id:noharra:20050630
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# drmccoy 『皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?』 (2005/06/30 10:27)
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# drmccoy 『あともう一点、noharraさんの考える責任の所在は「天皇」「皇軍」「当時の権力者」のいずれかもしくは、全部であり、他には無いという事でしょうか。この他にもありましたらお教え下さい。』 (2005/06/30 11:02)
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# swan_slab 『サイパン島や沖縄戦での民間人の集団自決は、おそらく心理的には、投降の呼びかけに応じれば殺されないかもしれないが、恥辱を感じ、社会的信頼を失い、家族に社会的制裁あるかもしれず、それならば自ら死を選ぼうという意識があったでしょう。そしてもうひとつは、投降すれば食べられてしまうとまで考えていた人もいたなど、米兵そのものが鬼畜化してイメージされていたことががあげられます。
戦時法としての交戦規則について住民はちゃんと知らされていないうえ、敵国兵士に対する歪んだイメージを持っていた。これは国家主導のプロパガンダによる一種のマインドコントロールに近いでしょう。さらに継続的な皇国教育や精神論的な戦陣訓などが強く影響したことは否定できないと思います。そのような観点からすれば、集団自決を積極的に誘導したのは当時の権力機構そのものであったといえると思います。』 (2005/06/30 12:23)
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# spanglemaker 『そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね。以下でswan_slabさんもおっしゃっているように、責任の所在は簡単には決められないでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p2』 (2005/06/30 19:48)
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noharra 『マッコイさん。そんなことより「(天皇がサイパンで)もうすこし頭をさげたことにどれだけの意味と意図があるかちゃんととらえてほしい。…」について教えてください。責任逃れための責任談義にもっていこうとしているだけでしょう?』 (2005/06/30 22:58)
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# swan_slab 『>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね
これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。
しかし、それでも”後から知る”ことはできる。わが子を殺し、自らも自殺する行為の悲惨さを、純粋無垢な戦争の犠牲者とだけ語り継ぐことはやはりできない。そういうことです。
>責任の所在は簡単には決められないでしょう。
かつて西尾幹二氏は「全体主義の呪い」という著作のなかで、この悩みを哲学的に表出していますね。非常に深いテーマで、私などの凡人にはにわかに答えは出せませんが。簡単な話にはならないですね。』 (2005/06/30 23:22)
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# drmccoy 『野原さん、ご自身が言った事「皇軍の強制が原因」が正しいというなら、「具体的にどう強制したのか」答えてください。答えがなければ、答えられない、根拠無く説明できないと受け止めますがよろしいですか?
>責任逃れ
誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?一方的に糾弾されている彼らを弁護する責任なら多少感じていますが。
>頭をさげたことにどれだけの意味と意図
いつもそうなんですが、質問の主語がわからないので答えにくいんですよ。
「意味」とは誰にとっての意味ですか?見る人によってそこから感じる意味は違いますよ。私にとってどういう意味があるかという事ですか?
それから、「意図」とは陛下の意図ですか?それなら本人が「慰霊が目的」と言ってるますが。』 (2005/07/01 16:22)
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# swan_slab 『自決と命令については、http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm参照。
私自身は、戦史のなかでは、栗林中将が玉砕やバンザイ突撃を決して指示しなかった硫黄島の戦闘の印象が強いです。
なんていうかな。まずはアジア太平洋戦争の戦記を共有することからはじめないと。』 (2005/07/01 17:46)
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# drmccoy 『私にとっての意味または意義でしたらhttp://www.sankei.co.jp/news/050629/morning/editoria.htmに集約されています。
ところで、誤解されると困るので書きますが、私はかつての戦争指導者に一切責任が無かったなどとは思っていません。天皇や東条英機に一切責任が無かったと思っている人なんて希でしょう。石原慎太郎でさえ天皇は退位すべきだったとか言ってますから。
問題は誰が何に対してどこまで責任を負うか、そしてその罪はどれくらいかということでしょう。それらの検証なしにすべての責任を天皇やA級戦犯などに集約させてそれで終わりというのでは、結論を急ぎすぎではないですか?
