倉橋とか

chimadc 『倉橋由美子の小説確か「聖少女」でしたっけ?あれ以外にもかなりそういうの多かった時期あったような気がいまします。水玉、ホーキ含めて、合掌』 (2005/06/22 06:34)

noharra 『久しぶり!そんな言い方したら、カズコさんか誰か不幸にあったみたいじゃないですか。べつにそんなニュースないよね? わたしは「聖少女」読んでないような気がする。lonly womenがでてくるのは二人称小説「暗い旅」だったはず。それ以外にもでてくるけど。倉橋って身も蓋もないところが、chimadcさんに似てる・・・』 (2005/06/22 20:34)

# chimadc 『合掌、って最高のリスペクトを示す、という意味の言葉なのかと思ってました。存命逝去に関わらず皆法外に偉大な先達です。「暗い旅」は、確かあれも「婚約者に蒸発されて逃げられる女子」もの、でしたっけ?あれ「聖少女」の下敷きみたいですね。倉橋由美子の初期のものは大概好きでしたが、似てると言われたのははじめてです。noharraさんのところの音楽バトンが面白かったので一筆落としたくなった次第』 (2005/06/23 07:13)

(野原)

「合掌」という言葉は中島らもが流行らせた言葉じゃないかと思うんですが、使用法はちゃんとはよく分からない。「最高のリスペクト」の意と知り安心しました。水玉消防団知ってます?それは嬉しいですね。かなりマイナーですから。天鼓よりはずっと聞きやすいけど。

倉橋でわたしが似てる、と思ったのは例えば次のようなところ。

それからQはわたしをバーに誘って、そこで自分の家族のことを語り始めました。わたしにはなによりも興味のもてない話でした。男の子って、求婚の序奏に家庭とりわけ母のモティーフをかなでることが好きなんですね。その次に将来の家庭の設計をやってみせ、そこに母のかわりに未来の妻を入れてみる、そうして娘の手を握りしめるというわけね。

「蠍たち」倉橋由美子

こんな風に書いてしまったら、小説なんて書けないんじゃないか、身も蓋もない! みたいに感じました。フェミ風フロイディズムなんて今では凡庸ですが、彼女は四〇年前に独力で到達したわけで、その観念の筋肉むきむきみたいな感じが面白い。一般に評価される直前の生硬な倉橋ですね。で、chimadcさんはまた全然違うのですが、怖いほどリアルだし、でも「身も蓋もない」みたいなところだけは似てるかな、とちょっと思いました。

八木秀次を叩け

事情をよく知らないのですがチョンボがあった様子。

河野美代子さんからのメールの写し。

広島から河野です。

私の裁判に、どうしても必要で、昨日、本屋さんに「新、国民の油断」を買いに行きました。私を中傷した文にこの本からの引用があったので、必要だったのです。彼らの本を買うのはとてもいやなのですが。

あの、パンツをおろした人形の写真や、数々のうそ、でっち上げが書いてある本です。それから、女性学やジェンダーの学者さんや、性教育の実践家、総動員で個人名をあげて批判というか、中傷満載ですね。

著者は西尾幹二とあの、テレビの八木秀二です。

>

ところが、どの本屋さんに行っても本がありません。店員さんが、「おかしいな、ここにあるはずなのに」と、どこの本屋さんでもです。

そして、広島でもとっても大きな本屋さんで、丁寧に調べてくれた店員さんによると、

「出版社から回収の指示があったので、もう、在庫はおいてありません。」ということでした。もっと詳しく尋ねて、調べてくれたところによると、何か不具合があって回収、もし、あったとしても、販売をしないようにと。

それは、一昨日の夕方の連絡だったそうです。

>

そして、その不具合を直して、八月ごろにまた出版するかもしれない、ということでした。たぶん、私の考えでは、肖像権の侵害とか、そういうものだと思うのですが、でも、そこだけ削ってまた出版されたのではなんのもことやらです。私は、名指しされた人の反論や、明らかな嘘については、出版社にも当事者は抗議した方がいいと思います

