ナターシャさん母子の行方と面会についての提案

ナターシャさん母子の行方と面会についての提案

 9月9日の公判の後で喫茶店で話し合っている時に次のテーマが出ました。

①二人の娘さんたちをタイの施設で育ててもらうか、日本の施設で育ててもらうか?

②実刑判決の前ににナターシャさんと娘さんたちの身体のふれあう面会は不可能か?

 今のところ一傍聴人に過ぎない私が提案することではないかも知れないのですが、黙っているよりほ何かの参考にしていただくために意見をのべる方がよいと考えました。

①については、もしタイで暮していくとすれば、まだ年令が幼い(4才と2才)段階で帰国していた方がタイ社会にとけこみやすい、という考えと、日本にいる方が支援グループの眼や手がとどきやすい、母との面会も可能ではないか、という考えがあります。

 後者の考えを実現するためには、日本国籍を取ること、今後の長い年月にわたって娘さんたちと共生していくプランを具体的に準備し、ナターシャさんや娘さんたちの了承を得ておくことが不可欠になります。このことを引き受けていく度合でだけ、後者の考えは、支援してきた過程の心情を生かす方法として適切です。ただし、日本国籍を取ることや、今後の長い年月にわたって娘さんたちと共生していくことの大変さももく判りますし、服役を終えた(あるいは仮釈放された)ナターシャさんが強制的にタイへ送還される場合にどうするか、についても考えておく必要があります。

 前者の考えをとる、とらざるを得ないとしても、後者の考えをできる限り生かそうとしつつ、そうしていくのがよいと考えています。また、タイの施設の実態や、親族との関係についても現地へ行かれた人から詳しい情報を伝えていただき、かりにタイへ娘さんたちが戻った後も私たちの支援の眼や手が届くような態勢をとっていくことが大切です。

 前者・後者いずれの考えも共通の支援の意思に支えられているのですから、充分な討論を経て出される結論には、どちらの場合も私は賛成です。

 ②については、現在の拘置所の規則推持者は、まず認めないでしょう。唯一に近い可能性は、公判の法廷で裁判長の指示により被告席での面会を認めてもらうように弁譲人から申し出てみることでしょう。判決を含めて公判は、あと二回しかありませんから、至急に弁護人へ提案してみませんか?できれば、次回(10月11日)の弁論(被告人のために有利な事情の提起、検察官の論告の批判)の間はずっと娘さんたちが被告人の傍に座っていてもよい、という許可が出れば一番よいのですが、それが無理でも、開廷直後または開廷直前に、手錠~腰縄で拘束されない状態で母子が身体的にふれつつ別れのあいさつをすることは認めさせたいものです。次回(10月11日)の法廷で弁譲人から突然申し出ても、裁判長は当惑して拒否するでしょうから、事前に何度もねばり強く交渉していってほしいと切望します。

 ②に関連して私からのべておきたいことがあります。(これを③とします。)それは、娘さんたちにとって最初は衝撃であるかも知れないとしても、母の置かれている状態を説明しておく方がよいのではないか、ということです。幼い娘さんたちを拘置所へ面会に連れていく時に「病気のママのお見舞いに」というように仮装してきた配慮はよく判りますが、上の娘さんは、すでにおぽろ気ながら事態を察知しつつあるようですし、今後も必ず明らかになっていくことですから、今から明確な説明の準備をしていく必要があると思います。(かの女らにも私が概念集10に掲載した表現をいつか読んでほしいと願っており、それ以前にも、明確な説明の準備に役立てたいものです。)

 娘さんたちには、母であるナターシャさんが「悪いこと」をしてつかまっているとか、罰として何年も刑務所に入るのだというような既成の社会的秩序のレベルで説明しないことが原則であることは、いうまでもありません。大変むずかしいことですが、この試練をくぐることによって娘さんたちばかりでなく私たち自身も、より深く事件を把握し、共闘していくことができるのではないでしょうか。

 私は大学闘争に関違する事件で何度も勾留されましたが、幼い子どもにも正確に事態を伝え、面会に来てもらったり、公判の傍聴に来てもらったりしました。幼い子どもは、大人が思うよりもずっと正確に事態の真実を見ているものです。心をこめて説明すれば、形式的な手錠~腰縄などにショックを受けることなどありません。むしろ、形式的な手錠~腰縄の不当性を見ておく方が子どもたちの将来の生き方にとってプラスであると確信します。

