『地図と拳』と教育勅語

小川哲の『地図と拳』という本は1899年から1945年までの満洲のある町の盛衰をテーマにした小説だが、600頁以上ある。分厚い。
本来満洲には何の関わりもない日本人が、その町だけでなく満州国という広大な国家を作ってしまった。そのために必要な地図と計画、そのための強い意志そうしたものがどのように形成されたのかを描く。多くの強い意志を持った日本人がそれに関わるが、それぞれのひとの思惑・思想はそれぞれ違う。でも奇跡的に大国家は形成され、またそれを西側に拡大する戦争も起こしてしまう。そのとき(盧溝橋事件)にはおそらく〈計画〉と〈武力〉のバランスは崩れ、矛盾は拡大するしかない形になっていたのだろう。数年後日本は敗北する。そのような経過を数人の日本人の強いビジョン(理想)の挫折の重層として描いた小説だ、といえようか。
これはエンターテイメント的体裁は取っているが、むしろ各人が描いた理想とその挫折を描こうとしているものだ。ただ人間というよりも地図といったものを作る才能を与えられたがゆえにそれから自由になることができず、必然的に破滅していく何人もの人々といった風に描かれる。

さて、最近もtwitterでは、教育勅語が話題になったりしています。教育勅語は、「父母に孝に兄弟(けいてい)に友(ゆう)に夫婦相和(あいわ)し」みたいな無難な徳目が並んでいるだけに見えます。しかしそのポイントは「一旦緩急あれば義勇公(こう)に奉(ほう)じ もって、天壤無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし」にある。

この義勇について、和辻哲郎はこう言う。「倫理学・中(1942刊)」で。
「国家は個人にとっては絶対の力であり、その防衛のためには個人の無条件を要求する。個人は国家への献身において己が究極の全体性に還ることができるのである。従って国家への献身の義務は己が一切を捧げて国家の主権に奉仕する義務、すなわち忠義であるといわれる。そうしてこの義を遂行する勇気が義勇なのである。」
ひとりの人間はその一切を国家の前に捧げなければならない。その義務を遂行する勇気が義勇なのだ、と。
「命令への絶対服従、全然の没我、それが人間業とは思えぬような溌溂たる行動となって現前する。それが義勇である。人はこの義勇においておのれを空じ、全体性に生きるという人間存在の真理を最高度に体験することができる。」とさらにダイナミックに和辻は描写してみせる。
1931年満州事変に始まり、37年支那事変、41年太平洋戦争と戦争は拡大を続け、42年に、〈おのれ〉を100%国家(天壤無窮の皇運)に投企することが、溌溂たる生き方になるのだ、と和辻は高らかに宣言して見せたのです。

それはただの哲学者の空言ではありませんでした。実際にそういう哲学によって我が身を律していた軍人は沢山いた。

小川哲の小説『地図と拳』には安井という軍人が出てくる。
彼は次のように考える。
「満洲の経営に必要なのは、この地に住む大和民族の数を増やすことである。この国に大和民族が少なければ、我々の唯一無二の崇高な精神が浸透していかない、そのために、莫大な数の移住者を募る必要があった。p456」

「大和民族が満洲にやってきたのはなぜか。大義名分があるからだ。大義名分とは、世界でも固有で特別な存在である大和民族に、蛮国を統治する義務があるということだ。大和民族が特別であるのは、天皇陛下を神と慕い、己を空にして奉仕することができるからだ。
しかし、今回の盗難事件における司令部の対応は、大和民族の性質からかけ離れたものだった。本来、正しく導いてやるはずの支那人に罪をなすりつけ、満州帝国の繁栄という大義を見失っている。これでは他民族となんら変わりはない。崇高な犠牲的精神はどこにも存在せず、司令部は目先の欲ばかり追っている。そんな者には、満洲を、そして支那を統治する資格などない。」p459より

大和民族は唯一無二の崇高な精神を持つ。天皇陛下を神と慕い、己を空にして奉仕することができることが、その理由だ。(しかし実際の日本軍はその崇高な犠牲的精神を見失いデタラメなことをしている)といった論理構成になっている。
「天壤無窮の皇運」という概念によってとても激しい超越性が導入されそれによって、泥まみれ血まみれの軍務に「おのれを空じ全体性に生きる」という超越を意味づけ人間業とは思えぬような忍耐で戦争を遂行することができた。

こうしたことが、「大東亜戦争」において「教育勅語」が果たした役割であった。
教育勅語本文と明治時代の注釈書だけを読んでも、ここまでは言い切れない。しかし戦中の実体はこういうものであった。従って、教育勅語は戦後いち早く禁止された。それの復活を願う勢力もあるが、天壤無窮の魅力とその悪魔性をまったく隠蔽するものなので、話にならない。

台湾と沖縄、反戦平和とは何か?

https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8
 自主講座「認識台湾」第2回:シンポジウム 台湾と沖縄 黒潮により連結される島々の自己決定権―東アジア地域世界の「平和」を準備するために、という長い題のシンポジウムをzoomで聞きました。京大の駒込武先生が中心になって行われているシンポジウム(自主講座「認識台湾」立ち上げ企画とされている)で、台湾人の呉叡人という学者(ひまわり運動にも関わった人)がメインのスピーカーなようだ。

 私は台湾のことはよく知らない。ただ2019年の香港民主化運動が弾圧されその参加者が亡命のように移住している国といったイメージがあるだけだ。最近、石垣島、与那国島に旅行した。与那国では特に台湾まで111kmと台湾への近さが強調されていた。近いとは、日常に必要な物資などもそちらから輸入する方が早いということだ。しかし入管、検疫などいろいろな問題があり、交流を急拡大するのは難しいとのことだった。そして与那国では島論を二分する住民投票で反自衛隊派が敗北し、自衛隊基地が建設されていた。私は大阪の近くの住民なので沖縄のことも台湾のことも身近には感じていない。ただ与那国の最西端に立って台湾が見えるかもしれないと目を凝らしたが見えなかった(雲は見えた)体験をしたので、このようなテーマにも興味を持った。

 この企画は今はyoutubeにもあるので誰でも視聴可能です。
https://www.youtube.com/watch?v=SsCUoEH1sR8&t=9s
54ページもある充実したブックレットなど資料のダウンロードも可能です。 https://drive.google.com/drive/folders/1MPvzjGzDJw-VCl195zd8VxS67cShgQtB

