ビラをまく自由

 投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。

 去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。

 2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。

 また次のような噂もある。

  また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、

 道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。

第76条 

4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。

2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。

3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。

5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。

6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。

7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為

 これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

難民とアイドル

# hal44 『またちょっと書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050325

基本的なところでは異議があるわけではありません。

ただ、相互の思想の差異を確認するために少し書いてみます。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。

(野原)

 現在多くのプチウヨとかが口にするのは、被害者としての「横田めぐみ」です。日本人少女めぐみさんが無垢な被害者であり、彼女に対する加害者として「敵」=金正日一派=北朝鮮国家が名指されます。このような排外主義は私にとっても不快なものです。ですがそこで思考停止して良いのでしょうか。このごろ思うのは、めぐみさんというのは「日本人」というより「難民」である、ということです。彼女が失踪してから20年近く、少しは気付きながら日本国(外務省)は、国家と国家のつき合いを重んじて、一人の日本人の運命に深く関わっていこうとはしませんでした。それが数年前から家族会、救う会とかができて、少しづつ世間の注目もあつまり、ようやく現在のような(そういう言葉を使うことが許されるとしたら)国民的アイドルに成ることができたのです。世界中でひどい目にあっている女性たちはたくさん居り、めぐみさんにだけ注目することが正しいわけでは無いのは言うまでもありません。しかしいまでは有名になった「めぐみさん」自身たった2,3年前までは国民的レベルでは誰も知らない、見捨てられた存在であったわけです。めぐみさんを見捨てたまま知らん顔を続けるのが正しいわけではない、と言うことには同意いただけるのではないでしょうか。とすると、次の問題は、「めぐみさんに多くの人の関心を集める方便としてナショナリズムに訴えること」の是非です。これは例えば、韓国人慰安婦某女にできるだけ多くの人の関心を集める方便として韓国人ナショナリズムに訴えること、とパラレルな問題です。

 わたしはこのような方便を肯定すべきだと力説したいわけでは別にないのですが、全く無視すべきだと言うことにもならないと思っています。

またこのブログはいまヘッドに「米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。」という文を掲げています。パレスチナ人は毎日のように殺されているのに、何故パレスチナ人ではなくたまたま殺されたアメリカ人の名前を掲げるのか、という問題とも関わる問題にもなってきます。

 以上の話は、狭義のナショナリズムには関係ありません。ナショナリズムに類似のアイドル利用の大衆動員方法みたいなことをどう評価するかという問題です。

教育基本法

教育基本法

 昭和22・3・31・法律 25号  

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

(教育の目的)

第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の方針)

第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

(教育の機会均等)

「われらは、さきに、」「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」とは要は、先の大東亜戦争は間違っていました、これからは別の道を歩みますということだ。

「君が代」がこのような思想に背反する、大日本帝国と戦後日本との連続性を意味する事は明らかである。

 少なくともそう理解する多くの教師が居た。この確信が正しい限り、卒業式に「君が代」は不要だという論理は、「憲法-教育基本法」によって肯定される。指導要領は学校教育法の下部の通達?であり、本来教育基本法の範疇っぽい領域を規制できない。

 にもかかわらず、48年前から一部の教育官僚は、君が代に執拗にこだわり続けた。それは何なんだろうか。3月に止めておけば良かった戦争をずるずる引き延ばして国民(だけでない)に被害を拡大した責任を追及されたくないという意志。そうした「悪」と一体になったベクトルである事ははっきりしていると思う。

 どちらが先か?については、法的根拠なく「君が代に執拗にこだわり続けた」文部官僚の黒い意志が先である、ことになる。

思想信条の自由

アンチひのきみMLより。

 立川二中の教員である根津公子さんが、今年3月の卒業式での「君が代」斉唱

時の着席で「減給6ヶ月処分」となり、今年の入学式での着席について「停職」

の可能性もあるとのことです。

今月12日に都教委による「事情聴取」がありました。28日の教育委員会の

定例会で「処分」と「量刑」が決められる可能性が強いようです。

(略)

 ◆抗議・要請先 

 東京都教育庁 人事部 職員課

  FAX 03-5388-1731

  Mail S9000013@section.metro.tokyo.jp

  TEL 03-5320-6790(藤森 教悦 職員課長)

  TEL 03-5320-6792(佐藤正吉 主任管理主事)

  住所 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1

「存在」っていったい何?

