余傑『劉暁波伝』を読む

1,

80年代中期「文革」の大災厄を経た中国では万物がよみがえる兆しが現れ、各種の文学・文化思潮が次々に起こった。哲学ブーム、美学ブーム、主体性討論、国民性批判、『今天』を中心とする朦朧詩、白洋淀派、「黄色い大地」や「赤い高粱」など第五世代の映画、西部の風、尋根(ルーツ)文学、実験小説、星星画展に誕生を促された現代芸術、崔健のロック「一無所有」・・・

 余傑はこう書いている。p99
私はほとんど知らないが、想像することはできる。人々は自らの自由を自ら確認し展開してことができることを知り、喜び、世界が変わっていくことを信じた。おそらくどのような人にでもそうした高揚期というものはあるはずだ。そのとき人は自由であり恐れを知らない。後になって振り返れば(かんちがい)だったかもしれないが、自由という名のかんちがいが人間の本質に属することもまた確かなのだ。

このようないわばシュトゥルム・ウント・ドラング中に、劉暁波ははなばなしく登場した。しかし彼は新時期文学に冷水を浴びせるような形で、登場したのだ。
「中国の作家は相変わらず個性の意識に乏しい。この無個性の深層にあるのは生命力の萎縮、生命力の理性化、教条化であり、中国文化の発展は一貫して理性により感性の生命を束縛し、道徳的規範で個性の意識の自由発展に枠をはめてきた」と彼は語った。

彼は後に20世紀末の中国政府のあり方に異議申し立てをすることになるが、彼の思想は決して権力の批判にとどまるものではない。中国数千年の歴史が真に権力や社会の矛盾に真正面から向き合う思想、思想家を生み出し得なかったことへの深い反省が常に彼にはあった。

2,
1988年8月から三ヶ月間、劉暁波はオスロ大学に招聘された。次いでハワイ大学、コロンビア大学で海外の学者との交流を楽しんだ。89年4月15日胡耀邦が死去し、民主化の動きが高まった。劉暁波は最初海外からこの動きに参加しようと、「改革建言」「全中国の大学生に宛てた公開書簡」などを公表した。4月26日、彼は危険に身を晒すことになるから今は帰国するな、という友人たちの忠告に逆らって帰国した。権力との関係において敗北しながらその敗北を直視せず自己を偽りそれを言葉で飾り立ててしまう、中国インテリの伝統を、自分で断ち切らなければならないという思いが、劉暁波には強かった。
それまで劉は「個人主義と超人哲学を尊び、群衆を見下し、社会は烏合の衆だ(p141)」とみなしているきらいがあった。
天安門広場の学生たちの運動に、まさに情況の核心に劉はつっこんで行き、そのなかでそうした個人主義も訂正されていく。

5月13日、学生たちはハンストを初めた。
5月19日、戒厳令を敷くことに反対だった趙紫陽総書記は、広場に現われ、学生たちとの対話しようとした。しかしその時点でもはや、趙は権力を失っていたようだ。5月20日戒厳令が下される。
追い詰められた劉暁波たちは、ハンスト宣言を出し、ハンストに入る。「李鵬政府が非理性的で専制的な軍事管制を以て学生の愛国民主運動を鎮圧することに抗議する。また、一中国知識人として、この行動を以て、ただ口先を動かすだけで、手を動かさないという軟弱性に終止符を打とうとする。」ここでも劉は、知識人としての自己否定(変革)に大きな比重を置いていたことが分かる。

6月3日、戒厳部隊は、西、南、東三方から広場に向かって進軍し、バリケードや投石で阻止しようとする市民たちと衝突し、流血の惨事が起こる。
緊張が高まる広場で、一部銃で武装しようとしていた労働者クループがいたが、劉らは説得し武装解除に応じさせ、武器を叩き潰した。そして次に、劉らは広場を死守しようとする学生らを説得し、ついに学生らは撤退することになった。広場での流血の惨事は避けられたが、周辺ではすでに多量の血が流されてしまっていた。6月4日朝になっていた。
ここで、彼の人生の前半は終わる。

3,
流血のさなかよろよろと広場を出た劉暁波は、数日後捕らえられ、秦城監獄に入れられる。
劉暁波は反省文を書き、91年1月獄を出る。知識人や学生リーダーに対する罰は比較的軽かったが、一般市民の「暴徒」は死刑や重罪になるものも多かった。反省文について、「ぼくは個人の尊厳を売り渡したと同時に、六・四で冤罪を被った死者の霊魂と流血を売り渡した。」と劉は書いた。
多くの血が流され、それを証し立てなければならない立場に劉は置かれたようだった。

1991年劉暁波はオーストラリアから招聘を受け、当局は出国を許可した。当局は劉が亡命してくれたほうが厄介払いができると考えたらしい。しかし、「六・四」流血と民主化の中断の場所に劉は戻ってきた。「四六時中の監視、尾行、嫌がらせ、さらに定期的な「談話(事情聴取)」、召喚、軟禁、家宅捜索(p223)」を覚悟の上で。
彼は毎年、6月には六四の死者を追悼し続けた。詩集『独り大海原に向かって』(書肆侃侃房)には十九もの鎮魂歌が収められている。
二千年代に入ると彼はインターネットを始め、海外の友人と話し合ったり、海外で文章を発表したりすることが比較的容易にできるようになった。
2008年、〇八憲章の起草と署名の中心人物になった。自由・平等・共和・民主・憲政と言った理念に基づき、国家の政治制度、公民の権利、社会的発展についての具体的主張を提起したもの。最初の署名者は三百三人だったが、彼らの思想がすべて一致していたわけではなく、小異を残して大同につき、公民社会を作っていくための基盤として、提起されたものだ。
ところが、当局の警戒と弾圧は劉たちが予想したより厳しかった。2008.12.8警察官が「国家転覆扇動罪の嫌疑」で彼を連れ去った。そして、結局その後、彼は死ぬまで釈放されなかったのだ。なんという非道!!そして隣国にいて、幾分かの関心をこの事件に向けていたものとして、日本国内でこの問題への関心と劉暁波への同情をもり立てることができなかったことを、とても残念に思う。

劉暁波は世界のすべてを思索しようとする大柄な思想家だった。彼は西欧的な自由や制度だけを求めた思想家だったわけではない。彼は若くして荘子や司馬遷、屈原などと深く対話した。そして東洋において真の自由を得るためにはどうしていったらよいかを、素直に実践していった。
現在、六四から約30年、中国では経済的な驚くべき発展に伴い、習近平独裁体制が完成しようとしているかに見える。しかしそれは歴史の一面に過ぎず、劉暁波を引き継ぐ自由と民主主義への模索が、中断されることはないだろう。