全てが討論に参加しそして決議し行動する

   「X団」顛末記 を読んで

(1)

 『ゲバルトの杜』という映画を見た。この映画がよい映画だったのかどうか、良くわからない。なのでこの感想は書かない。当事者(登場人物)の一人、野崎泰志さんが書いた長い回想が、インターネットにある。「「X団」顛末記―樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に寄せてー 「正しく公正で確かな力(村上春樹)」は私達の言葉にあったかー」https://ynozaki2024.hatenablog.com/entry/2024/05/09/231009 。
https://ynozaki2024.hatenablog.com には他の記事も精力的に追加されている。)

 広義の全共闘の時代の青春と正義を描いたドキュメントとして(かならずしも読みやすくはないが)稀有のものだと思う。以下に感想を書いてみたい。

「1972年11月8日の夜、早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室で、当時二年生の川口大三郎君(20歳)が学生自治会の革マル派によってリンチ殺害された。」
 それに怒った早稲田数万の学生は立ち上がった。学生たちの目的を二つに整理することができる。革マルによる暴力支配を終わらせることと「自治会再建運動」である。
 川口くんの属した「第一文学部の学生は先頭を切って学生大会を開催し、その自治会(革マル系)をリコールして臨時執行部を樹立した。その委員長が『彼は早稲田で死んだ』を上梓した樋田毅氏、副委員長が私(野崎)だった。」

 学生たちは、革マル派の暴力支配に抗しつつ運動を続けて行こうとする。ただし、学生たちのあいだにも思想傾向の違いがあった。当時の膨大な資料を再構成することにより野崎氏は、自分たちの思想(行動と不可分な)を、他の二つの潮流から区別していく。

「行動委員会とは、個々人の主体的な決意を基本とし“自立・創意・連合”の原則で進んでいく」そうしたもののようだ。わたしはその心意気に、50年前に出会っていたら同感しただろう。

 そのとき、野崎氏たちの前にあった課題は明白だった。友人だった川口くんが殺された。それをなんとかしないといけない。復讐の情念に似ている。しかし革マル派への憎悪だけに収束してはいけない。また革マルを否定する党派(例えば中核)を志向してもいけない。(セクトを志向することは、自分だけで考えるという態度を捨てること、思想をセクト中央に委ねることを意味する。)自分が自分として生きることを模索するという青臭さを引き受けること、そのように野崎氏たちは出発した。

 ただ〈行動委員会〉的なものは、野崎氏たちにとって次第に違和として現れる。この野崎氏たち(後にグレーヘルメットのx団として表れたもの)と〈行動委員会〉的なものとの差異は微妙なので、抽象的なものである言葉で捉えるのは難しい。1971年に大学に入学した、同世代である私には分かる気もするが。

 ある種の大人たちからはそこに思想の根拠を置いてはいけないと嘲笑される即自的なものに、野崎氏たちは依拠する。クラスがそれだ。
「私は徹夜でクラス決議案を書いた。
 11月10日金曜日は大学が休講措置をとった。それを知らず級友がいつも通り20数人集まった。クラス決議案を討議し一字一句修正した。私は後に引かない覚悟で、賛同の者の氏名を列挙すると言った。」
 正確には、〈クラス討論〉という開かれた討論空間であるが、それは友情(なかま)という即自性の強い共同性でもあった。開かれた討論空間であるとは、世界を包括しうるということである。この楽しみと喜びにとらわれた野崎氏たちは、稀有なことだろうが膨大な暴力がうずまく大学のなかで、それらとは別の次元の〈クラス討論〉空間をかなり長いあいだ維持することができた。クラスとは大学の制度内の集団という平板な意味ではない。ひとつの世界に開かれた共同性であるのだ。そのとき交わされた討論が意味あるものであれば、それは数十年後にもためらうことなく再開することができる。出版〜映画化〜いくつかのブログ〜SNSと討論は再開されつつある!

『行動委員会とは、個々人の主体的な決意を基*とし“自立・創意・連合”の原則によって各人の、各クラスの闘いとエネルギーを能動的に機動的に結合してゆく連動体である。全てのクラス・サークルで行動委員会を創出し臨執を守り、臨執の闘いを実体的に保*し、共に闘いを進めてゆかねばならない。
何度でも云う。我々の闘いは生み出されたばかりである』x2-2

 ここで定義された〈行動委員会〉は“自立・創意・連合”の原則(つまり開かれた討論空間)であり、またクラス・サークルというたまたまであった友人たちの即自性に依拠するという点で、野崎氏たちと同じである。

 しかし、野崎氏は第1章すべてを費やして〈行動委員会〉的なものと自分たちの差異を確認しようとする。
〈行動委員会〉の原理は、「やりたい者がやりたい事をやる」という全共闘方式で、学生自治会の基盤としての民主的クラス活動とは異なる。」と野崎氏はいう。自分たちは自治会再建運動をやっているのだであり、全共闘方式とは違うというのである。

 第一文学部学生自治会の9原則(野崎氏が書いた)というものがある。

  1. セクトの存在は認めるが、セクト主義的ひき回しは一切認めない
  2. 革マル派のセクト主義に対して、我々は大衆的な運動・団結をもって彼らの論理と組織を糾弾していくのであり又、そうでしかあり得ない
  3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならない。我々は具体的な事実、主張の下に初めて批判を行なっていくべきである
  4. 意見の違いは大衆的な討論の場で克服していく努力をする
  5. 我々の運動の質・形態・思想は常に運動の中から生み出され大衆的に確認していかねばならない(以下略)  

