非其鬼而祭之。諂也。

02-24 子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。

子曰く、その鬼(き)にあらずしてこれを祭るは諂(へつら)いなり。義を見てなさざるは勇(ゆう)なきなり。

http://kanbun.info/keibu/rongo02.html 論語・爲政第二(Web漢文大系)

金谷治訳では、「わが家の精霊(しょうりょう)(死者の霊)でもないのに祭るのはへつらいである。【本来、祭るべきものではないのだから】」、となっている。岩波文庫p49

『礼記』では「その祭る所に非ずしてこれを祭るを、名づけて淫祠と曰ふ」とまで言われてしまいます。

どこでこの文を読んだかというと篤胤の『新鬼神論』です。*1庶民が家に宮を設けて天照大御神を祭るのが上記に該当するのでは?という意地悪な質問があったとして架空問答している。

天照大御神は人々仰ぎ奉る日神の御神霊であり、王どもの死霊(しにたま)なんかじゃないんだから、矛盾は発生しないという答。まあそれはどちらでもよい。この文を引いたのは以下が言いたかったから。

靖国神社の場合、それが神になっているにしろいないにしろ、祭ってあるのは死者(即ち、中国語では鬼)である。小泉とかは、その精霊の家族ではない。したがって小泉の靖国参拝は「へつらい」であることになります。

ところで、

諂う、を『字統』で引くと、「貧にして諂ふ無き【論語、学而】は、容易ならぬことである。」とある。短い文だが、貧しい中からひたすら己の道を貫いてこられた、白川静氏の容易ならぬ生をかいま見ることができるように思う。

*1:p158 日本思想体系50

コミュニティを憎みかつ愛すること

パリーモン師がそれに気づいて、優しく尋ねた。「何になりたい、セヴェリアン?拷問者か?それとも、もし組合を去りたければ、そうしてもよいのだぞ」

 わたしは彼にきっぱりといった--それも、この示唆にちょっと驚いたという表情で--夢にもそんなことは考えていなかったと。これは嘘だった。成人して、組織との結びつきに同意するまでは、最終的に組合の一員と決まったわけではないと、すぺての徒弟が知っていた。もちろんわたしも知っていた。そして、組合を愛していたが、また憎んでもいた--なぜなら、客人の中には無実の人も混じっているにちがいないし、罪によって正当化される以上の処罰を受ける人がしばしばいるにちがいないのに、そういう客人に苦痛を与えなければならないからであり、また、非能率であるばかりでなく疎遠でもある権力に仕えて、そのような仕事をするのは非能率的で効果がないように思われたからである。つまり、それはわたしを飢えさせ恥をかかせるがゆえに、わたしは憎む。そして、それはわたしの家であるがゆえに愛する。そして、それが古い物事の典型であるがゆえに、弱いがゆえに、破壊不可能に見えるがゆえに、憎みまた愛するのだ、とでもいう以外にはこの感情をうまく表現する手段が見つからない。

p137 ジーン・ウルフ『拷問者の影』isbn:4150106894

 『拷問者の影』はまだ読み始めたばかりなのですが、少年成長小説的な骨格がはっきりしていて予想したいたよりずっと読みやすい。一人の少年の視点からだけ架空世界を描き、その世界のあり方が読者にも少しづつ分かっていく。SFらしいが少年の実存を通して世界が徐々に現れるという普遍的な小説になっている。

 さて、この断片をコピペしたのは、この間考えているナショナリズムとかとの関連において、です。

告文

 告文(こうもん=天子が臣下に告げる文。こうぶん)

皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ

皇祖(こうそ)

皇宗(こうそう)ノ神霊(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(まう)サク皇朕(わ)レ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(ただかみ)ノ宝祚(ほうそ)ヲ継承(けいしょう)シ旧図(きょうと)ヲ保持(ほじ)シテ敢(あへ)テ失墜(しっつい)スルコト無(な)シ顧(かへり)ミルニ世局(せいきょく)ノ進運(しんうん)ニ膺(あた)リ人文(じんもん)ノ発達ニ随(したが)ヒ宜(よろし)ク

