チェチェンとかイラクとか憲法とか、そういったものにコミットせよと言いたいのではない。私たちは自分の言葉を発しているつもりでいても、何かの力に言葉を使わされていて、また何を言ってもどこかに回収されてしまう、という情況に置かれていることを強く意識しないまま小説など書いても、それは読み物慰み物にしかならない。
http://www.hoshinot.jp/diary0410.html 星野智幸の日記0410月1日
星野さんという方はすごくシャープですね。思わず引用したくなる。
チェチェンとかイラクとか憲法とか、そういったものにコミットせよと言いたいのではない。私たちは自分の言葉を発しているつもりでいても、何かの力に言葉を使わされていて、また何を言ってもどこかに回収されてしまう、という情況に置かれていることを強く意識しないまま小説など書いても、それは読み物慰み物にしかならない。
http://www.hoshinot.jp/diary0410.html 星野智幸の日記0410月1日
星野さんという方はすごくシャープですね。思わず引用したくなる。
# N・B 『 どうも、星野さんの引用が出ていたので思わず日ごろの鬱憤が出てしまいました。おかげでかなり話がずれてしまって、相手の批判に答えられくて逃げ回って、贅言を費やすみっともない人みたいになってすいません(最近見かけたので)。
まず、アレナスについての基本的事実、彼はキューバ革命後『夜明け前のセレスティーニョ』で作家としてデビュー。しかし、その後当時のキューバの同性愛抑圧政策によって(現在は少しは変わったようですが)、出版ができなくなり投獄も体験し、1980年に亡命、その後はニューヨークで生活するが、1990年に自殺。遺著は自叙伝『夜になる前に』(すいません、まちがってました)。最後のラテンアメリカ文学の「ブーム」の作家だといえるでしょう。
2、ですが私が星野さんの「紹介の仕方」(映画は国境を越えるとでも言い訳すればごまかすのは簡単なのに)は、やはり、現体制へのコミットメントを含んでいると判断します。その傍証として、チェチェンについての本の感想を対比したのです(こちらはロシアの現体制への明白な批判です)。これはあくまで私の判断です。ちなみに、私はアレナスは明らかにプロパガンダをしていたと思います(自叙伝を読む限り)。でも、彼を批判する権利は私にはないと思います。
補足しましたが野原さんの理解は正確だと思います、わかりにくいこと書いてすいません。
>その前に、アレナスのキューバ~反共
そうです、でもマッカーシーとソルジェニーツィンはあるレベルでは区別されるべきだということですね。古いものは何度でもよみがえるので。
とりあえず、マッカーシー(あるいはロイ・コーン)と「対話」あるいは「議論」することが必要となってくると、しかしそのときに「従軍慰安婦」や「アレナス」のような声はあると、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」と相手が主張しても、そのこと自体を批判することは単純にはできない、なぜなら、私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。その前提の上で正しく「暴力的に振舞う」にはどうすればいいかを考えるということになるのではないかと思います。今回は補足ばかりですいません。
ちょっとこれは質問ですが「反共」というのはヒットラーやレーガンから2ちゃんまで由緒ある政治的立場ですが、たとえばその下の星野さんの引用のように何かの力に言葉を使わされているとお考えなのでしょうか?(私はそう考えているので)』
またまた応答遅れてすみません。アレナスについて全然知らないのでちょっと書きにくいです。
キューバとチェチェンの比較についてですが、もちろんこれについても無知なのですが、常岡さんがとにかくチェチェンはイラクの十倍以上人が死んでるとか強調していたのを思い出しました。キューバも封鎖された国家みたいになっているからひとは結構死んでいるかもしれないけど、でもチェチェンの情況は十倍ひどい、というようなことがあるのかな、とおもいました。応えに成っていませんが。
