1989年天安門のハンストの書

 この光まばゆい五月、われわれはハンストを行う。このもっとも美しい青春のときに、われわれは一切の生の美しさを後に残していかざるをえない。だが、なんと心残りで、不本意であることか!

 にも拘わらず、物価が高騰し、役人ブローカーが横行し、強権が掲げられ、官僚が汚職している状態に国家がたち至り、多くの志をもつ人々は海外へ流浪し、社会の治安が日増しに悪化している。この民族存亡の瀬戸際にあって、同胞たちよ、すべての良心ある同胞だちよ、どうかわれわれの呼びかけに耳を傾けてほしいI・

 国家はわれわれの国家であり、

 人民はわれわれの人民であり、

 政府はわれわれの政府である。

 われわれが叫ばずに、だれが叫ぶのか?

 われわれがやらずに、だれがやるのか?

 たとえわれわれの肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとってはまだ重すぎるとしても、それでも、われわれは行く。行かざるをえないのだ。歴史がわれわれにそう求めている!

 われわれのもっとも純潔な愛国の情が、われわれのもっとも優秀な無垢の魂が、「動乱」だと言われ、「下心がある」と言われ、「一部の人間に利用されている」と決めつけられた。

 われわれはすべての誠実な中国公民に請い願いたい。ひとりひとりの労働者、農民、兵士、市民、知識人、社会の著名人、政府の役人、警察官とわれわれに罪名を与えた人に請い願う。

 あなたがたの手を胸に当てて、良心に問いかけてみてほしい。われわれになんの罪があるのか? われわれは動乱なのか? われわれが授業をボイコットし、デモを行い、ハンストし、身を捧げるのは、いったいなんのためなのか? だが、われわれの感情は再三にわたって弄ばれた。われわれが飢えを忍んで真理を求めても軍警察に打ちのめされ、学生の代表がひざまずいて民主を求めても無視され、平等の対話を要求しても再三延期され、学生リーダーは身を危

険にさらしている……。

 われわれはどうしたらよいのだ?・

 民主は人生でもっとも崇高な生きる感情であり、自由は人が生まれながらにさずけられた権利だ。しかしこれらはわれわれ若い命と引き換えにしなければならないとは、これが中華民族の誇りなのか?

 ハンストはやむをえず行い、行わざるをえないのだ。

★ 生と死の間で、われわれは政府の顔つきを見てみたい。

★ 生と死の間で、われわれは人民の表情を探ってみたい。

★ 生と死の間で、われわれは民族の良心をはたいてみたい。

 われわれは死の覚悟をもって、生きるために闘う!

 しかし、われわれはまだ子供だ。まだ子供なのだ! 母なる中国よ、あなたの子供たちをしっかりと見つめてほしい! 飢えが無情にも彼らの青春をむしばみ、死がまさに近づくとき、あなたはまだ手をこまねいていられるのか?

 われわれは死にたくない。われわれはしっかりと生き抜きたい。

 なぜならわれわれはまさに人生でもっとも素晴らしい年齢なのだ。われわれは死にたくない。しっかり勉強したいのだ。祖国がいまだこのように貧困であるとき、われわれは祖国をおいて死ぬ理由はない。死は決してわれわれの求めるものではない!

 だが、ひとりの死か一部の人間の死で、さらに多くの人々がよりよく生きられ、祖国が繁栄するならば、われわれには生き長らえる権利がない。

 われわれが飢えるとき、父母よ、どうか悲しまないでほしい。われわれが命と決別するとき、おじさん、おばさん方、どうか心を痛めないでほしい。われわれの望みはただひとつ。それはあなたがたにより良く生きてほしいのだ。われわれの願いはただひとつ。どうか忘れないでほしい。われわれが求めるのは決して死ではないのだということを!民主は数人のことではなく、民主的事業も一世代で完成するものではないのだから。

 死が、もっとも広く永遠のこだまとなることを期待する!