 革マル派糾弾を掲げつつ、(そこに属していたとしても)その人の主張を無視してはならない、と主張しており、討論空間の権威を誇っていると読める。


 このように討論を大きく重視する場合、現在考えてみると問題点を指摘することもできるだろう。

発言できないもの、障害者、幼児、病者などなどサバルタンの存在をどう見るかという問題。

また、運動、大衆的という言葉の圏域に立つなら、村上春樹や文学、孤立、死といった問題を包括できないのではという問いもある。

現実的問題としては、全共闘体験者(66〜70年入学者?)がすでに直面していた卒業/就職問題にまったく触れることができていないという問題がある。(松下昇の祝福としての0点は、たしかに一つの回答ではあった。東アジア反日武装戦線の反日も。)(なお、反日といってもテロとは限らない、単に肉体労働者としてその日ぐらしをする、桐島聡のように、もりっぱな反日だろう。)

 〈行動委員会〉的なものと野崎氏たちの分岐は、具体的には、一文行動委連合(準)略称LACなどと臨時執行委員会との分岐である。つまり「行動委員会とは第二次早大闘争の生き残りの世代の3・4年生中心に立ち上がった活動家の集合であり、同時に革マル派と敵対していた政治党派の活動家(手書きビラの書体と語彙で当時は分かった)の寄り合い世帯で」あり、臨時執行委員会とは1,2年生だった。
「3・4年生で行動委に結集した学生はクラス活動の基盤をほぼ持っていないという背景があった。語学クラス単位で行動した1・2年生はクラス討論を基礎に自治会再建に取り組み自治委員をほとんど選出した。この自治委員選出率、一年73%、二年75%、三年39%、四年0%と云う数字にも、行動委員会が自治会再建に淡白で直接行動に傾き、1・2年生が自治会再建運動に重点を置いていた当初からの関係のねじれが見て取れる。」
 自治委員選出率の極端な落差は、大学というもの(それをどう捉えるにしろ)への親和感を3,4年生はほとんど失っていたという問題があったのではないか?1,2年生はクラスの即自性に夢を託する余地があった。
 実際、3年U氏と4年K氏はクラス自治委員として選出されなかったので、執行部からはずされた。

 規約改正委員会(野崎氏たち?)の次のことばは美しい。
「各個人の自発性に根拠を置き、自由で豊富な人間関係を確かに、また持続的に組み上げていく努力を通じて、問題意識が(それは心のなかに不安として、痛みとしてある。)交流し、真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。

〈行動委員会〉的なものと野崎氏たちの分岐を、表現された文言のうちに伺うことは困難だ、とも言える。それはむしろ彼らの存在様式(1,2年生はモラトリアムを許されていた)から来ていた。

 民青系の学生が立候補してもよいか?という問題があった。9原則の「3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならない。」からは、許容するという考えになる。自治会再建という目的のためには、民青も受け入れるとする。
この50年の経過を見ると、9原則派の方が正しかっただろうと感じる。血みどろで対立してしまえば、人間的にはその後の和解は難しい。しかし、ある具体的局面で敵に対峙するとき第三勢力として日本共産党や中核が居れば、共闘の可能性に開かれているべきだろう。自分の思想を守るためにそこで孤立を選ぶというのは間違いだろう。大事なことは自分の思想ではない。開かれてあることである。巻き込まれて自分をなくしてしまうなら、それはその思想が弱かったのでありしかたがない。(しかし、逆に相手にも同化を求めるなという態度は必要。)

「団交実行委員会は行動委員会系の学生が次に形成した運動体で、各学部にも作られ最後に全学団交実行委員会となる。これが後の1973年5月8日の総長拉致・団交を実行し」た。

行動委員会派は「自己否定・自己変革を通した主体性の確立を闘争の主眼とする」ということのようだ。

「地道なクラス討論を積み上げて、自治会の在り方や試験への対応や新規約など、ゼロから大衆的論議を尽くして自治会を創設していく」というクラスのニーズに、自治会再建派は立脚する。しかしそれは学費の支払いによるブルジョア的権利のなかでの友情(関係性)に、それを越えようとする不可能な夢をむりやり乗せようとしたものに過ぎないともいえる。そういう意味で、論理的・倫理的には「自己否定・自己変革」という立場の方が正しいようにも思える。

 しかし考えてみればたった2年間とはいえ、1年2年制は「クラス」という実存を生きることができるのであり、そうした学生による自治組織を希求するのは当然である。そして大学側との度重なる交渉の結果「各学部の自治会承認はその一歩手前まで行っていたのである。」

 したがって、5月8日の総長拉致・団交、つまり「旧世代の全共闘の好きなことを勝手にやると云う惰性」による運動(団交実行委=行動委員会派)が、「自治会再建と云う地道な作業を積み上げていた圧倒的多数の学生の望みを断ち切る事になる」。
これこそが、行動委員会派と野崎氏たち自治会再建派との決定的分岐となってしまった。

(2)

 次の分岐は、「武装」をめぐってのものだ。
この映画の原作とも言える本を書いた樋田毅氏は一貫して非武装派である。それに対し、野崎氏たちx団派は、最終的に鉄パイプによる武装を選択し、武闘訓練まで行った。

 これについて、野崎氏は次のように書く。73.6.17日。
「 個体としての己の生を誰も代行的に他人に生きてもらうことがありえないように、個体としての己の意思・思想・感性の表現を己のこととして貫き、決して疎外させ代行させることなく、自らの言葉を以って語っていく、——これが最低限の原則ではないのか。とすれば、己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。

 己のことばを表現を己から疎外させ誰かに代行させてはならない。同じ意味で、己の自衛権をゲヴァルトを己の肉体から疎外させ誰かに代行させてはならない。セクト主義的引き廻しを許さないと言う観点から言っても、種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にするであろう。」

