内田樹の靖国問題

内田樹が靖国問題について書いた新聞記事を、友人がコピーしてくれたので読んでみた。*1

彼は「死者は言葉を持たない」と強調する。それを強調するのは正しい。

共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを「私は知っている」と主張する人々の間で交わされている。

しかし、靖国問題とは、死者の正しい服喪はどうあるべきか?という問題だったのだろうか。個々の戦死者たちはすでに親族によってそれぞれの墓に祀られている。死後の霊はその墓の近くにいると考えても良い、と篤胤も言っている。東京大空襲の死者たちはどんな国家的祭祀も受けていないけれども、“戻ってきて災いをなす”ことなどできていない。

靖国問題には二つの歴史的位相があり、新しい位相はA級戦犯合祀で画される。がやおきのりの路線にも反する後者は、戦前の軍国主義一切を免罪しようとする極右勢力によって為された。“国のために死ぬことは名誉だ”として押し進められた戦争への動員(による死)は、英霊として讃えられるべきだという思想。「先の戦争」は間違っていたのかどうか、という問いに答えられず、間違っていたと答えない方向にしか向うことができない哀れな日本は、彼らの極右思想が作り上げた現在である。

このように靖国とは死者を過剰に国家が取り込む装置である。しかし、内田はそのようには見ない。靖国で行われているのは極めて特殊な形での「服喪」であるのにそれを、服喪一般に拡散させて論じているからだ。

*1:2005.8.30朝日新聞夕刊「生者は儀礼決められぬ--言葉を持たない死者に権利」

「けっ」でしかない私

(p15)

 なぜ、あるはずのないそんな灯を見るのか、それは当人が助かりたいと思っているから。

 普遍的私の普遍的運命、それは結局自分だけでもうまい事して助かりたいという、個別の自我を核とした普遍的希望により選び取られるのだった。そしてそういう発生故にまたこの普遍的私は、いわゆるひとつの「ひとごとではない大層なお大事な私」に、つまりは他者から見たら「けっ」でしかない私になり果ててもいるのでした。

この断片も引用しておく必要がある。ただし、この断片は上記3つとは少し違う。登場する文字列が「けっ」一つだけである。けっには「」が付いている。それだけでなくこの小説では異例の哲学的文章(普遍的が4つもある)による解説的文章である。

追加されるサンプル

 8.けっ

私はたたかいます。

(略)当時の佐々木の心境を最もよく代弁する宮沢賢治の二つの文についてであった。

最初のは、明日の山烏との戦を前にし、彼らの神である北斗七星に祈る烏の言葉である--

わたしがこの戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つのがいいのか、それはわたしにはわかりません。みんなあなたのお考えの通りです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんなあなたのお考えの通りです。

佐々木八郎「特攻隊員の手記」『ねじ曲げられた桜』p307 isbn:4000017969

ひとは人類を愛せない 

コーリャ「神を信じていなくても人類を愛することはできるのです。ね?ヴォルテール(注:18世紀のフランスの啓蒙思想家)は神を信じていなかったが、人類を愛していた!」

アリョーシャ「いや、ヴォルテールは神を信じていました。が、それはほんのちょっぴりでした。だから彼は人類を愛していたけれど、それもほんのちょっぴりだった、と思うのです。」

カラマーゾフの兄弟 http://www.coara.or.jp/~dost/2-3-1.htm#B

自己が自己である限りでできることなど、ほんのちょっぴりだ、とドストは言っているようだ。それは確かにそのとおりだろう。しかし自己は“自己である自己”より大きいのだから、愛はほんのちょっぴりよりちょっぴり大きい物で有りうる。

バヌヌさん逮捕

2005年11月18日 ハーレツ・コム

ハーレツ特派員:ジャナサン・リス、ニール・ハッソン

エルサレム近くの検問所で、核の内部告発者、バヌヌが逮捕される

金曜日、エルサレムの北にあるアッラム検問所でバス点検が行なわれた際、国境警察によってモルデハイ・バヌヌが逮捕された。

エルサレムへ行く途中のバスの乗客だったバヌヌは釈放条件に違反した疑いがある。

エルサレム警察は、エルサレムを発つ計画がある時はいつでも法執行官に告知すると誓約していたバヌヌを、当局が国際犯罪課に引き渡すつもりであると述べた。

バヌヌは、ディモナのイスラエルの原子炉についての機密情報を英国の新聞に漏洩したかどで科された18年の刑を服役した後、昨年、釈放された。ディモナで彼は技術者として働いていた。