 その他の多くの関連テーマについては、集会の討論過程で直接のべるつもりですが、時間的に特に②が切迫しているので文書にして配布します。

         一九九四年九月二十一日

ナターシャさん母子を見守っている人々へ            松下昇

註-③についてエピソードを二つ…

・拘置所から法廷へ連行される時に通過する場所には「サングラスをかける人は申し出れば許可する。」という札が掛けてある。これは、拘置所当局にとっては人権保護のつもりなのであろうが、同時に、拘置所当局は被告人が「悪いことをして、社会的な視線を恥じるのが当然の存在である」という判断をしていることを示している。警察官が逮捕した人の手錠をタオルや衣服で隠してやる「配慮」も同じである。こういう感性を否定し、超えていくことを私たちの〈常識〉にしていきたい。

・私は、ある時期に東京と大阪で裁判を受けていたので、手錠~腰縄のままで新幹線で往還した。トイレへ行く場合もドアは半開きにしてあり、付添いの看守が見守っている。しかし、私は全然平気で、何度もトイレへ行き、乗客(とくに子ども)の尊敬を含んだ視線を体験した。トイレの中では、出発前にパンツの中に隠してあった食料を取り出して味わい(!)、出ると横の冷却水を何杯も飲んだが、看守は何も文句をいわなかった(いえなかった?)。私はタダで新幹線に乗れて幸せを感じていた。

参考:概念集のp15右頁には、「ナターシャさん母子を見守る会通信」の1頁がコピーされていた。ここ。

p15-16 『概念集・11』~1994・12~

刊行委の註

 この提案は、この形態で9月下旬以降に配布された。提案の①については、予測通り、子どもはタイの施設へ送る方がよい、という結論になった。ただし、支援グループの中で前に保母をしていた人が同行し、子どもがタイの施設に憤れるまでの一定期間、一緒に暮らすプランを立てており、支援グループの代表者である木村氏は日本商社のタイ出張社員であるが、来年秋にタイへ移住し、今後の娘さんたちの成長を見守っていく予定である。①については、きびしい制約を考えると、この展開は最善のものといってよい。

 提案の②については、松下としては、短時間で終了し、結論が明白になる数カ月後の判決公判の法廷での母子の出会いよりは、その前の公判で弁護人が被告人のための弁論をおこなう法廷で具体化し、できれば弁論だけでなく、子どもを抱いた状態での被告人質問をも実現していくことに意義があり、それによって判決にも影響を与えうると考えていた。

 しかし、10月11日の公判までに弁護人5人の意見のズレがあり、支援グループとしては弁護人の方針以上の行動を展開する発想も経験もないため、10月11日の公判での実行は、裁判長との交渉さえも具体化せず、松下は暗い気持で10月11日の法廷に座っていた。ところが、松下の提案や論議が一つの要因となって弁護団の弁論が充実したものになったために、また、それに対応した同時通訳が困難になったために、この日には弁論の半分しか朗読できず、判決までにもう一回公判を設定せざるを得なくなった。このような幸運に支えられて、11月25日の公判で松下の提案を再度具体化する試みが可能になったのである。

 11月25日の公判の経過は、一言でいえば、実現を希望しつつも、前例のなさ故に自主規制してしまう各人の〈ためらい〉の集合が、時間や秩序の柵を越えて母子を出会わせることを不可能にしてしまった。この限界を各人が痛切に感じたことは微かな成果であるが、これに匹敵する闘いの場を各人が自分で発見していく時にのみ、そういえるのである。

 各人は、母子の出会いを不可能にしているのが秩序体系だけではなく、自分の内的な希求と実現方法のズレでもあることに気付き、単にナターシャさんへの同情や、事件の背景への一般的な怒りから支援してきた根拠の浅さを思い知ることになった。私についていえば、プランの提起や法廷秩序との対決の準備だけでは突破しえないテーマとの遭遇であった。今回のプランはナターシャさんと娘さんと日常的に接触し、双方の心に触れうる人でない限り実行できないし、支援者も統一的な方針をもち得ないが、このような条件を前提し、かつ突破していく仮装組織論の深化が問われている。

