認めるはずもないじゃない

# KMR 『十条さん、それとおそらくnoharraさんもそうだと思いますが、

私が問題としているのはあなた方の主張する「手紙を渡す」という『目的』の

是非ではなく、「学校に乗り込む」という『手段』の方是非です。

何度も書きますが、手紙を渡すだけならば郵送すれば済むことではないですか。

あるいは、azamikoさんの娘さん・Kさんに託して渡させるとか。

学校側は式典準備(押しかけたのは予行中)で多忙だったでしょうし、

昨今の教育現場が同様の国旗君が代問題で揺れているのは

彼らにとっても懸念だったことでしょう。

その状況でまさにピンポイントに、その国旗君が代問題で都の教育行政を

批判する文書を配布することなど、認めるはずもないじゃないですか。

元々のazamikoさんのエントリーのコメント欄でも指摘しましたが、

学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは

充分な説明をしていません。

揺ぎ無い正当性があるというのなら主張されているだろうし、

そもそも当日警察を呼ばれても構わず主張すれば良かったのではないでしょうか?』 (2005/04/06 08:23)

# KMR 『追伸。

>校長が認めていた場合にそうなる可能性はどのくらいですか?

逆の仮定で質問する意図が掴めませんが・・・。

都立高校の校長が、構内で保護者による都の教育行政を批判する文書の配布を認たら、ですか?

それは校長の管理責任を問われることになるので、「式典が崩壊」とは別の騒動になる可能性があるでしょう。

まさか、「式典が崩壊しなければそれで良いじゃないか」という反論を通すおつもりですか?

それはあまりに勝手な主張ではないでしょうか。』 (2005/04/06 08:31)

# 十条 『>「学校に乗り込む」という『手段』の方法の是非です。

論点をずらしてますよ。校長にとって、彼女の来校という手段は望ましくなかったかも知れない。でも私が指摘した論点はそこではない。そういう状況での校長権限の「運用」が論点なのです。

今回のケースでは、来校されてここにいる、手紙だけ渡して帰ってくれたら秩序が混乱するわけではない、だから手紙を渡して帰ってくださいね、という対応(校長権限の運用)もありえるわけです。ところが手紙を渡すと秩序が崩壊するみたいに、大げさに騒ぎすぎるのは、私から見たらアホみたい。大げさに騒ぎすぎ。』 (2005/04/06 21:09)

# KMR 『その辺は、azamikoさんの言動から見て目的が「手紙を渡すこと」だけとは受け取られなかったのではないかと考えています。

azamikoさんが、教頭に預けるとちゃんと教師達に届かないのでは無いか、と危惧したのと同様、教頭の方もazamikoさんの行動を疑い何かとんでもないことをやらかすのでは、と危惧したのではないでしょうか。

まあ、azamikoさん本人はそのつもりは無かったのでしょうが、あのエントリーに書かれたやり取りを見ると、azamikoさん自身の態度が相手の硬化を招いた、いわば自業自得のように思えますね。』 (2005/04/06 23:55)

# 十条 『本当にセキュリティ上の危惧が懸念されるような状況なら、校長と直接会う、という事態は起こっていないでしょう。セキュリティリスクが生じないという判断があったら、危機管理の常識で考えたら、3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。でも校長は会ってますね(笑)。つまりそれは、セキュリティ的に問題が生じていない、という判断があったということですよ。

KMR さんは当初、式典破壊の企図した行為に「他ならない」と確信をもって語っていたのに、結局は「危惧したのではないでしょうか」という憶測しか根拠がなかったわけですね。憶測だけで「他ならない」と語ってしまうその軽さ、とってもミットモナイと思う。』 (2005/04/07 00:30)

# KMR 『>3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。

校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

最優先で守るべきは生徒たちでしょう。

ただ、前にも書きましたが式の予行中だったということをお忘れですか?』 (2005/04/07 00:51)

