老人は堂々と年金を受け取り遊ぼう!

・ある人Aは日本政府が、老人に対して年金など百兆円もの支出をしているのがけしからん!老人に対する支出は抑制しろ、みたいなことを言った。
・また、老人に金が支出されているがために、中高年が働いても報われない。老人によって中高年が搾取されているのだ、という人もいた。

・ある人Bは、いきなり私(69歳)を老害と呼んだ。そして「65歳すぎれば年金だけでのんきに生きてけるのが当然だ」という私の感覚に対して、そういう常識を持っていることが許せないと考え、主張し続けた。

・わたしはまだ20年以上生きて勉強し、遊び続けたい。したがってこのような老人差別をなくしていかなければいけないと考える。
・ある人Bは、いきなり私に「働け!(年金を頼るな)」と言った。これに私は腹を立てた。
https://twitter.com/nyohhiroki/status/1538511444265734144 nyohhiroki氏 「働けるのに働かず、社会保障の受給を優先する。/年齢を理由にするならそれは老害だよね。/儒教を勉強する前に働けよ。」

この人に、働けとか言われる必要はない。そもそもこの人は自分で自分に「働け」と強く命令しているのか?それはただの愚か者ではないか。人間は遊んだり、怠けたりしながら、しかたないから生きるため(収入のために)に働くものだろう。それが正しいと言うつもりもないが、「働け」だけが正しいというのは経営者あるいは上司あるいは先生だけの思想である。たまたまこの人がそういう思想しか知らないのは可愛そうなだけである。

・ただし、Aさんの提示した図表の百兆円もの支出は確かに多いことは多い。
こちらにあるが、2021年 福祉その他:30兆、医療:40兆、年金:60兆弱、計130兆円となっている。
https://www.mhlw.go.jp/content/000826257.pdf
参考: https://twitter.com/watarinigou/status/1538345307997892609
・これをどう考えるか?私は医者に行くのが嫌いだ。しかし世の中の老人はそうでもなく、暇なので(あるいは不安を抑えるため)医者にかかるのが好きな人も多い。ただそれは各個人の問題なのですぐには抑えられない。
・私には義母と義父が居て数年前になくなったが、彼らの最後は対照的だった。義母はたまたまあまり良くない病院に入院してしまい、寝たきりになってしまい、経管栄養補給でそのままベッドから出られず3年ほどしてから亡くなった。義父は入院もしたが、すぐにでてきて、ある介護施設に入所していねいに介護してもらっていたが2年経たずになくなった。義母の方が明らかに質の低い医療・介護しか受けられていなかった。にもかかわらず、というよりそれゆえに義父より長生きした。強制的に栄養補給されベッドの上で生きていくことは刺激もすくなく、その代わり危険もなく命を永らえることだけはできる。
・老人の入院者:75歳以上で、約70万。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/17/dl/01.pdf
ただし、このうち生命の危険があるは7.1%、残りは「生命の危険は少ないが入院治療を要する」などである。「受け入れ条件が整えば退院可能」が14%ある。
・・日本人の平均寿命は80-87歳、健康寿命は72-74歳とされる。
日本の平均入院日数は約33日で欧米より3倍ほど長い。
https://zuuonline.com/archives/207608
・特に、日本の精神医療病床数、入院期間とも先進国で突出して多い。
このたび、厚生労働省の有識者検討会が精神医療の報告書をまとめた。
「日本の精神医療は偏見や過去の隔離収容政策の影響で、国際的な遅れや人権侵害が指摘されて久しい。病床数、入院期間とも先進国で突出し、身体拘束や施錠部屋での隔離は各1万人を超える。
主因の一つが、医療保護入院である。精神保健指定医1人が必要と判断し、家族らのうち誰かが同意すれば強制的に患者を入院させられる。精神科の入院患者約27万人の半数近くを占めている。
諸外国では、施設ではなく地域で暮らしながら治療するのが主流になっている。強制入院が広く行われている日本の現状は異常で、廃止に向けた検討は欠かせない。」とされている。
誰のための長期入院か。患者のためではない。膨大に存在している精神病院を維持運営していく、病院経営をまもるためだ、という側面が強い。
https://twitter.com/noharra/status/1538434674187714566

・日本には優れた医療制度がある、その制度にのっとり患者(対象者)のためのサービスはできるだけ手を抜いて、長期入院(収容)させればまるもうけ、ということになる。これは医療だけでなく老人福祉・介護などのために制度を作った場合も同じである。さらに、「業界」が成立すれば厚労省や他の業界との癒着的関係も成立していく。
医療:40兆、福祉その他:30兆、と書かれているなかにはそのような、質が良いとはいえない金儲け主義によるものも含まれている。そしてそういう勢力は「生かさず殺さず」身体をベッドの上に寝かし続けておくことによって、日々お金が自動的に入ってくるのである。

