リベラル/日本の

2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1

# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?

左翼とリベラルの違いってなんですか?』

わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・

 ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。

リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。

3つだけ書くと。

1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。

2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。

3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。

それとややこしいのは、

4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。

1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。

2)は保守派だが体制迎合的ではない。

それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。

 最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。

4)のイメージは次のようなものか。

 本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。

http://homepage2.nifty.com/hirokisu/contents2-b.html

みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm

 リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。

 おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。

*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。

善に対する正の優越

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050210 note of vermilion で、下記サイトを教えてもらった。

http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/priority.html THE PRIORITY OF THE RIGHT OVER THE GOOD

ちなみにマイケル・サンデルは、「善に対する正の優越」には二つの意味があると説明している。一つは、個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならない (功利主義批判)、という意味で、もう一つは、上で述べたように、これらの権利を規定する正義の原理は、いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない、という意味である。 (see `The Procedural Republic and the Unencumberd self’)

Right であってJustice ではない、わけだが、それがどう違うのか無学な私には分かりません。ところで、「いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない」といくら言っても、すべての(ほとんどの)善は金に換算(表現)できるという思想によって私たちは制圧されているのではないのか。リベラリズムとは結局の所、権利=「かね」の自由を制限するなという主張ではないのか? という疑問も。

(2/11 12時追加)

黄色人種の戦い(2)

foursueさんから、2/9に3つのコメントがあった。

# foursue 『「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」の意味を教えましょう。

太平洋戦争後、アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立したという事実があるので太平洋戦争が白人社会へ対する戦いであったと結論されます。

もしあなたがポツダム宣言を受け入れた時点で戦争のすべてが終わったと思っているのならこのような解釈にはならないかもしれませんが、被植民地であった国々はそのあとも独立のために戦っています。いわば、太平洋戦争はそれら独立戦争の出発点であったといえるのです。

少なくともアジア各地に残った日本人たちの中にはその国々の独立に力を貸した人たちがたくさん居ます。この事実からも黄色人種の白色人種への戦いであったということが言えます。違いますか?中国がどうしたとかそういったレベルの話をしているのではないのです。歴史の流れの中で太平洋戦争がそういった位置付けであると言っているのです。何か間違いはありますか?』

# foursue 『ログインしてませんでした。↑は間違いなく私の文章です。』

# foursue 『後付け加えますけど、私の文章がなぜ恥ずかしいのか理由の説明を求め、あなたが反論し私がそれを否定する意見を述べました。その後の反論はもう無いのかと聞いたのですが?なぜ論じる気がないのか教えてください?私の文章が恥ずかしいというその論点の前にあなたの言う論点があったというなら、私はそれを全面否定してますので、その反論をあなたがするのが筋です。』

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」という文には、「歴史的に見れば」と「とも見れる」という二つの譲歩句(というのかな)がついており、わざと意味をぼやかしている。

「太平洋戦争後、アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立したという事実があるので太平洋戦争が白人社会へ対する戦いであったと結論されます。」こちらの文章のごまかしは容易に指摘できる。「太平洋戦争」の主体は(朝鮮などを従えた)大日本帝国であるのに、「アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立した」の主体は(日本を含まない)アジア各国である。

黄色人種って変な言葉であまり使いたくないが。黄色人種は、3つに分かれる。

α:日本、

β:日本に従属していたあるいは「大東亜の大義」に呼応した黄色人種の諸グループ、

γ:日本と戦った黄色人種の諸グループ 

大日本帝国は戦争に負けた。勝ったのはアメリカと中国その他(γグループ)です。ここで「太平洋戦争」という言葉を使うことは、日本はアメリカ(+オーストラリア、英国など)に対してだけ負けて、中国に負けたのではない、と思いたい、という気持ちが反映しているのだろう。

