「宮廷女官チャングムの誓い」について

 宮廷女官チャングムの誓い、54話もある長いドラマ。見ました。2003年の作品、脚本:キム・ヨンヒョン 演出:イ・ビョンフン。

 中宗(チュンジョン 1506年 – 1544年)時代ごろの朝鮮の王宮を舞台にしている。
 この時代に限らず朝鮮王朝時代は、支配階級のあいだに儒教が浸透し、女性のさまざまな活動が非常に制限されていた時代である。
 そのなかで、唯一王の主治医となり「大長今(偉大なるチャングム)」として歴史書に名前が残っている女性がチャングムなのだ。https://kankoku-drama.com/historia_topic/id=12001

 といっても、名前以外ほとんど資料がない。ありえたかもしれない一人の女性の闘いの一生を、作家は美しく描き出す事に成功した。(もっとのびのびと活躍したかったという500年間の女性の夢を、この一人の人物に集約させるように作られたキャラクターだとも言える。)

王宮には多くの女性たちがいた。王宮に入る女性は賤民や早くに両親を亡くしたものが多かったとされる。
https://zero-kihiroblog.com/trivia/nyokan/#index_id3
 重要な仕事をさせられることもある一方、都合が悪くなればいつでも殺すことができるそうした存在だったのだろう。男と違い最初から権利を持たない存在だと位置づけておけば、とても使いやすい。
 彼女たちは、幼くして王宮に連れてこられて以来、王宮の外に出ることも許されず、男性と付き合うことも許されず、子を持つこともできず寂しく死くしかない。王宮という人工的な世界でしか生きられない、死ぬとき以外王宮を出ることができない女性たち。

 ただ、ドラマでは女性たちが色鮮やかな料理を作っている日常が続き、基調はおだやかなので安心して見続けることができる。

このドラマのテーマは、ハン尚宮とチャングムとの世代を越えたシスターフッドだろう。その背後には、パク・ミョンイ(チャングムの母)とハン尚宮との友情が、ミョンイの水剌間(スラッカン、宮中の台所)からの追放、毒殺(未遂)により壊されるという関係がある。ミョンイを追放したのはチェ尚宮の一族。彼らがこの長いドラマで権力側としてずっと悪役をつとめる。チャングムを育て見守ってくれたハン尚宮も途中で追放され、その途上で死んでいく。

ドラマの最後では、チェ尚宮一派の罪は暴かれ裁かれることになる。ところが、チェ尚宮一人だけは逃げ出し、宮中の外にまで出ていく。どこに行くのかと思えば、なんと(自分が殺した)ミョンイの墓である。チェ尚宮とミョンイは、幼い頃から水剌間の見習いとして育った親友だったのだ。チェ尚宮は家と権力を守るために手を汚すことを厭わず生きてきた自分を、否定し反省するだけの力も持てず、幼年期に退行する。そして松の木の枝にかかったリボンを取ろうとして(あるいはそういう幻影を見て)崖から落ちて死んでしまう。

 クミョンはチェ尚宮の姪であり、水剌間の最高尚宮としての地位を引き継いだ。しかし幼いころはやはりチャングムとの友情があったのだ。
 女官たちは幼少期から世間から隔絶した閉鎖空間、理不尽な権力関係に振り回される奇妙な空間に生き続けなければならず、しかも出口はない。このような長く続く世界で営まれた、回帰するシスターフッドというものが、このドラマのテーマである。

チャングムは最初后と、次に王からも信頼を得ることが出来、それによって復讐を遂げることができた。后も王も最高権力という立場にありながら、誰にもこころを許すことができずひどく孤独である。それがチャングムを急に評価するようになった原因でもある。后はチャングムにこころを許すあまり、対立する王子(中宮)の命を縮めることを命じる。后との関係を断たない限り、悪に手を染めるしかない立場に置かれる。(宮中の権力関係というのは苛酷であり、ほとんど殺さなければ殺されるといった関係なのだ。)この直後、チャングムは一時的に水剌間の最高尚宮にもなる。この二つのエピソードが示しているのは、母を殺したチェ尚宮、このドラマの敵役とチャングムとの同一性である。存在様式としての同一性と言いたい。最高尚宮としてのチャングムの姿はそのことをビジュアル的にも明らかにしている。

 王宮という閉ざされた空間で繰り返されるのは、自己が生き延びるために他者を排除する悪に加担せざるをえないというつまらない反復である。
 それに対して、チャングムが貫いているのは、どんな場合にもその人を害することになる食事(あるいは医療)は出さないという倫理である。罪なくして死に追いやられた母とハン尚宮の復讐をするためにチャングムは王宮に帰ってきた、そして自ら悪行をすることなくして復讐を果たすという、不可能だと思われていたことをやり遂げた。

しかし、振り返ってみれば、幼い頃宮中に来てから死に至るまでチェ尚宮の生はミョンイの生の反復であり、同じようにチャングムの生を反復しているのがクミョンである。女官として同じような外見と人生から外れることができない彼女たちには、差異よりは反復が大きく感じられる。
 朝鮮王朝で何の積極性も主体性もなく抑圧されたばかりで数百年過ごした女性たち。そんなことはないと証したのがチャングムであり、そしてすべての女たちも、また少しづつはチャングムであったのだ。

 なお、「シスターフッドとは、男性優位の社会を変えるため、階級や人種、性的嗜好を超えて女性同士が連帯すること」とされる。https://www.tjapan.jp/entertainment/17528215 
 しかし、全く同じ空間、権力関係のなかで何十年もすごした女どうしの友情/憎悪、に対してもシスターフッドという言葉を使うことも許されるのではないか。

 朝鮮王朝期には男性優位の社会を変えるといった問題意識はまったくなかった。王宮という閉じられた世界では、どのように新しいことをやろうとしてもそれは挫折し出発点に戻るしかない。王宮の女性たちはすべて同じ立場に置かれており、そのことを良く知っている。その必然性を裏切る〈一瞬の夢〉としてチャングムは現れた。チャングムを見つめる女官たちの視線には、反復するシスターフッドが、逆説的に表れている。

戦後朝鮮という悔恨!

麗羅という在日作家(1924-2001)の『体験的朝鮮戦争』という小説を読んだ。1992年の作品。
1945.8.15に日本が降伏し(光復節)てからの3年、1948.9.9に朝鮮民主主義人民共和国が発足し分断体制ができあがるまでの朝鮮半島は、混乱の時代だった。南半分では独立・革命への強い欲求を米軍がむりやり押し止めていたとも言える。

朝鮮の独立については1945.12月米英ソ三国外相によるモスクワ協定で、朝鮮米ソ合同委員会および臨時朝鮮政府の設立が決まっていた。そして米ソ共同委員会が開かれ、過渡政府樹立のためのプランも発表された(46.3.20)。しかし米ソの意見の違いは大きく共同委員会は休会となる。

1947.10.30国連総会は朝鮮への国連の委員団を派遣することを決定した。(ソ連はこの上呈自体をモスクワ協定違反として反対。)p116
委員団はソウル到着後、3/31までに南北同時に総選挙を実施する、それにより朝鮮国民政府を樹立するための議会をつくる、などと発表した。しかし、ソ連及び左派はこれに賛同せず南北同時選挙は実行できなかった。
75年後(分断されたまま)の今日から振り返る場合、仮に実行していたらどうだっただろうかと考えてみることは、できる。

当時の朝鮮全体の人口は約3000万人、北1000万、南2000万と考えてよい。
ソ連と北の指導者は、勝利する自信がなかったから、総選挙に反対したと麗羅は書いている。p121
しかし南では左翼に対する支持の方がかなり圧倒する可能性があった。であれば合計でも勝てる可能性があった。
しかしその場合も、南での左翼支持勢力が北での左翼支持勢力を上回った場合、左翼(共産主義陣営)の指導権は南の指導者に握られる。また北での左翼を支持しない勢力がかなり多かった場合も面目を失う。ソ連および金日成にとってはいずれにしても避けなければならない、と判断された。
朝鮮民族全員の民意を素直に問えば左派が勝利していた可能性がかなりあったのに、金日成は自己権力の維持を第一目標とする考えであったため、それをやろうとしなかった(と言えるだろうか)
今にして思えば、全国同時選挙をやっておきさえすれば、分断をさけることができたのでは、といった思いを抱く人があるだろう。その場合、金日成体制をさらに覆していくことも必要になる。(日本人でしかない私がとやかく言うことではないが)
歴史に対してこのような感想を付け加えるのは、まあ愚かなことである。しかし朝鮮戦争休戦後69年も経つのに、停戦すらできず、統一の目処も立っていないのは不条理すぎる。自分に引きつけて考えようとすると愚痴にならざるをえない。

なぜこんなことになってしまったのか。そしてそれがこんなにも長く続いているのか。その嘆きは麗羅のものでもあった。
朝鮮共産党の指導者朴憲永たちの振る舞いも、こう振る舞っていれば歴史はこうはならなかったはずだ、といいたくなるところが二つある。
「開放直後は、朴の率いる南の朝鮮共産党(ソウルに本部)が主流で、北(平壌)に本部の党は分局に過ぎなかった。それが北労党と南労党になってからは双方の立場が対等になり、モスクワの指令で南北が合党して朝鮮労働党になってからは、北派が主で南派は従といった力関係になってしまった。
朴憲永は、年齢、学識、理論、共産党員としての組織生活や闘争経歴などすべての点で金日成をはるかに凌駕する。」であるのに、党でも政府でも、金が主で、朴は副というポジションに甘んじさせられた。もちろん、金日成はソ連軍の傀儡としてそのポジションを占めていただけだが後にそのポジションを利用して他の指導者を順次粛清していき独裁を完成していく。

