甘耀明(カンヤオミン)『鬼殺し』上・下を推す

甘耀明(カンヤオミン)の『鬼殺し』上・下、図書館で何気なく手に取った本。大傑作だ。莫言に絶賛されたが、将来のノーベル賞級の才能だと思う。白水紀子訳 白水社 2016年翻訳刊行。

甘耀明は1972年(戦後27年)生の客家系台湾人だ。苗栗県出身。地図で見ると、台北と台中の間は北から桃園市、新竹市、苗栗県となる。苗栗県には雪覇国家公園という広大な国立公園があり、東側の太魯閣国家公園とほぼ隣り合っている。甘は苗栗(ミャオリ)県獅潭(シータン)郷の、先住民族(タイヤル族など)の部落に近接する縦谷の客家の山村で6歳まで過ごした。タイヤル族や彼らの神話・伝説は作中でおおきな比重を占める。

「人殺しの鉄の怪物が蕃界(原住民が住む場所)の関牛窩(グアンニュボー)にやってきた。」という文章からこの小説は始まる。小学生だが荒唐無稽なまでに強い客家の少年帕(Pa)はその前に立ちはだかろうとする。「汽車は実に壮観で、先頭には黒檀に描かれた花輪がかかり、花輪の中に「八紘一宇」の四文字が書かれていた」
帕(Pa)は車体に貼ってあった「皇軍は米国を奇襲、真珠湾を轟沈した」という新聞記事を見て、おもわず雄叫びをあげてしまう。
日本軍鬼中佐は、汽車から降り立ち、「銀色に光る軍刀を抜き、集まった村人に向かって言う。「新しい時代が、本日からはじまる。お前たちは手足を動かして天皇陛下にお仕えせねばならぬ。どんな犠牲も惜しまず、あの山を平らにせよ。」
鬼中佐は公学校の校舎を練兵場に変える。公学校は恩主公廟に移される。今までの村人の精神的中心恩主公(関帝、つまり関羽)の神像は燃やされることになる。
柴を加え油をまいて火をつけても、恩主公像は真っ黒になりながらも生きのこる。神像に宿る魂を汽車に轢きつぶさせようとするが、「恩主公はオウと声を上げ、歯をぐっと食いしばって、踏みつけられても死なない、おさえつけられてもぺしゃんこにならない、何度踏まれてもつぶれない」不滅さを見せる。

日本軍の帝国主義的暴虐を、民衆の神話・伝説にまみれた精神世界にズラシて物語っていくのが、甘耀明のマジック・リアリズムである。

鬼中佐は帕に目を付ける。
「鬼中佐は汽車を停車させ、恩主公の前まで歩いて行くと、大声で怒鳴った。「帕、出てこい」。帕は背が高いので、頭が人の群れから浮き出てきて、間もなく全身をあらわした。鬼中佐は彼に名前を名乗らせた。
「帕であります」。帕は両手を腰にあて、目を大きく見開いていたが険しくはなかった。
「それは『蕃名』だ、漢名は?」
「劉興帕です」。帕はまた付け足して言った、「名前の中には『蕃』の字が入っております」
「お前は両親から捨てられた子だ、俺がお前を養子にしてやる。今後は、お前の名は鹿野千抜だ」。
鬼中佐は言い終わると、帕に何度も「鹿野千抜」と、早くも遅くもないちょうどよい速さで復唱させた。帕はまず拳を握りしめて反抗し、それから耳をふさいだが、もう手遅れだった。その名前は頭の中でずんずん大きくなり、雷のように流れこみ、海のように浸食してきて、追い払うよりも受け入れるほうがましだった。そこで帕は口を開けて心の声を追い払い、言った。「鹿野千抜」
「鹿野千抜、来い。刀を枚いて、支那の神を斬れ」。鬼中佐は腰に帯びた刀をたたいた。帕は数歩前に進み出て、刀の柄をつかみ、鞘から枚いた。刀をさっとひと振りした瞬間、空気が裂けて傷口が見えたかと思うと、大声をあげて神像を真っ二つにたたき斬った。」