あるフィリピン人の証言を聞こう。

日本軍、つまり日本政府は、植民地国を日本の手で解放しようとしてアジアの国々を攻撃したといいます。もしアジアの国々を占領してから本当に善政を行っていたら、日本は太平洋戦争に勝ったことでしょう。けれども日本は占領した国々で決して良いことをしませんでした。あまりにもひどい虐待を行ったのです。植民地支配からの解放は私たち自身が私たち自身のために闘いとらねばなりません。

p57マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

乱暴な検証方法だが実際に戦争をしてみて、γの勢力がβに移行するということが起こったらそれは、解放戦争という意味付けもできる戦争だったと評価できる。しかし例えばフィリピンでは確かに米軍を追い払い、γの勢力がβに移行するという現象が起こった。しかし「決して良いことをしませんでした」という事実によりフクバラハップ団という抗日勢力が起こった。βが再度γに移行した。日本軍が一時的に占領した広大な地域のアジア人大衆は「まだ主体になっておらず」反日に染まっていたわけではない。「決して良いことをしませんでした」ことにより反日に追いやったのは、日本軍の責任である。

「少なくともアジア各地に残った日本人たちの中にはその国々の独立に力を貸した人たちがたくさん居ます。」一部の日本人たちはそういう選択をした。しかし、日本国家を(一定)代表する軍の首脳部は前線から自分だけ最後の飛行機で脱出するといった行動を取るものがほとんどだった。「その国々の独立に力を貸した人たち」のことを戦後日本国家は忘れ、何の顕彰もしていないのではないのか?

日本軍は良いこともした、という弁護がある。弁護はしたら良かろう。多少良いことがあったからと言って全体の性格に影響を及ぼすわけではない。

 フィリピン人の視点からはアメリカ軍と闘いこれを追い払ったことは別に悪ではない、むしろ良いことだ、と言っている。これは、東京裁判における「平和に対する罪」をメインにした日本に対する断罪を、再検討する上で大事な視点になるだろう。

 foursueさんがおかしいところは、「白人に対する戦争」といいながら、開戦時点では、全く逆の世界観を表明しているところ。「ある日突然「お前には食べ物を売ってやらん」と世界中から言われたらどうなるだろうか?」とは、日本を除く諸列強だけを「世界中」とみなすということである。彼が後で強調することになる(日本を除く)黄色人種たちは単なる資源であり主体ではないとみなされている。

 以上、とりあえず。

虐められたから開戦に至ったのではない

時代の空気は変わり、日本の右傾化は留めようがないのだろうか?

 長期不況とあいつぐ危機に痛めつけられて、人々の心は傷ついた。情緒不安定で自己愛に満ちたナショナリズムを呼び起こした。この気分にとりつかれると、戦前も今も、国際認識が歪む。

http://www.ceac.jp/j/column/backnumber.html

 満州建国は絶対悪であると中国は主張する。わたしもだいたいそう思う。だが読者の皆さんはそう思いたくなければ思わなくても良いとわたしは思う。だが、「なかった派」のようにナルシズムにふけり、事実から全く乖離した歴史像をもてあそびはじめるのは、日本の遠くない過去の歴史に照らして危険!であることははっきりしている。

 満州事変以後、もし日本が国際協調的な外交路線をとれば、日本は全面的破滅を招かずにやってゆけたであろう。しかし満州事変の「成功」を見て軍人の後輩たちは先を争って大陸への軍事の進出を繰り返すようになった。対外強硬論と軍事力の発動が国益に適う立派な行為と国内では称賛された。国際協調論や他国の意向を配慮しての慎重論は愛国心を欠く「非国民的」な議論として侮蔑された。こうして30年代の日本はブレーキのない対外強硬論の社会へと傾斜した。

 言うまでもないが、国際社会は日本のそうした認識も行動も受けいれない。軍事侵略を受ける中国をはじめアジア諸国が悲鳴をあげ、反日感情をつのらせるのは当然である。西洋諸国にとっても、日本がアジアを排他的に支配するのは許せない。英仏蘭など既得権を持つ国にとって、それは脅威であり、米国も日本の暴挙に怒った。対中強硬論は、ドイツなど一部の粗暴な現状打破国を除く「世界を敵とする戦争」へと連なったのである。国際認識と対外行動の逸脱が日本を亡ぼした。

http://www.ceac.jp/j/column/050209-2.html 五百旗頭真

以上は高校の教科書に載っていることと大差ない。したがって引用する必要もないわけだが、そのような常識に反することを言い立てることを喜ぶひとが一部にいるため念のために引用する。

