網野善彦氏が亡くなられた。

「日本は日本である」といった同一性の神話に対して闘い続けた偉大な先達である、網野氏は、私にとって。哀悼の意を表したい。

 といっても不勉強なわたしは彼の本をよく読んでいるわけでもありません。『日本中世の民衆像』という岩波新書が出てきた。冒頭で、日本人単一民族説と「日本人の生活の中心は水稲耕作だ」二つの考えを挙げ、それは「やや極端にいうならば(略)この日本列島に住み生活をしてきた庶民にとって決して真実とはいいがたいの ではないか」と書いています。

いくらいってもわたしたちは日本とか朝鮮(あるいは韓国)という、たった一つの言葉でありながら世界を僭称する共同幻想以上のもの、から逃れられない。だから同一性の神話とは絶えず闘い続けなければいけない。

儒教??

古田博司氏は「私は儒教が好きである。」と言った上で、次のような言葉を挙げる。「長幼の序」「父子に親あり」「朋友に信あり」「夫婦に別あり」。*1「朋友に信あり」には反対しないが、それ以外はどうも嫌だなと思ってしまう。要するに儒教が大事にするものは、家族、親族、小共同体といったものであるが、わたしはそれらから離脱した単独者でありたいと思っているのだ。

一方欠点として「労働蔑視、職業差別感、身内偏愛、女性蔑視などは儒教が本来的に背負うものであり」が挙げられる。このうち面白いと思うのは「労働蔑視」である。西欧近代は、立岩氏が格闘したように労働(と所有)を価値の源泉とみなしてきた。今日それは金銭、ヴァーチャルマネーとして最後の形態を迎えている。ギャンブル資本主義に明日がないのは自明であり、次の時代を支える思想が要求されているが未だ至らない。それを考えるヒントになるのではないか。

*1:p134『東アジアの思想風景』

ハマスの新指導者が殺害された

イスラエルの暴虐に抗議しよう!

http://www.asahi.com/international/update/0418/003.html

イスラエル軍、ハマス最高指導者ランティシ氏殺害

 パレスチナ自治区ガザ市で17日夜(日本時間18日未明)、イスラム過激派ハマス最高指導者ランティシ氏が乗った車にイスラエル軍の武装ヘリがミサイルを発射した。車は爆発し、パレスチナ自治政府筋によるとランティシ氏と側近2人の計3人が死亡した。イスラエル軍による殺害作戦とみられる。

 ランティシ氏はハマス政治部門の最強硬派。3月23日に、イスラエル軍に前日殺害されたハマス創始者で最高指導者のヤシン師の後継に就任したばかりだった。

訂正(校正)について

 先日UPした、「わたしの自主講座運動」については原本が二つある。一つは1971年1月に北川透氏が刊行した『あんかるわ別号≪深夜版≫2 松下昇表現集』である。もう一つは、『~1988・8~ 表現集 〈 〉版』、神戸市灘区赤松町1-1松下 が連絡先になっている。後者は前者のコピーを更紙にリソグラフ印刷したもので、前者より読みにくい。ただ松下自身による誤字訂正がいくつかある。その訂正個所を最後に追加しておいた。

 わたしの松下氏の表現のテキスト化はOCRでまずやっています。この方法はミスがあっても見つけにくい。そこで、(今回テキスト化により追加された誤りがあるはずです、気がついたら指摘していただければ嬉しいです。)とも書き加えておいた。

 すると今晩、畏友黒猫氏から丁寧に校正をしたものをFAXしてもらった。わたしにとってとても嬉しいことできごとでした。早速、バリケードがパリケードになっているなどのミスを訂正した。ただ訂正仕切れなかったところもある。(スローガンを荷う については「担う」は普通だが荷うも辞書にある。)

追求という言葉。1)追求→追究 2)追求→追及 にすべきでは?という意見だった。 利潤を追求する/真理を追究する/責任を追及する、と使い分けるみたいだ。1)については、理想追求に近い意味ということで、追求でいいだろう。責任追求という言葉は、国語の試験なら間違いになるだろう。しかし松下は、他者に対する糾弾みたいな追及も、例えば「自己が叫び声をたてざるを得ない根拠を追求」するという大きな営為の一部として行われるものと理解していたのだろう。そのような意味で「追求」で通した松下を追認しておくことにした。

黙れ

「黙れ–この礼儀をわきまえぬ無頼のやからめ。私の偉大なる武勲、誰も否定できない私の親愛なる気持ち、私の弁舌に満ちあふれている深遠なる知識に関するお話から、尊敬できるものを享受できず、安らぎの時間や高貴なる教訓を手に入れることができない者がいるとしたら、おまえのようなろくでなしだけである」