「従軍慰安婦」問題というものはすでに日本国家が存在を認めているものですね。ですから、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」という主張はおかしいことになります。ありうるとしたら、「契約によるもので支払った」という形くらいですね。
「私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。」もちろんそうだと思いますが、「ある部分」というのがどういう部分なのか、それが問題なんだと思っているなら言えばいいじゃないと思うのですが。
何かの力に言葉を使わされている、というのは反共、親共といったシーンで使うと平板に理解される危険がありますね。わたしたちが本当に困ったときも人権や差別という言葉を使って裁判に訴えたりもするわけですが、そのときわたしたちの思いは非常に遠い言葉たちを使ってしか表現できない。逆に小説やブログを書いたりするときは全く拘束なく自由に書けるのだが、実は誰かの口まねをしているだけの自分に気付く。慰安婦言説なんて典型的にステロタイプな左右の言説が行き来するだけの退屈なゲームと思われていましょう。でも今回やってみていろいろ考えることがあって面白かった。
(2/13 21.39追加)
2/14のN・Bさん発言。
N・B 『 どうも、私が対比したのはロシアとキューバの体制です。チェチェン戦争はロシアの現体制(93年体制)の犯罪のあくまでひとつです。星野さんがそうしているという論拠は、10月9日の日記の2段落目です、それと映画の紹介はやはりはっきりと違います(どちらも犯罪をしているとしてもということです)。
それから『そんなものはない』『聞こえない』というのはあくまで比喩です、そういわなくても実際には同じ意味のことを主張してしまっているということです。
>ある部分がどういう部分なのか
具体例としてアレナス=従軍慰安婦という図式を出したのですが余計混乱させてしまったみたいです。
なんかまた補足ばかりです,すいません。
>非常に遠い言葉を使ってしか、
この遠さが発言している人と聞く『私』の間の遠さと重なるのが『声』なのかなと思います。逆に遠いからこそひっかりになってしまうとも思います。』
応答が遅れているうちに、ますます論点が遠のいてしまったみたいです、私にとって。すみません。
一度仕切り直して、また質問ご批判などあれば書いてください。
慰安婦問題はもうちょっと書かなければとは思っているのですが・・・まだちょっとまとまりません。
「チェチェン戦争はロシアの現体制(93年体制)の犯罪のあくまでひとつです。」ということなのでしょうね。ロシアは隣国でもあり批判すべきは批判していかなければいけませんね。
>プロパガンダって言葉の使い方はべつに間違ってないんじゃないかな。
(2/20追加)
慰安婦問題を考える枠組みとしては、下記の星野智幸さんの意見が正しいと思います。引用させてもらいます。
でも私が一番おぞましく感じるのは、漠然とちまたに漂うリベラル嫌悪である。今回の問題も、従軍慰安婦をめぐる考え方が根っこには横たわっているのに、従軍慰安婦自体を問題化させまいというような風潮を感じる。今年は戦後60年を迎える。10年前、戦後50年のときには、従軍慰安婦の存在を疑う人は圧倒的な少数だった。過去におこなったことはおこなったこととして認め、しかるべき反省と和解をし、次のステップに進もうという、冷戦崩壊後にふさわしい空気が主流だった。
それから10年たって、従軍慰安婦の問題を考えること自体を「偏向」と見なす人が急増している。戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。あいつらの言い分を呑んでたまるか、みたいな気分から、戦後に実証されてきた事実を葬ろうとする。言い分を呑まないことと、自分のした事実を認めることはまったく別の話だ。これではまるで、横田めぐみさんの骨がニセモノだったという鑑定結果を、「捏造」と切って捨てる北朝鮮の態度と変わらないではないか。かさにかかって「なかった」と言えば、本当になかったことにできるとでもいうのか?