# KMR 『えーと、こちらが再反論してる状況なのに申し訳ないですが、azamikoさんの所でのやり取りで、この件について議論する意欲が失われてしまいました。

議論というのが勝ち負けを決めるものか、何らかのコンセンサスを求めるのか、それは各人によって異なるところですが、azamikoさんの所での議論を主、

こちらでの議論を従と捉えていたものを、あちらでの議論が上記のどちらも

望めないモノと判断した以上、こちらでの議論も無意味に思えてきました。

こちらの主張は全て引っ込めますので、負け犬とでも何とでもおっしゃって構いません。

どうもご迷惑をおかけしました。』 (2005/04/07 01:50)

# 十条 『>校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

そうですね。平時ではそうですね。ただ、リスクありと判断した場合は校長は会わず誰かが代理に立つ、となるのが危機管理の定石(式典の前日だからなおさらそう)。ところが校長が会っている。ということは「平時」状態・リスクなしと判断されたからですね。つまり、リスク発生という認識ではなかったという、なによりの証拠でしょうね。

式の予行中がどうかしましたか?3人を予行終了まで待たせて、職員室付近で会わせればいいだけの話。まさか、教師が予行の会場から直帰すると思っておるのですか?

とにかく話を大げさに、大げさにしないと気がすまないのですか?』 (2005/04/07 02:02)

(4/10)野原

KMRさん「学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは充分な説明をしていません。」

 父母が学校で、「先生方が自己の意思に従い行動されることを支持するというメッセージを伝えるため」の手紙を渡すこと、それは特別なことであり、正当性を父母の側が立証しなければならないそうした問題だ。という捉え方に反対です。

十条さん

 ご意見に賛成です。コメントしていただいて助かりました。ありがとう。

他の方もコメントありがとうございました。

公、天皇、国家に献身する精神

4/6の朝日新聞では「つくる会」教科書を特集している。

(扶桑社の歴史・公民の教科書)両分野を貫く形で強調されたのは、公、天皇、国家に献身する精神である。

歴史では武士道の忠義の観念に光を当て、「公のために働くという理念」としてコラムを新設した。武士を「究極的には天皇に仕える立場」と位置づけ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康らが天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調している。

ふーむ。「つくる会」教科書というのは、水戸学派のイデオロギーによって歴史を語るものなのだ。でも待てよ、尊氏は「廃主の命を奉じて、叛臣の名を免れ、光明院を擁立して以て正閏の分を乱す」*1人物ではないですか。尊氏について天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調しているのだとすると、大義名分論には反しますね。(水戸学とは何か分かっているわけではないのでまあちょっと書いただけですが。)

 中国では歴史の任務は「善を彰(あら)わし悪を貶(おと)す」ことと考えられていた。したがって歴史を学ぶことにより、いかなる権威や権力にも屈しない勧善懲悪の倫理的立場を理解することができるわけです。尊氏であれ誰であり彼がどの点において善でありどの点において悪であるかが書かれる。事実を直書するという方法により。それを鑑(かがみ)とすることで為政者は治世に資することができる。

 現代日本の右翼はまさにプチウヨであり、倫理とかいう言葉が大好きなようですが倫理という物の根本が分かっていない。天皇、国家なんてものは普遍的なものではない。倫理という限りは普遍的な善とか悪が語れなければ話しにならない。

 もちろん天皇は普遍的なものだ、と主張する神懸かり的な立場も有りうる。というよりも神道は、仏教、儒教という普遍思想との絡み合いのなかで自己を形成してきたので自己を普遍として語ることしかできない。「まことの道は、何れの国までも、同じくただ一すじなり。id:noharra:20050326#p2

 ところが明治になって採用した国民国家は、諸国家のあいだの一員でしかないのであり、多少大きくなって帝国を名のろうが、中国のように自己が世界の中心であると信じることはできない。ここにおいて国家神道を軸にした国家統合は最初から根本的矛盾を孕んでいた、ということが指摘できる。

 でもって現在のプチウヨは、「天皇、国家に献身する精神」などというアプリオリに普遍性を欠いた物を「公」という名前であたかも普遍であるかのように売りつけようとしてくる。