1895年日本軍が台湾を領有するために上陸した時、台湾民主国の義勇軍総統領として戦ったのが、客家人呉湯興だった。呉湯興は1895年八卦山の戦いで敗北死去するが、作中では鬼の世界の鬼王として死にきれずに存在している。かってその部下だった劉金福は、日本支配に抵抗し山奥で隠遁生活をしている。帕はその劉に育てられた孫だった。だから帕はその抵抗の意思を直系で受け継がなければならない存在だったのだが、残念ながら、皇軍の鬼中佐に、「名前を付けられる」ことで、彼の養子になってしまう。彼は「八紘一宇」の子どもになり、「一生神に呪われて生きることになった。」

少なくない数の、台湾、中国、朝鮮、その他の国の少年、青年たちを皇軍は「八紘一宇」の子どもに育て上げようとした。驚くべきことに、そして痛ましいことにそれは、半ばは成功したのだ。彼らは苦しみながらも戦い、死んでいった。戦後(光復)まで生き延びた者たちも居る。しかし、魂を昭和天皇に譲り渡した彼らには、「光復」は決してやってこない。「一生神に呪われて生きる」ことしかできないのだ。
戦後新しい国家建設のための思想を確立しなければならなかった台湾、中国人にとって、「天皇の子」を日本鬼子(にほんじん)として疎外するしかないのは、しかたないことであった。

「帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子(にほんじん)ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自分の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで日帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。」下p251

天皇と皇軍軍人たち、そしてその周辺の人々の変わり身の素早かったこと。一夜にして「大日本」の「大」の字は消し去られ、満州、台湾、朝鮮は日本とは無関係の土地となった。占領していただけだ。日本軍に協力した奴らは、民族の魂を売り渡した、売国奴だ。国民党、共産党の側からそう言われるのは分かるが、天皇の側はどうだったか。台湾50年の歴史は一切なかったものになり、日本は太古の昔からせいぜい沖縄あたりまで、その沖縄さえ米軍様のまえに差し出しましょうということになった。
「日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった」子どもたちのことは、誰からも忘れられた。

それは必ずしも一部の台湾人だけの運命ではない。帕は台湾東部にやってくる敵と戦う為に、中央山脈を越えようとする。しかしそこで聖なる山の「引力」にとらわれ、ぐるぐる回るばかりで山から抜け出せないという呪いに掛かる。ここの描写には、ニューギニア島の山地を数年間さまよった日本兵たちへの哀悼が込められていると読める。「大東亜戦争」の巨大な〈夢〉に囚われ、「戦後」に帰還できなかった日本兵も沢山いた。彼らの魂の底をさらえようとした文学が、日本にあっただろうか。(レイテ戦記は巨大な達成だがクールすぎる。)

戦後左翼の偏向・浅薄さを声高に叫ぶ人たちは、時に「八紘一宇」を口にする。しかし彼らは「八紘一宇」の真実をかけらもしらないのに、安手の愛国言説と戯れているだけだ。わたしたちが乗り越えることができなかった「大東亜戦争」を知るためにも、この小説は日本人に読まれるべきだ。

吉田松蔭に価値はあるか

吉田松陰は尊敬されるべきである。と言いたいが、勉強不足で説明するのは難しい。野口武彦の『王道と革命の間』の松蔭の章を読みながら、理解できたところを簡単に紹介したい。

「わが国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、かふ(闔)国の人はかふ国の為に死し、かふ藩の人はかふ藩の為に死し、臣は君の為に死し、子は父の為に死するの志確固たらば、何ぞ諸蕃を畏れんや」p256(闔国とは全国という意味らしい。某国という意味かと思っていた。)ここで「大義」があくまで普遍性に向けて開かれたものであったと、考えていくことができるのではないか。

「この「国体」概念は、明治維新以後の時代から逆投影されて極度に理念化されたそれとは、かならずしも同日には論じられない性格を持っていたように思われる。」と野口は書く。p256 昭和十年代の劣悪な国体概念を砂糖水に垂らしたような現在のネトウヨ的「国体」理解と混同することは、なおさらできないだろう。

