楠田一郎 黒い歌Ⅰ を紹介する

楠田一郎(1911〜1938)という詩人がいる。
『楠田一郎詩集』(1977年蜘蛛出版社)という本をたまたま持っていた。
冒頭に「黒い歌」連作Ⅰ〜Ⅷがあり、これが代表作だろう。Ⅰを紹介する。

黒い歌Ⅰ

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死體がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戰時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色――死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たわり
木の影で墓屋が睡ってゐた
鳥が射殺されてそのまゝ腐った

  おなじく

眠っていた――一羽の鳥が啼いた
かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小徑にかくれた夜を太陽の如く
待ってゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた晴天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたとき――
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……

(以上)
参考:
詩誌『新領土』での友人だった大島博光氏は、つぎのような追悼詩を残している。

楠田一郎への悲歌
   ──彼は地球から出て行った
     歩むために飢えないために──<黒い歌>
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-827.html

さて、ちょっとは感想を書かないと。
橋の下を、死體がいくつとなく流されてゆく、というのはこれが書かれた直前に始まった、日中戦争以後約8年間の巨大な戦争において何度も繰り返される風景であろう。
しかし、この詩においては死體はそのような事実のレベルで書かれているわけではない。
天使の夢やボール紙の悲しみが智識人の詩学や実験への熱意が膨張する。そのような自己の営みの〈本質〉を名指すために、楠田は「溺死體」「死屍」と言った言葉を持ってくる。
ただここで楠田が言っているのは、「遊んでないで現実を直視しなさい」といったお説教とは正反対のことだ。
「風のない森蔭を歩き雲のやうな夢に埋れ世界が哄笑し」といった「架空」を真剣に作ることは、すべてが死から見つめられることである。「よごれたジャンク船」といった形象を不可避に招き寄せることだ。
よごれたジャンク船がある中国の小川、そこでの銃撃戦などを一切楠田は見なかった。にも関わらず、「かぐわしい沐浴の中で美しい男が自殺した」という彼が書いた1行は、どうしてもそのようなイメージを引きずり出してしまった。興味深い。

吉田松蔭に価値はあるか

吉田松陰は尊敬されるべきである。と言いたいが、勉強不足で説明するのは難しい。野口武彦の『王道と革命の間』の松蔭の章を読みながら、理解できたところを簡単に紹介したい。

「わが国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、かふ(闔)国の人はかふ国の為に死し、かふ藩の人はかふ藩の為に死し、臣は君の為に死し、子は父の為に死するの志確固たらば、何ぞ諸蕃を畏れんや」p256(闔国とは全国という意味らしい。某国という意味かと思っていた。)ここで「大義」があくまで普遍性に向けて開かれたものであったと、考えていくことができるのではないか。

「この「国体」概念は、明治維新以後の時代から逆投影されて極度に理念化されたそれとは、かならずしも同日には論じられない性格を持っていたように思われる。」と野口は書く。p256 昭和十年代の劣悪な国体概念を砂糖水に垂らしたような現在のネトウヨ的「国体」理解と混同することは、なおさらできないだろう。

吉田松蔭(1830年〜1859年)。彼が維新の8年も前に死んでいる点を私たちは勘定に入れなければならない。忠誠・政治の中心点を藩・幕府から天皇に転換するだけでなく、それが民生の全てを支えうる価値の総括者でもあるという「国体論」を、彼は創出した。松蔭が「狂者」たる己の実存を掛けて果たした転換によって、時代は変わり多少軽薄な変革者たち(?)により維新は果たされる。
さて、その国体論は、大逆事件を経て昭和10年代に完成する全体主義「国体論」と、表面上酷似するが故に、混同させられてしまうこともある。
しかし、忠誠対象を天皇に転換するためだけにも、おおきな思想的力量が必要であったことを全体主義的感じをあたえる理解しなければならない。
また、民を愛するという仁政の徹底においてしか、国のために死すことはできない、と考えた点は重要であろう。

松蔭の思想は「事実上の教え」としての孟子に基づく。
孟子の思想は、「善く戦う」などより「仁政」を重んじるところにある。「親を親しみ、賢を賢とし、民を愛し士を養うの政」を行なうことである。
「古今兵を論じる者、皆利を本とし、仁義如何を顧みず。今時に至りその弊極まれり。その実は、仁義ほど利なるものはなく、また利ほど不仁不義にして不利なるものはなし。」p273
すなわち、民に対して仁政を施すことが強国化につながるという孟子の論は、孟子が生きていた戦乱の時代のリアリズムにおいてなされたものだというのが、松蔭の「王道論」である。だから、それはすなわち幕末の危機にも直接適用できるとする。
(おそらく松蔭が今生きていれば、新自由主義による労働分配率の減少を鋭く捉えて
渾身で糾弾したに違いない。)

「「天朝を憂ふる」という一語に要約される、皇統への全身的な忠誠心情と決断主義的論理との複合」と、野口は松蔭の思想を要約する。この限りで、戦後において危険思想とされるしかないことになろう。しかし、天皇も国家主義も平和(戦争)も何一つわたしたちは処理しきれていない、そのことの危機が顕在化している以上、わたしたちは松蔭をゴミ箱に入れる権利はないのだ。

余傑『劉暁波伝』を読む

1,

80年代中期「文革」の大災厄を経た中国では万物がよみがえる兆しが現れ、各種の文学・文化思潮が次々に起こった。哲学ブーム、美学ブーム、主体性討論、国民性批判、『今天』を中心とする朦朧詩、白洋淀派、「黄色い大地」や「赤い高粱」など第五世代の映画、西部の風、尋根(ルーツ)文学、実験小説、星星画展に誕生を促された現代芸術、崔健のロック「一無所有」・・・

 余傑はこう書いている。p99
私はほとんど知らないが、想像することはできる。人々は自らの自由を自ら確認し展開してことができることを知り、喜び、世界が変わっていくことを信じた。おそらくどのような人にでもそうした高揚期というものはあるはずだ。そのとき人は自由であり恐れを知らない。後になって振り返れば(かんちがい)だったかもしれないが、自由という名のかんちがいが人間の本質に属することもまた確かなのだ。

このようないわばシュトゥルム・ウント・ドラング中に、劉暁波ははなばなしく登場した。しかし彼は新時期文学に冷水を浴びせるような形で、登場したのだ。
「中国の作家は相変わらず個性の意識に乏しい。この無個性の深層にあるのは生命力の萎縮、生命力の理性化、教条化であり、中国文化の発展は一貫して理性により感性の生命を束縛し、道徳的規範で個性の意識の自由発展に枠をはめてきた」と彼は語った。

彼は後に20世紀末の中国政府のあり方に異議申し立てをすることになるが、彼の思想は決して権力の批判にとどまるものではない。中国数千年の歴史が真に権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想、思想家を生み出し得なかったことへの深い反省が常に彼にはあった。

2,
1988年8月から三ヶ月間、劉暁波はオスロ大学に招聘された。次いでハワイ大学、コロンビア大学で海外の学者との交流を楽しんだ。89年4月15日胡耀邦が死去し、民主化の動きが高まった。劉暁波は最初海外からこの動きに参加しようと、「改革建言」「全中国の大学生に宛てた公開書簡」などを公表した。4月26日、彼は危険に身を晒すことになるから今は帰国するな、という友人たちの忠告に逆らって帰国した。権力との関係において敗北しながらその敗北を直視せず自己を偽りそれを言葉で飾り立ててしまう、中国インテリの伝統を、自分で断ち切らなければならないという思いが、劉暁波には強かった。
それまで劉は「個人主義と超人哲学を尊び、群衆を見下し、社会は烏合の衆だ(p141)」とみなしているきらいがあった。
天安門広場の学生たちの運動に、まさに情況の核心に劉はつっこんで行き、そのなかでそうした個人主義も訂正されていく。