 この文章は魅力的である。自分で考えて言葉を発するのではなくセクトの思想・表現を(疑うことがなくなるまでに)自分のものとして語ってしまうこと、そのようなあり方を批判することこそがセクト批判であろう。であるとすれば、己の自衛権についてもそれを他人(他のセクトやWACなど)に任せてお願いするのではなく、自己のゲヴァルト行使として自己の行為とするべきだ、という主張。
革マルによる暴力的妨害をはねのけないと大学構内に入ることすらできないという事態において、防衛を他のセクトやWACにお願いするということがいままで成されていた。それを代行主義として批判し、自ら防衛すると言っている。
 ただ、ヘルメット・竹竿までは身につけることができても、鉄パイプという凶器を持つことについては覚悟がいったであろう。

「川口君の虐殺事件を機に、『反暴力』を掲げてこれまで一緒に闘ってきた同じ二年生の仲間たちが、防衛のためとはいえ、『武装』することを決めたのだ。療養中だった私は、その経緯を後になって知り、激しいショックを受けた。」(樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、p148、166)(療養の原因は革マルの暴行。)

 革マルの暴力に対抗するために、対抗暴力としての武装は許されるか?「テロ・リンチはせず大衆の目前での公然たる暴力であること、目的が確認された暴力であること等」議論がなされた。大学に入り、学内で集会するために、防衛のための武装が必要となったのだ。

 わたしたちが非暴力で生きていますとのほほんと信じているとすれば、それは自らを覆っている国家権力の暴力を無自覚に肯定しそれに気づいていないということであろう。それが通用しない例外的状況(この早稲田の状況がそうだが)においては新しい基準が必要になるだろう。
 非暴力を貫くという樋田氏の思想は正しいだろうか。「人権として正当な抵抗権としての自衛行為」を認めることができない思想だ、と野崎氏は批判する。
 口先だけの非暴力主義が日本では蔓延している。そのような非暴力主義の蔓延はバリケードやストライキにも反対する空気を作っていって、社会運動の衰弱につながると言えるだろう。
 刑法的にも正当防衛の可能性はある。(ただし事前に鉄パイプを用意していた場合は、とっさにそこにあった何かを手にした場合より認められる可能性は低い)。防衛の意志をもって鉄パイプを持つことはあってもよいと私は考える。

 武装に反対する理由としてよく言われるのは、暴力は必ず相互エスカレートするということだ。早稲田の72年11.8から、73年9月までの経過はまさに暴力のエスカレーションであった。但し、革マルやそれに対抗した中核、青解などセクト(政治党派)の暴力と、個人の身体を基盤にしたx団の暴力はやはり違うものだろう。x団の暴力は防衛というレベルを逸脱しなかった。

 もうひとつ別の暴力については、引用だけしておく。
「ただし、X団の別動女性部隊「ウンコ軍団」はスロープを突撃して上がってくる革マル精鋭部隊約50名に対して、用意していたビニール袋のウンコ爆弾を2階の窓から雨霰と投げつけた。命中したのであろう、彼女らは女子トイレまで追われてそのドアーを鉄パイプでボロボロにされる恐怖を味わった。」

「一文学生自治会憲章「九原則」では、一言で言えば自律しか書いてない。非暴力とは書いてない。自律が侵されそうな局面で自衛的実力行使を一文学生は幾度も行った。更に必要に迫られれば自衛武装的実力行使に及ぶのは自然であろう。自分の人権は自分で守るしかない。一人一人がそう思えば大きな力になる。」が野崎氏の結論である。

「しかし、新自治会の防衛を自衛武装で試みたX団と二連協の”ICHIBUN 80”も、確かに無知で無力であったが、確かな敗北の痛みだけは手元に残った。」と最後に誇らしげに書きつける。
52年前に何があったか以上に、仲間との関係を回復し歴史を復活させるHPを作り上げるなどを仲間とともに行ってきた最近の営為によってもこの誇りは支えられているであろう。(19721108の頁

 暴力学生として唾棄されるだけの存在だという評価に、抗しうる自己史を書き留めることができた人は少ない。反革マルの闘いには真実があったし、それは表現されるべきだった。
野崎さんたちの苦闘と勇気にこころからの敬意を表したい。

(なお、早稲田大学と何の関わりもない私がなぜこの文章を自分に引きつけて読めたか。私は川口くん、野崎くんと同時である1971年4月に京大法学部に入学した。入学当初のクラス討論の空気を久しぶりに思い出してみると、そこには早稲田と同質のものがあったように思えたからだ。わたしたちは平和的に4年間を過ごすことができ卒業していった。「ブント系(赤ヘル)の全学支配のなか」と言えるだろう。悲惨な事件も時折あったようだが、あまりよく知らないままとおり過ぎていった。(民青とは勢力拮抗していた。)当時、竹本処分粉砕闘争や三里塚闘争などあったが参加せず、もっぱら本を読んでいただけだった。ただこの社会を否定・変革しなければならないという気分だけは100%持っており、従って卒業後どう生きればよいか分からなかった。)

参考:膨大な資料をまとめたサイトが二つある。わたしはまだ見れていません。
☆ (19721108の頁
川口大三郎リンチ殺害事件の全貌 というサイト。野崎さんや旧クラスメートなどが作った時系列重視の詳細なもの。

☆ https://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchitsuitou.htm
川口大三郎君追悼資料室 瀬戸宏作成・管理

追記:
 野崎さんのブログは最近旺盛に更新されているが、そのなかでどうしても引用したい部分が下記だ。
https://ynozaki2024.hatenablog.com/entry/2024/05/17/214016
パレスチナに連帯して5月1日に本部キャンパス・大隈銅像前で約200人を集めてスタンディングデモ・集会をやった現役学生に言及し、激励し、過去の歴史に学んで欲しいと締め括ったのは、私だけだった。多分、それをやった諸君の中の20人ほどが見に来ていたと思ったので。歴史はバトンタッチされた。

