死体を踏んで

『ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付で、「渡嘉敷の集団自決」の見出しで次のように報じた。

(略)

われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。

 そこには200人ほど(注・Gリポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。木の根元には、首を締められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。(略)

 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

確かに原爆はさらに大きな悲惨だったかもしれない。だが、日本軍が日本人を死に追いやり、親が子を殺したことの悲惨は語りようもない。

<憎悪>をとぎすまし持続しなければならない、と私は考える。

詳しく言うと(kamayanさんのコメントを読み追加した)

えーと、小選挙区で自民党が30%も増加した。

その根拠となる得票数を見ると643万票増加している。

しかし民主党も自民党には及ばないが、得票数は299万票増えている。

得票率(得票総数に対する割合)をみると

自民党 : 前回43.85%  今回47.77%  3.92%増加

民主党 : 前回36.66%  今回36.43%  0.23%減少

民主党の得票率は減少したといってもわずか0.23%。

したがって「自民党は4%の得票率の増加で、30%の議席数増を得た」と言ってもよいだろう。

比例代表では、自民党は3.23%増、民主党は6.36%減と小選挙区に比べると差は大きい。しかし比例代表では当選者数にはマイルドに結果し、小選挙区では劇的に結果する。

(昨日書いたときは民主党の得票率もっと大きく減ったと誤解していました。)

オバサンの発見

これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちはオバサン*1としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、オバサン*2たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1

だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋の*3フェミニストの関心を脱中心化する」ことが必要になります。(同上)

コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」と名付けます。(同上)

オバサンは主婦である場合、その家庭ではインサイダーであり支配者であると言えなくもない。しかし、家族の中に要介護老人などをかかえると、彼女は労働時間と感情労働を限界なく搾取されることになる。

*1:原文:女性

*2:原文:彼女

*3:「若く知的な」が抜けている

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。

六甲 第三章 

油コブシ。ケーブル六甲山上駅から約1キロ南の丘陵

に突出した巨岩。海抜約六百メートルで、西方の摩耶

山をこえて瀬戸内海を望む。かつてはにぎりこぶし状

に上へ侵びていたが、尖端が徐々に風化されている。

 私の中へ〈私〉たちがなだれこんだとき、〈私〉たちが見たものは、いままで私がかいてきた形象が、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、私の内蔵の奥深く累積している姿である。

 〈私〉たちの嘔吐の気配を感じとった私は、それを無視したいために、嘔吐の感覚から最も遠いと思われる意識を、外の風景へ投げ込もうとした。しかし、いつのまにか、私は、油コブシの尖端で眼を閉じたまま立ち上がっており、恐怖がその状態を確認するよりも早く、私は放物線を描いて、はるか下方の斜面で待つタンポポと激しく接吻しながら失神しつつある。

 私はまだ意識を回復していない。第一章=序章、第二章=仮章に続く次の章をかけない苦しみのために、意識的に意識を失ったと疑ってもよい位だ。ともかく〈私〉たちは、私が墜落したのと同時に、私の内部に、〈私〉たちの欲する限界をはみ出すまで深く墜落しつつある。〈私〉たちの突差の行動で、〈私〉たちの各々は、互いに〈 〉をスクラムのようにからませ合いながら鎖のように墜落したので、〈私〉たちの一方の端は、どこまでも奥深くへ運動するけれども、一方の端は、入口でたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点しっかりと固定されている。

 〈私〉たちは微少な時間=空間の転移のすきまで、次のように決議した。苦しみから逃れるために〈私〉たちを墜落させた私の責任を追求しよう。墜落という災難を逆用して、私の内部に食い下がり、いままで私がかいてきた形象たちの苦しみをさぐり、かれらに代わって〈私〉たちが私を告発してやるのだ。

