わが家では桜が咲きました。
3/19 22時
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君が代問題の続き
# index_home 『お考えに反対するものではありません。ただ、少し危惧しなければならないと思うことがあるので書かせていただきます。「君が代日の丸は、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディア」と規定すること自体が、君が代日の丸問題は「寛容」や「信教の自由」に類するものではなく「政治的統治」にかかる問題だと結論づけるための論理を提供することになるのではないかと思うのです。国家は「想像の共同体」であり、だからこそ「想像」させる媒介(メディアみたいなものですかね)が必要である、それこそが…という論理に。私がロックの論を読み違えているのか、深読みしすぎなのかはわかりませんが、如何でしょう。』
(野原)hikaruさん 興味深いコメントありがとう。
(えーと、この問題については「書きながら(柔軟に)考える」というスタイルを取りたいと思っています)
3.「君が代・日の丸」問題は、些細な問題のようだが、わたしたちの国家(state)が、「信教の自由」「寛容」を認めるかどうかの問題だ。
には賛成する立場での意見と受け取ります。
君が代は単に国歌であるに過ぎない、宗教的あるいは政治的色彩はない、というのが現在の当局見解です。それに対し、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディアであることは否定できず、それを強制することは「広い意味の信仰の自由」を侵すと主張したい。
国家に対する尊重の念というものは否定できない、とする*1。そうすると、「魂と国家を結ぶ重要な媒介」というだけでは国歌を否定できない。君が代が持っている質が問われる。国歌としての君が代は、近い過去において戦争中の「国家総動員体制」を支える重要な部品だった。そして歌詞を変えるとかの断絶の作業を経ることなくただ時間が経ったというだけで復活してきているものにすぎない。というわけでわたしは君が代を否定する。
えーと、hikaruさんに対する議論をうまく組み立てられないな。
「君が代日の丸は、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディア」と規定すること の是非が論点ですね。君が代日の丸は過去、魂を国家へ向けて総動員していく強力なメディアだった。現在そうではなく、「軽い」ものとして浸透させようとし成功している。だが「軽い」のは見かけだけで重いのが本質だと私は思う。したがって重要性は現在もあるとわたしは思います。
君が代が軽い物であるなら、拒否する論理を組み立てられないように思うのですが。如何でしょう。
「政治的社会は、ただ現世における事物についての各人の所有権を確保するためだけに、造られたもの」だ、云々のロックの思想を検討することはここではしません。
*1:国民に教育を受ける機会を与ることを援助する国家を、わたしは尊重する。
で、俺の時代に至るまで、基本は「新左翼は日本帝国主義自立論」であって、また、80年代のバブル期だったので日本も外国にガンガン資本投下して、外国の安い労働力を搾り取るようになっていたわけで、「日本帝国主義」という言葉にはなんの違和感も持たなかったわけだ。
然るに、この小泉政権のアメリカ帝国主義への従属ぶりはどーよ、という問題に突き当たったのが、アフガンーイラク戦争の過程である。アメリカ合衆国は対イラク開戦ですんげえ国際的に孤立を深めたわけだが、その中で率先してブッシュの屁のにおい嗅ぎにいってたのが小泉である。
「・・・・・・オマケだったのか・・・・」という衝撃が我々の中にはあった。
衝撃とまでは言わないが、今頃になって従属だったのか、という思いはわたしにもありましたね。
# index_home 『なんだか私が混乱させてしまったみたいで申し訳ありません(^^;
えーと、なんだか私の方が読み違えたようです。野原さんが「個人の魂と国家を結びつける重要なメディア」と規定されたのかと思ってしまいました。それとは反対の立場なんですよね?誠に申し訳ないです。
私は、たぶん「信仰の自由」というよりは、普通に「思想信条の自由」ということでいいような気がします。日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重メディア」だと規定付けられるという「思想信条」。その思想信条自体に、自分は反対する立場であると。それを認めるか認めないか…が「寛容」の話になっていくのかな。と。ただそれを「思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として「思想信条」ではないとする人たちへの論理として、ロックの論が応用できるということなのでしょうか。