 その「スイカ同盟」の集会は、早稲田大学において、おそらく私達が1973年7月に最後の学生集会をやって以来の51年ぶりの、党派によらない、学生による自発的な政治集会だと思う。見事な演説であった。」
 私たちが必死で形成してきたはずの平和のための国際秩序(国際法)のなかでその最も有力な暴力である米軍の支援の下で、ジェノサイドが行われている。私たちは抗議の声を上げることができるが、大きな不可能性の下にいる。

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件に近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」[1]p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」[2]p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱  光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。

追記2: https://x.com/DaegyoSeo/status/1791730791514550572 こちらのツイートで、「尹祥源(ユン・サンウォン)」の写真と墓地、外信記者たちに対して語った「抵抗する意味」を記しておられる、徐台教(ソ・テギョ)さんが。

References

References
1 p180
2 p211

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

 黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

 この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
 それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。[1]同書p8

 「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。 民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
 「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

 韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

 C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[2] p41

 そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した[3]p25」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
 明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

 韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派〜東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。[4]p45
 明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

 このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎、加藤典洋、笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会[5]p47」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰[6] p47」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。[7] p47
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 [8]p48 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。[9]p7」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒[10]p38」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁はマルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。[11]p41 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。[12]p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
 しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。[13]p50しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。[14] p50その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取[15]p51」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムやトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。[16]p54」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである[17]p55」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。[18] p55」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上)

References

References
1 同書p8
2 p41
3 p25
4 p45
5 p47
6 p47
7 p47
8 p48
9 p7
10 p38
11 p41
12 p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。
13 p50
14 p50
15 p51
16 p54
17 p55
18 p55

黄晳暎『客人』を読んで

1, キリスト教徒青年たちによる殺戮

黄晳暎(ファンソギョン)の『客人』という小説、2003年に出版され翌年すぐ翻訳された本(岩波書店)、すこし古びた本を図書館でなんとなく手に取った。(訳者鄭敬謨、チョンギョンモ)

この小説はすごい。非常に残虐な出来事を直視し、書いているがエグくならず押し付けがましくもなく読むことができる。非常に大きなテーマを見事に描ききった傑作だと思う。

柳ヨセフ牧師がその兄柳ヨハネ長老に会いに行こうとする。38度線のすぐ上黄海道の、ソウルの西北方向にある小さな村、信川(シンチョン)、彼らはここで生まれ育った。朝鮮戦争時、この村でおおきな事件が起こりその当事者だった彼らは故郷を離れ、米国東海岸まで流れてきて40年経ち老年を迎えた。
ところでこの二人が主人公格なのだが、ヨハネ/ヨセフは似ていて紛らわしい。(ググるとヨハネには「神の国が近づいたことを人びとに伝え、悔い改めるよう迫った」洗礼者ヨハネのイメージがあることを知った。これは含意されていると思ってよい。)

キリスト教徒の多い地域であり二人の父も牧師だった。ここで、40年前(朝鮮戦争時)に惨劇があった。彼らはその目撃者ないし当事者だった。何十年も米国で暮らした後、ヨセフは北への旅行の機会を得るが、そのとき、自身と兄の当時の悪夢あるいは記憶がどんどん襲ってくる。重苦しい話ではあるが、事件の真相が少しづつ明かされるというミステリのようにも書かれているため、読みやすくもなっている。

日本敗北後朝鮮半島北部はソ連軍によって占領され、土地改革が実行される。大地主と企業家は先に南へ逃げ、中農と自作農が地域の上位階級になっていた。かれらはたいていキリスト教徒だった。村の作男や働き手だった小作農が、平壌に行って短い教育を受け村に帰ってきて、土地改革を実行した。差別されていた下層農民が先頭に立って暴力的に村の有力者の土地を没収する。激しい軋轢と憎悪が生まれた。南に逃げた中上層階層の子弟は極右団体を結成し、朝鮮戦争時、故郷に帰り旧秩序を回復しようとした。

2. 犬を吊り下げる

柳ヨセフが見た夢の、どんよりした暗い夢のイメージが3つ最初に提示される。最初は意味がわからないのだが、最後まで読むとこの小説の重要なシーンであることがわかる。

最初のイメージ。
α「どんより曇った日であった。(略)
赤ん坊はシーツにくるまれておりシーツの端がひざ下まで垂れ、ひらひら舞っていた。(略)大人は赤ん坊を抱

き上げ、木の一番下の枝に布でしばりつけた。p1」
残虐という以上になにやらひどく不吉なイメージである。この不吉なイメージは、この後も反復される。

β「むごたらしくもあり、血が騒ぎだすような興奮の中で私は犬が屠られる光景を初めて目撃した。犬の首に幾重にも縄を回し、ほどよい高さの木の枝にひっかけて吊り下げ、縄を引っ張る。ピンと張った縄をさらに引くと、犬は目を白黒させながら四つの足をジタバタさせる。p22」

γ「あのときオレはおじさんを電信柱に吊り下げたんだよな。p23」

αのイメージの意味は直ちには理解できない。ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージがp22〜23に二つ出てくるのでβ、γとして、引用し考えてみよう。

βは、他人の飼い犬を吊るして食べてしまうシーンの一部。今では残虐無比と非難されるだろうが、この当時は悪ガキのいたずらとしてしかられる程度で澄んだのだろう。「血が騒ぎだすような興奮の中で」ひとは狂う、犬を屠るくらいならたいしたことはない。しかし人ならどうか。

γ、これは殺人のようだ。しかしこの頁では、幼い時にさまざまな楽しみを教えてくれたスンナムおじの亡霊との短い対話の断片として記されているだけなので、いったいどういうことなのか意味は分からない。

