すでに南太平洋戦線では、日本は米軍の圧倒的な物量を前に、真っ向勝負ができる状態ではありませんでした。日本軍は、ゲリラ化して戦っていました。ゲリラとは、要するに非戦闘員のような振りをして実は戦闘員である存在、とここではざっくり定義させて頂きます。そして、米軍もそのゲリラ攻撃に、サイパン以外の各所で苦しんでいました。このことから、米軍に素直に白旗を挙げても、米軍がおいそれと信用してくれるかどうか、となると、これは恐らく米軍は信用しなかったと思います。だから、非戦闘員たるサイパン島の日本人住民は、結局自決する以外に道がなくなってしまったわけですね。
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戦争反対
***基本は戦争反対なんです***
、なるほどあなたは善意な方なのでしょう。
で、皇軍兵士が住民に手榴弾を渡し、自決を強要、もしくは示唆した多くの事例について、それは個々の兵士のやったこと。皇軍に責任はなかったと主張するのですか?
選挙
選挙の話はしない主義だが、一回だけ。自民党主流派(小泉・安倍など)は1/3程度かもしれない。その場合政権に残るために民主党と合併する。すると本格的新自由主義=ファシズム国家になりますね。
総選挙はアメリカの支出する広告費によって支配されようとしている
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02040.HTML より
米国通の友人H氏から、『ウォールストリート・ジャーナル』2005年8月8日号のインターネット版記事の一部が送られてきた。
『ウォールストリート・ジャーナル』は「郵政民営化法案は廃案となったが、これは手取りの時期が少し延びたに過ぎない。ほんの少し待てば、われわれは3兆ドルを手に入れることができる」との見方を述べている。
3兆ドルとは、国民が郵政公社に預けている350兆円のことである。ウォール街は、9月11日の総選挙で小泉首相が勝利し、総選挙後の特別国会で郵政法案を再提出し、成立させると信じているようである。
H氏によると、これを確実にするため、ウォール街は、多額の広告費を日本に投入し、日本のテレビを動員して、日本国民をマインドコントロールして、小泉首相を大勝利させる方向に動いている。(……)NHK以外の在京の全地上波キー局が小泉自民党の宣伝機関になり、小泉ヨイショ報道に狂奔している。これにより日本国民をして小泉を支持させて、小泉を英雄にし、独裁者にしようと狙っている。独裁者になった小泉が郵政を民営化し、350兆円の郵貯・簡保の金をウォール街に流してくれると考えている」とのことだ。 郵政民営化はウォール街のためか:2005年森田実政治日誌
もうひとつ、antonianさんのコメント欄から toxandoriaさんの力作コメントの一部をコピペしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/comment?date=20050821#c
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050821#c1124628324
(略)
もう一つ懸念されるのは(これは想像が半分ですが)、今行われつつある“劇場型政治”は「政治の民営化」が進んでいることの現われではないかという点です。
米国の巨大な広告会社と提携した国内最大手の広告会社D社は、ここ10年位で日本国内における市場占有率を急速に高めており、今や約6~7割の寡占となっています。
現代の広告会社は、選挙のみならず政策全般に関するアドバイザー(シンクタンク)的な仕事を請け負うようになっており、その分野でもD社が占めるシェアは格段に大きいようです。
また、D社の強みは番組スポンサーとなる企業広告を仲介する立場でテレビ・新聞などマスメディアに対する絶対といえるほどの優越的地位を確保していることです。
特に、テレビについてはD社が100%出資する某視聴率調査会社が市場を独占する立場にあるため(この1社しか存在しない)、スポンサー群をバックにする優越的立場ゆえに、事実上、D社が殆どのテレビ局を支配下に置いたような構図となっています。
しかも、販売部数減から広告収入に頼らざるを得なくなっている新聞社も、事実上D社に支配される立場となっています。
このように見てくると、マスメディアを総動員した政権主導の“劇場型政治”がD社などの演出で、きわめて効果的に演じられていることが想像できます。
このような国民一般の目に見えない影の世界で「郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心」という企画が作られたことは、まことに怪しからぬことでああり、我われ国民を小バカにしているうえに民主主義政治の根本(主権在民)を否定することだと思います。
アメリカでは、すでに「民営化」(privatization)が、軍事・医療などの分野まで浸透して(市場の社会的深化が進んで)いますが、日本がひたすらこのようなアメリカを追い続けることに大きな疑問を持っています。
テスト