麗羅が朴憲永の第一の間違いとして記すのは、下記だ。
「1946年の大邱人民抗争以来散発的な抵抗運動を展開しながらも、1947年の夏において、全面的な革命戦争の開始を躊躇したことである。その時点では、南における南労党の組織率は60パーセントを越えていた。朴憲永が蜂起を命じたら、アメリカ軍が駐留する二、三の都市を除いて南の大部分は数日のうちに制圧できたことは間違いない。」(P195)
そして、
「第二の間違いは、朴憲永は絶対に北に行くべきではなかったことだ。
彼が北へ行ったのは1947年の春で、左翼陣営にたいするアメリカ軍政庁の弾圧がきびしくなったために一身の安全をはかってのことだといわれているが(略)。
彼の北行きは、軍人でいえば戦線離脱であり、危険水域にさしかかった船の船長が、船と船員を見捨てて逃げ出したに等しい。(略)
彼は南を離れていたから、その夏の一斉蜂起の絶好の機会を逸したのだ。
そして、朴が越北したのちの南労党は司令官を失った軍隊にひとしく、地方幹部たちは局部的に果敢に闘争を展開したが、全体的には頽勢の一途をたどった。
一時は成人男子の6割以上を獲得した南労党(左翼陣営)の地上組織は、1947年8月から翌48年の3月までにほとんど壊滅して地下組織のみが細々と存続する状態に追いこまれ、頼みとするゲリラ闘争も相次ぐ討伐と隊員の脱落によって日を追って弱体化するばかりだった。」
それでも「南北を統一するには南に人民革命を起こして共産党が権力を把握したのちに、北の共産政府と合併する」という発想を捨てなかった、朴憲永は。
それに対して金日成は「北の人民軍を投入して南進統一する」発想を捨てず、朝鮮戦争を起こす。全面武力対立は金日成の目論見に反し米軍の全面反攻をもたらし、結局戦争は勝てなかった。金日成は戦争の責任を取ることもなく、権力を維持し続けた。
(ここからは野原の感想だが)ソ連監視下の平壌という狭い場所での権力闘争というゲームにおいて、朴憲永は金日成よりずっと下手だった。そして70年後も金日成の孫が自己権力を維持し続けていることを私たちは深く気づくべきである。
つまり、朴憲永の共産主義、ソ連、そうした理想への期待が、リアリストであるべき政治家の目を狂わせ敗北に至った。そしてその問題は私たちにおいてもまだ終わっていないのだ。

815と朝鮮独立

 朝鮮人にとっての八一五(1945.8.15)について、書き留めて置きたいと思う。
 ある本は、ある女性(劉)が夜が白む頃、部屋の高い場所にある小さな窓が明るくなってくるのに気付くシーンから始まる。(今気付いたが)このシーンがすでに十分暗示的である。民族の未来がかすかに明るくなり始めることを暗喩している。

「たった一つきりしかない明かりとりの窓を(略)見つめて、今日まで暮らしてきたのだった。(略)この国の何千、何万というものが、そうして耐えて来たことであったのだ。」p7
劉は仕事に行こうとするが母屋の中学生(今の高校生くらいかも)に呼び止められる。「(略)重大ニュースがあるんだ。正午に、日本の天皇が放送をするんです。(略)いよいよ、戦争は終わりです。」
「やがて正午、はげしい雑音に包まれたなかから、その声が聞こえはじめた。(略)
「……万世のために泰平を開かん……」(略)
「どうしたえ。戦争、どうなったというのだい?」
「いえ、たったいま、戦争が終わったのです。わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」p9

 この中学生はなぜ放送前から放送内容を知っていたのか。彼は日本人ではなく朝鮮人だったから、植民地支配への抵抗の意識を持ち、日本支配の終わりを切望していただろう。当時の中学生は知的エリートである。で西欧近代の文学や思想を学ぶことは直ちに、日本支配への抵抗意識の萌芽を持つことになる。中・高等教育自体、日本が与えたものであり、皇国主義的教育がなされていたにも関わらず、反発する生徒の方が多かった。

 もちろんこれは小説ではある。1964年から68年までに日本で日本語で在日朝鮮人作家金達寿によって書かれた『太白山脈』という小説である。ただ私は、815以後の動乱及びその時の市民の一部の気持ちを報告しているかのように読んでしまった。

 815の放送を聞いて多くの日本人は呆然とするばかりで、新日本建設と勇み立った人は居なかった(2,3ヶ月後には出てくるが)。三木清が獄中死するのは9月26日と敗戦42日後であるが、その時まで彼を獄から奪還しようと押しかけた人はいなかったのだ。日本の統治機構の正当性が少しでも揺らいだことは本土ではなかったということだろうか。

朝鮮人の場合は、「わたしたちの朝鮮は、これから独立するのです」という明確な意志を持った人が(絶対数はそれほど多くなかったかもしれないが)居た。大日本帝国の支配が米軍中心の支配に横滑りすることを日本人のすべては受け入れたが、それは韓国人には受け入れ難いことだった。日朝一体という美名の下の日本支配が破れた以上、次の支配者は朝鮮(韓国)でなければならないことは自明だった。 

 もう一冊の本を読もう。『太白山脈』(趙廷來・チョウジョンネ)全10巻の最初の巻から。1983年から1989年まで、韓国で韓国語で書かれた作品で、作品名が同じなのは偶然。

「その日、八月十五日は右往左往しているうちに過ぎ去った。十六日もさまざまな噂が乱れ飛び、人々が不安気な顔で目を見合わせているうちに日が暮れた。ところが腸(はらわた)にしみいるような農楽隊が演奏する銅鑼(どら)や太鼓、ゲンガリ(鉦)の音が鳴り響き、思わず踊りたくなるような軽やかなリズムが湧き起こったのは、十七日の朝からだった。村の神木の下で農楽隊を幾重にも取り囲み、ぐるぐる回り、ひと塊になって踊っていた人々は、遂に町へ町へと繰り出した。

 町の通りという通りは村々から集まってきた農楽隊と人々でごった返し、町の人々までもがその渦の中に巻き込まれ、興に乗って踊り狂い、歓喜に満ちた叫び声を上げた。ケンガリが早い調子で音頭を取り、それに負けじと銅鑼や長鼓(チャンゴ)、さらに太鼓や小太鼓も必死になって後に続いた。農楽隊のその息もつかさぬ早い調子に合わせ、多くの人々は一つになり、何かに憑かれたように踊りまくった。そんな彼らの顔は笑ったと思ったら泣き、泣いたと思ったら笑いながら汗だくになっていた。くたびれた木綿の服もじっとりと汗で濡れていた。

何かに憑かれたような、人々のそんな姿を眺めながら、安昌民はぐっとこみ上げてくる、胸がはりさけんばかりの喜びをともに分かち合っていた。
(略)
(略)人々は解放を一日中農楽の拍子に合わせて踊ったり、涙ぐむことで終わらせはしなかった。村々の長の首をすげ替えることから始めて、その影響力を町にまで広げてきた。警察署はもちろんのこと、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出し、手の汚れていない者を新たにその任に就けよと言って示威運動を繰り広げた。そして、あちらこちらの村で親日行為をした者や悪質な地主たちが報復を受け始めた。p399」

 815から一日半、不安とためらいの時間を過ごした後、十七日の朝から人々は踊り始める。村の神木の下での農楽隊の踊りは大きくなり、そのまま町へ町へと繰り出していく。町ではケンガリ、銅鑼や長鼓(チャンゴ)、と言ったリズムがさらに早くなり、踊りは憑かれたように続く。それは長い間、日本帝国主義とその手先になった親日派の軛の下でひたすら耐えてきたエネルギーが一挙に爆発したのだ。そしてそのエネルギーは遅滞なく、地域の支配者たちに向かう。村々の長の首をすげ替え、警察署、すべての官公署から親日派や民族反逆者たちを追い出す。

「人々は自然に一つになり解放の喜びを分かち合った力を、新しい社会と新しい国作りに向けていった。安昌民は、その正確な判断と統一された自発性と迅速な実践力に驚かずにはいられなかった。
(略)
人々のそのような自発性によって建国準備委員会と治安隊が組織され、建国準備委員会の支部は直ちに、人民委員会と名称を変えた。人民委員会のさまざまな機構に、親日派や民族反逆者たちが近寄ることすらできなかったのは言うまでもない。五万はいるであろう筏橋の人口の九割が農民であり、その農民の八割以上が小作人である彼らが、人民委員会に望むものが何であるかは明々白々だった。それは土地問題の迅速な解決だった。その要求と共産主義革命とは寸分違わず合致していた。開放された国土の雰囲気はどこも一緒で、それはまさに、革命に通じる道だった。人民は、革命イデオロギーの巨大な燃料タンクとして、点火されるのをひたすら待ち焦がれていたのである。」

 人民委員会によるほんものの革命が始まる。革命の原理は簡明だ。人口の第多数は貧しい小作農民である。自らが耕している土地を無料でまたは安価で自分のものにさせる、それが土地革命だ。これにより共産党は農民たちの強い支持を獲得することができた。毛沢東の共産党軍も同じだが。
 趙廷來・チョウジョンネは、この人民委員会の革命に肯定的な立場を取っているようだ。全斗煥政権下に書かれたときには、危険を犯していたということだろうか。

