台湾/香港/国家観念

『思想』2021年10月号の「帝国の非物質的遺留――台湾と香港の被占領経験の相違について………鄭鴻生(丸川哲史訳)」を読んだ。
それなりに面白いことを書いているのだが、なんだ結局、親中派、反香港騒動(2019年-2020年香港民主化デモ)にもっていきたいのね!という感じ。#丸川嫌い
思想の言葉で、倉沢愛子氏は、日本人が現地人、アジア系外国人を使う時に、「微妙に隠され、表立って問題視されない発言の背後に、「上から目線」に起因する蔑視や潜在的差別意識が忍んでいる。実は私だって、偉そうなことを言っているが、気づいていないだけで、無意識のうちにそのようなことをしているケースはたくさんあるのだと思う。」と述べている。これは現代日本人として考えなければならない点だ。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5290

香港は1842年に、台湾は1895年に植民地になり、住民は近代化に巻き込まれていく。1945年光復と1997年返還時、台湾香港の中上層市民たちは近代の帝国が与えた植民地近代をたっぷり味わっていた。それから見ると母国は遅れて見えた。この意識を端的に表すのは、国民党軍を嘲笑する「蛇口の物語」である。植民地モダニティを持った台湾香港の市民は植民地モダニティを与えられ、母国の遅れに対する差別的心理を持つことになった。(『無意識の優越感は日本人のような「先進国人」だけが持つものではないのだ。)
まあそういうことはあるかもしれないが、巨大な香港民主化デモをそうした差別意識で説明することはできないだろう。民主主義、あるいは「自分たちのネーション」に対するどこまでも熱い思いがそこにあったはずだ。
しかし、鄭鴻生はそのような理解はしない。中国人の民族と国家を獲得するための戦いは抗日戦争でピークを迎える。左派あるいは右派という形で「国家観念を持つ」ことになった。この「国家観念」に基づき鄭鴻生は「民主派」を国家観念の欠如と決めつける。
五四運動以来の新中国を模索する革命的運動を警戒した英領香港政府がかえって漢文書院系の教養を重視したという経過によって、香港の政治文化の土台たる広東語の豊かさが形成される。それ以後も戦後75年さまざまな経過を消化しつつ香港の政治文化は営まれてきたことを自身は的確に語っている。中国共産党(あるいは国民党)に求心するべき「国家観念」だけを基準に裁断することができるものではないことは、この論文を読むだけでも分かるのだ。

香港民主化デモの巨大なうねりは、中国共産党勢力の厳しい弾圧によって現在見えなくなっている。中国や日本といった大きな主語(国家観念)によってだけ歴史を語ろうとすることは、歴史と民衆のダイナミズムを取り逃がしてしまうのではないだろうか。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

1.
朴婉緒の自伝3部作の第二、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』読んだ。あとがきに自伝ではなく自伝的小説だとある。

朝鮮戦争時、ソウルは二度にわたり北朝鮮軍に支配される。
一度目は、1950年6月28日から9月末まで。
二度目は、51年1月4日から3月14日まで。
この小説はちょうどこの二度めの時期を扱っている。二度めは一度目と違い、ほとんどのソウル市民がソウルを脱出し南へ逃げた。しかし婉緒の兄は脚に傷を負っており動けなかったので、彼女の家族はそれができなかった。たった二ヶ月とはいえ、この奇妙な権力は婉緒たちに触れずにその上を通過してはくれなかった。
婉緒は元の家から、ソウル西北の知人宅に避難していた。(避難しないことは、アカに染まったとして旧体制復帰後迫害されるので、偽装でも「避難」しないといけない。)
1.4後退からしばらくしてから、婉緒の地区にも人民委員会ができる。嫌々ながら婉緒も人民委員会で事務的な仕事をやらされることになる。北朝鮮軍は退却することになる。婉緒と義姉とその幼児だけは北に送られることになる。義姉のとっさの気転でイムジン河だけは渡らずに、そちらの方向にとぼとぼ歩いて行き、途中で東に道を逸れる。ソウルの東北近郊坡州(パジュ) の近くの山中にまで来ると、幼児が咳き込みひどく熱を出し始めた。「ヒョンは一日中、義姉の背中で咳き込んでいた。咳がひどくてなんどか背中にもどした。吐いたものを拭こうと思ってねんねこの上にかぶせた綿布団をはがすと、体が火鉢のように暑かった。」幼児を連れた避難民たち。数年前満州の北から南へ、あるいは朝鮮へ向かってとぼとぼ歩き続けた日本人母子たち、を思い出す。今も世界のいくつかの場所では同じように歩き続けている国内避難民たちがいる。