 今回の問題を69年以来の諸問題、特に武装闘争(の武器や人のドッキング)との対比、女性や子どもが闘争の主体となってくる情況への準備、それを踏まえての69~闘争の未対象化テーマの追求と応用に生かしていきたい。

 子どもたちを被告席で抱きつつ論告批判や意見陳述をおこなうことが不可能であったのは残念であったとはいえ、私たちは今回の限界を突破していくことを深く決意しつつ、ナターシャさん母子と共に闘う日の来ることを切望している。

p17、 『概念集・11』~1994・12~

(上記*1への註)

 11月25日の直前になって、支援グループ内には子どもを法廷へ連れてくるほどに子どもと親しい人がいないこと、子どもをあずかっている養護施設側は裁判所から母と会わせるという文書が来ない限り職員が子どもを連れていくことはできないといっていること、また、それ以前の問題として、ナターシャさん自身も(先に知らせておくと出会いが実現しない場合にシヨックが大きいという支援グループ内の意見で)出会いプランを知らされていないこと、弁護団の統一方針が未定のため裁判所への交渉はおこなわれていないことが判った。これらの問題を討論できる場を設定することさえも困難であったが、松下らは11月19日に別の集会で支援グループの代表者が報告することを知り、さまざまのゲリラ的な出会い方を構想していくことを前提としつつ、自分を含む全ての関心を持つ人々に、次の提起をおこなった。

①実際に11月25日に子どもを法廷へ連れて行けないとしても、また、弁護団の統一方針がなくても、裁判所に対して法廷での出会いを認めるように、出会いに賛成している弁護人から交渉を開始してほしい。

②ナターシャさん自身が自分の言葉で、子どもたちに事件の本質、裁判、予測される実刑と長い別離について説明し、法廷の被告席で出会いたいと意思表示してほしい。これは娘たちの〈法廷〉への意見陳述としても不可欠である。

③法廷で問題とされた外国人を被告人とする刑事事件における通訳・翻訳の重要性と共にナターシャさんの娘たちに事件の本質を伝えていく〈存在領域の壁を突破する通訳・翻訳〉の必要性を、各人が抱えている困難な問題の他者への伝え方に応用したい。

①~②~③への註--この提起が19日の報告者から各弁護人へ届いていなかったことが25日に判明して松下らは愕然とした。弁護人も、被告人が「反省」していることを強調するためか、母子に関しては、刑期の短縮を主張する媒介としてのみ言及した。閉廷後に傍聴者の元保母さんは、「そこまでいうんやったら何で会わしたれていわへんねんて、どなったろかしらんとおもた」と松下に語った。同時に松下は、弁護人の質問に対するナターシャさんの次の発言に衝撃を受けてもいた。「ワタシハ、イツノヒカ、コドモヲダケルケド、リササン(死亡した女性)ハ、ダケナイ」…この言葉を生かしつつ私たちの提起を実現していくことは(不)可能か、と考え続けてきている。

 これまでの経過は、事件の規模を越えて多くの問題を根底からとらえかえす必要を迫っており、11月25日だけでなく判決公判(95年1月31日午前10時)にも直接の出会いが実現しない可能性が大きいとはいえ、私たちのそれぞれが、今回の提起が突き当たっている壁に出会うことこそが、〈ナターシャさん母子〉に本質的に出会うための不可避の前提であり、その壁を突破していく過程でのみ母子の出会いも本質的に可能になるであろう。

 17の右 『概念集・11』~1994・12~

*1:原文では「17ぺージ」

  法廷・続(概念集6との関連で)

  法廷・続(概念集6との関連で)

 概念集10、11でも取り上げたナターシャさんに対する判決公判が1月31日に予定されていたが、1月17日の地震の影響で2月28日に延期された。

 1月31日までの段階では、概念集10~11に記した提起に関連する法廷の〈外〉部での論議のズレの突破に関心を集中していた私は、提起を法廷の〈内〉部へ居ける余裕ないし機会を持てなかった。地震による延期によって、初めて私がナターシャさんと意思交換をおこなう時間と姿勢をつくり出せるようになった意味は大きい。次のぺージ以降に掲載する〈ナターシャさんへの/からの手紙〉を参照していただきたい。それぞれの表現は、まだ〈序〉の段階であるとはいえ、この事件の各当事者、特にナターシャさんによる把握を深化させる契機になっているのはまちがいない。