 金達寿氏の本に戻る。(p206)
「あの(八月)十六日の大デモンストレーションにしてからそうだが、民衆はまず、われわれの閉じ込められていた監獄の門を開かせるとともに、それまで屈することなくたたかいつづけて来た自分たちの指導者をさがしもとめた。(略)ソ連軍とともに金日成将軍がソウル駅に凱旋するといううわさがつたわり(略)このときから、八.一五以後のわが朝鮮の進路ははっきりときまったといっていい。つまり、共産主義者と社会主義者が先頭に立って、独立と革命を同時に、しかも即時に遂行するということだった。」


「はっきりきまった」と言っているのは共産主義シンパの作中人物である。

「全国いっせい蜂起するかたちで、いたるところに各級の人民委員会がつくられ、労働組合が結成され、農民組合が生まれ、青年学生が組織され、婦人が同盟をつくり、国軍準備隊という軍隊までがつくられた。(略)九月六日には、このソウルで中央人民委員会が結成され、朝鮮人民共和国が宣言された(略)。」


 しかし、翌日九月七日に米軍司令部が朝鮮における軍政実施を宣言する。その時点で、朝鮮人民共和国ないしそれに準ずる左派ないし民族主義的勢力はすでに各種組織なども整備しつつあり、米軍司令部の支配に強い抵抗をする力を持っていたわけだ。
 金達寿氏の本は翌年十月くらいまでを扱う。かなり無理があった米軍司令部による支配がいかに勝利していくかを描いているとも言える。

 一方、趙廷來「太白山脈」は。光復から3年後、1948年10月からの、全羅南道宝城郡の小さな町・筏橋(ポルギョ)での、左派活動家・パルチザンたちの活動を描く大河小説である。1948.4.3済州島民の蜂起、5.10南部単独総選挙、8.15大韓民国成立、9.9朝鮮民主主義人民共和国建国という大きな動乱。人民による国家を志向する巨大な運動、10月はその落日が見え始めた時期とも言える。
 さきほど引用したのは、その小説の1巻の終わりの部分で、登場人物が光復直後を回想するシーンである。(私は1巻しか読んでない。)

民主主義とは民衆による支配であるわけだが、実際の民衆、生きて苦しみ喜ぶそのような直接的レベルの民衆が、踊り狂い、その熱狂のままにいわば一般意志というべきものを形成し支配する。実際にあったこととどの程度近いのかは、分からない。しかしそのようなユートピア的支配を十全に描き美しいと思う。

しかし、「これから独立するのです」という断言を実現することができたそのようなことがあったとしても、それは長く続かず、米軍のような外部の暴力に圧迫され、また朝鮮人内部の対立、裏切りなどで、悲惨な流血がこれから積み重なっていくことになる。
趙廷來・チョウジョンネの描いたユートピアはユートピアに終わることが確定している以上、わざわざその70年前の夢を引きずり出して確認することは意味のないことではないか?という気もする。しかし、絶えざる民主化闘争とそれに対する苛烈な弾圧という数十年を耐え抜き、民主主義の現在を形成することができたに至った韓国の歩みは、やはり尊敬に値するものだろう。趙廷來が描いたヴィジョンといったものの変奏が、民主化闘争の困難な歩みを支え続けたということがあっただろう。1980年ごろから、左翼的思想を社会から追放しそれでやっていけると信じた日本社会が、進歩に逆行し信じられないほどつまらない社会になってしまったことを考えるとなおさらだ。

 革命の夢は必然的に挫折する。しかし私たちの現在が教えることは自由な民主主義も、時として低レベルの国家主義やシニシズムと合体し、救いがたい行き詰まりに陥るということだ。
 私たちがふたたび革命の夢を見ようとすることは、かならずしも愚かしいことではない気がする。(何をもって革命と言うのかを、空白にしたまま言うなら)

参考:在日朝鮮人作家列伝 01 金達寿(キム・ダルス)  林浩治氏 による「太白山脈」の紹介
https://note.com/torabuta/n/nd4bdeeba288c#yH8vY

私はむしろこの時代の歴史の事実経過を知りたいという動機が強かった。したがって、上記ブログからこの部分を引用しておきたい。
「小説では、金達寿がこの時点では金日成を強く支持し信奉していたため、朴憲永ら南朝鮮に於ける共産党指導者の名はほとんど出てこないが、46年9月のゼネストや、大邱を中心に農民を加えた十月人民抗争の指導者として朴憲永はアメリカ軍政当局に追われ越北して逃れる。」

『夜は歌う』と革命の原理

キム・ヨンスの「夜は歌う」はなぜ、甘やかな恋愛の話から始まるのか?陰惨な話が続く後半、最後まで、その強い記憶は消えない。

主人公キム・ヘヨンは1910年朝鮮併合の年に生まれた朝鮮人である。彼は工業高校出で満鉄に就職するというチャンスをつかんだ。独立や共産主義に興味はない(ないふりをしている)。

ヘヨンはジョンヒに出会いジョンヒを愛した。そしていくぶんかは彼女も自分を愛しるはずと信じた。しかし、ジョンヒは実は、間島の反日帝パルチザンの中心的活動家であり多くの人にその正体を知らせずに活発に活動してたのだ。ヘヨンに近づいたのも利用しようという考えからだったろう。それを知らされ、自分の信じていた世界はまったく空虚なものだった、とヘヨンは愕然とする。

しかし、そこには幾分かの真実はあったのだ、ということは最後の頁で明らかになる。李ジョンヒは11歳の時、ウラジオストクで祖父を日本軍の襲撃で失う。そのとき「悪魔のように強くなろうと決めた」という。彼女はヘヨンに「私を愛さないで」と言う。しかし、ジョンヒを誤解し、彼女が切り捨てた自分の半身いわばお嬢さんとしての半身を、強く愛してくれるヘヨンをジョンヒは嫌えなかった。

「愛も憎しみも感情だけでは存在しない。行動で見せてこそ存在するんだ(p81)」と中島は言う。

行動というより人間存在の全体性をかけて、ジョンヒを愛したのかと中島は挑発的に問いかける。ヘヨンはこの挑発に答えるように、革命に近づいていく。

物語の最初で中島が朗読するハイネの詩は、この小説全体の骨組みを明かしているようにも読める。

それはある限りない怒りについての詩だ。ある男は死してなお限りない怒りに包まれている、その力でもって男は死を越え、恋人を自分の墓に連れ込む、という詩だ。

この詩の男をジョンヒに、女をヘヨンに入れ替える、するとこの複雑で残虐な物語のシンプルな構造が見えてくる。ジョンヒは死を超えるほどの力で世界と革命を希求した。そしてそれが中断したため、死を越えてヘヨンを召喚したのだ。ヘヨンはそれに応え、革命とは何かを知る。

関東軍は1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こす、そしてまたたく間に満洲全土を制圧した。しかし北間島地区では、朝鮮人たちの抵抗が激しい弾圧にも関わらず執拗に続いていた。

1933年4月のある晴れた日、北間島の山間の小さな村での婚礼は、突然日本軍に襲われ、参加者は全て殺される。いわば紛れ込んだにすぎない主人公キム・ヘヨンだけは生き残る。「遊撃隊」に助けられ、その後中国共産党地方幹部に尋問される。意外な経過により、彼は助かり漁浪村での政治学習が命じられる。

「僕は草葺きの家で赤衛隊の青年たちとともに団体生活を送りながら、思想・軍事教育を受け、労働した。」

「議会主権が来たぞ。赤い主権が来たぞ。無産大衆の血と引き換えに議会主権が来たぞ。」

「その歌声を聞きながら野原で働いていると、心が温かくなる。ここの人々はみな、白区で共産主義青年団員として、あるいは赤衛隊員として活動していたときに、討伐で家族や家を失って遊撃区にやって来た人たちなので、お互いを心の支えとしていた。心を固く閉ざしているかと思えば、たったひと言で心を開くこともあった。」

「草葺きの家での生活を始めて二か月あまり経った頃、僕は少し違う人間になっていた。日は暗闇に慣れ、細かい光にも反応し、鼻はどこに食べ物があるのかをすぐに嗅ぎつけ、口は休みなく革命歌を歌った」(p154-157より)

「草葺きの家で」と語られるこの数ヶ月の生活は美しいものだった。

著者は「革命の原理」についてこう書く。

北間島で生まれた朝鮮の娘はふつう男の所有物に過ぎない。アヘンと引き換えに売られたりする。しかし、ある若い女性(ヨオク)はある夜学教師に出会うことができた。彼が世界のことを教えてくれた。彼はヨオクの言葉に耳を傾け、ヨオクの顔や体をじっと見つめた。「そうやって見つめられ、話を聞いてもらううちに、ヨオクは初めて自分もひとりの人間だということに気づいた。革命の原理を悟ったのだ。(p101)」

私は自由な人間だ、「人間は畜生ではない、それぞれが高貴な存在なのだ、と」。それはひととひととの魂のふれあいによって初めて気付ける真理なのだ。教師は階級支配について語ったりもしたが、そうした思想注入が人を革命的にするのではない。おまえは人間だ、と感じさせてくれることにより人は革命に目覚める。

この小説は、500人を超える朝鮮人革命家(あるいは難民)が敵ではなく仲間の手によって殺された悲惨際まりない事件、「民生団事件」を描いた初めての小説である。それについて解説すべきだが、字数制限により省略する。

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首都占領は恋愛のチャンス

廉想渉(ヨムサンソプ)の『驟雨』は面白い小説だ。
1952年に書かれたとは思えない、とてもモダンな感じ。
白川豊による翻訳が出たのが、2019年、21世紀に書かれたと言われてもだまされてしまうだろう。