 何よりも先に注意をひかれるのは人物であるが、未熟児か不具者に会う直前のような感じがして一種の恥ずかしさに〈私〉たちは身体を固くする。しかし眼をそらさずに下へ降りていかなければならない。最初にすれちがったのは、骨の割れ目に足をかけて登ってくる人間で〈私〉たちに気付かぬまま、荒い呼吸をしている。その次には、時計の長短針のように交差する血管にはさまれている人間。眼の機能を耳が、耳の機能を口が、口の機能を眼が果たしているので、各々の器官が死ぬほど憎みあっている。更に下へ降りる〈私〉たちは、足ぶみか跳躍をしている人間に驚いた。粘膜壁にあるいくつかの光る斑点のためにできたたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点自分の影、その影のどこかの部分を、同時に踏みつけようと試みているらしい。最後に、じっとしゃがみこんだまま、不消化な岩の破片をかんでいる人間がいるが、よく見ると岩の破片ではなく、眼を閉じている彫像の頭部で、それに話しかけている様子であった。どの人間も、年齢や性別が分らず、それらの人物たちのまわりには、さまざまなものたちが、プールにゴミ箱を投げ込んだように浮遊しているので、〈私〉たちはそれらの一つ一つをたしかめる気力がない。それに、落ち着いて考えてみると、〈私〉たちは、ほぼ直線状に下降してきたのだから、その軸のまわりの部分で何人かを見たというにすぎない。

 〈私〉たちのまわりから、形象たちをつつみこむ限界までは、どこまでも、果てしがないと思われる位に暗く、その暗さは、夜の渓谷や、濁った運河や死者の広場に似ている。せめて下の限界を、墜落しながらたしかめようと考えたとき、なぜか分からないが、下の暗さをのぞきこむ〈私〉たちは、私の口に触れているはずのタンポポを意識した。同時に〈私〉たちのつながりが、ガクンと一直線に伸び切り、これ以上、降りられないことに気がつく。

 静止した〈私〉たちが、私の責任を、形象たちの前で告発しようと意志をかため、つぶやきから弁論に変化する直前の、微妙な鼓動の律動を制御するために眼を閉じていると、いままでは〈私〉たちに気付かないまま永遠の動作を続けていた形象たちが、ふと動作を中止して、〈私〉たちの方へ注意をむけているような気がする。〈私〉たちはすぐに眼を開けてしまうと、この想像とくいちがうのを怖れ、数瞬後、どちらでもよい、と思いながら眼を開くと、形象たちは、永遠の動作を続けており、こちらに注意を払っていない。〈私〉たちは、かれらが気がつかないうちに、彼らの一瞬を想像した〈私〉たちの技巧や、待つことのうちに事態を変化させてしまう〈私〉たちの統制力に微笑しながら、次のように、告発をはじめるのである。

〈私〉たちは、あなた方の直系の血族として、六甲の空間から、この時間の底へ降りてきた。

〈私〉たちは、あなた方と同じく、存在しきれない苦しみにうめいている。

人間が存在するとき、整数の性質をもって現れてくるのを疑うものはいない。しかし、ここにいるあなた方は全て、整数からはみ出す性質をもっている。そして〈私〉たちは、その最も極端なかたちに分裂させられた。

 墜落を逆用して、〈私〉たちは、あなた方の連続性をかいま見てきた。あなた方のうち、最も底にいる形象から次第に上方へ、〈私〉たちに至るまで、丁度、枝のない幹をみるような方向が一貫している。

 あなた方や〈私〉たちを、未熟なまま早産せざるをえない時間が、かって私を襲ったのであろう。それはよいとして、〈私〉たちが告発する私の責任は次の点にある。

 あなた方や〈私〉たちの形象をつねに、外部の時間と、内部の空間との間でのみ設定したこと。従って、自己にも形象にも致命的な歪みを与えたこと。

 〈私〉たちや、あなた方の直線的なつながりは、この上なく危険な徴候だ。主体設定の変化が早すぎる。主体のりんかくが薄すぎる。

 底に近い形象ほど無意識のうち時間にあやつられ、上に近づく形象ほど無意識のうちに空間にあやつられている。だからこそ〈私〉たちは、六甲の空間から、あなた方の時間へ降りてきた、と語ったのだ。

 〈私〉たちは私に要求する。内部の時間と外部の空間の間で形象せよ。たとえば、失神という瞬間から、太陽に入ったフライを受けそこなって球が顔に当った瞬間、終電車におくれて歩いて帰ろうとし、凍った鉄橋からすべり落ちた瞬間、機動隊にむかって振り上げたコン棒の先が、後ろのデモ隊員に当った瞬間へ、なぜ連絡しないのか。〈私〉たちでない、〈 〉たちへ、なぜ入り込まないか。