 ブックレットを見ながら、簡単に感想を書いてみます。
 台湾人にとって、戦前はもちろん日本人が支配者であり自分たちは被支配者だった。しかし戦後は国民党がやってきて彼らが支配者になった。従属的人民であり続けることへの拒否を示した人々が1947年228事件を起こしたがそれは苛烈な弾圧にあい、1987年まで独裁体制が続いた。その後ようやく台湾人も参加できる国家(ネーション)形成が開始された。呉叡人は『想像の共同体』の翻訳者として知られている人のようだが、彼のこの本の読み方は日本人のそれと違って、市民が主体的にネーションを作っていくとポジティブな方向で読むようだ(おそらく)。
 台湾は戦後ずっと大陸の中国共産党によって軍事的な圧迫、威圧を受けてきた。最近では去年8月の、台湾を取り囲む六つの海域での大規模な演習があった。このような軍事的圧力に対抗できるものはやはり米国の軍事力しかない、と呉叡人は考える。

 私たち日本人の戦後は、米軍の占領下で始まり、朝鮮戦争開始、自衛隊創出と続き、日米安保条約は現在まで維持され続けている。米軍の勢力範囲内であり続けたわけで、中国の軍事的脅威は直接的なものではなかった。米国軍の存在による、レイプや犯罪の危険といった(本来あってはならない)脅威があり、そういった問題に対して日本政府は住民の側に立たず、米国援護的であるという矛盾があった。日本は民主主義国であるはずなのに、米軍基地問題については住民がいくら意志を示そうが拒否されることが続いた。特に沖縄は辺境の島であり、植民地主義的抑圧とさえ言えるものを受けている。それが米軍の圧力を甘受しつづけなければならないことに結果している。
 
 一方、台湾は冷戦構造のなかで、中国が2つに分断され、より小さな部分が1972以降、中国を代表する権利すら失い、国家としての権利を国際社会から認められないまま、何十年も生き延びてきた。そのとき、中国からの軍事的、政治的、経済的な圧迫は大きくその力はますます大きくなっている。米軍の強大な力は彼らにとって、中国に対抗するために必要な頼もしいものである。
 このように、米軍の存在に対する評価が沖縄と台湾では正反対になる。

 しかし、それは反基地闘争する沖縄県民と中国の侵略に怯えている台湾市民が、対立関係になるということだろうか?そうでもない、と考えることはできないか?このような問いを抱いてこのシンポジウムを視聴することができる。
 
 
(2) 
 「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事でもある。この点の認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない。」2021年の暮に安倍晋三はこう言った。(cfブックレットp40)
 台湾市民はこの発言を歓迎しただろう。台湾を国家承認している国はとても少ない、日本もしていない。だのに突然安倍元首相がこう言ったわけだ。(香港市民は香港には何も言わなかったのに、と思ったかもしれないが。)中国が軍事的に侵攻する時に台湾市民の側に立つという表明として受け取るなら、同意してもよいかもしれない。(どうだろう)
 
 中国政府は平和的手段による「台湾統一」を望んでいるのであり、台湾を標的とした軍事演習も米国による挑発へのやむをえぬ対応である、と理解する人が日本の左翼・リベラルには多い。中国と米国と日本の三者で台湾問題を平和的に解決すべきだ、という考え方すらある。大国の首脳の利害、得失の判断で世界に線を引く合意をすれば、弱小勢力はそれに逆らえない。それを維持することが平和だ、という考え方だ。それはほとんどウクライナ人が戦わず降伏しておれば平和だった論と同じで、平和という言葉を誤解していると思われる。(ただそういう人は多い。)国家単位でしかものごとを考えないならそういう結論になる場合もあろう。
 
 2019年、沖縄での県民投票(辺野古新基地をめぐる)と香港での民主化運動(大デモ)が同時に起こった。反米/反中という冷戦的二項に還元して理解するのではなく、自己決定を求める闘いとして捉えるならば、共通の地平で理解することができるかもしれない。
 政治というものを、冷戦構造的二項対立や国家や政党間のつなひき、勝敗と捉える浅薄な味方をまず退けなければならない。「台湾は、強権によってもてあそばれる客体から、自己決定・自治を担う政治主体に転化しました。(ブックレットp25)」と呉叡人は力強く書く。のいちご学生運動(2008)からひまわり学生運動を、成熟した市民社会が危機を効果的に阻止した体験、と評価しているのだ。国家(ネーション)というものは制度や国会での議決結果だけで計るべきものではない。ダイナミックな市民社会との交流の結果成立、変動するものである。活動家でもある呉叡人がそう言う。日本ではマスコミの報道が抑制的すぎるせいもありそうした認識は根付いていない。投票結果だけが民主主義であるかのようなプロパガンダが浸透している。しかし実際には日本でも市民運動、いろいろな位相に存在する世論、などと国会などは交流し、その結果として政治は生み出されているのだ。
 
 ところで、日本は中華民国に対しても、中華人民協和国に対しても結果的に賠償責任を一切果たしていない。(請求させなかった)日本は台湾に対して加害の歴史がある。加害者は破壊したものを修復しなければならない。中華民国政府と取引することでそれを免れようとしてはならない。

 日本は民主的で平和な東アジアをつくる責務を、世界に対して負っている、と呉叡人は言っている。これは別の文脈でも是認できる。
 敗戦後再度国際社会に承認して貰うにあたり、憲法が諸国家ではなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べたことを思い出す必要がある。このように考えれば、どのような視野で台湾/中国を見るべきかは明らかであるはずだ。自国の利益あるいは日米同盟の世界戦略からみての問題点だけを優先することはできない。

 抽象的理想主義の文脈でこう書いているのではない。二項対立的価値の争いのはるか手前に、現実の市民の努力と絶望に近い希望があるのだ。

(3)
 最後に、張彩薇(ちょうあやみ)のコメントも興味深いので、簡単に触れたい。

 「軍事的(防衛の整備)にも、政治的(自主の維持)にも、価値観(民主の堅持)という点でも、台湾が中国による侵略に有効に対処するには、米国主導の中国包囲網に加盟するほかはありません。」(呉叡人 ブックレットp20)

 呉は明確に述べているが、日本の左翼にとっては認めたくない文章だろう。どう考えればよいだろうか?
 まだ今は台湾は、ウクライナのように軍事侵攻されていない。「米国主導の中国包囲網に加盟する」かどうか?
 ウクライナ戦争を考えるとき、被害者であるウクライナ市民とその戦う意志にまず焦点をあて考えるべきだろう。同じように台湾市民とその戦う意志のことをまず考えるべきであり、「米国主導の中国包囲網」の問題は次の課題だ。しかし、香港のように自由を奪われることはどうしても嫌だとするならば、「米国主導の中国包囲網」についてもとりあえずYESいうことはありうる(日本人は口を挟むべきではないだろうが)

 ある国家は、Aと敵対するためBと同盟することができる。その場合Bが気に入らなければAに再度接近することができる。このように国家は小国であっても一定の自立性を保持し続けることができる。ただ台湾は中国から自立した十全の国家であるとは認められていない。それが辛いところだ。(ところで日本は、立派な国家なのに、中国を始めとするアジア諸国との友好関係を全否定することで、米国一国への従属体制が続いている。それは愚かなやり方だ。)