五百旗頭真さんは政治学者です。本は読んでいません。決して左翼ではない。

日本国民の手で裁ければよかった

参考:戦犯法廷問題では「悪役」*1になっている 秦郁彦さんですが、歴史家ですからちゃんとしたことも言っていました。

第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものだった。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050210#hata

そういう作戦を遂行したのが東条英機を始めとする陸軍首脳部だった。(略)

そんな人間たちの責任は本来なら日本国民の手で裁ければよかったが、戦勝国による裁判で開戦責任の問題だけ追求され、しこりが残ったと。(同上)

(2/12追加)

*1:vaww-net側から見てかな?野原は番組改悪問題は直接は論じてませんね。

無自覚になされる否認

mojimojiさん コメント欄の文章に勝手にコメントしてしまいました。

id:mojimoji 『「いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。」の部分は、本当に余人には推し量りがたいものがあり、かつ無自覚になされる否認によって今も傷つけられ続けているように思えます。

僕自身が、こうした記憶の問題にセンシティブになったのは、岡真里『記憶/物語』の冒頭30ページくらいを読んだときですね。「洋なしのアラビア語が思い出せない、なんだったっけ」というほほえましいエピソードから記憶というものの暴力性へと反転していく記述のところ、あれほど胸を衝く記述に接したことはそうそうありません。』

 わたしの場合は、『全記録1』の何人もの証言を読んだ後で、『夕凪の街 桜の国』という漫画を読んだとき、やはりある頁で落涙してしまいました。

誰もあの事を言わない

いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ

思われたのに生きのびているということ

そしていちばん怖いのは あれ以来

本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに

自分で時々

気付いてしまう

ことだ

p16『夕凪の街 桜の国』こうの史代 isbn:4575297445

大きな被害を受けたものがそれ故に自尊感情をなくすこと。まさに体験しないと分からないこと。神の不条理がはっきりあらわれているという現象なのか・・・ これはヒロシマを舞台にした漫画ですから慰安婦とは何の関係もないのですが、共通のものはあると思いました。慰安婦はたった一人で耐えなければならなかった分もっと悲惨だった・・・

あるフィリピン人に私が近づかなければならない理由は存在しない。袖擦り合うも多少の縁。かすかな縁はかすかなままでも良いと思うけど、無意識にでも「否認」するのはちょっとね、と思います。

戦争責任は未済だ、と主張する

N・Bさんから教えて貰ったとおり、「おおやにき」のコメント欄での

田島正樹氏の発言がとても興味深いのでメモしておきたい。

1)「日本はいつまで戦後処理をし続けなくてはならないのか?」と問いかけた人がいました。「いつまで謝罪し続けなければならないのか?」という言説が保守側から出ていてそれを反復した問いだと思われます。

田島氏は言う。

我々がアジアにおいて何者であり、また何者であらうと意志するか、つまりはどのやなヴィジョンと戦略で我々の意志と権力をアジアや世界に及ぼしてゆくのかといふ展望の下で、はじめて我々の過去に対する責任と切断が具体的な形で問題となるのだ。

「戦争責任や戦後処理問題は存在しない」と言うこともできる。だがそれは、逆に「ずるずると過去の亡霊を引きずり、将来の我々自身の政治的選択肢を狭隘化してしまふ」ことになる。

アジアにおける政治的主体性の確立が、歴史に対する決済と不可分であることを理解せねばならない。それは、過去の罪や負ひ目にどこまでも呪縛されることであるどころか、それと決別して新たな権力意志を立ち上げることである。それは国益に反して仕方なく果たされるべき道徳的義務ではなく、極東での我々の権益拡大のための必須の条件である。

http://alicia.zive.net/MT/mt-comments.cgi?entry_id=152

おおやにき: Comment on 法廷と手続的正義・続々々

これは、id:noharra:20050203#p1 で書いたことと同じ趣旨だと読んだ。