 皇祖

皇宗ノ遺訓(いくん)ヲ明徴(めいちょう)ニシ典憲(てんけん)ヲ成立シ条章(じょうしょう)ヲ昭示(しょうじ)シ内(うち)ハ以(もち)テ子孫(しそん)ノ率由(そつゆう)スル所(ところ)ト為(な)シ外(そと)ハ以(もち)テ臣民(しんみん)翼賛(よくさん)ノ道(みち)ヲ広(ひろ)メ永遠(えいえん)ニ遵行(じゅうんこう)セシメ益々(ますます)国家ノ丕基(ひき=国家統治の基礎)ヲ鞏固(きょうこ)ニシ八洲民生(やしま〈日本の美称〉みんせい=日本臣民の生活)ノ慶福(けいふく)ヲ増進(ぞうしん)スヘシ茲(ここ)ニ皇室典範(こうしつてんぱん)及憲法ヲ制定ス惟(おも)フニ此(こ)レ皆(みな)

 皇祖

皇宗ノ後裔(こうえい)ニ貽(のこ)シタマヘル統治(とうち)ノ洪範(こうはん)ヲ紹述(しょうじゅつ)スルニ外(ほか)ナラス而(しか)シテ朕(ちん)カ躬(み)ニ逮(および)テ時(とき)ト倶(とも)ニ挙行(きょこう)スルコトヲ得(う)ルハ洵(まことに)ニ

皇祖

皇宗及我カ

皇考ノ威霊(いれい)ニ倚藉(いしゃ)スルニ由(よ)ラサルハ無(な)シ皇朕レ仰(あおぎて)テ

皇祖

皇宗及

皇考(こうこう)ノ神祐(しんゆう)ヲ祷(いの)リ併(あわ)セテ朕カ現在及将来ニ臣民(しんみん)ニ率先(そっせん)シ此ノ憲章(けんしょう)ヲ履行(りこう)シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓(ちか)フ庶幾(ねがわ)クハ

 神霊(しんれい)此(こ)レヲ鑒(かんがみ)ミタマヘ

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/dainihonnkokukennpou.htm

1889(明治22)年 2月11日公布

皇室典範及憲法制定の告文

門松の力

古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はばむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来(しきた)り」によって純粋にせられる事が多い。其の多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかなる力を与える。門松を樹(た)てた後の心持ちのやすらいを考えて見ればよい。日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の「歓び」--下笑(したえ)ましさとでも言ふか--の度が違う。

(p16「古代生活の研究」『折口信夫全集・2』)

 「家庭生活を優雅にししなやかなる力を与える」という目的に対し、国旗よりも門松は著しい効果を持つと、折口は言う。家庭生活は楽で合理的健康的であればよく、優雅などといった精神的価値は必要ないと考えるのが戦後の常識であろう。それは優雅などといった精神的価値が結局の所、戦争への総動員体制へわたしたちの意識を収束させていくシステムの下位部品にすぎなかった、という批判からもくる。しかしあまりにコンビニエントを追求した現在の生活はわが身体の資本主義化(短く言えば自己喪失)に行きついており、そこからの渇きから、逆に国旗=国家主義への渇仰といったアナクロなものが急速な勢いで復活しようとしている。

家庭生活 のための 精神的価値 といった論理だったのが、

国家=精神的価値 のための (孤立し衰弱しきった)個人 といった論理へと、転倒している。日本列島を焦土化に至った窮極のマゾヒズムを再び選択するとは大笑いですが、ドイツ人もやったことだし歴史とはそういうものなのかもしれない?