吉田松蔭(1830年〜1859年)。彼が維新の8年も前に死んでいる点を私たちは勘定に入れなければならない。忠誠・政治の中心点を藩・幕府から天皇に転換するだけでなく、それが民生の全てを支えうる価値の総括者でもあるという「国体論」を、彼は創出した。松蔭が「狂者」たる己の実存を掛けて果たした転換によって、時代は変わり多少軽薄な変革者たち(?)により維新は果たされる。
さて、その国体論は、大逆事件を経て昭和10年代に完成する全体主義「国体論」と、表面上酷似するが故に、混同させられてしまうこともある。
しかし、忠誠対象を天皇に転換するためだけにも、おおきな思想的力量が必要であったことを全体主義的感じをあたえる理解しなければならない。
また、民を愛するという仁政の徹底においてしか、国のために死すことはできない、と考えた点は重要であろう。

松蔭の思想は「事実上の教え」としての孟子に基づく。
孟子の思想は、「善く戦う」などより「仁政」を重んじるところにある。「親を親しみ、賢を賢とし、民を愛し士を養うの政」を行なうことである。
「古今兵を論じる者、皆利を本とし、仁義如何を顧みず。今時に至りその弊極まれり。その実は、仁義ほど利なるものはなく、また利ほど不仁不義にして不利なるものはなし。」p273
すなわち、民に対して仁政を施すことが強国化につながるという孟子の論は、孟子が生きていた戦乱の時代のリアリズムにおいてなされたものだというのが、松蔭の「王道論」である。だから、それはすなわち幕末の危機にも直接適用できるとする。
(おそらく松蔭が今生きていれば、新自由主義による労働分配率の減少を鋭く捉えて
渾身で糾弾したに違いない。)

「「天朝を憂ふる」という一語に要約される、皇統への全身的な忠誠心情と決断主義的論理との複合」と、野口は松蔭の思想を要約する。この限りで、戦後において危険思想とされるしかないことになろう。しかし、天皇も国家主義も平和(戦争)も何一つわたしたちは処理しきれていない、そのことの危機が顕在化している以上、わたしたちは松蔭をゴミ箱に入れる権利はないのだ。

松島泰勝氏科研費叩きについて

「科研費叩き」の#杉田水脈 氏が、新しいターゲットに火を付けたようだ。

この八重山新報の記事によると、次のとおりである。

松島泰勝は、琉球民族独立総合研究学会を作った。松島は2011-2012「沖縄県の振興開発と内発的発展に関する総合研究」科研費424万円を取っている。

成果物である論文のタイトルを見れば、「自治と基地をめぐる…」「琉球の独立と平和」…など「地域活性化とはほど遠い印象を受けます」とある。
「中には「尋求自己国家独立的琉球2014」といった中国語の論文も見受けられる。
「国連での記者会見の画像を見ると「琉球民族獨立總合研究學會」と中国語で書かれています。」とあるが、独と総と学が旧字体になっているだけである。「いったい誰を対象に会見をしているのでしょうか?思わず「中国では?」と疑いたくなります。」と書いている。杉田がここで示唆しようとしているのはまぎれもなく「中国(北京政府の)」のだが、旧字体を使うのは台湾である。それに旧字体は本来日本のものでもあり、中国語などではない。それを「中国語」とは支離滅裂なのだが、2つならべて「中国」との深い関わりを暗示できればそれで良いのだろう。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。しかし、我々の税金から捻出されるその貴重な財源を使って「琉球独立」を主張するのはいかがなものか?」
「今後は科研費の審査や決定の過程、その成果の評価がどのようになされているかについてもしっかり調査していきたいと思います」
この2点が結論部分である。
性急な反論に対して言い逃れできるように、非常に巧妙、暗示的な物言いをしていることに注意しなければならない。同時に大衆の偏見を味方に付けるための巧妙なポジショニングにも。