今がチャンス。私は、早速、これらの根拠になっているこの本は、回収になっている、と使わせてもらいます。

小学校低学年から、コンドームの装着の実践をしている、なんて、いったい、どこの学校で?小学校の低学年では、まだコンドームがつけれる様なペニスではなく、とても無理なはず。誰が考えてもおかしな嘘満載の本です。

>     河野美代子

このメール転載可です。広めてください。

続報

poppo-x 『http://www.asahi.com/life/update/0617/005.html

「新・国民の油断」回収に 過激な性教育批判で話題の本

2005年06月17日19時23分

 「ジェンダーフリー」や「過激な性教育」を批判した本「新・国民の油断」(西尾幹二、八木秀次著)の記述内容に問題があったことがわかり、出版元のPHP研究所が回収を始めた。

 同社によると、HIVや性教育に詳しい岩室紳也医師の写真が本人に無断で掲載されたほか、岩室氏にかかわる記述に誤解を招きかねない点があったことなどがわかり、今月上旬に回収を始めたという。同社は、修正の上、8月中旬をめどに再度出版するとしている。

 岩室氏は「書き方に問題があり、肖像権も侵害された。大変迷惑しており、抗議した」と話している。

 この本は1月の出版後、約1万3000部を発行。「過激な性教育」や「ジェンダーフリー」を批判的に取り上げた自民党のシンポジウムなどで引用されている。』(2005/06/18 19:33)

正確な情報ありがとうございました。

あなたが存ればよい。

五倫は惟(た)だ夫婦に在り。此の夫婦は男女にして一人なり。(略)此が自然の五倫なり。(略)然るに、聖人、私の制法を以て君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の五倫を立て、推して上に立てて君臣と為し、自然の五倫を盗んで自然の直耕を貪り食う。

(安藤昌益『統道真伝』)

『ブックガイド日本の思想』p52から孫引き。

今日ではむしろ、恋愛=欲望=消費主義やマイホーム=マンション購入主義への批判を先行させなければいけないかもしれない。一方、靖国をはじめとする国家主義は君臣、父子、兄弟、朋友の関係を(わたし=たちに先立つ)倫理として定立していこうとしている。

安藤昌益について何も知らないのだが、「五倫は惟(た)だ夫婦に在り。」という思い切った断言は興味深い。

(このテーマについてわたしを支配しているイメージは、先日も書いたとおり、戦後60年戦死した恋人の腐らない屍体を小舟に乗せて彷徨っている<元ちとせ>、にあります。「靖国がいらない」とはこういうことだ。http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_plain?base=95&range=1

小学教科書への疑問

子どもはちょうど、小学6年の社会科教科書で日本史を勉強しているみたいだ。*1子どもに聞くと習ったはずの大化の改新も知らないで困ったものだ。ある頁を開けると、2頁見開き一杯に平城京碁盤の目状の都市の鳥瞰図がありむちゃくちゃ立派だ。人口が十万。ちょっと多すぎるような気がしてぐぐると、ある人(寺崎保広教授)の意見は、「5~6万ほど」「10万人説は居住可能な免責に隈無く人が住んでいたという前提での計算である点が問題で」とあった。http://www.nara-u.ac.jp/daigaku/koho/mini/terasaki.html奈良大学

わたしが気になったのは聖徳太子のところ。

ゆうたさんは、大和朝廷の役人に十七条の憲法を示した、聖徳太子を調べることにした。

として1頁全部を使って聖徳太子を紹介している。次の頁が大化改新であるが、「聖徳太子がつくろうとした天皇を中心とする政治のしくみが、ここでできたのだな。」とゴシックでまとめられている。

上の子の中学の教科書*2を見ると

17条憲法を定めて役人の心がまえを示したといわれています。

とちょっと遠慮がちである。

それもそのはず、

近代史学の対象となりうる太子関連の第一次資料は皆無に等しく第二次資料としての『日本書紀』の記述が残存しているだけであった。あとは「天寿国繍帳」の銘文ぐらいしかない。

p4佐藤正英『聖徳太子の仏法』isbn:4061497227

という情況だからである。

佐藤氏は「太子非実在論」はますます激しくなるだろうと、(彼にとって)悲観的な予想を述べている。ではなぜ、小学校の教科書だけがこんなに力をこめて聖徳太子を記述するのだろうか。それはたぶん学習指導要領が命じて居るためだ。