 香港も台湾も十全な国家ではなかった。しかしそこには民主主義的と言いうる多様な言説と行動があった。独立主権国家になろうとするのは分かるが、そうでなければダメというわけでもない。
 台湾が十全な国家になること、独立を中国が認めることは当分できそうもない。しかしそれを求めるべきだというのが呉叡人であり、まあそうかなと。
 ただ、主権国家を前提とする国際社会のあり方を絶対視することはするべきではない、張さんが言うとおり。
日本国憲法前文もそのように読める可能性がある、。

 台湾人は沖縄の基地強化を望んでいるか?という問いがある。自分を守るためには本音ではそうだ、と呉叡人はいうかもしれない。それは自他の間に利害の対立があることを、認めているということだ。自分に不利な現実を無視して、自分の思想にほころびを生じさせないないようにするよりマシであろう。

 沖縄人は米軍基地に反対する。米軍基地が台湾国家に対してどういう意味を持つかをそのとき第一義的に考える必要はない。ただし、軍隊というのはどんな場合でも反人民的存在だというドグマは正しくない可能性があると考えるべきだろう。
 つまり、「反戦平和」が、自立を求めるひとを沈黙させるための言葉になる可能性もあるのだ。「反戦平和」は第一義的には既成国家(武力)間の勢力均衡を破らず現状を尊重するという意味だろう。そうであるとすれば、必ず正義と一致するわけではない。
 
 彼女の「台湾は中国ばかりではなく、アメリカと日本をも批判しなくてはならない」という発言は印象的だ。
 ただ、批判に関していえば、日本人でも台湾人でも、イスラエル人やミャンマー人(ミンアウンフライン)やウイグル人を弾圧する中国人、人権派弁護士を弾圧する中国政府など、気がついたらどんどん批判すれば良いと思う。「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」を基準にすることは日本人には許されている。どう認識するか、と実際に何ができるか、は分けて考えてもよいと私は思っている。
(文中、敬称略)

「現代中国のリベラリズム思潮」を読んで

現代中国のリベラリズム思潮」という本を読み始めた。

最初の論文が徐友漁という人の「90年代の社会思潮」というもの。
これが思いのほか面白かったので、紹介したい。徐友漁(1947年-、四川成都人)

70年代の終わりに文革が終わり、80年代インテリたちは開放的空気に包まれた。
改革開放、いままで禁じられていた西欧的、資本主義的なもの、サルトル、フロイト、ニーチェなどまで入ってきた。近代的、合理的、普遍的なものが目指された。
89年に六四天安門事件が起こり(そう書いてないのだが明らかに分かる)、時代の空気が変わる。
一つは「国学」ブームなどの文化ナショナリズムである。全般的西欧化が否定され、愛国主義、伝統文化が称揚される。
現在の西側文明は抜け出すことができない危機に陥っており、東洋的文化だけがそれを救うことができる。西欧文明は自然を一方的に収奪してきたが、道教の無為自然思想にもあるように、東洋には人間だけを高いとするのではなく自然と共存していく思想と知恵がある。集団主義、無制限な自由・権利を認めないこと、官僚制度、競争の抑制、などはアジア的近代化を支える価値とされる。
徐氏はこれを文化ナショナリズムとよび、インドや日本の思想家がアジア的文化が世界を救うといった時と同じ言葉使いだが、中身はそれぞれ違うと指摘する。ドイツやロシアの知識人もしばしばそのような「精神文化の優位」といった言説を雄弁に語ったと指摘する。
まさに、日本では30-40年代に、〈近代の超克〉として語られたことであり、それ以後もたびたび繰り返されたものだ。しかし思想はある社会のなかで有機的に切り離しえないものとして切実に存在しており、そう簡単には客観的評価できない。中国である切実さにおいて文化ナショナリズムが存在していたことを知るのは、日本のそれを理解するためにも参考になる。
日本と中国のどちらが東アジアの文化を代表しうるのかといった問いは、異一見愚かに見えるがそうでもなく、言説を支える土俵に影響している。

次に、ポストモダニズム。ポストモダニズムは近代という価値基準を放棄する。
科学、民主、理性といった価値を真正面から取り組むべき価値として追及してきた知識人たちの営為は全否定される。それらは資本主義的概念として否定される。
しかし、と徐は言う。五四新文化運動は確かに西欧啓蒙思想の借用ではあるが、そのままの輸入ではない。五四運動は儒家の礼教、三綱五常という悪しき慣習と闘ったのだ。伝統を切り捨てたのではなく、顧炎武から章炳麟に至る「破壊と継承の闘い」がその根にはある。同じように八十年代の新啓蒙運動も当時の中国の状況、矛盾(文革の暴虐など)に向き合い解決しようとしたものだ。

次に、「新左派」理論というものがある。
冷戦終了後、先進国での資本主義批判はポストモダン思想とも交流しつつ、活発化した。フランクフルト学派などの批判者たち。彼らは、前に進むようなふりをしつつ、古いものを懐かしみ、精神を崇め立て、物質を否定し、大衆を蔑みつつ、大衆の導師として振る舞い、エリート的である、と徐は批判する。(まあ、フランクフルト学派が古いものを懐かしんでるだけと言われると違う気はするが。)
リベラリズムは結局は巨大な集権的国家建設を支持するものだといったマルクーゼの言葉を、かなり強引に引用し、さらに胡適の例を引き、リベラリズムは専制を支持するものだと結論つける(王彬彬氏)。

90年代、市場経済を発展させていくという目的のために人々は経済的リベラリズムを学んだ。
中国ではずっと、個人主義は極端なけなし言葉だった。しかし、多くの西欧の思想家たちを、上記のような様々な論争のなかで受け入れることで、中国人もリベラリズムへの理解を深めていく。
1997年から中国でも法治国家という原則が確立される。「法は人よりも大きく、法はその他のいかなる権力よりも大きい」ということを中国人も徐々に理解していく。それは党が国家に変わって直接権力を行使するという形を変えていくことである。
人が自由に生きていくためにもリベラリズムは必要であろう。
「こうした一つの連合体においては、各人の自由の発展が万人の自由の自由な発展の条件となる。」というマルクスの言葉でこの文章は締められる。

日本の思想史の百年近くを中国では20年で過ごしたみたいな感じもあって、忙しい。しかし中国の方が、ストレートに深く思想を問うているところがある。日本を考える上でも中国を知ろうとするのは必須であろう。

さて、1980年代は文革の反省としての西欧に学べとリベラリズムの時代だったが、その空気は89年六四天安門事件で終わった。90年代は、文化ナショナリズム/ポストモダニズム/「新左派」/リベラリズムと論争ははなやかだった。
2008年、〇八憲章。劉暁波拘束。2010年、劉暁波にノーベル賞。2012年、反日デモ。(2014年、台湾ひまわり運動、香港雨傘運動)。
2017年、劉暁波死去。2022年、習近平3期目総書記、独裁強化。
この間は、言論の自由は逆に狭まっている。