09-04 子絶四。毋意。毋必。毋固。毋我。 子、四(し)を絶(た)つ。意(い)するなく、必(ひつ)するなく、固(こ)なるなく、我(が)なるなし。 http://kanbun.info/keibu/rongo09.html 論語・子罕第九(Web漢文大系) |
Panzaさんがやっている引用部分に色を付けるというのをやってみようと、 「<table border=1 bgcolor=”#ffeeee”>
引用は「>>」という行と「<<」という行で囲む、という簡易な方法だけでこれまでやってきた。たまに気分を変えるのも良いか。
ちょっとやり方を変えてみたが結果は同じだ。
なお、色見本はこちら:とほほの色入門・色見本
http://www.tohoho-web.com/wwwcolor.htm
Warnig!Warnig!から脱出できず。(10/21)
三日半経った。危険度低い、と書いてあったので甘く見ていましたが、危険度の高低と駆除できるかどうかの困難さは無関係、ではある。いまも別に大抵の仕事はできると思う。ただまああまりやる気がでない。*1
自己自身(ソワ・メーム)の自身(メーム)、死ぬことにおいて代理不可能にとどまるもの、それは代理不可能性としての可死性に結びつけられてはじめて、それが本来あるべきものとなる。すなわち自己自身における自己への関係としての自身になるのだ。*2
さてウィルスとデリダと何の関係があるかというと、メームという言葉がミームやワームと語呂が似ている別に関係はない。しかし、反復とウイルスの自己増殖の類似、またウイルスが常に、クリティカル(致命的)オブジェクトと名指される、事も合わせれば、シュールレアリストでなくとも連想は十分可能だ。
で、デリダが何を言っているかというと、たぶんここは、不在の神からの呼び声によって本来性に目覚めようとする存在云々というハイデッガーの教説と関係がある。
でまあ何を考えたかというと。人間でもパソコンでも健康なときは自分の身体というものについて考えない。病気や障害に出会ったときはじめて、自分に臓器があることを<医学の知>と照らし合わせて知ろうとするわけだし、パソコンの存在の根底に例えばレジストリやセキュリティの脆弱性を発見するわけだ。可死性に直面することではじめて、それは本来忘れるべきでなかった自身を思い出す。
例えば、今日私は英次郎とかいうCD版の英和辞書を買った。英語のソフトをダウンロードするときに単語が分かった方が便利だからだ。私が英語がいくら嫌いでも私がパソコンを使っている以上ある意味で英語を使っている事でもあるのだ。
早く厄介ごとを逃れて本来の時間を取り戻したい。だがわたしとは何か?
*1:すぐに3千円ほどのソフトを買ってインストールすれば駆除できたのだろうか。私が親切にも私に助言してくれる人が努力しても得られないことは、たかだか数千円で解決できることなのだろうか。ふーむう。ところで、ウイルス対策ソフトを変更する場合は、前の物のアンストールに成功するかどうかがポイントになります。そこで躓く人が多い。
*2:p96『死を与える』デリダisbn:4480088822
こうそこうそう
こうそ《くわうそ》
【皇祖】
○(1)[国]天皇の先祖。
○(2)[国]天照大神(アマテラスオオミカミ)または神武天皇の称。
○(3)[国]天照大神から神武天皇まで代々の総称。
◎皇祖皇宗
こうそう《くわうそう》
【皇宗】
○[国]天皇の代々の先祖。
第2代綏靖(スイゼイ)天皇から前代までの歴代の天皇をさす。
根本が腐っているのに
西尾氏に続いて登壇したある方の話によれば、十一宮家が皇室離脱した背景は、やはりGHQの占領政策とのことであった。
http://d.hatena.ne.jp/iorigin/20051121 Drag and Drop – 続・皇室のゆくえ
それはともかく、戦後裕仁が退位しなかったことは「GHQの占領政策」ではないのかね。
平成超国家主義
中島岳志さんのエッセイが今月号の論座に載っていたので、図書館で読んでみた。(暇人か?)
彼は1975年生。論壇では最若年になる。でその世代には「オルタナティブな価値や世界のあり方を見出したいという欲求が広範に共有されている。」
この間の右傾化の流れの中でいわゆる右翼的になることも多いのだが、上の世代の右翼的な人たちとはだいぶ違う。福田和也や宮崎哲弥は世間にさからってあえて右翼的言説で行くといった選択をした人。が平成ネオ・ナショナリズムと名付けられる20代の彼らはもっとストレート。社会の曖昧な抑圧感への抵抗をそのまま「ナショナリズム」にもっていく。従来左翼的なものと親近していた、エコロジーや反戦運動、オーガニック、ニューエイジ的スピリチュアリティみたいなものに接近することも多い。でもって、縄文的アニミズムの称揚や「母なる大地」との一体化を唱えるナショナリズムとむすびついていく、と。代表的人物としては俳優の窪塚洋介が挙げられる。彼は映画「Go」で在日朝鮮人を演じ(おおげさに言えばそれに憑依す)るなかで、自己の中のナショナリズムに目覚めていく。社会システムに抵抗する自己の軸を「在日」ではなく「日本」に見出したのだ。といった話でした。
で、中島によれば、オルタナティブを求める運動が国家主義に回収されるのは珍しいことではない。昭和初期の超国家主義も、国家主義のウルトラであったわけではなく、現実の国家を超越した価値を追求する思想だったと。
ふむ。