・百兆円もの支出、つまり老人が一方的に利益を得ているのがけしからん、とある人Aは老人攻撃を煽っている。しかし、百兆円もの支出のうち大きな部分は業者が利益を得ているのであり、その質を高めることによってその支出を削減していくことはできるはずだ。
やみくもな老人攻撃は役に立たない。
・さて、それにしても体力、気力が弱っていくなかあと20年も生きていくのは大変である。一番大事な問題は社会的孤立であろう。特に男性の場合、妻がなくなれば地域に友人もおらずひとりぼっちになってしまうことが少なくない。
・Bさんは私に「働け!(年金を頼るな)」と言ったわけだが、その根拠は人は自立した存在であるべきだという思想がある。身体の健康の面でも、経済的な自立という面でも。Bさんはまじめなので自分で働いて生きるという思想を譲ることができない、そこで年金という制度が理解できないのだ。

・わたしだけでなく人口の2,3割が長い長い老年期を生きなければならなくなったのに、思想的にその用意ができていない。
たぶん、わたしたちはもっと気軽に助け合って、買い物の手伝いをしたり、電灯が切れたら付けてあげたり、一緒に食事したり、子供にかえって一緒に遊んだりすることができるようにならなければならない。なにしろまだ死ぬまで、20年も30年もあるのだ。恥ずかしいが今から変わっていきたい。

最初のきっかけになったのはこのツイート:おきなわの渡さん(Aさん)。
・貴方にとっては80歳の老人と20歳の若者の命の価値が同じなんですか。 https://twitter.com/watarinigou/status/1537277524543414272

815と朝鮮独立

 朝鮮人にとっての八一五(1945.8.15)について、書き留めて置きたいと思う。
 ある本は、ある女性(劉)が夜が白む頃、部屋の高い場所にある小さな窓が明るくなってくるのに気付くシーンから始まる。(今気付いたが)このシーンがすでに十分暗示的である。民族の未来がかすかに明るくなり始めることを暗喩している。

「たった一つきりしかない明かりとりの窓を(略)見つめて、今日まで暮らしてきたのだった。(略)この国の何千、何万というものが、そうして耐えて来たことであったのだ。」p7
劉は仕事に行こうとするが母屋の中学生(今の高校生くらいかも)に呼び止められる。「(略)重大ニュースがあるんだ。正午に、日本の天皇が放送をするんです。(略)いよいよ、戦争は終わりです。」
「やがて正午、はげしい雑音に包まれたなかから、その声が聞こえはじめた。(略)
「……万世のために泰平を開かん……」(略)
「どうしたえ。戦争、どうなったというのだい?」
「いえ、たったいま、戦争が終わったのです。わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」p9

 この中学生はなぜ放送前から放送内容を知っていたのか。彼は日本人ではなく朝鮮人だったから、植民地支配への抵抗の意識を持ち、日本支配の終わりを切望していただろう。当時の中学生は知的エリートである。で西欧近代の文学や思想を学ぶことは直ちに、日本支配への抵抗意識の萌芽を持つことになる。中・高等教育自体、日本が与えたものであり、皇国主義的教育がなされていたにも関わらず、反発する生徒の方が多かった。

 もちろんこれは小説ではある。1964年から68年までに日本で日本語で在日朝鮮人作家金達寿によって書かれた『太白山脈』という小説である。ただ私は、815以後の動乱及びその時の市民の一部の気持ちを報告しているかのように読んでしまった。

 815の放送を聞いて多くの日本人は呆然とするばかりで、新日本建設と勇み立った人は居なかった(2,3ヶ月後には出てくるが)。三木清が獄中死するのは9月26日と敗戦42日後であるが、その時まで彼を獄から奪還しようと押しかけた人はいなかったのだ。日本の統治機構の正当性が少しでも揺らいだことは本土ではなかったということだろうか。

朝鮮人の場合は、「わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」という明確な意志を持った人が(絶対数はそれほど多くなかったかもしれないが)居た。大日本帝国の支配が米軍中心の支配に横滑りすることを日本人のすべては受け入れたが、それは韓国人には受け入れ難いことだった。日朝一体という美名の下の日本支配が破れた以上、次の支配者は朝鮮(韓国)でなければならないことは自明だった。 

 もう一冊の本を読もう。『太白山脈』(趙廷來・チョウジョンネ)全10巻の最初の巻から。1983年から1989年まで、韓国で韓国語で書かれた作品で、作品名が同じなのは偶然。

「その日、八月十五日は右往左往しているうちに過ぎ去った。十六日もさまざまな噂が乱れ飛び、人々が不安気な顔で目を見合わせているうちに日が暮れた。ところが腸(はらわた)にしみいるような農楽隊が演奏する銅鑼(どら)や太鼓、ゲンガリ(鉦)の音が鳴り響き、思わず踊りたくなるような軽やかなリズムが湧き起こったのは、十七日の朝からだった。村の神木の下で農楽隊を幾重にも取り囲み、ぐるぐる回り、ひと塊になって踊っていた人々は、遂に町へ町へと繰り出した。

 町の通りという通りは村々から集まってきた農楽隊と人々でごった返し、町の人々までもがその渦の中に巻き込まれ、興に乗って踊り狂い、歓喜に満ちた叫び声を上げた。ケンガリが早い調子で音頭を取り、それに負けじと銅鑼や長鼓(チャンゴ)、さらに太鼓や小太鼓も必死になって後に続いた。農楽隊のその息もつかさぬ早い調子に合わせ、多くの人々は一つになり、何かに憑かれたように踊りまくった。そんな彼らの顔は笑ったと思ったら泣き、泣いたと思ったら笑いながら汗だくになっていた。くたびれた木綿の服もじっとりと汗で濡れていた。