 2月28日の法廷には、これまでで最も多数の傍聴者が参加し、入廷できない人もいた。私は入廷するナターシャさんの姿を見ていない。というのも、裁判官が入廷する時には、廷吏が「起立!」と号令をかけ、大抵の人(検察官、弁護人は全員)は起立するが、私は起立したことがなく、この日も座ったままだったので、前列の報道陣(13の全ての席が今日は埋まっていた。)の背中が、裁判官と同時に別のドアから入廷してくるナターシャさんを隠したのである。この事実は、マスコミがこの事件の巨大な意味を隠していることの象徴でもあると翌日の記事(このぺージ右に掲載)を読んで感じた。

 判決は一区切りずつ裁判長によって朗読され、通訳が被告人に伝えた。判決は懲役8年の実刑ではあるが、930日(全勾留期間!)を刑期に算入しており、求刑12年から統計的に予測した場合の実刑10年、365日の刑期算入に比ぺると好意的であるともいえる。しかし、それは判決理由で事件の情況性や日本社会の責任に全くふれなかった(ふれることの怖ろしさに気付いた)裁判官の、せめてもの良心の証であるのかも知れない。

 ナターシャさんが退廷する時に一瞬眼が合い、私が手紙に記した法廷での私の指定席?との関連で私を識別したかの女が、ひときわ明るく微笑しているのが印象的であった。かの女は、舞踏を終えたように一礼してそのまま裁判官用とは別のドアへ向かって歩き出してから、あ、しまったというように手錠~腰縄を持ってやや困った表情の看守の方へ戻った。手錠~腰縄を花束のように受け取ったかの女は、ドアの所で手を振って去った。この一連の過程で、かの女は形式的な手錠~腰縄を解体し、超えたのであり、それは、判決の〈軽さ〉にホッとしたという以上に、権力や一般常識による事件把握を軽やかに飛び越えて、これからの監獄の向こうの、確実に子どもたちの待つ未来につながる旅へ楽しさを込めて出立して行く姿勢に対応していた。法廷が、これほど法廷らしくなく輝いて見えたことはない。

註--今後の服役期間は最大限に考えても2000年秋までであり、それまでに仮釈放の可能性も大きい。私たちのカレンダーに2000年の日付が出現した!【G12-12】

 p12 『概念集・12』~1995・3~

ナターシャさんへの手紙

ナターシャさんへの手紙

 はじめて手紙を出します。ほんとうはタイの言葉でかきたいのですが、私は、ほとんどわからないので、日本語でかくことをゆるして下さい。しかし、タイのことばの本をすこしよんで、こんにちわ、ということばだけでもタイのことばでかいておきます。

 わたしは神戸に住んでいるので、1月17日の地震や、それいごの、たくさんの不便さを味わっていますが、元気です。そして、ナターシャさんの裁判の判決が延期されたのを、よい方向へ応用するために、この手紙をかくことにしました。

 わたしは、1年前からナターシャさんの裁判や集会に参加しているものです。木村さんや、青木さんや、牧野さんや、そのほかたくさんの人たちと何度も話をしてきていますが、この人たちのようにはボランティアの活動をしているとはいえません。少しちがったところから、関心をもってみているのです。というのは、私は、1969年いらい日本や世界のたくさんの大学を中心におきた闘争に参加し、そのために職をうしない、いくつかの行為について裁判をうけてきている被告人で、今は外に出ていますが、闘争は何年もつづき、いくつかの留置所や拘置所に出入りしました。1985年と1986年には、みじかい間

ですが、大阪拘置所に入っていたこともあります。そして、いろいろな人が、いろいろな事件で拘置所に入れられ、裁判をうけていることを、じっさいに知りました。

 たくさんの事件の中で、私が、ナターシャさんの事件に大きい関心をもつのは、まとめてかくと、次のような理由からです。

①外国人が、日本の法律とことばで裁判をうけていること。

②タイ人女性が日本にきて、しごとをする時の苦しい面が、タイ人女性にだけ重くかかっており、日本の社会や男性に大きい責任があること。

③弱い立場にあるタイの女性どうしの対立の中で、いっそう弱い方のナターシャさんが、自分を守るためにもった包丁が、きづかないうちに相手を刺してしまったのに、殺人として起訴されたこと。

