本物はすごい

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/115/image/005.jpg 005.jpg(JPEG 画像、1920×1284 ピクセル)

こんなところにも国生みが。

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/ichiran.html

鈴鹿文庫一覧

「恐るべき古代史料の電子画像データベース。」

と、久遠の絆 さんが評されていますが目次だけみてもすごいですね。

本を買わなくてもいくらでも勉強できる!

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/025/index.html

竹内式部奉公心得書 なんてマイナーな人の文章まである。げげ。

風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

古事記は偽書だ

id:kuonkizuna:20050415 経由で

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-63.html 『古事記』とは何か—和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」 を読みました。

「内容、構成、日本語など、どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。」したがって、

「数多くの根本的な偽書説が提出されてきている」。

にもかかわらず戦後の左翼的史学・文学界自体、に「厳然としてタブーがあり、それは今なお存続している。」と論じている。mansongeさんは。

宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。この「日本語」とは、わが「日本」の固有性であり「日本人」であり「日本民族」である。

宣長が古事記を読むことで発見した、【日本】なるもののうちに私たちは生きている。であれば、古事記が偽書であってもそのような判断は、日本では出来ないことになる。

 紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。

 さて日本書紀と古事記の違いについて、上のようにmansongeさんは明快にまとめておられる。

 一神教(キリスト教)を深く取り入れた平田篤胤の直前まで、宣長が来ていたことは、id:noharra:20050326#p2 で述べました。

 改憲論議で、もはや誰も触れようとしないが、第九条以上に根本問題であるのが第一条から第八条までを占める天皇に関する箇条である。これは「天皇」の存在に関する問題ではなく、実は「日本国」とは何であり「日本人」とは何か(私たちは何者か)という問題なのである。(同上)

 「もはや誰も触れようとしない」というのは誤りであろう。「君が代」の根拠を問うと、なんらかの自明性、自同性という解答しか返ってこない構造に苛立ちを持つ人は多い。

 憲法1条削除を主張した途端、マイノリティに転化することは事実であるが、予め決められた「多数/少数」とは思想にとって何なのだろう。

 コメントスクラム、とはネットに於けるデモ であり、民衆の意志表示であるともいえる。だが自己の奴隷性を自己肯定することにだけ熱中しているのだ。理念の不在を神とする日本の、それが宿命なのか。いやそうではないと思う。宣長から大日本帝国そしてプチウヨへ受け継がれた同一性の論理、以外にも日本には多様な豊かな思想の伝統がある。

靖国神社参拝反対

「(内閣総理大臣就任後は)日本のために犠牲になった人のために参拝する。」と小泉氏は言ったそうだ。だが何度も言うが、例え戦争を始めたとしてももう少し合理的に戦い、どうしようもなくなったら降伏するという方法もあった。そうすれば死ななくて済んだ人はたくさん居たのだ。彼らは「日本のために犠牲になった」わけでは必ずしもなく当時の支配者の、市民の犠牲より大事な物があるという思想の犠牲である、ことは明らかである。

 特にA級戦犯合祀後の靖国を参拝することは、「国家がわたしたち市民に対して責任を負っていない」ことの宣言であり、絶対許すことはできない。

わが国固有の伝統文化とは何なんだ?

あるブログから勝手に孫引きしますが、毎日新聞だそうです。

衆院憲法調査会:最終報告書 改憲の説得力乏しく

 過去5年間にわたる議論を集約した衆院憲法調査会(中山太郎会長)の最終報告書が15日、決定した。多数意見に該当したテーマは「現状維持」を含め計29点に上る。焦点の9条に限らず、新しい人権や地方自治など幅広い分野に及んでおり、

(中略)

 しかし、29点のうち現行憲法で明確に対応不可能なのは「わが国固有の歴史、伝統、文化を明記すべきだ」など前文関連の2点や「憲法裁判所の設置」などごく一部。(毎日新聞)

 最近改憲に賛成の方も読みにきているみたいですが、お聞きしたいです。わたしが心配している「生きて俘虜の辱めを受けず」という奴隷道徳の受肉と、「わが国固有の歴史伝統文化」は全く違うものなのでしょうか?戦後史の何時何処でその切断はなされたのでしょうか?答えていただきたいものです。