「科学技術立国である日本において、「科研費」はとても重要なものです。」という発言は、科学技術以外の研究・学問は客観的な評価ができなものであり、無駄なのではないか、という大衆の偏見に訴えている。
「税金から捻出されるその貴重な財源」を使っている以上、その成果を我々に分かるように説明すべきだ、とは「民主的なもの言い」ではある。しかしこれは、(net上でネトウヨと対話したことがある人はすぐ分かるのだが)ある主張を無効化するために、「分かるように説明せよ」と限りなく繰り返していく歴史修正主義者・ネトウヨのテンプレ化してものの言い方に過ぎない。しかしそれは「納税者」への説明、というタームとともに使われる場合かなり強い効果を発する。
ここで杉田が提起しているのは「琉球独立」という「偏向したテーマ」「反日的だと結論付けられる(だろう)テーマ」に、税金を支出することの是非?である。
杉田が、「琉球独立」をテーマとして取り上げたのは、それを自分が気に入らないから、ではない。日本と一体であるべき沖縄という地域が、独立という言葉を使うことは日本の版図が減ることであり即ち反日的思想あり許すことができない。このように煽られればその通りだ、と頷く国民が半分以上いるかもしれない。つまり賛同を得られやすいテーマとして選択されている。
ダライ・ラマがどんなに誘われようと絶対に口にしない言葉が「独立」である。政治的に敏感な言葉だからだ。しかし松島はダライ・ラマと違って学者である。学者はどんな思想であろうと、それを深く研究すべきである。そこに「政治的に敏感さ」を持ち込もうとするのは、日本を中国的な思想・学問の自由のない国にしようとすることである。
twitter上では、琉球王国非存在論者たちがグループを作って数年前から活発に活動中である。彼ら(中心人物は琉球歴女を名乗っているが)は琉球王国数百年の歴史についても、歴史修正主義的語りを準備している。https://togetter.com/li/1133220 などで批判した。
そしてまた、杉田はツイッターのフォロワーが10万5千いる。私の百倍、松島氏の二百倍である。(ちなみに山口二郎氏は57000である)この文章を暗示的な表現だけにとどめたのは、彼女が抑えめに書いてもフォロワーたちがいくらでもえげつなく敷衍し拡散していく。彼女はそれを計算に入れて活動し続けている。(おそらく安倍首相に評価され衆議院議員になった。)
このように、彼女は、この問題については核心部から周辺まで、広範かつ強力な支持を期待できる。いわば、万全の準備の下にこの新聞記事は投下されたわけである。

杉田氏のターゲットは明確であり、「琉球独立」を研究する学問の自由を侵害したいのだ。
大学の外にいる一市民が、学問の自由をどう考えるのか?という問題が改めて問われている。
学問の自由(がくもんのじゆう)は、研究・講義などの学問的活動において外部からの介入や干渉を受けない自由である。
ただし「明らかに反人倫的な生体実験や人類の将来に危険を及ぼすおそれのある研究については一定の規制が必要と考えられている」と制限はあるのだとされる。「人類の将来」ではなく「日本国家の将来」と基準をすり替えるならば、琉球独立論を抑圧することにも理はあるとすることはできるかもしれない。
「納税者」という殺し文句がそういう方向を後押しする。しかしそれは間違っている。

学問の自由はドイツ19世紀に強調された概念である。「市民革命が未完成で市民的自由の保障が不十分であったドイツでは、大学教授に対する学問研究の自由を保障することが不可欠だったためである。ウィキペディア」
沖縄の名護市辺野古において国論を二分する反対運動が起こっている。それは沖縄県と国との対立にさえなってるが、国は強行姿勢を緩めない。かえってtwitter上でのフェイク混じりの反対派攻撃なども支援している。
したがって、今回の松島氏への攻撃も、その一環と捉えうる。ということは「学問の自由」の本旨でもって、松島氏を守るべきだ、ということになる。

国民、その代表(代理)としての国会議員は科研費の「成果の評価」に口を出す権利があるだろうか?私はない、と思う。なぜなら、一つの論文を評価するためには、その学問及びその周辺分野でいままで何がなされてきたか、どのよなう方法でどのように書くのが妥当なのかという知識が必要であるからだ。
任意の国民やその代理としての国会議員はその能力を持っていない。したがって、無理筋の抑圧しか行なうことはできない。
これは、南京大虐殺、慰安婦問題などで、歴史学の成果に反する俗悪本が、多数かなりの部数売れているとしても、学問の水準を満たさなければ、大学・アカデミズムには反映されないのと同じことである。
しかし、杉田氏は隠れもない歴史修正主義者であり、確信犯として攻撃をかけてきている。お前が悪だというだけでは話にならない。
琉球独立論を考えることは、それを支持しないとしても、例えばスコットランド独立や英国のEU離脱を考察するのと同様、ぜひとも必要なことである。これは当たり前のことであるが、熱意を込めて大衆に説かなければならない、情況になってきているのだ。