「フロントグラスをザーザーと容赦なく叩きつける大粒の雨を、ルームライトを消した真っ黒な車内にいる皆は(略)」
という車内の描写からはじまる。大金が入ったバッグと美しい女秘書をつれた社長が逃げようとしている。まるで映画のようだ。
しかしこれは、数百万ソウル市民が体験した北朝鮮軍による占領体験を市民の側から詳細に記述した小説なのだ。朝鮮戦争勃発の2日後である、1950.6.27から50.12.13までの時期のソウルを描いたもの。
国民的なあまりに重い主題とそれとうらはらなポップなスタイルの矛盾が、この小説である。

廉想渉(1897-1963)は李光洙(1892-1950)より5歳下なだけ、黄晳暎(1943年生)などよりずっと先輩になる。
経歴を見ると、1918年慶応大学予科入学するも半年で辞め、福井県の小新聞の記者になり3カ月で辞める。後東亜日報ほかのソウルでの新聞雑誌者で活躍とある。金達寿の『玄海灘』の主人公とそっくりだ。
廉想渉は1919年の三一独立運動に際して、大阪でビラ撒きしようとして拘留された。1945年光復後、多くの韓国の文学者たちは愛国に目覚め社会主義化し越北する人も多かった。廉想渉はリアリストとされ、彼らとは一線を画した。多くの絶望を抱え込んでしまったのだろう。
ただ、『玄海灘』の方は未来のネーションを支えるべき二人の青年が主人公だったのに対して、『驟雨』は吹けば飛ぶような一人の女性が主人公である。

「避難民が溢れそうに通り過ぎるのを、食後に出てきたのか孫を連れた老人がぼんやりと眺めており、その前で黄色い子犬が尻尾を振っている。この奇妙な対照!」(同書解説p418の作家の文章より)
全てを捨てて歩き続けなければならない宿命に押しつぶされそうな避難民たちに対して、「この老人は燦々と降り注ぐ日差しの下で座っているようにみえる」
われわれの生活と思考と感情のすべてがその軸を失った以上、そこに与えられたわずかなぬくもりの中で思い存分背伸びしてみることもできるはずだ。首都崩壊のただなかでの災害ユートピアの幻をこの小説は描いている。

姜スンジェははきはきした美しい新女性である。社長の秘書で愛人でもあったが、戦争の混乱の中で自らそうした関係から自由になる。そして間借りすることにもなる元の同僚申永植に急接近しはじめる。「スンジェの愛欲心理と恋人・永植に対する実際の積極的なアプローチが、かなり具体的に書き込まれている」と白川氏に評されている。

朝鮮の首都が共産主義者によって占領され、数カ月後逆転する、それは決して『驟雨』などと軽々しく呼ばれるべきものではないはずだ。しかしそれはその後70年経っても分断を解決できなかったこの世界(南北朝鮮とその周辺国家)の歴史が、そういう重みを背負わせてしまったのだ。
光復によって民族が解放された以上、なんらかの統一は近々なされなけらばならないしなされるだろう、と当時の人々は信じただろう。スンジュの夫は共産主義者になり越北するが、占領軍としてソウルに帰ってきて復縁を迫る。しかしスンジェは「勇気がない」として拒否する。しかし「私は心の中では、あるいは精神的にはあなたの妻です」と書きとめる。
「北」に傾くことなく身を処し続けた廉想渉は、思想的にも「北」にとらわれず、かといって反発もせず、自由に生きつづけた。戦乱のなかでのスンジュの小さな恋愛のたたかいを長編小説に記し、讃えた。

『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』

1.
朴婉緒の自伝3部作の第二、『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』読んだ。あとがきに自伝ではなく自伝的小説だとある。

朝鮮戦争時、ソウルは二度にわたり北朝鮮軍に支配される。
一度目は、1950年6月28日から9月末まで。
二度目は、51年1月4日から3月14日まで。
この小説はちょうどこの二度めの時期を扱っている。二度めは一度目と違い、ほとんどのソウル市民がソウルを脱出し南へ逃げた。しかし婉緒の兄は脚に傷を負っており動けなかったので、彼女の家族はそれができなかった。たった二ヶ月とはいえ、この奇妙な権力は婉緒たちに触れずにその上を通過してはくれなかった。
婉緒は元の家から、ソウル西北の知人宅に避難していた。(避難しないことは、アカに染まったとして旧体制復帰後迫害されるので、偽装でも「避難」しないといけない。)
1.4後退からしばらくしてから、婉緒の地区にも人民委員会ができる。嫌々ながら婉緒も人民委員会で事務的な仕事をやらされることになる。北朝鮮軍は退却することになる。婉緒と義姉とその幼児だけは北に送られることになる。義姉のとっさの気転でイムジン河だけは渡らずに、そちらの方向にとぼとぼ歩いて行き、途中で東に道を逸れる。ソウルの東北近郊坡州(パジュ) の近くの山中にまで来ると、幼児が咳き込みひどく熱を出し始めた。「ヒョンは一日中、義姉の背中で咳き込んでいた。咳がひどくてなんどか背中にもどした。吐いたものを拭こうと思ってねんねこの上にかぶせた綿布団をはがすと、体が火鉢のように暑かった。」幼児を連れた避難民たち。数年前満州の北から南へ、あるいは朝鮮へ向かってとぼとぼ歩き続けた日本人母子たち、を思い出す。今も世界のいくつかの場所では同じように歩き続けている国内避難民たちがいる。

村で一番大きな家に助けを求めると、女主人が迎えてくれる。胡桃の油を絞って飲ませると熱が引くだろうと言って、飲ませてくれる。無愛想な老女に見えた女主人はしだいに妖精国の女王めいた風格を見せ始める。

2.
「全焼した村から少し離れた一軒家で退屈な昼を過ごしたあと、その村に漂う静けさに魅せられて美しい灰の中を歩いた。ちょうどそのとき、甕(かめ)のそばの痩せこけた木の枝につぼみが膨らんでいるのを見た。木蓮の木だった。よく見ると外側の固い花びらがようやくほころびかけていた。木蓮は一度春の気配を感じ取ると、あっという間に花を咲かせる。その狂気じみた開花が目に浮かび、思わず私は、まあこの子ったら狂っちゃったんだわ、と悲鳴を漏らした。木を擬人化したのではなく、私自身が木になっていたのだ。私が木になって、長い長い冬眠から目を覚ましたときに見た、人間の犯したあまりに残酷で、気違いじみたことに対して驚愕の声を上げたのだった。(p94)」

これは不思議な文章だが美しい。木蓮は咲きほこる花々を惜しみなくすべて捨て、毎年新たにまた狂ったように花を咲かせる。しかし人間はもっと恒常的なものであり、いったん建った家はずっと建ちつづけている。普通は。ところが村の建物がすべて焼けてしまうことがあるのだ。そしてそのような村がつづきそれが異常ではないように感じられてしまう。人間としての恒常性失って、しかもそのとき陽が照っていればそれだけで喜びを感じる。そのような存在感覚を「私が木になった」と書いている。そして滅びの姿のなかに在る自己に肯定感を感じている。

3.
エピローグに、朴婉緒の家系の自慢と、彼女の母親がするその自慢への婉緒の嫌悪が書かれている。一族から王の婿を三人も出した、というのだ。(朴趾源(パク・チウォン 1737-1805、私が最近興味を持った丁若鏞と並ぶ朝鮮最大の実学派儒学者)も一族らしい。)親日派の巨頭もいたが、両班の家名を支える価値観においては、彼らを恥さらしとする価値観はなかった。「国が滅びようが滅ぶまいが、当代の政権が正当だろうが不当だろうが、そんなことはどうでもよかった。何があっても商売や労働などの卑しい仕事は避け、官職につきたい一心で、平気で破廉恥なことをするのが両班の正体だ。」

このような両班(やんばん)のどうしようもなさに対して、叔父さん(婉緒の家の事実上の当主)の取った態度は立派だった。毎日「ゴハン叔父は納屋から取り出した背負子(しょいこ)を負い(略)、敦岩市場の近くで物を売り」家族12人の生活を支え続けた。背負子ほど両班に似合わないものはない。しかし彼は言う。「背負子のどこが悪い。行商すらできなかったから、うちのミョンソが死んでしまったんだ」

両班根性を嫌悪していた婉緒。彼女が実際にやったことはどうだったか。
1950年彼女はソウル大学に入学したが、すぐ朝鮮戦争が始まり一切授業を受けることができなくなった。それにしても、当時女性のソウル大学生などありえないほどの過剰な学歴になる。
最初に、北朝鮮軍支配下ではそもそも普通の若者自体いなかった。男性は連れ去られ兵士にさせられる。だからむりやり事務(ガリ切り)の仕事をさせられる。
次に、米軍支配の世になってからは、郷土防衛隊というところに連れて行かれる。警察官と口論の末だがなんと「気性は荒いが名門大学の学生だ、うまくやってみるように」と紹介してくれたのだ。(p141)まだ行政庁が帰還していない時期だった。
イムジン江を挟んでの一進一退が続き、再び漢江の南に避難しろという後退令がでる。彼女の仕事は急に忙しくなる。「冬に人民委員会で働いていたときと状況があまりに似ていたので、ふと、今どっちの世にいるのだろう、と思うのだった」