「現代中国のリベラリズム思潮」は2015年に出た本である。その後8年間中国の言論の状況はどう変わったのか。先日、この本の著者の一人秦暉氏の講演が神戸大学であったので聞きに行った。現在の政治などについての意見を言う自由がほとんどないことが彼の雰囲気から分かった。8年前に比べても中国の言論の自由は大幅に狭まっているようだ。
ただし、五四運動以降、あるいはもっと長く三千年前からの思想の流れを考えても、リベラリズムは中国思想と無縁の外来思想ではないので、いつか復活するしかないだろう、とこの分厚い本を読んで思った。

図書館にネトウヨ本が多すぎ、申し入れした

□□市教育委員会 様
□□図書館長 様

いつも図書館を利用させていただいております。
優れた本をたくさん購入してくださってありがとうございます。

ただ、先日□□市図書館○○分館の開架図書をずっとみていたところ、一群の本が気になりました。
歴史修正主義的な本です。
これらの本は、主にアジア太平洋戦争に触れています。終戦(敗戦)までは「大東亜戦争」と言っていました。

日本と中国の対立と、それによる満洲をめぐる国境紛争により発生した日中戦争(支那事変)は予想外の総力戦となり泥沼化しました。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ることになる。そしてそれを認めない英米と戦争するに至ったわけです。それを欧米に植民地化されたアジアを開放する戦争だとして美化し、東南アジア、インドなどの人びとに支持してもらおうとしたプロパガンダが「大東亜共栄圏」建設です。

歴史の見方は歴史家によって異なりますが、自民族(日本)だけを正しいとして、日本に不利な証言などはできるだけ採用しないようにして本を書けば、かなり偏向した「歴史」本が生まれます。しかしこの20年ほど特にそのような戦争中の歴史観に先祖返りしたような観念に基づく本や雑誌が多く書かれ、それを支持する政治家や市民なども増えてきていました。書店ではそのような本を買う人も少なくないようです。図書館に希望する人も多いのでしょうか。かなりの冊数の本があります。すべてリクエストに応じて購入したものでしょうか?

図書館ではどのような本を所蔵すべきなのでしょうか。
社会教育法では「実際生活に即する文化的教養を高め」るといった言葉があります。
また総務省は「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」を推進する「多文化共生」を進めようとしています。
そのような観点から見た場合、下記の本たちはかなり問題があるのではないかと考えます。

去年京都市宇治市のウトロというところで放火事件が起こりました。
犯人は当時22歳の男性で、特定の出自(朝鮮)を持つ人々への偏見や嫌悪感といった動機をもって、放火を犯してしまったのは民主主義社会では許容されないと、判決に記されました。
またその後、「日本を滅亡に追い込む組織」であるとしてと立憲民主党の辻元氏事務所やコリア国際学園、創価学会を連続襲撃した事件も起こっています。
上に書いたように、日本が朝鮮を植民地化し中国・アジアを侵略したことは事実です。ところがそれを日本の1945年までの歴史と努力を全否定するものととらえて、反発する思想によって書かれた低劣な本は多いです。これらの犯人はおそらく、そのような本やネット記事を読み、日本人は朝鮮人などより優れているなどの誤った思想をもってしまい、そのことが犯行の原因のひとつにもなったのではないでしょうか。

そうだとすると、そのような思想を展開している本を一般市民に対し積極的に公開していくことは良くないのではないか、と考えられます。

わたしが貴市の図書館から抜き出した下記の本は、おおむね上に書いた大東亜戦争肯定論的な構えに立ち、日本軍の残虐行為をできるだけ小さく描写し、朝鮮・中国人の欠点をことさらに強調するといった特徴を持っています。しかも学者の書いた本に比べ、扇情的で読みやすい文体で書いてあります。

以上書いたことについて、次のとおり質問します。

1,これらの本についてレイシズム的思想を拡散する本だと評価できるのではないでしょうか?
多数の本の中から限られた本を購入するに当たっての「選書基準」はどのようなものなのでしょうか?

2,そうである場合、これらの本をとりあえず、開架から閉架に移すことはできますか?
3,廃棄する場合は、市民への無料配布ではなく、直接廃棄する方が良いと思われますが、いかがでしょうか?

以上のとおり質問します。


歴史修正主義的な本の一覧
別添のとおり   2022.12.18


☆ 私がいいかげんにセレクトしただけで、124冊にもなったことに驚きました。いままでずっとそれが当たり前だったのなら、わたしの主張が通ることはないかもしれない。

私の書いた理屈は左翼・リベラルなら普通のものだと思われるのに、いままでこういう活動をした人がいない(みたいな)のはなぜだろうか? 検閲禁止みたいに思う人がいるのかもだが、そもそも図書館は無数の本の中で特定のその本を選んで買っているのであり、なんらかの価値があると判断しているわけだ。歴史修正主義的(民族差別的なものを含む)かつ扇情的な本をこんなにたくさん所蔵する必要はない。

☆ また、むしろ左派的な本が今後追放されていくきっかけを作るのではないか?という危惧を言う人も多いと思います。世の中の右傾化は止んでいないので、そうした可能性も全否定はできないかな、とも思います。でも正しさを素直にいろいろなところでふつうに主張していくのが大事なのではないか。

ご意見いただければありがたいです。

歴史修正主義的な本の一覧

香川照之〜水木しげる〜従軍慰安婦のこと

 https://nhkbook-hiraku.com/n/n2e8e11f7d8fd
柚木麻子さんという方のこの文章はとてもすばらしい!

香川照之=「「彼」自身がどうして自分が加害に至ったか、どんな心情だったか、そして今、何を考えているのか、自分の言葉で語るべきなんじゃないのか。」を強く支持したい!
 
ところで、「NHKスペシャル 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」を見た。

国民的漫画家として顕彰される水木しげるを香川照之が演じている。冒頭で水木が料亭で女性と遊んでおりそれが女房にばれて怒られるシーンがある。ここで水木はそれは私ではなく別の「水木さん」がやったことだと下手な嘘をつく。そしてこの嘘をずっと展開していく。
水木はラバウルに旅行し戦後28年経ってから、何かに突き動かされるように「総員玉砕せよ!」を書く。つまり総員玉砕命令を受け自分だけ生き残った水木に対し、戦友たちはかなえられない欲望、食欲(バナナを食べたい)と性欲(慰安婦を抱きたい)を抱いたまま無残な死をとげた。熱帯の蝶の幻とともにその〈欲望〉が水木に取り付き、「もうひとりの水木さん」としてバナナを注文したり女遊びをしたりするというのだ!そして水木を動かし自分たちをむりやり「玉砕」させた旧軍を糾弾するマンガを書かせる。
香川照之の酒場の女への乱暴なセクハラが糾弾されている時期にぴったりなドラマでびっくりしたが、これは2007年放送のドラマ(脚本:西岡琢也)。