これらを法的にも根拠のある法廷できちんと裁けていればこんなにややこしくなっていなかったと思いますよ。東京裁判だって法的に欠陥があるから、無実だったとか言い訳に利用されているわけです。』 (2005/07/01 17:52)
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# drmccoy 『なるほどswan_slabさんの参照先は参考になりました。沖縄の例などからサイパンにあてはめて参考にしてみると、原因としては「天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育」「軍による共生共死の一体化」、「捕虜を恥辱とする観念」、「鬼畜米英への恐怖」、「逃げ場のない追い詰められた地理的状況」などなどで、米軍だけでなく、日本軍までもが住民を追いつめた。これならわかります。おそらく軍人の質も低い人が多かったのかもしれません。地上戦という特に悲惨な状況であったとは言え、日本軍が同胞の住民を追いつめた、その責任は重大だと私も思います。しかし、すべての軍がそうでだったわけではありませんから swan_slabさんの記述はその点のバランスも配慮されて書かれている点、説得力を感じました。』 (2005/07/01 18:16)
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# spanglemaker 『swan_slabさん。
>>>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね
>>これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく
>>天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当
>>程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。
それってhttp://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p
に書いてあることと矛盾するようですが。
>>天皇制こそが諸悪の根源みたいな語り方は80年代にもよく耳にしましたが、
>>ものすごく単純化した図式のなかに何かの責任を押し付けて拒絶感を表明する
>>という傾向は、戦後ず~っとあったと思いますね
それともこれは肯定的な文脈で語ってらっしゃるんですか?
国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。
戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。
言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。
この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。
これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。
戦前も日本が民主主義国家であったことはちょうどsanhao_82氏が今日のエントリー論じておられますので紹介します。
http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1
だからこそ責任の所在は簡単ではないわけです。』 (2005/07/01 20:45)
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# swan_slab 『>spanglemakerさん どうも
「戦前は天皇主権だったので国民は権力の末端部品だった」というのと「天皇制こそが諸悪の根源みたいな拒絶は日本人の生き様に目をつぶるものだ」という論は矛盾するように読めるかもしれませんね。両者を極論すれば矛盾するでしょう。
でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。
>国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。
責任というのは、「どのように観察した場合に」という”アスペクト”で捉えなければならないと私は思います。国民の積極的・能動的自由が制限されていた状態を反省するなら、国民を悲惨な戦争に巻き込んだ責任の所在は自ずから国民ではありえません。そして、日の丸を振って地域の若者やわが子教え子を戦場に送り出した責任といったものは当事者の心の中にはありうるでしょう。
しかし、次世代についていえば、戦後の新憲法の理念を維持する責任は戦後の国民に課されたと私は思います。個人的な自責感だけではダメで制度的に固定化しなければならない、戦前の制度や考え方の何が間違っていたのかを反省し続けること、これが国民一人一人の責任だという具合に捉えています。
>戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。
>言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。
>この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。
>これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。
だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、
明治憲法が民主制をとっていたか、という問いに対しては、明治憲法上、主権の本質はやはり天皇主権とみなさざるを得ないので、天皇主権と民主制は背理します。
また「戦前の日本は立憲君主制だった」のではなく、立憲君主制モデルをもって明治憲法を解釈しようとする学説上の動きが有力になった一時期があったというふうにとらえたほうが正確です。おっしゃる美濃部の天皇機関説はその一例です。古くは、伊藤博文が憲法制定に際して、君主の権限を制限する立憲君主制を導入しようとしていたことも知られています。
つまり、まがりなりにも立憲主義を機能させようとしていた。おっしゃるように天皇にあたかもイギリスの君主のような役割を担わせようとする動きがあった。
