小学校学習指導要領解説

  イ 大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の様子,貴族の生活について調べ,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かること。

 この内容は,聖徳太子が政治を行ったころから京都に都が置かれたころまでの時期のうち,大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の三つの歴史的事象を取り上げ,これらを具体的に調べることを通して天皇を中心とした政治が確立されたことが,また貴族の生活を具体的に調べることを通して,日本風の文化が起こったことが,それぞれ分かるようにすることをねらいとしている。

 「大陸文化の摂取」について調べるとは,例えば,法隆寺や遣隋使などによる大陸文化の摂取を取り上げて調べ,聖徳太子が小野妹子らを隋(中国)に派遣し,政治のしくみなど大陸文化を積極的に摂取しようとしたことが分かるようにすることである。

 「大化の改新」について調べるとは,例えば,中大兄皇子や中臣鎌足による政治の改革を取り上げて調べ,天皇中心の新しい国づくりを目指したことが分かるようにすることである。

「大仏造営」について調べるとは,例えば,聖武天皇の発案のもとに,行基らの協力により国家的な大事業として東大寺の大仏が造られたことを取り上げて調ベ,天皇を中心にしてつくられた新しい国家の政治が全国に及んだことが分かるようにすることである。また,聖武天皇の願いにより鑑真が来日したことを取り上げて調ベ,仏教の発展に大きな働きをしたことが分かるようにすることが考えられる。

 こうした学習を通して,このころ,天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることが大切である。なお,ここでは,内容の取扱いの(1)のアに示すように,例えば大仏造営を重点的に取り上げることが考えられる。

 「貴族の生活」について調べるとは,例えば,藤原道長に代表される貴族の暮らしや,紫式部や清少納言の活躍などを取り上げて調ベ,日本風の文化が起こったことが分かるようにすることである。なお,ここでは学習が高度になりがちな摂関政治など,貴族を中心とした政治の特色については取り上げないようにする。

 「天皇を中心とした政治が確立されたことが分かる」とは,聖徳太子の政治や大化の改新によって政治の仕組みが整えられたことや,奈良時代に天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることである。

 また,「日本風の文化が起こったことが分かる」とは,これまでの大陸文化とは趣きの異なった,独自の日本風の文化が花開いたことが分かるようにすることである。

 実際の指導に当たっては,例えば,聖徳太子の肖像画やエピソードなどからその人となりを調べる学習,大仏の大きさから天皇の力を考えたり,大仏造営を命じた詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習,博物館や郷土資科館などに展示されている,十二単や貴族の服装,調度品などを見学する学習などが考えられる。

 これらの学習を通して,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かるようにする。

(小学校学習指導要領解説 社会編 平成11年5月 文部省)

いま扶桑社の社会科教科書の採択の是非が政治的焦点となっている。それに比べて話題になっていないが、少なくとも同じくらい重要なのはこの学習指導要領の「偏向」ではないだろうか。

むしろ正しいのでないかと思われる大山誠一氏などの「太子非実在論」はこの要領においては存在の余地がない。しかも某社の教科書と違い、日本中の小学生に強制されて居るのだ。

もっと批判しないといけないだろう。それと同時に、わずか絵入り14頁で、飛鳥、奈良、平安時代を分かりやすく語りきる指導要領に囚われない新しい教科書をつくってみる事も大事だろう。歴史と国家をどのような物語の枠組みで語ろうとするのか、小学生に対して。これはとても難しい問題でもある。

引用

卒業したらオトナの世の中に出て行く生徒に対し、教員が(その権力でもって)強要できる知識・認識は、結局は「今の社会の一般常識や教養、批判的に世の中や報道を見る目、自分の暮らしを守る力、明日を信じて暮らす気持」なんだなあ。

教育権は国家にあるとする日本の場合、国家がその「一般常識」として何を国民に求めるかというのが「教科書」なのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/sava95/20050613#p2 覚え書き

野原は前半に共感するが、後半はどうだろう。“国家に都合の良い人間を造りたい”というベクトルと、歴史と国際関係を切り開いていくために“愛と正義と自己愛を調和させる強靱な知性が必要である”という二つのベクトルが存在し、後者の方が勿論大事である。国家に取ってさえ。ところが前者が大事と勘違いしている馬鹿が増えているのが問題なんだ。とわたしは思うのだが。

憎悪せよ

6/23の朝日新聞社説に、「この地獄を忘れまい」とある。

23日は沖縄「慰霊の日」らしい。戦後60年。戦争体験者は死に絶えつつある。「だからこそこの悲惨な戦闘を後の世代に伝えていかなければならない。」

 沖縄は本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた。日本軍は住民を戦場に根こそぎ動員した。男性は子どもや老人までが防衛隊に駆り出され、女子生徒は看護隊に組み込まれた。