「信仰の自由」で解くなら、むしろ靖国問題のほうかなと。あれは単純に神道だから云々というよりは、その存在の歴史的経緯や祀られている神を神として崇めることを肯定できるか出来ないか、肯定しないものを排除する論(しばしば『非国民』とでもいいたげな言説が登場しますよね)は、どういうことかというような話だと思うので。と、話が飛躍してしまいますね。うーん。』 (2005/03/20 23:25)
# hal44 『はじめまして。
ロックが異教徒に対する寛容及び信仰の自由を説いたのは、‘信仰は個人に於ける魂の本質であり、外部からの強制によって転向を促すのは不可能である。転向するものは魂に嘘をついているのであり真の転向というのはあり得ない。よって宗教弾圧は無駄である。下手に弾圧をして敵意を増大させるより、異教徒には寛容に対処することが社会的に得策である’というの議論が根底にあってのことでした。
つまりロックおいて信仰心とは外部から変えることの出来ない本質的なものでありそれが故に社会的な規制は及ばないという理屈ですから、この手の本質主義を教育問題でのあるところの君が代日の丸問題に持ち込むのは、かなり危ない議論に成りかねないと私は思います。愛国心が信仰心と同価に扱われ、本質化されることになるからです。
私が興味を持ったのは、実はHikaruさんが言う、国家が「幻想の共同体」であるということを前提としてどのような議論が愛国心に関して可能かということです。ロックが想定した本質普遍的な人間主観ではなく、日々日常の中で、日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観を想定した議論が必要ではないでしょうか?
そのためには、「愛国心」について、考えなければなりません。
個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが、そういう人も確かにいるからよくわからない。失礼。』 (2005/03/21 03:56)
(野原燐)
hikaruさん こんにちは
hal44さん はじめまして
「それを「信仰や思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として」(生徒に対してだけではなく父兄にたいしても)強制することが、日本中で行われてきた。もちろん「強制ではない」という言い訳の下に。これに対してどのような論理で対抗していくのかという問いに出会ったわけです。
この問題の出発点は、あくまで野原が子どもの卒業式に出たところ、式の冒頭「起立」「国歌斉唱」という命令/時間にであった、という事実にあります。一人の市民としては、君が代とかに批判的な考えを持っていたとしても、なんのこっちゃと思いまあその時間さえやり過ごせば、「わが子の卒業を祝う」という本来の目的に添って卒業式を体験することが出来るわけですからまあ大抵はそうするでしょう。わたしの場合は、たまたま2年ほど前から「反ひのきみ」というMLを取っていて、そこの人々の思想に近いというわけでも必ずしもないのですが、君が代とかを強制したがる公務員というものに強い敵意をもっていました。そこで、君が代の時は、「座る(もちろん歌わない)」という態度を取ろうと行く前からだいたい決めていました。あるグループにおいてある反応の仕方を学習していたのでそのとおりにした、といえます。そうしたところで、生徒やましてや教師に比べると、なんてことないわけですから。君が代拒否は一定の形に形成されてきた文化であるわけですね。
1945年3月段階でさっさと降伏していればよかったのにそうしなかった責任を今からでも追及しなければならない、というようなことをこの間、書いてきた手前もあり「座る」ことにしてみました。
今日はスワンさんの文章をはじめいろいろ読んでみたけれど、うまく意見がまとまりません。
続きはまた書きます。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050320#p1
君が代をめぐる諸問題
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p3
靖国問題のフィロソフィ
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041003
「君が代と日の丸と式典」
スワンさんは、J・ロックだけじゃなく、数世紀間のフランス、アメリカの動向にも目を配りつつ論じている。
一番有名なのはこれかな。
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk195a2.htm
1943USA連邦最高裁 バーネット事件連邦最高裁判決
# swan_slab 『hal44さんこんにちは
ちょっとよくわからないのですが、かりに愛国心が信仰心と同価に扱われ、それは魂の救済の問題だと捉えられたとします。しかしそうだとしても、ロックの制度制度の構想によれば、統治機構は世俗的事項にのみ関わると考えられていますから、たとえどんな形で愛国心を表現しようとも、それが社会公共の利益を害さないかぎりにおいて、寛容に扱わなければならないという理屈になると思います。