ロンドンのサンデータイムズ紙は1986年、イスラエルが200の原子爆弾を製造してきたというバヌヌの話を公表した。施設の設備の写真と合わせた彼の暴露は、イスラエルが核兵器を所有していることを専門家に確認させた。

(MLパレスチナフォーラムより)

討論

あるテーマについての討論は、そのテーマに関係のあるすべての当事者が、その場に可視的に存在していなくても、等距離かつ対等に参加しているという関係を(創り出しつつ/踏まえつつ)討論されなければならない。

(cf.松下昇『概念集・3』p4)

従軍慰安婦をめぐる6枚の紙片・・・

                2006.5.19  野原燐

1.それを見たと人には言えない。 --朝鮮人慰安婦【初めての検査】

「従軍慰安婦」本の定番のひとつ、千田夏光本*1から、著者が慰安婦の実態が「ぐっと浮かびあがってきた」のを初めて感じたと記している麻生軍医へのインタビュー記事*2をここに掲載する。*3

1938年早春、上海で、陸軍慰安婦第一号の検診をしたという証言。

麻生徹男軍医:九大医学部卒産婦人科医師

昭和12年日中戦争開始とともに召集されて、第11軍兵站病院に配属されていた。上海~南京間で負傷し後送されてくる患者将兵の外科的手術をしていた。

 

ある日、彼は次の命令を受ける

「麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為目下、其美路沙涇小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行うべし。」*4 発令者は兵站司令部であった。

千田「その時、すぐそれと分かりましたか?」

麻生「いえ、はじめ陸軍娯楽所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。それが当然でしょう。(6行略)」

千田「すると陸軍娯楽所というのが、表現しにくいけど売春所というか慰安婦の商売するところであることは、まだ知らされていなかった」

麻生「そうです、当時の陸軍は皇軍と称していた。杭州湾上陸の際には相手を威圧する意味もこめ、上陸寸前に“皇軍百万上陸”というアドバルーンをあげたこともあるくらい皇軍意識に燃えていました。その皇軍である日本兵、この戦争を聖戦と考えていた日本兵に、何故こうした種類の女性が必要なのか、しかも、それは文書から判断すると軍自体が管理するように思える。理解に苦しみました」p43

(27行略)

 

「検査を行うべし」と言われても何の検査か分からない。

麻生「問い合わせてみるとそちらの方の検査だというので、やっと、ははあ、と思った訳です」

千田「検査された日時は記憶されていますか?」

麻生「その点がメモにないのです。記憶の方もうすれてしまいました。もう三十五年も前のことですから。早春というかまだ肌寒い季節だったことは確かです。私はオーバーを着ていましたから。場所は沙涇小学校の医務室だったと思います。検査器材は前日に衛生兵が運び込んでいました。彼女らの方も慣れていまして、万事スムーズに行ったことは覚えています。“検審台にあがって”というとケロリとあがりますし、素人の女性は恥ずかしがってようあがれないものです。それを眺めベテランだなと思ったのです。ただ、申し上げにくいが朝鮮人女性が一割か二割近くか、はっきりした数字は失念しましたがとにかくいまして、その彼女らは慣れていないらしく、この種の検査の経験に当たってもじもじしていたのを記憶しています」

千田「素人の女性だったのですね、朝鮮人女性の方は?」

麻生「言葉を交わした訳でないのではっきりした事は言えませんが、無垢の女性、つまり処女が多数その中にいました。年齢も若い女性が多かったように思います。日本人女性は若いのから中年まで、やや年増が多いようでした。それに方言からすぐ北九州で集められた女性と分かりましたが彼女らの殆ど全部が客商売の経験者であることは、一見して分かりました。それにしても中に鼠蹊部に大きな切開瘢痕を持つ者、つまり重度の花柳病既往症のある者もまじっていたのには驚きました。体も酷使しすぎている女性がいたり、考えさせられました」