〈というようなことでピー屋の前に行ったがなんとゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピー屋の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。
これを一人の女性で処理するのだ。略
とてもこの世の事とは思えなかった。 引用元
 
慰安婦問題についてはこれ以後も膨大な表現が生まれたが、右派のそれはすべてこの一節で粉砕されていると言いうる。

このドラマは、二度目の玉砕命令をうけた水木と戦友たちが命令した参謀の前で、「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌うシーンの直後に終わる。
これは慰安婦問題論争のなかで取り上げられることが少ないテーマなので、ここに書いておきたい。つまりここでは上官の(ある意味できまぐれな)命令によって死に追いやられる兵士たちが自らを、(兵士たちによって身体をなぶりものにされる)慰安婦たちに完全に同化させているわけである。
死に近い者同士の純愛を謳い上げるような小説は他にもあるが、この場面ではそのような愛や美の要素は一切なく、ただ死に追いやられる無残さだけが強調されている。
いわゆる慰安婦問題とは、「従軍慰安婦」の被害に対して旧日本軍の加害責任がどの程度あったのかをめぐっての論争である。この場合、水木のような下級兵士は加害者の側に置かれる。
しかしこのドラマはどこまでも下級兵士の被害を明らかにさせたいという被害者(死者)の側に立ちきることにより、むしろ旧日本軍幹部を加害者とよび、自分たちは慰安婦たちと同じだ、と語っている。
「従軍慰安婦」をググると「日本政府はアジア女性基金と協力し、慰安婦問題に関連して各国毎の実情に応じた施策を行ってきた。」という日本の外務省の文章が一行目に現れる。
日本政府が責任を果たしたのかという問いは、外交的な問いであるかのようであり、そこから出発すると「慰安婦たちの現実はそれほどひどくなかった」のではという疑問を追求することが真実に近づくことだという錯覚も生まれる。
慰安婦問題の本質は、そうした女性たちが膨大に存在した事実を謙虚に認めることが第一歩である。
多様な慰安婦女性たちがおり、もっともひどかった事例、異国についてその晩に自殺してしまったとかの場合は、説得力のある証言は残し得ないことに留意すべきである。兵士の側も水木や武漢兵站の山田清吉氏のような例外的にかなり良心・善意を持っていた人が記録を残していることに注意しなければいけない。

日本の下級兵士たちは被害者だったからといって、慰安婦たちにとって加害者でなかったかといえば、そうも言い切れないだろう。
敵兵だけでなく上官からもつねに脅かされ加害されていた、自分たちに(偽りの)愛情と生身の肌を提供してくれる菩薩のような存在だった、生き残った水木たちにとって、彼女たちはむしろそういう存在でなければならなかった。

それを大きく裏切ったのが1991年の金学順らによる日本軍への告発だった。そうであるにしても、下級兵士は日本軍幹部の側ではなく下級慰安婦の側に感情移入する存在だったという真実は変わらない。
慰安婦問題を、韓国国家が日本に文句を付けてくる問題だと捉えるネトウヨたちは、地獄へ行くべきだ。

戦後朝鮮という悔恨!

麗羅という在日作家(1924-2001)の『体験的朝鮮戦争』という小説を読んだ。1992年の作品。
1945.8.15に日本が降伏し(光復節)てからの3年、1948.9.9に朝鮮民主主義人民共和国が発足し分断体制ができあがるまでの朝鮮半島は、混乱の時代だった。南半分では独立・革命への強い欲求を米軍がむりやり押し止めていたとも言える。

朝鮮の独立については1945.12月米英ソ三国外相によるモスクワ協定で、朝鮮米ソ合同委員会および臨時朝鮮政府の設立が決まっていた。そして米ソ共同委員会が開かれ、過渡政府樹立のためのプランも発表された(46.3.20)。しかし米ソの意見の違いは大きく共同委員会は休会となる。

1947.10.30国連総会は朝鮮への国連の委員団を派遣することを決定した。(ソ連はこの上呈自体をモスクワ協定違反として反対。)p116
委員団はソウル到着後、3/31までに南北同時に総選挙を実施する、それにより朝鮮国民政府を樹立するための議会をつくる、などと発表した。しかし、ソ連及び左派はこれに賛同せず南北同時選挙は実行できなかった。
75年後(分断されたまま)の今日から振り返る場合、仮に実行していたらどうだっただろうかと考えてみることは、できる。

当時の朝鮮全体の人口は約3000万人、北1000万、南2000万と考えてよい。
ソ連と北の指導者は、勝利する自信がなかったから、総選挙に反対したと麗羅は書いている。p121
しかし南では左翼に対する支持の方がかなり圧倒する可能性があった。であれば合計でも勝てる可能性があった。
しかしその場合も、南での左翼支持勢力が北での左翼支持勢力を上回った場合、左翼(共産主義陣営)の指導権は南の指導者に握られる。また北での左翼を支持しない勢力がかなり多かった場合も面目を失う。ソ連および金日成にとってはいずれにしても避けなければならない、と判断された。
朝鮮民族全員の民意を素直に問えば左派が勝利していた可能性がかなりあったのに、金日成は自己権力の維持を第一目標とする考えであったため、それをやろうとしなかった(と言えるだろうか)
今にして思えば、全国同時選挙をやっておきさえすれば、分断をさけることができたのでは、といった思いを抱く人があるだろう。その場合、金日成体制をさらに覆していくことも必要になる。(日本人でしかない私がとやかく言うことではないが)
歴史に対してこのような感想を付け加えるのは、まあ愚かなことである。しかし朝鮮戦争休戦後69年も経つのに、停戦すらできず、統一の目処も立っていないのは不条理すぎる。自分に引きつけて考えようとすると愚痴にならざるをえない。

なぜこんなことになってしまったのか。そしてそれがこんなにも長く続いているのか。その嘆きは麗羅のものでもあった。
朝鮮共産党の指導者朴憲永たちの振る舞いも、こう振る舞っていれば歴史はこうはならなかったはずだ、といいたくなるところが二つある。
「開放直後は、朴の率いる南の朝鮮共産党(ソウルに本部)が主流で、北(平壌)に本部の党は分局に過ぎなかった。それが北労党と南労党になってからは双方の立場が対等になり、モスクワの指令で南北が合党して朝鮮労働党になってからは、北派が主で南派は従といった力関係になってしまった。
朴憲永は、年齢、学識、理論、共産党員としての組織生活や闘争経歴などすべての点で金日成をはるかに凌駕する。」であるのに、党でも政府でも、金が主で、朴は副というポジションに甘んじさせられた。もちろん、金日成はソ連軍の傀儡としてそのポジションを占めていただけだが後にそのポジションを利用して他の指導者を順次粛清していき独裁を完成していく。