何かに憑かれたような、人々のそんな姿を眺めながら、安昌民はぐっとこみ上げてくる、胸がはりさけんばかりの喜びをともに分かち合っていた。
(略)
(略)人々は解放を一日中農楽の拍子に合わせて踊ったり、涙ぐむことで終わらせはしなかった。村々の長の首をすげ替えることから始めて、その影響力を町にまで広げてきた。警察署はもちろんのこと、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出し、手の汚れていない者を新たにその任に就けよと言って示威運動を繰り広げた。そして、あちらこちらの村で親日行為をした者や悪質な地主たちが報復を受け始めた。p399」

 815から一日半、不安とためらいの時間を過ごした後、十七日の朝から人々は踊り始める。村の神木の下での農楽隊の踊りは大きくなり、そのまま町へ町へと繰り出していく。町ではケンガリ、銅鑼や長鼓(チャンゴ)、と言ったリズムがさらに早くなり、踊りは憑かれたように続く。それは長い間、日本帝国主義とその手先になった親日派の軛の下でひたすら耐えてきたエネルギーが一挙に爆発したのだ。そしてそのエネルギーは遅滞なく、地域の支配者たちに向かう。村々の長の首をすげ替え、警察署、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出す。

「人々は自然に一つになり解放の喜びを分かち合った力を、新しい社会と新しい国作りに向けていった。安昌民は、その正確な判断と統一された自発性と迅速な実践力に驚かずにはいられなかった。
(略)
人々のそのような自発性によって建国準備委員会と治安隊が組織され、建国準備委員会の支部は直ちに、人民委員会と名称を変えた。人民委員会のさまざまな機構に、親日派や民族反逆者たちが近寄ることすらできなかったのは言うまでもない。五万はいるであろう筏橋の人口の九割が農民であり、その農民の八割以上が小作人である彼らが、人民委員会に望むものが何であるかは明々白々だった。それは土地問題の迅速な解決だった。その要求と共産主義革命とは寸分違わず合致していた。開放された国土の雰囲気はどこも一緒で、それはまさに、革命に通じる道だった。人民は、革命イデオロギーの巨大な燃料タンクとして、点火されるのをひたすら待ち焦がれていたのである。」

 人民委員会によるほんものの革命が始まる。革命の原理は簡明だ。人口の第多数は貧しい小作農民である。自らが耕している土地を無料でまたは安価で自分のものにさせる、それが土地革命だ。これにより共産党は農民たちの強い支持を獲得することができた。毛沢東の共産党軍も同じだが。
 趙廷來・チョウジョンネは、この人民委員会の革命に肯定的な立場を取っているようだ。全斗煥政権下に書かれたときには、危険を犯していたということだろうか。

 金達寿氏の本に戻る。(p206)
「あの(八月)十六日の大デモンストレーションにしてからそうだが、民衆はまず、われわれの閉じ込められていた監獄の門を開かせるとともに、それまで屈することなくたたかいつづけて来た自分たちの指導者をさがしもとめた。(略)ソ連軍とともに金日成将軍がソウル駅に凱旋するといううわさがつたわり(略)このときから、八.一五以後のわが朝鮮の進路ははっきりときまったといっていい。つまり、共産主義者と社会主義者が先頭に立って、独立と革命を同時に、しかも即時に遂行するということだった。」


「はっきりきまった」と言っているのは共産主義シンパの作中人物である。

「全国いっせい蜂起するかたちで、いたるところに各級の人民委員会がつくられ、労働組合が結成され、農民組合が生まれ、青年学生が組織され、婦人が同盟をつくり、国軍準備隊という軍隊までがつくられた。(略)九月六日には、このソウルで中央人民委員会が結成され、朝鮮人民共和国が宣言された(略)。」


 しかし、翌日九月七日に米軍司令部が朝鮮における軍政実施を宣言する。その時点で、朝鮮人民共和国ないしそれに準ずる左派ないし民族主義的勢力はすでに各種組織なども整備しつつあり、米軍司令部の支配に強い抵抗をする力を持っていたわけだ。
 金達寿氏の本は翌年十月くらいまでを扱う。かなり無理があった米軍司令部による支配がいかに勝利していくかを描いているとも言える。

 一方、趙廷來「太白山脈」は。光復から3年後、1948年10月からの、全羅南道宝城郡の小さな町・筏橋(ポルギョ)での、左派活動家・パルチザンたちの活動を描く大河小説である。1948.4.3済州島民の蜂起、5.10南部単独総選挙、8.15大韓民国成立、9.9朝鮮民主主義人民共和国建国という大きな動乱。人民による国家を志向する巨大な運動、10月はその落日が見え始めた時期とも言える。
 さきほど引用したのは、その小説の1巻の終わりの部分で、登場人物が光復直後を回想するシーンである。(私は1巻しか読んでない。)

民主主義とは民衆による支配であるわけだが、実際の民衆、生きて苦しみ喜ぶそのような直接的レベルの民衆が、踊り狂い、その熱狂のままにいわば一般意志というべきものを形成し支配する。実際にあったこととどの程度近いのかは、分からない。しかしそのようなユートピア的支配を十全に描き美しいと思う。

