戦時・性暴力連続体と女性のエイジェンシー

上野千鶴子・蘭信三・平井和子編集の『戦争と性暴力の比較史に向けて』という論文集を読んだ。研究者12人による論文集である。
以下、ランダムなメモ。

戦争は物理的だけでなく構造的暴力である。人間を従属下に置きコントロールすることである。「強姦から売買春、恋愛まで、さらには妊娠、中絶、出産から結婚までの多様性を含んでいる。」このような連続性を語るのは「事実このあいだに連続性があって、境界を引くことが難しいからである。」

「女性の異性間性行為の経験は……圧力による選択から力による強制までの、連続体上に存在する(リズ・ケリー)」
まあとにかく、「性暴力連続体」、上野が提起するそれを受け入れて話を続けよう。
強姦と犯罪化されないものはすべて無罪でありOKと考えるしかないという、ネトウヨ的基準をどのようにしても覆す必要は常にあるわけだ。

性暴力には連続性があるのに、そこにはさまざまな形で分割線が引かれる。

A.性暴力連続体に対して、加害者性の認定を最低限にしたいと考えるネトウヨや政府関係者は、法的に有罪であるものだけが有罪であり、それ以外は「道徳的に可哀想なだけだ」という分割線を、強く主張する。

B.しかし、日本軍の責任において慰安所が設置・運営されており、そこでの生活が離職の自由がないなど強制下のものであった場合は、日本国家に責任が生じるのは当然である。有責とされる範囲はA.の場合より広くなる。

C.さらに、兵士個人の犯罪とみなさざるをえないもの、軍から独立した民営施設における売春などでは国家の責任は直ちには問いにくい。しかしその場合でも、軍、占領、戦争といった圧倒的な暴力を背景にそれぞれの行為が起こっている以上、任意の自由な男女の関係とみなすことも適切ではない。

個人は十全の自由意志を持ち自己身体を自由にコントロールできる、というのが近代法を支える人間観である。しかし戦時性暴力を考察する時には、そうした「強い主体」を前提にすると、うまく分析できないことがある。

「エイジェンシー」という用語はこのような時便利である。
「エイジェンシーとは構築主義パラダイムが、構造と主体の隘路を突破するために創りだした概念である。それは近代の主客二元論を克服するために、完全に自由な「負荷なき主体」でもなく、完全に受動的な客体でもない、制約された条件のもとでも行使される能動性を指す。(略)
女性は制約のない完全に自由な主体でもないが、だからといって歴史にただ受動的に翻弄されるだけの客体でもない。
p11 上野千鶴子『戦争と性暴力の比較史に向けて』」

被害者としての立場で加害者を告発する、大きな暴力が存在しそれが抑圧され続けている以上社会的にはそれが、第一義的な課題となる。
しかしだからといって、女性は「たんに受動的な犠牲者」であったわけではない。さまざまな体験があった。「ときには強姦と売春、そして合意のうえでの性交を分ける線の幅の細さに、自分自身でとまどって」(同書p162)いながらも、ギリギリの生存戦略を選択していく。

売春という言葉を自由意志による商行為、すなわち管理者・軍の責任の全面免除という意味にしか理解しない自己の偏見を無理やり拡大することで、ネトウヨは世論にさえ影響を与えている。このような状況下では「エイジェンシー」という発想を提示することも、ひとつの困難さはある。しかし、どんな場合もひとはまったき自由の下では生きていない。まして、戦時性暴力という巨大な磁場のなかで生きる女性たちの実存に近づくためには、まずネトウヨ的平板かつ責任回避的問題設定をひていしなければならない。次にそれぞれの情況で女性たちが、どのようなエイジェンシーを行使して生きたのか、微細に見ていく必要もあるのだ。

性暴力被害者は常に、暴力からの被害と同時に、汚れた女〜売春婦差別という別の差別にもさらされ続ける。重層化する差別と抑圧はあるが、「従軍慰安婦」問題については、支援者側の支援・調査研究(試行錯誤からはじまった)の分厚い歴史がある。
ネトウヨ側のミスリードにさえ引っかからなければ、接近は難しくない。

ただまあ、結婚とかだとそれは100%祝福され無罪なものと考えられるので、戦時性暴力といったおぞましいものと関係があるとするのは受け入れ難いと感じる人は多いだろう。
しかし、「第二次世界大戦後、日本の連合国軍占領のために駐留していた米軍兵士と結婚し、米国に渡った日本人戦争花嫁は、戦後すぐから1950年代末までで合計約40,000人に達するといわれている[ウィキペ]。」
しかし彼女たちはパンパンと呼ばれ極端に差別され続けた女たちとかなり重なるカテゴリーである。敗戦国民や戦勝国民の良識派の人々からの差別も含めて考察する必要があるなら、この連続体の意味は明白にあるだろう。

追記:https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RA62V3XFWJZRL/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000612433
「上野氏は朴裕河氏の「帝国の慰安婦」に対する、傍目には奇妙としか言いようのない肩入れぶりをめぐって、いろいろと非難されている。」非難する側に立って上野氏をDISってこの本の紹介。面白い。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』がクズ本であるのは言うまでもない。→