麗羅が朴憲永の第一の間違いとして記すのは、下記だ。
「1946年の大邱人民抗争以来散発的な抵抗運動を展開しながらも、1947年の夏において、全面的な革命戦争の開始を躊躇したことである。その時点では、南における南労党の組織率は60パーセントを越えていた。朴憲永が蜂起を命じたら、アメリカ軍が駐留する二、三の都市を除いて南の大部分は数日のうちに制圧できたことは間違いない。」(P195)
そして、
「第二の間違いは、朴憲永は絶対に北に行くべきではなかったことだ。
彼が北へ行ったのは1947年の春で、左翼陣営にたいするアメリカ軍政庁の弾圧がきびしくなったために一身の安全をはかってのことだといわれているが(略)。
彼の北行きは、軍人でいえば戦線離脱であり、危険水域にさしかかった船の船長が、船と船員を見捨てて逃げ出したに等しい。(略)
彼は南を離れていたから、その夏の一斉蜂起の絶好の機会を逸したのだ。
そして、朴が越北したのちの南労党は司令官を失った軍隊にひとしく、地方幹部たちは局部的に果敢に闘争を展開したが、全体的には頽勢の一途をたどった。
一時は成人男子の6割以上を獲得した南労党(左翼陣営)の地上組織は、1947年8月から翌48年の3月までにほとんど壊滅して地下組織のみが細々と存続する状態に追いこまれ、頼みとするゲリラ闘争も相次ぐ討伐と隊員の脱落によって日を追って弱体化するばかりだった。」
それでも「南北を統一するには南に人民革命を起こして共産党が権力を把握したのちに、北の共産政府と合併する」という発想を捨てなかった、朴憲永は。
それに対して金日成は「北の人民軍を投入して南進統一する」発想を捨てず、朝鮮戦争を起こす。全面武力対立は金日成の目論見に反し米軍の全面反攻をもたらし、結局戦争は勝てなかった。金日成は戦争の責任を取ることもなく、権力を維持し続けた。
(ここからは野原の感想だが)ソ連監視下の平壌という狭い場所での権力闘争というゲームにおいて、朴憲永は金日成よりずっと下手だった。そして70年後も金日成の孫が自己権力を維持し続けていることを私たちは深く気づくべきである。
つまり、朴憲永の共産主義、ソ連、そうした理想への期待が、リアリストであるべき政治家の目を狂わせ敗北に至った。そしてその問題は私たちにおいてもまだ終わっていないのだ。

『淫教のメシア 文鮮明』による統一教会の教義

萩原遼の『淫教のメシア 文鮮明』晩聲社、この本は1980年に出された本でだいぶ古い。
世界基督教統一神霊協会。(2015年世界平和統一家庭連合への改名が文化庁に認められた)「協会側は統一協会とされることを好まず、統一教会とせよとマスコミなど報道機関にねじこんでいる」p8とある。

この教団は「混淫・血分け」系の教義を持つとされる。

統一教会の特徴は集団結婚式である。この式次第の秘密の部分を含む詳細は
鄭鎮弘「宗教祭儀の象徴機能  統一教の祭儀を中心に」(同書p152-154)に書かれている。重要なので、ここに引用する。

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このなかで、神学的に最も重要なのは
②聖酒式の
・文先生(文鮮明)がすべての新婦たちの手に一回ずつ手を重ねて通り過ぎる。
・つぎに聖酒を文先生が先に飲み、それを新婦全員に分け与える。新婦たちは礼をしてそれをもらい飲む。 のところである。
手を重ねる、「それを通じ、先生の身を受けてから相対者と霊的肉的に一体となる。結婚式といいながら、文鮮明と新婦が一体になることが決定的に重要なわけである。それによって「原罪を負った汚れた血統は転換された」とする。p22
これは神学的には宇宙創造的な儀礼的性交である。
1961年5月15日 – 33組聖婚式(ソウル市前本部教会)までは、おそらく実際にセックスが行われただろうとする。p24

聖書ではエデンの園でエバは蛇によって誘惑され堕落することになる。統一教会では蛇とはサタンでありそれとセックスすることによりエバは悪の血統となり、それとセックスしたアダムも悪となる。
普通のキリスト教でも人は堕落状態にあり、十字架のイエスへの信仰をとおしてのみ救済に到れるとする。しかし統一教会では、再臨したメシアである文鮮明とセックスすることにより、人は救済に至りうるとする。これはまあ奇妙ではあるが神学的には筋が通っている(?)

1930-40年代の朝鮮には混淫・血分け派といわれるさまざまな教団が活動していた(また弾圧されていた)。
1930年代の平壌では李龍道や黄国柱という教祖が居た。彼らは神との霊的合一を新郎に対する新婦の性愛に例える。

・文鮮明はすでに10代でソウルの李龍道の「イエス教会」に参加したとの説もある。
同書p57-59に統一教会内部の秘密文書「主の路程」が紹介されている。
「ある時、礼拝で代表祈祷されている時、その祈りの深さに全員が驚き、ある婦人はおもわず泣いて抱きしめ、自分の家に下宿することを勧めた」でまあ文少年はこの婦人とセックスしたわけですね。彼らにとっては「聖血を分け与えることは堕落の血をうけついだあまたの女性救済の聖なる行為であったのだ」p60。彼が教祖になる前からそういう神学があったわけです。
・文鮮明がだれから血分けされたかについては諸説あるが、鄭得恩かもしれない。p64 鄭得恩は黄国柱の弟子らしい。文鮮明が鄭得恩に伝えたという説もある。

・とても「いやらしい」話ではあるが、まずはあくまで神学的な教説であると理解しなければならない。
・なお、1980年に出されたこの本の段階では、「日本はエバ国家」とか「日本の植民地化の贖罪」といった理論はあまり強調されていなかったのではないか。

いかにも下世話な興味を引きそうな極秘文書「主の路程」、参考までに引用してみる。
戦中、戦争直後の文鮮明については資料もすくないなかを萩原遼がまとめたものです。ニュアンスを確認し読み解くために彼の本『淫教のメシア 文鮮明』を読んでください。(図書館にはあるだろうが)
http://666999.info/liu/bunsenmei0.pdf

以上書いたのは主に、40〜50年代の統一教会確立期の教会の教義である。統一教会は、KCIAの介入以後政治的団体としての側面も持つ。そして多くの関連組織を持ち、教義などすらカメレオンと言われるほど変えていっている。しかも徹底的に嘘つきである。
以上書いたことは根本教義なので意外と変わってないのではないかという気がする。

815と朝鮮独立

 朝鮮人にとっての八一五(1945.8.15)について、書き留めて置きたいと思う。
 ある本は、ある女性(劉)が夜が白む頃、部屋の高い場所にある小さな窓が明るくなってくるのに気付くシーンから始まる。(今気付いたが)このシーンがすでに十分暗示的である。民族の未来がかすかに明るくなり始めることを暗喩している。