三度目は行政関係ではない、米軍PX(進駐軍専用の商業施設)だ。物も何もない当時のソウルでは、唯一光輝いていた場所だった。
「私には永遠に絵に描いた餅にすぎないと思っていた、アメリカのチョコレート、ビスケット、キャンディーなどが、いつの間にか我が家の日常的なおやつになった。
(略)アメリカ製品には驚くべき力があった。体はガリガリなのに頭だけが大きく、首が細く、口の端がただれ、そのまわりに白く疥(はたけ)が出来ていた子供たちが(婉緒の甥たち)、あっという間にぽっちゃりして肌につやがでてきたのだった。(p251)」

一番目と二番目は権力がまだひよこ状態での権力機構といえるだろう。三番目は商業施設にすぎないのに、その最新西洋日用品のもっている非常な輝きとそれを普通の朝鮮人は買えないという特権性でやはり、権力的落差を存在させていた。

数百年続いた極度に集権的な王・国家・官職への両班の崇敬と、この3つの権力性を同一視することはもちろんできない。生きるためにいくらかの金を入手するためだけの職の入手において、思いもよらない権力関係と交渉しなければならないことになるとは、大学に入ったばかりの女の子には思いもよらないことだった。

 [1]10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

References

References
1 10/25投稿だが、自伝3部作の第一「新女性を生きよ」と並べるため、「記事公開日時変更:9/14に」

『新女性を生きよ』朴婉緒を読んで

『新女性を生きよ』朴婉緒の自伝3部作の最初。大ベストセラーになった。やっと読み始めたが、とてもおもしろい。[1]「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 … Continue reading

彼女は1931年生まれ、開城(松都)近くの片田舎の両班の家に生まれる。その田舎の小村は両班が2軒、非両班が16軒ほどで、農地は村人が所有する格差の少ない村だった。

「厠の角から裏山に通じる道には露草がびっしり生えていた。きよらかな朝の露を含んだ藍色の露草を無残に踏みしだくと足は自ずと洗われ、爽快な歓喜が樹液のように地面から体に立ちのぼってくる。衝動的な喜びをどうしてよいかわからず、露草で笛をつくると細くふるえるような音がした。p65」
自然がたんなる自然ではなく、実存と直接交流するかのようなダイナミックな記述。ほぼ同世代の作家である森崎和江、石牟礼道子(ふたりとも1927生)に通じるものがある。

しかし彼女はそのような小ユートピアから離れ小学校に入学するためにむりやりソウルにいくことになる。これは、彼女の母親が〈新女性〉というものにやみくもな憧れを持ち、自分が叶えられなかった望みを娘に託そうとしたからだ。
「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」
試験がある。「“お前は何だってちゃんとやれるはずだ”と言いながらも母は、一日に何度も予想問題を出してわたしを疲れさせた。p45」合格。
「入学すると同時に朝鮮語は一言も使えなくなり、目に見えるものと行動を日本語で反復して注入された。p63」
「先生は美しく、匂うようだった。母がいう新女性がこの先生だ、とのぴったりの見本を目にしたようだった。子どもはみんな先生を慕う。(略)きれいな先生は心もやさしくて、親鳥にピョコピョコついてまわるひよこのような子どもたちに、注意と愛情を平等に分配しようととても神経を使っていた。」
一人ひとりの子どもに配慮するゆきとどいた教育、しかしそれは「日本語の強制」というトゲとともにしか与えられないものだった。というかそれは多くの人が望んでも得られないものだったのだから「強制」とも少し違う。植民地に生きるとは、すべての希望が結局のところ日本、日本文化に集中していく、そのような構造のなかで生きることと、それへの反発の体験である。

「新女性を生きよ」というのは、朴婉緒の母親から朴婉緒が受けた命令、祈りのような命令だ。朴婉緒の母親は「新女性」にあこがれ、朴婉緒をそのように育てようとした。
「母の実家も似たりよったりの田舎だが、外祖母(母の母)がソウルのかなりの家で、朴積谷に来る前の娘時代のひと頃をソウルの叔母たちと過ごしたことがあったらしい。いとこたちが真明とか淑明とかの女学校に通っていて、それがこの上なく素敵に思え、うらやましかったらしい。母は肩つりのチマを着て革靴をはき、新式の教育を受ける女性たちをひとからげに新女性と呼びならわし、わたしもそのように育てるのが願いだった。p17」

21世紀のわたしたちはすべての欲望を体験した後なおも、女子高生たちの素朴な明るさを愛している。まして百年近く前のソウルの女子高生たちはどんなに輝いていたことだろう。
「母」は、近代や自由というものつまりはまるごとの世界への熱い希求を「新女性」ということばに賭けた。そして思い込みが強い性格である彼女は、その希求をまるごと朴婉緒に投入する。
それが「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」である。

韓国の歴史を語るときに、親日/反日という価値基準は外せない。しかし、1945年8月までは日帝が韓国を全面的に植民地支配していたのであり、何をやるにしても日帝の権力にすり寄っていくことはほとんど必須のことであった。民衆はいつも日々のささいな利益のために権力にすり寄るものである。そうしたふるまいをあとになってすべて、「親日行為」とイデオロギー的に断罪するのは乱暴であろう。
しかし、そうしたことを無条件に許してしまえば、「誇り」が崩壊するのであり、虐げられた民にとっては「誇り」もまた必須のものであるのだ。

「日本が負けたことをわたしたちが知ったのは、一群の青年たちが、突然棍棒を持って家に押し入ってきたからだった。彼らは仲間うちで嬉々として戯れるかと思うと肩をそびやかし、ガチャンガチャンと家財道具や扉をたたき壊し始めた。」p150

1945年8月15日、日本が負けて、今までの権威日本の権威はゼロになる。それぞれの地域で「親日派」として権勢を奮っていた人の家は襲われる。ただ、朴婉緒の(祖父の)家は地元でさほど恨みは買っていなかったようだ。
「この日、我が家が受けた暴力は深い怨恨に色どられた組織的なものではなく、急に抑圧が解けて抑えつけられていた力がそんなふうに噴出した一種の祝祭行為だったといえる。青年の暴力はいくつもの村をめぐっていくうちに自然に鎮静していき、(略)」p152
数年後の朝鮮戦争時には「青年団とか自衛隊とか左翼とか右翼とかいう政治的なもの」が人の心を入れ替えてしまい、信じられないような暴力が横行することにもなったのだが。

朝鮮戦争時朴婉緒一家はソウルに住んでいた。避難が遅れているうちに前線が家を通り過ぎて行き、“一晩で世の中がひっくりかえった”。兄は(北側の)「義勇軍に持っていかれた」。
三ヶ月後、「世の中がまた、ひっくり返った。」p215 米軍がソウルを制圧したのだ。そのような中で、義姉は男の子を出産する。

「青年団とか自衛隊」とかいう愛国団体がたくさん出来、アカ狩りにせいを出す。告発と密告が荒れ狂う。理解はできるが悲惨なできごとである。

そして大きな問題は、右か左かという分断は若者個人個人の実存の内部にも走っていたことである。
兄は共産主義関係のパンフレットなども持っており、朴婉緒も影響を受ける。(p170)女学校にも民青の組織があり、南山でのメーデーの集会に誘われ出席する。彼女はそれ以上は目立った活動はしていないが、それでもアカとして調べられ、アカメスと呼ばれる。(p218)

右か左かという分断が首都、大きな町の上を砲弾とともに通り過ぎていく。それとは別に、右か左かという分断をはんらかの形で自分自身の内部にも(あるいは家族のなかに)抱えている人は少なくないのだ。

苦しく巨大すぎる問題が首都と自己の核心を捉えて全身を塗り替えていく、ありえない体験。多くの韓国・朝鮮人はこうした体験をした。

ただこの小説はそれを書こうとしたものではない。まだ少女だった自分と家族が世の中の流れに流されるなかで体験した(せざるをえなかった)事実を記したもの、に過ぎない。ただ庶民といえど、ただ受動的に流されたばかりではない、希望を持ち決断し挫折する、そのような時として滑稽なせいいっぱいの生き方が描かれる。
両班の長男の嫁という立場にも支えられた「母」の自然で強力な誇り(自恃)も印象的である。かって私たちの間にも少しはあったそれを、わたしたちは思い出すべきだろう。

References

References
1 「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ』梨の木舎1999年刊 「日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ」という副題は、この小説から歴史を学ぼうという問題意識だけが強調されすぎ不適切と思う。

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

黄晳暎『客人』を読んで

1, キリスト教徒青年たちによる殺戮


黄晳暎(ファンソギョン)の『客人』という小説、2003年に出版され翌年すぐ翻訳された本(岩波書店)、すこし古びた本を図書館でなんとなく手に取った。(訳者鄭敬謨、チョンギョンモ)

この小説はすごい。非常に残虐な出来事を直視し、書いているがエグくならず押し付けがましくもなく読むことができる。非常に大きなテーマを見事に描ききった傑作だと思う。

柳ヨセフ牧師がその兄柳ヨハネ長老に会いに行こうとする。38度線のすぐ上黄海道の、ソウルの西北方向にある小さな村、信川(シンチョン)、彼らはここで生まれ育った。朝鮮戦争時、この村でおおきな事件が起こりその当事者だった彼らは故郷を離れ、米国東海岸まで流れてきて40年経ち老年を迎えた。
ところでこの二人が主人公格なのだが、ヨハネ/ヨセフは似ていて紛らわしい。(ググるとヨハネには「神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫った」洗礼者ヨハネのイメージがあることを知った。これは含意されていると思ってよい。)