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

在米「歴史戦」敗北の総括について

(1)
『海を渡る「慰安婦」問題 ー右派の「歴史戦」を問うー』は、岩波書店から2016年に出た本だ。著者は山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミと、テッサさんを除けばツイッターでおなじみの論客。
そのわりに、きちんと紹介されていないかもしれない。今回、ある特定の意図をもって、第2章アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃(小山エミ)の部分を読んでみたい。

2010年アメリカのニュージャージー州パリセイズパークに「慰安婦」碑が建てられた。次にカリフォルニア州グレンデール市でも「慰安婦」碑が計画されたが、これには一部の日系人による反対運動が起こった。ロサンゼルスでのこの反対運動の中心にいたのは目良浩一という人。この運動に集まった人の多くは1990年前後以降に渡米した新一世と呼ばれる人びと。それに対して、大戦中の日系人収容政策についてアメリカ政府から謝罪と補償を求めて以前から運動をしていた日系人のグループは、「慰安婦」碑設置に賛成する立場を取るに至った。

日系人収容所問題と「慰安婦」問題はいくつかの共通点がある。ひとつは1980年から1990年始めという、戦後処理としては少し遅れて始まっている点。また、アメリカで当時日系人が大日本帝国の手先かもしれないと危険視された背景には人種的偏見があった。「慰安婦」問題の背景にも、韓国人、中国人その他への(非日本人への)人種的偏見があった。などだ。「あとからやってきた保守系日本人たちが、(略)日系人代表のようなふりをして大日本帝国を援護する運動を始めたことに日系人が反発するのは当然だった。(p45)」

2013年7月慰安婦像設立。2014年5月、青山繁晴は関西放送で「日本人のこどもたちが毎日毎日、ひどいいじめにあっていて」と発言した。そしてこれは週刊新潮、週間SPA!などでも取り上げられ広く流布した。しかしこの「イジメ」が実在するのかどうか?検証しても証拠は出てきていない。

「こうした「日本人いじめ」について現地の日系人団体に聞いてみたところ、そのような噂をきいたことすらない、との回答が得られた。」さらに「日系人団体の人たちと協力して、現地の警察・学校・教育委員会、その他さまざまな機関や民間団体に問い合わせたが、やはり何の相談も通報も報告されていなかった。」現地の地方紙や全国紙、さらに日本の全国紙の記者も何も発見できず。東京新聞が外務省に問い合わせた結果も同じ。
「「日本人いじめ」の実態は、その実在を主張する保守派の側ですらつかめていない。たとえば、日本から杉田水脈をはじめとする次世代の党(当時)の現職国会議員三名画グレンデール市を訪れ、いじめ被害を受けた児童の保護者との面談を希望したが、結局見つからずに面談することができなかった。」(p48)

青山繁晴及び週刊新潮、週間SPA!などが取り上げた「慰安婦像に起因する日本人児童いじめ」の存在は疑わしい。ほぼまちがいなくデマである。この点について、杉田水脈さんの現時点での判断をお聞きしたいものだ。

(2)
目良ら「歴史の真実を求める世界連合会」(GAHT)がロサンゼルスの連邦地方裁判所でグレンデール「慰安婦」碑の撤去を求める裁判を起こした。藤岡信勝、山本優美子、加瀬英明らがメンバーだ。その主張の第一は、一自治体が「慰安婦」問題を取り上げるのは連邦政府だけが持っている外交権限を侵害するというもの。慰安婦についての歴史的事実については主張していない。また「日本人いじめ」などの具体的な被害の訴えもない。訴えは却下。次に州裁判所に訴えたが、「原告の訴えは「連邦主義と民主主義の根本的な原理に反するもの」だ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺するものだ」として、なんの正当性もないばかりか、自由な言論を封殺する恫喝訴訟だと認定」された。

一方で連邦控訴裁判所に控訴したと、小山本に書いてあったので、GAHTのサイトを見ると次の文章を発見。
「結果は残念ながら、米国最高裁判所への申請が採択されずに、控訴裁判所の判決が最終判決となったために、目的を達成することが出来ませんでした。しかし、最高裁に申請書を提出した直後に、それまで冷淡であった日本政府が、我々を支援するアミカス・キュリエと称する「意見書」を提出して、我々の申請を熱情をもって支援しました。 gahtjp.org/?p=1846 」
負けたのは当然だが、なんと日本政府が支援の意見書を出したという。日本政府に抗議したい。

(3)サンフランシスコ市で「慰安婦」碑公聴会
反「慰安婦」碑勢力は、アメリカ内で盛んにイベントを開催している。しかし、米国人などに訴えかけるために英語で行われたものは、大きな抗議活動に迎えられるのが常で、成果を上げていない。(同書p52-56)