④二人の娘さんや父親の行方不明などのために日本国籍がとれず、判決のあとはタイへ送りかえされること。

⑤二人の娘さんと、拘置所の面会室ではなく、法廷で、だき上げながら話すようにしてほしい、と私たちが考えていること。

 このほかにもいろいろありますが、このような点に大きい関心をもっています。

 ①、②、③については、弁護士のかたがたが、よくやって下さっていますが、④と⑤については、もんだいが、せまい法律やきそくを、はみ出してしまうため、なかなかむずかしいようです。                   【G12-13】

 ④と⑤については、二人の娘さんが日本に残ること、法廷でちょくせつ話をすることのどちらも、じっさいにはできないだろうと思うと、私たちの力の弱さがざんねんです。ただ、ナターシャさんも、二人の娘さんがタイへもどることにさんせいしておられるようですし、しせつの保母さんや、牧野さんたちも、ついていかれるようですから、これが、せいいっぱいのところかもしれません。また、子どもをだき上げることについても、ナターシャさんが、11月25日の法廷で、「私は、いつの日か、子どもをだけるけど、リサさんは、だけない。」と語って、私たちのそうぞう以上の心の深さを見せて下さっていますから、法廷での出会いがじつげんしなくとも、ナターシャさんが、がっかりすることはない、と思います。ほんとうは、どんなにか、だきしめたいと思っているはずで、私たちは、むねが、しめつけられるような気がしますが…。

 判決の前に、私から、ぜひ、のべておきたいことがあります。それは、ナターシャさんに対する判決が、どのようなものであっても、この事件によって、日本社会のまちがっている面が、はっきりとしめされ、これをかえていこうとしている人たちが出てきていること、ナターシャさんの立派なたいどに心をうたれている人たちがふえていることです。このような動きを、さらにひろげていくために私たちは、これからも努力していきます。

 そして、ナターシャさんの方でも、自分のやってきたことに反省するところがあるとしても、けっして自分を、だめな、わるい人だとばかり思わないで、それいじょうに、日本の社会に大きい問題をなげかけ、日本の社会をよいものにしていくために役にたっているこという誇りをもっていほしいのです。また、そのことを、今すぐにでなくてもよいから、二人の娘さんに語ってほしいと思います。きっと娘さんたちは、わかってくれるでしょう。

 私が、ナターシャさんの事件について書いた文章を二つ、いっしょに送ります。むずかしい字や、むずかしい考えでかいていあると思うかもしれません。それは私の力がたりないためで、もうしわけないことです。しかし、かいてある内容は、私の長い人生と、苦しいたたかいから生みだした*1もので、日本やタイのおおくの人たちによんでいただくだけのものはもっているはずです。まず、ナターシャさんに、そして成長された時の娘さんたちにもぜひ、よんでいただき、いっしょに問題のかいけつをめざしたいと考えています。