ところで「我が国に非固有の歴史」なんてものがあるのかね。どこの国にも通用する歴史法則(マルクス主義とか)への反発を表現したいのだろうが、固有だ固有だと言いつのるばかりでは無理性の泥沼に陥る危険性もあるだろう。

今日は飲んでいるので

http://d.hatena.ne.jp/kamisamasedori/20050415#p1

楚狂接輿。歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何徳之衰。往者不可諌。來者猶可追。已而已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言

上記ブログで上のような引用があった。白川静先生の好きな微子第十八 ですね。岩波文庫p366。でまあ彼kamisamasedoriは、左翼が機会に乗じて靖国反対とかいうのがいかがなものか、と言っているようだ。ただ私から見れば、接輿から最も遠いのが靖国であり、儒教の<天>を裏切った非普遍性であるから、靖国はどちらからも馬鹿にされるしかない、のだが。

卒業式への警察出動記録

今春の都立高校卒業式における警察の出動記録

「日の丸・君が代」強制に反対する市民運動ネットワークからのメールより。

◆卒業式に関わる「110番処理簿」について一覧表

日付 区市 入電事案名 処理事案名

1/24 世田谷 その他の苦情 その他の苦情

2/2 目黒 連絡 警備情報

2/14 目黒 交通連絡 連絡

2/14 世田谷 その他の苦情 その他の苦情

2/16 杉並 交通違反 交通違反

2/17 荒川 交通違反 交通違反

2/18 板橋 その他の苦情 連絡

2/22 荒川 連絡 警備情報

2/24 江戸川 連絡 警備情報

3/2 渋谷 その他の苦情 その他の苦情

3/2 渋谷 ※上記の続報

3/2 渋谷 ※上記の続報

3/2 世田谷 その他の特別法 その他の特別法

3/3 足立 連絡 公然わいせつ

3/4 町田 応援要請 住居侵入

3/4 江戸川 警備情報 警備情報

3/5 江戸川 その他の特別法 その他の特別法

3/8 葛飾 連絡 住居侵入

3/8 葛飾 ※上記の続報

3/10 文京 連絡 警備情報

3/10 文京 連絡 警備情報

3/11 東久留米 連絡 警備情報

3/11 渋谷米 連絡 警備情報

http://tokyo.cool.ne.jp/kunitachi/kyouiku/05keibi.pdf

女性国際戦犯法廷について(1)

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050410#p5

でhizzzさんが、 女性国際戦犯法廷について書いている。(2)のとおり応答したのですが、4/10のhizzzさんの文章をもう一度引用し考えてみよう。

1.開催前から「天皇(裕仁)有罪」帰結が容易に推測できるイベであること

 原告と被告の扱い(証人・弁護等の人員)に著しい差があった

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050410#p5

「天皇有罪」と「東条英機ほか有罪」の両方を検事団は目指したが、証拠が整わなければ有罪にはならなかったと思われる。有罪を導いた手続の「荒さ」を具体的に指摘すべきである。

 戦犯法廷の前史としての、日本の法廷への提訴が、門前払いに終わったことの「安易さ」、国境を越えた正義を貫こうとする決意が日本の法廷にあったのかを問うことなく、民衆法廷の瑕疵だけをあげつらおうとする態度の一方性。

2.「国際戦犯法廷」の戦後日本の歴史性を無視してること

 数多くのBC級戦犯が、安易に処刑されていった事実に配慮が欠けている

「数多くのBC級戦犯が、安易に処刑されていった」ということがあったのだとしたらそれは東京裁判に連なる戦犯法廷の問題点ですね。

何を以て「戦後日本の歴史性を無視」と言っているのか、がよく分からない。

3.有罪の中身は「道義的責任」

 民主主義下の法律では、「道義」はそもそも思想信条の自由に値し「道義的責任」は問えない

 犯罪行為があったという事実認定の上で、その管理責任を問うた物であり普通の刑法の範疇における罪を問うている。

 hizzzさんは、http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/womens_tribunal_2000/judgement001212.html を示して書いているのだが、ここには「道義的責任を問う」と書いてあるかな?法廷の実際を踏まえず自分なりの勝手なイメージで文章を書いているような印象があるが?