5月13日、学生たちはハンストを初めた。
5月19日、戒厳令を敷くことに反対だった趙紫陽総書記は、広場に現われ、学生たちとの対話しようとした。しかしその時点でもはや、趙は権力を失っていたようだ。5月20日戒厳令が下される。
追い詰められた劉暁波たちは、ハンスト宣言を出し、ハンストに入る。「李鵬政府が非理性的で専制的な軍事管制を以て学生の愛国民主運動を鎮圧することに抗議する。また、一中国知識人として、この行動を以て、ただ口先を動かすだけで、手を動かさないという軟弱性に終止符を打とうとする。」ここでも劉は、知識人としての自己否定(変革)に大きな比重を置いていたことが分かる。

6月3日、戒厳部隊は、西、南、東三方から広場に向かって進軍し、バリケードや投石で阻止しようとする市民たちと衝突し、流血の惨事が起こる。
緊張が高まる広場で、一部銃で武装しようとしていた労働者クループがいたが、劉らは説得し武装解除に応じさせ、武器を叩き潰した。そして次に、劉らは広場を死守しようとする学生らを説得し、ついに学生らは撤退することになった。広場での流血の惨事は避けられたが、周辺ではすでに多量の血が流されてしまっていた。6月4日朝になっていた。
ここで、彼の人生の前半は終わる。

3,
流血のさなかよろよろと広場を出た劉暁波は、数日後捕らえられ、秦城監獄に入れられる。
劉暁波は反省文を書き、91年1月獄を出る。知識人や学生リーダーに対する罰は比較的軽かったが、一般市民の「暴徒」は死刑や重罪になるものも多かった。反省文について、「ぼくは個人の尊厳を売り渡したと同時に、六・四で冤罪を被った死者の霊魂と流血を売り渡した。」と劉は書いた。
多くの血が流され、それを証し立てなければならない立場に劉は置かれたようだった。

1991年劉暁波はオーストラリアから招聘を受け、当局は出国を許可した。当局は劉が亡命してくれたほうが厄介払いができると考えたらしい。しかし、「六・四」流血と民主化の中断の場所に劉は戻ってきた。「四六時中の監視、尾行、嫌がらせ、さらに定期的な「談話(事情聴取)」、召喚、軟禁、家宅捜索(p223)」を覚悟の上で。
彼は毎年、6月には六四の死者を追悼し続けた。詩集『独り大海原に向かって』(書肆侃侃房)には十九もの鎮魂歌が収められている。
二千年代に入ると彼はインターネットを始め、海外の友人と話し合ったり、海外で文章を発表したりすることが比較的容易にできるようになった。
2008年、〇八憲章の起草と署名の中心人物になった。自由・平等・共和・民主・憲政と言った理念に基づき、国家の政治制度、公民の権利、社会的発展についての具体的主張を提起したもの。最初の署名者は三百三人だったが、彼らの思想がすべて一致していたわけではなく、小異を残して大同につき、公民社会を作っていくための基盤として、提起されたものだ。
ところが、当局の警戒と弾圧は劉たちが予想したより厳しかった。2008.12.8警察官が「国家転覆扇動罪の嫌疑」で彼を連れ去った。そして、結局その後、彼は死ぬまで釈放されなかったのだ。なんという非道!!そして隣国にいて、幾分かの関心をこの事件に向けていたものとして、日本国内でこの問題への関心と劉暁波への同情をもり立てることができなかったことを、とても残念に思う。

劉暁波は世界のすべてを思索しようとする大柄な思想家だった。彼は西欧的な自由や制度だけを求めた思想家だったわけではない。彼は若くして荘子や司馬遷、屈原などと深く対話した。そして東洋において真の自由を得るためにはどうしていったらよいかを、素直に実践していった。
現在、六四から約30年、中国では経済的な驚くべき発展に伴い、習近平独裁体制が完成しようとしているかに見える。しかしそれは歴史の一面に過ぎず、劉暁波を引き継ぐ自由と民主主義への模索が、中断されることはないだろう。

六四天安門事件犠牲者への鎮魂歌

劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の出版社からこの3月に、刊行された。劉霞の詩集『毒薬』と同時出版になる。訳編者二人の愛情と熱意のたまものであろう。なお、書肆侃侃房は先に劉暁波の詩集『牢屋の鼠』も刊行しているので、彼の詩集は2冊目になる。
以下、その書評。

1,1989年6月4日、中国民主化を求める天安門広場を中心とした学生たちに対して戒厳部隊が襲いかかり、多くの死傷者が出た。劉暁波はその弾圧を中心部で体験した。

あんなにうねり逆巻いていた人々の流れが消えていく
ゆっくりと干あがる河のように
両岸の風景が石の塊に変わったとき
一人ひとりの数えきれない喉が恐怖で窒息し
砲煙に震えあがり散り散りになった
殺し屋の鉄かぶとだけがきらきら光る p7

その場に残ったのは、数個の鉄かぶとだけだ。

ぼくはもう旗が見分けられなくなった
旗はいたいけな子どもみたいだ
母親の死体にすがりついて、泣き叫ぶ
「ねえ、おうちに帰ろう よー! p7

散乱する鉄かぶとの近くに、崩れ落ちた旗が小さな膨らみとして見捨てられている。劉暁波はそこに「いたいけな子ども」を幻視してしまう。
子どもは母親にすがりついて泣き叫ぶのだが、応答はない。なぜなら母親はすでに死んでいるのだから。
六四という巨大な群衆運動が死滅したとき、「ぼくはもう旗が見分けられなくなった」「ぼくはもう昼と夜の区別がなくなる」。ぼくは母をなくしたいたいけな子どもに還元されてしまう。「すべてをなくした」。
「いのちは壊れ、深く沈んで/かすかなこだまさえ聞こえない」

「生きている限り、死のことはわからない」
一周年追悼、詩人の自己は「いたいけな子ども」になってしまったのか。そこにはただ「殺し屋の鉄かぶと」があるだけだった。

2,一年後、「ぼくは生きていて/過不足ない悪評もあびせられる」と劉暁波は書く。ぼくは生きているが君は、「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった」。

花を一束と詩を一篇ささげるために
十七歳のほほえみの前に行く
ぼくにはわかっている
十七歳は何の怨みも抱いてないと p18

「十七歳は路で倒れ/その路はそれきり消えてしまった/泥土に永眠する十七歳は/書物のように安らかだ/十七歳は生を受けた現世に/何の未練もなかったろう/純白で傷のない年齢の他には」

劉暁波は彼をことさらに「何の怨みも抱いてない」「何の未練もない」と形容する。彼はただ17歳の一人の人間存在であった。そしてそれが中断された。死者に怨みを背負わすことはできない。すべては生者であるわたしたちが引き受けるしかないのだ。
劉暁波ができることが、「花を一束と詩を一篇ささげる」ことだけであったとしても。

3,

夕暮れ、すぐ近くに
血まみれの死体がひとかたまりになって
横たわっていた 撃ち抜かれて
大きな穴の開いた頭は
黒々として血なまぐさい
板の木目に染み込んだ
つぶれた豆腐のような白いもの
あれは何だ p95

十二周年追悼と副題されたこの詩は、奇妙なことに死体のそばにたたまたあった一枚の板の視点から書かれている。

見向きもされない一枚の板だけど
轢き殺そうとする鋼鉄のには歯が立たないけど
君を助けたい
君が気絶して倒れる寸前でも、死体になっても p97

君を助けたいという非望の直接性と不可能性を見事に作品化している。

4,

あの日に起こったことは
一種のいつまでも治らない病だ
祖先が近親相姦をつづけ
代々遺伝して伝わってきたものが
皇帝の精子の中に潜伏し
それが命運となった P58

この詩行は、日本人が読むとちょっと違和感がある。「祖先が近親相姦をつづけ/代々遺伝して伝わってきたものが」と言えば、万世一系の天皇をいただく日本の、アキヒト氏の精子にずっと濃く含まれているはずだ。「この民族の崩れた健康は/五千年かけても治せはしない」とも書く。しかし、中国は日本より大きいし、それが一つの民族であるというのは中国共産党系のデマゴギーでしかない。(中国共産党政権は、「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。)

