foursue発言(1回目)

# foursue 『何がどう恥ずかしいのか説明いただけますか?

納得できる回答が無い場合あなたのダイアリーにおける私の文章の引用をやめていただきたい。』

# foursue 『引用ではなく無断転載か』

(野原)

「その突然の世界からの宣告はまさに不条理だ。」何を甘ったれた事を言っているのだろう。満州国を建設しそこから退かないという決意は「国際社会」に対する大きな挑発である。「国際社会」は承認しないとしても、全面戦争まではやる決意は持たないだろうというのが石原莞爾の賭けだった。それは間違っていたと立証される機会を持たなかった。その後日本はずるずると中国大陸における戦線を延長し続けた。すでに「南京大強かん」を起こしてしまったのでそれは大々的にキャンペーンされ、開戦を国民に納得させる手数は大幅に省かれた。そのような条件下で「その突然の世界からの宣告」はなされたのだ。小学生でも騙されないような事を書かないでください。(引用外の部分、2/4朝追加。)

foursue発言(2回目)

# foursue 『まず、あなたが言う国際社会はようするに白人主体の社会でしたね?

次に満州国建国の前提ですが、http://d.hatena.ne.jp/ShinShinohara/20050108を読んでください。このため日本人が飢え死にしないように手を打つ必要がありますね?

石原莞爾の賭けと立証される機会ですが、賭けであるというのは予測の範囲を出ませんし、立証される機会など得られるわけがありませんね?この部分はあなたの文章にとって蛇足でしょう。

次に「南京大強かん」ですが、まず、南京というのは要塞であり中華民国の元首都であり戦場になる可能性の非常に高い場所でした。そこに一般市民を放置している中国軍にむしろ私は怒りを感じます。普通、日本軍であれば一般人を無理にでも退避させます。

次にキャンペーンですが当時も確かにアメリカなどの数誌が取り上げてます、しかしそれは戦時中であり、しかも取り上げた多くが日本にとっての敵国であり数字もばらばらです。すべてを信頼することはできません。そのだいぶ経った後キャンペーンが拡大したのは中国が外交カードとするためとも取れます。

最初に書いた国際社会が白人社会であったという事実があるので、甘ったれた事は言っているとは言えません。

誹謗中傷することで感情を満足させる行為はあまりお勧めしませんよ。

それと

”すでに「南京大強かん」を起こしてしまったのでそれは大々的にキャンペーンされ、”

から

”開戦を国民に納得させる手数は大幅に省かれた。”

の繋がりが日本語として意味を成しません。小学生でもわかるように書いてください。

最後に言いますが、私の著作物全文の半分以上を引用とは言えません。転載です。

リンクを張るだけで十分ですので読者の誤解を避けるために転載部分を削除してください。

あなたのページに多々見られますが無断転載は明らかな著作権侵害です。

著作物強姦はやめた方がいいと思います。』

応答が遅れ失礼しています。

白人に対する黄色人種の戦い

     --foursueさんとのやりとり(前史)

(1)

# foursue 『わざと難しく書く事によって自己満足しているように見受けられます。』

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050125 へのコメント

(2)

# noharra 『「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」だとすれば、日本人が中国人などを黄色人種の同志として敬意を持って扱ったのかどうかが論点になります。残念ながら事実はそうではなかった。』

http://d.hatena.ne.jp/foursue/20050129 へのコメント

# foursue 『どういうふうに受け取られたのか知りませんが、残念ながらそういった論点にはなりません。』(同上)

なぜ「そういった論点にはな」らないのか、答えてください。(2/5 19時)

(その後文章を一部変更。)

帝国主義秩序

遅くなりましたがとりあえず2点。

(1)国際社会とは?

まず、あなたが言う国際社会はようするに白人主体の社会でしたね?