しかし、「これから独立するのです」という断言を実現することができたそのようなことがあったとしても、それは長く続かず、米軍のような外部の暴力に圧迫され、また朝鮮人内部の対立、裏切りなどで、悲惨な流血がこれから積み重なっていくことになる。
趙廷來・チョウジョンネの描いたユートピアはユートピアに終わることが確定している以上、わざわざその70年前の夢を引きずり出して確認することは意味のないことではないか?という気もする。しかし、絶えざる民主化闘争とそれに対する苛烈な弾圧という数十年を耐え抜き、民主主義の現在を形成することができたに至った韓国の歩みは、やはり尊敬に値するものだろう。趙廷來が描いたヴィジョンといったものの変奏が、民主化闘争の困難な歩みを支え続けたということがあっただろう。1980年ごろから、左翼的思想を社会から追放しそれでやっていけると信じた日本社会が、進歩に逆行し信じられないほどつまらない社会になってしまったことを考えるとなおさらだ。

 革命の夢は必然的に挫折する。しかし私たちの現在が教えることは自由な民主主義も、時として低レベルの国家主義やシニシズムと合体し、救いがたい行き詰まりに陥るということだ。
 私たちがふたたび革命の夢を見ようとすることは、かならずしも愚かしいことではない気がする。(何をもって革命と言うのかを、空白にしたまま言うなら)

参考:在日朝鮮人作家列伝 01 金達寿(キム・ダルス)  林浩治氏 による「太白山脈」の紹介
https://note.com/torabuta/n/nd4bdeeba288c#yH8vY

私はむしろこの時代の歴史の事実経過を知りたいという動機が強かった。したがって、上記ブログからこの部分を引用しておきたい。
「小説では、金達寿がこの時点では金日成を強く支持し信奉していたため、朴憲永ら南朝鮮に於ける共産党指導者の名はほとんど出てこないが、46年9月のゼネストや、大邱を中心に農民を加えた十月人民抗争の指導者として朴憲永はアメリカ軍政当局に追われ越北して逃れる。」

水俣病関西訴訟から18年

原一男の『水俣曼荼羅』という長い映画を見た。思ったことを2点だけ書きます。

2004年10月、水俣病関西訴訟に対して、国と熊本県の責任を認める判決を最高裁判所が出した。
この判決の意味についてこの映画は、冒頭一時間以上を掛けてていねいに解説する。主役をつとめるのは、浴野成生(えきのしげお)と二宮正。(長い映画全体の主役とは言えないが)
http://aileenarchive.or.jp/minamata_jp/documents/060425ekino.html で次のように書いている。
「水俣病患者と慢性メチル水銀中毒患者は、いずれも口周囲と四肢末端に感覚異常を訴えた。日本では、末梢神経が傷害されて引き起こされたと信じられてきた。しかしこの感覚障害は、末梢神経でなく、大脳皮質の神経細胞の瀰漫性脱落によって生じていた(Neurotoxicology and Teratology 27 (2005) 643-653))。この誤診によって多くの典型的水俣病患者が認定申請を棄却されてきた。」

ものを感じるのはA「手足の先の神経」が損傷してもB「大脳皮質の神経細胞」が損傷してもうまくいかない。Aが損傷せずBが損傷している場合も駄目である。ところがこの場合は1977年(昭和52年)に環境庁が定めた「52年判断基準」によれば水俣病とは認定されない。
そうではなく、Bの損傷の方に水俣病の本質があるとするのが浴野学説。最高裁がこれを取り入れた時点で、「52年判断基準」は覆され、膨大な未認定患者が救済されるはずだった。
ところが、そうならなかなった。
不思議な国、日本。

慰安婦問題のキーワードは「賠償と謝罪」である。水俣病についても同じである。この映画でも、国や県の偉い人が謝罪せよと責められて深々と頭を下げるシーンが何度も出てくる。そのシーンだけを見ると、何度も頭を下げさせられてかわいそうだ、という逆の感想を持つ人もでてくる可能性がある。
謝罪せよ、と迫ることの意味がズレていることが原因ではないかと私は思う。
問題は「事実」の存在である。
水俣病患者(申請者)は有機水銀の影響を受けている。大脳皮質の神経細胞に損傷を受け、感覚障害がある場合、水俣病である。浴野学説を最高裁が採用しそれを覆す論文が存在しないかぎり、そう考えるべきだ。
当局が被害者に金を渡す場合、この金で被害者を黙らせることを目的とする。「事実」(加害という事実があったこと)をできる限りごまかすことが目的なのだ。「謝罪」はそれを求める側にとっては、「加害の事実を承認し申し訳なかった」ということだと理解される。これがマチガイである。当局者はその時、相手の前に立ち、相手の気持ちをなだめ、問題の明確化を避けるためのパフォーマンスとして「謝罪」を遂行する。
被害者は「謝罪と賠償」を要求するのは、どうなのか?まず「加害という事実」を認めるかどうかを先に確定すべきであり「謝罪と賠償」を要求するのはその後でよい。
(私が書いたようなことは何十年も闘い続けている先輩たちが気づいていないはずはないが)