いったいどういうわけで、この小説はこんなふうにわかりにくい始まり方をしているのだろうか。この小説は、庶民がふとしてきっかけで大量虐殺を犯してしまうその謎を描こうとしたものだ。日本では関東大震災後に朝鮮人大量虐殺があったが、それを犯した人もちょっと前まで平穏な市民だったはずだ。
謎を謎のままで提示しなければならない。一方、読者の興味をつなぐよう、語り方に工夫が必要だ。そのためにこの小説は過去に殺されたたくさんの人物が亡霊となり、自由に現在にやってきて主人公たちと対話する、という形を取っている。主人公は過去に自分がやったことを記憶している。だがそれは思い出したくないことなので抑圧している。亡霊がやってきてひとことだけつぶやく。読者にはこの頁ではその意味が分からない。異様な感触だけを残して小説は進んでいく。

αについては、p41に説明がある。「大おばあ」つまりヨセフの祖母はこんなふうに言う。客人が流行り始めても田舎の村には医者もいない。巫祭(クッ)をしたくても金もない。(表題になっている「客人(ソンニム)」とは危険な伝染病だった天然痘のこと)何もできない。

「我が子が病に冒されるとただ胸に抱きしめていて、もう助けようがないとわかると草わらか雨具にぐるぐる巻いて夜更けに山に行くのさ。山に行って背の高い木を選んでその枝にしっかりくくりつけて降りてくる。カラスはまたなんであんなに多いのか、まだ死んでもいない体に集まってきて目ん玉を突っついて食べるんだね。子どもの父母が夜通し見守ってカラスを追っ払うのよ。そうやっているうちに助かった前例もあるので、みなで幾夜も木の下で見守りながら夜を明かしたらしいね。41」
子捨てと究極の祈りが合体しているような、ひどく奇妙な風習だ。生と死の距離が近く、まれに反転することもある幽冥の世界。

3,虐殺

(信川郡 (シンチョンぐん)は 朝鮮民主主義人民共和国 黄海南道 に属する。ソウルの西北に開城(ケソン)がありその西方に海州、そのちょっと北に信川がある。)
信川だけでも三万五千人以上が死んだと言われているらしい。残虐行為の一角をこの小説から見てみよう。

「数十名の青年が畔に伏せていた。彼らはそれぞれ手に鎌や鍬や棍棒を握っていた。(略)彼らは駐在所の前まで来ると、うわーっと大声で叫びながらなだれ込み、建物の中でうとうと座って居眠りをしていた二人の署員を棍棒と鍬で滅多打ちにして殺し、奥の部屋で寝ていた署員も撲殺した。p218」
始めての殺害。駐在所員の殺害は蜂起としての合理性はある。しかし撲殺する必要はないわけで、そこには貧民による土地改革をどうしても許せないサタンの仕業と位置づける強い反動的情動があったと思われる。
また、直近に載寧(チェリョン)で党員と北朝鮮軍による殺害があった。
「彼らは、以前から反動だとにらんでいた家はもちろん、疑わしいキリスト教徒の家々を捜索し、相手がしたように家の中で家族らを残らず処刑した。(略)載寧(チェリョン)での三昼夜は、九月山(クゥオルサン)一体でそれから始まる血の惨劇の導火線となったのだ。p222」この被害に対する激しい報復感情が噴出したともいえる。

「私たちがこの戦いの勝利を占める唯一の方法は、神の力に頼り正義のために悪を覆さなくてはならないという信念を堅持することだと信じております。いま自由のための十字軍は私たちを解き放つべく近くまで来てはおりますが、サタンの軍勢はいまだに私たちに脅威を加えております。(略)主イエス・キリストの御名においてお祈りします。アーメン」とヨハネは唱える。
1950年9月15日に米軍が仁川に上陸する、これは朝鮮戦争の画期として記憶されている。しかし、長い間野蛮な日本によって信仰を抑圧されてやっと解放だとなったら今度は共産主義との闘いになり彼らに支配されるに至った黄海道のキリスト教青年にとっては、それは文字どおりキリスト教の救世主が武装してやってきたもの!と受け取られた。

合理的な理由があってはじめられた残虐行為は、集団的熱狂のなかでどんどん凶暴さを加えていく。加害者たちはみずからの残虐さに慣れてしまい、反省することもなくなる。

「うるせえな。一人の男が赤ん坊をまるでサッカーボールを蹴るように蹴飛ばすと、赤ん坊は一瞬宙に浮いて二、三歩離れたところに転がり落ちた。p235」

兄ヨハネは幼い頃、近所のガキ大将株だったスンナムおじさんを捕らえる。最初にでてきた、犬を吊るして食べてしまうという乱暴な子どもの遊びを教えてくれたものスンナムだ。ただそんな思い出は今は関係ない。保安隊(共産党)として村のリーダー格だった彼を許すわけにはいかない。ただヨハネは彼を本部に連行するのは止める。連れて行けば、殺される前にひどい虐待や辱めを受けるだけだから。
「土手の上に電柱が見えた。 あれに吊り下げろ!(略)
仲間たちは電柱の足場に電話線を引っ掛けると容赦なく下に引き寄せた。クワッと異常な声を上げ足をばたつかせながらスンナムの体は宙に浮いた。p241」
スンナムは吊るされる。これが冒頭にちらっと出てきた γ である。

黄晳暎が、α、β、γと、ひと又は犬が木のようなものにくくりつけられるイメージを反復するのはなぜだろうか?
γは弁護の余地ない大虐殺の一部である。ここでの被害者はアカと呼ばれる人びとであり、加害者はキリスト教徒の青年団である。三万人以上が死んだという大虐殺。その過半はキリスト教勢力から「アカ」に対する殺害だった。

その中の一つを黄晳暎は「男を電柱に吊り下げる」というイメージで描写する。そのγのイメージを説明するために、βがある。つまり虐殺はむごたらしいばかりではなく、「血が騒ぎだすような興奮」を誘い出す集団心理を誘発するものなのだ。昨日まで平和だった農民たちが、虐殺者集団に変貌する一つの契機を描いたものだろう。