村で一番大きな家に助けを求めると、女主人が迎えてくれる。胡桃の油を絞って飲ませると熱が引くだろうと言って、飲ませてくれる。無愛想な老女に見えた女主人はしだいに妖精国の女王めいた風格を見せ始める。

2.
「全焼した村から少し離れた一軒家で退屈な昼を過ごしたあと、その村に漂う静けさに魅せられて美しい灰の中を歩いた。ちょうどそのとき、甕(かめ)のそばの痩せこけた木の枝につぼみが膨らんでいるのを見た。木蓮の木だった。よく見ると外側の固い花びらがようやくほころびかけていた。木蓮は一度春の気配を感じ取ると、あっという間に花を咲かせる。その狂気じみた開花が目に浮かび、思わず私は、まあこの子ったら狂っちゃったんだわ、と悲鳴を漏らした。木を擬人化したのではなく、私自身が木になっていたのだ。私が木になって、長い長い冬眠から目を覚ましたときに見た、人間の犯したあまりに残酷で、気違いじみたことに対して驚愕の声を上げたのだった。(p94)」

これは不思議な文章だが美しい。木蓮は咲きほこる花々を惜しみなくすべて捨て、毎年新たにまた狂ったように花を咲かせる。しかし人間はもっと恒常的なものであり、いったん建った家はずっと建ちつづけている。普通は。ところが村の建物がすべて焼けてしまうことがあるのだ。そしてそのような村がつづきそれが異常ではないように感じられてしまう。人間としての恒常性失って、しかもそのとき陽が照っていればそれだけで喜びを感じる。そのような存在感覚を「私が木になった」と書いている。そして滅びの姿のなかに在る自己に肯定感を感じている。

3.
エピローグに、朴婉緒の家系の自慢と、彼女の母親がするその自慢への婉緒の嫌悪が書かれている。一族から王の婿を三人も出した、というのだ。(朴趾源(パク・チウォン 1737-1805、私が最近興味を持った丁若鏞と並ぶ朝鮮最大の実学派儒学者)も一族らしい。)親日派の巨頭もいたが、両班の家名を支える価値観においては、彼らを恥さらしとする価値観はなかった。「国が滅びようが滅ぶまいが、当代の政権が正当だろうが不当だろうが、そんなことはどうでもよかった。何があっても商売や労働などの卑しい仕事は避け、官職につきたい一心で、平気で破廉恥なことをするのが両班の正体だ。」

このような両班(やんばん)のどうしようもなさに対して、叔父さん(婉緒の家の事実上の当主)の取った態度は立派だった。毎日「ゴハン叔父は納屋から取り出した背負子(しょいこ)を負い(略)、敦岩市場の近くで物を売り」家族12人の生活を支え続けた。背負子ほど両班に似合わないものはない。しかし彼は言う。「背負子のどこが悪い。行商すらできなかったから、うちのミョンソが死んでしまったんだ」

両班根性を嫌悪していた婉緒。彼女が実際にやったことはどうだったか。
1950年彼女はソウル大学に入学したが、すぐ朝鮮戦争が始まり一切授業を受けることができなくなった。それにしても、当時女性のソウル大学生などありえないほどの過剰な学歴になる。
最初に、北朝鮮軍支配下ではそもそも普通の若者自体いなかった。男性は連れ去られ兵士にさせられる。だからむりやり事務(ガリ切り)の仕事をさせられる。
次に、米軍支配の世になってからは、郷土防衛隊というところに連れて行かれる。警察官と口論の末だがなんと「気性は荒いが名門大学の学生だ、うまくやってみるように」と紹介してくれたのだ。(p141)まだ行政庁が帰還していない時期だった。
イムジン江を挟んでの一進一退が続き、再び漢江の南に避難しろという後退令がでる。彼女の仕事は急に忙しくなる。「冬に人民委員会で働いていたときと状況があまりに似ていたので、ふと、今どっちの世にいるのだろう、と思うのだった」

三度目は行政関係ではない、米軍PX(進駐軍専用の商業施設)だ。物も何もない当時のソウルでは、唯一光輝いていた場所だった。
「私には永遠に絵に描いた餅にすぎないと思っていた、アメリカのチョコレート、ビスケット、キャンディーなどが、いつの間にか我が家の日常的なおやつになった。
(略)アメリカ製品には驚くべき力があった。体はガリガリなのに頭だけが大きく、首が細く、口の端がただれ、そのまわりに白く疥(はたけ)が出来ていた子供たちが(婉緒の甥たち)、あっという間にぽっちゃりして肌につやがでてきたのだった。(p251)」

