種差を類に代えてもよい

 スコラ哲学では、類と種差によってものは定義されると言います。

例えば肉食である(種差)恐竜(類)=肉食恐竜。また、正多角形という類において角の数が4である物は正方形です。ところで、

類が種差に種差が類に変化させられ得るのもしばしばである… 例えば、正方形は四辺をもった正図形であるか、あるいは辺が同じ長さの四辺形であるかです。*1従って、類と種差とは実詞(名詞)と形容詞の違いでしかないようです。人間は理性的動物であると言う代わりに、人間は動物的な理性的存在者… ということも言語は許しているように。

ライプニッツ『人間知性新論』(原著1703年)みすず書房p278 isbn:4622017733

 女性の運動部員と言おうと、運動部員である女性といおうと同じことである。ということですね。ところでわたしはスコラ哲学のことを全然知らないのだが、やはりライプニッツの言うようなことはスコラ哲学は許さないのではないか。世界とは神の秩序であり、あるもの(種)は一つ上の段階である類に収束する。そのあり方は一つしかない。そう考えないとヒエラルキー的秩序は乱れてしまうから。

 ところで、<存在>という種の類とは何か?いくつかの*2類を想定できる。そうしたものが<存在>なのではないか。女性であるわたし、運動部員であるわたしなどなど…

 愛国心とは、<存在>に対しむりやり「日本人」という類を強制するものだ。と思われる。

*1:分かりますか?類として正多角形をたてるか四辺形をたてるかの違い。

*2:あるいはいくらでも多くの

コメントスクラムの被害者を励ます

http://blog.livedoor.jp/akyoko3/archives/18605869.html K’s Room:日の丸と憲法9条

がコメントスクラムの被害を受けている。

前日のコメント欄に下記の通り書き込みました。

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html 多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

からきました。野原燐といいます。はじめまして。

前日に書き込みしてすみません。

コメントスクラムはうっとおしいですね。

日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は、日本人にも莫大な被害を与えた「大東亜戦争」を、肯定的にズラして総括しようとする勢力(自民党+プチウヨ)に対する反感があるからだと思います。

コメントスクラムにどう対応するかは難しいですが、ほんのちょっと休憩し、その後淡々と自分に興味のあることを書き続けて行く、くらいの対応でも大丈夫かも。自分の幸せを追求し表現していけば、亡霊たちは消え去ります。(ほんとかな?)

消耗せず、お元気で!

        野原燐

この発言に対するコメントは下記にどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050414

大君たとい如何なるくせ事を仰せ出さるるも

 吾君は真に神ということ返す返すも忘れ給うべからず、然るを浅はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の乱にも及ぶ事、古今其例多し。慎むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起こらば、天照大神の御名を唱えうべしとあるも、天照大神の御恩を思い出さば、則其御子孫の大君たとい如何なるくせ事を仰せ出さるるも、始めより一命をさえ奉り置く身なれば、いかで怨み奉ることあるべきや。

竹内式部『奉公心得事』*1

天皇は真に神である。大君がどんな間違ったことを言い出したとしても、わたしというものは命さえ天皇に預けている身だから、大君の言葉に従うまでだ。

 現人神の思想は山崎闇斎の弟子(神道系)玉木正英に発する、と前田勉氏は言っている。竹内は玉木の弟子に当たる。

 あれほどの戦争を自身の名において遂行し、しかも敗戦においても何ら変わらずほほえんだままその在位を全うした裕仁天皇。彼が神でなかったと誰が言えるのか?

*1:p161『近世神道と国学』前田勉 isbn:483151005X

直ぐに首差延べて

神籬(ひもろぎ)伝授の人と云は、譬えは君が我を無罪に殺そうと仰せらる時に、天命是非に及ばず、君なれば何分にも、畏こまらいではなどと云うは、本のことで無い、殺そうと仰せらる声の下から、はっと畏まり、私を御殺御腹がいて御慰に成る者ならば、とくとく御切り御切りと、にこにことほほえみ、直ぐに首差延べて、あたまから渡して掛かる合点が無ければ、本の伝授の人とは申されまいぞ。そりゃ平生夫程の思入れが大事ぞ。

玉木正英『潮翁講習口授』

p160『近世神道と国学』前田勉 から孫引き

 神と人を比べると、神は無限大ですから人はゼロになります。逆に言うと無限大は人には見えませんから、人=ゼロとすることにより、無限大を暗示することができる。天皇に対するマゾヒズムとか言って、左翼はヒステリックに批判しそうだが、まあよくある思想(秘密の教えとして一般人には隠されている)かもしれない。