「男を電柱に吊り下げる」というイメージはまた、人間の罪を引き受け赦しを与えるイエスのイメージに近い。赦しを求めるというのが、この小説のテーマである。しかし、イエスのイメージを出したからと言って、これほどの虐殺、残虐の膨大さがもたらす恨みと怒りを都合よく昇華できるわけではない。それは決してできない、それだけは黄晳暎にはよく分かっていた。

(ここでは言及しないが、この大虐殺について北朝鮮当局は博物館まで作って展示しているが、虐殺者は米軍であるとしている。この本が語ることとおおきな違いがある。)

4 罪人と神

兄ヨハネが現地に残した妻の問いかけ。
「自分の生涯を振り返ってみるとね。それでも人のためにと思い善い生き方をしようと努めたじゃない。それなのにどうしてこんなにまでお互いを憎み合うようになったのか、それが不思議でね。植民地時代の日本人でもあれほど憎んではいなかったはずよ。
私一人がここに居残り、悪事を犯した罪人のように暮らしながら……いたいけな娘二人にろくなものも食べさせることができないままなくし、残ったあの子一人を何とか育て上げながら、いつも考えましたよ。神にも罪があるのではあるまいかと……p168」

「あの生地獄のような惨劇を、上からだまって眺めていた神さまにも罪があるのではあるまいかと、ずっと思ってきたけれど p168」
「人間につきまとう苦難といえども、それはある目論見をもった神から与えられたものでしょう。」
神はあれほどの惨劇を許すべきでなかった。しかしそう言ったとて、過去を変えられるわけではない。周囲の人々からの強い憎悪のなかで、毎日なんとかその日を生きのびることだけが彼女にできることだった。二人の娘は生きのびることも出来なかった。
神にも罪があるのでは。彼女は神を恨み続ける。しかし、そうすることでも何も得られない。

「兄さんのヨハネが殺(あや)めた人たちはサタンではなく霊魂をもっている人間であったのです。兄さんのヨハネもサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけなんです。」
あのような惨劇を行ったのは誰か?それは神ではなく人間である。人間が我が手でもって行った殺害はその人自身のものであり神のせいにしてはいけない。ヨハネが犯した怖ろしい罪、その血痕は数十年経とうと消えずに残り続ける。事実を認めることは苦しい。しかし、避けようとしてもそれは、可能ではない。

「私、望むことなどありませんよ」何かを望むことに意味はない。「この世には人間どもが犯す罪に満ち満ちている」北朝鮮であろうと韓国であろうと統一国家であろうと「人間どもが犯す罪に満ち満ちている p169」以外の生き方は人間にはできない。

「少しずつでもそれをなくしながら生きていかなくては……」つつましやかな願い。しかしそれを捨ててはならない。しかもそれを貫くのには非常な力量が必要だ。

「お祈りを上げましょう」
「この共和国においても、主の御恵みのもと人びとが健やかにそれぞれの生を営んでいる 姿を、この目で確かめることができましたことを心より感謝いたします。(略)
過ぎにし日、故郷の地を去りし者も、残りし者も、共に経ざるえなかった苦難ゆえに互いに怨み、その苦しみを神のせいにするような冒瀆を犯さないよう助けてください。そしてお互いに赦しあえるような愛と寛容の心を授けてください。(略)アーメン」p170

兄ヨハネの凄惨な殺害行為(「私が知る限りでも、この村で手をかけた人の数は十人は超えるわ」)を特定し言及することなく、「去りし者も、残りし者も」といった形で包括的に愛と寛容を与えようとすること。わたしはそれは好ましくないと思う。
凄惨な殺害とその憎悪を再体験すること、それは耐え難いばかりでなく、倫理的に善いこととも言い難いだろう。しかしそれを少しでも忘れようと、なかったことにすることは許されない。

「怨恨ゆえにまだ虚空をさまよっているだろう多くの亡霊たちが安心して旅立つことができるように、シキム(死者を送り出す巫儀)でもしてあげないとね。スンナミおじさん、一郎おじさん、朴明善のうちのチンソン、インソン、ヨンソン、トクソン、チュンソニおじの内儀、小学校の女の先生、そしてあの倉庫のなかでもだえ死んだ多くの人たち……p173」
亡霊たちは安心して旅立つだろうか?「安心して」なんてことはありそうにない。

兄嫁は、自分のものではないない罪を実際問題、一人で背負って「打ちひしがれ」長い長いあいだ苦しんだ。彼女には何か神からの言葉が与えれても良いのではないか、と思われるが、キリスト教にそうしたものはないようで、この小説には出てこない。

(この本には書いてないが、黄晳暎はかの金日成と何度も親しく対話したことがある少数の韓国人の一人である。どこから見ても罪の塊である金日成と会食するなど犯罪であろう、そうした意見には一理どころではない重みがある。多くの強制収容所を経営し、収容者に死に瀕した生を強いている金正恩は断罪されるべきだ。しかし、彼をサタンであると信じ、なんとしてもその死を願うことが正しいのか?正しくはない。金日成も金正恩もサタンではなく信仰が捻じ曲がっていただけにすぎない。敵対し粉砕を叫ぶことは政治的行為としてありうるが、その有効性は状況に於いて問われる。つまり絶対的なものではない。)

5 赦すこと

1950年10月19日、中国人民志願軍参戦、12月6日には平壌奪還。人民軍はどんどん南下してきて、信川のあたりもすでに敵(共産党)の勢力下になり、ヨハネは逃げるため久しぶりに家に戻る。
「私(妻)は全身汗まみれで、顔からは汗が滴り落ちていた。
「子どもが生まれるわ」「なんで選りによってこんなときに」(略)
夫は周りを見廻すと、乱暴に箪笥を開けた。服がこぼれるようにあふれでた。その衣類の中から肌着を一枚取り出して彼は子どもを取り上げた。赤ん坊の泣き声と彼の歓声が聞こえた。 p182」
しかし、すぐ近くで銃声がし、彼はそそくさと立ち去る。夫はずっと遠くに去っていってしまった。