2015年から今度は、サンフランシスコ市で「慰安婦」碑設置の動きが出た。
GAHTの目良、幸福の科学の田口、セントラルワシントン大学の岡田ら、多くの在米日本人が市議会に押しかけ反対意見を述べた。他の町でなかったのは、ジャパンタウンの有力者のうち数人が反対にまわったこと。それは在サンフランシスコ日本領事館からの働きかけによる。また大阪市も姉妹都市としてさまざまな反対運動をした。公聴会が開かれ、多くの人が証言をした。賛成派は元「慰安婦」・李容洙、日系人その他のアジア系アメリカ人など。
反対派は、目良、水島一郎、ロサンゼルスの日本人団体「真実の日本ネットワーク」の今村照美ら。
「目良は「二〇万人の被害者、強制、性奴隷など、慰安婦問題について言われていることはすべて嘘だ」と言ったのち、サラ・ソー教授の著書を振りかざし、目の前にいる元慰安婦の李を名指しして「この人の証言は信用できない」と批判した。」
しかし「ソーの著書では、元「慰安婦」の証言の一部に誇張や間違いが含まれることは、日本の保守派が言うような「日本は事実と異なることでいわれのない非難を受けている」ということを意味しない、とはっきり指摘している。」(p61)

このような老婦人に対する目良の侮辱は、議員に激しい反発を受けた。建設は全員一致の賛成を得た。

(4)2016年3月国連本部で
「同年三月には、国連本部近くの会場で、目良、藤木、杉田、藤井(論破プロジェクト)、山本(なでしこアクション)、細谷(日本近現代史研究会)、鈴木(ニューヨーク正論の会)、マラーノ(「テキサス親父」)が四回に及ぶイベントを開催し、日本語と英語で「慰安婦」問題は虚構であると訴えた。もっとも英語で開催したイベントでは、「日本人は弱者をいたわるが、韓国人はドブに落ちた犬を叩く文化だ」(細谷)、「あなたたちが信じているのは捏造だ」(目良)、「元慰安婦を自称する人には、政治的プロパガンダに利用されて、支援団体からこう話しなさい、ああ話しなさいというトレーニングを受けている人がいる」(杉田)などの発言で、聴衆から猛反発を受けていた。特に紛糾したイベントの後、杉田は「観客は全員韓国、中国に洗脳された桜ばかり」「挺対協や世界抗日連合が後ろにいて、国連の職員を始め、韓国人、中国人、日本人以外の人達を動員していた」とブログに書いたが、日本国内でしか通用しないような自分たちの発言が聴衆を完全に敵に回したという認識ができないのだろうか。」(p67)

以上が、小山エミ「アメリカ「慰安婦」碑設置への攻撃」という文章のつたない概要となる。
わたしの言いたいことは、反対派は反対の根拠を提出することがまったくできていない、ということだ。慰安婦は存在した。少なくともほとんどの慰安婦に離職の自由はなかった。つまり「強制的な状況の下での痛ましい労働・生活」を彼女たちに与えたことは事実であり、それが事実であるがゆえに、日本は河野談話と2015年と少なくとも2回謝罪しているのだ。
したがってわたしたちは「(被害者)すべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ち」を持ち続けている。したがって、慰安婦像を不快に感じることもない。杉田氏ら反対派のひとが何を言っているのか、何が言いたいのか、まったく理解できない。したがって当然、米国人や韓国人、フィリピン人なども理解できないだろう。

杉田水脈議員にお願いする。あなたがいままでやってきたこのような行動は馬鹿げているだけであり、米国人の理解をまったく得られず、日本の名誉をかえって傷つけるものであるので、直ちに中止してください。

九大生体解剖事件と有限性の責任

九州大学人体解剖事件
1945年5月17日から6月2日に4回、日本軍から米軍捕虜の提供を受け、九州大学医学部第一外科と第二解剖学教室第二講座が死に至る生体実験を行った。被害者は墜落した米軍機に乗っていた兵士8人である。

この事件についてのいままでの著作は、主に公判記録及び公判に関する宣誓供述書に基づいていた。非公開であった再審査関係の膨大な資料を(国立国会図書館から発掘し)精査してまとめたものが、熊野以素『九州大学生体解剖事件』(岩波書店2015年)である。

この事件の主犯格の、石山教授と小森軍医見習士官は裁判当時すでに死亡していた。そこで、事件の大学側関係者は鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森好良雄講師とされ、3名ともに死刑が宣告される。(後に減刑)
この本は、著者の叔父である鳥巣太郎(鳥巣と記す)を中心に記述される。

裁判の経過のなかで鳥巣は事件を反省する。その核心は次の二つの引用にある。

A)「林先生の証言は、その一言一言が私の肺腑を突き沈痛な思ひに悩みはつきず。げに真理は簡単である。私が参加したことに対する如何なる弁明も、何の訳にも立たぬことを改めて認識した。(略)
又しても「当時何故もっと意志強く迫らなかったか」といふことが今更ながら未練がましくも残念の極みである。」(48年5月林春雄証言を聞いて) p114

B)実際には、鳥巣は石山に次のように言った。
「先生、また、先日のような手術をなさるのですか?(略)
あのような手術は軍病院でするべきではないでしょうか。もし手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになると思います。(略)」 p34