「国際社会」とわざわざ「」をつけた言葉は、当時の列強を中心にした国際秩序を意味しています。ここでは文脈上日本が入っていないだけで、日本も列強の一員ではあると思う。左翼的用語法では、当時の帝国主義秩序ですね。

で、あなたの「その突然の世界からの宣告はまさに不条理だ。」の「世界」も同義だと読めます。41.12.8をもって「戦争が始まった」という史観ですか? それまでの「支那事変」は今で言う「テロリスト」相手の鎮圧作戦にすぎなかったと主張しますか。そのような主張は、「白人に対する黄色人種の戦い」という大義とは矛盾します。

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」

「大東亜の大義」を掲げて戦った戦争なのに、その大義を基準にしてそれに合格した戦争なのかどうか、という問いは回避するのですね。それでは戦死者は浮かばれないのでは。

「日本も帝国主義だったが結果が良かった」論か。アジア諸国家の独立は彼ら自身の功績でしょう。

 ついでにお聞きしますが、ブッシュのイラク占領への日本の加担はアジアの大義に真っ向から反することは認めますね?

(2)

そこに一般市民を放置している中国軍にむしろ私は怒りを感じます。

やれやれ。「軍都であったヒロシマに一般市民を放置している日本軍にむしろ私は怒りを感じます。」

黄色人種の戦い

foursue 『反論されている二点以外はこちらの意見に同意していただいたと見て良いのでしょうか?』

# noharra 『反論している二点以外もあなたの意見に同意していません。』

foursue 『では反論してください。』

foursue 『私がコメントしてからだいぶ時間も経っているのでそれ以外の反論があれば早めにすべてしてください。反論が無ければ同意と考えざるを得ません。もし反論が無いとしてもどの点が納得できないのか指摘してください。そうしなければこちらもこれ以上コメントを続けられません。』

(1)論点は最初の下記、についてです。

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」

他の論点については、この論点をある程度論じ合ってからでなければ、論じる意志はありません。

 逃亡したのなら御勝手に。

1/30のN・Bさん発言

(1/24のコメント欄から、こちらに上げます)

# N・B 『 どうも毎回丁寧にありがとうございます、このように下に下に継ぎ足して書いていっていいのか少し迷っています。

 かなり、難しい問題が続いたので、とりあえず1つ目の問いに答えますと、他人を不快にさせることはやはりごく普通の意味でまずいのではないでしょうか?

 それ以上に差別語問題のような場面ではやはり誰かが不快になったという前提は「事実として」必要だと思います。実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。もちろんそもそも、野原さんが描いたような、Aさんは存在するし(笑)、相手を批判するためにも理解するためにもむしろきちんと深読みするべきだとすら思います。

 ただ、以前に書いたように「強い責任理論」のもとでは、差別語を投げつけられた人と、Aさんとの区別が出来ないのです(責任のインフレーション)。しかし、「強い責任理論」は現代社会の複雑さから採用されているのでもはや差別などに興味のない人々でも捨てることが出来ないわけです。結果として(比喩的な意味で)声の大きいほうがのさばることになってしまいます。それでも、私としては「差別」のような現実が「理解できない声」を聞いたときにあらわになることを考えると、Aさんの声も不快ですが聞かざるを得ないというのが私の暫定的立場です。

 ついでに、大分議論が進んできて、法学的に民衆法廷は大変よくないという議論は少なくとも「まともな法学者」が一致するような見解ではないことは明らかになったと思います。

 なお、田島さんのコメントは「声を大きくする」ために「法学」(あるいは類似の専門知識)を「専門家」が使うことへの率直な批判だと思います。

 それから、コーネルはラドガーズ大学ロースクール教授だそうです。では、どうも。』

彼女はどのような問題なのか。

返事が遅くなってすみません。

余裕もないのに、ある人につっかかったりしてしまい困ったものです。

 差別語問題の前提は、社会の現実と言説空間において大きな歪みが存在しているということです。その場合において、ある人が何気なくある言葉を使うことで、別の人を傷つける。それはある人が別の人を差別したことになる。何気なくある言葉を使うことがある人を権力的に上位におく行為になる*1そうすると、具体的な被害者がいなくても、そういう場合は差別的行為をしたことになります。ただ、<大きな歪み>を誰が認定し、行為者に認識させていくのかという大きなアポリアがあります。ある差別問題が社会的に認められるまでは、なんらかの“当事者による暴力的な糾弾”がないと、それが「問題である」とは誰も思わない。