そして、もし仮に愛国心の涵養という問題が、公共的関心事項ではなく個人の良心の問題だとするならば、世俗的であるべき公教育(憲法20条)の場において、愛国心教育は忌避されるべきということになるでしょう。
しかし、愛国心とは、自発的結社によってさらに自己実現を目指すべき個人主義的な意味での信仰の問題と同視しうるかといえば、むしろ、共同体(アソシエーション)加入の契約(17世紀ニューイングランドにおいて観念されていたような契約)とパラレルなのではないかというふうに思います。
恐らく、日本においてロックの議論が当てはまりにくいのは、ロックが前提とした宗教的個人主義と宗教的多元社会を日本人が拒絶してきたからでしょう。極端な話、「一億総~」という形で、くに全体がロックが寛容の対象と見定めた結社(アソシエーション)と同視しうるからです。かりにロックの市民社会論が日本において流通、制度化されていたとしても、滅私奉公を是とした日本の社会では、戦前の天皇制はあのように機能した可能性はあると思います。
これを乗り越えるには、フランス的なドグマの革命で用いられた手法、すなわち既成の権威(カトリック)を、特定のイデオロギーの普遍性(自明の真理として事実性のなかに埋め込む、ある種のエッセンシャリズム)を強調することによって打ち砕く、大陸法的なやり方も適合的なんじゃないかという気がします。
しかしその場合、社会契約によってアイデンティファイされる個々人と国家との関係を常に再確認する教育システムが求められることになるでしょう。「我々は理念によって国家に集っているのだ」ということを再確認しなければ普遍的正義の自明性が崩れる恐れがあるからです。この功罪はフランスの近現代史をみればある程度、察することができると思います。
もうひとつは宗教的、文化的な多元的社会を目指すやり方。
日本はどの方向に舵をとるべきでしょうか。
hal44さんは>個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが>とアイロニーを表明します。
その「気づき」は、また別のアイロニーによって「虚妄」とみなされるかもしれない。自己の認識したアイロニーは、表現の自由市場において淘汰され社会に蓄積されない知恵かもしれない。しかし、「現時点ではこう思う」というアイロニーを人々が出しあっていかなければ、真理には到達しない。そのためには自己のアイロニーを主張し、他者の主張するアイロニーを正しくないという機会を十分にもたなくてはならない。それを目的論的に眺めれば、民主主義に資するからだということなるでしょうけれども、動機の面からとらえると、ウェーバーのプロテスタントの倫理じゃありませんが、個人の内的な自律性と自己実現の要求を不可欠の要素とすると思います。
例えば、クェーカーの教義は特定のドグマに毒されている、あの教派の洗礼の考え方はおかしい、あの集団のなかにいると不幸になると誰がが「気づいた」とします。しかしロックは、そんなのはある意味で自己責任だというわけです。ロックはそれ以上のことはいわない。しかし、この個人の尊重の考え方が前提になくては民主主義は成立しえなかった。私見ですが、ロックの寛容書簡の読み方としては、現代の民主主義と人権に関するエッセンシャリズムにどの程度の射程をもっているかという観点から読むようにしています。
>日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観>hal44さん
についてちょっと雑然と感じることですが、愛国心というのは、結局、共同体の自己保存に関する態度ということだと思うのです。フェチということではなく。そこで「正しい愛国心」と「不正な愛国心」という本質主義的なものがやっぱり観念されざるをえないのだろうか、そんなことを悩みます。刑法学でいう行為無価値的な発想ですが。
例えば、私たちが自ら、イデオロギーについて社会学的なアイロニーを認知しえた(気がついた)とします。例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。
その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。
ひとつのやり方は、戦後のドイツでみられたやり方で、事後的に、実質的正義の立場から、過去の”間違った観念や価値観”を徹底的に糾弾し尽くすという方法。例えば当時、ナチスドイツで、合法的だと思い、愛国心から夫の叛逆を密告した妻の行為を事後法によって断罪した。戦後ドイツにおいては、自然法の再生というスローガンのもとに積極的に罪刑法定主義(これも一種の自然法)が無視された経緯があります。この自然法への回帰は、日本国憲法にも色濃くみられ、国民主権は「人類普遍の原理」であり(前文)、人権は「侵すことのできない永久の権利」11条、97条とされ、憲法的価値観の相対化を拒絶します。
