であるかどうか、血縁関係があるかどうかは関係ない。

 「家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。(strictk)」岡野氏においても外部からの支援は排除されるどころかむしろ要請されている。「ひとり一人がそうした主体「となる」プロセスを確保するために、家族以外の者たちが公的な支援を活用して、個々の家族の構成員に支援を与えることが必要なのではないか、という問題提起でもある。*2

(2)

とは言っても、strictkさんとわたしの差異は残る。

(野原さんは)「子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。」言い訳ばかりになりますがわたしはこんなことも主張していない。「子供を産む/産まないの自由」と「子供を産まない自由」は同義語であるので、上の文章は主張ではなく「産む」ことへの情緒的訴えかけかと思われますが、野原はそんなことは言っていない。

わたしが書いたのは「そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。」である。子供を作らなかった人に対し、子供を作った人の子育てに介入する可能性について書いている。(ここからも野原が子育てに対する外部からの介入支援に否定的でないことは分かる。)とはいっても、現状はそのような介入が行われるようなシステムにはなっていない。したがってそのような方向に社会を変えていくことには賛成である。即ち「家族以外にも子供を育てる自由を。」というstrictkさんの主張に賛成である。

「私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。」で始まるstrictkさんの考察は周到で説得力がある。わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。(野原自身文章を書いたりしている以上、選択可能な主体の側に属していることはもちろんです。)

「しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。」わたしたちは産む/産まないの選択可能性を持つ主体から出発したはずだった。ここの判断とは誰の判断なのだろうか。私たちの社会にはそうした圧力が不断に流れているのだろうか。確かに成人男女に対し、結婚し子供を作るのがまっとうなあり方だといった「常識」は存在する。政府も同様の事をPRしている。しかし政府のPRは少子化対策としてである。少子化という現実があるということは「産めという圧力」とは別に「産むな」という方向に働くベクトルがどこかに存在していることを意味している。と野原は考える。hippieさんとstrictkさんとの野原の差異はここにある。

 「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落すると思われる。正しい描写だとは必ずしも思わないが、そのようなこともあるのではないか。自己であるという義務と緊張を少し弱めると、産むことも受け入れやすくなるかもしれない。これは甘ったれたたわごとかもしれない。産むことの方が安易であると言うことの方が多いかもしれない。

(3)けっきょく

 strictkさんの発言の全体に対しわたしは特に異議はない。あえて言えば、「子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。」AとBの間にはだいたい第三者からの価値付けはすでに為されているわけでそれに対し自分の判断を確認し行為することが、自由と呼ばれるのではないか。

 hippieさんとの間にも、実際的な対立点は少ない。家族を国家(社会)の単位として過不足無いものと捉えている点に違和感があるに過ぎない。

*1:これは文中で説明していないので、野原の解釈。

*2:現代思想200409号p128

(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、

1.男と女は遺伝的にちがう

->遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。

2.それは嗜好にも出る。

->差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。

3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。

->現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。

4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

日本国民の約半数は

イラクへの自衛隊派兵に反対かかなり疑問を持っているという。

自衛隊派兵はすでに為された。だが問題は現時点において当初目標に対しどれだけの成果が上がったかなどのきちんとした検証がなされることなく、ひたすら小泉ポチ路線(対米従属路線)によってあらかじめ定められた路線が継続されていることにある。今回の誘拐犯グループからの要求に対してもあらかじめ定められた答えNOが発せられた。サマワはすでに非戦闘地区とはいえない、したがって自衛隊は撤退すべきだ。撤退しないという路線は、次の自衛隊員が数人あるいは十数人死ぬのを待っていることだ。こうなったのはアメリカが主導する占領体制が失敗したからだ。待っていても問題は前進する可能性はない。

 日本は民主主義国なのだから、国民はいまイラク派兵を支持するのかどうか、声をあげて発言するべきだ。イラク派兵がイラク国民の為に役立っていると信じる人が過半数なのなら、香田証生さんという人が殺されてもしかたないということになるのかもしれない。しかしそうでないなら、自衛隊撤退の声をあげ小泉を至急追いつめて自衛隊を撤退させ香田氏の生還を勝ちとらなければならない。香田氏は無意味に死んだことになる。

著作権/引用について

 現在日本にあるすべての法律を尊重しなければならないものでもなかろう。公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから。後は他者の権利との調節の問題(司法の領域)だ。国家といえども多くの場合、私と対等な権利主体にすぎない。*1「著作権」というものの理解については当然、著作権者(「持てる者」)と利用者との利害対立を反映し、解釈にも相違が出るだろう。シェアウエアなどの作者は弱い立場でお願いしているだけだし、しかるべき金額は払うべきだと思う(ズルしてることもあり、スンマセン)。ただ「大企業である=著作権者」の利益など特に尊重する必要もないのでは。ハリウッドや日本の音楽産業などのコンテンツに興味がないからでもあるが。難しい問題なのでこれはとりあえずのメモ。

下記に、分かりやすい入門とリンクがある。(最初、リンクだけしとこうと思ったがまとまらない思いを上に書きました。)

http://d.hatena.ne.jp/katawa/20041113#1100358461 はてなダイアリー – この平坦な戦場で生きのばす為に

*1:日本の司法はちゃんと機能しているのか?という問題になるが。

なぜイラク人を虐めるのか?