 さて話がそれました。合理的な生活を目指しても限度があり、庭をあの醜悪なディズニーの置物で飾ったりするに至るのが関の山。またもっと最悪な「日の丸」なんぞが心の隙間をうめにきたりしてしまう。とすれば、わたしたちは21世紀に新たに立てるべき「門松」を作り出さないといけない。

門松を立てることは日本人としてのアイデンティティを求める行為だ。だから、門松を立てる必要などない。という意見のひともおりましょう。

わたしの家では子供の頃から門松を立てるという風習はなかった。だから門松について実は私は分からない。

ただ、門松とか、日常の習俗とされることがかならず、国家主義に収束していくべきものだと決めつけて批判するのはかならずしも正しくないと思う。

一読者 『まず、引用されたサイトの具体的検証をするという宿題その①を作成中にご返事をされてしまったので、また後回しにさせていただきます。

この後、一旦、野原さんに答えてからになるので、さらに後回しになりますが。

次に、今回の慰安婦決議案の内容確認という宿題その②は、ホンダ議員のHPで再確認したとおりなら、補償問題は入っていませんね。

しかし、4項目の内容が韓国などの慰安婦補償運動家の一般的要求から補償が抜けているだけで酷似しており、今更ながら韓国中国ロビーの主導下の議案だと実感させられます。

>さてあなたが公安委員会(?)と風俗業者の関係とは違う、そして軍が積極的・主体的に関与したのだと認識を改めたということですね。

いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

しかし、引用されたサイトの著者が十分に実証できていないのに3、と結論付けたのに過剰に反応して、つい1、と言い間違えただけです。

そして、私の考えでは、

1、国家に法的責任なし

2、国家に法的責任があるか無いかは行為当時の行為地の実効的法規範により決まる

3、国家に法的責任あり

です。

私は主体的関与という用語を、国家の法的責任を肯定しうるだけの関与という意味で使用しておりますが、あなた方はより広い意味の積極的関与を、それと同義と考えていることによる誤解ですね。

つまり、私は、2、の中の国家の法的責任否定説です。

道義的責任については肯定説で、アジア女性基金にも、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただいております。

>そうしますと常石氏のブログでのあなたの問題提起「違法な実態があったとしても、政府や軍が主体的に関与していなかったら、それは朝鮮人が多かったという業者の責任です。」というのは誤りだということでよろしいですね。

これも誤解なので、上記コメントをお読みください。

私とあなた方の用語の意味の違いに起因する誤解でしょうね。

>なるほど。要は説得的な反論は出来ないが「反感を抱いた」程度のものですか。

いいえ。

説得的な反論かどうか分かりませんが、ただいま作成中ですので、お待ちください。

事実部分の検証には、ある程度他の資料の検証も必要なので、時間はかかります。

>まあ、如何にバイアスのかかった目でこの問題を見ていたか、自らのイデオロギー性を自覚できただけあなたにとっては良かったのではないでしょうか。

前提で勘違いしているので、ここでも勘違いしていますね。

私はイデオロギー的には中道右派で大アジア主義に親和的です。

ところで、引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

>「違法な実態に政府や軍が主体的に関与していたら、日韓基本条約時の請求権条約で解決済みということになる」という議論が的を外しているということもよろしいですね。

現在の議論として的を外していても、仮に決議案が可決されたら、当然問題になりえますから、将来を予測した議論としては的を外していないと思います。

私は、決議案の原文を読んで、ますます韓国の河野談話の経緯に対する背信的行為と、米国内での対日企業戦時賠償請求訴訟へのホンダ議員の関与の経緯が、組み合わされた形での、将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

私は、法的責任は条約で解決済み、道義的責任は河野談話、歴代首相の謝罪、アジア女性基金で解決済みという立場ですから、決議案成立後に補償要求される可能性が高まったことを等閑視はできません。

杞憂に終わると良いのですがね。

>人権侵害行為が十分に救済されていないという認識の下様々な理論的な努力が現在為されています。しかも妥結時に考慮されていなかった問題であるのならなおさらです。

条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

>そもそも軍が主体的に関与し、そこにおいて人権侵害行為が発生しているのに、(公式的な)謝罪すらしない、あるいは一官房長官の談話すらなかったことにしようとするというのはどういうことかと私は思います。何も責任を取りませんと言っているに等しいと言われても仕方がない。