これは法実証主義への反省の意味をこめていると理解されることが多いのですが、しかし、ナチスの犯罪は、法実証主義的配慮から自動的に行われたというよりも、当時信じられていた実質的正義(あるいは科学)の観点から虐殺が正当化された側面があります。また日本を空爆せんとするアメリカの兵士たちが地上にいる無辜の人たちの姿を想像し、自らの不正な行動に「気がついた」としても、自らの不正と折り合いをつけることができたでしょうか。
実質的正義の見地から、「悪い行為」を断罪するというやり方の功罪についてもう少し考えていきたいと思っています。
邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか。この点について、野原さんやみなさんはどう思いますか。』(2005/03/21 16:16)
# hal44 『長くなったので、Swan_Slabさんへの返事此方に書きました。
http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050322』 (2005/03/22 19:59)
# index_home 『swan_slabさんの「邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか」について、私のお答えを申せば「観念しえない」と思います。「愛国心」そのものへの疑問を持つべきかと。hal44さんの文章も読ませていただきましたが、同じようなことを書いていらっしゃると解釈しました(違っていたら申し訳ありません)
昔からよくいわれることに「愛国心」にナショナリズムとパトリオティシズムの混同されるといわれますが、「愛国心」を大衆に求める方々は依然聞く耳を持っていないようにも思えますし、逆にそうしなければ「愛国心」を植えつけられない事情がおありなのだと思っています。』 (2005/03/22 21:15)
# swan_slab 『え~と、hal44さんのところに返信を書きながら思ったんですが、公共の福祉という概念は、戦後憲法においては、明治憲法下の外在的制約的ニュアンスを取り除こう、さらには別の言葉で解釈しよう、という動きが憲法学では強かったと思いますが、こと愛国心については、案外使える概念かもしれないと感じました。
つまり、
>「愛国心」を大衆に求める>index_homeさん
というのは、つまるところ、公共の福祉に完全に合致した生き方の強制と言い換えることができるのではないかと。そう考えたとたん、最近私の+駝鳥+ http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050316についたjuluxさんのコメントの意味が氷解していきました。【合意済みの移転を放置し続けた沖縄県は猛省すべきです。また民主的手続きによって決定された移転に反対・妨害活動を行う運動家は民主主義の敵】と述べた彼/ 彼女の背後にある思想がわかるような気がするのです。』 (2005/03/22 23:33)
# N・B 『 お久しぶりです、野原さん、以前の書き込みではひねくれてかつマイナーな書き込みをしてすいません、いくつか感想を書きます、「愛国心」の位置は国によって違うようですね、イギリスとフランスの違いは決して理論だけには還元できないようですし。ロックやバークのような多元主義はイギリスの社会の安定の実質的確保を保証する装置の存在(ロックの場合はむしろそれを作り上げる過程に関与しましたが)という前提があるのではないかと思います、バークにとってアメリカとインドははっきり違うのではないでしょうか。
私が思ったのはこの「実質的確保」という問題が現在の「日本」の不安と結びついているのではないかということです。hal44さんはそれにはやや否定的なようですが、私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。
とするとまず、私たちが共有していることといないことを分けることが必要ではないかと思います。spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。彼の発言は正直ななものだと思います。ナシオとパトリを区別することは確かに必要ですが、彼のように「自明の前提」の機能をなにがおっているかに注意しないとこの区別は意味を成さないのではないでしょうか。スワンさんが、juluxさんのコメントの意味を理解できなかった(むしろそのことに私は驚きました)のもネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。
私は「実質的確保」の確認の機能をなにが担っているからみると、古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、パトリオティズムは実はそのような「機能」の一側面ではないかと思います。そのような「機能」は私たちにもある程度必要ですから、逆に自らがそのような「機能」を何処に置いているかその危険に対してどうやって自覚するかということが必要だと思います。おそらく「実質的正義」
という視点がここで必要になるのでないかと思います。そうなると、「実質的正義」の内実の検討が必要になります。