 従軍慰安婦はサバルタン(認識されない人)です。現在、「それが存在したのかどうか?」が論点になっているようですが、かってはそんな論点は存在しませんでした。存在はした*2、だが、それが「問題である」とは誰も思わなかったのです。(非日本)アジア人女性は差別されて当然の存在であり、彼女たちが声を挙げる可能性はないと思われたのです。声を挙げても誰も聞かないだろうと。ところがある時“暴力的な糾弾”の代わりに彼女たちは裁判提訴という形を選択しました。それが大きく取り上げられることにより、彼女たちは初めてサバルタン(何か言っても聞き取ってもらえない人)ではなく半ば主体となったのです。しかし彼女たちの主張はほとんど(時効などの理由で)否認されました。そこで民衆法廷という新しいプロジェクトを行い、日本とアジアの民衆に広く訴えかけることにより、問題設定を公認させようとしました。しかし、2000年現在においては、すでに新しい右翼運動も起こっており、日本のマスコミに大きく取り上げられることはありませんでした。このような状況下で安倍晋三問題は発生した。問題は大きく騒がれても私が指摘したような状況認識を欠いたものがほとんどです。

 このような認識に立つとき、広い意味で日本の法律の世界にある人が「法は法である」みたいな立場で、「不快」を発言するのは、はなはだおかしいと思われます。

ところで、「実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。」野原はそういうタイプだった。反省!

とりあえず。

追記:

迅速に応答できず心苦しいのですが、できればどんどん継続していってください。よろしくお願いします。

(今は2/5ですが、2/4分に上げます。この日付操作は読者の皆さんにも迷惑かもしれませんが、発言順より、あるテーマをひとまとめにすることを優先するという方法を今のところ取っています。決定稿の前の段階でUPしてしまうのも迷惑でしょうね・・・ いろいろすみません。)

*1:同じ言葉を使ってもたぶんいつもそうなるとは限らない。

*2:ボルネオ島のバリクパパンの慰安所設置については、当時海軍主計中尉であった中曽根康弘元首相が回想録『終わりなき海軍』(文化放送開発センター出版部、78年)で自ら慰安所を作ったことを記述しており、軍が設置したことを示す証拠となっている。

彼らの「声」はある

N・B 『 私も精神的余裕はないのでブログなどを作ってません、ですからややずるいかなと思っています。こんな操作までしてくださってありがとうございます。

 私としては別に、おおやさんの弁護をしているわけではありません。あくまで、彼らの「声」はあるということがいいたいのです。

 少し話をずらしますと、星野智幸さんの10月31日の日記で『永遠のハバナ』という映画を紹介しています、私は映画そのもが3月公開なのでなんともいえないところがありますが、やはりあの映画をああいう風に紹介することは特にロシアについて書いた後では(実際キューバに行っていることからみても)、現在のキューバに一定のコミットメントをしてしまっていると思います(マイアミ・ヘラルドも誉めてるようだけど)。ここでそれが重要なのは、彼がレイナルド・アレナスという既に亡くなった「亡命キューバ作家」を愛読し、ユリイカの「アレナス」特集などに参加していることです。アレナスの観点からは、この映画へのあのような賛辞自体が「カストロの回し者」の証拠にみえるでしょう、グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。私はユリイカで独裁反対に安易にもたれかかって、アレナス全面賛美(また適当に書いてるんだ)を「芸術的に」書かれた仏文屋の方々にくらべて、アレナスを読みながらキューバに行き、自分のコミットメントを示される星野さんははっきりと違う

$H$$$$$?$$$N$G$9!#

 もちろんキューバについては逆の立場(上に書いたことはあくまで私の判断ですし)もあるでしょう、私の論点は、たとえラテンアメリカ全体の状況の中で考えてもアレナスの声と他の声(日本のいい加減な仏文屋ですら)は原理的レベルでは区別できないと思います。また、優れた作家の声がそうであるがゆえに尊重されてはならないとも思います。