 ただ特異なのは、神=普遍性という前提を意識的に拒否している点。「天命是非に及ばず」というのは、神=普遍性という思考によった理屈だがそれを否定している。

 ところで、デリダの「アブラハムがイサクを捧げる話」を思い出す。

わたしたちが「近親者や息子に対する忠実さを選ぶためには、絶対他者を裏切らなければならない。*1

「それを神と呼んでもよい」とデリダは言っているが、日本ではそれを天皇(象徴天皇)と呼ぶべきだろう。

イサクの犠牲は毎日のように続いている。*2アル・アクサーの大モスクの近くで。

*1:p143『死を与える』デリダ

*2:同書p145

多くの日本人とは

0000 『日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は以下(省略)

この一文だけであなたの主義主張が一方へ偏っていることが良くわかります。

一般の日本人は日の丸に誇りを持っていると思います。オリンピックやワールドカップなどを見たことがないのですか?』

K’s room経由 『はじめまして。

> 日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は

との事ですが、日の丸はたしか左にバイアスがかかっているとされる

朝日新聞の読者にして8割りだかが支持していたはずですが。

ロジックのなにかが間違ってませんか?』

(野原)

 例えば、国民の1割が好きでない、とします。この場合、一千万ほどの日本人が嫌悪していることになります。当然、「多くの日本人に好かれていない」ということになりますね。

(1)生きて俘虜の辱めを受けずとして兵士や市民に死を強制した帝国を、愛すべきだと考える理由を教えてください。

むう 『むしろ多くの日本人が日の丸を愛しているんだとの理由を教えてください。

スポーツ大会で日の丸をかかげるのは日の丸を愛しているからではなく、単に恒例だからだと思います。じっさい君が代は歌ってない選手が多いです。これも嫌いだからではなく知らないだけでしょう。』(2005/04/17 20:23)

大八島国とは

  1. 淡路島
  2. 四国
  3. 隠岐の三子の島
  4. 九州
  5. 壱岐島
  6. 津島(対馬)
  7. 佐渡島
  8. 大倭豊秋津島

 この八島を先に生んだので大八島国と謂う。

cfp21-22『古事記』岩波文庫 より

本物はすごい

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/115/image/005.jpg 005.jpg(JPEG 画像、1920×1284 ピクセル)

こんなところにも国生みが。

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/ichiran.html

鈴鹿文庫一覧

「恐るべき古代史料の電子画像データベース。」

と、久遠の絆 さんが評されていますが目次だけみてもすごいですね。

本を買わなくてもいくらでも勉強できる!

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/025/index.html

竹内式部奉公心得書 なんてマイナーな人の文章まである。げげ。

風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

古事記は偽書だ

id:kuonkizuna:20050415 経由で

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-63.html 『古事記』とは何か—和銅年間に挿入された「近代日本の聖典」 を読みました。

「内容、構成、日本語など、どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。」したがって、

「数多くの根本的な偽書説が提出されてきている」。

にもかかわらず戦後の左翼的史学・文学界自体、に「厳然としてタブーがあり、それは今なお存続している。」と論じている。mansongeさんは。

宣長は『古事記』に、「古言」たる「日本語」を見つけた。この「日本語」とは、わが「日本」の固有性であり「日本人」であり「日本民族」である。

宣長が古事記を読むことで発見した、【日本】なるもののうちに私たちは生きている。であれば、古事記が偽書であってもそのような判断は、日本では出来ないことになる。

 紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。

 さて日本書紀と古事記の違いについて、上のようにmansongeさんは明快にまとめておられる。

 一神教(キリスト教)を深く取り入れた平田篤胤の直前まで、宣長が来ていたことは、id:noharra:20050326#p2 で述べました。

 改憲論議で、もはや誰も触れようとしないが、第九条以上に根本問題であるのが第一条から第八条までを占める天皇に関する箇条である。これは「天皇」の存在に関する問題ではなく、実は「日本国」とは何であり「日本人」とは何か(私たちは何者か)という問題なのである。(同上)

 「もはや誰も触れようとしない」というのは誤りであろう。「君が代」の根拠を問うと、なんらかの自明性、自同性という解答しか返ってこない構造に苛立ちを持つ人は多い。

 憲法1条削除を主張した途端、マイノリティに転化することは事実であるが、予め決められた「多数/少数」とは思想にとって何なのだろう。

 コメントスクラム、とはネットに於けるデモ であり、民衆の意志表示であるともいえる。だが自己の奴隷性を自己肯定することにだけ熱中しているのだ。理念の不在を神とする日本の、それが宿命なのか。いやそうではないと思う。宣長から大日本帝国そしてプチウヨへ受け継がれた同一性の論理、以外にも日本には多様な豊かな思想の伝統がある。