どうして、あの日、腕を
夜半から黎明まで
真紅から青黒くなるまで振り上げたのに
我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか p61

それにしても日本人は、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」と問いを立てたことは一度もない。
天皇制を糾弾する声を上げる人は居るが、自分が天皇を全面肯定した憲法1条の下に戦後の繁栄を享受したことを抑えた上で批判するのでなければ無効であろう。
全共闘運動から50年、彼らの(わたしたちの)「自己否定」が嘘だったのでなければ、「どうして、我々は人殺しの足もとに跪いてしまったのか?」という問いを自ら引き受けた上で、別の答えを出していくことが必要である。

「我が民族は/この宿病ゆえにすべてをコントロールしてしまえる」と劉暁波は言う。わが民族が免れ難い欺瞞性、恥知らずをその本質に持つという発想はもちろん、修辞でなければ錯誤にすぎない。
それが本質であるなら脱却することは不可能なわけであり、指摘しても無駄だということになる。劉暁波は既に獄中で死に、つまりそれは殺されたと同じであり、少なくとも彼の死まではこの本質は貫かれた。死後10年後、20年後になれば、アリバイ的な名誉回復が行われるかもしれない。それがアリバイ的なものでしかなければやはり「本質」は生き延びていることになろう。
現実がどうあれこの本質規定は有害無益なものだと私には思える。しかし実践的解決がどんな形であれもたらされることがないなら、わたしの主張もあまり意味はないのかもしれない。

なお、この詩集は、「天安門事件犠牲者への鎮魂歌」、「獄中から霞へ」、長編詩「独り大海原に向かって」の三部から成る。ここでは鎮魂歌にしか言及できなかった。

幽閉された詩人 劉霞

劉霞の詩集『毒薬』が劉燕子・田島安江訳編で、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という福岡の小出版社からこの3月に、刊行された。
以下、その書評。

ある朝、眠りから醒めると/暗い影が夢から現れたようにゆっくりと動き/さきほどから私の視線をさえぎる/時はながれ、季節はめぐっても/あの、先がみえぬほど長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない

一脚の椅子と一本の煙管(パイプ)/記憶の中であなたを待ち続けても徒労だけ/誰も街角を歩くあなたを見たりしない/ひとみの中を小鳥が飛び/葉の落ちた木からオリーブの実が一粒落ちる [1] 同書 p58

劉霞、劉暁波の妻。
中国は共和国である。その民主主義をもう一歩進めようと劉暁波は2008年「零八憲章」を起草した。暁波はテロリストでもなんでもなく教科書的民主主義を要求しただけだが、中国共産党は許さず、囚われた。欧州の民主主義者たちは、彼の自由を求めて彼にノーベル賞を授与した。獄中の暁波は授賞式に出られないので劉霞が代理出席すべきところ、中国当局はそれも許さず、逆に劉霞の発言一切を徹底的に抑圧した。彼女は劉暁波と違い、どんな罪にも問われていないしたがって、共和国公民として海外渡航の自由を含む自由を持っているはずで、そのことは当局も公式に認めている。しかし実際には彼女は自分の友人にも会えず、近所のマーケットにも自由に行くことができず、徹底的に幽閉されている。暁波は去年7月亡くなったが、彼の死後も劉霞に対する事実上の徹底的な幽閉は続いている。

冒頭に引用した詩は、1997年に書かれた「黒い影 ―暁波へ―」。「1996年10月8日、早朝、二人が寝ているとドアがノックされ、警官が押し入り、劉暁波は妻に別れを告げる間もなく連行された(三度目の投獄)」と訳者注が付いている。20年以上、暁波がずっと囚われていたわけではない。またこの詩を書いた時点でそれに近いことが起こるなど予想もしなかったはずだ。にも関わらず、彼女の二十数年はおよそ「長くて残忍な朝が/ずっとつづき終わることがない」と要約できる。
そこにあるのは「ひとみの中」で飛んでいる小鳥である。人は自由であるとき自由を自覚できない。だからといって自由でなければ自由を自覚できるわけでもない。しかし劉霞は、悲しみのなかで、小鳥=自由を獲得し、小鳥とともに生き続けた。

劉霞は大丈夫なのか?彼女は劉暁波のことしか考えていなかった。また幽閉されすべての友人との関係を断たれ、他の事を考える自由を奪われた。であるのに、去年7月劉暁波は死んだ。劉霞はどうなってしまうのだろう。
詩集を読めばその答えは分かる。彼女は大丈夫だ。生きながら琥珀に閉じ込められた美しい小さな蛾のような劉霞は。

彼女の世界は不在と拒否で特徴づけられている。

あちらにもこちらにも空いている椅子/こんなにたくさんの空いている椅子が/世界のあちこちにあるけれど[2] 同書 p94

空いている椅子があれば人が座っている椅子もあるはずだが、彼女は「空いている椅子」だけに魅せられる。ある椅子に座ると「凍えるほどかじかんでしまい/身動きできなくなってしまう」 劉暁波の不在だけが彼女のテーマである以上、それはしかたがないことだ。

うちのドアをノックしないで/もう決してしないで/いや、するな/ /
うちには人がいない/私たちはただの人形/蒼穹の手に引かれる人形/いまはぐっすり眠っている/ / [3] 同書 p102

この詩は1998年11月とあるが、劉暁波は帰って来ているようだ。しかし詩のトーンはほとんど変わらない。劉暁波もまた六四天安門事件の死者を背負った詩人で、そこから発する言葉は他人に届かない、そうである暁波と二人でいる幸せを沈黙に閉じ込めることを劉霞は選んだ。

カーテンの裏側で/数えきれないローソクが/真っ暗で突き刺すような寒風の中/粘り強く灯っている/わたしたちは亡霊とともに/灯火を手に声を押し殺して哭(な)く/ /
お願い、ノックする見知らぬ人よ/ここから立ち去って/私たちはまだ眠らなければならないの/睡眠によって力を蓄えるために/大きなカーテンを開くとき/わたしたちは何も畏れずに対峙する/あなたちといっしょに/拍手喝采なんてごめんだから [4] 同書 p105

劉霞の拒絶は、「いまだけ」のものだ。「真っ暗で突き刺すような寒風の中粘り強く灯っている数えきれないローソク」とともに、劉霞は生きている。余りにも長く続く「幽閉」状況に合わせて、文体を作ってきた劉霞は、いま挫折してはいない。もう少し幽閉状況が続いても、生き延び、表現し続け、私たちに新しい姿を見せてくれるだろう。

追記:劉霞に自由を!!
劉霞は何の法的根拠もなく一切の自由を奪われている(友人と話したり、手紙を書いたり、作品の感想を聞いたりできない)、零八憲章発表後(特にノーベル賞受賞以後)10年近く。これはまったく不当なことであり、中国当局は至急彼女に自由を与えるべきである。鬱状態に加えて心疾患も危惧されている。ところで、2018年4月2日に亡くなったウィニー・マンデラのことを、先日ある集会で出会った若い南アのアクティヴィストは、(わたしたちの)ママと呼び、深く追悼していた。ネルソン・マンデラが28年間獄中にあった時期、ウィニーがいわば代理として政治的に大きな活躍をしたのは広く知られている。劉霞は政治的志向がなくそうした活動をしたいとは思わないだろうが、一切の自由を奪うとは、中国国家は、アベルトヘイト国家を大きく下回る最低国家ということになる。