 できれば、この手紙が、私の文章と共にとどいたかどうか、〈ナターシャ〉という名前をタイのことばでどうかくか、だけでも返事してくだされば、たいへんうれしいです。

   1995年2月11日  神戸市灘区    松下昇

ナターシャ・サミッターマン さま              【G12-14】

ふりがな付き原本は、ここ。

p13-14 『概念集・12』~1995・3~

*1:原文「産みだして」だが誤植と判断した。

ナターシャさんからの手紙

松下さんへ

おかわりありませんか?今こうべしの方は

不幸こう人が沢山いますね,本当に可哀相で

気の毒だと思っていますがその時そとにいるなら

お握りくらい貧しい人達にもっていってあげたいと

思っていますが今の私には祈る事しかできません。

本当にごめんなさい。

そして突然お手紙とバプレットが来てびっくりしました

ので私は読んで見ましたが ところを理解する事が

できませんでしたが 青木さんにしらせて聞きました。

へんじがおそくなり申し分けありません。 なぜなら私の

日本語はまだまだ勉強ぶそくできちんとした日本語

をつかう事ができませんが 松下さんは一生懸命

又 タイの女性のもんだいをめっしんに考えて下さって

いる事にとても感動し嬉しく と思っていました。

今の私にはまだまだ勉強ぶそくでわからない

ところもありましたがもっともっと勉強 いつの日か

お手紙のないようをすべて理解する事ができると

思います。

それから 私の子供達のことですが私思うのは

うそおはいつかはばれると思いますが本当の事を

子供達に言いたいけれども 今子供達はまだ

小さいすぎるので今の事を言ってもわからない

と思います。ですから 子供達に大きくなってから

必ず自分の口で子供達に話します。

私は悪い事をしてしまい 申し分けなかった事

と思っています。リサさんの事とリサさんのお子

さんの事を私の心の中に一生忘れません

がこれから子供達の為にと貧しい人達の

為につよくいきて行きたいと思っています。

又 辛く淋しい生活の中で松下さんと

ボランティアの皆様の温かな

励まし 私が一番愛する子供達連れて

面会に来て下さったり勇気つけられました。

松下さんと皆様の応援が会った

からこそ私は頑張ってこれました。

心から感謝をしています。

誠にありがとうございました。まだ寒い

日がつづきますが風邪などひかないように

お体にお気をつけて下さい。日本語はとても

むずかしいので字のまちがいや言葉のあやまりは

ゆるしてください。又80円切手どうもありがとうござい

ました。

          ナータシャ・サミッタマーン 1995.2.22

原本は、ここ。

【G12-15】

p15 『概念集・12』~1995・3~

答え

福沢諭吉 p243『文明論之概略』岩波文庫 でした。(「の」の字が違っていた。)

全然面白くなかった? 

と書いたのと同時に11時20分、newmemoさんから正解をいただきました。

さて、諭吉とは我が国最大の啓蒙家とかいわれているので、偏見を持ち読んでませんでしたが、読んでみると文章は分かりやすく迫力があり面白い。例えば、彼は西欧の歴史を概観し、宗教改革に言及する。ルター(ルーザ氏となっているが)と羅馬法王との争いは結局「唯人心の自由を許すと許さざるとを争うものなり」。結論的には「文明進歩の徴候」と評価できる。だがその争いとは「欧州各国これがために人を殺したこと殆どその数を知らず。」であり、「殺人の禍を計れば此の新教の値は廉なりと云う可らず。」という点もちゃんと注目した。p177 西洋と東洋どころか、鼠と人においても同じ基準で論じうるととするある種唯物論的な思想の強さは、やはり感心すべきものがある。

帝国主義国を警戒せよ

国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可からずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。

福沢諭吉 p256『文明論の概略』岩波文庫 

なぜ、アメリカとかを警戒しなければいけないのでしょうか?

今の亜米利加とは元誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐われて、主客処を異にしたに非ずや。(p252、同上)

事実は諭吉の言うとおりなのに、わたしたちはなぜアメリカのことをそういうふうには絶対考えないのでしょうか?

2月3月といえば、

非正社員・有期契約ではたらく殆どの労働者にとって、契約切り替え・契約更新・あるいは雇止め(契約終了)の時期を迎えます。

「アルバイト・派遣・パート関西労働組合」の友人から送ってきたパンフの冒頭にそうあった。わたしは幸い有期契約ではないが妻はそうなので他人事ではない。3日間労働相談ホットラインを行うとのこと。わたしは何もできないので、urlを書いておきます。

http://www.ahp-union.or.jp/ アルバイト・派遣・パート関西労働組合

ビルマ国軍による性暴力

ビルマ(ミャンマー)のシャン州というのがどこら辺なのかまるで分かりませんが、下記に「ビルマ軍政によるシャン州における戦時下性暴力の行使」というレポート(日本語仮訳版)がありました。

http://www.ajwrc.org/doc/LtoR/LtoR_01.html License to Rape (日本語仮訳版)

 「強かんの許可証」では、ビルマ国軍部隊がシャン州で起こした強かんなどの性暴力事件173件について詳細な報告がなされている。大部分は1996年から2001年の事件で、被害者は幼い少女も含む625人の女性だ。

シャン州の少数民族を威嚇し従属させる目的で、ビルマ軍政が組織的かつ広範囲にわたり部隊に不処罰で強かんを行わせていたことがこの報告で明るみに出た。