減税を喜んではいけない

 今日自動車税の通知を開けると、なんと去年までの約半額だった。2月に新車を買ったので、「低燃費車」かつ低排出ガス認定車、に該当し約半分になるという。まけてもらえるのは嬉しい。排出ガスを低くしたいという公益のために誘導するという税制なのだろう。だからといって、50%も軽減するというこの制度が正しいのかどうか議論の余地はあろう。

だがそれより一般的に考えると、減税というのは喜んではいけないのではないか。確かに今日1万円まけてもらえば嬉しいのだが、その結果全国では0.001%ほど税収が減り、来年以降にまた別の形で増税になるのだ、とも考えられる。自分が適用を受ける制度は認識するが、日本には自分以外の人が受益者である減税制度が無数にある。したがってそうした制度も一切止めれば、実は将来の本当の減税につながるかもしれない。税金を払わないために努力を惜しまないのは当然の態度だが、それと同時に分かりにくい税制をシンプルで公平なものにしていくべく監視する、そのための勉強もしていくべきだ。(私が止めていくべきではと思う控除制度は、所得税では定率減税、住宅ローン減税、配偶者控除などだ。)もちろん廃止するだけでは損するからどこかで取り返さないといけない。

 軽減の対象に当たったことを喜んではいけない。対象者とそれ以外の格差が本当に必要なものなのかどうか考えて見よう。

平等な教育 で良い

小学6年生の親としては中学校では英数国それぞれ、週5~6時間はやってほしいなどと凡庸なことを思ったりもする今日この頃・・・『教育』広田照幸 岩波フロンティアisbn:4000270079 を図書館で見たので借りてみました。良い本でした。

 朱子学のように普遍的に善である立場に教師が立ちそれを生徒に教えるという構図は崩れてしまった。「青少年を丸ごと帰属させ彼らに生き方を指示する各種の制度が、青少年の個々人の存在に先立って存在している、という感覚が失われた」*1のだと広田氏は捉える。そのとおりだろう。大人にとっての会社や労働組合、地域や家族すらそうであろう。一方で青少年は「自己の価値を自前で探そうとする強い欲求を」消費市場において試行錯誤する。そのとき学校は端的に魅力を失う。

 まず多様な個人が存在する。それを均質化、統制化してひとつの集団にまとめ上げようとする学校に対し、不満が高まる。それはもっともなことなのだ。だがしかしと、広田氏は言う。「学校批判の一連の運動が総体としてみると「強い市民」による「強い子供」像を前提とした学校変革論ではないのか」と。*2つまりぶっちゃけていうと、現在教育について多様な言説を繰り広げている主体はすべてインテリである。インテリの子弟は「強い子供」である可能性も高い。だが自分で情報を集めて判断する力のない親や子供だって世の中には沢山いるのだ。非エリートだっても楽しく過ごせる学校を作っていこうという主張は甘いひびきを持つ。だがそれで良いのか?

 「市場の自由」をもとにした教育システムは,ひょっとすると今よりも快適な学校生活を,ほとんどすべての子供たちにもたらすことになるかもしれない.自分が行きたいと思えるような学校を選び,学びたいものを選んで学ぶ.また,マイノリティの子供は,自分の家庭の文化がそのまま学校の場でも重視されるような,そういった教育を受けることができる.学校に行かなくても,もっと気楽に過ごせる場が用意されている…….しかしながら,その結果は冷酷である.教育の成果はいずれ労働市場で厳しい判定を受ける.ごく一部分のエリート向けの学校へ行った者を除いて,多くの子供たちは,大人になったときに自分に開かれている職業の選択肢が,さほどよくないものばかりであることを思い知らされることになる.もっと魅力的な選択肢は,別の学校や別のカリキュラムを選んだ誰かにすでに占有されてしまっているからである.慌てて「生涯学習」に取り組んでみても,キャリアアップに励むエリートたちとの差は開く一方,ということも生じる.つまり,「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」というシステムになりかねないわけである.

 第二に,もっと根本的な問題は,資源・環境の有限性を考えると,新自由主義的な経済システムは,不公正で持続不可能なシステムだということである.エネルギーや資源消費量の観点からみて,今の日本の人々の生活水準は,世界中の人々が長期的な未来に向けて享受しうる水準よりもおそらく高いレベルにある.貧しい国々の人々が今よりも豊かになる権利をもしわれわれが尊重するのであれば,また,遠い将来の子孫(今の子供たちではない)がある程度の豊かさを持った生活をしてゆく権利を,われわれが「ご先祖」として保障してやる必要があるとするならば,新自由主義的な原理による経済発展には,重大な問題があることになる(代替エネルギーなど新技術がすべての資源・環境問題を解決してくれるという楽観論があるが,決して根拠のあるものではない).環境的公正の問題は,もっと持続可能な経済システムの必要性を提起しているのである.それゆえ,グローバルな経済競争でトップを走り続けるための教育,というものとは別のものがデザインできないのかを,考えてみる必要があるだろう.