 米軍は地形が変わるほど、空爆や砲撃を繰り返した。軍隊と住民が混在する島で、米軍が「ありったけの地獄」と呼んだ激しい戦闘が3カ月に及んだ。

 亡くなった二十数万人のうち、住民の犠牲者が本土からやって来た兵士を大きく上回る。それが沖縄戦だった。

6/23朝日新聞社説

 住民の悲劇は、敵の米軍によってもたらされただけではない。

 ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んでいた住民が、敗走してきた日本軍に追い出され、砲弾の下をさまよった。

 日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していた。実際に、米軍に連れ去られて帰された少年と農民が日本兵に殺されるなど、スパイとみなされる住民が相次いだ。

 そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。

 沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(76)はその生き証人だ。母親と妹、弟の命を奪った。

 「『鬼畜米英』によって耳や鼻をそぎおとされ、女の人は辱めを受けると信じ込まされていた。それよりは、自らの手で愛する者の命を絶つことがせめてもの慰めという心理状況に追いやられた」

 この世の地獄というほかない。(同上)

殺された沖縄住民は犠牲者である。誰の?という問いにわたしたちは「戦争」、と戦争を擬人化して答えてきた。

ヒロヒトも東条も「地形が変わるほど空爆や砲撃を繰り返す米軍」も、その罪を検証されることはなかった。

めでたいことである。

刺突訓練

 一月半ぐらいして、私たち初年兵全員が東南角広場に集められました。初年兵が整列した前に立木が二本あり、各々に中国人が後ろ手に括られていました。その一〇メートルくらい手前に、二列に初年兵を並ばせて、小銃の先に着剣させ、「今日は人間を刺し殺す。人を刺す感覚をお前らの手と、体で覚える教育をする」と、言われました。いくら軍隊でも、「生きてる人間を殺すのか」と、一瞬ドキッとしました。「突け!」と号令され、二名ずつだだーっと走って左胸、心臓を突き刺した。生きていた人間を突き刺す、ということで、最初は足がふるえていましたが、七番目か八番目ぐらいに、私の番になると、もうそれは消え去って、私も同じように「突け!」と言われて走り、突き刺したんです。その感触は本当に豆腐を箸で突き刺すように、簡単にすっと入っちゃったんですね。人間の体というのは、銃剣で突くと、ほんとに柔らかく、すっと入るもんだないう、ただそれだけの感触で、可哀想だとか、人を殺した罪の意識というのは全然頭の中にはないんです。

 刺突訓練のあとしばらくして、今度は首切りの実演がありました。

 同じ東南角広場に集められると、今度は土下座した中国人が二人、後ろ手に括られていました。教官は准尉でしたが、その人が日本刀を持ってかけ声をかけて、さっと振り下ろしたんですが、首が完全に切れずに三分の一ぐらい繋がったままで前へ倒れたんです。血がバーッと吹き出した。その倒れた人を日本刀で、鋸のように引きながら胴体と切り離した。二人目は下士官の人が、中国の青龍刀という刀を持って同じようにやーっと振り下ろした。これはすぱっと切れました。生首がコロコロっと二、三メートル前へ転げ落ち、胴体がべたっと前へ倒れました。

 それを見せつけられても、さっきまで生きていた人間が胴と首と離れて死んでしまい、死というものは案外簡単なものだなと思ったぐらいでした。だから死に対する抵抗感や殺すという行為に対しても段々無感覚になっていったと思います。初年兵の肝試しということと、チャンコロ殺すのに罪の意識があっては戦闘ができないということで、教育され、豚や鶏を殺すのと同じ意識に変えられていったのです。刺突訓練も首切りを見せたのも、目的はそこにあったのかなと考えます。これは私たちの隊だけではないらしく、北支では初年兵に対して、やはりあちこちでおなじようなことをやったと、後年読んだ本にも書いてありました。

(p56 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 今日本屋へ行って『BC級戦犯裁判』というのを買って帰ろうと思ったら出口のところで沖縄特集をやっていて、『ある日本兵の二つの戦場』というのがあった。良い本のようなので買ってみた。今p38-92だけ読んだが、とても良い本だと思う。

 上記の部分が最も印象的というわけではない。現在靖国問題が語られるが、その前提には、私たちの近い先行者が行った“支那事変~大東亜戦争”とはどういうものだったのかというイメージと評価がある。