鳥巣の行為・思想を中途半端だと指摘することはできる。一回目の実験に立ち会う際、彼は事情を知らなかった。しかし二人目の兵士の手術時、彼は理解していたのに手術を助けた。二回目の手術の前、鳥巣はB)発言をし、手術には遅れていく。しかし参加はした。
いずれにしろ、手は汚れていることになる。

戦争は日本の敗戦で終わり、捕虜虐待に厳しい裁判で臨むGHQの支配下、1946年7月鳥巣は石山教授外3人とともに逮捕される。石山は後に自殺。

鳥巣にとっては、生体解剖(殺すこと)への拒否が第一順位であり、同僚も内心では当然そうであったはずだと思っていた。しかし同僚は実際にはB)の行為は取らなかったわけであり、自己保身を第一順位にすることにさほど疑いを持っていなかったかもしれない。仮にそうであったとすると、戦後は逆に、自分がB)に限りなく近かったことが有利になる。したがって、B)に限りなく近かったとみずから思い込むまでに自己を偽り、そのように鳥巣にアピールしたこともあったかもしれない。1949年5月に「我々は石山教授に手術をやめるように頼みに行った」と鳥巣が書いたのも、そうした働きかけの結果だったかもしれない。

B)の立場に立つことは一生、「今更ながら未練がましく悩み続ける」ことである。
言葉で説明することは理を通すことであり、A)のように語らざるをえない。それはしばしば、割り切れないものである現実に厳しすぎる裁断をするものだと感じられる。

鳥巣の場合は、目の前の手術台に横たわった身体に対する犯罪という具体的なもので、戦争犯罪といった大きな主題にかかわるものではない。医師としてその命を殺す実験に関与するという問題は、ある意味で殺人という倫理的問題を、手術台の上に展開し詳細に再体験することを迫る。
そのなかで、鳥巣はA)とB)のあいだでぐるぐる思索し続ける。

しかし、同僚たちは違う。彼らは事件時、ファッショ的専制的な主任教授に逆らうことができず、裁判においても鳥巣のようにB)のような減刑要求する根拠もなかったため、「反抗は許されず仕方なく参加したのだ」と情緒に訴える弁護に頼るしかなかった。
しかし獄外の同僚の家族たちや大学関係者たちは、一致し熱心に弁護士に働きかけた。それは家族としては当然のことであっただろう。しかし、軍とその影響下にある大学という専制的男性リーダーの下にあったホモソーシャルな支配の構図が、問われなければならなかった筈だ。だが、問われるべき主犯である主任教授石山は、卑怯にも自殺してしまう。従犯たちは、自己を「支配の構図の被害者」に位置づけることにより、その構図を結局敗戦後まで生き延びさせてしまう。

閉じ込められた鳥巣はA)とB)のあいだをぐるぐる回るばかりで、自分を救おうとすることに熱心にならない。ただB)という行為をした自分を肯定しており、それをしなかった同僚を助けてあげなければいけないと思い続けていた。

この本は『九州大学生体解剖事件』という題で、題の印象からもいままでの紹介からも重く苦しい主題を扱った難解な本という印象を受けてしまうだろう。
しかしそうではなく、これは(むしろ)苦境におちいった幼子を抱えた若い妻が信じられないようなエネルギーで、横浜裁判当局に挑み、誤審を訂正させるという、日本には珍しい(米国人好みの)正義のヒロインの物語なのである。

ヒロインは鳥巣太郎の妻、蕗子である。鳥巣は最初の事件の後、妻に事件を打ち明け、大学を辞めたいとまで言う。蕗子は思ったことをまっすぐに口にする性格だった。
「石山先生がまた捕虜の手術をされるようなことがあっても、あなただけは決して手術に参加なさってはいけません!もし私が、米国軍人の妻でありましたなら、なぜ夫は手術されたのだろうか、手術されなかったら自分の夫はシナなかったかもしれないと思います。戦争の最中でも、米国軍人の捕虜を医学の研究に使ってはいかんと思います。戦場で軍人が殺されるのは仕方ありませんが、手術で死んだらお気の毒です。」p32

48年8月、判決。鳥巣外2名の医者と2名の軍人は絞首刑と決まる。鳥巣の予想外のことだった。蕗子は独力で嘆願書を作る。またその後では英語が達者な三島夫人の力を借り、二人で総司令部法務局に何度も何度も説明に行く。事実関係の細部についての説明。「初回の手術は参加はしたが執刀はしていない。鉤引き、血を拭うなどの補助を行った」「2回目の手術の前に石山教授に手術の中止を諫言。手術場には遅れて行った。」「三回目の手術は参加を拒否」などなどである。
これらの事実は、ここまではやらなかった、と否定により減刑を獲得しようとするものだが、本人にとっては、ここまではやらなかったがここまではやったのだと、思い出したくない犯行を再確認し反芻する効果がある。
蕗子は、実験遂行へのためらいを一言も口にしなかった同僚と鳥巣の差異であるB)にこだわる。そうしないと鳥巣を救うことができないし、なによりそれは事実だから。