台湾/香港/国家観念

『思想』2021年10月号の「帝国の非物質的遺留――台湾と香港の被占領経験の相違について………鄭鴻生(丸川哲史訳)」を読んだ。
それなりに面白いことを書いているのだが、なんだ結局、親中派、反香港騒動(2019年-2020年香港民主化デモ)にもっていきたいのね!という感じ。#丸川嫌い
思想の言葉で、倉沢愛子氏は、日本人が現地人、アジア系外国人を使う時に、「微妙に隠され、表立って問題視されない発言の背後に、「上から目線」に起因する蔑視や潜在的差別意識が忍んでいる。実は私だって、偉そうなことを言っているが、気づいていないだけで、無意識のうちにそのようなことをしているケースはたくさんあるのだと思う。」と述べている。これは現代日本人として考えなければならない点だ。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5290

香港は1842年に、台湾は1895年に植民地になり、住民は近代化に巻き込まれていく。1945年光復と1997年返還時、台湾香港の中上層市民たちは近代の帝国が与えた植民地近代をたっぷり味わっていた。それから見ると母国は遅れて見えた。この意識を端的に表すのは、国民党軍を嘲笑する「蛇口の物語」である。植民地モダニティを持った台湾香港の市民は植民地モダニティを与えられ、母国の遅れに対する差別的心理を持つことになった。(『無意識の優越感は日本人のような「先進国人」だけが持つものではないのだ。)
まあそういうことはあるかもしれないが、巨大な香港民主化デモをそうした差別意識で説明することはできないだろう。民主主義、あるいは「自分たちのネーション」に対するどこまでも熱い思いがそこにあったはずだ。
しかし、鄭鴻生はそのような理解はしない。中国人の民族と国家を獲得するための戦いは抗日戦争でピークを迎える。左派あるいは右派という形で「国家観念を持つ」ことになった。この「国家観念」に基づき鄭鴻生は「民主派」を国家観念の欠如と決めつける。
五四運動以来の新中国を模索する革命的運動を警戒した英領香港政府がかえって漢文書院系の教養を重視したという経過によって、香港の政治文化の土台たる広東語の豊かさが形成される。それ以後も戦後75年さまざまな経過を消化しつつ香港の政治文化は営まれてきたことを自身は的確に語っている。中国共産党(あるいは国民党)に求心するべき「国家観念」だけを基準に裁断することができるものではないことは、この論文を読むだけでも分かるのだ。

香港民主化デモの巨大なうねりは、中国共産党勢力の厳しい弾圧によって現在見えなくなっている。中国や日本といった大きな主語(国家観念)によってだけ歴史を語ろうとすることは、歴史と民衆のダイナミズムを取り逃がしてしまうのではないだろうか。

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

1.
朴婉緒の自伝3部作の第二、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』読んだ。あとがきに自伝ではなく自伝的小説だとある。

朝鮮戦争時、ソウルは二度にわたり北朝鮮軍に支配される。
一度目は、1950年6月28日から9月末まで。
二度目は、51年1月4日から3月14日まで。
この小説はちょうどこの二度めの時期を扱っている。二度めは一度目と違い、ほとんどのソウル市民がソウルを脱出し南へ逃げた。しかし婉緒の兄は脚に傷を負っており動けなかったので、彼女の家族はそれができなかった。たった二ヶ月とはいえ、この奇妙な権力は婉緒たちに触れずにその上を通過してはくれなかった。
婉緒は元の家から、ソウル西北の知人宅に避難していた。(避難しないことは、アカに染まったとして旧体制復帰後迫害されるので、偽装でも「避難」しないといけない。)
1.4後退からしばらくしてから、婉緒の地区にも人民委員会ができる。嫌々ながら婉緒も人民委員会で事務的な仕事をやらされることになる。北朝鮮軍は退却することになる。婉緒と義姉とその幼児だけは北に送られることになる。義姉のとっさの気転でイムジン河だけは渡らずに、そちらの方向にとぼとぼ歩いて行き、途中で東に道を逸れる。ソウルの東北近郊坡州(パジュ) の近くの山中にまで来ると、幼児が咳き込みひどく熱を出し始めた。「ヒョンは一日中、義姉の背中で咳き込んでいた。咳がひどくてなんどか背中にもどした。吐いたものを拭こうと思ってねんねこの上にかぶせた綿布団をはがすと、体が火鉢のように暑かった。」幼児を連れた避難民たち。数年前満州の北から南へ、あるいは朝鮮へ向かってとぼとぼ歩き続けた日本人母子たち、を思い出す。今も世界のいくつかの場所では同じように歩き続けている国内避難民たちがいる。

村で一番大きな家に助けを求めると、女主人が迎えてくれる。胡桃の油を絞って飲ませると熱が引くだろうと言って、飲ませてくれる。無愛想な老女に見えた女主人はしだいに妖精国の女王めいた風格を見せ始める。