私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。(ちなみにネットにあふれる「ジャイアニズム」の問題はこのような前提の違いが大きいと思います、自らの二重基準に気づかない、もしくはそれを当然と思うのはある程度これでわかるのではと思います、特に不安に圧倒されていればそうだと思います)
以上延々と述べましたが、現在の私たちと歴史をつなぐあり方としての振舞い方としてと(あえて使いますが)「自虐的」ナショナリストというあり方も可能なのではないでしょうか?「日本」という前提を与えられてしまったものとして自らを見直すことが、唯一の「正しい方法」が存在しない以上必要だと思います、野原さんの立場はそこに近いと思うのはですがいかがでしょう。なお、「自虐的」という位置づけの根拠は先ほど述べた「実質的正義」=「モラル」にあります、この違いが「自虐的」とそうでないものを分けると思います。
また長々と書き込み失礼しました。』 (2005/03/23 06:38)
3/22から23日にも、議論は継続しています。
N・Bさんも書き込みありがとう。
私の方は月曜日から(頭が)不調で論点整理もうまくできません。
(野原燐)
(α)推進派は、日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重要なメディア」であると深く信じており、何十年もかかって「目的」を遂行しようとしている。
(β)ところが、推進派の建前は「国家にとって国旗、国歌が存在するのは当たり前」という論理である。「君が代」の意味や理念を提示し、それによって教導しようとはしていない。
(β’)君が代を支えるべき意味は愛国心であるが、愛国心も理念として提示されることなく、自明性としてのみ語られる。
推進派にこのような矛盾があるため、反対派は、「君が代は宗教的存在だ」あるいはそれに類する命題をこちらの力で立証した上で、それに反論するという手順を踏まなければならず、疲れてしまう。
というような問題点があろうかと思います。
野原は以前から自分の根拠が、アナーキスト であると同時に (アジア風味)ナショナリストである という背反にあるように感じていました。
「戦後民主主義者たちというもの」は、口では平和、国際協調、普遍を唱えながら、身体では日米安保と一国平和主義下の資本主義的消費主義を肯定していた。矛盾を犯していたので、彼らの思想も批判していかなければならないと考えます。
えーと、
「(君が代が)、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディアであることは否定できず、それを強制することは「広い意味の信仰の自由」を侵すと主張したい。」というのが野原の主張です。
それに対してスワンさんは次のように言う。
恐らく、日本においてロックの議論が当てはまりにくいのは、ロックが前提とした宗教的個人主義と宗教的多元社会を日本人が拒絶してきたからでしょう。極端な話、「一億総~」という形で、くに全体がロックが寛容の対象と見定めた結社(アソシエーション)と同視しうるからです。かりにロックの市民社会論が日本において流通、制度化されていたとしても、滅私奉公を是とした日本の社会では、戦前の天皇制はあのように機能した可能性はあると思います。
ロック(世界の名著)は持っているのですが読んでいないし、上の文章が正しいのかどうかは分かりません。ところで、教育勅語体制最大のイデオローグだった井上哲次郎の哲学の基本は、スピノザ(+中江藤樹)だったこと、宗教というものは消滅すべきものだと考えていたことなどを思い出しました。スピノザもロックと同じくらいには政治的にラディカルだったはずですが、役にたたなかったと、いうことになりますか。
これを乗り越えるには、フランス的なドグマの革命で用いられた手法、すなわち既成の権威(カトリック)を、特定のイデオロギーの普遍性(自明の真理として事実性のなかに埋め込む、ある種のエッセンシャリズム)を強調することによって打ち砕く、大陸法的なやり方も適合的なんじゃないかという気がします。
しかしその場合、社会契約によってアイデンティファイされる個々人と国家との関係を常に再確認する教育システムが求められることになるでしょう。「我々は理念によって国家に集っているのだ」ということを再確認しなければ普遍的正義の自明性が崩れる恐れがあるからです。この功罪はフランスの近現代史をみればある程度、察することができると思います。
こうした戦略を取ろうとしても、日本の場合、既成の権威というものが自らその理念を提示することなく、「ただの旗です」みたいに最低限の自明性において自己規定してみせる。そうすると権威を打ち砕く、という論理的パフォーマンスが成立しなくなる。
平和と民主主義、社会主義的な進歩と平等といった方向に個々人と国家との関係を導こうとした勢力も確かに存在した。しかし今は(わたしにも理由が分からないほど)大衆の支持を失ってしまった。
日本思想史において、求心的なものを求めると天皇主義しかないのか? ちょっと宣長とかを読んで考えて見たいです。