http://www.hoshinot.jp/diary.html
星野智幸の日記 1月26日
リベラル嫌悪の奥には、女性への侮蔑、朝鮮半島や中国大陸の人間への軽蔑がある。持てる既得権益を手放し分配する以外に行き詰まりを打開することはできないこの日本社会で、その現実を受け入れられない層が逆ギレしている。いくら家庭内で暴れまくっても現実は変わらないのに暴れている、子どもじみた反応。それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、朝日新聞を始めとする旧リベラルのメディアたち。(同上)
もう一つ結論部分も引いておく。非常に明快。ただそこまで言い切ってよいかどうかは疑問も残る。新自由主義イデオロギーが勝利しており、それが出自からすると異質な悪質なナショナリズムなどと癒着している(せざるをえない)というところかと私は思う。それと朝日新聞などが、「それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、」という指摘も重要。
(2/6朝7時訂正)
従軍慰安婦問題は道徳的に遺憾なことだったかもしれないが、法的に有罪ではないではない、と主張する人たちがいます。
いまや上記星野氏も感じ取っておられるように“従軍慰安婦問題については見たり聞いたり感じたり”してはいけないという空気が日本国内を覆っているといっても過言ではない情況です。そこで、「法的に有罪ではない」が圧倒的に優勢なのではないか。
しかしそれは違うだろう。http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050127 に野原が付けたコメントを自己引用。
「オランダが開いたバタビア(インドネシア)軍事裁判で35人のオランダ女性が被害を受けたことで、日本の軍人が死刑および2~15年の刑を宣告されたことが、「慰安婦」について裁いた唯一の裁判でした。p9全記録1」いわゆるBC級戦犯ですね。これを基準にすれば(実行者については)犯罪であることは認められた、ということです。非日本のアジア人女性はオランダ女性に比べてかなり差別されていたので、立件されなかっただけ、と理解できます。46-48年頃には各国にちゃんとした主権国家がまだなかったわけだし。
# mojimoji 『従軍慰安婦とされたおばあさんたちが、裁きぬきの補償にむしろ怒ったこと、それでも現実生活の過酷さゆえに補償を受け取らざるをえない人たちもいたこと、そうした人たちと受け取り拒否の人たちとの間に一時的な断裂が起こったこと、しかし一人一人の生の現実を踏まえてそれぞれの選択を尊重しようという空気の中で再び団結が深められたこと、そうしたことの経緯が、(確か2000年あたりの『世界』の特集の中に)記事としてまとめられていました。「基金がもたらしたもの」だか、そんな感じのタイトル。また調べたらお知らせしますが、一読をオススメします。/裁きが求められていたことを踏まえる限り、法廷という形に拘った理由は僕には納得のいくものです。その中身がどうであったかという議論はできるとしても、むしろ現実の法の権威を疑わしめるmのとして、法の密猟としてでも、僕としてはこの民衆法廷を支持する、と考えますね。』
「女性のためのアジア平和国民基金」の話ですね。この間なんだかどさくさまぎれにひっそりと「閉じた」というニュースがありましたね。慰安婦個人の困窮の問題。支援者側の思惑。自分の範囲から出ることを許そうとしない各国のナショナリズム。色々な問題がからみあって大変だろうな、と推測します。
2000年あたりの『世界』の論文ですか。市民図書館はこのごろ雑誌をすぐ捨てるからなあ。「思想」「世界」くらいは取っておいて欲しいが。入手できたら読んでみます。
「裁きが求められていたことを踏まえる限り、法廷という形に拘った理由は僕には納得のいくものです。」うーん。わたしの問題意識は、民主主義を自称しながら日本人は「わたしが裁く」という意識が皆無なのが奇妙。まず、ガダルカナルなどで死んでいった兵士の視点で裕仁を裁き直せ。それが出来ないのなら小さな市民運動であっても、<新しい主体>を立ち上げるべきだ。というもの(かな)。すぐに大衆の支持は絶対得られない主張です。
したがってこのような国民的問題にはちゃんとした方が、VAWW-NETの側に立って論じまくってもらいたいと思いますね。
mojimoji 『記事の所在わかりました。
インパクション1997年11月号(通算105号) 「「償い金」は何をもたらしているのか」
年度も掲載誌もタイトルも全部間違い。どういう記憶力・・・。orz』(2/17)
ところで、わたしが1冊だけ持っているインパクションを見たら、西野瑠美子さんの「女性国際戦犯法廷は歴史に何を刻んだか」という短文が掲載されていた。(2002年 通算129号)
彼女が強調しているのは、以下のような点。
日本は北朝鮮から難民を大量に受け入れる用意があると宣言せよ!
日本国民はその覚悟をせよ。
百万人程度ならさほど混乱も起こるまい。
そうすれば金正日体制は崩壊し、めぐみさんも帰ってくる(だろう)。
排外主義者たちこそがつねに隣の独裁政権を維持し続けることを洞察せよ!
2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1
# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?
左翼とリベラルの違いってなんですか?』
わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・
ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。
リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。
3つだけ書くと。
1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。
2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。
3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。
それとややこしいのは、
4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。
1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。
2)は保守派だが体制迎合的ではない。
それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。
最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。
4)のイメージは次のようなものか。
本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。
みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm
リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。
おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。
*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。