2.
「全焼した村から少し離れた一軒家で退屈な昼を過ごしたあと、その村に漂う静けさに魅せられて美しい灰の中を歩いた。ちょうどそのとき、甕(かめ)のそばの痩せこけた木の枝につぼみが膨らんでいるのを見た。木蓮の木だった。よく見ると外側の固い花びらがようやくほころびかけていた。木蓮は一度春の気配を感じ取ると、あっという間に花を咲かせる。その狂気じみた開花が目に浮かび、思わず私は、まあこの子ったら狂っちゃったんだわ、と悲鳴を漏らした。木を擬人化したのではなく、私自身が木になっていたのだ。私が木になって、長い長い冬眠から目を覚ましたときに見た、人間の犯したあまりに残酷で、気違いじみたことに対して驚愕の声を上げたのだった。(p94)」

これは不思議な文章だが美しい。木蓮は咲きほこる花々を惜しみなくすべて捨て、毎年新たにまた狂ったように花を咲かせる。しかし人間はもっと恒常的なものであり、いったん建った家はずっと建ちつづけている。普通は。ところが村の建物がすべて焼けてしまうことがあるのだ。そしてそのような村がつづきそれが異常ではないように感じられてしまう。人間としての恒常性失って、しかもそのとき陽が照っていればそれだけで喜びを感じる。そのような存在感覚を「私が木になった」と書いている。そして滅びの姿のなかに在る自己に肯定感を感じている。

3.
エピローグに、朴婉緒の家系の自慢と、彼女の母親がするその自慢への婉緒の嫌悪が書かれている。一族から王の婿を三人も出した、というのだ。(朴趾源(パク・チウォン 1737-1805、私が最近興味を持った丁若鏞と並ぶ朝鮮最大の実学派儒学者)も一族らしい。)親日派の巨頭もいたが、両班の家名を支える価値観においては、彼らを恥さらしとする価値観はなかった。「国が滅びようが滅ぶまいが、当代の政権が正当だろうが不当だろうが、そんなことはどうでもよかった。何があっても商売や労働などの卑しい仕事は避け、官職につきたい一心で、平気で破廉恥なことをするのが両班の正体だ。」

このような両班(やんばん)のどうしようもなさに対して、叔父さん(婉緒の家の事実上の当主)の取った態度は立派だった。毎日「ゴハン叔父は納屋から取り出した背負子(しょいこ)を負い(略)、敦岩市場の近くで物を売り」家族12人の生活を支え続けた。背負子ほど両班に似合わないものはない。しかし彼は言う。「背負子のどこが悪い。行商すらできなかったから、うちのミョンソが死んでしまったんだ」

両班根性を嫌悪していた婉緒。彼女が実際にやったことはどうだったか。
1950年彼女はソウル大学に入学したが、すぐ朝鮮戦争が始まり一切授業を受けることができなくなった。それにしても、当時女性のソウル大学生などありえないほどの過剰な学歴になる。
最初に、北朝鮮軍支配下ではそもそも普通の若者自体いなかった。男性は連れ去られ兵士にさせられる。だからむりやり事務(ガリ切り)の仕事をさせられる。
次に、米軍支配の世になってからは、郷土防衛隊というところに連れて行かれる。警察官と口論の末だがなんと「気性は荒いが名門大学の学生だ、うまくやってみるように」と紹介してくれたのだ。(p141)まだ行政庁が帰還していない時期だった。
イムジン江を挟んでの一進一退が続き、再び漢江の南に避難しろという後退令がでる。彼女の仕事は急に忙しくなる。「冬に人民委員会で働いていたときと状況があまりに似ていたので、ふと、今どっちの世にいるのだろう、と思うのだった」

三度目は行政関係ではない、米軍PX(進駐軍専用の商業施設)だ。物も何もない当時のソウルでは、唯一光輝いていた場所だった。
「私には永遠に絵に描いた餅にすぎないと思っていた、アメリカのチョコレート、ビスケット、キャンディーなどが、いつの間にか我が家の日常的なおやつになった。
(略)アメリカ製品には驚くべき力があった。体はガリガリなのに頭だけが大きく、首が細く、口の端がただれ、そのまわりに白く疥(はたけ)が出来ていた子供たちが(婉緒の甥たち)、あっという間にぽっちゃりして肌につやがでてきたのだった。(p251)」

一番目と二番目は権力がまだひよこ状態での権力機構といえるだろう。三番目は商業施設にすぎないのに、その最新西洋日用品のもっている非常な輝きとそれを普通の朝鮮人は買えないという特権性でやはり、権力的落差を存在させていた。

数百年続いた極度に集権的な王・国家・官職への両班の崇敬と、この3つの権力性を同一視することはもちろんできない。生きるためにいくらかの金を入手するためだけの職の入手において、思いもよらない権力関係と交渉しなければならないことになるとは、大学に入ったばかりの女の子には思いもよらないことだった。

 [1]10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

References

References
1 10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

追記2: https://x.com/DaegyoSeo/status/1791730791514550572 こちらのツイートで、「尹祥源(ユン・サンウォン)」の写真と墓地、外信記者たちに対して語った「抵抗する意味」を記しておられる、徐台教(ソ・テギョ)さんが。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

権力闘争と儒教思想

連続TVドラマ『開封府 北宋を包む青い天』を見て

なかなかおもしろい。全58話もあるが毎日楽しんで見ることができた。(うちのケーブルテレビでは無料だった。)