 人将去矣 其言也善

 鳥将去矣 其鳴也哀

 (人のまさに去らんとするや、その言や善し。鳥のまさに去らんとするや、その鳴や哀し)

 さらば、仲間たち、お身体をお大切に! 死者と生者は等しく誠実である。

 さらば、愛しい人、お身体をお大切に! 心残りだけれども、別れを告げなければならない。

 さらば、父母よ! どうぞ許してください。子供は忠と孝を両立させることはできない。

 さらば、人民よ! このようなやむをえない方法で忠に報いることを許してほしい。

 われわれが命をかけて書いた誓いの言葉は、かならずや共和国の空を晴れ上がらすであろ

                              北京大学ハンスト団全学生

 *1

*1:p214-217 譚璐美『「天安門」十年の夢』isbn:4105297031 より

平和

いまある戦争の不在を絶対化してはならない。現在の国家バランスの中でも「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」はおおいに存在する危険性がありしたがってそれらと闘っていかなければならない。排外主義を排し平和を守り、よりよい平和をつくって行かなければならない。そう読めばよいと思った。

ケチは地球を救う

「人間の欲望の絶対量はたかが知れており、そう持っていたいとは思わないのだが、生産・所得と人間の価値とがつなげられていることによって、持つことの意味が肥大していくし、人はそれに下属することになる。」*1

その通りだと思う。例えばステーキ食べるにしても一人で2枚食べればせいぜいだ。旨い魚を食いたければ産地まで行けば倍もしない値段で良いのが食える。車はコンパクトカーの方が運転しやすいので楽だ。それ以上のものに「ステータス」とやらを感じるという文化によって辛うじて支えられているにすぎない。百チャンネルもあるテレビを契約したって一体何チャンネル見れるというのだ。パソコンも十万円ほど出せばしたいことは全て出来るようになった。消費が更新しないのも無理はない。一方でホームレスはどんどん死んでいく。分配は可能だから「してあげる」のではなく、「することに決めてしまう」のが良い。と立岩は言っている。

*1:p148『自由の平等』

デモとか好きなわけじゃないが

「私にはテロと戦う覚悟など一切ありません。万一、わたしの家族や親友がテロの犠牲になったらどんなことがあっても、小泉さんあなたに復讐します。イラク戦争はテロリズムの危険を増大させるだけだと、最初から分かっていたのに、あえて支持したのは小泉さんの責任ですから。」

http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/tentoHP-topB.htm

反戦ビラ入れで起訴、糾弾! 3月19日付で、反戦ビラ入れで弾圧を受けた3名の逮捕者が全員起訴されました。

野原でも言及したhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20040228

上記の件で、3人とも起訴というのはさすがにびっくり!! 日本はこのままいくと表現の自由とか政治活動の自由とかひょっとすると、数年でなくなる可能性もあります。皆さんも声をあげてください。

はい、デモに行って声をあげてきました。

「自己責任」論批判

http://www1.jca.apc.org/aml/200404/38896.html に小倉利丸さんからの「自己責任論」批判がでています。2ちゃんねらーに悪のりした形で、政府や一部マスコミは「自己責任」論を唱えている。要するにこれは、ヴォランティアやジャーナリストを「戦争遂行」という目的に対するノイズとしてまずもって捉える、という戦争主義の言説である。例としては、「自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに、大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題」(読売社説)など。

一部引用します。

わたしたちは、イラクにおける人質事件以降、政府および一部のマスコミが今回の人質事件の原因を危険なイラクに出向いた被害者たちやその家族にあると批判しはじめていることに大きな憤りを感じています。このような「自己責任論」による世論形成が、人命を軽視した安易な武力行使にむしびつき、今後のNGOなどによる海外での活動を大きく制約しかねないという危機感を大変強く持っています。政府や一部マスコミの主張する自己責任論は間違っています。

ところでわたしは自衛隊員が死んでもそれは自己責任だから国民は悼む必要はない、と主張している。自衛隊派兵は合法性の元に行われた。しかし非戦闘地域が無くなった今活動を続けるのは、違法である。*1また、その法律自体正当性が疑わしいものであって、今回の派兵には正義は存在しない。正義に沿わない職務遂行は形の上で「公務」であるだけだ。

海外における邦人保護について、彼/彼女が戦争遂行に沿わない行為を取っているときに差別的取り扱いをすることには反対である。

*1:「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を 通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。 テロ対策特別措置法と間違えていた。

安田、渡辺インタビュー

いまさらですが、安田、渡辺両氏のインタビュービデオをみた。何げなく見始めたら実は約1時間もある長いもの。見応えがあった。二人が自然体で、あったこと感じたことをしゃべっていて良かった。渡辺氏は「反日で何が悪い!」と発言。わたしのごとき“あいまいな反日派”にとっては励まされる発言だった。

