釈放

農産高校の逮捕者は、9日釈放されたようです。

文部科学省、教育委員会は法的根拠のない「日の丸君が代の強制」に必死になっているわけですが、組織的つながりがない警察がなぜここまで協力的なのか。石原知事の方針にも副う「日の丸君が代の強制」を自ら積極的に推進したいとする警察官が警察組織内に現れたということでしょう。「上からのファシズム」ですね。・・・

プライバシーを抜き打ち検査

例えば、次のような記事になんとも思わないような社会では個人の自律性を説くなど画に書いた餅である。

警官不祥事防止へ「大切な人」同行 兵庫県警が写真携帯

 現職警官が強姦(ごうかん)致傷や加重収賄容疑で逮捕されるなど、昨年、不祥事に悩まされた兵庫県警が、全警察職員に家族や恋人の写真を携帯させて勤務にあたらせることになった。5日から本格的に実施する。勤務中は常時、携帯を義務づける。抜き打ち検査で所持しているかどうかもチェックする方針。 「大切な人を思えばこそ、仕事もきちんとこなせるはず」という狙いだが、現場からは「犯人を追いつめる危険な任務の時にはちゅうちょしてしまう恐れがある」といった声も出ている。 【04年1月5日 朝日新聞】

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050305#p1

こんな話は全然知りませんでした。「大切な人」などいないという人はどうなるのでしょう。というかそんな言い訳をしなければならないことが情けない。警察官であろうともわたしたちは勤務時間のあいだ職務に専念することとひきかえに給料を貰っているだけであり、存在丸ごとを組織に預けているわけではない。そうではないアプリオリに支配される世界に徐々に移行しつつあるというわけか?

こころのなか

swan_slab 『>「大切な人」同行

もしいなければ、弘法大師でも十字架でもなんでもいいから”偶像”を崇拝しなさい、悪いことはしないとあなたの神に誓いなさい、みたいな話と結局は地続きになっているわけですよ。自分のこころのなかは基本的に自分自身で区画整理するものですよね。ここまではいいだろう、といった判断が恣意的に公権力によってなされること自体がおかしい。

なのに、

「現場からは「犯人を追いつめる危険な任務の時にはちゅうちょしてしまう恐れがある」といった声も出ている」という、ある意味、問題の本質に無自覚な問題提起の仕方に私には不気味な傾向に感じるのです。

憲法問題を中心にブログをかきはじめたのは、この記事がきっかけでした。』

弁護士滝本太郎さんのブログ

うし 『弁護士滝本太郎さんのブログの記事を紹介します。

私達が愛するおまわりさんのイメージとはかなり違う感じです。

ビラをまく側と批判される側のイザコザはよくあることなのに、

警察も、もうちょっと違う対応が取れないものなのでしょうか。

「罪刑法定主義・警察とは」

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/3/trackback

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/2/trackback

<わたし>のうちの裂け目

岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699 を買った。とても興味深い。

菊地 夏野という方の書評が下記にある。http://www.arsvi.com/2000/031200kn.htm

以下 第三章*1の(メモになっていない)メモ。

 従軍慰安婦といった話題を聞かされるときに、ひとは「うんざり」、わたしの自由が脅かされているという反応をもってしまう。そのことを岡野は自分に即して執拗に語る。わたしとは「何ものにも先立つ自由な主体」でなければならない、という西欧の知の根拠にある前提を、わたしもまた無意識のうちに受け入れているのだ。その限りにおいて、過去からの呼び声としての責任は、「振り払わなければならない亡霊」としてわたしにとってあらわれる。*2