「たった一つきりしかない明かりとりの窓を(略)見つめて、今日まで暮らしてきたのだった。(略)この国の何千、何万というものが、そうして耐えて来たことであったのだ。」p7
劉は仕事に行こうとするが母屋の中学生(今の高校生くらいかも)に呼び止められる。「(略)重大ニュースがあるんだ。正午に、日本の天皇が放送をするんです。(略)いよいよ、戦争は終わりです。」
「やがて正午、はげしい雑音に包まれたなかから、その声が聞こえはじめた。(略)
「……万世のために泰平を開かん……」(略)
「どうしたえ。戦争、どうなったというのだい?」
「いえ、たったいま、戦争が終わったのです。わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」p9

 この中学生はなぜ放送前から放送内容を知っていたのか。彼は日本人ではなく朝鮮人だったから、植民地支配への抵抗の意識を持ち、日本支配の終わりを切望していただろう。当時の中学生は知的エリートである。で西欧近代の文学や思想を学ぶことは直ちに、日本支配への抵抗意識の萌芽を持つことになる。中・高等教育自体、日本が与えたものであり、皇国主義的教育がなされていたにも関わらず、反発する生徒の方が多かった。

 もちろんこれは小説ではある。1964年から68年までに日本で日本語で在日朝鮮人作家金達寿によって書かれた『太白山脈』という小説である。ただ私は、815以後の動乱及びその時の市民の一部の気持ちを報告しているかのように読んでしまった。

 815の放送を聞いて多くの日本人は呆然とするばかりで、新日本建設と勇み立った人は居なかった(2,3ヶ月後には出てくるが)。三木清が獄中死するのは9月26日と敗戦42日後であるが、その時まで彼を獄から奪還しようと押しかけた人はいなかったのだ。日本の統治機構の正当性が少しでも揺らいだことは本土ではなかったということだろうか。

朝鮮人の場合は、「わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」という明確な意志を持った人が(絶対数はそれほど多くなかったかもしれないが)居た。大日本帝国の支配が米軍中心の支配に横滑りすることを日本人のすべては受け入れたが、それは韓国人には受け入れ難いことだった。日朝一体という美名の下の日本支配が破れた以上、次の支配者は朝鮮(韓国)でなければならないことは自明だった。 

 もう一冊の本を読もう。『太白山脈』(趙廷來・チョウジョンネ)全10巻の最初の巻から。1983年から1989年まで、韓国で韓国語で書かれた作品で、作品名が同じなのは偶然。

「その日、八月十五日は右往左往しているうちに過ぎ去った。十六日もさまざまな噂が乱れ飛び、人々が不安気な顔で目を見合わせているうちに日が暮れた。ところが腸(はらわた)にしみいるような農楽隊が演奏する銅鑼(どら)や太鼓、ゲンガリ(鉦)の音が鳴り響き、思わず踊りたくなるような軽やかなリズムが湧き起こったのは、十七日の朝からだった。村の神木の下で農楽隊を幾重にも取り囲み、ぐるぐる回り、ひと塊になって踊っていた人々は、遂に町へ町へと繰り出した。

 町の通りという通りは村々から集まってきた農楽隊と人々でごった返し、町の人々までもがその渦の中に巻き込まれ、興に乗って踊り狂い、歓喜に満ちた叫び声を上げた。ケンガリが早い調子で音頭を取り、それに負けじと銅鑼や長鼓(チャンゴ)、さらに太鼓や小太鼓も必死になって後に続いた。農楽隊のその息もつかさぬ早い調子に合わせ、多くの人々は一つになり、何かに憑かれたように踊りまくった。そんな彼らの顔は笑ったと思ったら泣き、泣いたと思ったら笑いながら汗だくになっていた。くたびれた木綿の服もじっとりと汗で濡れていた。

何かに憑かれたような、人々のそんな姿を眺めながら、安昌民はぐっとこみ上げてくる、胸がはりさけんばかりの喜びをともに分かち合っていた。
(略)
(略)人々は解放を一日中農楽の拍子に合わせて踊ったり、涙ぐむことで終わらせはしなかった。村々の長の首をすげ替えることから始めて、その影響力を町にまで広げてきた。警察署はもちろんのこと、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出し、手の汚れていない者を新たにその任に就けよと言って示威運動を繰り広げた。そして、あちらこちらの村で親日行為をした者や悪質な地主たちが報復を受け始めた。p399」

 815から一日半、不安とためらいの時間を過ごした後、十七日の朝から人々は踊り始める。村の神木の下での農楽隊の踊りは大きくなり、そのまま町へ町へと繰り出していく。町ではケンガリ、銅鑼や長鼓(チャンゴ)、と言ったリズムがさらに早くなり、踊りは憑かれたように続く。それは長い間、日本帝国主義とその手先になった親日派の軛の下でひたすら耐えてきたエネルギーが一挙に爆発したのだ。そしてそのエネルギーは遅滞なく、地域の支配者たちに向かう。村々の長の首をすげ替え、警察署、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出す。

「人々は自然に一つになり解放の喜びを分かち合った力を、新しい社会と新しい国作りに向けていった。安昌民は、その正確な判断と統一された自発性と迅速な実践力に驚かずにはいられなかった。
(略)
人々のそのような自発性によって建国準備委員会と治安隊が組織され、建国準備委員会の支部は直ちに、人民委員会と名称を変えた。人民委員会のさまざまな機構に、親日派や民族反逆者たちが近寄ることすらできなかったのは言うまでもない。五万はいるであろう筏橋の人口の九割が農民であり、その農民の八割以上が小作人である彼らが、人民委員会に望むものが何であるかは明々白々だった。それは土地問題の迅速な解決だった。その要求と共産主義革命とは寸分違わず合致していた。開放された国土の雰囲気はどこも一緒で、それはまさに、革命に通じる道だった。人民は、革命イデオロギーの巨大な燃料タンクとして、点火されるのをひたすら待ち焦がれていたのである。」

 人民委員会によるほんものの革命が始まる。革命の原理は簡明だ。人口の第多数は貧しい小作農民である。自らが耕している土地を無料でまたは安価で自分のものにさせる、それが土地革命だ。これにより共産党は農民たちの強い支持を獲得することができた。毛沢東の共産党軍も同じだが。
 趙廷來・チョウジョンネは、この人民委員会の革命に肯定的な立場を取っているようだ。全斗煥政権下に書かれたときには、危険を犯していたということだろうか。

 金達寿氏の本に戻る。(p206)
「あの(八月)十六日の大デモンストレーションにしてからそうだが、民衆はまず、われわれの閉じ込められていた監獄の門を開かせるとともに、それまで屈することなくたたかいつづけて来た自分たちの指導者をさがしもとめた。(略)ソ連軍とともに金日成将軍がソウル駅に凱旋するといううわさがつたわり(略)このときから、八.一五以後のわが朝鮮の進路ははっきりときまったといっていい。つまり、共産主義者と社会主義者が先頭に立って、独立と革命を同時に、しかも即時に遂行するということだった。」