数十年後、ヨセフは兄嫁を尋ね、このときの肌着を託される。
「寒井里に行ってその骨を埋めるときに、これを燃やしてから一緒に埋めてちょうだい。 p179」

「彼は雑草が生え茂った場所を避け、乾いた土が露(あらわ)になっている所を選んで蹲った。手でそこの土を掻き集め、ほんのりと芳しい匂いを嗅いでみる。」
そこに古枝を集めて火をつけ、兄の肌着を燃やす。
「兄は故郷の地に戻ったのである。p282」
遺体に火をつけ燃やし、故郷に埋葬すること。それはかなわなかったにせよ、彼が一生抱き続けた深い深い罪を追体験し祈ることで、ヨハネは故郷の地に戻る。

「ヨセフは壁伝いに長く列になって立っている亡霊たちを見廻した。およそ十人くらいいるように見えた。
(略)
おれたちはヨハネを連れて行く前に、彼が殺めた人らを解き放してやろうと思って集まったのだ。人は死ねば、犯した罪はみな消えるというが、あったことの真相をありのままに明かしておかなければならないのだ。p215」

ひとはともすれば謝罪や赦しをめぐって大騒ぎしてしまうが、「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」を十分に確認せずにそうしたことをしても結局無意味である。(いつまで経っても解決しない「従軍慰安婦問題」をめぐる日本側の態度をみてもそのことは明らかだ。)
「あったことの真相をありのままに明かしておくこと」をまず求めなければならない。

「殺した奴も殺された奴も、この世を去れば、みーんな一つのところに集まることになっているんだよ。(略)
やっとのこと故郷に帰って来てなー、昔の友だちにも会い、恨みも怒りも解けてしもうた。 p278」

こう言っているのはヨハネ(亡霊ではあるが)である。ヨハネの殺人者としての所業を知ったわれわれは、こうした言葉だけではなかなか納得しずらい。加害者がそう言ったからと言って、被害者は恨みも怒りも忘れないのではないか。

しかし、この小説では、被害者であるスンナムおじさんや一郎(イルラン)も亡霊としてそこに居る。
「さあ、さあー。もうこれでいい。早よう立たにゃ。 一郎も同意した。 そうだ。みんな一緒に立とう。」
40年亡霊として彷徨った後、加害者ヨハネが亡霊として故郷に帰ってきた。それによってやっと立ち去ることができる。恨みも怒りも解けたというのが本当かどうかは分からない。しかし彼らは実際には既に死んでいるのだから、「去るべき者らは去り、生き残った者らは新しく出発しないと。p279」ということはできる。

最終章は 十二「締めの歌  心おきなく去られ給え」となっている。

「山奥のそのまた奥の  訪れる人もなく  焼畑のイモを食に  飢えをしのぐ貧しい山村  そなたが生まれたのは  そんな所だったp285」

村に流れ着いた一郎という名の作男(子どもにさえバカにされていた)の生涯を歌う。
「ある日突然  世が変わり  上の者が下となり  下の者が上になったとき  生まれて初めて  幸せがわかったのだ  /三食飯にありつき  フトンで寝る」

マルクスやアレントが低い評価しかしないところのルンペンプロレタリアートである。

「(略)  人として生まれた幸せが分かった  しかしそれも束の間  自由も権利も  一場の夢と化し  命まで奪われてしまったのだ」
「恨みはあろう悲しくもあろう  しかし今はもう  怨みも悲しみもすべて忘れ  安らかに心おきなく  あの世の方へ  去られ給え、旅立ち給え」

「怨みも悲しみもすべて忘れ」というこの作品のテーマについて、私は納得できない。この作品は「客人巫〓(ソンニムクッ)」という伝統的な巫俗儀礼の形式にのっとって構成されている。韓国はシャーマニズムの伝統がある。ムーダン、マンシンとよばれる降神巫。彼らは人びとから依頼を受けて、死者をあの世に送る儀礼を行う。これがクッとよばれる。厄払いである。現世に対して大きな怨みをいだいて死んでいく者が、その怨みによって現世に災厄をもたらしたりしないように、安らかに心おきなく去れるよう慰める。死者とその怨念、彼に向けられた怨念その両方を彼方に送るための儀式。その様式を借りてこの小説は書かれている。
「怨みも悲しみもすべて忘れ」は黄晳暎の意志ではなく、クッを必要とした民衆の意志でもあるわけだ。

6 怨みも悲しみもすべて忘れ

この小説のなかでは、40年前に死んだ死者たちと先日死んだ死者がともに亡霊となり、生き残った人々と対話する。死者たちに語らせる。それは40年間彼らの声が抑圧されなかったものとされてきたからだ。
殺害された者はもはやいないので発言できない。殺害したものも逃げてしまい故郷との繋がりが失われる。また殺害したものは真実を語るのは自分にとってつらすぎるとして抑圧してしまう。
しかし実は小説家はどのような人のどのような行為であろうと小説に書くことができる。40年前の世界も現在の世界も。しかし黄晳暎はそのどちらも選ばず、現在に浸透してくる過去を描いた。
40年前を描いた小説であってもそれが読まれるとしたら、現在にしか生きていない読者がそれを求めるからだ。ふと思い出される過去の記憶といったものは現在の少なくない部分を占めている。40年前の過去であっても、トラウマと呼ばれる抑圧された記憶はふとしたきっかけで鮮明に思い出されることがある。40年前の事件のドキュメンタリが求められているのではない。事件のドキュメンタリの意味が求められているのだ。殺す者と殺される者の距離、40年間という距離、国家と民衆の距離、そのような隔たりを超えるために、亡霊による語りというスタイルを黄晳暎は採用した。
最も抑圧しようとしたものは何十年経っても残る。小説家としてそれを書こうと思ったのは当然だろう。