戦争は悪ではないという意見もある。大東亜戦争自体は国際法違反ではなかろう。であるとしても、1937年から皇軍が中国大陸で行った“支那事変~大東亜戦争”の実体は、どうひいき目で見たとしても、アジア解放といった美しいスローガンの正反対の、最低最悪のものだった。

 それが事実だ。

恥を知れ

え~っとう、だいぶ前から、id:drmccoy:20050518 マッコイさんに、応答しなければいけないと思いながら、気が進まずに後回しにしてきた。スミマセン

(本来複雑多様なものである現実を平板化した上で、テンプレート通りの言説を多量に繰り出してくる、といった印象をもった、ということかもしれない。)

ちゃんとした対話者でなくて申し訳ないが、わたしはまだマッコイ氏の文章を(関係部分)全部読んでいない。無視しているわけではない、と言うためだけにちょっとだけ(しかも全然斜めから)書いてみよう。

(1)

id:drmccoy:20050518でマッコイ氏は、わたしが紹介同意した加藤、宮台の主張などを次のようにまとめている。

 「A級戦犯をスケープゴートにして、極東国際軍事法廷(=東京裁判)を受け入れることで日本はサンフランシスコ講和条約(or 平和条約)を締結して国際社会に復帰した。A級戦犯を罪人として裁いたからこそ日本は国際社会に復帰できた。だからA級戦犯が祀られている靖国神社に首相が参拝すると、それを覆すことになってしまう」

上の文章の「日本」という主語を問題にする。(強引な批判である。)大日本帝国は戦争に負けた。唯の戦争ではない。プチウヨの諸君が自衛戦争なんていうのはみっともない。世界の帝国主義秩序を転覆しようとした攻撃的な戦争である。「大東亜の大義」なしに成立しえた戦争ではないのである。で負けた。負けたことをどう考えるか。A.負けた主体「皇国」を一部修正するだけで継続できるか。B.それとも負けた主体は倒産させて、新しい主体を立ち上げるか。

戦後日本がややこしいのは両方の面を持っていたからである。

A.ヒロヒトは退位しなかった。東京裁判はヒロヒトを訴追対象から除外した。戦後憲法の1条は天皇を保証している。

B.日本は天皇主権から国民主権に百%変わった。戦争放棄。戦力不保持。「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し*1」生まれ変わります。

戦後日本はAとBを適宜使い分けながら、戦後60年なんとかやってきた。その前提となったのは東アジアにおいて米国(米帝)がソ連などと対峙する冷戦構造において、日本が米国に従属する立場をとったことである。ここではA.対米軍事協力/B.平和主義となって、A.の枠の中でB.も主張することで日本は血を流すことなく繁栄を達成した(と言われる)。国共内戦、朝鮮戦争と戦後も戦火に見舞われた中国、朝鮮はいち早く回復を遂げた日本に国力において大きく後れをとり、日本は米国の後押しのおかげで戦争に対する補償なども極軽微に済ますことが出来た。日本は中国、韓国朝鮮に対する戦争責任の問題を、国民全体にが自ら答えなければならない巨大な問題として突きつけられることなく(幸か不幸か)60年やって来ることができた。

これは「対中国」「対韓国」などの問題ではない。日本は戦後60年そこそこ成功してやって来たにもかかわらず、その根拠がA/B と分裂したままだ。

そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。id:noharra:20050623#p1

「生きて俘虜の辱めを受けず」なら、敗戦の途端に1億人は自決しなければならない。自決した人はほとんど一部だった。自決もしなかったものの子孫がいまさら「自衛戦争」なんてことを言い出す。恥を知れ、と言いたい。

*1:憲法前文

二・二六事件と中国侵略

 村上一郎の『北一輝論』という小さな本の最後に「私抄“二・二六事件”--「革正」か「革命」か?--」という文章がある。フラグメンテとされておりきちんとまとまったものではない。二・二六事件のことも戦争の歴史もよく知らないので難しかった。1970刊行の古い本であり、ここで批判の対象にしている『昭和史』という本はさらに古い。だが根本的な処では(世間の常識というか偏見は)あまり変わっていないのではないかと思う。少し長いが貼ってみた。

 いったいに、戦後の社会科学者の間における解釈では、五・一五事件も血盟団も神兵隊も二・二六事件もこみにして、日本型のファシズムとしてひとくくりである。それのみか、ニ・ニ六事件や五・一五事件の将校も、太平洋戦争への道を歩んだ「省部幕僚」もこみにされてしまう。皇道派と統制派という色分けをする者はあっても、それは一種の勢カ争いというように解釈され、当時の新聞記者の感覚以上には進んでいない。