事実関係の細部に焦点を当てて再審を勝ち取るべく書類を積み重なることは、同時に鳥巣にとっては、自身の倫理的反省がただの反復に陥らず、常に痛みとともに反省を深めていく効果を持ったと考えられる。
一人の人間を医療行為をすると言って騙して麻酔をかけ、そのまま材料として生体実験してしまう。これはいかにしても弁護できない絶対悪である。これが、A)の思想であり、無限性の責任論と名付けることができよう。
B)は、それに対しておずおずと違和感を提出したという行為である。きっぱりとした反対の意思表示ではないが、その時点の鳥巣のせいいっぱいの意志表示であった。それは服従と反抗の二つのベクトルの折衷であって。それを有限性の責任論と名付けることができる。

鳥巣たちに対する判決は1948.8.27だが、再審査の嘆願が粘り強く行われ、1950.9.12減刑決定。1954.1.12満期出所となっている。

わたしたちが現在この問題を考える時、戦争中(8.15まで)、占領終了まで(1952.4.28まで)及びそれ以後という3つの時期におけ評価がどう変わるのか、という問題も合わせて考える必要がある。鳥巣たちの裁判は刑法犯罪であり、戦中の日本、GHQ、戦後日本という国家支配者の差異によって、基本的には判断が変わるものではない。また、サンフランシスコ講和条約11条には戦争犯罪法廷の判決を受諾し、刑を執行する旨定められていた。
しかし、占領終了後すぐに強力な戦犯釈放運動が起こった。戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が作られ、「戦犯は戦争犠牲者だ」が国民全体に浸透した(三千万人の署名が集められたという)。
戦争指導者も末端の兵士も同じ、戦争の犠牲者であるという思想は、「先の戦争」の遂行責任を明確に追求しなかった。反省が行われるときはかならず「戦争だけはしてはいけない」「すべての戦争は悪である」と戦争を主語にした、(日本人は苦手なはずの)宗教的なまでの大きすぎる思想が語られた。憲法9条に結晶したこのような反戦思想は貴重なものではあるが、軍隊の全廃というテーゼは冷戦のなかで貫かれることはなく自衛隊が誕生し、時代とともに成長していった。

「講和恩赦と1953.8.3の戦犯赦免決議によって、満期を待たず戦犯は次々に釈放されていたのだが、鳥巣は満期まで務めることに強い思いを抱いていた。」p187 とある。 占領軍がいなくなればたちまち消滅してしまう「反省」、そのようなものとともに鳥巣は生きたわけではない。

わたしたちの70年の経緯を考える時、A)の思想の正しさが、抽象的な「戦争はいけない」という命題になり、時代の移り行きとともに、その背後に裏打ちされていた、殺し−殺された身近な人の体験をまるごと裏返すかのような荒業といったものがほとんど蒸発してしまい、力を失っていったのだと考えることができる。

それに対して、鳥巣の場合は、B)有限性の責任論の立場をたえず参照することを強いられたがゆえに、自己身体から遊離した正義の立場に立ってしまうことはなかった。無限性の責任は有限性の責任論に裏打ちされてこそ、真の反省として持続しうるのではないか

今では忘れられてしまった、生体解剖事件犯人とその妻の話。そこには小さくとも本物の反省があった。
「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」という巨大な悪を巨大な悪として反省しようとすることは、それがいかに真摯に行われようとやはり限界があり、有効期限切れが来たかのような現在である。
そうではなく、ひとつの事件におけるほんの小さな反抗、それを大事に育てることにより、事件全体へのトータルな反省に鳥巣がたどり着いたという実話。
それは、わたしたちの戦争体験の総括の失敗という課題に、光を当てるに足りるエピソードだ。

朴裕河『帝国の慰安婦』どうなのか?

2年前(2015-08-01)に書いたブログを、この本は最近も話題になっているようなので、ここに再掲するつもりだったが、かなり大幅に改稿した。
(参考:初稿

■『帝国の慰安婦』、読んでみた。

朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版 2014年)という本が机の上にある。副題を「植民地支配と記憶の闘い」と言う。
この本はその内容よりもその反響の大きさによって、有名になってしまった本である。だが、端的に言って「慰安婦問題」に対する彼女の把握は、非常に歪んだものである。
検索すると、朴 裕河さん本人の書いた文章がでてくる。私の目的はその本を論じることよりも、彼女が描き出している「慰安婦」なるものが、いかにゆがんでいるか?を、読者に示すことである。
したがってまず、本書ではなく上記文章から、短い文章を二つ抜き出してコメントすることにする。

(1)慰安婦のなかにある「愛国的志」の過大評価

日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたが、同じ頃から海外へもでかけるようになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲にした女性たちだった。

これを強調するのは正しい。からゆきさんたちがどれほど苦労しそして沈黙のうちに死んでいったかを日本人は忘れており思い出す必要があるから。慰安婦たちのすぐ前の時代に。

「からゆきさん」の「娘子軍」化
からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場の女性たちもいた。
一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)もあった。