○安田純平さんと渡辺修孝さんの27日の外国特派員協会の会見の映像(ノーカット版)

http://www.videonews.com/asx/fccj/042704_detainee_300.asx

人質航空運賃裁判

http://www.mkimpo.com/diary/2004/wattan_fund.html

「 5月13日、外務省邦人保護課は、渡辺修孝さんに対し今回の「拉致・拘束」に関して下記のような請求をしてきました。

1、バグダッド―アンマン間の航空運賃165ドル                

2、3、(略) 総計229ドル13セントを至急支払え。」

この渡辺修孝さんの支払い拒否と提訴を支持し、裁判を支援する意思を表明しておきます。

重慶~~~ヒロシマ

今日は59年目の原爆記念日である。

朝日新聞の社説は、ヒロシマに並べて、ドレスデン、重慶などへの空爆を取り上げている。

「こうした無差別爆撃は、20世紀の戦争の非人道性のもっとも分かりやすい象徴となった。先例となったのは、スペイン内戦中の37年に独軍機が行ったゲルニカ攻撃であり、日本軍機が38年から中国の重慶に対して繰り返した大空爆だった。それらがドレスデンへ、東京大空襲へとつながり、結局、広島と長崎への原爆投下へ行き着く。」朝日新聞8/6

東京広島長崎という日本人の被害に対しその前史として、ゲルニカ、重慶、ドレスデンを取り上げたのは世界史の広がりに対しより適切な表現だと一応は評価できる。しかしカート・ヴォネガットのファンなら、彼が口にするのを何とか避けようとする身振りによってしか語れなかった<ドレスデン>を知っている。ドレスデンが「分かりやすい」という形容詞とともに叙述されることに異和感をいだくだろう。さらにこの文章はドレスデンの聖母教会の金の十字架の輝きの記述から始まり、20行ほどドレスデンについて書かれている。それに対し、重慶への言及は26字だけだ。重慶はヒロシマのように日本人に広く知られているわけではない。ここでのドレスデンと重慶の比率のアンバランスは何を意味しているか?そこには、例えばユダヤ人少女アンネの悲劇は日本人に広く知られているが、それに比すべき中国人や朝鮮人の物語は皆無であるといった言説分布と同じエピステーメが存在している。日本のインテリは基本的には欧米インテリの口まねをしているだけなのだ。アンネなど日本人には関係ない、とあえて放言しておこう。

2年前から重慶の被害者たちとヒロシマとの交流は始まっているようだ。下記urlに3人の方の証言が載っている。

http://www.anti731saikinsen.net/kanren/jukei/index.html

長いが「  王孝詢氏のメッセージ  」をそのままコピ&ペーストします。

日本軍の爆撃機が重慶を爆撃することに関するいくつかの問題

            王孝詢

   一 日本軍による重慶爆撃の情況

 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本侵略軍は9000機余りの爆撃機を出撃させ、重慶に対して5年間にわたり爆撃を続けた。歴史上これは「重慶大爆撃」と呼ばれている。

当時の中国国民政府の記録によると、日本軍の爆撃により、11,889人の重慶市民が殺され、14,100人の重慶市民が負傷し、壊された家屋は3万軒余りである。他の財産の損失は数えきれない。

 「重慶大爆撃」の中でも、1939年5月3日、5月4日の爆撃及び1941年の六・五隧道虐殺事件は全世界を驚かせた。 1939年5月3日の昼、日本海軍航空隊の第一空襲部隊に属する36機の中型の爆撃機は、重慶中心部の人家が密集した商業地域に対し、冷酷な無差別爆撃を加えた。爆弾98発と焼夷弾68発を投下し、下半城の19街路の町並みは廃墟になり、主城の41街路の町並みは火の海となってしまった。爆撃は1時間かけて行われ、673人が死亡し、350人が負傷し、爆撃や火事で壊された家屋は1,068軒である。

 1939年5月4日の午後6時、日本海軍航空隊の爆撃機27機は再度重慶市の中心部を1時間以上かけて爆撃した。爆弾78発と焼夷弾48発を投下し、上半城の38街路の町並みが爆撃され、最もにぎやかな10街路の町並みが全壊され、3,318人が殺され、1,973人が負傷し、3,803軒の家屋が壊された。この爆撃による死傷者数は、一回の爆撃による死傷者数という点においては、第二次世界大戦中最高記録である。

