約二百万人の日本人死者への責任は?

おとなり日記から

本来平和主義者で戦争回避論者だったが、東條英機をはじめとする強硬派の主張に引きずられ、あくまで立憲君主としての中立的立場に固執するあまり、戦争への流れを止められなかった、基本的には軍部の被害者であった昭和天皇。

そういう一般的な昭和天皇のイメージは、近年の公開史料に基づいて書かれたハーバート・ビックスの『昭和天皇』が提示する驚くほど好戦的な昭和天皇像によって根本的な修正を迫られている。

http://d.hatena.ne.jp/motoski/20050815 もとすき日記

逆に言えば、昭和天皇の判断が誤っていたから、約200万人の死者が余計に失われたのである。

この事を普通の日本人が当たり前の歴史的事実として受け入れるまでに、果たしてあと何年かかるだろうか。はっきり言えるのは、たとえ何年かかろうとも、この問題を解決しない限り、日本人にとって「戦後」は終わらないということだ。

敵が中国や韓国や東京裁判なら戦いは容易である。左翼やリベラルが敵でも同じこと。

臆病で優柔不断で好戦的で保身的で日和見的でずる賢い自国の天皇が本当の敵だったと分かったとき、私たち日本人は一体どのように戦うのか。決戦の日は刻々と迫っているように思われる。

(同上)

 日本人ははたして自己決定を望んでいるのか。自己決定せずに何かに引きずられていき、ひどい目にあっても「やむを得なかった」といって納得して死んでいくのが好きなのではないか?

国家のために死んだ・・・

国家のために死んだ(生を中断させた)人を弔わないのはおかしい。

という論理を批判するのは難しい。「ために」という言葉のニュアンスの問題もある。餓死者だって、「国家のために」死んだわけだが、この場合の「ために」は、国家が糧食補給という義務を果たさなかったから、国家の加害行為によって、というニュアンスになる。普通は、国家からの命令という契機はあったものの「国家のために」「ふるさとのために」という思いを以て、というその人本人の自発性がそこにあった、という意味で使われるだろう。

わたしの言う狭義の被害者(餓死者など)については、戦うという能動性を国家の不手際によって奪われたわけですから、「国家のために」という国家とのシンクロからも隔たったなかで死んでいったことになります。敵に一発の弾も撃てずにただ蛆に食われるためだけにこんなところで死んでいくとは、という自嘲とともに死んでいった、のでしょう。

であればそのような死者に対し国家が為さなければならないことは謝罪であり、君の死は無駄ではなかったという顕彰などではない、ことははっきりしています。この点を明確化できなかった日本は、普通の国家になりそこない、窮極のマゾヒズム国家か、非力な絶対平和主義かの二者択一しかないわけですね。

追加情報

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/oarai.html

大洗磯前神社の近くの天妃神社は、かって水戸光圀が媽祖(まそ)を祀った神社。

大洗磯前神社の有名な海上鳥居の写真有り。中国民間信仰研究家二階堂善弘氏のサイトです。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20051004/ibaraki

N.Momoseさんによる大洗磯前神社ほかの巡礼日記。上記もここのリンクから知った。

小泉政治に抵抗せよ

「小泉改革」の政治に抵抗し抗議するネットワークを作ろう!という呼びかけを「世に倦む日日」thessalonike2さんがされている。遅ればせながら今日知った。

うーん。小泉が国会での答弁で「どこが非戦闘地域かわたしに分かりますか?」など、ふざけた答弁を重ねていることは、国会を侮辱することであり糾弾したい。わたしは国際政治においては反ブッシュ-反小泉-反シャロンである。世界銀行とかの政策はしばしば途上国の人民の幸せに反する結果を生んでいるのではないかと疑っている。首相の靖国参拝には反対である。消費税増税反対、税のふらっと化を元に戻せ!である。いわゆる新自由主義的政策に概ね反対である。教育基本法と憲法の改悪に反対したい。