からゆきさんとは、19世紀の終わり頃から1920年ごろ見られた社会現象。念のためにウィキペディアから引用しておくと、「国際的に人身売買に対する批判が高まり、(略)英領マラヤの日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し」とある。1920年ごろ海外で娼館を運営することは国際的なスキャンダルになり、日本国家も批判に耐えられず禁止した、といった経緯がある。このようなマージナルな業界は10年単位くらいで社会的位置づけがまったく変わる場合があるので、年代に対する注意深い感覚をもたなければならない。一方、従軍慰安婦制度は1937年の「野戦酒保規程改正」で制度化され拡大していったものだ。このような歴史的経過を意図的に省略し、間違ったイメージを読者に与えようとしている疑いを、朴裕河氏に対し感じざるをえない。

1910年前後?シベリア・満洲などで自立し「壮士」たちを助けたりした愛国的元からゆきさんが複数人いた事は知られている。しかし、彼女たちは国家によってシベリアなどに連れて行かれたわけでもなく、国家に売春を強制されたわけでもない。苦労に苦労を重ね外地で自立しえた日本人が、あとから来た後輩たちを支援する。水商売/壮士という差別、女/男という差別を越えた愛国的情熱がそこにはあった。差別を越えるために過剰に愛国的になった面もあっただろう。

「「からゆきさん」の「娘子軍」化」と題された、この7行において、朴裕河さんは、まったく別のものである「からゆきさん」と「従軍慰安婦」を、類似のものであるかのように印象付けるトリッキーな文章を書いている。
「「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと」というフレーズが「からゆきさん」と「従軍慰安婦」の両方に適用される、というのだ。
しかし、当の女性からみた実存的意味合いはまったく違う。からゆきさんは意気ばかり盛んで現地の言葉や風習も知らない(金だけは持っているらしいが)みすぼらしい男たちを、現地に根付いた者の優位性において助けてやったのだ。壮士は日本語が通じる女性をありがたがっただろうが、郷愁といったものよりもっと現実的に助けてもらったのだ。一方、「従軍慰安婦」は文字どおりその肌と身体を与えることによって、国家に直属する兵士たちを「慰めた」。慰める、comfort とは、レイプに近い身体提供に対する婉曲な表現、美称にすぎない。「慰安婦たち」はそもそも強制されてそこにいるわけで、自由人である「元からゆきさん」とは訳が違う。「慰安婦たち」は朝鮮人でありながら日本人の「郷愁を満た」したのか?

元従軍慰安婦は「略取(暴行・脅迫を用いて連行すること)・誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)・人身売買などにより」遠くはビルマ・中国国境地帯にまで連れて行かれた。直接ではなくとも日本国家の需要によってである。さらに軍によって売春を強制された。(日本人以外は)植民地/占領地/戦地のアジア人だった。

「私はここにいるべき人間ではない」「私は売春などする人間ではない」「私は日本人など好きではない」元従軍慰安婦たちがそう思ったとしても何ら不思議はない。しかし、反面ではその矛盾により、「同じ死にゆく哀れな存在」としての兵士へのロマンティックな幻想をむりやりかきたてた人はすくなくなかったかもしれない。
しかし、日本帝国に対する忠誠を自己確認することに意味を見出した人など本当にいたのか。いたとしても、三重の屈折を乗り越えてしか、それはなかったはずで、それほどたくさんではない。

「(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)」というフレーズも悪質である。シベリアの元からゆきさんたちも「(シベリア出兵)戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされた」面もあったかもしれない。しかしそれはあくまで自由人としてである。一方、従軍慰安婦たちは基本的に「強制されている」という位相にある、どうしようもない日々のなかで架空の観念に救いを求めた人もいたかもしれないというだけの話。まったく違った話を同じフレーズで形容することで、同質であるかのように印象づける詐欺的レトリック!

これを強調したことが、韓国人の一部に極度の怒りを生じさせたのであろう。文脈の違う「愛国的からゆきさん」の存在にすぐ続けてこう書くのは、歴史の偽造に近いイメージ操作なので、怒りはもっともだ。

(2)慰安婦の定義がデタラメ

つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に伴って戦場・占領地・植民地となった地域に「移動」していった女性たち>のことである。商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

完全に間違った定義だ。「いわゆる従軍慰安婦」とは日本軍あるいは日本国家が直接・間接に営んだ戦時売春施設の従事者のことである。その最大のポイントは、国家による強制性にある。
「その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである」ある抽象のレベルで言うならば、それはナポレオン戦争以後の国家管理売春の帝国主義的展開の一部分である、と言うことは可能である。ただし、金学順のカムアウト、河野談話以後解決できない「慰安婦問題」とは、日本国家の責任が存在したことによって問題に成り続けているのだ。

日本国家の責任はほとんど存在しないという論を立てたければ、その自由はあるだろう。
しかし、朴裕河さんのやっていることは、「それまでにあったことをシステム化したと見るべきである。」という、「システム」という言葉を使うことにより、問題の本質を曖昧にするという方法である。

したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。

「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」というのが日本政府が河野談話で認めた「慰安婦」である。
「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味など、裕河さんが勝手に言っているだけで何の意味もない。このように混乱した文章を平気で書き、現在まで訂正しないのはどういう根性なのか。

(3)「解決を求める」こと

この問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。
1、できるだけ早い解決

と裕河さんは書いているのだが、これは間違った目的であると考える。
「解決」を求めているのは、当事者(元慰安婦のおばあさんたちと挺対協、両国政府)だけである。当事者以外の人に求められているのはまず、過去にあったことのできるだけ正確な理解である。その上で、反省すべきならすればよい。解決は当事者がするべきことで、私たちは関係ない。

3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と関係のない識者や市民もこの問題にかかわり、「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。

なぜ「解決」について私(野原)が考える必要があるのか、全く分からない。
もちろん元慰安婦のおばあさんたちが求めているのだから解決は獲得されるべきだろう。しかし「慰安婦」問題は彼女たちのものなのか?必ずしもそうではない、と裕河さんは書いていると思う。

日本軍「慰安婦」にされた人は、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・マレー人・タイ人・ビルマ人・インド人・ティモール人・チャモロ人・オランダ人・ユーラシアン(白人とアジア人の混血)などの若い女性たちです。

と日本の「慰安婦支援派」の代表的サイトも書いている。

従軍慰安婦問題は事件が終わって45年も経った1990年ごろから「問題」として、世間に大きく訴えられてきた。それから25年以上経った現在直接の当事者はほとんど世を去っている。すでに死んでしまった人たちが納得しない解決であっても生きている人びとが納得すればそれは「解決」になるのだろう。
私は直接の当事者ではないので、そうした「解決」を求めるよりも、いまでは辿りつけないさまざまな境遇の「慰安婦」たちの当時と戦後の情況をまず知りたいと思うのだ。
知ることができない、確定した情報として記述できないとは思うが、であるからこそ不十分でもそこに接近したいと思うのだ。

挺対協が作り上げてきた〈慰安婦をめぐる公的記憶〉が存在する。それが、慰安婦たちの実際の姿とはかなりズレていることを批判したいというのがこの本の趣旨だ。ズレは当然存在する。まず日本人・台湾人・中国人・フィリピン人などなどの若い女性たちの体験が反映されていない。現在北朝鮮にいる元慰安婦たちの体験もおそらく。

さらに、挺対協とは25年以上も水曜デモなどのけっこう大変な活動を持続してきた運動体であり、韓国人元慰安婦であってもそれとは違った意見を持つ人びとも当然存在する。*1

解決を求める事は、挺対協中心史観といった磁場で「たたかい」を展開することだと思う。つまり、裕河さんのやっていることは挺対協中心史観といった磁場で挺対協中心史観に反対するという奇妙なことをやっているようにも見える。

いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。(略)
これを歴史の教訓として直視していきたい。(略)同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

河野談話はすでに1993年こう語っている。歴史認識としてもう少し細部まで具体的に知ろうとさえすれば、この文面で足りていると、私はむしろ思っている。2015年12月28日、安倍政権もこの談話を継承し謝罪した。
和解のために何が足りないのか。「心からお詫びと反省の気持ち」であろう。国家の責任を少しでも値切ろうとする、(基本的に敗戦を認めることのできない)愚かなネトウヨ的心性かもしれない。

「慰安婦たち」の「愛国的志」なるものを極端に拡大することによって、慰安婦というもののイメージを歪めようとした朴裕河氏はデマゴギッシュな書き手であると、私は判断する。

(4)朴 裕河先生に言いたいこと

韓国人中心史観を訂正したいなら、
☆ 日本軍に棄てられた少女たち―インドネシアの慰安婦悲話  プラムディヤ・アナンタ・トゥール

☆ ある日本軍「慰安婦」の回想―フィリピンの現代史を生きて マリア・ロサ・L.ヘンソン

☆ 映画 ガイサンシーとその姉妹たち および  班忠義

チョンおばさんのクニ 班忠義

など、読む、または見るほうが良いと思う。

挺対協やそれを支持する元慰安婦たちの現在の表現が、うすっぺらな「公的記憶」に見えるとしても、その背後には数十年の多様な体験の幅が存在している。それを見ることができずに、自己の手持ちの才能だけで「ディベート」に走ってしまった、感じ。慰安婦をめぐる30年近い研究と運動の蓄積を踏まえることがまったくできていない。マッチョな植民地主義にどっぷりはまった田村泰次郎の小説などを読み(それはとても興味深いことではあるのだが)、自分に都合が良い面での影響を受けしまった。

また、からゆきさんと慰安婦問題の関連を考えたいなら、倉橋先生の本も読んでおいた方がよい。

☆ 従軍慰安婦問題の歴史的研究―売春婦型と性的奴隷型 倉橋 正直

従軍慰安婦と公娼制度―従軍慰安婦問題再論  倉橋 正直
倉橋氏の本は、慰安婦支援派からふくろだたきにあったようだ。しかし学者の書いた本であり、批判に開かれた文体、形式で書かれている。言葉の一語一語をひねって、印象操作する朴裕河氏とは大違いだ