千田「失礼ですが、どんなことを考えられたのですか」

麻生「いやしくも皇軍慰問使として派遣させられて来た女性ではないか。ところが私には彼女らが内地を食いつめ戦地へ鞍換えさせられたような者にうつったのです。これでは皇軍将兵にとっても甚だもって迷惑である、そんな風に感じたのです」

千田「もっともそれは日本人女性だけで朝鮮人女性は無垢だった、ということはさておき、検査の結果不合格者はいたのでしょうか?」

麻生「いなかたっと思います。内地を出発する前に一定の検査があったのではないかと思います。それにしてもそれら日本人女性は、慰安婦としての質はよくなかったことだけは深く脳裡に残っています。このために私は後に意見書を書いたりしました。」

 

2.蔓延する歴史修正主義(2007年)

内容は、下記のとおり。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070310#p2

3.吉見義明さんたちの意見 2007年2月23日

上記のような日本政府・与党の動きを憂慮し、私たちは、すでに明らかになっている以下の事実を改めて確認し、日本政府および関係者が適切な行動をとるよう要請する。

 

① 日本軍「慰安婦」制度に関する旧陸海軍や政府関係資料は、すでに数多く開示されている。これら資料によればこの制度は、旧日本陸海軍が自らの必要のために創設したものであり、慰安所の開設、建物の提供、使用規則・料金などを軍が決定・施行し、運営においても軍が監督・統制した。個々の「慰安婦」について、軍はその状況をよく把握していた。

 

② 「従軍慰安婦」という言葉が当時なかったという理由で、「慰安婦」の存在自体を否定しようとする議論がなされている。しかし当時の軍の文書においても「慰安婦」「軍慰安所従業婦」「軍慰安所」などの言葉が使われていた。従って、日本軍部隊のために設置された慰安所に拘束された女性を、「従軍慰安婦」あるいは日本軍「慰安婦」という言葉で表すことは、「慰安婦」という用語自体のもつ問題性を別にすれば、何ら問題ではない。

 

③ 日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、当時日本の植民地であった朝鮮・台湾の女性たちは、売買され、だまされたりなどして国外へ連れていかれ、慰安所で本人の意思に反して使役された。これは、人身売買や誘拐罪、また当時の刑法でも国外誘拐罪・国外移送罪と呼ばれる犯罪に該当した。その実行は、主として植民地の総督府または軍の選定した業者などが直接行なったが、占領地で慰安所を設置した軍も、人身売買や誘拐などの事実を知っていたと考えられる。

 

④ 日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、中国・東南アジア・太平洋地域の女性たち(インドネシアで抑留されたオランダ人女性を含む)は、人身売買だけでなく、地域の有力者から人身御供として提供され、あるいは日本軍や日本軍支配下の官憲によって拉致されて慰安所に入れられるケースもあり、本人の意思に反して強制使役された。慰安所を設置した占領地の軍が、これらの事実を知らなかったとは考えられない。

 

⑤日本軍「慰安婦」とされた女性たちの中には、相当高い比率で未成年の少女たちがいた。未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である。

 

⑥ 戦前の日本にあった公娼制度が、人身売買と自由拘束を内容とする性奴隷制であったことは、研究上広く認識されている。公娼とされた女性たちに居住の自由はなかった。廃業の自由と外出の自由は法令上認められていたが、その事実は当人に知らされず、また行使しようとしても妨害を受けた。裁判を起すことができた場合も、前借金を返さなければならないという判決を受けて廃業できず、その苦界から脱出することができなかった。

 

⑦ 日本軍「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった。

 

⑧ 被害女性たちへの「強制」の問題を、官憲による暴力的「拉致」のみに限定し、強制はなかったという主張もみられるが、これは人身売買や「だまし」による国外誘拐罪、国外移送罪など刑法上の犯罪を不問に付し、業者の行為や女性たちの移送が軍あるいは警察の統制下にあったという事実を見ようとしない、視野狭窄の議論である。なお、慰安所でのいたましい生活の中で、自殺に追い込まれたり、心中を強要されたり、病気に罹患したり、戦火に巻き込まれるなどして死亡した女性たちが少なくなかったことも指摘しておきたい。

 