 すべての個人は自律的な一個の人格であるかのように扱われなければならない。もし、契約書があったからといって、そのとき隣の部屋で銃を持った兵士が待機していたかもしれない。そうであれば当然契約書は無効である。しかしながら私たちの社会は契約を基礎にしている。つまり契約書があればそれが裁判で無効とされない限り有効であるのだ。契約書に小さいとは必ずしも言い切れない血痕がついていた場合はどうか。わたしが騒ぎ立てないかぎりやはり契約は有効だ。だがわたしが騒げば無効になる可能性はある。*3現実の他者は常に自律的な他者ではない。*4最もコストを掛けずに処理していくべきゲームとして現実を捉えるのは確かに時間の節約にはなるがそれだけだ。そうではなく、「現在何が欠けているのか、あるいは、何が排除されてしまったのか、何が残余として存在し続けているのか」*5を問う余地は必ずある。

 自由が責任に先立つという前提が<わたし>という同一性を構成し守っている。だが同一性とは錯覚によって守られているに過ぎないのではないか。世界よりもむしろ<わたし>のうちに「裂け目/切断」がある、その可能性を認めなければならない。

 わたしたちはむしろ特定の物語と主題の下に主体として認められているだけだ。自由があるとすればその条件を問い返すことのうちにしかないのだ。

「<わたし>の内部で「すでにあったもの」と「欠如しているもの」の<あいだ>を配慮することが、他者と自己との<あいだ>を配慮し、より暴力的でない関係性を他者と築くことへと繋がっている」*6のだ。

 ところで、3/6に掲載したように、松下昇の発想の根拠には、「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」という強いベクトルがあるが、これは未だ無いものへの変換であるため分かり難いものである。上に書いたことはこれへの解説にもなっているだろう。

*1:<わたし>の自由と<われわれ>の責任

*2:cfp158同上

*3:以上、契約書の話は岡野の本にはない。

*4:ニッポン放送やNHKのようなエリートサラリーマンでさえ自律的でない。

*5:p168同上

*6:p171同上

世界のじくじくした縁(へり)

「世界のじくじくした縁(へり)」という題の文を書きたいと思っている。

 私と世界は自明のものとして私に与えられている。私が健康である限り世界も健康である。語りうるものだけが世界である。あるいは語りえないものはしかるべき祭壇におさまっている。ものはあるかないかのどちらかであり、あるともないとも決められないものはない。

 そのような世界像が果たして正しいのかどうか、を問いたいのだ。そうではなく、世界の縁(へり)はつねに揺らいでおりじくじくと滲んでいるのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050212#p1 で「素顔は差延する」という奇妙なタイトルで、あるところである人が死んだ話を書いた(コピペした)。ある人とは誰か。ある若い妊婦と書いてあったがいまは名前は思い出さない。

「わたしは彼女を思い出さない。」この文章はパラドックス(成立しえない文)である。対象が特定できたとすればそれは思い出したということであり、「思い出さない」は虚偽になる。彼女という言葉が発せられた以上それはなにものかを指しているわけですから、「対象が特定できなかった」場合はありえない。忘れたものはその対象を名指しえない。

 ある若い妊婦の話は、もちろん私に何の具体的関わりもない。あるメルマガで流れていたものをたまたま引用したのだ。それを引用した動機は二つ在る。一つはインドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人、そのことにわたしたちは関心を持つべきだという社会派としての関心。もう一つは、ある女性の死(殺されたこと)が私に関係あるのかどうか、という哲学的問いの素材としての関心。前者を否定できない以上、後者を取り上げるのは不謹慎だ。だがわたしの問題意識は2/12の段階でも後者に比重があった。

「ある人の死(殺されたこと)」とは私にとって何だろう。いまこのブログは二人の死者の名前をヘッダに掲げている。死者の名前を何に利用しようとしているのだろう。死者は決して語り得ない。したがって死者の名前に言及することは彼女のものであった何かをわたしが横領することであり暴力的である。だがヘッダの二人の名前は私によって選ばれある効果のためにそこに置かれている。わたしは幾ばくかの関係を彼女たちの名前との間に結んでいるのだ。また、id:noharra:11001201に、トマサ・サリノグ、朴永心という二人の女性の名前が証言と共に載っている。名前ではなく「従軍慰安婦」というおかしな普通名詞で呼ばれるだろう彼女たち。国際法廷とは普通名詞ではなく固有名としての彼女を奪還する闘いでもあった。この4人に対しては「あなたを忘れない」との思いを肯定する多少の人々の集まり(それぞれ別の)があるだろう。だが東アチェ郡の彼女について、「あなたを忘れない」と思っている人はほとんどいない。わたしにしてもそれほどの思いはない。そうした状況は是正されるべきだ。インドネシアにおける国家犯罪に対し、日本国家と国民はイスラエルのそれに対するよりずっと大きな責任を持っている。そのことは事実であり、皆がそれを自覚すべきなのだろう。