一番目と二番目は権力がまだひよこ状態での権力機構といえるだろう。三番目は商業施設にすぎないのに、その最新西洋日用品のもっている非常な輝きとそれを普通の朝鮮人は買えないという特権性でやはり、権力的落差を存在させていた。

数百年続いた極度に集権的な王・国家・官職への両班の崇敬と、この3つの権力性を同一視することはもちろんできない。生きるためにいくらかの金を入手するためだけの職の入手において、思いもよらない権力関係と交渉しなければならないことになるとは、大学に入ったばかりの女の子には思いもよらないことだった。

 [1]10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

References

References
1 10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

追記2: https://x.com/DaegyoSeo/status/1791730791514550572 こちらのツイートで、「尹祥源(ユン・サンウォン)」の写真と墓地、外信記者たちに対して語った「抵抗する意味」を記しておられる、徐台教(ソ・テギョ)さんが。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

権力闘争と儒教思想

連続TVドラマ『開封府 北宋を包む青い天』を見て

なかなかおもしろい。全58話もあるが毎日楽しんで見ることができた。(うちのケーブルテレビでは無料だった。)

死刑は何のためにあるか?それは人々いや正確には、官僚たちに皇帝を畏怖させるためにある。
このドラマは帝国権力の原点が、どのようなダイナミズムにおいて存在するかを分かりやすく描いている。
武官でありながら強い野望を持つ張徳林と文官を束ねる王延齢が二大勢力である。具体的権力は彼らが持っており、宮中も彼らに逆らうことはできない。逆らえば炎上させられてしまう危険がある。また時として彼らは対立し内戦状態にならんとする時もあった。しかし、二人は嫌々ながら協力して自己権力を保っている。それは名目的な第一権力宮中がただの名目に留まらない存在感を常に要求してくるので、対立している余裕がなくなるのだ。

中盤の最も長いお話(陳世美が中心になる)を取り上げて書いてみる。(ネタバレ)
かつて均州から共に上京した5人のうち、3人が殺された。残るは駙馬(皇族の夫)の陳世美と行方知れずの韓琦のみ。
秦香蓮は三年前科挙を受験しに上京して以降行方不明になった夫岑旺祖(陳世美)を探している。探し続けた夫を眼の前にして、包拯に問いただされた秦香蓮は数年間求め続けた真実が眼の前に居るのに、それを否定してしまう。夫の皇族としての官僚としての立場を守るために。権力の配置によって、真実(言説)がくるっとひっくり返る見事な例である。

秦香蓮はどんなことがあとうとも夫を信じ抜こうとする。対幻想の極限とも言える。ひとつの思想を解体することは、似たような体験から学ぶプロセスを経ることで達成しうる、というのがこの長いドラマが教えることだ。
本来秦香蓮母子を殺せと命じられた殺人者韓琦は、隠れ家で秦香蓮母子と暮らすうちに情が移ってしまい、瀕死になりながら、彼らを逃がそうとする。その韓琦を殺したのは陳世美だった。
ここで秦香蓮は、はじめて真実を口にすることができるようになる。それにより陳世美の有罪は確定する。
ところが千年前の中国ではそれは終わりではない。皇帝は張徳林・王延齢配下の腐れ官僚と対抗するための役割を、陳世美に割り振っていた。ここで陳世美を失うことは張徳林・王延齢に対しての敗北を意味する。皇帝の命令で陳世美は釈放される。
しかしその後、ある出来事により再審の機会が訪れる。張徳林・王延齢が二人揃って、陳世美の救命を乞うのを聞いて、皇帝は気を変える。彼は自ら審理の場(開封府)に出向き、義理の妹の夫とした陳世美を有罪とする。官僚として頂点を極めたものであろうと、正義に反すれば死罪に処す。これこそが皇帝権の栄光を宣言することだ。張徳林・王延齢に対して自己権力を主張し確保することだからだ。このような死刑肯定論は興味深い。

権力中枢に皇帝より強い者が居るとき、皇帝はただその強者のための飾り物になる。しかしそれでも権力者(この場合張徳林・王延齢)が影響力を及ぼせない領域もある。公正を貫くという原則を曲げない包拯が支配する司法の府(開封府)がそれだ。そこに乗り込み、直接裁くことはできる。名目上絶対君主でありながら、実際に権力行使できる機会はわずかである。で実際に権力をふるえる機会があれば、自分にすこしくらいダメージがあっても振るう方がよい。そうでないと、権力者の言うがままのお飾りに留まることになる。