 仏教伝来の後、聖徳太子が法隆寺を建て仏教を日本に定着させた、とだいたいそう教えられてきた。

しかしそれは6世紀終~7世紀初の思想状況に対する正確な理解ではない。

釈迦仏を祀るとは、ひとびとにとって、見知らない新たな<たま>神を祀ることにほかならなかった。(p42同上)

お握りにライスバーガーとラベルをはっただけみたいな漢字で、「仏(ほとけ)がみ」というラベルの神がやってきたにすぎない。

以上わたしの乏しい知識においても、小学校教科書は充分偏向しているように思われた。

参考:

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/shotoku/iesu.htm 以下(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』を批判する立場の文章)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/shoutokutaishi.htm 「聖徳太子」はいなかった

*1:見たのは大阪書籍のもの。

*2:大阪書籍

天皇を中心とする政治のしくみ

「天皇を中心とする政治のしくみ」を聖徳太子が造ろうとしたというが。崇峻天皇を殺したのは蘇我馬子であり、太子はその同盟者であった(ことになっている)。「太子漠然として、曰く「此れ、過去の報なり」と」*1

もちろん、偉人としての太子がフィクションなら上記もフィクションだろう。だがそうでないという立場で記述するなら、上の疑惑にも答えて貰いたいものだ。

複雑怪奇な日本史を小学生に数頁で教えるのは不可能に近い。しかし日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁、後者が4頁である。事実かどうか不明の聖徳太子になど頁を割かず、平安時代にもっと頁をさくべきであろう。

平安時代では「藤原氏は、むすめを天皇の后とし、生まれた子を天皇にたて、天皇にかわって政治を進めていました。」と記述されている。この記述の水準からいっても上記のスキャンダルには答えるべきだろう。

「天皇を中心とする政治のしくみ」というのがどういう意味か全く確定できないのがこの混乱の原因だ。単に中央集権国家という意味で使いたいのか、あるいはすべての人民の存在の全てを捧げ奉るべき天皇という狂信主義へのベクトルをあながち拒否しない使用法なのか、それともまた別の意味なのか、まるでわけが分からない。

「訳の分かったような分からないような」言葉やフレーズを呑みこんだふりをして生きていく術、などわたしは子どもに教えたくない。

*1:「聖徳太子伝暦上」

実像さえわからない人物

amgun 『こちらにもコメントを書きます。聖徳太子ですが、その実像さえわからない人物なのは、日本史の分野では少しかじった人なら解る話なので、少ない頁でゴシップ風にまとめるのは、明らかに教科書の〈意図〉でしょう(古代国家は「天皇中心の国家」であるというイデオロギーを主張するための)。あと、聖徳太子については、「太子信仰」という形でイメージが形成された面があるので、そちらを調べるのが有効かと。すみません。乱文で。』

(2005/06/30 23:48)

ふーむ、やっぱりそれが学者の常識だよね!

小学校学習指導要領

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/003.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第2章:各教科-第2節:社会

(1) 我が国の歴史上の主な事象について,人物の働きや代表的な文化遺産を中心に遺跡や文化財,資料などを活用して調べ,歴史を学ぶ意味を考えるようにするとともに,自分たちの生活の歴史的背景,我が国の歴史や先人の働きについて理解と関心を深めるようにする。

ア 農耕の始まり,古墳について調べ,大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際,神話・伝承を調べ,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。

  イ 大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の様子,貴族の生活について調べ,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かること。

ウ 源平の戦い,鎌倉(かまくら)幕府の始まり,元との戦い,京都の室町に幕府が置かれたころの代表的な建造物や絵画について調べ,武士による政治が始まったことや室町文化が生まれたことが分かること。