 たとえぱ、満州事変以後の頃、「国内のゆきづまりを打開し、日本の危機を救うためには、“満蒙問題の解決”とならんで“国家改造”が必要であるとの見地から、軍国主義化の先頭に立ったのは、民間右翼とむすんだ青年将校であった」とみなす「昭和史」(新版)の著者、遠山茂樹・今井清一・藤原彰らの解釈は、非常に浅薄なところを含んでいる。この書では、その青年将校として、海軍の藤井斉、陸軍の菅波三郎を中心人物としてあげているが、この二人を中心とするグループが、「軍国主義化の先頭」に立ったものとは、どう考えても解釈できそうにない。また「国家改造」を、「満蒙問題の解決」と「ならんで」要求したのかどうかも、すこぷる疑問である。「満蒙問題の解決」をもし武カ解決という意味にとるなら、藤井斉にせよ菅波三郎にせよ、いずれも武カ侵略主義者や植民主義者であったという証拠はない。彼らが考えた「国内改造」は、満州のみならず、すでに日本が領土内に入れていた朝鮮の武カ支配をも、なろうことなら避けて、国内でやってゆけるような日本の改造である。だからこそ「国内改造」は「昭和維新」であったのであり、満蒙の武カ占有というようなプログラムを第一義約にもつものであったなら、けっして「維新」とよばれることはなかったであろう(「支那を救う」という言棄はニ・ニ六より前に五・一五で現れている。が、これは『昭和史』のいうニュアンスでない)。

 戦後「進歩的」社会科学者の旗手である『昭和史』(新版)の著者のような論者たちには、いわゆる「軍部」の「革新政策」も、青年将校の「維新」運動の推進も、同一のものとしか解せられていない。また、これはたいせつなことなのだが、権藤成卿のような農本主義者の運動(自治農村協議会なぞ)も、社会ファシズムの運動も、くずれた社会民主主義者の運動も、『昭和史』(新版)ではたんに並列され、同一視されている。

 「つらつら思うに今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは蓋(けだし)武断政治を措きて他に道なし」と、永井荷風が昭和六年十一月十日の日記に記したこころも、わたしは省部官僚による「軍部」的な「革新攻策」ヘの期待ではなく(そこに真の「武断」はない)、けっして永続はすることのない「維新」断行への渇望の庶民的な表白であったと考えたい。省部幕僚・官僚の形成する「軍部」を荷風は終始嫌悪した。

 満州を攻略した軍人ならぴにその周辺の官吏・民間人・浪人たちの間にも、ただ単に満州を領有すれぱよいという考えがあったのではなかった。石原莞爾がまずはじめは満州の領有=軍政施行を考えており、それから満州建国=王道楽土の思想に転向するのはドラマティックである。そしてしかも、石原らの理想、理念は、その後の日本権力者の意向によりふみにじられ、建国=王道楽土の思想は一掃され、石原派は追われる。

 満州がまず武カ占領され、軍攻をしかれねぱならぬという関東軍の考えから、実際占領してみての人民の能力の高さ、抵抗の強さ(それまでもっと低く見ていた)におどろいて、石原莞爾の「転向」に急カーブしたいきさつは、わたしらの編集した『支配者とその影』(「ドキュメント・日本人」第四巻)で佐々木二郎が語っているとおりであり、「王道楽土」の理念が日本の中央権カによってくずされ、石原派が追放されるくだりは高橋和巳の小説「堕落」にくわしく描かれている。満州国を、真実のカイライ国家(正にそれのみの)と化したのは、「王道楽土」の理念に生ききろうとした大陸浪人や石原派の軍人や、その周辺の民間人・官吏たちではなかった。満州を小さいコンミューンの単位から組み立ててゆくことを嫌悪し、そういう方向を弾圧し、中央集権を強カに推進しようとした日本の権力と独占資本とが、満州国をまったくのカイライと化したのである。これは日本の「維新」を推進しようとする純真な青年の支持しない方向であった。

 満州の産業を財閥の手にゆだねると同時に、全土に憲兵の眼を光らせ、「憲兵政治」を確立する東条英機(関東軍参謀長)らの政策は、また当初の「王道楽土」の理念をふみにじるものであった。石原莞爾と東条英機との宿命的な対立も、この満州の支配の仕方において、まず開始されたのである。石原も一個のファシストであったが、彼は農村主義的ファシストであり、東条は、自分一個の思想には欠けたが、大ざっばにいって社会ファシストの上に戴かれた。