ドゥリートは私が話しつづけるのを認めず、私の耳元で大声で叫んだ。*1

「ラカンドン密林のドン・ドゥリート-カブト虫が語るサパティスタの寓話」(副司令官マルコス=著 小林致広=訳)が現代企画室より刊行(定価2500円+税)されたのですが、本日もうある図書館にならんでいました。副司令官とはサパティスタ民族解放軍(EZLN)の副司令官である。辺境のすごい過激派軍事組織のテロリストの親玉なのか? とにかく政治的文書に非常な文飾を付けたものみたいだがおもしろそうだから借りてみた。

「これは政治文書か、文学か、寓話か。はたまた、ジャングルでやるべきことのないゲリラのスキャンダラスなお遊びか。つかみどころのない、世にも不思議な物語が、混沌たる過渡期に、ついに登場! ここには新しい表現スタイルの模索の跡がくっきりとある。」

http://homepage2.nifty.com/Zapatista-Kansai/

わたしは知らなかったが4年前から活発なサイトがあり、そこからペーストしてみた。

 これはほら話である。何にも似ていない。一定の方法はあるが必ずしも意味があるわけではない。ドン・キホーテやサラゴサ手稿に少し似ているが、例えば残雪のデタラメさを思わせる所もある。 

*1:p146『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』isbn:4773801050

三流学者ごときが

トランスカレッジさん経由ですが、加藤秀一研究室から引用しておきます。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~katos/

◆子どもたちが性を肯定的にとらえ、自分の身を守り、他者を尊重できるように――。こうした願いのもとに地道な工夫を積み重ねて行なわれてきた東京都における性教育への取り組みが、現在、東京都知事(石原)、東京都教育長(横山)、民主党を中心とする数人の都議会議員、一部のマスコミ(『産経新聞』『週刊新潮』等)、アホな御用学者(高橋某等)たちによる事実のねじ曲げと悪意に満ちた猛攻撃によって、はげしい弾圧を受けている。

下記にも長い引用有り。http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20040825#1093381624

天君・天理と日本的精神

論語は聖賢の言行を記したる所に、今日に合わざることありとの玉ひて諸子に書きぬかせて、その必要の所をのみ講し玉ひき。

藤樹は先哲の「和魂漢才」と喝破せるが如く、日本的精神を以て漢学を講究し、漢学の為に併呑せられず、我邦人の取るべき立脚点を取り、厳として樹立する所ありき、之を要するに彼れは彼此の差別あることを弁識せり、(井上哲次郎)*1

中江藤樹が、中国と日本の間に差別が当然にも存在すると考えていた、というのは嘘である。井上は自分の問題意識をむりやり藤樹に投影しているに過ぎない。

藤樹にとっては「(愛敬の)徳は天地同根万物一体なり」である。「藤樹によれば 孝 は先天的に世界に実在し人類の行為により発達し来たれる倫理的秩序なり」*2である。藤樹はつねに天地万物という普遍を見すえてものを言っているのだ。「我心は即ち太虚なり、天地四海も我心中にあり」という唯心論ではあるが、心の中には宇宙があるのだ。「和魂漢才」とか「日本的精神」とかいう、「邦人」にのみ適用され他国人は意識の外といった普遍から外れた立脚点に立ったことは、一度もない。

主著『翁問答』巻一には、次のようにある。

天地を万民の大父母となして見れば、我も人も人間の形ある程の者は、皆兄弟、然る故に聖人は四海を一家、中国を一人と思し召すとなり、吾れと人との隔てを立ててけわしくうとみ侮りぬるは迷へる凡夫の心なり*3

 <良知><理><真吾><明徳><孝><天君><道>などなど、という形でひたすら普遍的に展開してきたこの本は、p155に至って突然「日本的精神」がでてくる。つまり藤樹が生涯をかけて展開した普遍主義的哲学の富を継承すべきものとして「日本的精神」が登場してきたとも言えるのだ。しかしながらそれが「日本的」と限定されたものである限り普遍であることはできない。しかしながら、儒教仏教神道などの宗教の差を乗り越えた普遍的なものとして構想された教育勅語などによる「日本的精神」主義は発展を続け、ついには、世界の日本化を目指す大東亜戦争を引き起こすに至る。これを藤樹の<普遍>を井上が「日本的精神」という言葉において引き受けた結果だ、と考えることも(すこしぐらい)できる。

*1:p155『日本陽明学派之哲学』

*2:p114『日本陽明学派之哲学』

*3:p57『日本陽明学派之哲学』より孫引き

フィクションとしての聖人

吉田公平『日本における陽明学』isbn:4831509213 によれば、中国思想において必須とされた概念は「修己」と「治人」という二つであった。*1

修己とは何か?