ほとんどすべての学校改革論や教育論は,長期的にみてわれわれが直面している,最も深刻で重大なこの問題から目を背けている.*3

前半だけ引用するつもりだったが、後半も大事なのでついでに引用しました。

“エコロジーに反する経済成長のためのエリート作りのための新自由主義的教育改革”が現在もっとも有力な潮流だと広田氏は認識する。そしてそれに対抗するためには、教育学の枠を越えどのような未来社会を作っていくのかというビジョンを語ることが必要になる。大量消費大量廃棄の資本主義はいけないというのはエコロジーであり、教育学とは関係ないという常識を越え、広田氏がこれを書いたのには、こういうわけがある。

*1:同書p25

*2:同書p37

*3:同書p80-81

現在のイスラエル国家に敵対することに遠慮はいらない、

なぜならそれは反ユダヤ主義ではないから。

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20040924#p3

はてなダイアリー – 【ねこまたぎ通信】からそのままコピペします。感謝。

バグダッド住民の第1の敵はイスラエル 世論調査

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200409212034242

【東京21日=齊藤力二朗】バグダッドの住民が第一の敵と考えるのは、イスラエルであることが世論調査の結果判明したと19日付のネット紙、イスラム・オンラインが報じた。イラク調査センターが1万人のバグダッドの住民を対象にしたアンケート調査の結果、第1の敵はイスラエルとする回答が32%で第1位であった。…

中国人が日本人を見る

http://homepage3.nifty.com/gentree/tayori/tayori228.html 黄土高原だよりNo.228

 その長老が、私の顔を、

 まっ正面から、のぞきこんでくるんですよ。

 だんだん、顔を近づけてくる。

 そして、ポツリ。

 「変わった。

 たしかに、変わった。

 昔の日本人じゃない」。

http://homepage3.nifty.com/gentree/

「緑の地球ネットワーク」という、中国山西省大同市の黄土高原で緑化協力をつづけているNGOのサイトからほんの少しだけ引用する。

このあたりの農村の中国人にとって日本人(リーベンレンかな)とはかって見た日本軍のことである。かっての日本軍(たいてい貧しい農村の出身)と現在の我々とでは、食べている物も違うし生活意識も全く違う。したがって顔つきだって違ってくるだろう。それなのに「日本」というたった二字に頭を犯されて、現実の中国人(あるいは過去の中国人)とまっすぐに向きあう気のない人々(なかった派など)は、彼らの好きな「国益」に照らしても有害であろう。

不平等社会日本

 人々は、堅気の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている。

ニーチェ(p439『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫)

それともわたしたちはそれが正義から遠い、何人かの殺人を含んだものであることを十分承知の上で、そちらの方が儲かる可能性が10%ほど高いというだけの理由でイラク戦争を支持している。

碁を打つ女・2

 シャン・サは1972年北京生まれの中国人女性。1990年、渡仏。画家バルテュスのもとで2年間働く。バルテュス夫人節子が序文を書いている。これはフランス語で書いた3冊目の小説。「高校生が選ぶゴンクール賞」受賞。

 この本について、hatenaで言及したのは私で6人目。

一つだけ引用させてもらう。

http://d.hatena.ne.jp/Tomorou/20041009#p1 私的循環信号 – 強大台風襲来

それと、日中戦争の頃の悲恋を描いているだけれど、日本兵が現地の人を殺す際の描写が、なんというか、絶妙。非難するでもなく、かといって単なる事実列挙でもない。きちんと日本兵の感情まで描いていて、そこに多大の不快感を催させないというのは、うーん、すごい力量の持ち主なのかもしれない。

あと。

http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pickup/20041208bk65.htm

10月の店主は米長邦雄さんです : コラム : 本よみうり堂 : Yomiuri On-Line (読売新聞)

「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」の米長邦雄さんが推薦しています。日本兵の残虐行為の描写もけっこうあるのに。意外?