「はっきりきまった」と言っているのは共産主義シンパの作中人物である。

「全国いっせい蜂起するかたちで、いたるところに各級の人民委員会がつくられ、労働組合が結成され、農民組合が生まれ、青年学生が組織され、婦人が同盟をつくり、国軍準備隊という軍隊までがつくられた。(略)九月六日には、このソウルで中央人民委員会が結成され、朝鮮人民共和国が宣言された(略)。」


 しかし、翌日九月七日に米軍司令部が朝鮮における軍政実施を宣言する。その時点で、朝鮮人民共和国ないしそれに準ずる左派ないし民族主義的勢力はすでに各種組織なども整備しつつあり、米軍司令部の支配に強い抵抗をする力を持っていたわけだ。
 金達寿氏の本は翌年十月くらいまでを扱う。かなり無理があった米軍司令部による支配がいかに勝利していくかを描いているとも言える。

 一方、趙廷來「太白山脈」は。光復から3年後、1948年10月からの、全羅南道宝城郡の小さな町・筏橋(ポルギョ)での、左派活動家・パルチザンたちの活動を描く大河小説である。1948.4.3済州島民の蜂起、5.10南部単独総選挙、8.15大韓民国成立、9.9朝鮮民主主義人民共和国建国という大きな動乱。人民による国家を志向する巨大な運動、10月はその落日が見え始めた時期とも言える。
 さきほど引用したのは、その小説の1巻の終わりの部分で、登場人物が光復直後を回想するシーンである。(私は1巻しか読んでない。)

民主主義とは民衆による支配であるわけだが、実際の民衆、生きて苦しみ喜ぶそのような直接的レベルの民衆が、踊り狂い、その熱狂のままにいわば一般意志というべきものを形成し支配する。実際にあったこととどの程度近いのかは、分からない。しかしそのようなユートピア的支配を十全に描き美しいと思う。

しかし、「これから独立するのです」という断言を実現することができたそのようなことがあったとしても、それは長く続かず、米軍のような外部の暴力に圧迫され、また朝鮮人内部の対立、裏切りなどで、悲惨な流血がこれから積み重なっていくことになる。
趙廷來・チョウジョンネの描いたユートピアはユートピアに終わることが確定している以上、わざわざその70年前の夢を引きずり出して確認することは意味のないことではないか?という気もする。しかし、絶えざる民主化闘争とそれに対する苛烈な弾圧という数十年を耐え抜き、民主主義の現在を形成することができたに至った韓国の歩みは、やはり尊敬に値するものだろう。趙廷來が描いたヴィジョンといったものの変奏が、民主化闘争の困難な歩みを支え続けたということがあっただろう。1980年ごろから、左翼的思想を社会から追放しそれでやっていけると信じた日本社会が、進歩に逆行し信じられないほどつまらない社会になってしまったことを考えるとなおさらだ。

 革命の夢は必然的に挫折する。しかし私たちの現在が教えることは自由な民主主義も、時として低レベルの国家主義やシニシズムと合体し、救いがたい行き詰まりに陥るということだ。
 私たちがふたたび革命の夢を見ようとすることは、かならずしも愚かしいことではない気がする。(何をもって革命と言うのかを、空白にしたまま言うなら)

参考:在日朝鮮人作家列伝 01 金達寿(キム・ダルス)  林浩治氏 による「太白山脈」の紹介
https://note.com/torabuta/n/nd4bdeeba288c#yH8vY

私はむしろこの時代の歴史の事実経過を知りたいという動機が強かった。したがって、上記ブログからこの部分を引用しておきたい。
「小説では、金達寿がこの時点では金日成を強く支持し信奉していたため、朴憲永ら南朝鮮に於ける共産党指導者の名はほとんど出てこないが、46年9月のゼネストや、大邱を中心に農民を加えた十月人民抗争の指導者として朴憲永はアメリカ軍政当局に追われ越北して逃れる。」

台湾/香港/国家観念

『思想』2021年10月号の「帝国の非物質的遺留――台湾と香港の被占領経験の相違について………鄭鴻生(丸川哲史訳)」を読んだ。
それなりに面白いことを書いているのだが、なんだ結局、親中派、反香港騒動(2019年-2020年香港民主化デモ)にもっていきたいのね!という感じ。#丸川嫌い
思想の言葉で、倉沢愛子氏は、日本人が現地人、アジア系外国人を使う時に、「微妙に隠され、表立って問題視されない発言の背後に、「上から目線」に起因する蔑視や潜在的差別意識が忍んでいる。実は私だって、偉そうなことを言っているが、気づいていないだけで、無意識のうちにそのようなことをしているケースはたくさんあるのだと思う。」と述べている。これは現代日本人として考えなければならない点だ。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5290

香港は1842年に、台湾は1895年に植民地になり、住民は近代化に巻き込まれていく。1945年光復と1997年返還時、台湾香港の中上層市民たちは近代の帝国が与えた植民地近代をたっぷり味わっていた。それから見ると母国は遅れて見えた。この意識を端的に表すのは、国民党軍を嘲笑する「蛇口の物語」である。植民地モダニティを持った台湾香港の市民は植民地モダニティを与えられ、母国の遅れに対する差別的心理を持つことになった。(『無意識の優越感は日本人のような「先進国人」だけが持つものではないのだ。)
まあそういうことはあるかもしれないが、巨大な香港民主化デモをそうした差別意識で説明することはできないだろう。民主主義、あるいは「自分たちのネーション」に対するどこまでも熱い思いがそこにあったはずだ。
しかし、鄭鴻生はそのような理解はしない。中国人の民族と国家を獲得するための戦いは抗日戦争でピークを迎える。左派あるいは右派という形で「国家観念を持つ」ことになった。この「国家観念」に基づき鄭鴻生は「民主派」を国家観念の欠如と決めつける。
五四運動以来の新中国を模索する革命的運動を警戒した英領香港政府がかえって漢文書院系の教養を重視したという経過によって、香港の政治文化の土台たる広東語の豊かさが形成される。それ以後も戦後75年さまざまな経過を消化しつつ香港の政治文化は営まれてきたことを自身は的確に語っている。中国共産党(あるいは国民党)に求心するべき「国家観念」だけを基準に裁断することができるものではないことは、この論文を読むだけでも分かるのだ。

香港民主化デモの巨大なうねりは、中国共産党勢力の厳しい弾圧によって現在見えなくなっている。中国や日本といった大きな主語(国家観念)によってだけ歴史を語ろうとすることは、歴史と民衆のダイナミズムを取り逃がしてしまうのではないだろうか。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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