 〈私〉たちは、あなた方の直系の血族である。これは、実をいうと、この上なく屈辱的なことだ。しかし、同時に、〈私〉たちの一人一人は、あなた方と存在を交換してもよいと思う位、あなた方を愛している。

 いま〈私〉たちは、自分たちの限界のために、これ以上うごくことができない。身体が不自然に伸び切っているし、窒息しそうだ。いつか必ず、もっと深く、もっと長い時間ここへ潜入し、あなた方すべてを救い出そう。

 〈私〉たちは、あなた方の誰よりも惨めな形象だが、あなた方とちがっている。そして、いましばらく、あなた方と離れていくことは、あなた方の苦しみの契機をすべて背負いこむ一ばん有効な道なのだ。

〈私〉たちが、このように、かれらにむかって語りおわったとき、いや語りおわろうとしたとき、彫像の頭部が〈私〉たちの方へ投げつけられ、次第に重量と速度を増して、油コブシのように〈私〉たちへ迫ってくる。その彫像あるいは巨岩によってひきおこされた風を受けて、〈私〉たちは、自分よりも少しでも上方にいる〈私〉たちにしがみつきながら上方へ吹き上げられていくのであるが、下降のときは円筒状の流れしか見えなかったのに、上昇のときは滝のような音しか聞こえない。

 〈私〉たちは、〈 〉を何重にも自分にまきつけたい不安と、〈 〉がズリ落ちそうだという滑稽さにはさまれながら、下方から迫る衝撃を避けようとしている。

 突然の爆発音。……黄色い閃光が飛び散って、花びらのように開く。

 内臓の底から吹き上げられた〈私〉たちが、風景への出口でぶつかったのは、タンポポであった。私が失神しながら接吻しているので、黄色い花びらは血にまみれており、そこには、いままで〈私〉たちが一度も感じたことのない、可憐な勇敢さともいうべき力が潜んでいる。

 〈私〉たちにとって、はじめての外部の風景でありながら同時に出口をふさぐこのタンポポを前にして、〈私〉たちは次のように討論する。

 花びらに映っているのは何だろう。

 いや、文字が浮きでているのではないか。すでに綿毛になった花芯がペンになって書いた文字が。

 とにかく何かが表現されているのはたしかだ。

 私がいままでかいた形象たち、かれらからこぼれおちた、あるいは欠落したものが解放されて表現されているのではないか

 私がこれからかくべきヴィジョンなのだろう。

 〈私〉たちのかかわり合いかたで、いろいろと変わった風にとらえられるのだと思う。ほら、〈私〉たちの〈 〉が映っていると思えばそんな気がするだろう。

 ふしぎなことに気がついた。花びらと〈私〉たちの意識をつなぐイメージあるいは言葉に〈 〉をつけてみると、その部分は、他のイメージあるいは言葉に置き換えても成り立つのだ。しかも、より透明な意味をひきずりだしながら。

 例えばどんなのだ。さっぱり分からない。

 それは私が、いつかやってくれるだろう。また、〈私〉たちは私に、それをやらさなけらばならない。

 いいたいことをいい切ってしまえ。とても苦しそうだから。

 任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体

個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。

 自由自在にか。

 いや、ある領域内に制限されつつ自由に運動するのではないかという気がする。逆にある領域内で自由に運動するもののうち、ある一つのかたちが、この花びらに現れてくるともいえそうだ。

 それは怖ろしいことだぞ。極めて突飛ないいかただが、ここから、恒常的な存在の条件と恒常的な表現の条件の中で弯曲している何ものかのある段階の姿が導けるのではないか。

 では、この花びらの形象はだれがつくりだしたのか。

 失神している私とでもしかいいようがない。〈私〉たちは、いまのところ、私にむかって、〈 〉の根拠を明らかにせよ、と要求し続けるほかないのだ。

 手がかりはないのだろうか。何でもいいから、いってくれ。

 恐らく、いま失神している私は、あるとき自己や世界の関係を〈 〉に入れなければ生きることも死ぬこともできない時間=空間に出会ったのだ。そしていまも出会い続けているのだろう。私にとっての戦後史の軸も、世代も体験も、国家も革命組織も、家庭も風景も、みなれないと同時に致命的な二重性として映っているはずだ。ただし、自分では気づかずに。失神したときはじめて、このタンポポが、私の可能性をひきずりだしたのだ。