References

References
1 同書 p58
2 同書 p94
3 同書 p102
4 同書 p105

在米「歴史戦」敗北の総括について

(1)
『海を渡る「慰安婦」問題 ー右派の「歴史戦」を問うー』は、岩波書店から2016年に出た本だ。著者は山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミと、テッサさんを除けばツイッターでおなじみの論客。
そのわりに、きちんと紹介されていないかもしれない。今回、ある特定の意図をもって、第2章アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃(小山エミ)の部分を読んでみたい。

2010年アメリカのニュージャージー州パリセイズパークに「慰安婦」碑が建てられた。次にカリフォルニア州グレンデール市でも「慰安婦」碑が計画されたが、これには一部の日系人による反対運動が起こった。ロサンゼルスでのこの反対運動の中心にいたのは目良浩一という人。この運動に集まった人の多くは1990年前後以降に渡米した新一世と呼ばれる人びと。それに対して、大戦中の日系人収容政策についてアメリカ政府から謝罪と補償を求めて以前から運動をしていた日系人のグループは、「慰安婦」碑設置に賛成する立場を取るに至った。

日系人収容所問題と「慰安婦」問題はいくつかの共通点がある。ひとつは1980年から1990年始めという、戦後処理としては少し遅れて始まっている点。また、アメリカで当時日系人が大日本帝国の手先かもしれないと危険視された背景には人種的偏見があった。「慰安婦」問題の背景にも、韓国人、中国人その他への(非日本人への)人種的偏見があった。などだ。「あとからやってきた保守系日本人たちが、(略)日系人代表のようなふりをして大日本帝国を援護する運動を始めたことに日系人が反発するのは当然だった。(p45)」

2013年7月慰安婦像設立。2014年5月、青山繁晴は関西放送で「日本人のこどもたちが毎日毎日、ひどいいじめにあっていて」と発言した。そしてこれは週刊新潮、週間SPA!などでも取り上げられ広く流布した。しかしこの「イジメ」が実在するのかどうか?検証しても証拠は出てきていない。

「こうした「日本人いじめ」について現地の日系人団体に聞いてみたところ、そのような噂をきいたことすらない、との回答が得られた。」さらに「日系人団体の人たちと協力して、現地の警察・学校・教育委員会、その他さまざまな機関や民間団体に問い合わせたが、やはり何の相談も通報も報告されていなかった。」現地の地方紙や全国紙、さらに日本の全国紙の記者も何も発見できず。東京新聞が外務省に問い合わせた結果も同じ。
「「日本人いじめ」の実態は、その実在を主張する保守派の側ですらつかめていない。たとえば、日本から杉田水脈をはじめとする次世代の党(当時)の現職国会議員三名画グレンデール市を訪れ、いじめ被害を受けた児童の保護者との面談を希望したが、結局見つからずに面談することができなかった。」(p48)

青山繁晴及び週刊新潮、週間SPA!などが取り上げた「慰安婦像に起因する日本人児童いじめ」の存在は疑わしい。ほぼまちがいなくデマである。この点について、杉田水脈さんの現時点での判断をお聞きしたいものだ。

(2)
目良ら「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)がロサンゼルスの連邦地方裁判所でグレンデール「慰安婦」碑の撤去を求める裁判を起こした。藤岡信勝、山本優美子、加瀬英明らがメンバーだ。その主張の第一は、一自治体が「慰安婦」問題を取り上げるのは連邦政府だけが持っている外交権限を侵害するというもの。慰安婦についての歴史的事実については主張していない。また「日本人いじめ」などの具体的な被害の訴えもない。訴えは却下。次に州裁判所に訴えたが、「原告の訴えは「連邦主義と民主主義の根本的な原理に反するもの」だ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺するものだ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺する恫喝訴訟だと認定」された。

一方で連邦控訴裁判所に控訴したと、小山本に書いてあったので、GAHTのサイトを見ると次の文章を発見。
「結果は残念ながら、米国最高裁判所への申請が採択されずに、控訴裁判所の判決が最終判決となったために、目的を達成することが出来ませんでした。しかし、最高裁に申請書を提出した直後に、それまで冷淡であった日本政府が、我々を支援するアミカス・キュリエと称する「意見書」を提出して、我々の申請を熱情をもって支援しました。 gahtjp.org/?p=1846 」
負けたのは当然だが、なんと日本政府が支援の意見書を出したという。日本政府に抗議したい。

(3)サンフランシスコ市で「慰安婦」碑公聴会
反「慰安婦」碑勢力は、アメリカ内で盛んにイベントを開催している。しかし、米国人などに訴えかけるために英語で行われたものは、大きな抗議活動に迎えられるのが常で、成果を上げていない。(同書p52-56)

2015年から今度は、サンフランシスコ市で「慰安婦」碑設置の動きが出た。
GAHTの目良、幸福の科学の田口、セントラルワシントン大学の岡田ら、多くの在米日本人が市議会に押しかけ反対意見を述べた。他の町でなかったのは、ジャパンタウンの有力者のうち数人が反対にまわったこと。それは在サンフランシスコ日本領事館からの働きかけによる。また大阪市も姉妹都市としてさまざまな反対運動をした。公聴会が開かれ、多くの人が証言をした。賛成派は元「慰安婦」・李容洙、日系人その他のアジア系アメリカ人など。
反対派は、目良、水島一郎、ロサンゼルスの日本人団体「真実の日本ネットワーク」の今村照美ら。
「目良は「二〇万人の被害者、強制、性奴隷など、慰安婦問題について言われていることはすべて嘘だ」と言ったのち、サラ・ソー教授の著書を振りかざし、目の前にいる元慰安婦の李を名指しして「この人の証言は信用できない」と批判した。」
しかし「ソーの著書では、元「慰安婦」の証言の一部に誇張や間違いが含まれることは、日本の保守派が言うような「日本は事実と異なることでいわれのない非難を受けている」ということを意味しない、とはっきり指摘している。」(p61)

このような老婦人に対する目良の侮辱は、議員に激しい反発を受けた。建設は全員一致の賛成を得た。

(4)2016年3月国連本部で
「同年三月には、国連本部近くの会場で、目良、藤木、杉田、藤井(論破プロジェクト)、山本(なでしこアクション)、細谷(日本近現代史研究会)、鈴木(ニューヨーク正論の会)、マラーノ(「テキサス親父」)が四回に及ぶイベントを開催し、日本語と英語で「慰安婦」問題は虚構であると訴えた。もっとも英語で開催したイベントでは、「日本人は弱者をいたわるが、韓国人はドブに落ちた犬を叩く文化だ」(細谷)、「あなたたちが信じているのは捏造だ」(目良)、「元慰安婦を自称する人には、政治的プロパガンダに利用されて、支援団体からこう話しなさい、ああ話しなさいというトレーニングを受けている人がいる」(杉田)などの発言で、聴衆から猛反発を受けていた。特に紛糾したイベントの後、杉田は「観客は全員韓国、中国に洗脳された桜ばかり」「挺対協や世界抗日連合が後ろにいて、国連の職員を始め、韓国人、中国人、日本人以外の人達を動員していた」とブログに書いたが、日本国内でしか通用しないような自分たちの発言が聴衆を完全に敵に回したという認識ができないのだろうか。」(p67)

以上が、小山エミ「アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃」という文章のつたない概要となる。
わたしの言いたいことは、反対派は反対の根拠を提出することがまったくできていない、ということだ。慰安婦は存在した。少なくともほとんどの慰安婦に離職の自由はなかった。つまり「強制的な状況の下での痛ましい労働・生活」を彼女たちに与えたことは事実であり、それが事実であるがゆえに、日本は河野談話と2015年と少なくとも2回謝罪しているのだ。
したがってわたしたちは「(被害者)すべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ち」を持ち続けている。したがって、慰安婦像を不快に感じることもない。杉田氏ら反対派のひとが何を言っているのか、何が言いたいのか、まったく理解できない。したがって当然、米国人や韓国人、フィリピン人なども理解できないだろう。