 1941年6月5日夜の6時18分から11時27分にかけて、日本軍の爆撃機は3陣に分かれて順番に重慶を爆撃した。5時間もかけて行われたこの爆撃によって、重慶市中心部のトンネルに難を逃れようとした市民1,000人が窒息して死亡するという、非常に凄惨な結果がもたらされた。

   二 日本が重慶を爆撃した目的及び戦術の変化

  1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事件をきっかけに、全面的に中国を侵略する戦争を発動した。盧溝橋事件から広州を占領した1938年10月25 日までの15か月間、日本軍は中国に100万の兵力を投入し、中国の13省の340都市及び100万平方キロメートルの土地を侵略して占拠した。

ところが1938年の末、日本侵略軍は44.7万人が死傷し、軍事力は大いに弱められた。軍事費の支出が大幅に増えたため、日本人民の生活は日増しに悪化して、日本国内では戦争に反対する声も高まった。

一方、中国の抗日勢力は叩き潰されてなかった。100万余りの中国の正規軍は、武漢の周りの戦区に駐屯し、直接に華北、華中の日本侵略軍に脅威を与えた。国民政府が支配した西南と西北地域には、日本軍と対抗する実力があった。中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、抗日根拠地に遊撃戦を行い、正面戦場と合わせて、日本軍を挟撃する状態になった。日本軍は広州を占領した後は、大規模な戦略進攻は困難になり、抗日戦争は対峙する段階に入った。

 1937年11月、国民政府は最後まで抗日戦争をするため、重慶に遷都することを決め、公に発表した。その後、重慶は抗日戦争時期の中国の政治、経済、軍事及び文化の中心となった。中国人民の抗日意欲をたたきつぶし、国民政府を投降に追い込み、中国を滅亡させて「大東亜共栄圏」を打ち立てるため、日本侵略軍は重慶を最も重要な攻撃目標として、1938年から重慶に対して戦略爆撃を開始した。

 1938年に日本軍が重慶に対して行った爆撃は、長距離で試験的な攻撃であったが、1939年に入ると爆撃は頻繁に行われるようになり、かつ野蛮な大量虐殺の段階に入った。その特徴は以下の通りである。第一に、日本軍は賑やかな市区を爆撃するだけではなく、近郊ひいては遠い郊外も爆撃の目標にした。第二に、無差別爆撃を実施した。人民の住宅、学校、工場、医院、外国の駐在機関及び大使館も爆撃された。第三に、昼の爆撃に加えてさらに、夜間においても不定時に爆撃する戦術をとって、かき乱す時間と爆撃する時間を伸ばし、重慶を常に不安定な状態においた。

 1940年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦争が勃発した。日本は、南に進攻して、東南アジアと太平洋にあるイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの国の植民地を奪う好機が来たと考え、中国に対する侵略戦争を、出来るだけ早く終わらせようと考えた。南へ進攻する兵力をつくるため、日本は「101号作戦」計画を立て、重慶に対して1939年より更に激しい、広範囲にわたる爆撃を開始した。

数で比較してみると、前年の1939年には日本軍は59陣で809機の爆撃機を出撃させ30回の爆撃、2,213発の爆弾投下であったのに対し、1940 年には日本軍は191陣で4727機の爆撃機を出撃させ80回の爆撃、投下された爆弾は9553発のもの数になった。重慶の市区だけではなく、遠い郊外地域も大規模な爆撃を受けた。1939年の爆撃は日本軍の攻撃が無差別に行われていることを露呈したが、日本は外部に対して「重慶の軍事、政治拠点しか爆撃しない」と揚言していた。

1940年には、日本がイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの国の駐在機関と大使館のため確定した「安全区」以外、日本軍の爆撃機は重慶のすべての地区と施設に対してさらに残虐、野蛮な無差別爆撃をおこなった。しかも破壊力がとても強く、新しい凝固ガソリン弾と数多くの焼夷弾を使った。その爆弾は極めて大きい被害をもたらし、爆撃によって、1939年に4,437人が死亡し、4,979人が重傷し、4,827軒の家屋が壊された。1940年、 4,232人が死亡し、5,411人が重傷し、6,955軒の家屋が壊された。この2年間の死傷の人数及び壊された建物の数の差がそれほど大きくないのは、1940年に重慶市区の防空意識と防空施設が極めて改善されたことに起因する。