 一瞬通り過ぎたがそれきり私とは何の関係もないあるニュース。わたしが私である限り、知っているものだけでわたしは構成されている。というのは嘘である。世界の果てには幅広いじくじくした領域があり、そこではたくさんの殺人やレイプがある。そうであるのにわたしたちはそれを深くは気にせず生きている。2/12に書いた死者とわたしとの間には関係は成立していない。いや正確には「成立している」と記述する必要はない、とわたしは思う。

 わたしは奇妙なことを言おうとしているのだ。なんども書くが、「インドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人」としての彼女についてはわたしたちは関心を持つべきだ。だがそのようにその彼女をわたしたちの価値の内側に引き入れたとき、その外側にじくじくした領域は残る。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

そこにいる/そこにいない慰安婦

 「重大事件の犠牲者が目の前にいるときには、人は犯罪者の側ではなく、まずその被害者の立場からその行為の意味を語るべきである。」嶋津格氏は、「慰安婦問題の周辺」という論文でこう書いた。皇軍の立場=文書証拠がない云々を批判する文章なのだと推測する。岡野八代はこの「重大事件の犠牲者が目の前にいるときには、」という条件節を検討し批判する。

むしろ、ここで問われるべきことは、「重大犯罪の犠牲者」は目の前にはいないのではないか、ということなのだ。右の文章は、じつは元従軍〈慰安婦〉にされた女性について語っている論文の一部であるがゆえに、なおいっそう「目の前にいるときには」と語ってしまうことが、彼女たちの立場からはおよそほど遠いことが分かるのだ。いや、わたしはこのことばに、一種の暴力さえ感じる。なぜなら、自分たちの身に何が起こったのかについてようやく語り始めた彼女たちには、五○年近い年月が必要だった。その間、わたしたちの「目の前に」彼女たちは存在しなかったのではなかったか。さらに、何が起こったのかをまだ語ることができない女性がいることも想像に難くない。そして、元従軍〈慰安婦〉にさせられた女性たちの多くは、もうわたしたちの「目の前に」はいないのだ。(p185『法の政治学』isbn:4791759699

 嶋津格は、従軍〈慰安婦〉問題に対して、「法的な祝点」を導入し、既存の犯罪類型にこの問題を当てはめようとする。しかし、現在わたしたちが「暴力」をめぐって直面している問題は、逆に既存の犯罪類型から「排除」されてしまうがゆえに、自分が被った「不正」を告発することができない、あるいは、暴力の被害に遭い、「痛み」に苦しめられているがゆえに声を発することができない人が多く存在する/してきた、という事態なのだ。つまり、わたしたちが必要としているのは、ある出来事が既存の犯罪類型に当てはまるかどうかを問う作業ではない。それは、彼女たちの個別具体的な被害に充分応えることにならない。彼女たちに何が起きたのかを、正当に検討することにはつながらない。そうではなく、わたしたちはまず、暴力を被ったひとびとは、わたしたちの目の前にはいない、見えない、彼女たちの声は聞き取れない、といった事態がなぜもたらされるのか/もたらされてきたのか、について思考を巡らせなければならないのだ。(同上)