 花びらに浮きでたものを〈私〉たちの一人一人がメモにかきうつしたらどうなるか。……みんなで協力して統一メモを構成しよう。

 何度もかきかえていくときの基準はどうするのだ。切り捨てたり、残したり、順序を入れかえたりするときの基準は。

 切り捨てることによってしか〈 〉運動をおしすすめることができないのであれば、その部分は、別のかたちで残ってくるだろう。残るものは〈 〉運動の基盤、付け加えるものは〈 〉運動を拡大する契機、入れかえるものは〈 〉運動の有効性としてとらえられる。

 私への告発はどうなったのだ。それに一体、わたしたちは何ものなのだ。

 〈私〉たちが私によって、私が〈私〉たちによって〈 〉の意味を予感したことが、それぞれの責任だといえる。だから、私への告発は〈私〉たちへの告発になる。〈私〉たちの誤りを追求することは、この世界の誤りを追求することであり、また、この世界の誤りを追求することなしには〈私〉たちの誤りは許されない。

 〈私〉たちはこれから〈 〉をつけて表れないことを決意しよう。〈私〉たち以外の全てのものに〈 〉をつけに、再び内蔵へ下降していくのだから。

 〈 〉は消え去るだろう。しかし、〈 〉のない世界は、〈私〉たちが永遠に変革し続ける夢である。夢が恒常的な条件に限りなく近づくように! 〈私〉たちが、そのたたかいに耐え続けてくれるように!

 そのとき、私は、何ものかの嘔吐によって意識を回復し、まず、わたしの上方におおいかぶさっている油コブシに〈 〉をつけはじめている。

(1966年5月発表)

(2008.11.09~16UP)

反日

     反日

自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン。

 日本国家に抑圧~侵略されてきている人々の反日の感情には十分な歴史的~現実的な根拠があり、私たちが、この根拠を全く不十分にしか止揚しえないままでいる事実をふまえつつ、いま問題にしたいのは、前記の反日の感情がとどきえない領域の反日である。

 別の例から同じ問題に入ってみよう。70年代に日本赤軍がアラブに根拠地をもち、いくつかの大きい成果を上げた時に、なぜ、イスラエルに根拠地をもち、同じような闘争を展開するのが困難であるのか・・・また、イスラエルに生まれ、育った人が同じような闘争への意志をもつまでの困難が最大ではないのか、と考えるのが、この問題への、もう一つの重要な入口である。さらに別の入口は後でいくつか示唆する。

 ところで、70年代に出現した東アジア反日武装戦線の提起したのは、前記の問題の具体化~身体化である。そして、日本赤軍も、東アジア反日武装戦線も、60年代末の大学闘争以降のさまざまな模索過程が生み出した形態の中の二つの極限であるといえる。したがって、この二つ、とりわけ国内における闘争によって、より概念の密度を高めている後者における反日性を把握するためには、60年代末の大学闘争以降のさまざまな模索過程の総体を視野におくことか不可欠であろう。この作業は殆ど開始されていない。(註一)

 大学闘争とよばれる激動の本質は、機構の変革のみならず、変革しようとする主体の変革を同時に展開することを不可避とする世界史的情況にあり、この情況係数を前提として視る者の眼には、人間や社会が存続する条件よりも、存続のために他を犠牲にしてきた条件の追求に比重をおかねばならないのは自明であった。

 この自明さは、反日の概念を把握するための原点であるが、同時に、反日の概念とは無関係にみえる多くの概念(例えば〈甲山〉ー註二)を把握するための原点であることも強調しておく。反日の具体的展開には大きい振幅があり、対立する場合も少なくない。天皇制を含む日本の存在様式の解体を共通の前提としていても、その根拠や射程が、前記の原点の把握の度合に対応して異なる(特に、アイヌ、科学、武装、自然、言語をめぐってー註三)からである。筆者としては、社会的底辺、国際的周辺、時間的辺境という三つの〈辺〉に根拠をおきつつ、それらが形成する三角形を、楔としての三角錐へ変換するための幻想的な点ないし軸を想像~創造して生きたい。