杉田水脈議員にお願いする。あなたがいままでやってきたこのような行動は馬鹿げているだけであり、米国人の理解をまったく得られず、日本の名誉をかえって傷つけるものであるので、直ちに中止してください。

ハイデガーの決断論批判について

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』第7章は、ハイデガーの決断論批判になっている。
「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ……。」が、ハイデガーの概要。(P294)

それを國分は批判していくのだが、一部かなり違和感があったので書いてみたい。

退屈しているなら決断せよ、とハイデガーは迫る。しかし、「決断するために、目をつぶり、耳をふさげ、いろいろ見るな、いろいろ聞くな、目をこらすな、耳をそばだてるな」 と述べているも同然だ、と國分は語るが、これはおかしい。(p298)
生きるとは、世人がやっていることに従うことだ、というのが初期状態としてある。(「〈ダス・マン(ひと)〉が日常性の存在の仕方を指定している」『存在と時間』第一篇第4章27節350)
サラリーマンなら朝7時に起き出勤する。ただ大雪であれば目的遂行するために「かなりの困難」が予想される。ここで「9時に会社に着く」という初期状態の目的と「かなりの困難」がはかりに掛けられ、「あるていど自由な判断」(ができるひとは)により今日はその目的遂行はあきらめるという「決断」が下される。「かなりの困難」を努力でクリアーして目的遂行するという選択肢もありうる。一般に困難がない仕事はないので、「あきらめる」ばかりしていれば仕事にならない。プラスの方向の「決断」も当然ありうる。雪道なのに走る、とか。

決断とはこのようにありふれたものにすぎなかろう。ところが國分は、「たしかに決断は人を盲目にする」とやたら話をおおげさにしてしまう。
「周囲に対するあらゆる配慮や注意からみずからを免除し、決断が命令してくる方向へ向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。」 p298

昨日は大雪のニュースとともに西部邁の入水自殺のニュースがあった。入水自殺するために確かに、上記のような決断=狂気が必要になるだろう。しかし故意に求められた狂気であったとしても「実はこんなに楽なことはない」とはまったく言えないだろう。「決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。(略)人は従いたがるのだ、と。」國分の思考回路から一歩外れてこれを読むとまったく意味不明である。
先の例として挙げた「会社に遅刻する決断」の場合、苦しさから逃避とはいえる。ところが次にくる形容詞なしの「従うこと」とはなんだろうか?ハイデッガー的にはこれはまず、世人支配への従順であるはずだが國分の場合、そのステップは考察の対象外になっている。

ハイデガーがいう退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」がある。それはじつは「わたしは自由だ」ということをわたしに告げているのだ。でまあ自由の実現を「決断」と呼んでいたわけですね。p243
でわたしは、「決断」というものを、『存在と時間』の世人論くらいのとことに戻して自分なりに考えてみた。ところがここに、國分氏とわたしとのあいだにはズレが生じ、うまく説明できなくなってきた。

「「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。」と國分は書くが、決断にファシズムの雰囲気を嗅ぎとりそれをアレルギー的に拒否する戦後民主主義的(?)反応(と同じもの)に、結局のところ國分は陥っているのではないか。

「「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。」世界をどこから考え始めるのかを教えるものが哲学であるとすれば、どこから考えるのか、という出発点において國分は誤っている。
前述のように、サラリーマンなら朝7時に起き出勤する(あるいはもっと早く)。これが仕事に「従う」ことであり初期状態である。「遅刻しないように」とか考えると人為的な(疎外された)規則のように思えるが、そうではなく、農民はドイツでも日本でも千年以上前から毎日早くから勤勉に働いてきた。ひとが生きる文化とはそういうことの身体化としてあるのだろう。「退屈」を先にもってきて説明原理にするのは賢いとは思えない。

世人=仕事として生きることが原則であり、それに対する例外として、自由=決断が存在する。

ある決断をする。「決断をしたのだから、その決断した内容をただただ遂行していかなければならない。p301」ここもおかしい。会社にいけなくなり、2,3日あてどのない旅に出る。しかしあきらめて帰ってくれば、上手くいけばまた会社に復職し以前と同じ日常が戻ってくるだけだ。世人=仕事という巨大な慣習力の下にわたしたちが生きているということを國分は無視しているので、分かりにくい。
デフォルトとしての仕事=服従を見ないで、決断を「決断主義」と大げさにした上で否定してみせているだけだ。

「人間は日常の仕事の奴隷になっていた p302」。それはよい。「その仕事は決断によって選び取った」ものだろう、と國分は言う。そうではない。毎朝起きて働くというのが人間の文化であり、類としての人間はそのように自己形成してきたのだ。

「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡のなかに生きている。p305」そのとおりであり、野原はそれを世人=従属的生き方、と考えるが、國分は認めない。決断をむりやり奴隷に結びつける國分の発想は、説得力がない。

大学の勉強という「退屈」を逃れ、資格試験勉強の奴隷に成るという対比を國分は掲げており、まあそういうことはあるだろう。それはしかし、大学の勉強が自由であり不安であるからであり、退屈という言葉を選ぶ必然性はないと思われる。それに、ハイデガーを読んで論文を書くことも同様に集中力、自己奴隷化が必要なわけであり、例の挙げ方が恣意的と言える。

さて、コジェーヴ がでてきて、批判される。
「決断し、自ら奴隷になる」のがコジェーヴのいう「本来の人間」だ。そうではなく第二形式の退屈を生きるべきだと國分は言うのだが、どうなのだろう。

ハラキリや特攻など「「歴史的価値」にもとずいて遂行される闘争(P319)」は、自由である人間の誇り高さとは無縁だ、とは必ずしも言えないかもしれない。しかし、わたしたちが常に具体的場面に則して考えるべきである。「先の戦争」では命令に従って、多くの残虐行為がなされた。つまり「世人」という習慣が人間であり、そこまではまあ良いとしてもそれをど外れた強度にまで疎外しようとするのが戦争時における国家であり、悪の究極である。(ファシズムが悪ならそれと戦うのは悪ではないという議論はしばらく置く。)
壮大な勘違いをしているのは、「決断」一般を否定してしまう國分の方である、と思われる。

国民国家の理念にもとづいて大戦を引き起こし、自国民たちを戦場で見殺しにしたヨーロッパの国々の社会体制、について、國分は愚劣だと述べる。
国家というものが、日常を切断する権力への幻想において成立しているというならそうかもしれない。

過激派=奴隷になる、ことへの警戒というものが、國分の基本思想のようだ。だが結局、どうなのか? 平凡な理解だが、世人=服従が、ハイデガーや特攻のように国家と同致したときの方がより大きな災厄をもたらした、と歴史から学べるのではないのか?
したがって、世人(第二形式)ではなく、決断=第三形式の方にだけ奴隷になることを、結びつける國分は恣意的でしかない。

習慣の獲得というものを、近代主義がともすれば、軽視、蔑視してきたという批判は正しいだろう。
習慣によって、目に入っていくるものすべてを受け入れるのではなく、そのほとんどを切り捨てるという説明がある。習慣を獲得することにより「考えて対応するという煩雑な過程から解放される」、という。その正しさは一面的でしかない。農民が農地を見る時、そのすべてを深く見た上で不要なものだけ切り捨てているのだ。そこにあるのは有機的自然との交流であり、近代的主客図式による情報摂取ではない。
稲の穂の膨らみ具合を見て取り、それに応じた作業を行う。それは反射的行動のようにも見えるがそうではない。かなりの要素を組み合わせて瞬時に判断した結果結論を出しているのだ。習慣とは考えないですむことではない。より速く考えることに過ぎない。

