「報われない善意はない」というのは悪い意味で、である。金に困った人に金を貸してやったら、また金を借りに来る。疲れているのに仕方ないから愚痴を聞いてやったらそれから毎日のように電話が掛かってくる。そういうことがあるからわたしたちは日々善意を抑制しながら生きている。
だが、募金はどうか。「恵まれない子どもたちのための募金」が呼び掛けられるとき、募金を募集している主体が誰か、その使途は何か、明確にされないことも多い。市役所、共同募金会、社会福祉協議会、テレビ局などが自己は説明するまでもなく絶対善だ、という前提で募金をつのる。募金者は自己の善意をそのまま、そのおおきな主体に委託する。千円を差し出せばそれはそのまま「恵まれない人たち」のもとに届くかのように説明され、わたしたちもそれ以上追求しない。
ある人が「恵まれない」情況にあるとはどういうことか?それは彼/女のあり方にわたしたちの想像力が及びえないということではないのか。わたしたちの認識格子から抜け落ちてしまう存在が、恵まれない人々だろう。
「ユニセフによると、世界中で年間七十万人から四百万人が人身売買の犠牲になっており、そのうち、十八歳未満の子どもは百二十万人と推定されている。http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050107/mng_____tokuho__000.shtml 」
とネットの一部に書いてあっても、マスコミではそんなことは言わないのでわたしたちの認識の一部にはなりません。それは事実であって事実ではないのです。
一般に「恵まれない人々」とは、色々な事情で私たちからの善意が直接届かない情況におかれていることによって恵まれないのだ、ということができる。そうすると上に書いたような募金に対する態度は笑止であることになる。
被災者の姿に心を痛め何かしたいのなら、まず自己責任で募金先を選ぶことから始めるべきだろう。
そしてちゃんとした募金先であれば、情報を知らせるメールが場合によっては読み切れないほど来る。(郵送の場合はもちろんメールほど沢山こないがそれでも数年にわたって来ることがある。)
ニンジャさんの場合は、1/8から1/15の間に、けっこう長いメールが12通来た。
正しい、正しすぎるメールが沢山来るのも迷惑と感じる人も多かろう。noharraはそれを正しいとして募金したのだから迷惑と感じるのはおかしいのだが、限りあるリソースを割かなければならないという点では「友達の愚痴を聞く」場合と同じだ。ただ友だちは近くにいるが、海外の被災者は(いない)(いない場所にいる)、というだけの違いだ。たった、五百円の募金でも関係はそれなりに成立する。関係が幽かであることに苛立ってそれを断ってしまってはならない。