以上、長々しく書いてきた。
科研費を取ったら説明責任が生じる、は一見正しい理屈だが、責められて説明を始めるべきではない。
1) 経理的説明責任については、「不法行為の立証責任は訴える側にある」言えばよい。けいと @kuzunobankai さん、Dr.t-BuLi (阿修羅降臨) @h_ttt_h さんに教えていただきました。
https://togetter.com/li/1228186 にまとめました。
2)成果についての説明責任は、最低限のものはnet上に公開されている。これについて、思想の自由の範囲で各自が自分の批判を提出する自由がある。それは納税者の権利とは別の問題である。なお、批判は現在までの学問の達成を踏まえていなければ、無視されるだろう。

1)と2)をごっちゃにして、数の力で気に入らない教授をやっつけようとする策動は、感心しない。

次に、(できれば)松島氏の研究概要を読んでみたい。興味深そうだ。

九大生体解剖事件と有限性の責任

九州大学人体解剖事件
1945年5月17日から6月2日に4回、日本軍から米軍捕虜の提供を受け、九州大学医学部第一外科と第二解剖学教室第二講座が死に至る生体実験を行った。被害者は墜落した米軍機に乗っていた兵士8人である。

この事件についてのいままでの著作は、主に公判記録及び公判に関する宣誓供述書に基づいていた。非公開であった再審査関係の膨大な資料を(国立国会図書館から発掘し)精査してまとめたものが、熊野以素『九州大学生体解剖事件』(岩波書店2015年)である。

この事件の主犯格の、石山教授と小森軍医見習士官は裁判当時すでに死亡していた。そこで、事件の大学側関係者は鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森好良雄講師とされ、3名ともに死刑が宣告される。(後に減刑)
この本は、著者の叔父である鳥巣太郎(鳥巣と記す)を中心に記述される。

裁判の経過のなかで鳥巣は事件を反省する。その核心は次の二つの引用にある。

A)「林先生の証言は、その一言一言が私の肺腑を突き沈痛な思ひに悩みはつきず。げに真理は簡単である。私が参加したことに対する如何なる弁明も、何の訳にも立たぬことを改めて認識した。(略)
又しても「当時何故もっと意志強く迫らなかったか」といふことが今更ながら未練がましくも残念の極みである。」(48年5月林春雄証言を聞いて) p114

B)実際には、鳥巣は石山に次のように言った。
「先生、また、先日のような手術をなさるのですか?(略)
あのような手術は軍病院でするべきではないでしょうか。もし手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになると思います。(略)」 p34

鳥巣の行為・思想を中途半端だと指摘することはできる。一回目の実験に立ち会う際、彼は事情を知らなかった。しかし二人目の兵士の手術時、彼は理解していたのに手術を助けた。二回目の手術の前、鳥巣はB)発言をし、手術には遅れていく。しかし参加はした。
いずれにしろ、手は汚れていることになる。

戦争は日本の敗戦で終わり、捕虜虐待に厳しい裁判で臨むGHQの支配下、1946年7月鳥巣は石山教授外3人とともに逮捕される。石山は後に自殺。

鳥巣にとっては、生体解剖(殺すこと)への拒否が第一順位であり、同僚も内心では当然そうであったはずだと思っていた。しかし同僚は実際にはB)の行為は取らなかったわけであり、自己保身を第一順位にすることにさほど疑いを持っていなかったかもしれない。仮にそうであったとすると、戦後は逆に、自分がB)に限りなく近かったことが有利になる。したがって、B)に限りなく近かったとみずから思い込むまでに自己を偽り、そのように鳥巣にアピールしたこともあったかもしれない。1949年5月に「我々は石山教授に手術をやめるように頼みに行った」と鳥巣が書いたのも、そうした働きかけの結果だったかもしれない。

B)の立場に立つことは一生、「今更ながら未練がましく悩み続ける」ことである。
言葉で説明することは理を通すことであり、A)のように語らざるをえない。それはしばしば、割り切れないものである現実に厳しすぎる裁断をするものだと感じられる。

鳥巣の場合は、目の前の手術台に横たわった身体に対する犯罪という具体的なもので、戦争犯罪といった大きな主題にかかわるものではない。医師としてその命を殺す実験に関与するという問題は、ある意味で殺人という倫理的問題を、手術台の上に展開し詳細に再体験することを迫る。
そのなかで、鳥巣はA)とB)のあいだでぐるぐる思索し続ける。