 倫理を欠いた献身などただの奴隷道徳であり、わたしたちはつい60年前に実際に国民全体で実践したではないか。これが分からない奴は馬鹿だ。

*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p177『日本思想体系・近世史論集』

「考えが甘い」のはあなただ。

考えが甘いと思うけど。

ネットワークにおける言論は、newsgroupやパソコン通信のSIG、フォーラムの時代から淘汰圧が非常に高く、かつ玉石混淆なのが特徴で、少数意見を唱えるのであれば多数派を説得しうる高い論理的整合性を主張しなければ袋叩きにあうのは、私の過去15年来の経験に照らしても、(ネットワーク界においては)自然なことです。

azamikoさんの行動は突飛である(段階を踏まずにいきなり最終手段を取っているような感じ)と私には思えます。極端な行動は心理的な反発を受け易いものですし、たとえ目的が正当でも手段に問題があればやはりそれは問題です。

目的の正当性を信じるのであれば、より手段の妥当性にも拘るべきで、それらを失すれば非難を受けるのは致し方ないと思います。

そして前述したとおりネットワークにおける言論の淘汰圧は非常に高いので、小倉弁護士の命名する所の「コメントスクラム」なる状態に陥るのは当然だと思います。

これらのことを弁えずにblogを書いているのであるとしたら、覚悟不足としか言いようがないかと。

小熊善之

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html

多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

2005/04/07 17:51)のコメント欄より

ネットで「少数意見を言いたければ」死ぬ気でやれ、とでもいいたいのでしょうか?あまりにも不愉快なのでコピペ。

「手段の妥当性にも拘るべき」ってどういうことだ。

「手段に妥当性がない」という貴方の主張を「コメントスクラム即ち、言論の力ではない暴力」以外の方法で立証できるのか。

「自己=多数派」という前提だけに依拠した自己!!

小熊善之氏批判

(1)「azamikoさんの行動は突飛である(段階を踏まずにいきなり最終手段を取っているような感じ)と私には思えます。」という評価自体が甚だ偏向している。

(2)ネットにおいて、少数意見を唱える者が袋叩きにあうのは自然なこと、という事実認定。

 この「事実」というのは、小熊氏によって捏造されたものではないか。全く異質な二つの「文化」を混同している。

α:15~10年前くらいのアメリカ(及び日本)において見られた、“フレーム”文化。インターネットが一般化する前のメーリングリストの頃の“華”とも言われた。これは発言者の強い個性を前提とするもので、「少数/多数」という布置が予めないからこそ成立する。β:それと去年日本の“イラク三馬鹿”騒動以降顕著になった、ナルシスティクな愛国言説による少数派叩き。「自己=多数派」という前提だけに依拠していると評価できるほど、発言者の自立した思想性は低い。

「言論の淘汰圧」という聞き慣れない言葉を使うことで、捏造が行われる。

(3)1,2からの結論として少数派は「より手段の妥当性にも拘るべきで、それらを失すれば非難を受けるのは致し方ない。」と結論する。

野原から見ると、(1)も(2)も誤りなので、全く納得できない。最初からazamikoさんを否定したいとするプチウヨ的イデオロギーそのものであるのだろうに、自己がそうであることを認めず、一見中立的な論理構成で目的を達成しようとしている悪辣な奴、ということになります。

うし 『小熊さん、はじめまして。

他人の行動が違法だと言い張るなら、どの部分がどのように法に触れるのか指摘すべきでしょう。あなたがどうして「見えない」のか野原さんには伝わりません。』(2005/04/08 23:07)

N・B 『 どうも、また書き込みです。とりあえずひとつ誤解していたことに気づいたので。小熊さんの書きこみは文字どおりに解釈すべきのものだったんですね。調べてみると、自分の意見を主張するためにブログのような突っ込みの入りやすい形態をとらない日記を実践なされているのを発見しました。野原さんは批判の内容からみて日記を読んでいるようですね。

 それにしても、小熊さんが主張する人間の本性が自らの行動がぴたりと一致なされるのはすばらしいですね。たいへん(特に人間に対して)純粋な方と認識しました。しかし日本国家への帰属意識がひときわ強いと思われるだけに昨今の情勢には内心忸怩たるものがあるのではないでしょうか。