私は首相も公式に謝罪しているという認識です。歴代首相の河野談話の継承とお詫びって、そういう意味でしょ?責任は法的責任も道義的責任も履行済みという考えなので、大雑把に言えば、責任はもう履行しました、事実誤認の部分は修正します、というスタンスでいいと思います。何も責任をとりませんと言ってるととるのは、あまりにも事実の経緯に無知な故か傲慢さ故でしょうね。

>私は東京大空襲のような無差別爆撃も原爆による民間人の虐殺行為も裁かれるべきだと本気で思っております。

法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

道義的責任の追及なら、賛成します。

>しかしそれを日本が追及するには自らの戦争犯罪と真摯に向き合うこと以外にありません。

真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

ただ、それは十分に事実を検証した結果こうなりました、ということが第三者の目からも是認しうるだけの資料をそろえ、分析結果も揃えることが必要でしょうね。

少なくとも、非難決議案の内容に事実誤認が多いことは、あなたも賛成でしょう?』

ノーモア 『ではホンダ議員が実際どのようなことを言っているのか見てみましょうか。

http://www.wam-peace.org/main/modules/news/dl/070131honda.pdf

「私は、アジア女性基金を通じて慰安婦生存者に金銭的賠償を行おうとした日本の努力を評価しております。アジア女性基金とは政府によって着手され資金の多くを政府に負う民間基金であり、その目的は「慰安婦」に対する償いをねらいとしてプログラムやプロジェクトを実行することでありました。アジア女性基金は 2007年3月31日をもって解散することとなっています。私は、アジア女性基金が重要であったということには同意しますが、現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

>いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

>引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

>将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

予感するのなら御勝手に。ただロクな根拠に基づかない予感を基に議論を展開してもバカにされるだけです。事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

>条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

>法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

まさにここでしょうな。被害者そっちのけの勝手な国家間同意で一切が解決とすることに国際人道法の研究者が疑問をおぼえるのは。しかも国内法による救済といっても「戦争による被害は国民が等しく受忍すべきもの」であっさり却下されるわけで。ま、それはいいとしていずれにせよ、道義的責任とやらを追及するにもそれなりの倫理的な基盤は必要だということです。

>真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

一般論としては正しいのですが、あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『>現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

実際には挺隊協、マスコミ、その他社会からの有形無形の圧力で受け取るつもりだったのが拒否した事例が多数あったことが、日本側の支援団体の報告で批判されていますね。

>私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

あなたは、自分に都合のいい部分しか取り上げていませんんね。私はホンダ議員のホームページで全文を読みましたが、事実認定部分には多数の誤認がある。

>そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。

それは当方のミスだと説明済みです。あなたも野原氏同様人のコメントをきちんと読まない方なのですね。

>まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

ロジック部分は前回のコメントで説明済みということは了解してもらえますね。

具体的検証部分は、もう少しお待ちください。

>よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

あなたの用語法からは、目的達成でしょう。

私の用語法(前回コメント参照)からは立証不十分です。

>事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

あなたがソースを要求したいのは、決議案の全文、ホンダ議員のHPその他、ホンダ議員の対日企業賠償請求訴訟への関与、韓国慰安婦補償運動の一般的要求などですか?そんなのあなたご存知でしょ?私のソース提示に関するポリシーは以前説明したのに分かって貰えないのですか?あなたこそ肝心のロジック部分がいい加減すぎて、議論を舐めているとしか思えません。相手の言い分のどこに賛成でどこに反対かを明確にする、議論の途中で自分のミスがあれば認めお互いの共通認識にする、これ基本じゃないのですか?