⑨⑩省略

私たちは、上記の事項が正しく認識され、日本軍「慰安婦」問題が根本的に解決されることを強く願うものである。

 

2007年2月23日

日本の戦争責任資料センター

荒井信一(茨城大学名誉教授)吉見義明(中央大学教授)藍谷邦雄(弁護士)川田文子(文筆家)上杉 聰(関西大学講師)吉田 裕 (一橋大学教授)林 博史(関東学院大学教授)

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo37.htm  慰安婦問題声明20070223

 

4.ただのセクハラとしての慰安婦

 三年半ほど前、慰安婦について私が多少知っているという話を伝え聞いて、新左翼系女子学生がたずねて来た。C大学に在籍し、C派閥に属すると語っていたが、

「新左翼系の男子学生幹部は“カアちゃん”と呼ぶ女子学生を持っている。これを持たないと派閥の中で大きな顔ができないのです。そのカアちゃんは言ってみれば慰安婦なのです。中には三回も四回も妊娠中絶させられた者もいます。それでいて男子幹部は彼女らがそれに甘んじるのが革命的行為であり、カアちゃんたちもそれを信じているのです。間違っているとは思いませんか」

まるで私がその男子学生であるかのように迫ってくるのであった。彼女が言いたいのは“慰安婦”は死語ではなく新左翼の中に生きているというのであった。彼女は派閥の全学連大会でそれを告発の意味をこめて熱っぽく訴え、私に応援してくれと言うのであった。

ここで私は考えた。もし彼女の言うとおりなら、かって自分もそのカアちゃんの一人だったとまで告白する彼女の言葉に間違いがないのなら、旧軍と新左翼に共通するものがあるのだろうか。彼女によるとカアちゃんたちは連日のように慰安をもとめられていたと言い、七〇年安保の激しいデモ戦の前後にはそれもまた激しかった、と具体的な状態を口にしつつ語るのだったが、それは体験者が語る戦場の兵隊と慰安婦のそれとあまりにも似ていた。だが、さらに耳を傾けていくと、カアちゃんの慰安するのは特定多数、もしくは多数ではなく、相手は個人に限られているところが違っていた。

これは慰安婦ではないのではないか。警察用語でいう情婦ではないか。これに対して彼女は言うのだった。

「精神において同じです。男の女に対する蔑視、差別、これが女を単なる慰安の対象にして来たのです。軍隊の慰安婦もまたそれから生まれたのです」

或る意味でこれは当たっているが、慰安婦の発生はすでに読まれたように単に戦力の問題と治安の問題から出発していた。過程において発想において彼女の言う思考があったが、軍は蔑視や差別以前の問題として、戦力低下を考え、治安の問題を考えていたのである。差別蔑視があったとしたらそれはそこから出て来たものであった。いや、そんなことは爪のあかほどにも考えていなかったと言っていい。彼らにとってそんなもの*1は当然の常識であったからである。

悲劇はその当然の常識だけではなかった。蔑視差別はまだ相手を人間と見ているからであったが、軍の考えは、彼らを単なる道具と考えていたのであった。初めての慰安婦を輸送船に乗せるとき軍需物資としたと書いた、が、その時それは一種の便宜であった。しかし、このとっさの思いつきに軍人の彼女らに対する思考の姿勢がはっきりと出ている。酒を飲んだとき、思わず本音を口走る人間のあれと似ている。

したがって彼女の言うカアちゃんと慰安婦と似ているようだが、慰安婦はもっと悲惨であったと思えるのであった。

千田夏光『従軍慰安婦』 講談社文庫p262-264

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070325  彎曲していく日常

 

5. 1枚の写真  拉孟の慰安婦たち

f:id:noharra:20070414141047j:image

http://f.hatena.ne.jp/noharra/20070414141047

上に掲げたのは、拉孟近郊の松山陣地で中国第8軍の兵士によって捕虜にされた4人の女性、の写真。有名な写真である。

*1:原著1973年刊行

*2:講談社文庫版p42-47 isbn:406183374X

*3:全文ではないが、大事だと思った後半部は省略していない 読みやすくするため発言者「千田、麻生」を文頭に追加した。

*4:原文は漢字カタカナ混り文

14歳少女を強姦する

http://www.osaka.catholic.jp/sinapis/overseas/archives/houkoku/00rora.html#_pagehead フィリピン人元「従軍慰安婦」の証言の集い