ホームズばりの名裁判官物語を期待すると、それは裏切られる。包拯がそのような名推理を披露する場面はない。推理によって犯人を視聴者に対して明らかにしたとしても、その犯人が権力者(張徳林・王延齢)の関係者あるいは宮中の関係者である場合は、実際の解決にはつながらない。
事件はたいてい次のような経過をたどる。犯罪者たちは真実の隠蔽のために、証人を殺したり、さらに悪行を重ね、それは反発、波紋を広げる。それをすこし遅れて突いていくことで悪行は公的なものになる。つまり皇帝の前で明らかになることになる。

常に遅れてではあっても、公正が辛うじて実現していくのは、権力者(張徳林・王延齢)が弁解ができなくなると、包拯の「不正を憎むという論理」に、同意していくからである。皇帝はもちろん公正な裁きを自己の権力のために必要とする。王権は権力から遠い無数の民たちのために行使されなければならないという、儒教思想が共有されている。張徳林はやり手の息子(次男)という後継者を持ち、宋王朝(劉氏)の簒奪に成功する可能性はあったようにドラマでは描かれる。ただし「簒奪」とは、張氏がただ強引な権力者であるだけでなく、常に公正な支配者であり続ける(フリをする)数十年を経てのものだ、ということも張父子は強烈に意識している。

支配のための技術としての儒教思想というものを、この長いドラマでリアルに理解することができる。

本来の儒教思想を包拯とともに代表するのは、歴史にも名が残っている范仲淹(はんちゅうえん)である。
このドラマは、最終回であまりにもドラマティックに盛り上がった末、ハッピーエンドで終わる。つまり、包拯と范仲淹は勝利し、皇帝の下で科挙改革などに取り組んでいくことになる。しかしほとんどの官僚は必然的に腐敗するという法則があるかのように数年後、范仲淹はまた都を追われることになる。とってつけたようなアンハッピーエンドである。ただ中国二千年の官僚制の歴史(現在も続く)の中にいる中国民衆は、ハッピーエンドではどうも落ち着きが悪いのかもしれない。

蛇足:このドラマは武侠アクションという面もある。それを支える展昭(てんしょう別名南侠)、廬方(ろほう)、錦毛鼠は清代の小説『三侠五義』に包拯とともに登場する人物。大学者兪樾(ゆえつ)も愛した。 

黄晳暎『パリデギ』、火の海・血の海・砂の海を越えて


『パリデギ』
は黄晳暎(ファン・ソギョン 1943-)という韓国の作家の書いた小説。
副題が「脱北少女の物語」という。2008年に刊行されたこの本は前に図書館で見たのだが、脱北女性の物語は『北朝鮮に嫁いで四十年 ある脱北日本人妻の手記』斉藤博子著
映画マダムBなどいくつか知っているので、すぐに読まなくてもいいかと思ったのだ。

飢餓に至る困窮に対して、道端のクズを拾って売るなど血みどろの労苦の末に生き延びるリアリズムを、そうした本は表現している。それとそのような境遇を強いた国家(金一族)への呪詛と。

一方、この本はそうした本とはかなり違っている。
主人公は夢見る少女である。ただその夢は甘くふわふわしたものではない。困窮のうちに数千年生き延びてきたアジアの低層民が語り伝えてきた奇妙なおとぎ話。
ある春の日。門を開けると、私(5歳)より少し大きな女の子が立っていた。その子は白い木綿のつんつるてんのチマ・チョゴリを着ていた。主人公のパリは霊感の強い少女だった。それはおばあちゃんから受け継いだものだ。「あれはね、伝染病の鬼神なのさ」とおばあちゃんはいう。柳田國男的な話。

パリ一家は豆満江沿いの国境の町に引っ越す。
「前に美姉さんと豆満江に行った時、水に浮かんでゆっくり流れてくる人の姿が見えた。幼な児をおぶったままの母親の死体だった。きっと、母親と子どもが一緒に死んだのだ。美姉さんと私は、以前ならびっくりして悲鳴をあげ、誰かを呼びに走っただろうが、その時は息をこらして見つめていた。死体の後ろには、解けて長く伸びたねんねこの帯が揺らぎながら流れていた。」
数百万人が餓死したとも言われる90年代中期の北朝鮮。その悲劇を黄晳暎はこのように静かに描き出す。死体が流れてくる、それに対して悲鳴も上げずにじっとながめているまだ幼い少女たち。そこには、無残な死が幾分かは自分自身の未来にもあるかもしれないといった予感さえ孕まれていたかもしれない。