「この作品に描かれた惨劇は民族内部で演じられたものであるだけに、北側の公式的な主張を立場とする人たちからも、また惨劇のあと北の地を離れ南に移ったクリスチャンを中心とする人たちからも、否定され指弾されるということはありうるだろう。(p291)」
そうした自己保身的あるいは政治的配慮よりも、作品を完成させることだけを目的に黄晳暎は書こうとした。半亡命→帰国・入獄から1998年出獄、その5年後にやっと書き上げることができた。

「キリスト教とマルクス主義は、この民族が植民地時代と分断の時代を経てくる間に、自律的な近代の達成に失敗し、他律的なものとして受け入れた、近代化への二つの異なった途であったということができよう。」
最近翻訳がでた自伝『囚人』に詳しいが、1985年から1993年まで黄晳暎はドイツや米国などに滞在し、途中何度か北朝鮮も訪問した。1980年代の西欧から見た場合40年前の北朝鮮のキリスト教とマルクス主義はほとんど双生児のように似ていると見えたことだろう。
「キリスト教とマルクス主義は考えてみれば一つの根から生えた二つの枝であったのだ。」明治期のキリスト教と大正期以後のマルクス主義が、伝統社会・思想に挑戦する欧米由来の思想の二つの代表であったことは、日本でも同じである。しかし日本では、明治以来国家によって整備された大学の教師と学生によって主に受容された。大衆によるダイレクトな受容の弱さという問題を(現在まで)引きずっている。
朝鮮では、日韓併合以後の植民地主義的抑圧に(心理的に)抗する思想としてキリスト教は朝鮮社会に根付いていた面がある。(特に黄海道では)1945年以降、ソ連占領軍による半ば強制として、主に下層階級にマルクス主義が急激に広まる。思想というより最初から、住民支配の道具としての思想だった。先に近代思想に目覚めていたキリスト教徒はまず反発を感じただろう。

AがBを撲殺する。その意味ははっきりしている。ごまかしようがない。しかしキリスト教とマルクス主義が関与すると少し違う。同じ殺害でも神のため、あるいは党のためであれば許される場合もあるのだ。この小説ではもっぱらキリスト教徒が扱われる。彼らが天国に通じる道と信じて殺害を行ったがその道はわずか数ヶ月で消えた。彼らは故郷から逃げざるを得なかった。神のためという言い訳が通用しなくなり、殺害という苦い記憶を抱えてAは40年生き続ける。しかし黄晳暎は悔恨や反省を一切書こうとしない。

AがBを撲殺した。Aはそのことを忘れない。不快なもやもやとして、強い苦さとしてそれはときどきやってくる。それを悔恨や反省としてすこし意味を変え昇華していくことが、人間の文化だろう。それを最も洗練させたものがキリスト教とマルクス主義(そして近代文学)だろう。反省、神への帰依によって救われること、それは「神の名によって殺すこと」とそれほど大きく違うだろうか?黄晳暎はそこまで書いていない。しかし、彼が悔恨や反省を書こうとしないとはそういう意味でもありうるだろう。

BはAに撲殺された。Aのようなそれ以後の40年はBには存在しない。亡霊として漂い続けただけだ。BはAを激しく怨んでいるはずだろう。しかし厳密に考えるならばその怨みも、生きているB以外の人がなければならないと強く考えているだけなのではないか。Bはただ死んでしまい何を考えているのか分からない。

「強い風が吹きまくっている。」
「一群の人びとが上半身を屈め、同じ方向に進んでいる。何か重たいものを引く網でも肩にかけているような姿勢なのだ。前進している人の長い列は前の方も、後ろの方も終わりが見えない。曲がりくねった道は野原を横切り、遥か彼方に見える大きな山並みに接しているが、人びとは一切無言である。屈められた彼らの背中が見えるだけである。」283

彼らはただ歩いているだけなのか。彼らのうち少なくない人は、自らその手に凶器を担い他者の肉体にそれを振り下ろした。見えはしないが、人びとはその罪とともに歩き続けるのか?

一方「自分はそこに現れた一幅の画面の上を、鳥のように飛翔していた。」
鳥のようなのはおそらくヨセフではなく、作家黄晳暎であろう。殺された者も殺した者も、決してエリートでもインテリでもなかった。広大な歴史の原野をただ歩き続けるしかない庶民である。しかし作家はそうではない。そう望まなくとも作家はすべてを見通し設計しうる。語られる限りでは歴史すら、改変し各自の感情、倫理的色合いすら左右できる。読者も巻き込んで。

殺害者にもっと真摯な反省を求めるという感情を私は持ってしまう。大きな虐殺事件を悼むためには、それを隠蔽しようと(偽の物語で覆おうと)するたくらみをまずはがさなければならない、と思う。誰が加害者であり、どのように犯行はなされたか、を書き留めなければならない。
ただし、反省と謝罪を求めることは一方の側に加担することになり、性急な態度と結びつきがちだ。そうではなく、真実のためには、黄晳暎がここでやったように、かざぶたを一枚づつ剥がしていくような、繊細なていねいな手続きが必要なのだ。

「遠くの方から牛の鳴き声と、首につけられた鈴の音が聞こえてくる。めんどりが卵を産み落として出す姦しい啼き声も聞こえてきた。田園がひろがる野原では、人びとが田植えの歌を歌っており、それにまじって、鉦(ケンガリ)や長鼓(チャング)を叩く農楽(ノンアク)の音も聞こえてくる。」
数多くの殺害を飲み込んでなお、庶民(常民)の世界は延々と続いていく。無理やりであろうと「怨みも悲しみもすべて忘れ」という言葉とともに、作家は彼らに別れを告げる。

(2010.2.5〜2014.7.26)