# Cman 『おやおや、逆ギレですか・・・。批判されることに耐性がないならコメント欄を外したら如何でしょうか。それか、反対意見はお断り、と注意書きをしておくとかしたら。』
批判がないから怒っているのだが?
# Cman 『おやおや、逆ギレですか・・・。批判されることに耐性がないならコメント欄を外したら如何でしょうか。それか、反対意見はお断り、と注意書きをしておくとかしたら。』
批判がないから怒っているのだが?
日本音楽著作権協会(JASRACジャスラック)が、著作権使用料徴収の「前線」を拡大している。今まで慣例的に支払ってこなかったライブハウスやジャズ喫茶、ディスコ/クラブにも積極的に督促を始めている。
http://d.hatena.ne.jp/miyutomo2/20041111#p3 はてなダイアリー – 遠くまで。
デリダが女の形象を発見したのは固有化(略)の批判によってである。このようにしてデリダは、非決定性の「記号」、真正ならざることを固有財産とするものの「記号」である(理想化された)女を盾としつつ、男根中心主義の伝統から自らを差異化した。*1
(スピヴァク『文化としての他者』紀伊国屋書店p96
現代思想12月デリダ特集p216 新田啓子氏の文章から孫引き)
新田氏の解説によれば、スピヴァクはここでデリダを批判しているらしい。こんなふうにデリダは「女」という記号に特権的普遍性を与えてしまった、と。「ゆえにスピヴァクは一見フェミニスト的な正義に溢れる「世界」ではない、どこか「他の世界」を選び、決定不可能な意味の受け手として、他者の到来を待つことを選ぶ。*2」でも他者であるなら到来しない可能性もあるからあまり良い考えにも思えない。
イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。*3
新田は間違っている。50年以上前に遡る「イスラエル政府の残虐性」を正確には認識してこなかったヨーロッパ-アメリカの知の布置が倒錯であると知らずに「言うまでもない」など言ってみても、仲間内のエクスキュズにしかならない。イスラエル政府を正確に憎悪することこそが、「「敵」と「味方」を峻別する政治」から抜け出す道である。
であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。
日本のユダヤ人問題といえば、朝鮮人問題ということになる。1910年以来民族の独立を奪い民衆を抑圧したという事実の存在は、同時期におけるアウシュビッツにいたるユダヤ人抑圧~虐殺の事実とパラレルである。(第三世界人、つまり予め植民地化されるべき民、であったのかもしれない韓国朝鮮人とユダヤ人は違うが)現在の問題は次の点にある。
「イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。」
「北朝鮮政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。」
後者は自国民に対する抑圧であるために他国からは直接観察~批判しにくいという差異はある。
だが1945年以前における被抑圧者が(あるいはおそらく)抑圧者に転じたとき、1945年以前における抑圧者はそれを指弾するのを躊躇するという<良心>において、残虐な抑圧が継続し続けるという構造が存在する。そのことにおいて北朝鮮問題とパレスチナ問題の構造は一致する。
第一野原燐からして、このブログでは、より語りやすいパレスチナ(~イラク)問題よりも北朝鮮問題にできるだけ触れたいと思いながらも果たせていない。
http://www.asiavoice.net/nkorea/ 朝鮮民主主義研究センターなどを見て、リンクして行きたい。
http://f33b7ad9e960c670ac32f8fe131228ce.blogtribe.org/entry-e42b097d64af69210d0788be91337f58.html に「 北朝鮮難民基金の野口孝行さん・加藤博さんの講演録」があります。
生きているかどうか分からないめぐみさんなるものに大騒ぎするわりには、半年以上中国に拘留されながら野口さんに対しては何故国民的救出運動が盛り上がらなかったのか。右翼の立場からすると、難民救済する日本人は日本人ではないのか。であればおそらく北朝鮮の国益のために生きている(生きざるをえない)横田めぐみ救出を叫ぶのは矛盾していないか。
ところで(生きて帰ってきた)野口氏は上記で自己の活動の原点を確認する。「ある特定の国籍もしくは宗教・集団に属しているという事から迫害を受け、受ける可能性があり、国を離れた場合、その人達は難民である」。中国も批准している国連の難民条約である。脱北者は難民であるから保護を受ける権利がある。ところが中国当局は難民である彼らを北朝鮮に送還している。わたしたちは野口氏と共にこの点を中国当局に強く訴えていかなければならない。
しかしながらよく考えると(野口氏は長期に渡り拘留されていたから考える時間はたっぷりあった)、日本人は偉そうに言えないのではないか?