キリスト教徒の多い地域であり二人の父も牧師だった。ここで、40年前(朝鮮戦争時)に惨劇があった。彼らはその目撃者ないし当事者だった。何十年も米国で暮らした後、ヨセフは北への旅行の機会を得るが、そのとき、自身と兄の当時の悪夢あるいは記憶がどんどん襲ってくる。重苦しい話ではあるが、事件の真相が少しづつ明かされるというミステリのようにも書かれているため、読みやすくもなっている。

日本敗北後朝鮮半島北部はソ連軍によって占領され、土地改革が実行される。大地主と企業家は先に南へ逃げ、中農と自作農が地域の上位階級になっていた。かれらはたいていキリスト教徒だった。村の作男や働き手だった小作農が、平壌に行って短い教育を受け村に帰ってきて、土地改革を実行した。差別されていた下層農民が先頭に立って暴力的に村の有力者の土地を没収する。激しい軋轢と憎悪が生まれた。南に逃げた中上層階層の子弟は極右団体を結成し、朝鮮戦争時、故郷に帰り旧秩序を回復しようとした。
「(朝鮮)戦争直前、北朝鮮全域のプロテスタント教徒は、三一節の行事と選挙不参加事件などによって、北朝鮮当局と関係が悪化している状態にあった。そのようななかで米軍が北進するや、信川、載寧(チェリョン)などのキリスト教徒の青年と右翼青年が蜂起した。最初は載寧で北朝鮮軍と党員がキリスト教徒を処刑して後退していったが、米軍が進駐する前に治安の空白地帯だった信川で立ち上がった右翼青年たちは、まだ後退できていない共産主義者とその家族に対して、報復的殺戮を加え始めた。」(黄晳暎『囚人』上p241)

私もそうだが日本人はだいたい朝鮮歴史の概要を知らないので、背景説明を少ししてみた。

2. 犬を吊り下げる

「エホバよ、主の大敵はみなこのように滅亡させ給え、彼らには哀れみを与えることなく全滅させよと言われましたが、イエス様は愛と平和を教えられました。繰り返して言いますと、我が故郷の土地を奪い、そこに住みついている彼らにも私たちと同じように霊魂があります。p9」
愛と平和という言葉に反し、「敵に哀れみを与えることなく全滅させよ」という命令にしたがったかのように、敵とみなした人々を次々と殺害していったそうした熱狂がかってあった。なにより「愛と平和」をめざしていたはずの信心深い若者たちが、殺人狂になっていくという地獄。遠くから垣間見ることさえ辛いそうした惨劇に、この小説は近づいていく。

柳ヨセフが見た夢の、どんよりした暗い夢のイメージが3つ最初に提示される。最初は意味がわからないのだが、最後まで読むとこの小説の重要なシーンであることがわかる。

最初のイメージ。
α「どんより曇った日であった。(略)
赤ん坊はシーツにくるまれておりシーツの端がひざ下まで垂れ、ひらひら舞っていた。(略)大人は赤ん坊を抱き上げ、木の一番下の枝に布でしばりつけた。p1」
残虐という以上になにやらひどく不吉なイメージである。この不吉なイメージは、この後も反復される。

β「むごたらしくもあり、血が騒ぎだすような興奮の中で私は犬が屠られる光景を初めて目撃した。犬の首に幾重にも縄を回し、ほどよい高さの木の枝にひっかけて吊り下げ、縄を引っ張る。ピンと張った縄をさらに引くと、犬は目を白黒させながら四つの足をジタバタさせる。p22」

γ「あのときオレはおじさんを電信柱に吊り下げたんだよな。p23」

αのイメージの意味は直ちには理解できない。ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージがp22〜23に二つ出てくるのでβ、γとして、引用し考えてみよう。

βは、他人の飼い犬を吊るして食べてしまうシーンの一部。今では残虐無比と非難されるだろうが、この当時は悪ガキのいたずらとしてしかられる程度で澄んだのだろう。「血が騒ぎだすような興奮の中で」ひとは狂う、犬を屠るくらいならたいしたことはない。しかし人ならどうか。

γ、これは殺人のようだ。しかしこの頁では、幼い時にさまざまな楽しみを教えてくれたスンナムおじの亡霊との短い対話の断片として記されているだけなので、いったいどういうことなのか意味は分からない。

いったいどういうわけで、この小説はこんなふうにわかりにくい始まり方をしているのだろうか。この小説は、庶民がふとしてきっかけで大量虐殺を犯してしまうその謎を描こうとしたものだ。日本では関東大震災後に朝鮮人大量虐殺があったが、それを犯した人もちょっと前まで平穏な市民だったはずだ。
謎を謎のままで提示しなければならない。一方、読者の興味をつなぐよう、語り方に工夫が必要だ。そのためにこの小説は過去に殺されたたくさんの人物が亡霊となり、自由に現在にやってきて主人公たちと対話する、という形を取っている。主人公は過去に自分がやったことを記憶している。だがそれは思い出したくないことなので抑圧している。亡霊がやってきてひとことだけつぶやく。読者にはこの頁ではその意味が分からない。異様な感触だけを残して小説は進んでいく。

αについては、p41に説明がある。「大おばあ」つまりヨセフの祖母はこんなふうに言う。客人が流行り始めても田舎の村には医者もいない。巫祭(クッ)をしたくても金もない。(表題になっている「客人(ソンニム)」とは危険な伝染病だった天然痘のこと)何もできない。

「我が子が病に冒されるとただ胸に抱きしめていて、もう助けようがないとわかると草わらか雨具にぐるぐる巻いて夜更けに山に行くのさ。山に行って背の高い木を選んでその枝にしっかりくくりつけて降りてくる。カラスはまたなんであんなに多いのか、まだ死んでもいない体に集まってきて目ん玉を突っついて食べるんだね。子どもの父母が夜通し見守ってカラスを追っ払うのよ。そうやっているうちに助かった前例もあるので、みなで幾夜も木の下で見守りながら夜を明かしたらしいね。41」
子捨てと究極の祈りが合体しているような、ひどく奇妙な風習だ。生と死の距離が近く、まれに反転することもある幽冥の世界。

3,虐殺


信川だけでも三万五千人以上が死んだと言われているらしい。残虐行為の一角をこの小説から見てみよう。

「数十名の青年が畔に伏せていた。彼らはそれぞれ手に鎌や鍬や棍棒を握っていた。(略)彼らは駐在所の前まで来ると、うわーっと大声で叫びながらなだれ込み、建物の中でうとうと座って居眠りをしていた二人の署員を棍棒と鍬で滅多打ちにして殺し、奥の部屋で寝ていた署員も撲殺した。p218」
始めての殺害。駐在所員の殺害は蜂起としての合理性はある。しかし撲殺する必要はないわけで、そこには貧民による土地改革をどうしても許せないサタンの仕業と位置づける強い反動的情動があったと思われる。

また、直近に載寧(チェリョン)で党員と北朝鮮軍による殺害があった。それらに対する激しい報復感情が噴出したともいえる。
「彼らは、以前から反動だとにらんでいた家はもちろん、疑わしいキリスト教徒の家々を捜索し、相手がしたように家の中で家族らを残らず処刑した。(略)載寧(チェリョン)での三昼夜は、九月山(クゥオルサン)一体でそれから始まる血の惨劇の導火線となったのだ。p222」

「私たちがこの戦いの勝利を占める唯一の方法は、神の力に頼り正義のために悪を覆さなくてはならないという信念を堅持することだと信じております。いま自由のための十字軍は私たちを解き放つべく近くまで来てはおりますが、サタンの軍勢はいまだに私たちに脅威を加えております。(略)主イエス・キリストの御名においてお祈りします。アーメン」とヨハネは唱える。
仁川に上陸した米国軍という朝鮮戦争のヒトコマは、そのまま直接「自由のための十字軍」というキリスト教神学上の概念として受け取られる。であればそれへの加担は神の命令への服従に等しい。

そんなふうに彼らは、制圧済みの郡の党庁舎に集まる。
そこを拠点に「口ではとうてい言えないほど身の毛のようだつような残酷な」所業が繰り返される。(p229)

合理的な理由があってはじめられた残虐行為は、集団的熱狂のなかでどんどん凶暴さを加えていく。加害者たちはみずからの残虐さに慣れてしまい、反省することもなくなる。

「うるせえな。一人の男が赤ん坊をまるでサッカーボールを蹴るように蹴飛ばすと、赤ん坊は一瞬宙に浮いて二、三歩離れたところに転がり落ちた。p235」

ヨハネは幼い頃、近所のガキ大将株だったスンナムおじさんを捕らえる。最初にでてきた、犬を吊るして食べてしまうという乱暴な子どもの遊びを教えてくれたものスンナムだ。ただそんな思い出は今は関係ない。保安隊として村のリーダー格だった彼を許すわけにはいかない。
ただヨハネは彼を本部に連行するのは止める。連れて行けば、殺される前にひどい虐待や辱めを受けるだけだから。
「土手の上に電柱が見えた。 あれに吊り下げろ!(略)
仲間たちは電柱の足場に電話線を引っ掛けると容赦なく下に引き寄せた。クワッと異常な声を上げ足をばたつかせながらスンナムの体は宙に浮いた。p241」
スンナムは吊るされる。これが冒頭にちらっと出てきた γ である。

黄晳暎が、α、β、γと、ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージを反復するのはなぜだろうか?
γは弁護の余地ない大虐殺の一部である。ここでの被害者はアカと呼ばれる人びとであり、加害者はキリスト教徒の青年団である。