「二度と私と同じ被害を出さない思いで」フレシダッド・レイエスさん

当時、私は 14歳でしたが、(略)

1943年、新しい日本軍の部隊がやってくるということで、彼らのために歓迎会を開くことになりました。先生たちの指導のもとに、私たちは日本の歌や踊りなどを練習しました。(略)

ある日、新しい兵隊たちは3台のトラックに分乗して、私たちの小学校にやってきました。私は「7番の札」をつけ、日本の歌を歌いました。歓迎会の翌週の水曜日、いつも通り授業を受けていた私たちのクラスに二人の日本兵がやって来ました。彼らは教室に入って来るなり、「7番目に歌った女の子は出て来い」と言いました。私を迎えに来た様子でした。授業をしていたフィリピン人の先生も、「あなたを必要としているようだから、ついて行きなさい」と言いました。私は非常に不安でしたが、二人の日本兵に従って、小学校の建物の裏にある日本軍の駐屯地に向かって歩きました。

(略)

日本兵は嫌がる私を無理やり駐屯地の中に連れて行き、腕を引っ張り、小さな部屋に閉じ込めました。しばらくすると、5人の日本兵が部屋に入ってきました。そのうち2人が私を勢いよく床に押し倒しました。

その後彼女は強姦される。

中道右派 『>で、「一部の軍人論」に対する反論は下記のとおりだ。

>この事件の重要な点は、「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わなかったことです。日本軍内ではだれも軍法会議にかけられていません。

現在の世界各地での米兵レイプ事件でも、見逃しは多数あるようだが。

行為時の正当な権限がない以上、個人犯罪。

後で処罰されたか否かとは、別問題。

Q1:現在の米兵レイプを批判するより先に、時効という法原則に逆らい過去を告発する歪んだ情熱の生じた原因は?コミンテルンの対日テーゼに洗脳されましたか?

少なくとも違法状態を解除した点で、よい関与説の証拠の1つ。

>連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑1名を含む11名の有罪が宣告されています。組織的犯罪に対する裁判ですから命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていません。

ヒント:一事不再理。消滅時効。

>日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのです。女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍は何をしても許されれと思い上がり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていました。戦争中、女性を虐待して慰安婦にした罪で処罰された人はいません。これは、そのような事をした人がいなかったのではなく、白馬事件の例で見るように、いても処罰されなかったのです。

これも単なる仮説なので、実証しないとノーモア氏に妄想と批判されてしまう訳だが。

> で、ここで確認しておきたいのは、上記のような安倍首相のあからさまなチョンボに対して日本のマスコミも大衆も批判の声を挙げていないことである。「中道右派」氏や(日本の前途と歴史教育を考える会)もそうである。

事実誤認あり。私は、一部批判のコメントを貴ブログにて数回している。

>すべての慰安婦たちを、白馬事件とそれ以外と二つに分けるなどという常識は日本人にも誰にも存在しないのだから。

近代法の諸原則を常識として理解している相手に説明すれば、納得はしないまでも、それも1つの説ですね、と朴一氏のように理解はしてもらえる。

> 「狭義の強制連行は存在しない」は安倍首相によって3人に対して言われた。撤回されていない。

> このことは少なくとも上のロジック(全慰安婦を二つに分けてから無罪化を企てるロジック)は通用しないことを明らかにしている。

この誤解の原因を問いたい。

安倍首相の説明の下手さは説明したはず。

正確に説明すれば、近代法を理解していれば通用するロジック。

Q2:野原氏は、近代法の諸原則を理解していないのですか?理解はしていても尊重したくないだけですか?私はよく知らないが社会主義法制ではそれを合理化するロジックがあるのですか?それとも、しばしばふみにじられる不完全なものとはいえ、国際法秩序が更に乱れてカオスが到来し、共産革命が到来することをいまさら夢見ているのでしょうか?最も成功した社会主義国は過去の一時期の日本という説もあるのに。