>小熊さんへ

 ひとつだけ質問をすれば、現状をそのまま受け入れれば結果的に多数派になるはずですね?しかもazamikoさんの行動を突飛なだと感じて、同様に受け取ることが多数意見だからazamikoさんが袋叩きにされると書かれたのですからこの件に関しても多数派ですよね?2重の意味で多数派の立場にいるにもかかわらず、小熊さんが最初に中立として意見し、後では自分は多数派ではないという根拠はなんなのでしょうか(4月8日)?根拠がないと私はまだ反感を抱いたままになるのでたいへん知りたく思います、ぜひお答えをお願いします。

http://www.sumire.sakura.ne.jp/~oguma/tron/bottom.html

 なおもし書きこんだ方が別人でしたら深くお詫びします。』(2005/04/09 09:48)

聞きなれない→捏造

ym 『はじめまして。

>「言論の淘汰圧」という聞き慣れない言葉を使うことで、捏造が行われる。

言論の淘汰圧というのは、ミームの話ではありませんか?参考までに、スーザン・ブラックモアがミーム(文化の遺伝子)に関して“ミーム・マシーンとしての私”という本を出版しています(小熊さんの解釈が妥当かどうかは私には判断できませんのでひとまず置きます)。

「ミーム」も聞き慣れない言葉でしょうが、聞きなれない→捏造というのは淋しいですね。耳慣れない内容に関して日々研究をしている人間もいますので、できれば穏当な表現に押さえていただければと思います。』(2005/04/14 04:30)

(野原)

ymさん はじめまして。

ミームという言葉は聞いたことがありますがよく分かりません。(あやしいなという印象しか持っていません?)

「聞きなれない→捏造という」ふうには、書いていない筈ですが。

ネット上の論争といっても二つの全く違った現象を、ある(キーワードになる)「言葉を使う」ことで同一化していると指摘しているのです。

「言論の淘汰圧」であれなんであれ「聞き慣れない言葉を使う」事自体に、反対していません。わたしの表現も聞き慣れない言葉や記号に満ちているでしょうし。

君が代=国家への盲従

 ひとはいつのまにか自分という物を持っているわけで、自己と他者を分別し、他とされたものに対してはあまり関わらず自動的に生きている。通勤経路の傍らで人がうずくまっていても、そのまま通り過ぎる。生きるということはそう言うことでありそれは悪ではない。だがそのときうずくまった人が苦しそうなうめき声をあげたらどうだ。ひとは声に反応し振り返るべきだ。振り返っても何も出来ないかもしれない、云々といった(立派な/立派でない)理屈をとっさに自分のうちで作り出し振り返らないこと、それは悪だ。

 したがって、入学式で国歌斉唱と言われて着席するかどうかですが、着席しないことは悪ではない。しかし、「着席しないことは悪でない」、と言いつのったり「それが善だ」と主張することは悪である。

というか自分の疑問「なぜ日の丸君が代が嫌いなのか」には誰も答えてもらえなかった…。(風見敬吾)

1.日の丸君が代を推進している勢力(文部省の役人など)には正当性がない。

2.「自然、当然」としての愛国心は、国家への盲従に帰結する。

3.コメントスクラムとかする人々は誰からも強制されずに、国家への盲従への傾向性を示している。

4.日の丸君が代強制に反対する人は、日本人は放っておけば国家への盲従への傾向性を持っていると判断している(そうだったのかもしれない)。それはこの間の“対話の否定としてのコメントスクラム”などの経過により明らかになった。

「第二条 1  国歌は、君が代とする。」

 国家はつねに国民統合を意志し努力する。それは悪いことではない。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育(教育基本法)

 教育基本法の理念を高唱する既成左翼に手放しで同調していいのか、疑問もある。

「個人の尊厳を重んじ」の個人とは、ニュートラルな個人を欲望し消費し労働する個人へむりやり強制するベクトルをはらんでいるのではないか。“神のご加護”みたいな語り得ない祈りがなければ、例えば出産の減少はくい止められないのではないか?

