マルタとマリア

イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカ10-38

つまり「主はマルタに「無くてはならぬものは唯一つのみ」と言い給うた。マルタよ、思い煩いなく純粋であろうと欲する者は唯一つのもの、すなわち離脱をもたなければならない、と。」
エックハルトは、被造物から離れるべきことを性急に説く。利益であれ報酬であれ内面性の深みであれ自分のものとして求めるすべてのものから直ちに離れるべきである、という。
つまり、日常の雑事に追われてせわしく立ち働いていたマルタという生き方を否定し、一途にイエスの足元に近づきそこに浸りきったマリアの生き方を良しとする、かのようである。ところがここで、エックハルトは大きな逆説を説き始める。

イエスはマルタを叱責したのではない、と。マルタは確かに雑事に追われ、「思い煩っている」。しかしそうしたすべての活動において、マルタは少しの惑乱もしていない。ただ事物のすぐ近くに立ち、それぞれの物事を手早く的確に処理し続けるだけである。そのような生き方は、「事物がお前の中にまで入り込んでいる」状態ではない。手段であるべき事物に魂を奪われてはおらず、マルタの魂は天に直ちに通じている、と。

エックハルトは、仕事について次のように言う。
秩序正しく、合理的に、そして意識的に働くようにつとめなかればならない。秩序正しくとは、いずれのところにおいてもまずもっとも身近なことに応答していくことである。合理的とは、その時その時の事に没頭してより善きものを考えないことである。意識的とは、つねに甲斐甲斐しく活動してその中に活発発地の真理が喜ばしく現前するのを覚知することである。
p286神の慰めの書

いささか乱暴に言えば、仕事とか生計とか将来とかいうものを私たちは、物神化、イデオロギー化している。そのようなあり方からは直ちに離脱しなければならない、というのが、エックハルトの考え方。
一方、わたしたちは、衣食住をはじめその時々の必要を満たしていかなければならない。そのためにいそがしく甲斐甲斐しく働くことは、神の前に神とは別の自己(思想)、自己満足を立ててしまうこととは全く違う。かえって神の前におのれを空しくしている状態であるのだ、ということのようだ。