「STOP THE KOIZUMI」

ゲバラと三島由紀夫のサンプルを並べてみたのはそういう理由と目的からであり、反小泉(反「改革ファシズム」)のブログ・プロテスト運動を、左右の壁を越えて極大化できないものかという希望があるからである。

http://critic2.exblog.jp/1260870/

政治は目標の一致で団結すればよく、思想の一致は不要。というのは理屈では分かっても今までイメージとしても体験してない。があくまで団結出来るときはする! でいいだろう。

なぜ自決しなかったのか?

nenecoconenecoさんから二つクリップさせてもらいます。感謝。

http://d.hatena.ne.jp/nenecoconeneco/20051102

靖国にA級戦犯を合祀した松平永芳宮司について

一方で、後任の故松平永芳宮司は、同じ福井出身の故平泉澄・元東京帝大教授の皇国史観に強く影響されていたといわれる。天皇制の護持を重視し、時の天皇が誤ったら「おいさめしてでも」正しく導く---という思想だ。こうした考えは、終戦時に皇居に押し入って玉音放送の録音盤を奪取しようとした反乱軍の兵士にも強い影響を与えたといわれる。「内意」は間違っているのだから、正しくお祭りすることで天皇を「おいさめする」---。そうした倒錯した考えが、合祀を進めた松平氏の背景にあった可能性がある。

A級戦犯の合祀がヒロヒトの意志に反することを松平が知りながらなぜ、合祀を強行しえたのか?その論理的根拠の説明である。

2千万以上ともいわれるアジア人の殺害、数百万の日本人の犠牲を仮に神が無視するとしても、戦争を始めた結果日本を焦土にしてしまった責任を、<皇祖皇宗>が問ないはずはない。平泉澄は本当に問わないと考えていたのだろうか。

プロクルテスの寝台

 行政の目的はこの場合、目の前にいる人々に福祉を与えることである。担当者の仕事は福祉の質と量を改善していくことである。しかし福祉の質というものは目に見えない場合が多い。

 一方担当者に可視的に求められていることは、予算の削減である。同じ仕事に対し対前年比9割しか予算が付かない。あるいは仕事の量が増えているのに予算額は増えない。担当者がいくら騒ごうが予算は増えないのであって、この場合福祉の量あるいは質を落とすしかない。例えば同じ広さの施設に対し定員の2割り増しの人々を詰め込むとか。あるいは入所基準を厳格化し対象者をフルイにかけるとか。

 いずれにしても担当者は板挟みにあい苦しむことになる。しかし苦しみから逃れる方法はある。予算削減自体を神にしてしまうのだ。名前を“(沈黙の)納税者”という。

 まず、公務員は全体の奉仕者であるのに、全体概念は納税者というより狭い概念にすり替えられる。福祉の対象者は実際にはいつでも一部の人たちであるという事実がことさらに強調される。このようにして、福祉とは本来削減されるべきものであるのに、仕方ないからやっておくものになる。

 予算が限られているからといって、限られた予算でできる限りの福祉を実現しようとする熱意は無視される。目に見えないものである福祉の質というものに対する感受性を持たないことがむしろ推奨される。目の前にいる対象者に愛をもって接するよりも、来月条件が変われば相手を切らなければならない覚悟をいつでもしておくことが優先される。

 ここにはもちろん安易な答えなどない。したがって少なくもと、“フリーライダー(つまり本来行政が面倒をみるべきでない不良市民)とそれを見逃していた怠惰な先輩公務員たちが、問題を作っている”といった安易な図式は排されるべきであろう。(11/27)

356 Re:春の弱酸

山尾悠子さんは幻想小説作家ですが短歌も作っているそうです。

http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka20.html

よりコピペさせていただきました。

>>

角砂糖角(かど)ほろほろと悲しき日窓硝子唾(つ)もて濡らせしはいつ

腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

http://replay.waybackmachine.org/20050131233356/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=356

派兵の根拠無し

小泉は「市評議会などの存在により治安は安定している」と衆議院本会議で述べた。が実際には、市評議会は24日に解散している。派兵は根拠を失ったので撤回すべきだ!!