飢餓が激しくなるころ事件が起こり、一家は離散する。パリは賢(ヒョン)姉さんとおばあさんとともに川を越え、中国に入る。中国人の家に一時厄介になるが、そこも出なければならなくなり、裏山に穴を掘り住むことにする。
ここで、おばあさんがパリ王女のお話をしてくれる。その話はパリ王女が、両親とみんなを助けるために、生命水を取りに西天の果にまで行く話。ひとりの悲惨な脱北少女の悲惨な話に、このおとぎ話を二重に重ねていくといった構造をこの小説は取っている。死者や死者の世界との媒介をしてくれる愛犬と幻のなかで交流できるという神秘的能力をパリはもっていた。

物語は本の半ばで大きく回転する。パリは運命のいたずらにより、人身売買の犠牲になり、はるかロンドンに運ばれる。そこで彼女はまたゼロから難民としての生を生き直す。
私が冒頭で上げた2つの脱北女性、斉藤さんは日本へ、マダムBは韓国に帰る。詳しい話は省略するが話は東アジア3国で完結している。
しかしパリデギの場合は遠く、ロンドンに行きそこで終わっているのだ。パリはそこでパキスタン系の青年と出会い結婚する。しかしその相手はなんと911後のイスラム青年たちの熱狂に巻き込まれ行方不明になってしまう。

話が錯綜しすぎのような気がするが、そうではない。この小説はダンテの神曲のように、究極的な問いに答えようとしているのだ。問いとは、なぜ彼らは、300万人を越すとも言われる膨大な北朝鮮人は無残にも、死んでいかなければならなかったのか。その惨禍は数年続き、隣国であり繁栄を謳歌していた韓国と日本は、それを知ろうとすれば十分知り得たはずだ。しかし私たちのしたことは徹底的な無視だった。
飢えて死に、病気で死に、苦しんで死に、痛ましく死んだその膨大な人たちは、何も言えずに死んでいった。「すぐ答えておくれ。どんな理由で、わたしたちは苦痛を受けたのか?」
パリは問いを受け止め、試練の旅を続けざるをえない。パリは魔王と戦い、生命水を飲み帰ってくる。「わしらの死の意味を言ってみろ!」この問いに答えるために。
この問いには答えが与えられるが、その答えはあまり成功しているようには私には思えない。

ただ、「脱北」という巨大な悲惨を、どのような問いとして再構成したのか?
東アジアに閉ざされた国家内部の悲劇として描いてしまってはそれは違う、と彼は思った。
古くさいようなおとぎ話(火の海、血の海、砂の海を越えていく話)と二重重ねすることにより、かえって普遍的な膨大な悲惨の只中の生を浮かびあがらせることができると、黄晳暎は考えたのだろう。

自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こす

安冨歩『経済学の船出』NTT出版に興味を持っている人が多いようだ。品切れで高価になっているので余計に。

「普通の人の普通の感覚というものは、意外に鋭いものであり、「なんだか変だな」と感じることには、それなりの理由が潜んでいる。」
というのが「はじめに」の最初の文章。
「読者がその感覚を把持し、奇妙なものごとに出会ったときに、「まあいいか」とやり過ごさず、自分自身の内的ダイナミズムに基づいて、独自の思考を展開するための手がかりを提供すること、これが本書の目指すところである」と書いている。

我々にできることは温故知新(論語)だけだ。つまり「すでにあるものについてよく考え、自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こすこと」であると。

しかしわれわれはしばしば良識の作動を失う。付和雷同する自動人形になる。
バブル経済やアジア太平洋戦争になだれこんだこと、はては産業革命以来の驚くべき経済発展を続ける人類全体も、付和雷同のうねりだ(と見ることもできよう)とされる。ii

「良識の作動を押し殺す正当化の屁理屈を振り回すことは、まぎれもない暴力である。」本来の常識に敵対するものが、「正当化の屁理屈」である。実は屁理屈にすぎないものが、「社会常識」として大きな顔をして世の中を支配して居たりする。「各人が自分自身の感覚に立ち戻り」さらに「各人の良識の作動を促すマネジメント」をすることができれば、どちらが屁理屈かは分かる。

以上が「はじめに」の最初の部分である。
「自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こす」は、彼自身言うように古臭い徳目とも見える。しかし、効率や利潤というものを目指して、わたしたちの社会はむちゃくちゃになりつつあるのに、それに変わるべき価値を提示できていない。そうである以上「創発」という言葉が耳慣れないとか言っている場合ではないだろう。