> 3人の元慰安婦のうちの一人に対し、「君にはすでに謝ったはずだ」と言うことは、残りの二人に対し差別的取り扱いをする根拠を問われることになる。

オランダ人については、日蘭請求権条約と戦犯裁判と一事不再理と消滅時効。

韓国人については、日韓請求権協定とアジア女性基金と一事不再理と消滅時効。

法の下の平等の範囲内の単なる合理的区別。

> しかし1990年代に韓国人から提起されたこの問題に当時の国際法の植民地住民差別的規定でもって応えることは、日本政府が大東亜戦争時と同じく今も植民地住民差別的(レイシズム)であると批判されることになる。

ヒント:行為時法適用の原則、法の不遡及の原則。

>  1990年代以降日本国内に拡がった“なかった派”はレイシストであり、〈戦後〉の国際社会の最低基準をクリアーしておらず、「国境」を一歩も出ることができない!*5

罵倒、嘲笑、印象操作、レッテル張り。ブサヨの特徴の具体例の一つですね。

Q3:正確に、売春婦派と呼んではいかがか?性奴隷派の野原さん。

残念ながら、今まで世界50ヶ国以上を訪れ、ほとんどの国で、リベラルですね、と言われてしまった。日本の中道右派は、国際基準ではリベラルらしい。

Q4:私は、外国人の妻にはそんなに家事しなくていいよと言われるが、奥様から家事労働の利益を全面的に搾取している自覚のある(あった?)野原氏は、アンチフェミニズムで性奴隷制的夫婦制度の支持派なのか?そうでないとしたら、矛盾する言動も人間らしいが、偽善者と呼ばれる危険もある訳で。

>日本の安倍内閣が「従軍慰安婦(性奴隷)の強制連行はなかった」という驚異的な内容の答弁書を作成した件に素早く反応した、オランダの MaximeVerhagen外務大臣は、オランダ駐在の小町恭士・日本大使を呼び、強い不快感と憂慮の念を伝えた。外務大臣は、他の諸国(米国や旧植民地インドネシアなどを指すのか?)と連繋して日本のやりくちに対処していく方針も示唆した。

>☆Dutch government seeks explanation from Japan on coercion of ’comfort women’ (AP通信→インドネシアの英字紙「ジャカルタ・ポスト」)

Q5:白人や他のアジア人の外圧を借りるのは、大アジア主義にシンパシーを寄せる私を含む日本人の多くを脱亜論と自主防衛派に向かわせる危険性があることをご存知か?

>「強制連行が在ったのか」と言って彼らは問題を極小化しようとします。ただ次の定義によれば「強制連行」と言えるものも多かったでしょう。

>◆強制連行とは・・・連行形態云々と共に、目的地での扱い方(強制労働)が基本問題 。

> 本人の自由意志に反した、肉体的・精神的強制による連行をいう。民間業者による詐欺、拉致、甘口、官憲による強要・脅迫などを含む。「この概念は遅くとも19世紀末には国際的に、20世紀初頭には国内的に確立されていた」。(日弁連勧告・報告書)

>そして、強制連行という言葉には、強制連行された土地での強制労働と民族差別が含まれる

>(「朝鮮人戦時強制動員」山田昭次・古庄 正・樋口雄一共著・岩波書店)。

日弁連勧告は広義の強制説。

概念の確立時期については、おそらく独自説。

左翼系が主流派のようなのでやむなしか。

私見では、広義の強制説が出た以降に確立させようと努力しているだけ。

現在でも詐欺や借金から風呂に沈められる可哀相な女性はいる。

山田氏らの説は最広義の強制説とも呼ぶべきか。

ヒント:行為時法適用の原則、法の不遡及の原則。

WWⅡ以後でも、民族差別が違法でない国は多かったし、強制の有無とはそもそも別問題なのにこじつけて説明するから、平均的日本人の反感を買う。

>*5:米国のイラク占領もレイシズムであり弁護できないが、力が強いので一部の奴隷(日本)は支持している。

Q6:あまり中韓ロビーが米国の外圧を利用すると、奴隷もささやかな抵抗として自主防衛派・改憲派が増える危険性をご存知か?』(2007/03/19 14:25)

* 中道右派 『何か別エントリで書き込めなくなってますけど、アク禁しました?こっちのミスかな?』(2007/03/20 03:04)