 以上の話は、アレナスの「告発」が野原さんの意味でもより広い意味でも暴力的(たとえば当時のエルサルバドルの人に!)だと私が認識したことが前提です。従軍慰安婦とアレナスを並べるのは異論があるでしょうが、私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

上に書いたような前提を無視できるのは、(最も近くの)権力に寄り添っていることを気にしない人に限ると思います(これは最初の書き込みと同じく、社民党からヒンデンブルグ、さらにナチスへと次々とパトロンを変えたカール・シュミットを念頭においています)。

 というわけですが、星野さんのように徹底的にラ米にコミットした人と私みたいな半可通は違うわけです。そのあたりは2つ目の論点と重なってくると思います、さらにどうやって従軍慰安婦やアレナスと、私たち(現状認識の違う人を含む)は区別されるのかですがますます難しくなってきたので次回ですいません。

 「差別語~正当化」というのはもちろん慎太郎を念頭においてました。ちょっと誤解を招いたようで。しかし差別語は使用のありかたの問題だという原則を知らない人はいまだうんざりするくらいいますね。

 アレナスについては上記ユリイカや自伝「夜が来る前に」国書刊行会などを参照してください、星野さんのページなども。

 なお、おおやさんの立場に野原さん的な視点から批判している人もいるので彼のブログのコメント欄などを見てください。答え方もひとつの答えですし。

 少し答えがずれたみたいですいません。ただ、証言することで「主体のようなもの」となるというのは重要な視点だと思います、我々はみなかつてサバルタンであった「かもしれない」ということですから、それを突きつけられるのが怖い人もいるかも知れせん。』

すいません。今回の文章どうも分かりにくかったです。

1)アレナスはキューバ国家に抑圧された。

2)星野智幸さんは『永遠のハバナ』という映画を紹介している。これはキューバ国家の是認だ。

3)グアンタナモで何が起こっているとしても、アレナスのような虐待された人が今もフェンスの両方にいるのは確かです。

アレナスが抑圧されたのは事実だが、彼のキューバ国家攻撃は日本の軽薄なインテリなどによって増幅されている。アレナスの発言は結局“反キューバプロパガンダ”になっている。と、N・Bさんは認識する。

アレナスやラテンアメリカの情況に暗いのでこの理解も不正解かも。

従軍慰安婦とアレナスは、いずれも暴力的にある問題設定を成し遂げたひととして等値しうるのではないか、と。

私は野原さんのいう「暴力」は認めます。問題はそのあとだと思います。「より広い意味」です。私たち(失礼!)はやはり何か「より広い意味」のレベルで認めるものと認めないものを選択してしまっているわけです、そのことに敏感でなければならないと思います。

その理由はこの二つのレベルを分けることの自覚に、政治的に振舞ってしまうことに自覚的かの最も重要な分かれ目があると思うからです。

 こういうことを書くのは、明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。

でこの結論部分が何を言いたいのかがよく分かりません。

その前に、アレナスのキューバ攻撃というのは結局反共攻撃ではないの?それだったら新しい問題設定ではなく古いものですが。*1

「明らかに状況認識が違う人(必ずしも「欠いている」わけではない)、違ったモラルを持つ人がいることが前提とされるべきと思うからです。」

あえて話を単純化して、前回書いた「差別発言はいけない」説に立ちます。すると「違ったモラルを持つ人がいる」としてもそれはより正しい立場によって啓蒙されるべき人と位置づけられてしまう。そうしたらいけない、という意見ですか?