8月5日に広島で開催された、ハナ・イブラヒムさんとムザッファル・アハマド・モハメドさんの報告から、引用したい。(id:noharra:20040807#p2 で言及した集会)

http://iraq-pgp.jugem.jp/?eid=3(イラクから伝えたいこと-イラク市民を囲んで)

将校はテントを回ったのですけれども、その時私は、「一体なんで我々をこんなところに収容しているんだ」と聞きましたところ、将校は「あらゆるイラク人はアブグレイブに収容されなければいけない。理由があろうとなかろうとだ。」と答えました。つまり、彼らはイラク人を刑務所に集めて、そうすることによって抵抗組織が占領に対して実効的な抵抗しないようにしようとしているわけです。私たちが抵抗運動に関わっているかどうかではなくて、です。

つまり逮捕によって国民をあるいはイラク市民をおびえさせることによって、抵抗に対する意思を削ごうとしているわけです。あるときアブグレイブ刑務所で私が目撃したことですけれども、あるとき1人の老人が2人の息子とともに連れて来られました。老人はその時下痢をしておりまして、頻繁にトイレに行かなければいけない状況にありました。ところが彼らは老人がトイレに行くのを禁じたのです。こんな話をするのをお許しいただきたいんですけれども、下痢を患っている老人がトイレに行きたいのに禁じられたらどうなるか、彼は多くの被収容者たち、しかもそこには自分の2人の息子もいるわけです。その人たちの、公衆の面前で我慢できずに便を漏らしてしまう、そしてそのショックで、恥ずかしさで精神に異常をきたして亡くなってしまいました。

このように彼らは私たちを辱めているわけです。

 抵抗すればとことんまで辱められる、自分だけならともかく自分の一番大事な家族がそうした目に会うのだと思い知らせることは、確かに効果的かもしれない。経済破綻も、国民を意気阻喪させるためにわざとやっているのか。(だとすればイラク復興のために金を出している日本はただの馬鹿、と言うことになる)だが2000万人(?)が奴隷意識を自身で内面化する状態を作り出すことが本当にできるのか。イスラエル人のブレーンはすべてのイラク人を意気阻喪させるヴィジョンを持っておりそれを実行しようとしているだろうことは、そうであっても何らおかしくないことだと思われます。イラクの復興が遅れるだけでもイスラエルにはメリットだと考えられるでしょうから。

遺体を運び出そうと

ジョラン地区*1のせまい通りを通れない戦車は、構わず両脇の家々をなぎ倒して進んで行きました。攻撃に一段落した皇軍*2は、市内中にあふれる遺体を金属のフックでまとめて、装甲車でひきずって行きました。遺体は空き地に集められました。まるでゴミのような扱いでした。住民は米軍に見つからないように、チャンスを見つけては遺体を空き地から運び出そうとしました。身元の確認ができればそのリストを作りますが、いずれにせよ、どの遺体も墓地まで運ばれるべきなのです。しかし、どの遺体も姿からは身元を確認できる様子ではなく、ポケットにある身分証明書などが頼りでした。ほとんどの遺体が体内に溜まったガスで膨れ上がり、犬に食い荒らされていました。

 総攻撃の少し前あたりから、今まで見たこともないような大きな犬をよく見かけるようになりました。私は犬を怖いと思ったことは今まで一度もなかったのですが、ある時、モンスターのようにでかい犬が口からだらだらとヨダレを垂らしながら、私の乗っていた車のフロントガラスに突っ込んできました。私は恐ろしくなり慌てて猛スピードで逃げました。この頃から病院などで狂犬病にかかった人たちが次々と運ばれてくるようになっていました。町中を大きな犬が走り回り、人間に喰らいついていたのです。

高遠菜穂子さんのブログから引用した。http://iraqhope.exblog.jp/ 2005.1.11 イラク・ホープ・ダイアリー より。ファルージャ支援のプロジェクト・メンバー、カスムからのメールより。

 イラクは日本から少し遠いとはいえ、現在のアクチュアルな課題である。しかもわれわれの代表たる小泉氏が「支持」をきちんと公にした米軍によるファルージャ攻撃の一こまである。わたしたちはファルージャの惨状の事実を知るように努め、それを元に小泉へ政策変更をせまっていかなければならない。それはそうなのだが、わたしがこれを引用したのは、上記の70年以上前の東アジアを舞台にした寓話的小説のトーンと非常に似ている、という気がしたからです。事態が残虐すぎるとそれを伝えようとする文は深い静寂をたたえてしまう。静謐なシュールレアリズム。(1/12追加)

*1:ファルージャ市内

*2:本当は米軍