環境を情報として扱うことが、すでに世界の平板化だ。人間は考えないですむ方向に向かって生きていく、とある。そいういうこともあるかもしれないが、例えば音楽を聴く場合、より深く聴けるようになっていくだろう。またおそらく、例えば農業を続ける場合も、世界と自己はより多次元的に深く交流できるようになり、相互変容していく可能性があるのだろうと思う。

付記:
ハイデガーの決断論批判に関係ある本として、アドルノ『本来性という隠語』がある。難しくて紹介も引用もできないが、ほぼ納得させられた。上記に反映してないけど。

偽装である世界を破壊する

 ハイデガー『存在と時間』にはたくさんの翻訳があり、どれを読めばよいのか迷う人も多いだろう。参考のために、第1篇第4章27節 日常的な自己存在と〈世人(ひと)〉 のごく一部を掲げて、対照してみよう。(傍点およびふりがなは基本的に無視した。)

中山元訳(光文社古典新訳文庫・3 2017年7月刊)。

360 世界の隠蔽と露呈 (この小見出しは中山訳だけにある) の一部
 日常的な現存在の自己は、世人自己(マン・ゼルプスト)であり、わたしたちはこれを本来的な自己、すなわち固有につかみとられた自己と区別しておこう。
世人自己として存在しているそれぞれの現存在は、世人のうちで放心しているので、ことさらにみずからをみつける必要がある。
この〈放心〉は、すでにわたしたちが身近に出会う世界のうちに、配慮的な気遣いをしながら没頭することとして捉えた存在様式のうちにある「主体」の特徴である。

 現存在が世人自己としての自分自身に親しんでいるならば、それは世人によって世界と世界内存在のごく身近な解釈がすでに素描されていることを意味する。
世人自己は、現存在が日常的に〈そのための目的〉として存在しているものであり、有意義性の指示連関の構造を定めているものである。
現存在の世界は、そこで出会う存在者を、世人が親しんでいる適材適所性の全体に向けて、しかも世人の平均性によって確定された限度のうちで、〈開けわたす〉のである。

 さしあたりは、事実的な現存在は平均的に露呈された共同世界のうちに存在している。
さしあたりは、固有の自己(ゼルプスト)としての「わたし」が「存在している」のではなく、世人というありかたをした他者たちが存在しているのである。
この世人のほうから、この世人として、わたしはわたし「自身」にさしあたり「与えられて」いるのである。
さしあたり現存在は世人であり、そしてたいていはそのまま世人でありつづける。

 現存在が世界を固有なかたちで露呈させ、自分に近づけようとするならば、そして自分の本来の存在をみずからに開示しようとするならば、こうした「世界」の露呈と現存在の開示は、つねに現存在が自分を自分自身から遮断するために行っていた隠蔽や暗がりをとりのぞくことによって行われるのであり、偽装を破壊することによって行われるのである。
(中山訳・終わり)

熊野純彦訳。(岩波文庫 2 2013年6月刊)
日常的な現存在の自己は〈ひとである自己〉であり、これを私たちは本来的な自己から、つまり固有につかみとられた自己から区別する。
〈ひとである自己〉として、そのときどきの現存在は、〈ひと〉へと分散しており、じぶんをまず見出さなければならない。
この分散によって特微づけられるのは、或る存在のしかたをそなえた「主体」なのであって、その存在のしかたは、もっとも身近に出会われる世界のうちで配慮的に気づかいながら没入しているものとして知られている。

現存在が〈ひとである自己〉としてじぶん自身に親しいものだとすれば、その件が同時に意味しているのは、〈ひと〉によって、世界と世界内存在についてのもっとも身近な解釈があらかじめ素描されていることである。
〈ひとである自己〉は、現存在が日常的に存在している〈なにのゆえに〉であり、その〈ひとである自己〉によって有意義性の指示連関が分節化されているのである。
現存在の世界は、〈ひと〉が親しんでいる或る適所全体性へと向け、しかも〈ひと〉の平均的なありかたによって確定されている限界のうちで、出会われる存在者を開けわたす。

さしあたり、事実的な現存在は平均的に覆いをとって発見されている共同世界の内で存在している。さしあたり、固有の自己という意味での「私」が「存在している」のではない。
〈ひと〉という様式における他者たちが存在しているのだ。
〈ひと〉の側から、また〈ひと〉として、私は私「自身」にさしあたり「与えられて」いる。
さしあたり現存在は〈ひと〉であって、たいていは〈ひと〉でありつづける。

現存在が世界を固有なしかたで覆いをとって発見し、じぶんに近づけるとき、つまり現存在がじぶん自身にみずからの本来的な存在を開示する場合には、「世界」をそのように覆いをとって発見することと、現存在を開示することが遂行されるのは、つねに、覆いかくし、暗くするさまざまなものを取りさることとしてであり、さまざまな偽装するものを粉々に砕くこととしてである。
現存在は、そうした覆いかくすもの、暗くするもの、偽装するものによって、現存在自身に対してじぶんを遮断しているからである。

原佑訳(中央公論社・世界の名著版 昭和54年)
日常的現存在の自己は世人自己なのであって、この世人自己をわれわれは、本来的自己から、言いかえれば、ことさらつかみとられた自己から区別する。
世人自己としてはそのときどきの現存在は、世人のうちへと分散して気散じしており、おのれをまず見いださなければならない。
こうした気散じが性格づけているのは、最も身近に出会われる世界のうちに配慮的に気遣いつつ没入することとしてわれわれが識別しているような、そうした存在様式の「主体」なのである。

現存在が世人自己としてのおのれ自身にとって親しいものだとすれば、このことが同時に意味しているのは、世人が世界および世界内存在の最も身近な解釈の下図を描いているということ、このことにほかならない。
世人自身は現存在が日常的に存在しているための目的である当のものであるのだが、そうした世人自身が有意義性の指示連関を分節するのである。
現存在の世界は、世人にとって親しいものであるなんらかの適所全体性をめがけて、また、世人の平均性でもって固定されている限界のうちで、出会われる存在者を解放する。

差しあたって現事実的現存在は、平均的に暴露されている共世界の内で存在しているのである。
差しあたって「私」は、おのれに固有の自己という意味で「存在している」のではなく、世人という在り方における他者なのである。
この世人のほうから、またこの世人として、私は私「自身」に差しあたって「与えられて」いる。
差しあたって現存在は世人であり、たいてい世人であるにとどまる。

現存在が世界をことさらに暴露しておのれに近づけるときには、現存在がおのれ自身におのれの本来的な存在を開示するときには、「世界」のこうした暴露と、現存在のこうした開示とは、現存在がおのれをおのれ自身に対して遮断している隠蔽や不明確化の撤去として、偽装の破砕として、つねに遂行されるのである。

一番特徴的なのは、有名な用語である「世人(ダス・マン)」というのを、熊野が使用していないところ。〈ひと〉とさりげなく、〈 〉だけ付けて翻訳している。「世人」というのはいかにもこなれの悪い言葉なので、避けたのはよく分かるが、〈ひと〉では、意味が弱すぎるような気がする。
詳細な比較は、みなさんにお任せする。

少し前から、読み返してみると、348で言われているのはひとは、他者に対して過剰に気遣いしてしまう。そのせいで、共に生きることはかえって〈隔たり〉を生み出す。
〈隔たり〉が当たり前になるということはつまり、日常的相互存在において、他者たちの支配のもとにある、ことになる。いいかえると、「世人」の支配である。
したがって、日常的な生活のなかでの自己は、世人自己、世人という常識にひたされていわば〈放心している〉状態である。そうではなくて、ことさらにみずからをみつける必要があるのだ。ひとをなんらかの目的のために適材適所に割り当てる、そのような形での存在様式が支配的になっている。それは固有の自己としてのわたしの存在のあり方ではない。つまり世界は、奇妙な形での隠蔽と暗がりによって構成されている。こうした欺瞞を破壊することにより自分の本来の存在をみずからに開示することができる。