死刑は何のためにあるか?それは人々いや正確には、官僚たちに皇帝を畏怖させるためにある。
このドラマは帝国権力の原点が、どのようなダイナミズムにおいて存在するかを分かりやすく描いている。
武官でありながら強い野望を持つ張徳林と文官を束ねる王延齢が二大勢力である。具体的権力は彼らが持っており、宮中も彼らに逆らうことはできない。逆らえば炎上させられてしまう危険がある。また時として彼らは対立し内戦状態にならんとする時もあった。しかし、二人は嫌々ながら協力して自己権力を保っている。それは名目的な第一権力宮中がただの名目に留まらない存在感を常に要求してくるので、対立している余裕がなくなるのだ。

中盤の最も長いお話(陳世美が中心になる)を取り上げて書いてみる。(ネタバレ)
かつて均州から共に上京した5人のうち、3人が殺された。残るは駙馬(皇族の夫)の陳世美と行方知れずの韓琦のみ。
秦香蓮は三年前科挙を受験しに上京して以降行方不明になった夫岑旺祖(陳世美)を探している。探し続けた夫を眼の前にして、包拯に問いただされた秦香蓮は数年間求め続けた真実が眼の前に居るのに、それを否定してしまう。夫の皇族としての官僚としての立場を守るために。権力の配置によって、真実(言説)がくるっとひっくり返る見事な例である。

秦香蓮はどんなことがあとうとも夫を信じ抜こうとする。対幻想の極限とも言える。ひとつの思想を解体することは、似たような体験から学ぶプロセスを経ることで達成しうる、というのがこの長いドラマが教えることだ。
本来秦香蓮母子を殺せと命じられた殺人者韓琦は、隠れ家で秦香蓮母子と暮らすうちに情が移ってしまい、瀕死になりながら、彼らを逃がそうとする。その韓琦を殺したのは陳世美だった。
ここで秦香蓮は、はじめて真実を口にすることができるようになる。それにより陳世美の有罪は確定する。
ところが千年前の中国ではそれは終わりではない。皇帝は張徳林・王延齢配下の腐れ官僚と対抗するための役割を、陳世美に割り振っていた。ここで陳世美を失うことは張徳林・王延齢に対しての敗北を意味する。皇帝の命令で陳世美は釈放される。
しかしその後、ある出来事により再審の機会が訪れる。張徳林・王延齢が二人揃って、陳世美の救命を乞うのを聞いて、皇帝は気を変える。彼は自ら審理の場(開封府)に出向き、義理の妹の夫とした陳世美を有罪とする。官僚として頂点を極めたものであろうと、正義に反すれば死罪に処す。これこそが皇帝権の栄光を宣言することだ。張徳林・王延齢に対して自己権力を主張し確保することだからだ。このような死刑肯定論は興味深い。

権力中枢に皇帝より強い者が居るとき、皇帝はただその強者のための飾り物になる。しかしそれでも権力者(この場合張徳林・王延齢)が影響力を及ぼせない領域もある。公正を貫くという原則を曲げない包拯が支配する司法の府(開封府)がそれだ。そこに乗り込み、直接裁くことはできる。名目上絶対君主でありながら、実際に権力行使できる機会はわずかである。で実際に権力をふるえる機会があれば、自分にすこしくらいダメージがあっても振るう方がよい。そうでないと、権力者の言うがままのお飾りに留まることになる。

ホームズばりの名裁判官物語を期待すると、それは裏切られる。包拯がそのような名推理を披露する場面はない。推理によって犯人を視聴者に対して明らかにしたとしても、その犯人が権力者(張徳林・王延齢)の関係者あるいは宮中の関係者である場合は、実際の解決にはつながらない。
事件はたいてい次のような経過をたどる。犯罪者たちは真実の隠蔽のために、証人を殺したり、さらに悪行を重ね、それは反発、波紋を広げる。それをすこし遅れて突いていくことで悪行は公的なものになる。つまり皇帝の前で明らかになることになる。

常に遅れてではあっても、公正が辛うじて実現していくのは、権力者(張徳林・王延齢)が弁解ができなくなると、包拯の「不正を憎むという論理」に、同意していくからである。皇帝はもちろん公正な裁きを自己の権力のために必要とする。王権は権力から遠い無数の民たちのために行使されなければならないという、儒教思想が共有されている。張徳林はやり手の息子(次男)という後継者を持ち、宋王朝(劉氏)の簒奪に成功する可能性はあったようにドラマでは描かれる。ただし「簒奪」とは、張氏がただ強引な権力者であるだけでなく、常に公正な支配者であり続ける(フリをする)数十年を経てのものだ、ということも張父子は強烈に意識している。

支配のための技術としての儒教思想というものを、この長いドラマでリアルに理解することができる。

本来の儒教思想を包拯とともに代表するのは、歴史にも名が残っている范仲淹(はんちゅうえん)である。
このドラマは、最終回であまりにもドラマティックに盛り上がった末、ハッピーエンドで終わる。つまり、包拯と范仲淹は勝利し、皇帝の下で科挙改革などに取り組んでいくことになる。しかしほとんどの官僚は必然的に腐敗するという法則があるかのように数年後、范仲淹はまた都を追われることになる。とってつけたようなアンハッピーエンドである。ただ中国二千年の官僚制の歴史(現在も続く)の中にいる中国民衆は、ハッピーエンドではどうも落ち着きが悪いのかもしれない。