 1941年、日本は南に進攻する政策を推進し、太平洋戦争開始の準備をするため、対中国の戦争をなるべく早く終わらせることが日本の当面の急務になった。そのため、1940年の「101号作戦」計画の後には、日本軍はさらに1941年7月の中旬に、「102号作戦」計画を立てた。

この計画によると、5月から7月にかけて、日本海軍の第22航空隊は、重慶に対して20回余りの爆撃を行った。7月中旬に日本海軍の第11航空隊、8月の初めに日本陸軍の航空隊第60戦闘隊は相次いで重慶に対する攻撃に参入した。

この1年間の爆撃には、一つのあからさまな特徴がある。日本軍は疲労爆撃戦術を採用したという点である。大量の兵力で、一回限りの爆撃ではなく、少量の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、あるいは何日間も持続して空襲した。そのため、重慶の市民は連続の空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまった。正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。

6月14日から16日にかけて、28日から30日にかけて、7月4日から8日にかけて、27日から30日にかけて、4回にわたって連続して爆撃があった。

8月8日から14日にかけて、連続して7昼夜の爆撃があり、毎回の爆撃の間に6時間の間隔をとった。

8月10日から13日にかけて、重慶市区では13回にわたり空襲警告が鳴り響き、警告の時間は96時間に達した。

また、日本軍は無差別爆撃の範囲を拡大し、日本軍が確定した「安全区」内のイギリス、アメリカ、フランスなどの国の大使館も何回も爆撃を受けた。全世界を驚かした六・五大隧道虐殺事件は、まさに疲労爆撃という形で引き起こされた。

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した。日本は太平洋戦争に参加したこと、中国の空軍と防空力が強められたこと、米国の志願航空隊すなわち陳納徳将軍が率いた「飛虎隊」が対日作戦に投入されたなどの結果、日本は中国戦場の制空権を失った。そのため、1942年、1943年に入ると、日本軍は偵察機を派遣し、重慶及び周辺地区の上空に入って、偵察しかできなくなった。この2年の間には、1943年8月23日に一回の重慶に対する空襲があった。151発の爆弾が投下され、21人が死亡し、18人が重傷し、99軒の建物が壊された。

   三 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪

 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪は三つある。

 1、平和を破壊する罪、すなわち他国を侵略する罪である。

 2、戦争法規と慣例に違反した罪、すなわち重慶を爆撃した時に国際法に反する手段をとった罪、及び平民の生命と財産を害する罪である。

1907年のハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則の第27条は以下のように定めている:

「包囲攻撃する時に、宗教、技芸、学校及び慈善事業に関する建物、医院及び収容所などは目標にしてはいけない」

日本が加入した1929年の「海軍条約」も同様に定めている。

「平民に恐怖を感じさせ、非軍事的性質の個人財産を害し、あるいは非戦闘員を傷害するなどを目的とする空襲を禁止する」

言うまでもなく、日本軍が重慶で行った無差別爆撃は、国際法と国際慣例に反したものである。ここで指摘しなければならないのは、日本が重慶で行った無差別爆撃は、「過失」ではなく、故意に国際法と国際慣例を踏みにじった爆撃だということである。   1937年11月に制定した日本の「航空部隊使用法」 103条はこのように強調する

「……もっとも重要なのは直接に住民を空襲し、敵に極めて大きい恐怖をもたらし、敵の意志を打ち砕くことである」。

   1939年1月21日に平沼首相は議会でこのように演説した

「中国人が日本の意向を理解してもらいたい。そうでなければ、彼らを消滅する以外ほかの方法はない」。

1939年7月24日、中国侵略派遣軍の参謀長が軍事態勢についてこのように陸相坂垣将軍に提案した。

「恐怖心をつくって敵の軍隊と人民を混乱させるために、空軍は後方の戦略拠点を空襲するべきである」。

3、人道違反罪日本軍が重慶を爆撃した際に、細菌爆弾を使用した事実については、当時の新聞にも掲載された。

2001 年4月、日本軍による細菌戦によって被害を受けた中国人が日本政府に賠償請求をした。これを支援するため、日本弁護団の構成員である一瀬敬一郎氏、731 部隊資料編纂会の奈須重雄氏等が重慶を訪れ、調査を行った。彼らは重慶の梁平県で当時の目撃者と罹災者の遺族を訪ねて調査した。その結果、日本が重慶に細菌爆弾を投下したことが明らかになった。(以上)