>最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。

これも誤解です。改めてません。私は最初から河野談話修正ないし撤回必要説です。先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

>ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

国会による謝罪決議が必要と考えるのは、ホンダ議員や中韓ロビーの勝手ですが、日本には日本のやり方があり、過去の犯罪のほとんどに謝罪していない米議会や中韓勢力に指図されるいわれはないですね。

価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私は単に事実誤認部分を修正するだけだと思います。その際、この問題の発生経緯も含めてつまびらかにした上でできれば、なお良いですね。法意識の発展による遡及処罰はどこまで可能か、という新たな論点を提示するきっかけになるかもしれません。

あとで検索してソースを示しますが、町山ともひろ(漢字失念)氏の天安門事件に関する記事をお読みください。

>あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか

ホンダ議員のHPは前回のコメント前に全文読みましたが、それでも知らずにかみついていると?

むしろ、あなた方のように相手のコメントを字義どおりに素直に受け取らず誤解曲解が多すぎると、こちらが一々説明しなきゃならないので、疲れます。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040313

町山氏のブログです。』

ノーモア 『>そんなのあなたご存知でしょ?

いや、最初に「請求権条約で解決済みだからごちゃごちゃ言うな」という論旨を展開されたから、今回「法的責任」は云々されていないのだから的外れでは?と答えたわけです。もちろん最初に論旨を展開されたのはあなただからあなたがソースを提示すべきでしたが、私は議論を先に進めるためにこちらから色々提供して差し上げました。そして実際、法的責任云々は含まれていなかったわけですから、それで本来この話は終わりなのです。が、あなたは議論をすり替えて「いや将来言ってくる気がする」と言い出したわけです。

あなたの「予感」とか「そう思った」だけの議論に付き合う義理はないのですが、やはりホンダ議員はそのように言っていないはずですがとこれもこちらからソースを提供して差し上げた。私は彼が民間基金による補償というアイデアを高く評価しているのでそれが謝罪をきちんと行うことで機能して欲しいと思っているように(まさに「字義通り」!)受け取りましたが。で、今度はホンダ議員の「事実誤認の有無」ですか?議論のすり替えを何度行えば気が済むのでしょうか。もとの論点とは似ても似つかない論点になっていることが分かりませんか?

>私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

知ってますよ。何回も繰り返さなくても結構です。ただしそれについて散々それを台無しにするような発言が繰り返されてきた経緯も御存知ですよね?ホンダ氏も諸外国もそういう経緯を知っているんですよ。だから「曖昧でない謝罪を」と言っているんじゃないですか。謝罪というのは加害者が頭を下げた回数で決まるんじゃないんです。謝罪は一人じゃ出来ないんですよ。

>日本には日本のやり方があり

まあ加害者が犯罪被害者に謝るとき「俺には俺なりのやり方があるんだ」と言いだして謝罪が成り立つかといえば、その可能性はゼロに近いでしょうね。

>価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私だけの主観ではありません。それは諸外国でも「日本の謝罪は曖昧だ」という認識の方が多数派なのでは。。今回安倍氏が「謝罪しない」と言った時の諸外国のメディア・政界の人たちのあまりの反応にこれまで「日本を悪く言うのは特アだけだ」と言っていた人たちがうろたえていたのを見て不謹慎ですが笑ってしまいました。まあこれは蛇足ですが。いずれにせよ謝罪は一人では出来ないという「リアリズム」に立ち返って欲しいものですよね。

>町山氏のブログ

知ってますよ。しかしそれが今回の件と何の関係があるのか私には全く分からないので正直困惑してます。

>先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

これもよく分からないんですが詳しく経緯の御説明を願います。』

民、人、天

 光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。

 周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)

 人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48

 戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。

(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)

 で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)

同一性の論理に抗して

 デリダ『マルクスと息子たち』という本は、デリダ『マルクスの亡霊たち』(未訳)という本への批判への応答である。言い訳であり、繰り返し丁寧に書いている。あの大デリダにしてなお、これだけ完璧に誤解されるのかという感想をもってしまう。

