1944.8.11の少し前、二人の皇軍兵士が脱出について相談しています。
今日でもほとんどの兵隊が「グアムには救援が来ない」「日本は敗ける」と七、八分まで諦めている。しかし、あとの二分、三分の未知数がいざとなると問題である。「じゃ、脱出して生きよう」ということになったら、僕と星野上等兵がそうであったように「ひょっとして救援が来たり」「日本が敗けなかったり」したらという不確実な部分が急に大きな力となり、重石となってきて、それをはねのけるのは容易ではない。
都合の悪い兵隊をさけ、内密でそういう話をもちかけることは、いまの状況下では至難だった。事をあせって無理押しすれば、企図がばれる危険が多分にある。元も子もなくなるようなことは、避けたかった。
二人だけで決行するよりほか仕方なかった。残った戦友から足倒され恨まれることは、目をつむってこらえよう。力のある者は、あとからついてくるだろう。「あとで騒ぐだろうなあ」と星野上等兵がいった。「高橋少尉や渥美准尉などは、何といったって問題じゃないし、むしろ、僕はいまこそ“見ろ”といってやりたい気持だ。ほかの連中に悪いと思うが、この際どうにもならない」
しばらくしてから星野上等兵がいった。「おふくろに悪いような気がして仕方がないんだ」
「裏切るような気がして?」
「理屈では分かっているんだよ。心の底では、どんなことがあっても息子が生きていてくれたほうがいいにはきまっている。だけど、そのためにおふくろが世間にたいして重荷をしょうことになると、かわいそうでならないんだ」
「世の中は変わるよ。世間の道徳観念は、急に反対のものにはなれないだろうが、少なくともいままでのようなことはなくなるよ。それでも悪ければ、日本へ帰らないようにするんだね。死んだ人間として生きるんだね」
この議論は、いちど解決できたものの蒸し返しだった。しかし、世の中が変わるという見通しが、僕の場合よりも星野上等兵の場合は非常に稀薄なようだった。どちらかといえば僕は、安価な、楽観的革命論に落ちがちであり、星野上等兵は、現状の社会組織から考えが脱却しきれないものがあった。星野上等兵に聞かれるままに、僕の考える新しい社会のアウトラインを説明した。彼は自分の母にたいする感情を、それで濾過しようと努めているようだった。
認識票と印鑑を土に埋めた。グアムの土に。兵隊としてのおれは、あるいは、日本人としてのおれは、ここに埋まるのだと思いながら。
ついに最後の乾パンが星野上等兵の雑嚢からとり出された。一枚の乾パンを二人で半分に割って口に入れた。
「これでおしまいだよ」
星野上等兵は僕に、そう念を押した。
(p356-358『私は玉砕しなかった』横田正平 中公文庫isbn:4122034795)
この翌日かに彼らは走り、米軍に白旗を掲げ捕虜となる。捕虜としての待遇は良かった。皇軍では考えられないような贅沢な缶詰の食事。だが話はそこで終わらない。最後の乾板を二人で半分に分けて食べた友星野上等兵。「彼は投降してから急に陰鬱を超して、とげとげしくなっていた。僕にたいしても容赦なかった。母への未練が、彼をさいなみ、投降を後悔させているのではないかと想像した。」
1947年3月横田は帰国できた。その後新聞記者に戻り、1985年に亡くなるまで活躍し続けた。だが彼は投降にまつわる上記のような話は一切口にせず、また再三の原稿依頼にも応じなかった。
“星野上等兵のおふくろ”は横田が死ぬまで彼を抑圧し続けたといえるのだ。
横田さんがグアム島で白旗を掲げて投降し、捕虜となって敗戦後ハワイから帰国した話は新聞社のだれもが知っていた。私も本人からではなく、だれかから聞いた。しかし、どんなに親しくなっても、いや、親しくなればなるほどそのことは話題にできなかった。(略)
戦争が終わってまだ一二、三年後のことである。(略)「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は理屈では莫迦げたことであっても、多くの死霊に囲まれた当時の人の心の片隅には澱のように残っていた。(同上書、石川真澄氏解説より、)
仮に思想的批判があったにしろ同じ釜の飯を食った戦友である。生きるも死ぬも一緒という絶対的連帯がなければ軍隊というものは崩壊していくだろう。皇軍が絶対悪であるとすれば話は別だが、そうでない限り横田氏の行為を潔白と強弁することはできないだろう。「日本が日本である限り彼は裏切り者だ」。だが「日本は日本であり続けている」のだろうか。日本は負けた。戦陣訓を掲げた日本は負けたのだ。であればなぜ戦後の日本に亡霊としての“星野上等兵のおふくろ”は生きのび続けるのか。たしかに「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人と、投降者との間には絶対的な格差がある。だが「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人たちは投降者を敵視し裏切り者と指弾するだろうか。一年間ジャングルの中でトカゲのシッポなんかを食いつないで生きのび餓死寸前で生還した兵たちは、自分たちをそういった境遇に追いやった将校たちを自分たちで糾弾していくことはなかった。だがどちらか言えばそういう気持ちだったのではないか。投降者に対しては「上手いことやりやがって」という憤激はあったとしても、自分のなかにもそういう選択肢はあったはずであり批判を口にするまではいかないような気がする。戦場に行かず自ら手を汚さなかったものたちは、陰湿な非難をする。横田は確かに裏切った。だがきみたちもまた戦争体制への翼賛からGHQ翼賛へ消極的であっても決定的な転向をしたはずだ。大勢に従ったことは言い訳にならない。膨大な兵士たちは何の為に死んでいったのか?それは「日本という同一性」のため、などではないはずだ。逆に少なくとも一部の兵士は「日本という同一性」のために死ななくてもよい死に追いやられた。