この間まで必死にヘーゲル読んでたのだがというか“必死”ではなかった。わたしは<必死に>といった情念に価値を置くマイナーグループのなかに長く身を置いた(とも言える)が、どうも<必死>は苦手である。せいぜい安吾の“あちらこちら命がけ”くらいか。さて目標をたて一応達成したのは、長谷川訳の精神現象学を「とにかく」最後まで読むことでした。ですが何が書いてあったのか分からないまま今では忘れてしまいました。それでも良い。で今日は少しだけルカーチを読みながら復習。
- ヘーゲルにとっては、ただ全体的精神のみが一個の現実的歴史を持つ。*1
ここで<精神>についての見当違いの連想をはさむ。大晦日の野原日記に曙のことが出てくる。「大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。」曙では気象現象のことか何か分からないのでボブサップと書いてありますが、この文章において、ヘーゲルと曙は、知的エリートの象徴としてのヘーゲルと非知的エリート大衆娯楽の象徴たる曙という、いわば旧制高校的差別的ヒエラルキーを露骨に表現しているようにも読めます。しかしながら知的優越において大衆から自己を差異化しようとするさもしい心ほどヘーゲル思想から遠いものはない、ということを精神現象学から読みとることは十分出来ます。すなわち、理性(観察する理性/理性的な自己意識の自己実現/絶対的な現実性を獲得した個人)は否定され、<真の精神>すなわち共同体精神というものにならなければならぬのですから。日本人の何割かが同時刻に曙を見ていたということは、曙が<精神>だったということだ。ぶざまに太った巨人はどっと倒れ、そのとき共同体は歓喜する。相撲の原型は(土蜘蛛の時代)ぶざまに太った敵部族の巨人がどうと倒れるのを見て快哉を叫び共同体に同一化する儀式だった(と言われている)。なぜか日の丸を付けた曙は二千年の民族の記憶を甦らせつつ、そのとき倒れた。
*1:同書p388