 ある慰安婦は法の光の下に自らの声を登場させるためにわざわざ海を越えてやってきた。このブログでも二人の声の一部分は引用している。わたしたちは対自的に存在しているもののことをしか考えられないから。わたしたちは慰安婦問題がいくつもの偶然によって問題として浮上したからこそそれについて論じているに過ぎない。わたしたちがそれについて知らず(当然論じなかった)50年が存在した。その間も当然当事者たちにとってはそれは苦悩として存在し続けいたのだが。一人の慰安婦がそこに居た。彼女が沈黙で過ごした50年、そして同様の体験をしながら語ることなくすでに亡くなってしまったひとたち、また同様の体験をしながら沈黙を守り続けることを選んだ人たち、巨大な沈黙の重圧をくぐり突き破って<奇跡のように>そこにいるのだ、と理解されなければならない。

「わたしたちはまず、暴力を被ったひとびとは、わたしたちの目の前にはいない、見えない、彼女たちの声は聞き取れない、といった事態がなぜもたらされるのか/もたらされてきたのか、について思考を巡らせなければならないのだ。」そのとおりである。

 「わたしたちが必要としているのは、ある出来事が既存の犯罪類型に当てはまるかどうかを問う作業ではない。」ただ、この断言はちょっと性急ではないか。「既存の犯罪類型に当てはまる」場合は声を大にしてそれを訴えるべきだ。「犯罪類型に当てはまる」かどうかには、彼女がサバルタン(自己を表象しえない者)であるかどうかが大きく影響する。皇軍に向きあって「ジュネーブ条約」云々を口にすることができたオランダ人女性に対しては、東京裁判当時においても被害が認定されている。自己の被害を法的言説に変換しさえすれば「犯罪類型に当てはまる」と主張するのは容易だろう。あとは支援者がそれを支え、裁判官に認めさせればよいのだ。

わたしたちはは言葉を破壊する暴力を前に無力である必要はない。むしろ、わたしたちに求められていることは、沈黙を課す暴力や、<わたし>とあなた(たち)とのあいだに存在する豊かな世界を一つの物語へと切りつめてしまう暴力に抗して、いかに小さな声と沈黙であろうとも、<わたし>と他者のあいだに存在すべき豊かな文脈を紡ぎ出そうとすることばとして、それらを正当に扱うこと doing justice なのだ。(p205同書)

彼女の紡ぎだす言葉の流れは魅力的だ。だが法とは「豊かな世界を一つの物語へと切りつめてしまう暴力」に限りなく似たものではないのか。ここで取り上げた第4章にはその答えはなかった。

3/10と8/15のあいだに

 3/2のコメント欄から。

id:bluefox014 『>nohharaさん

東京には東京大空襲を記憶する平和公園も都営・国営の博物館も存在しない、という事実がなにかを象徴していると想います。土地がないわけではなく、例えばまさに空襲の現場だった両国国技館の横に東京都の土地がありますが、そこには江戸東京博物館のでっかい建物が建っています。TBの方法のご教授有り難うございます。』 (2005/03/08 03:04)

id:index_home 『コメントにお返事いただきありがとうございます。さらにコメントするのはここで良いのでしょうか?

>被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。

これは、私も同じように感じます。こちらで書かせていただいた被害と加害の受け止め方については、id:index_home:20050310#p2でも少し書かせていただいております。(勝手ながら、一応トラックバックもさせていただきました)

>南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。

同感です。』 (2005/03/11 16:10)

たてまえとしての反戦平和主義を隠れ蓑にして、「戦争がいけなかった」として8/15までの大小の権力の責任を詳細に検討していく営為をネグレクトしてきました、戦後日本は。「15年戦争ともいわれる戦争のすべてが悪だった」という史観を仮に否定するとすれば、次にどう考えるのか。

 普通に考えれば、もはやどんな反撃もできなくなっていた3/10東京大空襲の時点で戦争は止めるべきだった。そうしなかった責任を日本人は追及確認してこなかった。そして、自衛隊海外派遣の後もそうした歯止め抜きでナルシズムにふけりたいひとの方が多いみたいですね。

 「(対アジア)排外主義」を昂進させ取り返しのつかないところまで行く->「アメリカ」を敵に据え直し「アジアの大義」の原則に立ち返る(つじつまがあったのでほっとする)->世界中を敵に回し敗北する。。このサイクルを繰り返すのでしょうか?