註一ー この作業のためには、あえていえば、

 αーある声の誘いに応じて、長年にわたって手にしてきた〈網〉を拾てて、直ちに歩き出すことのできる魂の飢餓

 βー今後、何一つ〈日本〉語では表現しないで生きようとする意織

 γー〈天皇〉あるいは自分を爆破しうる武器を作りうる技術の総体を、イメージとして統一しつつ、そのイメージに敵対しうる全ての思想、文明の様式と、暗黙のうちに断固として訣別し、同時に、それらの水準を内在的に追い越し、解体しうる実力を形成していなければならない。

註二ー 74年3月に、十二才の少女と少年が、障害児収容施設である甲山学園から連続して行方不明になり、その後、二人が園内の地下浄化槽から死体として発見されたことを契機とする事件。容疑者~被告人とされた保母の冤罪を主張し、支援する人々の善意は疑わないが、この人々は、死者や死刑の意味を、〈内ゲバ〉事件や、連合赤軍事件や、いくつかの反日闘争(とりわけ、アイヌモシリのために実行された、北海道庁爆破事件)における場合と統一的に把握し、〈同じ〉論理で支援しようとする時に初めて〈甲山〉事件の本質に触れうるであろう。

註三ー この五項目は、ワープロ作成中に浮かんだもので、無数の項目からの断片に過ぎないが、共通していえることは、それぞれの項目が喚起するイメージが現在の人類史の具体性から発している度合を無化して把握しなおすべき、ということであろう。それぞれの項目への認識ベクトルを、概念の発生する初期条件と最終条件の包囲する座標系でとらえていく、といいかえてもよい。五項目に限らず、関連する概念は、あらためて独立の項目で論じていくが、それにしても、このような発想を導く〈反日〉とは不思議な概念である。

(松下昇『概念集』1 p14~15 ~1989・1~より)

(15年前は、「反日」という言葉は、東アジア反日武装戦線に言及する場合以外まったく使われない言葉だったように思えます。)

私の単純ミス

なんと去年のブログ記事を今年と間違えてブログに貼ってしまった! 

(訂正前)

2.18時より チャクラ(北浜)にて 祈りの集い ◇

追悼・平和 法要 ◇ ダライ・ラマ法王からのメッセージ朗読

林 孝瑞 師(四方僧伽・スーパーサンガ幹事)

◆登山家 大西 保 氏

◆チベット音楽 川辺 ゆか 氏

◆大樹玄承師(スーパーサンガ 関西地区代表)

となり、川辺ゆか氏、大樹玄承氏は、天鷲寺とだぶる。大丈夫か?

出かけようという方は、よくご確認の上お願いします。(2/10日 11時記)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120309#p1

中道右派toノーモア様

『以前あなたとコメントを交わしたエントリは、5回投稿しましたが書き込まれなかったので、野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。

まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?

>石原氏は河野談話は撤回すべきどころか正しいとすら認識しているということですよ?さてどこに外交信義違反が存在するんでしょうね?外交信義違反はなかったということでよろしいですね?

いいえ。ダメですよ。あなたも石原氏の主観と認めておられる。外交信義違反かどうかを判断するのは、責任者たる現首相であって、退任された石原氏の主観ではありませんから。どうしてそうやって強引な認定をしたがるのか。

>あなたはご自身の持ち出した論点を何一つまともに擁護できておられない。他人事ながら気の毒なくらいです。

ダメですよ。印象操作しちゃ。確かに、最初の頃、私の気づいていなかった歴史学上の視点をいくつか呈示してくれたあなたには感謝しています。

しかし、あなたは、最初からロジックは強引で、最近の論点については、勝手に論点ずらしだと誤解されたり、ドツボにはまってミスされていますよね。

>将来のお仕事に支障をきたされるのではないでしょうか?まあ要らぬお世話ですが。

十分稼いでますから、ご心配なされずに。今は休暇中だから、色んなジャンルのサイトを巡回して書き込んでるだけですよ。やはり、異分野の視点って重要だな、と大いに勉強になります。あなたにも、大いに学びました。

>つまり「外交信義違反」などと言っている人は政治家にはいないということですか?「外交信義違反」の論点自体あなたのオリジナルということですね?当事者が誰も気付いてすらいないのに「信義違反」とはどういう意味なのでしょうか?私には全く想像すらつきかねます。

でも、あなたも河野談話が修正or撤回されたら、韓国側からそういう主張がでることは容易に想像がつきますよね?そのときに備えて抗弁までシュミレートしておくことは、悪いことではありません。問題になって政府から問い合わせがあったら、当然アドヴァイスしてあげます。

>つまり「外交信義違反なのだから撤回すべき」という主張をあなたは放棄したんですね?