*1:p13にも書かれているが

追記■リベラルが「慰安婦」を論じた最悪のツイート

「この本は、「慰安婦」を論じたあらゆるものの中で、もっとも優れた、かつ、もっとも深刻な内容のものです。これから、「慰安婦」について書こうとするなら、朴さんのこの本を無視することは不可能でしょう。そして、ぼくの知る限り、この本だけが、絶望的に見える日韓の和解の可能性を示唆しています。」
(高橋源一郎、Twitter,2014年11月27日

追記・2■歴史学者から

パク・ユハさんの軍慰安所に対する認識は、もっぱら秦郁彦氏の慰安所=戦地公娼施設論に依拠しています。しかし、秦氏の説が誤りであることを、私は軍や警察の史料を用いて実証しました。
永井和 2015年12月28日の日韓合意について

秦郁彦氏の慰安所=戦地公娼施設論などで、日本国家の責任を曖昧化しようとした論も存在したが、実証的歴史学の手法でこれらを打ちのめしたのが、永井和氏の「日本軍の慰安所政策について」である。上の文章と併せて、慰安婦問題の、過去と現在を知ることができる。

慰安婦問題は終わった

昨日「慰安婦問題」について下記のようにツイートした。
今回の「決着」は、安倍周辺が言っていた「謝罪の必要なし」に反するものなので、わけの分からないという感想もある。しかし、これに対して安倍批判をしたがる「リベラル」は頭悪いんちゃうか、と思ってしまう。
今回、(何度も言うが)「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も存在しなかった」ことが明確化したんだ、と理解することはできる。であれば他のことはおいておいて、そのことを強調し、ネトウヨを殲滅することにちからをそそぐべきだろうと思うのだ。
私にとっての「慰安婦問題」の本質はこれが最も大きい。(元慰安婦の方はすでに7割以上なくなっていて、少なくとも彼女たちについてはどんな解決もなかった、ということがすでに確定している。)

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慰安婦問題:「不可逆的に最終決着した」とか言って、何のことか分からない。ともかく、河野談話の「事実認定と謝罪」を覆す何物もネトウヨとその周辺の読売新聞とかがもっていなかった事実が「不可逆的に最終決着した」と理解しうる。この事実をすべてのネトウヨに突きつけ嘲笑おう!

私は皆さんに提案したいが、この一週間この論点でネトウヨをいじめることはできるし、それはぜひすべきことだとおもうのだが、如何だろう? 

いまごろ新しい基金とか何のことかまったく分からない。しかしそれの批判に勢力を使うのではなく、河野談話のいう「反省」の日本の教育への反映を回復することに全精力をそそぐべき。前回も基金批判に精力を費やしすぎた。 

この局面で私たちにはできることがあると思う。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことを、広義のネトウヨに確認させることです。

「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ(河野談話)」を再確認しているはずなので、教育をさせなければいけないのがもちろん一番大事です。

.@hana__yoshiさんへ 「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことをまだ承認できないみたいですね。自分が負け犬であることをそろそろ自覚してください。

河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料をあなた方は持っていのですか? 問題がもつれたのは、「相手は金を要求している」として相手を卑小化しようとして相手の感情的反発をもたらしてしまったあなたがたのせいです。まだわからない?

最初の問題は事実認定です。「軍管理下の慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」したがって国家に責任があったことは明らかです。これは認めるのですね? いいですか質問は「責任」についてだけですよ。

ここで言っているのは、連れてきた女性を性労働(性奴隷)状態に起き続けた責任です。 「慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」はいいですね。人身売買はあったとしてその前の話。

河野談話がいかにいい加減か>で今回の「決着」はそれと同等あるいはそれより悪質なものですね?

ネトウヨ侮蔑が大事だと思う。

それが「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」なんですか?「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」が存在するのにそれを利用しないほど日本政府は愚かだったが貴方の理解?.

「吉田某が・・・」「朝日が・・・」とほとんど意味のないことで大騒ぎしたあげく、それがやっぱり無意味な騒ぎだったことが、今回明らかになったということですよね。

東氏曰く「ここはおとなしく歓迎すべき」>事態をどう捉えるか。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も、読売新聞を含む膨大なネトウヨの類が持っていなかった」ことが明らかになったわけです。それを大喜びし確定させるべきだ、に賛成!!

安倍氏が日韓関係を現に修復したのか?私は興味がない。「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶」の確認と実行だけが大事だと思っている。それを確認し実行させようとする人が少なすぎる!

河野談話には不十分点もあった(だろう)。しかしその後の経過から考えるとその談話の事実認定と謝罪と文言を守り切ることが、最大の分岐点であった、ことは明らかだと思う。しかしフェミも左翼も政治的に思考せず、河野談話の気に入らない点をけなすことにだけ精力を集中し、全敗情況に至った。

「河野談話の事実認定と謝罪」を保持し確認し教育していくことが(最低限かもしれないが)最も重要であり(それとネトウヨを叩くことが)、それに利用できるので評価すべき。