そういう風にしながらですね、いざその自分の日本の国というものを見てみますと、先日ですね、私はちょっと日本の状況を調べていたんですが、2001年の1年間で日本が難民認定を与えたケースというのはですね、たったの26ケースなんです。そして更に2002年、これは14人なんです。そして去年はですね、336人申請したうちのたったの10人しか難民の認定を与えていないんですね。これは毎年減って来ている訳です。そして先進国と言われる国を見ると、毎年数万人単位で難民認定を与えています。一番少ないイタリアでも2002年、2100人という人達に認定を与えてますね。そうするとですね、日本の団体である私達、私が中国に対して「あなた達、北朝鮮の難民を難民認定して保護しなさい」と言っているのはですね、とても空しい風に感じる訳ですね。で、よくよく突き詰めると、これは矢張り日本人のですね、我々一人一人の人権意識というものが非常に低いと言わざるを得ないと思うんですね。
http://f33b7ad9e960c670ac32f8fe131228ce.blogtribe.org/entry-e42b097d64af69210d0788be91337f58.html
北朝鮮問題とパレスチナ問題の構造の一致、というより差異の問題になった。(北朝鮮に対する報道は少なくない。必ずしも排外主義一色でもないとも言える。)横田めぐみさん、拉致された日本人を北朝鮮から奪還せよ、というストーリーばかりが叫ばれるが、めぐみさんはまだ帰ってこない。帰ることが大事なのか。そうではなく大事なのは移動の(国境を越える)自由だろう。一人でも多くの脱北者に保護を与えることに積極的に成るよう、わたしたちは日本政府と中国政府に働きかけるべきだろう。
インドネシア政府は反政府ゲリラの自由アチェ運動(GAM)の存在を強調(ないし誇張)しており、自衛隊が安全確保を要請したことや、援助活動をGAMが妨害しているなどとの報道がみられる。別にGAMがいいなどとはまったく思わないが、外国からの介入を唯一心配しているのはインドネシア国軍であり政府であることを踏まえた上で日本のマスコミの報道も注意深く読んでいく必要がある。
それは、インドネシア国軍である。
(米軍の存在は良い、とみなされているのではないか、現地住民の半分以上には? 良いことをしている限りでは良いわけだが・・・米軍の国家戦略=「不安定な弧」対策の行方は気に掛かるが。)
拉孟(ラモウ)というのがどこにあるのか皆目分からないのだが、古山高麗雄の三部作(断作戦・龍陵会戦・フーコン戦記)の舞台になったエリアだろう。慰安婦が出てくるシーンを引用したいが今出てこないので代わりにちょっとだけ。
それに板垣さんは、経理の上級将校であったから、女性の衣装や白粉などを提供してくれたのだった。それは、朝鮮から拉致して来て慰安婦にした女性たちに給すべく用意したものの残余であったもののようだった。
(p366『龍陵会戦』文春文庫isbn:4167291053)
慰安婦のことは中曽根さんのような経理の上級将校が良く知っているのだ、ということの傍証にもなる。(1/28追加)
「その慰安所は軍が経営していたのか?」という問いもまだアクチュアルである。この慰安所は軍が直営していたに限りなく近いものだったようだ。
わたしは9年半ほど前、ニフティサーブでパソコン通信をはじめた。Fポエムというフォーラムに顔を出したりもしたが、FSHISO(現代思想フォーラム)というところを読んでたまに書き込みもしていた。3月末で終焉ということで今日訪ねてみたら今日が書き込みの最終日だったので試しにやってみたら書き込めた。あと過去ログ倉庫というところからだいぶダウンロードした。ダウンロードできないものあるのは何故だろう。
Fshisoというところは、論争的口調自体を抑圧する傾向のある日本社会では例外的に、かなり攻撃的論争的論客のあり方がデフォルトであるといった独自の文化を持ったフォーラムだった。有名な訴訟事件を抱えながら、なお「反省せず」その文化を守っていたのは偉いと思うのだ・・・
最初期の非常に初々しい文章の一節を引いておきます。マークさんという方の文章。
このHPでは、その線に沿って試行錯誤してゆきたいと思います。まだまだ参加者は少ないですが、ここでどんなことを語り合いたいか、皆さんから提起されるテーマがあればお聞かせ下さい。当面、自由に各自の問題意識を書いて頂いてからこのHPとしての討論テーマを決めたいと思います。
「FSHISO 哲学室 Vol.1 90/02」というログより
http://forum.nifty.com/fshiso/ <現代思想フォーラム>FSHISO
<公開の場で、わたしとあなたが対等に対話を交わすことにより何かを作っていくことができる>という<希望と緊張感>!!
それはその当時全然珍しいものではなかった(と思う)。
わたしはいまでもそうした希望を大事にしたいと思っています。
まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)
異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)
まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、
抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)
さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、
天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、
さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。
天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、
そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、
勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。
以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。
かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。
それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。
という構造ですね。
前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3
この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。
ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。
ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。
ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)
それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。