 存在とは、being,Sein,etre,esse(アクサン省略)であり、「あること」である 。だがそれでは何のことか分からない。

「その本性が存在するとしか考えられないもの」からスピノザの『エチカ』は始まっている。「(あるものが)あるかないか」は単純な問題で、哲学の問題ではないとわたしは思ってしまうがそうではなく、それこそが哲学なのだ。どういうことなのか、分からない。

 八木雄二『中世哲学への招待』isbn:4582850693という本は、西欧人は(日本人を含む)アジア人とはまったく違った感じ方考え方を根源的にしているのだ、ということを解説しており、とても興味深い本だった。

その本のp88-89に次のような部分がある。長いが引用する。

 でも結局分からないのだが。

 さてアンセルムスは、神の存在証明をつぎのように始める。すなわち、まず「それより大いなるものが考えられないもの」という概念を知性のうちに構成する。この概念が実在のうちに対応物をもつかどうかは、まずは考えの外である。そしてこの概念について考えてみる。アンセルムスによれば、神を信じない愚か者だろうと、この概念を考える知性はもっていると言う。そしてかれによれば、単なる概念としての存在は、知性のなかにしかないのだから、知性のなかに在ってなおかつ知性の外にも在るものの方が「より大いなるもの」であると言う。言い換えると、存在するという完全性の点で、知性のなかにしかないものより、知性のなかにも外にも(すなわち、両側で)存在するものの方が、優秀である、ということである。アンセルムスは、このことは客観的事実、言い換えれば学問的に認められる事実だと考えている。

「現実にも存在するものの方が、わたしたちが考えているだけのものより優れている」というこの観念は、たぶん日本人にはなじみがない。仏教的無の観念からすれば、優秀さの問題と存在の問題は無関係である。実際、在った方がいいものと同じく、無い方がいいものも世の中にはたくさんある。非存在より存在を有意義と見るヨーロッパ精神のもつ傾向は、やはり歴史的なものだと言うべきである。

 プラトンの場合も、善(最高価値)は存在を超えるが、存在と近縁な関係にあることは間違いない。この関係は、かれより二世代から三世代ほど先に生きて、古代ギリシア哲学に論理の力を見せつけたパルメニデスから受け継いだ「存在と論理の一致」の思想と関係するし、キリスト教の場合「神が世界を創造したし、現在も創造し続けている」という観念と関係していて、何が理由とも言い切れない。しかし、存在にこそ意義があって、非存在には意義がない、という思想は、ヨーロッパの思想に一般的な原理である。この思想を真っ向から否定した思想家はヨーロッパにはいない、と言ってもいい。プラトンと対比されるアリストテレスも、アンセルムスの証明を否定したトマスも、この点では一致しているのである。

 それゆえ、ヨーロッパの歴史に敬意を表することにしよう。つまりこの原理を認めて、単なる概念よりも実在もするものの方が「より大いなるもの」であるとするならば、一挙に、つぎの結論が出てくる。「それより大いなるものが考えられないもの」は、確かに、「実在する」。

 なぜなら、もしもそれが実在しないと考えられるなら、実在する、と考えられたものの方が「より大いなるもの」だからである。そして「実在する」と考えられたもの、そのように理解されたものは、わたしたちが普段、周囲に在るものについて「実在する」と理解しているように、現実に実在する、と言うほかないものである。こうして、「より大いなるものが考えられ

ないもの」は、考えられるだけではなく、実際に存在する、と結論され、神の存在証明が終わる。

p88-89 八木雄二『中世哲学への招待』

 この証明を概念から実在への「飛躍」と見るかどうかは、「存在と論理の一致」をどこまで認めるかにかかっている。「存在の有意義性」の方は、すでに述べてきたように西欧一般に認められた存在の価値観として西欧内部では問題にされない。だから知性のなかで考えたことがどこまで実在と一致するかは、もう一つの問題なのである。

p90 八木雄二『中世哲学への招待』

ベスト5

世捨人noharraのところに、 Musical Batonなるものがきた。id:amgunさんところから。世捨人ほどこういうものは喜ぶもの、である。

ただ音楽ってもう長い間あんまり聞いてない・・・

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

なし、といいたいところだがそうでもない。71メガ。鬣、など。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある 5 曲)

現在形でよく聞く曲はなし。

・日本のpops(というか)といえば何といっても、はっぴえんど。

ここでは、大滝詠一作詞作曲の「夢で逢えたら」を挙げる。

思ひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを(小野小町)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/komati.html

王朝美学の突然変異的復興、ともいえましょう。

・オーネット・コールマン「ロンリーウーマン」

倉橋由美子の小説に荒神橋のシャンクレールでこの曲を聴くシーンが出てくる。がそんなこととは関係なく、名曲である。

・元ちとせ「ワダツミの木」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005ULFS/250-1569126-3448225

http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_plain?base=95&range=1(野原)