三万人以上が死んだという大虐殺。その過半はキリスト教勢力から「アカ」に対する殺害だった。
その中の一つを黄晳暎は「男を電柱に吊り下げる」というイメージで描写する。そのγのイメージを説明するために、βがある。つまり虐殺はむごたらしいばかりではなく、「血が騒ぎだすような興奮」を誘い出す集団心理を誘発するものなのだ。昨日まで平和だった農民たちが、虐殺者集団に変貌する一つの契機を描いたものだろう。
αは虐殺を描いたものではない。民族文化の底辺にある「生と死の距離が近くまれに反転することもある幽冥の世界」を引き合いにだしたのは、βとは逆の要素、何らかの赦しへのきっかけを得たいという発想があるのであろう。
「恨みも怒りも解けてしまった」とこの小説は語りたがるが、それがとても困難なことだということも作家は知っている。なにより、事実を隠蔽したり、虚偽を展示することによってはそれは実現しないだろう。(ここでは詳述しないが、この大虐殺について北朝鮮当局は博物館まで作って展示しているが、虐殺者は米軍であるとしている。この本が語ることとおおきな違いがある。)

「男を電柱に吊り下げる」というイメージはまた、人間の罪を引き受け赦しを与えるイエスのイメージに近いともいえる。だが、糾弾、謝罪を求めるといったことを中止し、恨みと怒りの消失を求めるが、作家はキリスト教のような絶対的な赦しを約束しているわけではない。ほんやりとした方向性における一致以上のものはそこにはないと考える。

4 罪人と神

ヨハネが現地に残した妻の問いかけが哀切である。
「どうしてこんなにまでお互いを憎み合うようになったのか、それが不思議でね。植民地時代の日本人でもあれほど憎んではいなかったはずよ。
私一人がここに居残り、悪事を犯した罪人のように暮らしながら……いたいけな娘二人にろくなものも食べさせることができないままなくし、残ったあの子一人を何とか育て上げながら、いつも考えましたよ。神にも罪があるのではあるまいかと……p168」

殺人者の妻は差別されるべきか?殺されたものはいなくなり、殺したものも南へ逃げた。残されたものは殺されたものの遺族である。数少ない殺した者の家族は怨嗟、恨みのまとにならざるをえない。彼女自身が罪を犯したわけではないのに。
彼女自身が罪を犯していない以上罰や差別は与えるべきではないという理屈は、小さなコミュニティでは通らない。
「寒井里では、私たちは誰にも顔向けができなくて、長い歳月を罪人のように暮らしたんです p167」

「あの生地獄のような惨劇を、上からだまって眺めていた神さまにも罪があるのではあるまいかと、ずっと思ってきたけれど p168」

ヨハネの日々の殺害・暴行を知りながらそれを許していたのがヨハネの妻の罪である。それを彼女は40年間隣人から問われ続け、罪を認めざるをえなかった。では神は、唯一絶対にして褒むべき神は「あのような惨劇を上からだまって眺めていた」、それは罪ではないのか?
ここには、善である神が悪を許容するのはなぜか、という神学的問題には直ちには帰着させえない切迫がある。神が人格的存在であるなら、罪は否定できないのではないか?

「不治の病に犯されたとき、ヨブは神を怨んだけれども、敬虔なるヨブはこの苦しみでさえ神の恩寵だと悟」る。なぜ苦しみが恩寵なのだろう。
見ていて許容したことが神の罪であるなら、それは恩寵であるとはいえない。ヨハネの妻はたぶん耐えられなくなっただけだ。自分の不幸がなんの意味付けもされないままで、いわば生傷のままでさらされ続けることに。
「人間につきまとう苦難といえどもそれはある目論見をもった神から与えられたものでしょう。(略)私はいまヨブのように神を怨む心を捨て、人間が犯した怖ろしい罪を神のせいにすることはすまいとこころに決めているのです p169」
神を怨むならば彼女は今まで以上に何の寄る辺のない孤独に立ち尽くすしかなくなる。彼女は神を怨むのを止めることにした。あのような惨劇を行ったのは誰か?それは神ではなく人間である。人間が我が手でもって行った殺害はその人自身のものであり神のせいにしてはいけない。
ここで、「神に罪があるか?」から問題は転回されている。神を怨むことは実生活上彼女にとって賢い選択ではない。つまりヨハネは罪を犯した。ヨハネの妻も共犯者ではあろう。しかしそれだけであり、何十年も差別される理由にはならない。
「兄さんのヨハネが殺(あや)めた人たちはサタンではなく霊魂をもっている人間であったのです。兄さんのヨハネもサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけなんです。」
人が人を殺すことの罪は、その血痕は数十年経とうと消えずに残り続ける。事実を認めることは苦しい。しかし、避けようとしてもそれは、可能ではない。

「私、望むことなどありませんよ」何かを望むことに意味はない。「この世には人間どもが犯す罪に満ち満ちている」北朝鮮であろうと韓国であろうと統一国家であろうと「人間どもが犯す罪に満ち満ちている p169」以外の生き方は人間にはできない。

おそらく黄晳暎はここでそう言い切っている。これは怖ろしいことだ。なぜならそうなら例えば正義のために命を掛けるといった行為はすべて虚しい愚かな行為になってしまうから。この本には書いてないが、黄晳暎はかの金日成と何度も親しく対話したことがある少数の韓国人の一人である。どこから見ても罪の塊である金日成と会食するなど犯罪であろう、そうした意見には一理どころではない重みがある。ヨハネの日々の殺害・暴行を許していたヨハネの妻に罪があるのと同じである。多くの強制収容所を経営し、収容者に死に瀕した生を強いている金正恩は断罪されるべきだ。しかし、彼をサタンであると信じ、なんとしてもその死を願うことが正しいのか?正しくはない。金日成も金正恩もサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけにすぎない。敵対し粉砕を叫ぶことは政治的行為としてありうるが、その有効性は状況に於いて問われる。つまり絶対的なものではない。

「少しずつでもそれをなくしながら生きていかなくては……」つつましやかな願い。しかしそれを捨ててはならない。しかもそれを貫くのには非常な力量が必要だ。

「お祈りを上げましょう」
「この共和国においても、主の御恵みのもと人びとが健やかにそれぞれの生を営んでいる ことを確かめることができました」そのことを心より感謝いたします。
(このフレーズは、黄晳暎から韓国国家へのメッセージでもある。共和国市民も本来は自分の国家の成員であると主張している韓国は当然、皆が「健やかにそれぞれの生を営んでいる」ことを確認し祝福すべき立場である。しかし北共和国だけでなく韓国も両国の往来を厳しく制限している。(ドイツ人や日本人は両方の国に入れるのに)黄晳暎は1989年北朝鮮を訪問し、帰国すると入獄させられるので海外を放浪し数年後帰国入獄した。わざわざ隣人の生存を見に行った黄晳暎を罰そうとする国国家はオカシイ!)

神に感謝すること、たとえ神を信じていなくとも。そうしないと生きていけないから、作家はそう言っているようだ。

「怨恨ゆえにまだ虚空をさまよっているだろう多くの亡霊たちが安心して旅立つことができるように、シキム(死者を送り出す巫儀)でもしてあげないとね。スンナミおじさん、一郎おじさん、朴明善のうちのチンソン、インソン、ヨンソン、トクソン、チュンソニおじの内儀、小学校の女の先生、そしてあの倉庫のなかでもだえ死んだ多くの人たち……」

亡霊たちは安心して旅立つだろうか?「安心して」なんてことはありそうにない。そうだとしても私たちは祈る。祈らなければ耐えられないから。

5 赦すこと

1950年10月19日、中国人民志願軍参戦、12月6日には平壌奪還。人民軍はどんどん南下してきて、信川のあたりもすでに敵の勢力下になり、ヨハネは逃げるため久しぶりに家に戻る。
「私(妻)は全身汗まみれで、顔からは汗が滴り落ちていた。
「子どもが生まれるわ」「なんで選りによってこんなときに」(略)
夫は周りを見廻すと、乱暴に箪笥を開けた。服がこぼれるようにあふれでた。その衣類の中から肌着を一枚取り出して彼は子どもを取り上げた。赤ん坊の泣き声と彼の歓声が聞こえた。 p182」
しかし、すぐ近くで銃声がし、彼はそそくさと立ち去る。夫はずっと遠くに去っていってしまった。

数十年後、ヨセフは兄嫁を尋ね、このときの肌着を託される。
「寒井里に行ってその骨を埋めるときに、これを燃やしてから一緒に埋めてちょうだい。 p179」

「彼は雑草が生え茂った場所を避け、乾いた土が露(あらわ)になっている所を選んで蹲った。手でそこの土を掻き集め、ほんのりと芳しい匂いを嗅いでみる。」
そこに古枝を集めて火をつけ、兄の肌着を燃やす。
「兄は故郷の地に戻ったのである。p282」
遺体に火をつけ燃やし、故郷に埋葬すること。それはかなわなかったにせよ、彼が一生抱き続けた深い深い罪を追体験し祈ることで、ヨハネは故郷の地に戻る。

「ヨセフは壁伝いに長く列になって立っている亡霊たちを見廻した。およそ十人くらいいるように見えた。
(略)
おれたちはヨハネを連れて行く前に、彼が殺めた人らを解き放してやろうと思って集まったのだ。人は死ねば、犯した罪はみな消えるというが、あったことの真相をありのままに明かしておかなければならないのだ。p215」