しかし、同僚たちは違う。彼らは事件時、ファッショ的専制的な主任教授に逆らうことができず、裁判においても鳥巣のようにB)のような減刑要求する根拠もなかったため、「反抗は許されず仕方なく参加したのだ」と情緒に訴える弁護に頼るしかなかった。
しかし獄外の同僚の家族たちや大学関係者たちは、一致し熱心に弁護士に働きかけた。それは家族としては当然のことであっただろう。しかし、軍とその影響下にある大学という専制的男性リーダーの下にあったホモソーシャルな支配の構図が、問われなければならなかった筈だ。だが、問われるべき主犯である主任教授石山は、卑怯にも自殺してしまう。従犯たちは、自己を「支配の構図の被害者」に位置づけることにより、その構図を結局敗戦後まで生き延びさせてしまう。

閉じ込められた鳥巣はA)とB)のあいだをぐるぐる回るばかりで、自分を救おうとすることに熱心にならない。ただB)という行為をした自分を肯定しており、それをしなかった同僚を助けてあげなければいけないと思い続けていた。

この本は『九州大学生体解剖事件』という題で、題の印象からもいままでの紹介からも重く苦しい主題を扱った難解な本という印象を受けてしまうだろう。
しかしそうではなく、これは(むしろ)苦境におちいった幼子を抱えた若い妻が信じられないようなエネルギーで、横浜裁判当局に挑み、誤審を訂正させるという、日本には珍しい(米国人好みの)正義のヒロインの物語なのである。

ヒロインは鳥巣太郎の妻、蕗子である。鳥巣は最初の事件の後、妻に事件を打ち明け、大学を辞めたいとまで言う。蕗子は思ったことをまっすぐに口にする性格だった。
「石山先生がまた捕虜の手術をされるようなことがあっても、あなただけは決して手術に参加なさってはいけません!もし私が、米国軍人の妻でありましたなら、なぜ夫は手術されたのだろうか、手術されなかったら自分の夫はシナなかったかもしれないと思います。戦争の最中でも、米国軍人の捕虜を医学の研究に使ってはいかんと思います。戦場で軍人が殺されるのは仕方ありませんが、手術で死んだらお気の毒です。」p32

48年8月、判決。鳥巣外2名の医者と2名の軍人は絞首刑と決まる。鳥巣の予想外のことだった。蕗子は独力で嘆願書を作る。またその後では英語が達者な三島夫人の力を借り、二人で総司令部法務局に何度も何度も説明に行く。事実関係の細部についての説明。「初回の手術は参加はしたが執刀はしていない。鉤引き、血を拭うなどの補助を行った」「2回目の手術の前に石山教授に手術の中止を諫言。手術場には遅れて行った。」「三回目の手術は参加を拒否」などなどである。
これらの事実は、ここまではやらなかった、と否定により減刑を獲得しようとするものだが、本人にとっては、ここまではやらなかったがここまではやったのだと、思い出したくない犯行を再確認し反芻する効果がある。
蕗子は、実験遂行へのためらいを一言も口にしなかった同僚と鳥巣の差異であるB)にこだわる。そうしないと鳥巣を救うことができないし、なによりそれは事実だから。

事実関係の細部に焦点を当てて再審を勝ち取るべく書類を積み重なることは、同時に鳥巣にとっては、自身の倫理的反省がただの反復に陥らず、常に痛みとともに反省を深めていく効果を持ったと考えられる。
一人の人間を医療行為をすると言って騙して麻酔をかけ、そのまま材料として生体実験してしまう。これはいかにしても弁護できない絶対悪である。これが、A)の思想であり、無限性の責任論と名付けることができよう。
B)は、それに対しておずおずと違和感を提出したという行為である。きっぱりとした反対の意思表示ではないが、その時点の鳥巣のせいいっぱいの意志表示であった。それは服従と反抗の二つのベクトルの折衷であって。それを有限性の責任論と名付けることができる。