また、臣民の間でも、英米やフランスなどの人権の概念や法の支配、住民自治について理解があった啓かれた人たちがいたことは確かです。
しかし、1935年頃から体制側から反動がくる。いわゆる国体明徴運動は古くは教育勅語(明治中ごろ)から使われている言葉ですが、より政治的意味を込めて使うようになったのは35年です。国体明徴問題についてはhttp://www.cc.matsuyama- u.ac.jp/~tamura/kokutaimeityou.htm参照。
「国体の真義によって、個人主義的な欧米文化のもたらした欠陥を是正する」と結語された『国体の本義』(1937文部省)に象徴されるように、天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を根本から国民にわからせてあげなければならないという使命感のようなものが生まれていったわけです。国体明徴運動が激化してくると、文部省は上述の『国体の本義』を全国の学校・大学・図書館等に配布し、・・。
また、戦時体制が敷かれ始めると、国家の啓蒙活動は国体に限らなくなります。
とくに『厚生運動』は典型例ですが、要するに、国民の体力を増強しなければならないという命題のもと、厚生省が誕生する。厚生省はもともと”厚生省体力局”新設が主眼で、その他衛生・社会福祉・労働などの部署はついでについてきたものだったんですね。健康こそが国家に尽くす大本であって、病者や障害者は非国民扱いになってゆく。体力増強のために国立公園がやたらと山岳地域にばかりに生まれハイキングコースが整備されたのもこのころです。嫌がる商店主なんかを引っ張り出して休日に体操やハイキングをやらせていたのが厚生運動です。
まぁいわば健康を強制していたわけですが、44年ごろには完全に終息します。体操している場合じゃなくなって。
戦争で散っていった兵士の多くは、この厚生運動とか国体明徴運動の影響をもろに受けた世代だったということができます。』 (2005/07/01 23:24)
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# spanglemaker 『1935年以降日本の民主主義がおかしくなったのはおっしゃる通りでしょう。
ところで明治憲法施行から1935年まで何年あるとお思いで?
コメントに書かれている日本を「立憲君主制」としようという努力は
1889年の憲法公布のさらにその前から1935年までの長い間の出来事なんですよ。
ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。
「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。
異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策であることは確かですし。
戦前の日本では日本国民が権力機構から疎外されていたと結論つけるのは
やはり妥当ではないと考えます。
なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流に
なるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います。
>>だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、
>>このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、
何様ですか?
>>でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。
ここの記事もすごい極論なので、私に反論して下さったのと同じように、
noharra氏にも反論されたらいかがでしょうか。
なぜnoharra氏の極論には何も言わないのか不思議です。』 (2005/07/02 12:37)
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# swan_slab 『>ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。
>「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。
明治憲法下の日本を民主主義といえるかというと、いえないと私は思います。
プロイセン型の憲法を採用しながらも、民主的に(ないしイギリス立憲君主制的に)運用しようという動きがあったにせよ、そもそも制度的に民主制ではなかった。
>異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策
それはあまり根拠がないと思いますが。
>なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流になるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います
明治憲法において民主的要素が全くなかったわけではありませんが、統治機構だけでも次のような欠陥があった。権力分立が不完全で、各機関は天皇の大権を翼賛するものでしかなかったこと、法の支配という観念がなかったこと、公選に基づかない貴族院が衆議院を抑制し、政府や軍部に対するコントロールが極めて弱かったこと、そもそも内閣自体が憲法上の制度ではなく、大臣輔弼制度が及ばない天皇の大権が憲法上認められていたこと、内閣が議会に対して責任を負わなかったことなどです。
そして、民主的といえる部分については、かろうじて制限的ながらも臣民の権利義務が法律の範囲内において認められていたことがあげられます。この部分が近代化に果たした役割は大きいと思いますが、上記の制度的欠陥は致命的だったとみるべきでしょう。
明治憲法の規定に、立憲君主制を読み込む、あるいは国家法人説を読み込む努力が潰えたのは国体論の台頭があったからということのほかに、根本的に明治憲法の構造がイギリス型の立憲君主制を読み込むのに適していなかったからでしょうね。』 (2005/07/02 14:40)
swan_slabさん、drmccoyさん、spanglemakerさん コメントありがとうございます。
応答が遅れてすみません。