蛇足:このドラマは武侠アクションという面もある。それを支える展昭(てんしょう別名南侠)、廬方(ろほう)、錦毛鼠は清代の小説『三侠五義』に包拯とともに登場する人物。大学者兪樾(ゆえつ)も愛した。 

黄晳暎『パリデギ』、火の海・血の海・砂の海を越えて


『パリデギ』
は黄晳暎(ファン・ソギョン 1943-)という韓国の作家の書いた小説。
副題が「脱北少女の物語」という。2008年に刊行されたこの本は前に図書館で見たのだが、脱北女性の物語は『北朝鮮に嫁いで四十年 ある脱北日本人妻の手記』斉藤博子著
映画マダムBなどいくつか知っているので、すぐに読まなくてもいいかと思ったのだ。

飢餓に至る困窮に対して、道端のクズを拾って売るなど血みどろの労苦の末に生き延びるリアリズムを、そうした本は表現している。それとそのような境遇を強いた国家(金一族)への呪詛と。

一方、この本はそうした本とはかなり違っている。
主人公は夢見る少女である。ただその夢は甘くふわふわしたものではない。困窮のうちに数千年生き延びてきたアジアの低層民が語り伝えてきた奇妙なおとぎ話。
ある春の日。門を開けると、私(5歳)より少し大きな女の子が立っていた。その子は白い木綿のつんつるてんのチマ・チョゴリを着ていた。主人公のパリは霊感の強い少女だった。それはおばあちゃんから受け継いだものだ。「あれはね、伝染病の鬼神なのさ」とおばあちゃんはいう。柳田國男的な話。

パリ一家は豆満江沿いの国境の町に引っ越す。
「前に美姉さんと豆満江に行った時、水に浮かんでゆっくり流れてくる人の姿が見えた。幼な児をおぶったままの母親の死体だった。きっと、母親と子どもが一緒に死んだのだ。美姉さんと私は、以前ならびっくりして悲鳴をあげ、誰かを呼びに走っただろうが、その時は息をこらして見つめていた。死体の後ろには、解けて長く伸びたねんねこの帯が揺らぎながら流れていた。」
数百万人が餓死したとも言われる90年代中期の北朝鮮。その悲劇を黄晳暎はこのように静かに描き出す。死体が流れてくる、それに対して悲鳴も上げずにじっとながめているまだ幼い少女たち。そこには、無残な死が幾分かは自分自身の未来にもあるかもしれないといった予感さえ孕まれていたかもしれない。

飢餓が激しくなるころ事件が起こり、一家は離散する。パリは賢(ヒョン)姉さんとおばあさんとともに川を越え、中国に入る。中国人の家に一時厄介になるが、そこも出なければならなくなり、裏山に穴を掘り住むことにする。
ここで、おばあさんがパリ王女のお話をしてくれる。その話はパリ王女が、両親とみんなを助けるために、生命水を取りに西天の果にまで行く話。ひとりの悲惨な脱北少女の悲惨な話に、このおとぎ話を二重に重ねていくといった構造をこの小説は取っている。死者や死者の世界との媒介をしてくれる愛犬と幻のなかで交流できるという神秘的能力をパリはもっていた。

物語は本の半ばで大きく回転する。パリは運命のいたずらにより、人身売買の犠牲になり、はるかロンドンに運ばれる。そこで彼女はまたゼロから難民としての生を生き直す。
私が冒頭で上げた2つの脱北女性、斉藤さんは日本へ、マダムBは韓国に帰る。詳しい話は省略するが話は東アジア3国で完結している。
しかしパリデギの場合は遠く、ロンドンに行きそこで終わっているのだ。パリはそこでパキスタン系の青年と出会い結婚する。しかしその相手はなんと911後のイスラム青年たちの熱狂に巻き込まれ行方不明になってしまう。

話が錯綜しすぎのような気がするが、そうではない。この小説はダンテの神曲のように、究極的な問いに答えようとしているのだ。問いとは、なぜ彼らは、300万人を越すとも言われる膨大な北朝鮮人は無残にも、死んでいかなければならなかったのか。その惨禍は数年続き、隣国であり繁栄を謳歌していた韓国と日本は、それを知ろうとすれば十分知り得たはずだ。しかし私たちのしたことは徹底的な無視だった。
飢えて死に、病気で死に、苦しんで死に、痛ましく死んだその膨大な人たちは、何も言えずに死んでいった。「すぐ答えておくれ。どんな理由で、わたしたちは苦痛を受けたのか?」
パリは問いを受け止め、試練の旅を続けざるをえない。パリは魔王と戦い、生命水を飲み帰ってくる。「わしらの死の意味を言ってみろ!」この問いに答えるために。
この問いには答えが与えられるが、その答えはあまり成功しているようには私には思えない。

ただ、「脱北」という巨大な悲惨を、どのような問いとして再構成したのか?
東アジアに閉ざされた国家内部の悲劇として描いてしまってはそれは違う、と彼は思った。
古くさいようなおとぎ話(火の海、血の海、砂の海を越えていく話)と二重重ねすることにより、かえって普遍的な膨大な悲惨の只中の生を浮かびあがらせることができると、黄晳暎は考えたのだろう。