鳥巣たちに対する判決は1948.8.27だが、再審査の嘆願が粘り強く行われ、1950.9.12減刑決定。1954.1.12満期出所となっている。

わたしたちが現在この問題を考える時、戦争中(8.15まで)、占領終了まで(1952.4.28まで)及びそれ以後という3つの時期におけ評価がどう変わるのか、という問題も合わせて考える必要がある。鳥巣たちの裁判は刑法犯罪であり、戦中の日本、GHQ、戦後日本という国家支配者の差異によって、基本的には判断が変わるものではない。また、サンフランシスコ講和条約11条には戦争犯罪法廷の判決を受諾し、刑を執行する旨定められていた。
しかし、占領終了後すぐに強力な戦犯釈放運動が起こった。戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が作られ、「戦犯は戦争犠牲者だ」が国民全体に浸透した(三千万人の署名が集められたという)。
戦争指導者も末端の兵士も同じ、戦争の犠牲者であるという思想は、「先の戦争」の遂行責任を明確に追求しなかった。反省が行われるときはかならず「戦争だけはしてはいけない」「すべての戦争は悪である」と戦争を主語にした、(日本人は苦手なはずの)宗教的なまでの大きすぎる思想が語られた。憲法9条に結晶したこのような反戦思想は貴重なものではあるが、軍隊の全廃というテーゼは冷戦のなかで貫かれることはなく自衛隊が誕生し、時代とともに成長していった。

「講和恩赦と1953.8.3の戦犯赦免決議によって、満期を待たず戦犯は次々に釈放されていたのだが、鳥巣は満期まで務めることに強い思いを抱いていた。」p187 とある。 占領軍がいなくなればたちまち消滅してしまう「反省」、そのようなものとともに鳥巣は生きたわけではない。

わたしたちの70年の経緯を考える時、A)の思想の正しさが、抽象的な「戦争はいけない」という命題になり、時代の移り行きとともに、その背後に裏打ちされていた、殺し−殺された身近な人の体験をまるごと裏返すかのような荒業といったものがほとんど蒸発してしまい、力を失っていったのだと考えることができる。

それに対して、鳥巣の場合は、B)有限性の責任論の立場をたえず参照することを強いられたがゆえに、自己身体から遊離した正義の立場に立ってしまうことはなかった。無限性の責任は有限性の責任論に裏打ちされてこそ、真の反省として持続しうるのではないか

今では忘れられてしまった、生体解剖事件犯人とその妻の話。そこには小さくとも本物の反省があった。
「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」という巨大な悪を巨大な悪として反省しようとすることは、それがいかに真摯に行われようとやはり限界があり、有効期限切れが来たかのような現在である。
そうではなく、ひとつの事件におけるほんの小さな反抗、それを大事に育てることにより、事件全体へのトータルな反省に鳥巣がたどり着いたという実話。
それは、わたしたちの戦争体験の総括の失敗という課題に、光を当てるに足りるエピソードだ。

移民制限論の是非

https://wan.or.jp/article/show/7070 上野千鶴子
https://wan.or.jp/article/show/7074 清水晶子 
読みました。

「「移民一千万人時代」の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」という問いに清水は答えない。
フェミたちや自民党がどう動こうが、移民は少し増え、しかし人口不足をおぎなえる程は増えないのではないか?
上野は「移民制限論」を唱える。その場合、国家はより強力な再分配政策を取る必要があることになるはずだ。
清水が「移民増加論」を取るかどうかを上野は問うている。その場合、社会のあらゆる領域における反レイシズム、移民統合化を成し遂げる必要があるが、フランス・ドイツの例から見てそれは無理だろう。
上野の議論は、国家として責任を取れるのか?、というレベルで問われている。

移民制限論/移民増加論、どちらかをとらねばならない。どちらを取るにしても、国家も市民も手を汚す覚悟は必要だ。
上野が言っているのはこのような図式だ。

それに対して、「共生の責任は誰にあるのか」という文を書いた清水は、何を語っているのか?

「「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用する」という例において、「男性」という主体はしばしば普遍を名乗るが普遍であってはならないものとして否定される。
清水が提出するのは、日本社会は誰のものかという問いだ。

それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。 「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。

日本人のマジョリティ(投票に行くような人)に対してマイノリティもいる。マジョリティの利害でマイノリティの利害を制限するのは許されないと。

どうだろうね。男性だけが国民を名乗ることはもはや誰も許さないだろう。しかし「国民」が国民の利害において行動すべきでないというのは、なかなか納得させるのに難しい理屈になる。