(2/9追加)

*1:アレナス/キューバについて私はよく分からないので、反共だからいけないとか何も言いません、留保。

何かの力に言葉を使わされていて、

  チェチェンとかイラクとか憲法とか、そういったものにコミットせよと言いたいのではない。私たちは自分の言葉を発しているつもりでいても、何かの力に言葉を使わされていて、また何を言ってもどこかに回収されてしまう、という情況に置かれていることを強く意識しないまま小説など書いても、それは読み物慰み物にしかならない。

http://www.hoshinot.jp/diary0410.html 星野智幸の日記0410月1日

星野さんという方はすごくシャープですね。思わず引用したくなる。

正しく「暴力的に振る舞う」

# N・B 『 どうも、星野さんの引用が出ていたので思わず日ごろの鬱憤が出てしまいました。おかげでかなり話がずれてしまって、相手の批判に答えられくて逃げ回って、贅言を費やすみっともない人みたいになってすいません(最近見かけたので)。

 まず、アレナスについての基本的事実、彼はキューバ革命後『夜明け前のセレスティーニョ』で作家としてデビュー。しかし、その後当時のキューバの同性愛抑圧政策によって(現在は少しは変わったようですが)、出版ができなくなり投獄も体験し、1980年に亡命、その後はニューヨークで生活するが、1990年に自殺。遺著は自叙伝『夜になる前に』(すいません、まちがってました)。最後のラテンアメリカ文学の「ブーム」の作家だといえるでしょう。

 2、ですが私が星野さんの「紹介の仕方」(映画は国境を越えるとでも言い訳すればごまかすのは簡単なのに)は、やはり、現体制へのコミットメントを含んでいると判断します。その傍証として、チェチェンについての本の感想を対比したのです(こちらはロシアの現体制への明白な批判です)。これはあくまで私の判断です。ちなみに、私はアレナスは明らかにプロパガンダをしていたと思います(自叙伝を読む限り)。でも、彼を批判する権利は私にはないと思います。

 補足しましたが野原さんの理解は正確だと思います、わかりにくいこと書いてすいません。

>その前に、アレナスのキューバ~反共

 そうです、でもマッカーシーとソルジェニーツィンはあるレベルでは区別されるべきだということですね。古いものは何度でもよみがえるので。

 とりあえず、マッカーシー(あるいはロイ・コーン)と「対話」あるいは「議論」することが必要となってくると、しかしそのときに「従軍慰安婦」や「アレナス」のような声はあると、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」と相手が主張しても、そのこと自体を批判することは単純にはできない、なぜなら、私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。その前提の上で正しく「暴力的に振舞う」にはどうすればいいかを考えるということになるのではないかと思います。今回は補足ばかりですいません。

 ちょっとこれは質問ですが「反共」というのはヒットラーやレーガンから2ちゃんまで由緒ある政治的立場ですが、たとえばその下の星野さんの引用のように何かの力に言葉を使わされているとお考えなのでしょうか?(私はそう考えているので)』

またまた応答遅れてすみません。アレナスについて全然知らないのでちょっと書きにくいです。

 キューバとチェチェンの比較についてですが、もちろんこれについても無知なのですが、常岡さんがとにかくチェチェンはイラクの十倍以上人が死んでるとか強調していたのを思い出しました。キューバも封鎖された国家みたいになっているからひとは結構死んでいるかもしれないけど、でもチェチェンの情況は十倍ひどい、というようなことがあるのかな、とおもいました。応えに成っていませんが。

「従軍慰安婦」問題というものはすでに日本国家が存在を認めているものですね。ですから、「そんなものはない」あるいは「聞こえない」という主張はおかしいことになります。ありうるとしたら、「契約によるもので支払った」という形くらいですね。

「私たちもまた『声』を聞いてもそのある部分を無視しているから、ということになると思います。」もちろんそうだと思いますが、「ある部分」というのがどういう部分なのか、それが問題なんだと思っているなら言えばいいじゃないと思うのですが。

何かの力に言葉を使わされている、というのは反共、親共といったシーンで使うと平板に理解される危険がありますね。わたしたちが本当に困ったときも人権や差別という言葉を使って裁判に訴えたりもするわけですが、そのときわたしたちの思いは非常に遠い言葉たちを使ってしか表現できない。逆に小説やブログを書いたりするときは全く拘束なく自由に書けるのだが、実は誰かの口まねをしているだけの自分に気付く。慰安婦言説なんて典型的にステロタイプな左右の言説が行き来するだけの退屈なゲームと思われていましょう。でも今回やってみていろいろ考えることがあって面白かった。

(2/13 21.39追加)