しかしながら、最大の責任は、55年以上にわたって訴追も謝罪も行わず、補償などの有効な救済措置をなんら講じてこなかった日本政府にある。こうした政府の怠慢は、被害者たちが1990年以来繰り返してきた要求にも拘わらず、そして2人の国連特別報告者による細心な調査、さらには国際社会の正式な勧告を無視して、いまだに続いているのである。

http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/womens_tribunal_2000/judgement001212.html 

ここからは被害者の求めたものは道義的責任ではない、と読みとれる。

女性国際戦犯法廷について(2)

上の続き。

コメントしたら返事をいただいた。

# noharra 『開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判よりは公正に近いと評価できる。』

# hizzz 『上記したように、自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動(「やられたらやりかえせ」的視点)という点においては、「女性国際戦犯法廷」も「東京裁判」も同列でしかない。以前カキコしたように「道義的責任」を問うこの問題は「法」では決して解決しない。なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまったということにおいて「公平」を掲げるポリティクスとしても、結果は致命的ですらありましょう。』

(野原)

「なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまった」というのは、「天皇有罪」に対して(日本人の誇りを傷つけられたとして)憤激し慰安婦に対するセカンドレイプにはしったりする反応を引き起こしたことを言っているのでしょうか。 

 レイプという具体的な犯罪があった場合、それを裁こうとすることは、正義をもたらすことにより暴力(の連鎖)から世界を救うことになると思いますが。

右翼も左翼も、自分たち以外(制度外の第三者)という存在を喪失している。そして喪失しつづけてるが故に、なんとかしようとして居丈高になり、更なるお手付きを重ねて、パンピー(=イデオロギー的正義思想を持たない者=ウヨサヨ制度外の第三者)の支持を減らす。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050213#p3

(野原)

 これは少し当たっているような気もする。だがレイプの問題は本来イエオロギーの問題ではない。彼女たちは白人(オランダ人)でなかった、まともな国家を持たないアジア人女性にすぎなかったがために東京裁判の時点で裁判化されなかった。そこでアジア人と女性に対する差別が弱くなった50年後ようやく事実を事実として語りうるようになった。それをイエオロギー的言説であるかのように演出してしまっているのは、ナルシズムに汚染された日本の言説空間である。

司法と政治とイデオロギーがごっちゃになって

# hizzz 『ども。「女性戦犯法廷」もnoharraさんの論説も、司法(=法)と政治(=反国家)とイデオロギー(=国家的性奴隷制)がごっちゃになって一体化してます。そして東京裁判の最大の欠点はそゆ「権力」が一方的に裁いて死刑にしてしまったことです。>「やられたらやりかえせ」

一番のプライオリティは何ですか?「慰安婦」をどう保障すべきかという具体的提言なのではないでしょうか。

最後の「国民に強制した国家を支持するのだな?」という文言にみられる、国家vs反国家という二分(による絶対正義権の発動=イデオロギー)矯正と、「女性戦犯法廷」が本当に求めたはずの国際法での(考えられるかぎりの公平な)ジャッジは離反しますよ。そういう民主主義的「多様性」を排除した中で、いくら声高に「正統正義」をいいたてても、国家vs反国家ということにしかならないではないですか。そしてそれでいい、というのなら、まさに「慰安婦」は反国家パフォーマンスもしくはPC(ポリティカル・コレクトネス)のネタでしかないでしょう。』 (2005/04/18 20:51)

(野原)

乱暴な批判に応答ありがとうございます。

ですから、

こないだの大戦で「生きて俘虜の辱めを受けず」を国民に強制した国家を支持するのだな?(野原)*1

を、「国家vs反国家という二分(による絶対正義権の発動=イデオロギー)矯正」と読むかどうか、が論点なのですが。

1.こないだの大戦で日本国は「生きて俘虜の辱めを受けず」を国民に強制したのは事実ですね。

2.それを「過去は切り捨て平和国家建設」という形で総括し戦後の日本国家は始まった。

3.小泉の靖国参拝から「憲法改正へ」への動きは、「2.」の全否定としてある。

4.ここにおいて、少なくとも「1945.3.10~1945.8.15」の間に死んだ死者たちは目覚めて歩き回りはじめた。

というのがわたしのパースペクティブです。

 このような構造に無自覚であることは、「国家」という言葉で、戦前戦後のべたらな「3.」レベルの国家イメージを肯定してしまっていることになると思います。

*1:この文章はhizzzさん宛に書いたものではありません。drmccoyさんあて。念のため。