 難しい問題だし、こう言うと左翼からは反発を受けるでしょうが野原はそう思わないことはないのです。

 「“神のご加護”みたいな語り得ない祈り」への傾向性はわたしのうちで大切に育てていきたい。だがそれに代わる物としての、「自然、当然としての愛国心」は絶対的に嫌だ。というのが私の意見です。

宗教上理由で君が代拒否

宗教上理由で君が代拒否 / 欠席扱い撤回を / 石狩管内の高校生

宗教上の理由で三月の卒業式での国歌(君が代)斉唱を拒否し、式に出席しなかった石狩管内の道立定時制高校の在学生(17)が、学校側が「欠席」扱いにしたのは不当だとして、学校に撤回を求めている。「日の丸」「君が代」実施をめぐり、生徒が学校の対応に抗議するケースは異例。生徒に「式に出席しない権利」は認められるのか。また、生徒が「出席できない」と申し出た場合、学校はどんな対応ができるのか。今回のトラブルは、そんな問いを投げ掛けている。

 抗議しているのは、宗教団体「エホバの証人」を信仰する男子生徒。

 同校は式の数日前、在校生に対しホームルームで、国旗・国歌の掲揚、斉唱を実施する方針と同時に憲法で保障された内心の自由を守るため、「歌う、歌わない権利」「立つ、立たない権利」があり、「それによって不利益を被らない権利」があることを説明した。

 生徒は副担任の教師に信仰を打ち明けた上で「出席できない」と申し出た。「君が代の歌詞が教義で禁じている偶像崇拝に当たる。自分で歌わなくても、聞けば音楽が耳に残ってしまうので、その場にいたくなかった」と訴えている。

 副担任が、国歌斉唱終了後に入場できるよう受付係をするなどの方法での参加を提案したが、生徒は「これを受けてしまうと、来年も再来年も同じ事で、何の問題解決にもならない」と拒否、出席を見送った。

 生徒は「学校が式に出席できない状況をつくつているのに、事務的に欠席扱いと処理されるのは、納得できない」として、「欠席」扱いの撤回と同時に、来年以降の配慮ある対応を求めている。

 これについて、校長は「一人のために国歌斉唱をやめることはできない。欠席した生徒は規則上、『欠席』以外には扱えない」と従来の対応を変える考えがない意向を示し、今後については「生徒と話し合い、学校の考えを理解してもらいたい」としている。

 しかし、副担任は「公立学校はどんな考えの生徒も行事に参加できるよう配慮すべきだ」と反発、同調する教員も多い。生徒は札幌弁護士会に人権救済申し立てを行うことを検討しており、学校は対応にゆれている。              

                    ( 2005年4月10日 北海道新聞 朝刊)

以上新聞からの転載。

無宗教と無個性が特色の国

日本という国は、島国でほぼ単一民族、無宗教と無個性が特色の国であるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/tetekei/20050410/p1

全く間違ったことを偉そうに書かないでください。

中世までの日本は、おおざっぱにいって神仏混淆的な宗教風土に生きていました。日本史で大きく取り上げられる鎌倉新仏教は、西欧のプロテスタンティズムに近いとも評価できるほど個人として宗教的実存を深めていきました。

江戸時代にも仏教や神道は衰退したわけではありません。

 明治後期、教育勅語体制によりさまざまな宗教を国家神道的なものに統合して行こうとする試みは、昭和の総力戦期に一旦成功したと言えます。

そのことが、保守が何年も政権を担当し続けたり、天皇家が1400年の歴史を持ってたりするのに繋がっているといえますね。つまりこれは、日本人が本来愛すべき日本の国民性で、この価値観を基準として考えることが重要だとおもいます。

 天皇家の1400年の存在を、「単一民族、無宗教と無個性が特色の国」なんて元ネタは誰か知らないが全くの誤謬と結びつけて、連続性、同一性だけを強調しようとする理解は誤りです

君が代の強制は、メチルアルコールのような人工的な質の悪い宗教性の強制であり、無神論者である私には耐え難いものです。