第2章は、網野善彦の無縁論を扱う。
共同体=有縁/市場=無縁 といったふうに理解されがちであるが、それは(厳密には)違う。
「縁結び→←縁切り」というダイナミックな二つの行為を原理として取り出すことが大事なのだ。p51

アメリカの哲学者フィンガレットは「人間は魔法を使える」と言う。
「我々は日常生活のなかで魔法を頻繁に使っている。たとえば私が大学で歩いていると、向こうから学生がやってくる。向こうも私に気づく。私が笑顔で頭を下げると、学生も一緒に頭を下げて、そのまま無言で通り過ぎる。このとき私は、適切なタイミングで適切な頭を下げるしぐさをすることで、何らの強制力も使うことなく、学生の頭を下げさせることに成功している。」p56
複雑で微妙な操作をうまく組み合わせること、それはあえていえばそこに神秘性を込めることに成功することである。
この魔法は、儒教の「礼」を言い換えたものである。
このような魔法により、人は他人に依存して生きていくことができる。p58

こうした神秘的相互了解なしに、むりやり他人を動かそうとするのがハラスメントである。無縁の原理は、「魔法」がハラスメントに堕落するのを防止する機能を持っているということができる。

わたしたちの社会は、経済学をはじめとする「屁理屈」に厚く覆われている。だからそのことに気づくだけでも容易ではない。しかしこの本を読んで、再出発(船出)していくことはできるだろう。

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日韓の請求権協定の解釈について

去年10月に韓国大法院は、強制動員被害者に対する賠償を新日鉄住金に命ずる判決を出した。以後、日本政府によるそれへの反発とその影響は、むちゃくちゃ大きなものになっている。
ところが、この日韓請求権についての問題は、法的にとても煩瑣な議論でありとても難解である。
弁護士山本晴太氏の文章二つを参考に、下記にまとめてみた。不出来ではあるがよかったら読んで下さい。
・・ 日韓請求権協定解釈の変遷と大法院判決
・・ 日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷

日韓請求権協定第2条では、「両締約国およびその国民の財産、権利および利益ならびに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる」となっています。

1、この問題がトラブルになっている原因は、それとはまったく違う解釈を日本政府が繰り返していたことにあります。
「当事者個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、条約によって直接影響は及ばない」
と1965年の以前から日本政府は主張していた。
広島原爆被爆者、シベリア抑留被害者の日本政府への補償請求において。

2,広島の被爆者は、アメリカ合衆国ないしトルーマン大統領に対して損害賠償請求権を持っていたのに、これをサンフランシスコ平和条約で日本政府が消滅させてしまったとして、アメリカからの賠償にかわる補償を日本国に求めたのです。
これを回避するために、「サンフランシスコ平和条約に書いてある『放棄する』とは個人の権利を消滅させるものではなく国の権利である外交保護権を放棄しただけだ」という説が日本政府によってとなえられた。

3、1965年の日韓請求権協定についても、朝鮮半島に財産を残してきた日本国民から訴えられると困るので、「個人の請求権の消滅ではない」と説明した。

4、ところが1990年代から、韓国、中国の被害者が日本の裁判所で続々と裁判を起こし始めた。
2000年頃になると、「消滅時効を援用すると、「いや、国側が資料を隠しておいて、今さら時効というのは信義則に反する」。それから国家無答責といって、明治憲法のもとでは国家は不法行為責任を負わないと考えられていたのですが、「それは旧憲法下の解釈であって、現憲法下で適用できる解釈ではない」などというように、論点ごとに国に不利な判断が次々に出始めて、ついに国が敗訴する」ことにまでなってきた。

5,この状況下で国は裁判での主張を急に変えてきた。「実は1965年日韓請求権協定で解決済みだ」と。しかし最初それは裁判所も採用しなかった。しかし、2007年4月27日の最高裁判決(西松建設事件)、国の新解釈を受け入れた。「サンフランシスコ平和条約の枠組み」というものがあり、それが平和条約に参加していない中国にも適用されるとする、理解不能の論理によって。

『サンフランシスコ平和条約の枠組み』論とは、平和条約締結後に混乱を生じさせる恐れがあり、条約の目的達成の妨げとなるので、『個人の請求権』について民事裁判上の権利を行使できないとするという。日中共同声明や日韓請求権協定も『枠組み』に入るものとして、『個人の請求権』を裁判で行使できないものとする、というもの。