わたしなりにパラフレーズしてみた。自分の本来の存在、本来性、そんなものはないのだよ、と賢しらに言いつのるひとが今では圧倒的だ。でもわたしの考えではそれは決定的なことではない。わたしたちの社会は、根本的に、つまらない倒錯によって支配されていると言いうる。だからそれを破壊する、破壊しようとすることは大事だ、とそう思う。

(なお、わたしは中山元訳が一番読みやすくて良いと思う。ただし、これは2017年11月現在「3」までしか、上記で取り上げたあたりまで、全体の三分の一くらいしか、刊行されていない。終わるのは数年後なので、読み終わるためには他の人の訳も必要だ。)

九大生体解剖事件と有限性の責任

九州大学人体解剖事件
1945年5月17日から6月2日に4回、日本軍から米軍捕虜の提供を受け、九州大学医学部第一外科と第二解剖学教室第二講座が死に至る生体実験を行った。被害者は墜落した米軍機に乗っていた兵士8人である。

この事件についてのいままでの著作は、主に公判記録及び公判に関する宣誓供述書に基づいていた。非公開であった再審査関係の膨大な資料を(国立国会図書館から発掘し)精査してまとめたものが、熊野以素『九州大学生体解剖事件』(岩波書店2015年)である。

この事件の主犯格の、石山教授と小森軍医見習士官は裁判当時すでに死亡していた。そこで、事件の大学側関係者は鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森好良雄講師とされ、3名ともに死刑が宣告される。(後に減刑)
この本は、著者の叔父である鳥巣太郎(鳥巣と記す)を中心に記述される。

裁判の経過のなかで鳥巣は事件を反省する。その核心は次の二つの引用にある。

A)「林先生の証言は、その一言一言が私の肺腑を突き沈痛な思ひに悩みはつきず。げに真理は簡単である。私が参加したことに対する如何なる弁明も、何の訳にも立たぬことを改めて認識した。(略)
又しても「当時何故もっと意志強く迫らなかったか」といふことが今更ながら未練がましくも残念の極みである。」(48年5月林春雄証言を聞いて) p114

B)実際には、鳥巣は石山に次のように言った。
「先生、また、先日のような手術をなさるのですか?(略)
あのような手術は軍病院でするべきではないでしょうか。もし手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになると思います。(略)」 p34

鳥巣の行為・思想を中途半端だと指摘することはできる。一回目の実験に立ち会う際、彼は事情を知らなかった。しかし二人目の兵士の手術時、彼は理解していたのに手術を助けた。二回目の手術の前、鳥巣はB)発言をし、手術には遅れていく。しかし参加はした。
いずれにしろ、手は汚れていることになる。

戦争は日本の敗戦で終わり、捕虜虐待に厳しい裁判で臨むGHQの支配下、1946年7月鳥巣は石山教授外3人とともに逮捕される。石山は後に自殺。

鳥巣にとっては、生体解剖(殺すこと)への拒否が第一順位であり、同僚も内心では当然そうであったはずだと思っていた。しかし同僚は実際にはB)の行為は取らなかったわけであり、自己保身を第一順位にすることにさほど疑いを持っていなかったかもしれない。仮にそうであったとすると、戦後は逆に、自分がB)に限りなく近かったことが有利になる。したがって、B)に限りなく近かったとみずから思い込むまでに自己を偽り、そのように鳥巣にアピールしたこともあったかもしれない。1949年5月に「我々は石山教授に手術をやめるように頼みに行った」と鳥巣が書いたのも、そうした働きかけの結果だったかもしれない。

B)の立場に立つことは一生、「今更ながら未練がましく悩み続ける」ことである。
言葉で説明することは理を通すことであり、A)のように語らざるをえない。それはしばしば、割り切れないものである現実に厳しすぎる裁断をするものだと感じられる。

鳥巣の場合は、目の前の手術台に横たわった身体に対する犯罪という具体的なもので、戦争犯罪といった大きな主題にかかわるものではない。医師としてその命を殺す実験に関与するという問題は、ある意味で殺人という倫理的問題を、手術台の上に展開し詳細に再体験することを迫る。
そのなかで、鳥巣はA)とB)のあいだでぐるぐる思索し続ける。

しかし、同僚たちは違う。彼らは事件時、ファッショ的専制的な主任教授に逆らうことができず、裁判においても鳥巣のようにB)のような減刑要求する根拠もなかったため、「反抗は許されず仕方なく参加したのだ」と情緒に訴える弁護に頼るしかなかった。
しかし獄外の同僚の家族たちや大学関係者たちは、一致し熱心に弁護士に働きかけた。それは家族としては当然のことであっただろう。しかし、軍とその影響下にある大学という専制的男性リーダーの下にあったホモソーシャルな支配の構図が、問われなければならなかった筈だ。だが、問われるべき主犯である主任教授石山は、卑怯にも自殺してしまう。従犯たちは、自己を「支配の構図の被害者」に位置づけることにより、その構図を結局敗戦後まで生き延びさせてしまう。

閉じ込められた鳥巣はA)とB)のあいだをぐるぐる回るばかりで、自分を救おうとすることに熱心にならない。ただB)という行為をした自分を肯定しており、それをしなかった同僚を助けてあげなければいけないと思い続けていた。

この本は『九州大学生体解剖事件』という題で、題の印象からもいままでの紹介からも重く苦しい主題を扱った難解な本という印象を受けてしまうだろう。
しかしそうではなく、これは(むしろ)苦境におちいった幼子を抱えた若い妻が信じられないようなエネルギーで、横浜裁判当局に挑み、誤審を訂正させるという、日本には珍しい(米国人好みの)正義のヒロインの物語なのである。

ヒロインは鳥巣太郎の妻、蕗子である。鳥巣は最初の事件の後、妻に事件を打ち明け、大学を辞めたいとまで言う。蕗子は思ったことをまっすぐに口にする性格だった。
「石山先生がまた捕虜の手術をされるようなことがあっても、あなただけは決して手術に参加なさってはいけません!もし私が、米国軍人の妻でありましたなら、なぜ夫は手術されたのだろうか、手術されなかったら自分の夫はシナなかったかもしれないと思います。戦争の最中でも、米国軍人の捕虜を医学の研究に使ってはいかんと思います。戦場で軍人が殺されるのは仕方ありませんが、手術で死んだらお気の毒です。」p32

48年8月、判決。鳥巣外2名の医者と2名の軍人は絞首刑と決まる。鳥巣の予想外のことだった。蕗子は独力で嘆願書を作る。またその後では英語が達者な三島夫人の力を借り、二人で総司令部法務局に何度も何度も説明に行く。事実関係の細部についての説明。「初回の手術は参加はしたが執刀はしていない。鉤引き、血を拭うなどの補助を行った」「2回目の手術の前に石山教授に手術の中止を諫言。手術場には遅れて行った。」「三回目の手術は参加を拒否」などなどである。
これらの事実は、ここまではやらなかった、と否定により減刑を獲得しようとするものだが、本人にとっては、ここまではやらなかったがここまではやったのだと、思い出したくない犯行を再確認し反芻する効果がある。
蕗子は、実験遂行へのためらいを一言も口にしなかった同僚と鳥巣の差異であるB)にこだわる。そうしないと鳥巣を救うことができないし、なによりそれは事実だから。

事実関係の細部に焦点を当てて再審を勝ち取るべく書類を積み重なることは、同時に鳥巣にとっては、自身の倫理的反省がただの反復に陥らず、常に痛みとともに反省を深めていく効果を持ったと考えられる。
一人の人間を医療行為をすると言って騙して麻酔をかけ、そのまま材料として生体実験してしまう。これはいかにしても弁護できない絶対悪である。これが、A)の思想であり、無限性の責任論と名付けることができよう。
B)は、それに対しておずおずと違和感を提出したという行為である。きっぱりとした反対の意思表示ではないが、その時点の鳥巣のせいいっぱいの意志表示であった。それは服従と反抗の二つのベクトルの折衷であって。それを有限性の責任論と名付けることができる。