・ジミ・ヘンドリックス、この曲というのは思いつかない。長い間聞いていないから。下記で確認するとデビューLPは『アー・ユー・エクスペリエンスド(1967年)』だがいま探してみたが見つからず。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

・水玉消防団『乙女の祈りはダッダッダッ!』

わたしは水玉消防団のファンクラブ員だった。消防団解散後だいぶ経ってカムラはロンドンへ行って、ホーキ・カズコの相方(フランクチキンズ)をやってると聞いたが、今は一緒じゃないらしい。最近カズコの『ロンドン快快』という講談社文庫を読んで(カムラのことは2,3行でてくるだけだが)、カズコたちに対して同窓会的懐かしさを感じてしまった。(もちろん一方的なものだが)

人民のための戦争ではなく

 こうして、いよいよ軍司令部のあった首里も戦場になってきました。石兵団はすでに七○パーセント位がやられてしまっていました。山兵団が途中で応援に来て「総反攻」というのをやりましたが、それも、一日に六〇〇〇人も兵を無くすという大失敗で終わりました。そういう中、五月の二二日に、首里を最後まで死守するか、あるいは南の島尻まで退がって一日でも長く持ちこたえるかの、作戦会議が軍司令官や師団長、参謀長を集めて行われたそうです。そこで石兵団の藤間師団長は、我々の師団ではまだ多くの兵が陣地の壕や野戦病院の中で呻いている。それを見捨てて南へ退がるということは、到底できない。ここ首里で玉砕し、沖縄戦の最後としてもらいたい、と主張したそうです。しかし軍司令部の幹部連中は、首里戦線ではもう一週間も持ちこたえられないと判断し、一日でも長く持ちこたえよという大本営の命令に従うため、五月の二二日、南部への撤退方針を決定し、二五日から撤退を始めました。藤岡中将の提案を採用しておれば、その後の島尻での沖縄県民の惨状はなかったし、私たちも負傷者を見捨てて撤退しないでもすんだのです。それを思うと残念でならない。大本営命令をかざして、それを否定した軍司令官や参謀が、戦後になって評価されるなど耐えられるものではありません。

(p122『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 そもそも、立派な軍司令官や参謀長なら、なぜ島尻の方まで軍隊を退げて戦う必要があったのか。そこにはもう、二十数万という沖縄県民が、戦火を逃れており、それはもうはっきり分かっていたことなんです。分かりながら、首里の線がもう駄目だからといって、当時約三万の日本兵を退げた。その結果十何万人の沖縄住民が悲惨な戦場に巻きこまれて亡くなってしまった。前にも言ったように、五月二二日の会議のおりに、私らの師団長は、八○パーセントの兵を失い、今も負傷者があちこちの洞窟でうごめいているのに、ここを拾てるわけにはいかないといって、首里での玉砕を主張したそうです。もしそうしていたら、十何万といわれる沖縄県民の犠牲はずっと少なかったはずです。前線の兵士がどんな風に死んでいこうが、沖縄県氏が何万人死のうが、そんなことは問題外で、武人としての自分の立派さしか考えなかった、そうとしか私には考えられません。

 さらにその上の台湾の第十方面軍もとんでもないと思います。沖縄のすぐ近くの台湾には六〇万という兵隊がいるというのに、一兵たりとも沖縄には出しませんでした。

 さらにその上の大本営は何かといえば、絡局は国体護持、天皇制擁護しかなく、そのために一日でも長く持ちこたえよということで、沖縄を拾て石にしてしまった。

 そして全ての責任の一番の大元は、天皇です。東京裁判で東条英機がキーナン検事の質問に答えて、「天皇の言うことはノーとは言えない。そう言える状況でもなかった。我々は天皇の意思をくみ取って行動した」と述べている(天皇が訴追されそうになるので次回尋問で翻しましたが)。要するに、御名御璽、天皇の意思を汲んで東条が遂行したんです。

 それなのに、八月一五日、天皇裕仁は、三〇〇万の国民を亡くしてしまったのも、二〇〇〇万以上とも言われるアジアの人々を殺したのも、自分の間違いであったとはっきり言うことはありませんでした。このことが、今の日本をこんなにしてしまった根本原因です。

(p158 同書)

訂正

(一部削除)

しかもdempax情報によれば、

『にせ金を探せPart4』解答 http://web2.incl.ne.jp/yaoki/anise4.htm

R回の天秤操作で偽コイン(軽重不明の1枚)を見つけ出せるコインの枚数Mは

「ニャンチャロフ さんからの解答」の公式 M = ((3^R-1)/2) – 1

または「山形県 Shoji さんからの解答」 M = (3^R – 3)/2

と答えが違う。

13枚ではできるのかどうか??