6,「ここでいう請求権の『放棄』とは,請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく,当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまるものと解するのが相当である。」と述べました。つまり、日中共同声明によって被害者個人の請求権が消滅することはないが、その請求権を裁判で行使することができなくなったという。
非常に難解である。

7,「個別具体的請求権について、その内容などにかんがみ、債務者側において任意の自発的な対応をすることは、妨げられない」だけが、唯一の希望として残った。この考えにとって、原告たちは西松建設と和解を成立させた。

8,したがって、同様に強制動員問題当事者たちと、企業また日本政府とが和解を成立させることは、日本政府にその意志があれば容易なことだ、ということになる。

9、90年代から慰安婦問題が大きく取り上げられるようになり、河野談話、アジア女性基金ができたが、日本政府は元「慰安婦」たちとの和解を達成することができなかった。

10.2005年盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が「韓日会談文書公開官民共同委員会」を設置。
「韓日請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するためのものでなく、韓日両国間の財政的、民事的債権・債務関係を解決するためのものであり、したがって日本軍慰安婦問題など日本政府や軍など国家権力が関与した反人道的不法行為に対しては請求権協定によって解決されたと見ることはできず、日本政府の法的責任が残っている。サハリン同胞問題と原爆被害者問題も請求権協定に含まれていない」と明らかにした。
日本軍慰安婦・サハリン同胞・原爆被害に対する賠償請求権は未解決という点を明確にした。参考

しかし強制動員被害者については、請求権協定資金の5億ドルの計算の中には、強制動員被害者に対するものが総合的に勘案されている、とした。
ただし、山本晴太氏によれば、これは個人の請求権が消滅したという意味ではない、とのこと。

11,2012年5月24日の大法院判決は画期的な判断を示した。
「日韓請求権協定はサンフランシスコ条約を受けた財政的問題を精算するための条約であって、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の対象外だというのです。これまでは外交保護権放棄なのか、個人の請求権なのかという話をしていたら、ここで「いや、そもそもこの協定は関係ないんだ」という判断を打ち出したということです。この協定の締結過程で日本は植民地支配の不法性を一切認めなかった。不法性を全く認めず、植民地支配の性格について合意がないまま結んだ協定で、どうして不法行為による損害賠償請求権が解決されるのかという理由です。」

12,この判決は画期的だったが、日本ではほとんど報道されなかった。
この間、日本では河野談話の約束は果たされず、2014年朝日新聞が不必要な「謝罪」をし、日本国民の意識は嫌韓に傾いていた。

13,2018年11月の大法院判決も2012年のものを踏襲したもの。
安倍晋三首相は「国際法に照らしてあり得ない判断」だと批判した。そして、本来被害者と民間企業の間の問題であるにも関わらず、1965年の協定で解決済みを振りかざして韓国政府に圧力を掛けようとした。
そして2019.8.28、輸出手続きで優遇対象とする「ホワイト国」から韓国を除外した。大きな国際紛争になってしまったわけだ。

14,この間日本政府は「1965年の協定で解決済み」が、絶対的な真実であるかのように大宣伝しており、マスコミに出てくる評論家もそれに従っているようだが、そこまでは言えないことは確かだろう。

ハン・ガンの『少年が来る』について

 『少年が来る』という小説は傑作だと思う。光州事件を題材にしている。
 書いたのは、ハン・ガンという1970年光州生まれの女性作家だ。彼女は10歳の時に光州事件に遭遇した勘定になるが、彼女の一家はその直前にソウルに引っ越している。

 光州事件のことをよく知らないので復習する。
1979.10.26 朴大統領暗殺、キム・ジェギュ(金載圭)による。(『KCIA 南山の部長たち』に描かれている。)
79.12.12 全斗煥が軍の実権を握る。
80年春、ソウルの春 三金が政治の主役に。(光州は金大中氏の根拠地)
80.5.17 非常戒厳令全国に。
80.5.18 光州で無差別発砲事件が起こる
80.5.27 戒厳軍は武力鎮圧を強行。道庁内に留まっていた多数の市民の決死隊員を殺害した。

 この市民決死隊のなかには、多くの若者、大学生、高校生、あるいは中学生までいた。この小説は少年、一人の中学生を中心に語られる。トンホ。

 死体置き場になった尚武館。混乱のなかでここに迷い混んだ少年は、病院からどんどん運びこまれる棺を整理する係りになってしまう。死者の名前と棺の番号をノートに記入する係りだ。