放棄しませんよ。正当化の根拠は多い方がいいですから。修正or撤回論が出てきた主因は、明らかに研究の深化による事実誤認の発覚。でも、これ言っちゃうと、事実誤認がないと思われている節があるあなたに悪いかなと思って、あえて言わなかったんですよ。

>>国家として事実を認めるためには裏づけや信用性が不十分だった

>そのように石原氏が述べている箇所を「正確に」引用して下さいませんか?

櫻井よしこ氏の著作にありますね。検索し、ネット上で見つからなければ、図書館・本屋に行きますので、しばしお待ちを。

>>中韓系ロビーの擁護ですか。

>そんなことは一行も書いてませんが?「イデオロギーバイアス」が激しすぎるんじゃないですか?

いいえ。この問題でのNGOと言えば、どこが主力かはあなたもご存知のはず。見て見ぬフリはいけません。

>また被害者のなかには何よりも日本側にきちんと責任を認めてもらいたいと言う人が存在するということも考えてください。問われているのはどのような解決が為されるべきかという「政治的な知恵」なんですよ。

それには賛成しますよ。その点、ヴァイツゼッカーは偉かった。国際的な赦しのコンセンサスを作り上げたのですから。日本にも彼のような弁の立つ政治家がいなかったのが悔やまれます。しかし、彼の責任論は、法的視点も含まれているところが重要なのです。

>>日本からぶんどった協力金

>で、それは要するに賠償金ではないわけですよね?

それは、日本側の名目でしょ?韓国側は、賠償問題の解決金と言ってますから、実質賠償であることは双方の共通認識です。被害者に韓国政府が分配するって言ってるじゃないですか。当時の韓国は、史上初めて宗主国から賠償金をとった素晴らしい政治力の国です。最近は怪しいですが。

私はこの原資からの分配とセットなら、『現時点での正確な事実認識』に基づいた日本の国会決議に賛成します。事後の検証否定条項には反対ですが。一旦韓国予算から裏で日本予算に還流して、そこから日本が支払ってもいいと思います。政治的な技術については政治家が決断することですが。これが私なりの政治的な智恵ですね。賛同が得られるかは不明ですが。あなたのコメントは大変ヒントになりました。

でも、一緒に実質的救済のための運動はしてくれないのですね?太平洋と日本海の友情の架け橋に反対なのですか?

>さてところであなたの蛇足話に付き合うのも飽きてきました。私としてはここまでの状況に鑑みてあなたと話しても得るものはあまりないので(他方あなたはラッキーだったでしょうが)、さっさと積み残しの「本題」をきちんと片付けて頂きたいと思いますね。

ラッキイだったのはあなたの方では?法的に一番救済しやすいのが韓国政府からの分配だと気づいたことがそんなに嫌なんですか?元々は日本人の払った血税ですよ。

積み残しの方についてはあなたも分かるでしょ?ロジックだけならいつでも考えられるけど、資料検証には、他の資料とのつき合せも必要ですから、図書館や本屋を渉猟してるんですよ。一応ロジックだけなら構成がありますけど、あなたそれだけじゃご不満のようだから。』

ノーモア 『>野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。

また被害妄想を。はてなのコメント欄はある一定の容量を超えると表示されなくなるんです。サイドバーの「最近のコメント」の欄にはあなたの名前が表示されていますよね。そこからしてまずアク禁ではありえないことがわかるはず。

>野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?