ひとはともすれば謝罪や赦しをめぐって大騒ぎしてしまうが、「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」を十分に確認せずにそうしたことをしても結局無意味である。(口にしたくないほど愚かしい「慰安婦問題」をめぐる日本側の態度をみてもそのことは明らかだ。)
「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」をまず求めなければならない。

「殺した奴も殺された奴も、この世を去れば、みーんな一つのところに集まることになっているんだよ。(略)
やっとのこと故郷に帰って来てなー、昔の友だちにも会い、恨みも怒りも解けてしもうた。 p278」

こう言っているのはヨハネ(亡霊ではあるが)である。ヨハネの殺人者としての所業を知ったわれわれは、こうした言葉だけではなかなか納得しずらい。加害者がそう言ったからと言って、被害者は恨みも怒りも忘れないのではないか。

しかし、この小説では、被害者であるスンナムおじさんや一郎(イルラン)も亡霊としてそこに居る。
「さあ、さあー。もうこれでいい。早よう立たにゃ。 一郎も同意した。 そうだ。みんな一緒に立とう。」
40年亡霊として彷徨った後、加害者ヨハネが亡霊として故郷に帰ってきた。それによってやっと立ち去ることができる。恨みも怒りも解けたというのが本当かどうかは分からない。しかし彼らは実際には既に死んでいるのだから、「去るべき者らは去り、生き残った者らは新しく出発しないと。p279」ということはできる。

最後の章は「締めの歌」である。
民族に自由が戻り/働く者が権利を手にしたとき/人として生まれた幸せが分かった/しかしそれも束の間/自由も権利も/一場の夢と化し/命まで奪われてしまったのだ

恨みはあろう悲しくもあろう/しかし今はもう/怨みも悲しみもすべて忘れ/安らかに心おきなく/あの世の方へ/去られ給え、旅立ち給え

最後に、一転してキリスト教徒と対立した労働者の側、被害者の側の恨みが唄われる。「怨みも悲しみもすべて忘れ」というのが正しいのかどうか私(野原)は分からない。

韓国はシャーマニズムの伝統がある。ムーダン、マンシンとよばれる降神巫。彼らは人びとから依頼を受けて、死者をあの世に送る儀礼を行う。これがクッとよばれる。厄払いである。
死者とその怨念、彼に向けられた怨念その両方を彼方に送るための儀式。その様式を借りてこの小説は書かれた。
「怨みも悲しみもすべて忘れ」は黄晳暎の意志ではなく、クッを必要とした民衆の意志である。

6 怨みも悲しみもすべて忘れ

この小説のなかでは、40年前に死んだ死者たちと先日死んだ死者がともに亡霊となり、生き残った人々と対話する。死者たちに語らせる。それは40年間彼らの声が抑圧されなかったものとされてきたからだ。
殺害された者はもはやいないので発言できない。殺害したものも逃げてしまい故郷との繋がりが失われる。また殺害したものは真実を語るのは自分にとってつらすぎるとして抑圧してしまう。
しかし実は小説家はどのような人のどのような行為であろうと小説に書くことができる。40年前の世界も現在の世界も。しかし黄晳暎はそのどちらも選ばず、現在に浸透してくる過去を描いた。
40年前を描いた小説であってもそれが読まれるとしたら、現在にしか生きていない読者がそれを求めるからだ。ふと思い出される過去の記憶といったものは現在の少なくない部分を占めている。40年前の過去であっても、トラウマと呼ばれる抑圧された記憶はふとしたきっかけで鮮明に思い出されることがある。40年前の事件のドキュメントが求められているのではない。事件のドキュメントの意味が求められているのだ。殺す者と殺される者の距離、40年間という距離、国家と民衆の距離、そのような隔たりを超えるために、亡霊による語りというスタイルを黄晳暎は採用した。
最も抑圧しようとしたものは何十年経っても残る。小説家としてそれを書こうと思ったのは当然だろう。
しかも重要な出来事でありながらその真相が隠蔽されているのであるから、政治的、社会思想的にも是正されるべきである。しかしそれは、北朝鮮国家と韓国市民の多くの両方に正面からケンカを売るに等しい行為であり、大きな問題を引き起こす可能性があった。半亡命の身分にあった黄晳暎にとっては、なおさらである。しかし実際にはそのような真相を明確に突き出す作品を彼は書いてしまった。半亡命→帰国・入獄から1998年出獄、その5年後にやっと書き上げたのではあるが。

「この作品に描かれた惨劇は民族内部で演じられたものであるだけに、北側の公式的な主張を立場とする人たちからも、また惨劇のあと北の地を離れ南に移ったクリスチャンを中心とする人たちからも、否定され指弾されるということはありうるだろう。(p291)」
そうした自己保身的あるいは政治的配慮よりも、作品を完成させることだけを目的に黄晳暎は書き上げたのだ。

「キリスト教とマルクス主義は、この民族が植民地時代と分断の時代を経てくる間に、自律的な近代の達成に失敗し、他律的なものとして受け入れた、近代化への二つの異なった途であったということができよう。」
最近翻訳がでた自伝『囚人』に詳しいが、1985年から1993年まで黄晳暎はドイツや米国などに滞在し、途中何度か北朝鮮も訪問した。1980年代の西欧から見た場合40年前の北朝鮮のキリスト教とマルクス主義はほとんど双生児のように似ていると見えたことだろう。「キリスト教とマルクス主義は考えてみれば一つの根から生えた二つの枝であったのだ。」日本の場合では大学に行ったりするインテリが明治時代にはキリスト教に、それ以後はマルクス主義にかぶれるといったふうに現象した。急成長する資本主義の大きな矛盾とまだ封建的な伝統社会の抑圧、その双方を批判する武器として使われたのだ。おおざっぱに言えば、同じ社会集団に時期をずらして受容されたためお互いの大きな争いは起きなかった。
朝鮮では、光復後に何もない所から国家を作らなければいけないという機運が高まり、その要請に答えるイデオロギーとしてキリスト教とマルクス主義が、それぞれ別々の階層に選ばれた。そして不幸なことに二つのグループは激しく対立し、ついにこの本に書かれたような巨大な惨劇を産んだ。

AがBを撲殺する。その意味ははっきりしている。ごまかしようがない。しかしキリスト教とマルクス主義が関与すると少し違う。同じ殺害でも神のため、あるいは党のためであれば許される場合もあるのだ。この小説ではもっぱらキリスト教徒が扱われる。彼らが天国に通じる道と信じて殺害を行ったがその道はわずか数ヶ月で消えた。彼らは故郷から逃げざるを得なかった。神のためという言い訳が通用しなくなり、殺害という苦い記憶を抱えてAは40年生き続ける。しかし黄晳暎は悔恨や反省を一切書こうとしない。

AがBを撲殺した。Aはそのことを忘れない。不快なもやもやとして、強い苦さとしてそれはときどきやってくる。それを悔恨や反省としてすこし意味を変え昇華していくことが、人間の文化だろう。それを最も洗練させたものがキリスト教とマルクス主義(そして近代文学)だろう。反省、神への帰依によって救われること、それは「神の名によって殺すこと」とそれほど大きく違うだろうか?黄晳暎はそこまで書いていない。しかし、彼が悔恨や反省を書こうとしないとはそういう意味でもありうるだろうか。

BはAに撲殺された。Aのようなそれ以後の40年はBには存在しない。亡霊として漂い続けただけだ。BはAを激しく怨んでいるはずだろう。しかし厳密に考えるならばその怨みも、生きているB以外の人がなければならないと強く考えているだけなのではないか。Bはただ死んでしまい何を考えているのか分からない。

「強い風が吹きまくっている。」
「一群の人びとが上半身を屈め、同じ方向に進んでいる。何か重たいものを引く網でも肩にかけているような姿勢なのだ。前進している人の長い列は前の方も、後ろの方も終わりが見えない。曲がりくねった道は野原を横切り、遥か彼方に見える大きな山並みに接しているが、人びとは一切無言である。屈められた彼らの背中が見えるだけである。」283

彼らはただ歩いているだけなのか。彼らのうち少なくない人は、自らその手に凶器を担い他者の肉体にそれを振り下ろした。見えはしないが、人びとはその罪とともに歩き続けるのか?

一方「自分はそこに現れた一幅の画面の上を、鳥のように飛翔していた。」
鳥のようなのはおそらくヨセフではなく、作家黄晳暎であろう。殺された者も殺した者も、決してエリートでもインテリでもなかった。広大な歴史の原野をただ歩き続けるしかない庶民である。しかし作家はそうではない。そう望まなくとも作家はすべてを見通し設計しうる。語られる限りでは歴史すら、改変し各自の感情、倫理的色合いすら左右できる。読者も巻き込んで。
殺害者にもっと真摯な反省を求めるという感情を読者は持つだろう。大きな虐殺事件でありその事実を明らかにし、悼むことは必要だ。
それに、加害者を加害者と名指すことは必要だ。つまり、反省と謝罪を求めることは。それは一方の側に加担することになり、政治に巻き込まれることになる。
ただ、文学の役割はそれとは違う。「遠くの方から牛の鳴き声と、首につけられた鈴の音が聞こえてくる。めんどりが卵を産み落として出す姦しい啼き声も聞こえてきた。田園がひろがる野原では、人びとが田植えの歌を歌っており、それにまじって、鉦(ケンガリ)や長鼓(チャング)を叩く農楽(ノンアク)の音も聞こえてくる。」
数多くの殺害を飲み込んでなお、庶民(常民)の世界は延々と続いていく。無理やりであろうと「怨みも悲しみもすべて忘れ」という言葉とともに、作家は彼らに別れを告げる。

(2010.2.5)