チンス兄さんが50本入りのろうそく五箱とマッチ箱を置いていった朝、君は道庁の本館と別館を隅から隅まで回りながら、ろうそく台にする飲料の瓶を集めてきた。入り口の机の前に立って、一本ずつろうそくに火をつけてガラス瓶に挿しておくと、それを遺族が持っていって柩の前に置いた。
ろうそくの数にはゆとりがあり、遺族が寄り添っていない柩と身元が未確認の遺体の枕元にも漏れなくともすことができた。P25

 静かで美しい文章だ。実際には惨たらしく悪臭のする死体の山を、なんとかそれを並べてあげて、「悼む」形を整えた主人公の少年と二人の「姉さん」。かれらが並べたろうそくについて、それが悪臭を消すかのように美しく描写している。

 彼がひとつ、不思議に思ったのは、短い追悼式で、遺族が愛国歌を歌うことだった。軍人が殺した人々にどうして愛国歌を歌ってあげるのだろうか?
君がそう訊くと、姉さんはかえって驚く。軍人が反乱を起こしたのだ、と。「君も見たじゃないの。真っ昼間に人々を殴って、突き刺して、それでも足りないみたいに銃で撃ったじゃないの。そうしろって彼らが命令したのよ。そんな彼らを私たちの祖国の人たちだと、どうして呼べるのよ。」(P22)

少年はいままで教えられていたとおり、愛国歌は国家とその軍を褒めたたえるものだと思っていた。軍人の独裁が終わり民主主義の時代がやってきたのに、それを逆転し、銃口で人をどんどん殺して権力を奪おうとしているのは、軍だ、彼らは何の誇りも持てない反乱者にすぎない。本来の国、ネーションは私たちの側にある、と姉さんは説明する。しかし、少年は容易にはその説明が理解できない。

これはこの小説にとってはトリビアルな部分に過ぎないかもしれない。しかし一方で、日本人はまだこの国歌=国家の問題を解決できていないという気が強くする。
(天皇の歌である君が代を戦後日本の国歌にしたのは少しまずかった。
でもそれ以上にまずかったのは、解決したはずの「慰安婦問題」をいつまでも問題にし続け、「徴用工」にまで問題を広げ、自由貿易の原則まで破って見せて、まだ落とし所を見出し得ない安倍政権のやりくちだろう。)

「恐怖のために集会の規模が急速に小さくなっていると彼は真剣な顔で言った。」
「あまりにも多くの血が流れたではないですか。その血を見なかったふりなどできるはずがありません。先に逝った方たちの魂が、目を見開いて私たちを見守っています。」

「魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。」(P28)

少年はまだ幼いので、ぼんやりと考える。しかし少年は間違ってはいない。死者は死んでしまっており、彼らはどのようなベクトルも指示しはしない。すべては生きているこの私が決めることしかできない。


「軍人が圧倒的に強いということを知らないわけではありませんでした。ただ妙なことには、彼らの力と同じくらいに強烈な何かが私を圧倒していたということなのです。
良心。
そうです、良心。
この世で最も恐るべきものがそれです。
軍人が撃ち殺した人たちの遺体をリヤカーに載せ、先頭に押し立てて数十万の人々とともに銃口の前に立った日、不意に発見した自分の内にある清らかな何かに私は驚きました。もう何も怖くないという感じ、今死んでも構わないという感じ、数十万の人々の血が集まって巨大な血管をつくったようだった新鮮な感じを覚えています。その血管に流れ込んでドクドクと脈打つこの世で最も巨大で崇高な心臓の脈拍を私は感じました。大胆にも私がその一部になったのだと感じました。(p140-142)」

このような〈良心〉は最も大事なものであるのに、めったに語られることはない。言うまでもなく、代わりに語られるのは〈愛国〉であり、ある場合には〈革命〉だ。愛国は現在の体制・秩序・軍事組織への愛情・従順と区別するのが難しい。革命は運動の指導部あるいは前衛党への忠誠と区別するのが難しい。

「しかし今では何も確信することができません。(p142)」

といっても、この発言者四章「鉄と血」の主人公の「確信」が崩壊した原因は、明確に存在する。「モナミの黒のボールペン。それで指の間を縫うように挟み込みました。(p129)」以後10ページくらい詳細に語られる拷問の連続がそれだ。

敗北に続く拷問。
それが終わっても、日常生活がふつうに返ってくることはないのだ。生きることは存在の根っことともにしか営めないが、幸存者たちはみなそこに大きな欠損をうけてしまった。

271頁の小さな本だが、一つの軍事的弾圧の一面をクリアーに描いている。
(2023.8.11 ver.2)