まさに誹謗中傷ですな。あなたは最初の投稿でもこれと同じことをやらかしましたが。下品に見られるのでおやめになられたらいかがでしょうか。ウェブで姿が見えないといっても人間「節度」というものがあります。

>あなたも石原氏の主観と認めておられる。外交信義違反かどうかを判断するのは、責任者たる現首相であって、退任された石原氏の主観ではありませんから。

ですからあなたは「本当は日本の当事者は嘘だと認識していたが韓国が個人補償の放棄をバーターとして持ちかけてきたから河野談話を発表した」という事実を立証すべきなんですよ。そのように認識していた当事者は誰ですか?具体的に挙げてください。それが出来ていないのにうだうだ言っても話になりませんな。

>ダメですよ。印象操作しちゃ。

ああそうですか。ではちゃんとした議論をしてください。「櫻井よしこ氏の著作」ねえ…確かにそのような話をしてましたが、あの人は南京事件を始めとして歴史の問題になるとヒステリックになったり事実を捻じ曲げたりしますからねえ。

>明らかに研究の深化による事実誤認の発覚。

いや、あなたそもそも最新の歴史学の成果なんてフォローしていないでしょう?「研究の深化による事実誤認の発覚」と仰いますがそれはどこですか?ちなみに失礼ですが吉見氏の著作くらいは読んでますよね?

>でも、あなたも河野談話が修正or撤回されたら、韓国側からそういう主張がでることは容易に想像がつきますよね?

ですから答えになっていないんですよ。繰り返します「当事者が誰も気付いてすらいないのに「信義違反」とはどういう意味なのでしょうか?」

>問題になって政府から問い合わせがあったら、当然アドヴァイスしてあげます。

そのようなことは絶対にありえませんので御安心ください。

>この問題でのNGOと言えば、どこが主力かはあなたもご存知のはず。

知りませんね。あなたはそれが具体的にどのような活動実態と構成員を持つNGOなのか知っているんでしょうか?そしてそれが横田洋三氏の仰っているものと一致するというのはいかなる根拠に基づくのでしょうか。

>被害者に韓国政府が分配するって言ってるじゃないですか。

もう一度同じことを繰り返して申し訳ないですが、従軍慰安婦問題は考慮されていませんでした。

>法的に一番救済しやすいのが韓国政府からの分配だと気づいたこと

典型論点なので別にどうということは無いです。嫌韓サイトをみればバカの一つ覚えのように「解決済み!」が連呼されてますから。

>資料検証には、他の資料とのつき合せも必要ですから、図書館や本屋を渉猟してるんですよ。

頑張って下さいね。』

シオニズムはユダヤ人の文化に敵対する。

http://www.diplo.jp/articles02/0208-2.html 

にあるフランス人が書いた文章には、「イディッシュ語(民族虐殺によりほぼ壊滅した)」という表現がある。だが、この説明は正確ではない(だろう)。そこにあるように、「イスラエルでは、死者、敗者、臆病者の言語であるとさえ見なされています。」シオニズムの組織的なイディッシュ語への敵対がその「ほぼ壊滅」を産んだのではないか。千年近い歴史を持ち豊穣な文化を育んだイディッシュ。「イスラエルは東ヨーロッパのユダヤ人の民の歴史を恥じており、イスラエルの過去からそれを消去したいかのように、ことが運んでいる。」p101(6)

これは日本の日の丸強制主義者にも似ているようだ。彼らは日本文化への誇りを言うが、彼らのいう日本文化とは教育勅語、カイゼルのドイツを真似た鹿鳴館のような偽物文化にすぎない。江戸時代までの長い歴史は西欧化されたわたしたちにはすぐ分かりにくいとしても、落ち着いて考えてみればとても興味深い。そして長い歴史はまた多様な文化との交流でもあった。民族離散というほど大袈裟でなくとも、21世紀は日本人にとっていっそうの離散の時代になることは確かだろう。日本ではなかったものを日本だとし、政府への服従を愛国心と言いくるめる、教育基本法の改正は阻止しなければいけない。

スピノザ、モーゼス・ヘス、ショラム・アレイヘムやブント、モスクワのハビマ座やレイネット・ロラネーズ、サラエボやローワー・イースト・サイドなどのユダヤ人の歴史を消去するためにすべてがなされる。p176

とりわけアンダルシアとその黄金時代とを再発見すること。ユダヤ教徒とイスラム教徒は協調し7世紀以上にわたって、中世西欧の最盛期を作り出した。キリスト教ヨーロッパがそれに追いつくのに何世紀もかかるような。p178