        * * *

 二・二六事件がもし成功していたならば--「成功」というのがどういうことかはむつかしいが--万が一にも日中事件はおこらなかったか、ないしおこっても小規模な戦闘のみで解決せられたろうという予想は立つ。多くの社会科教科書や左翼歴史の解説書が、二・二六事件を戦争体制強化のためのクーデターであるかのごとく書いているのは、まったくの誤解である。北一輝にも磯部浅一にもシナ侵略の意図はなかった。対米戦争の意図もなかった。ソ連に対する掣肘は考えられたが、それは「支那を救う」方向だった。

(p169-172『北一輝論』村上一郎 三一書房)

おおきくピントがずれている

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050519/1116492120

私は2・26事件を首謀して処刑された磯部浅一なんかは靖国に祀られていないから怨霊と化して日本を軍国主義に導いたんじゃないか、なんて冗談交じりに言ったりすることもあります。

 上に村上一郎の文章を長く引用したのは、野原としてはこのマッコイ氏の文ががまんできなかったからです。

生きてるうちから魔王と呼ばれたりもした北一輝なり磯部浅一なりが、菅原道真よろしく「怨霊と化す」という想像は、数百万の日本兵が靖国に集まっているなんてイメージより、ずっと日本の日本の伝統にそったものである。しかしながらなぜそこで日本を軍国主義に導かねばならないのか、皇居に原爆でも落とすならまだしも。

 悪意はそれほどないのだろうがピントが全くずれている。やれやれ。

 二・二六事件は、ファシズムの政治権力を樹立しようがために起こされたのではなかったけれども、何か事あれかしと待っていた幕僚ファシストは、事件を鎮圧することを契機に、「粛軍」の名のもとにファシズムへの道を開いていった。幕僚=官僚というものが、自体何のイデオロギーをももたぬ事務官、行政技術家に見えながら、実はおそろしい中味をもっていることを見なおさねばなるまい。

(p183 同書)

ここでいう、幕僚=官僚というものは東条英機とはちょっと違うのかもしれない。がいずれにしてもライバル石原より知力、行動力何れにおいても劣ると言われた東条が日本を破滅させた。そして彼の思想の根拠である「無責任性」を日本人全体に蔓延させることにより、日本に二回目の破滅をもたらすことになるだろう。*1

*1:そこまで断言する根拠は持ってないが

サンフランシスコ講和条約第十一条

http://d.hatena.ne.jp/charis/20050609

サンフランシスコ講和条約第十一条:「【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」

について、charis氏は次のように読む。

正しい、と思う。

サンフランシスコ条約以前は、占領状態であったから、極東軍事裁判の「裁く主体」は戦勝国である。日本国ではない。だが、サンフランシスコ条約の、「日本国は、・・・裁判(判決)を受諾する」という条文は、加害者の規定主体が、戦勝国から日本国へ移行したことを意味している。これが、日本国の「独立」の法的意味であり、つまり、日本国として、戦争への加害責任を全世界に対して公的に認めたのである。(同上)

三井銀行員も東条を許さない

 東条は、このように自分と政治的に対立する者に、さまざまな圧力をかけて屈服させようとした。三井財閥の総帥池田成彬(第一次近衛内閣の蔵相)が反東条で動いているとみると、池田の三男・豊が兵隊に召集され、中国戦線に出動するため福岡で待機中だったのに目をつけた。池田のところに人をやって「政治的に自分と妥協してくれるなら、豊君を危険な戦線へ出さず、生命の安全な東京へ戻してやるがどうか」と告げさせた。

 池田はその場でこれを拒絶した。結局、豊は中国の戦線に送られ戦病死している。

週刊「世界と日本」という右翼系のミニミニ新聞がある。それの6月13日号に内外ニュース会長、清宮龍 という人が1面2面をほぼ全て使い「東条首相 狂気の弾圧政治」という文章を書いている。

 毎日新聞の新名丈夫記者 戦後東海大総長になった松前重義、国会議員浜田尚友、有馬英治、などが、東条の逆鱗に触れ、東条の命令で、指名召集を受け軍隊に入隊させられた。 

 政治家中野正剛は検挙され憲兵隊長によって取調中(一時帰宅し)、自決する。

 最も強調されるべきことは、やはり、陸将時代の昭和16年に「戦陣訓」を出し「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と全軍に布告したこと。

靖国神社はこれも肯定しているのかな?

プチウヨの諸君はどうかな?

小泉氏は「罪を憎む」そうだがこれらを罪と認識しているのかな?

 (以上について事実と違うという主張があれば歓迎します。お互いに事実を確認していきましょう。)