修己説の中核を構成するのは、本来成仏・本来聖人・本来完全などといわれるように、いわゆる人間の本来性を完全なものと理解する人間観である。この本来の完全性を、近世の思想家たちは、孟子の言葉をかりて「性は善なり」と表現した。このことを全面に押し出して主張したのが程朱学派である。

それに対する修正意見として、胡五峰、王陽明などの無善無悪説があるが、これは、性善説の持つ本来の活力を根本的に強化するために主張されたもので広い意味では性善説の範囲内である。

いずれにしても「人間は本来完全である」。

それは現実の人間がいかに背理の可能性に満ちて、現にどれほど非本来的姿をあらわしていようとも、それがあくまでも非本来的な姿であるからには人間はその本来性を回復できること、それも他者の力に依存せずに、自らの努力で回復可能であることを意味する。(略)

「復初」「復性」とはこのことをいう。つまり自力による自己救済を意味する。(p109-110)*2

で、それがどうした、というわけですが、上のアーティクルのように民主主義を真正面から論じるためには、前提がいるわけです。

「本来聖人に至りうる自己」という説、そしてそれの拡大版である「世界*3に正義をもたらしうる」とする平天下の確信。現在のわれわれは儒教をそのまま採用することはできないでしょうが、上記の<二つの思想に近い物>は、民主主義を成立させるためには、必要である*4。といえると思う。

それなしに、民主主義という言葉を使っても単に、国家の行為は正しいというトートロジーを主張しているだけで、言説はいくらでも回転しますが根本的にはむなしいだけだ。

(わたしはたまたま今、中江藤樹などの本を読んでいて、儒教は現実から遠いと思われているのでむりやりひきつけてみました。jinjinjin5さんとの応答と直接の関わりはありません。)

*1:原文の記述は「である」と現在形になっていたが

*2:以上、野原による一部要約は黒字部分

*3:断じて一つや幾つかの国家ではなく天下つまり世界全体

*4:仮にそれがフィクションであるとしても

「切断操作」

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041114#p5 でスワンさんとのこの間のやりとりを整理したところ、すぐにコメントをいただいた。日記の欄がずれるがこちらに再掲し考えて見よう。

# swan_slab 『6の沈黙に関連するんですが、香田さん殺害事件に典型的な【切断操作】がみられたと思いますがどうでしょう。【「わざわざ殺されにいくような愚かさ」は我々とは一切無縁のものだ。ゆえに同情もわかない】という切り離しです。もしかすると、人生の他の場面では、自分だって七転八倒して愚かな行動にでて危険もわからず飛び込んでいることがあるかもしれないということを一切考えない糾弾です。ただもしかすると本当に立派な人なのかもしれずなんともいえないのですが、直感的には、人間はみな多かれ少なかれ自らのエラーから学ぶ愚かな生き物だと思います。id:swan_slab:20041110#1100344497 で他人に厳しく自分に甘い自己責任論者の例を批判的に書きましたが、重要なことはみんな自己に厳しくあれ!ということでは全然なくて、自分を棚にあげてひとをこき下ろすのは【切りはなし操作】だろうということです。

瞬時に察知したから沈黙する(ないし切りはなす)という分析はそのとおりかもしれません。沈黙(あるいは切りはなす)した瞬間から察知したことも忘れ、すべてなかったことにしてしまうという意味で。こうして理不尽に切りはなされる傾向があったからこそ、それに対して、コミュニケーションを取り戻そうとして香田さんに同感しようとする傾向が他方で生じてきたという気がしないでもありません。

事件直後から「同情できないのか」「え?無理っす」といったやり取りがしばしばみられたのはそういうことかなと思っています』

ところで、「切断操作」って社会学の概念だったんだ。はてなキーワードで教えてもらった。「共同体に特有な問題処理の作法。」とある。なるほど

他者の不在

追悼が要求しているように、自分に負債があることを表明せざるをえないと感じるときが、来るのである。自分が友に負っているものを語るのは義務だと感じるときが。(デリダ)『現代思想 2004・12』p81より

 追悼という主題に興味はない。id:noharra:20041030に、香田証生さんの人質事件に関して、二人の方のはてな日記を引用し、まあちょっとケンカ売り気味に批判した。どちらの方からも応答あり対話があった。結果的にはとてもわずかなあいだだったが。生産的な対話でもなく思い出すこともなかったのだが今日、ちょっと思い出してみた。すると「ご指定のページが見つかりません」エラーがでるではないか。二人ともなのでちょっとおどろいた。

彼らは今不在であり、その限りにおいてわたしは「自分に負債がある」と思っている。負債という言葉を心理的に解釈してはいけない。そうではなく償いえない負債だけが考えられている、デリダにおいては。二人の他者にわたしは何も負っていないがそれでも、不在であるだけで何かへの通路であるのかもしれない。