鳥巣たちに対する判決は1948.8.27だが、再審査の嘆願が粘り強く行われ、1950.9.12減刑決定。1954.1.12満期出所となっている。

わたしたちが現在この問題を考える時、戦争中(8.15まで)、占領終了まで(1952.4.28まで)及びそれ以後という3つの時期におけ評価がどう変わるのか、という問題も合わせて考える必要がある。鳥巣たちの裁判は刑法犯罪であり、戦中の日本、GHQ、戦後日本という国家支配者の差異によって、基本的には判断が変わるものではない。また、サンフランシスコ講和条約11条には戦争犯罪法廷の判決を受諾し、刑を執行する旨定められていた。
しかし、占領終了後すぐに強力な戦犯釈放運動が起こった。戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が作られ、「戦犯は戦争犠牲者だ」が国民全体に浸透した(三千万人の署名が集められたという)。
戦争指導者も末端の兵士も同じ、戦争の犠牲者であるという思想は、「先の戦争」の遂行責任を明確に追求しなかった。反省が行われるときはかならず「戦争だけはしてはいけない」「すべての戦争は悪である」と戦争を主語にした、(日本人は苦手なはずの)宗教的なまでの大きすぎる思想が語られた。憲法9条に結晶したこのような反戦思想は貴重なものではあるが、軍隊の全廃というテーゼは冷戦のなかで貫かれることはなく自衛隊が誕生し、時代とともに成長していった。

「講和恩赦と1953.8.3の戦犯赦免決議によって、満期を待たず戦犯は次々に釈放されていたのだが、鳥巣は満期まで務めることに強い思いを抱いていた。」p187 とある。 占領軍がいなくなればたちまち消滅してしまう「反省」、そのようなものとともに鳥巣は生きたわけではない。

わたしたちの70年の経緯を考える時、A)の思想の正しさが、抽象的な「戦争はいけない」という命題になり、時代の移り行きとともに、その背後に裏打ちされていた、殺し−殺された身近な人の体験をまるごと裏返すかのような荒業といったものがほとんど蒸発してしまい、力を失っていったのだと考えることができる。

それに対して、鳥巣の場合は、B)有限性の責任論の立場をたえず参照することを強いられたがゆえに、自己身体から遊離した正義の立場に立ってしまうことはなかった。無限性の責任は有限性の責任論に裏打ちされてこそ、真の反省として持続しうるのではないか

今では忘れられてしまった、生体解剖事件犯人とその妻の話。そこには小さくとも本物の反省があった。
「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」という巨大な悪を巨大な悪として反省しようとすることは、それがいかに真摯に行われようとやはり限界があり、有効期限切れが来たかのような現在である。
そうではなく、ひとつの事件におけるほんの小さな反抗、それを大事に育てることにより、事件全体へのトータルな反省に鳥巣がたどり着いたという実話。
それは、わたしたちの戦争体験の総括の失敗という課題に、光を当てるに足りるエピソードだ。

ソクラテスと民主主義の死

アルキビアデスとクリティアスは1,2をあらそうソクラテスのお気に入りでした。クリティアスは30人僭主の最有力メンバーであり、アルキビアデスはアテネ国民にうまくとりいる軽薄才子でした。かれらは主観的洞察の原理を実践し、その原理にしたがって生きた人物だったのです。
p430『哲学史講義・上』ヘーゲル 河出書房新社

アルキビアデスとクリティアスはアテネ国家の民主主義を崩壊させた主犯といっても過言ではない。で、それにソクラテスが打ち立てた「精神の高度な原理」が関わっていたとヘーゲルは言っている。

ソクラテスとは、「国民の権力にたいして服従の意思を示すのを拒否した人物」である。「自己を確信する精神、ないし、みずから決断する意識の絶対的な正当性」を自覚していた。この高度な原理は絶対的にただしいものでした、とヘーゲルは言い切る。
しかしそれは、「国家が正義とみなしたもの以上の理性や良心や公正はありえない」という本来のアテネ国家の原理とまっこうから対立するものだ。ソクラテスは死刑になったが、それからわずかの時を経て「みずから決断する意識の絶対的な正当性」という原理はアルキビアデスなどの身体を借りて、アテネ「民主主義」を滅ぼしてしまう。

ここでヘーゲルが描き出している図式は、われわれには飲み込み難いものがある。
何人かの個人による、理性の導きによる対等な討論が民主主義の基礎であることは言うまでもない。それを教え、最も見事に実践したのはソクラテスである。
ところが、それは、ソクラテスの死とアネテ民主主義の死に至る道筋をたどる。どうしたことか!? これがヘーゲルが見事につかみ出した〈矛盾〉である。

もうすぐテロ等準備罪(共謀罪)というものが国会というプロセス(二院制)で可決される。森本問題、加計問題という首相による国家の私物化に対する解明を、「理性の導きによる対等な討論」という規範を徹底的に貶めることにより抑圧する、という経過によって、国家に人民抑圧の手段を与えることになる。戦後70年間の議会制民主主義は終わった、と感じられる。

「民主主義」はなぜ終わったのか?啓蒙的進歩的知識人が愚かだったから、いやそうではなくみずからの聡明さに酔い傲慢におちいっていたから、だろう。彼らは、「理性の導きによる対等な討論」をとなえるが、ソクラテスのように裸足で泥をかぶり庶民の一人一人と対等に討論しなかった。彼らの「討論」とは、彼らが欧米から密輸入した民主的な結論にたどり着かなければならないものと決まっており、対等な討論など、実は最初から真剣には企画されていなかった。

支配者と官僚が欧米から輸入した「繁栄のための」結論と、それへの反発である「民主的な結論」の対立。そこには最初から「理性の導きによる対等な討論」はなかった。そこで、
支配者と官僚の側は、「日本のため」「繁栄のため」というレトリックで押すことにより、常に勝利することができた。戦後、真剣な討論が栄えていた時代もあったように見えるが、それは高度成長の果実である国家予算の一部を、大衆にも分配するという争いにすぎなかった。分配の余地がなくなるにつれて、討論はにべのない拒絶に変わった。

絶対的な自由を手に入れた個人は魅力的であり大衆をも魅惑することができる、それにより独裁を手に入れ国家を破滅させることができる(アルキビアデスの場合)。
では人格、見識ともに劣ると公然とみなされている安倍氏は、なぜその独裁を維持し続けられるのだろうか?
誰しも愛国的である自分を感じるのは心地よいものである。韓国にむしろいじめられている日本という図式をむりやり作り出し流布することにより、ある個人は日本の味方をし韓国に対して怒ることにより愛国者になることができる。70年も前の戦争時の犯罪について相手がほかでもないあなたに反省を求めていると、そういう図式をつくれば誰しも反発する。その反発により、安倍氏は彼らを自分の側に動員することができる。
啓蒙的進歩的文化人が安倍を批判すると、自分の無罪(無垢)を信じたい大衆の逆鱗に触れてしまい、左翼はますます嫌われることになる。

かっておろかなアルキビアデスが勝利したように、今日は愚かな大衆が勝利するのか?

メモ:さて、この問題についてキルケゴールは次のように言っている。
「ここでアテナイ国家の頽落について歴史的叙述をおこなうことは私にはかなりよけいなことのようにおもわれる」p83 『イロニーの概念・下』著作集21
「ギリシャ国家における邪悪な原理は、有限な主観性の(すなわち不当な主観性の)原理、多種多様な発現形態における恣意であった。そのうちの一つの形態(略)が、ソフィストの立場」p85