ソクラテスと民主主義の死

アルキビアデスとクリティアスは1,2をあらそうソクラテスのお気に入りでした。クリティアスは30人僭主の最有力メンバーであり、アルキビアデスはアテネ国民にうまくとりいる軽薄才子でした。かれらは主観的洞察の原理を実践し、その原理にしたがって生きた人物だったのです。
p430『哲学史講義・上』ヘーゲル 河出書房新社

アルキビアデスとクリティアスはアテネ国家の民主主義を崩壊させた主犯といっても過言ではない。で、それにソクラテスが打ち立てた「精神の高度な原理」が関わっていたとヘーゲルは言っている。

ソクラテスとは、「国民の権力にたいして服従の意思を示すのを拒否した人物」である。「自己を確信する精神、ないし、みずから決断する意識の絶対的な正当性」を自覚していた。この高度な原理は絶対的にただしいものでした、とヘーゲルは言い切る。
しかしそれは、「国家が正義とみなしたもの以上の理性や良心や公正はありえない」という本来のアテネ国家の原理とまっこうから対立するものだ。ソクラテスは死刑になったが、それからわずかの時を経て「みずから決断する意識の絶対的な正当性」という原理はアルキビアデスなどの身体を借りて、アテネ「民主主義」を滅ぼしてしまう。

ここでヘーゲルが描き出している図式は、われわれには飲み込み難いものがある。
何人かの個人による、理性の導きによる対等な討論が民主主義の基礎であることは言うまでもない。それを教え、最も見事に実践したのはソクラテスである。
ところが、それは、ソクラテスの死とアネテ民主主義の死に至る道筋をたどる。どうしたことか!? これがヘーゲルが見事につかみ出した〈矛盾〉である。

もうすぐテロ等準備罪(共謀罪)というものが国会というプロセス(二院制)で可決される。森本問題、加計問題という首相による国家の私物化に対する解明を、「理性の導きによる対等な討論」という規範を徹底的に貶めることにより抑圧する、という経過によって、国家に人民抑圧の手段を与えることになる。戦後70年間の議会制民主主義は終わった、と感じられる。

「民主主義」はなぜ終わったのか?啓蒙的進歩的知識人が愚かだったから、いやそうではなくみずからの聡明さに酔い傲慢におちいっていたから、だろう。彼らは、「理性の導きによる対等な討論」をとなえるが、ソクラテスのように裸足で泥をかぶり庶民の一人一人と対等に討論しなかった。彼らの「討論」とは、彼らが欧米から密輸入した民主的な結論にたどり着かなければならないものと決まっており、対等な討論など、実は最初から真剣には企画されていなかった。

支配者と官僚が欧米から輸入した「繁栄のための」結論と、それへの反発である「民主的な結論」の対立。そこには最初から「理性の導きによる対等な討論」はなかった。そこで、
支配者と官僚の側は、「日本のため」「繁栄のため」というレトリックで押すことにより、常に勝利することができた。戦後、真剣な討論が栄えていた時代もあったように見えるが、それは高度成長の果実である国家予算の一部を、大衆にも分配するという争いにすぎなかった。分配の余地がなくなるにつれて、討論はにべのない拒絶に変わった。

絶対的な自由を手に入れた個人は魅力的であり大衆をも魅惑することができる、それにより独裁を手に入れ国家を破滅させることができる(アルキビアデスの場合)。
では人格、見識ともに劣ると公然とみなされている安倍氏は、なぜその独裁を維持し続けられるのだろうか?
誰しも愛国的である自分を感じるのは心地よいものである。韓国にむしろいじめられている日本という図式をむりやり作り出し流布することにより、ある個人は日本の味方をし韓国に対して怒ることにより愛国者になることができる。70年も前の戦争時の犯罪について相手がほかでもないあなたに反省を求めていると、そういう図式をつくれば誰しも反発する。その反発により、安倍氏は彼らを自分の側に動員することができる。
啓蒙的進歩的文化人が安倍を批判すると、自分の無罪(無垢)を信じたい大衆の逆鱗に触れてしまい、左翼はますます嫌われることになる。

かっておろかなアルキビアデスが勝利したように、今日は愚かな大衆が勝利するのか?

メモ:さて、この問題についてキルケゴールは次のように言っている。
「ここでアテナイ国家の頽落について歴史的叙述をおこなうことは私にはかなりよけいなことのようにおもわれる」p83 『イロニーの概念・下』著作集21
「ギリシャ国家における邪悪な原理は、有限な主観性の(すなわち不当な主観性の)原理、多種多様な発現形態における恣意であった。そのうちの一つの形態(略)が、ソフィストの立場」p85