例えば、「デリダは階級、階級政治を拒否している」とアフマドは語る。デリダは弁明する。「階級闘争の概念が標的にしていたものに関心を持つこと、社会的諸力間の抗争を分析することに関心を持つことは今もなお絶対に不可欠であると思います。」*1しかしながら、「社会階級とはそれがそれであるところのものであるという考え、つまり、社会階級が「究極の支持体」として、自らと同質であり、自らに現前しており、自らと同一であるという考え」に対してはデリダは反対する。「支配する者とされる者という単純な対立」という図式も疑問だ。つまり公式マルクス主義によって歴史を前進させる本当の主体として保証されているそのもの、現実の社会に生きているというよりむしろ論者の頭の中にある特権的カテゴリーとしての階級、というものに対しては疑問を持つと、デリダはいう。

 これは当たり前のことのようだが必ずしもそうではない。日本では、階級というものをすこしずらした、憲法9条、平和主義あるいは「(平和を希求する、被害者である)国民」といったものが、「究極の支持体」となっていた。去年ぐらいから急速に勢力を失ってきていますが。「自己に対するある種の差異とか、社会的力の中のある種の異質性といったもの」を平和主義者たちや日本共産党は抑圧してきたといえます。したがって<差異>に敏感であり、「階級、国籍、市民性に依拠してはならない」と語りうるわたしたちが、社会的闘争の運動にたちあがらなければいけないのです。

とは言っても「わたしたち」は圧倒的に少数派だし、元気もでないし困ったなあ。

この本のポイントは<メシアニズムなきメシア的なもの>にある。(キャッチコピーとしては分かりにくく最悪ですが。)メシアニズムとは、要するに 出来事であるはずのものを、プログラム可能なもの、プログラムされていたものとみなす思考、のことである。将来において必ず救済されると予定されている立場に依拠して考えるといった態度と考えてもいいだろう。それに対して、メシア的なものとは「到来する誰か(何か)という出来事に向けて張りつめられた」現実主義的で無媒介的な憂慮である、とされる。「それは最も具体的で、また最も革命的でもある緊急性である。」「それは事物や時間や歴史がいつものように流れているその流れの中断を今ここで命じてくるのだ。*2

<メシアニズムなきメシア的なもの>についてはこの本を読むだけではわかりずらい。でもわたしは(誤解かもしれないが)、何かをそこに読みとり希望を掛けることにした。

*1:p63『マルクスと息子たち』

*2:同書p91

わたしの日とあなたの日(金時鐘メモ3)

 日日という言葉は普通は「日々」と書くが、この点でだけ、金時鐘は日本語の正書法に従わない。「その日を生きる。/日本を生きる。/おれらが朝鮮を/創って生きる。」*1という行もある。日は日本の日でもある。そして日本は分断されていないのに、日日という文字列どうり上下に分断された朝鮮。*2「朝鮮」を背負って日本で生きるという逆説の上に成立する日々は、日々という即自性を持たない。日と日の間に目に見えない分断があるそうした日日を朝鮮人たちは生きていくのだ。

「日日」をタイトルに含む詩は上に部分引用した『光州詩片』に一つ、『猪飼野詩集』に三つある。そのうちの「日日の深みで(3)」から最初の3連を引用したい。*3「日」という文字は箱のようにも見えるところからも発想されたのかもしれない詩。

   日日の深みで(3)

それは箱である。

こまぎれた日日の

納戸であり

押しこめられた暮らしが

もつれさざめく

それは張りぼての

箱である。

箱のなかで

箱をひろげ

ロがな一日箱を束ねては

箱に埋もれる。

箱は催足される

空洞であり

追いまくられて吐息のいぶる

うつろなよすぎの

升目である。

立方状に仕切られてあるものに

生活があり

忍耐はいつも

長屋ごと升目にかかるので

夜を日についだ稼ぎですら

ねぐらが埋まる程度の量(かさ)でしかない。

*1:p277同書

*2:彼の本は普通と同じくすべて縦書きで組まれている。

*3:p194