N・B氏発言(2回目)

(1/25朝、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

# N・B 『 なんかわかりにくい書き込みすいません。一段落目と二段落目の関係が不明確ですね。不勉強なくせに自分の知識を前提としすぎでした。

 私の理解を元に強引にまとめると「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う「弱い責任理論」は、現実の世界で起こる膨大な加害・被害を免罪してしまう。それは近代社会の現実から来ている。しかし、免除された責任を問おうとする「強い責任理論」(自由主義・N・B)は、責任の範囲を確定できないため、慰安婦の「声」だけでなく、梶さんの「声」も8lこれはある程度政党です)、さらにはユダヤ陰謀論者の「声」まですべてをもとに責任を問えることになってしまう。端的にいえば、魔女狩りが起こってしまう(私が補足すれば、それは結果的に魔女狩り的「弱い責任理論」を野放しにする)。デリダとおおやさんの類似点は本人が書いていますね、デリダについての論難には賛成できないけど。』

# N・B 『 2段落目以降ですが、「歴史からの反省」とははきっりいえば、シュミット(その他多くの人々)のワイマールからナチスにいたる行動の帰結のことです、法治主義を守るよりマシな道(反共主義という前提があるとはいえ)を選んだ結果が、「総統は法を守った」(「長いナイフの夜」のときのシュミットの言葉)ですから。

 シュミットは思想としても、彼が住んでいたワイマールドイツの問題としても批判するだけではすまない問題を突きつけていると思います。まあ、ベンヤミンファンとしては人事ではないと(この二人は思想的にも関係がある)。

 梶さんが「どこにでもある関係性」を動機の一部にしていることは、文章を読む限り本人がアイロニカルに認めていると思います。

>声の大きいほうが勝つ

 これを積極的に受け入れるのが「現実主義」ですね、でも声が大きくなる理由とそれが受け入れられる理由、さらにそれへの具体的な対抗が必要だと思うのです。

「同意=正義」論も、「現実主義」という問題を抜いて考えるとやばいと思います。

 ところで、「責任と正義」の後半はこのあたりを主題にしていると思います。

>どこで実害を及ぼしているのか

 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。戦術上の問題もあります。ですから、彼らがなぜそう思うのかどうすべきかはをきちんと考える義務はあると思います。

>ヒステリックな慰安婦主義者

 気になるのですが、梶さんのブログに、モジモジさんがコメントしたときに、「ヒートアップしないで」と書いています、論拠なしで一方を敵に間違っている書き、その相手に単純にこう書くのはちょっと問題ではと思いました、今度の野原さんの文章を読んでも違和感を感じます、「ヒステリック」とか「ヒートアップ」のような言葉は(それが適応される相手がどういう存在かを暗黙の前提として)、それこそ魔女狩り的レッテルとして機能しているように思うのですがいかがでしょうか?

 ちなみに私も全くの素人です。でも、人文・社会科学は「専門」の境界設定がはっきりしないし、「専門家」でも意見が違うのは厄介です、どこまでが「定説」でどこからがそうでないのかわかりにくいので素人としては困ります(居直っちゃいけませんが)(笑)。

 前のコメントの3行目は、(これはある程度正当です)です。

 では、長々と失礼しました。 』

リベラル/日本の

2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1

# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?

左翼とリベラルの違いってなんですか?』

わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・

 ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。

リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。

3つだけ書くと。

1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。

2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。

3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。

それとややこしいのは、

4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。

1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。

2)は保守派だが体制迎合的ではない。

それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。

 最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。

4)のイメージは次のようなものか。

 本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。

http://homepage2.nifty.com/hirokisu/contents2-b.html

みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm

 リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。

 おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。

*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。

立法が必要

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20050221/1108980401 経由で。

日弁連が、2005年3月19日(土)被害者保護支援の法制を考えるシンポジウムを開催するとのこと。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/genderlaw/shimpo200503.htm

シンポジウムのお知らせ

『人身売買受入大国ニッポンの責任』

~被害者保護支援の施策と被害者保護~

日本には多くの人身売買被害者が送り込まれています。しかし、加害者処罰が不十分であるだけでなく、被害者の保護支援の施策はほとんど皆無の状態でした。そのため、各国政府・国際機関・内外のNGOは繰り返し日本の対策の不足を指摘し、これらの批判を受けて、日本政府はようやく対策に乗り出し、2004年12月に「人身取引対策行動計画」を策定しました。しかし、その内容は、加害者処罰の強化については刑法等の改正を予定するものの、被害者の保護支援については現行法の弾力的適用で対処するというもので、防止対策も不十分です。