http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2 はてなダイアリー – + 駝 鳥 + については上に触れたが、スワンさんからコメントがあったのでもう一度考えてみた。
歴史的判決というべき04年10月15日に、水俣病を語るブログや2chの言論が閑散としていた状況は、そうしたジレンマから私たちの意識が完全に自由であったことを意味するだろう。郵貯が何に使われているかなんて猪瀬直樹が日本国の研究を書く以前は誰も関心をもたなかった。最近はずいぶん情報の風通しがよくなったが、それでもチッソの賠償金倒産を食い止めるために国や県が財投を通じて金融支援をしており、その原資が私たちの預金や郵貯であることを知る人は少ない。
そのことは全く知りませんでした。70年代に大きく報道され三里塚とならぶ社会運動の拠点ともなっていた<水俣>がその後どのように継続していたのかについても全く知らず、今回の判決もわたしにとって突然だったので受け止めかねました。
ただ、難癖を付けるような読み方をすると、ジレンマから自由であることはむしろ「チッソが悪い」と言う(書く)事につながるはずでネットが閑散としてたことには繋がらないように思う。
チッソは68年まで排水をやめなかったし、国もやめさせなかった。チッソが悪い、国が悪いというのは簡単だ。
「イスラエルの残虐」については日本のテレビでも一定は報道されている。ところが(スワンさんは例外として)「イスラエルが悪い」という素直な感想はhatenaでは(一定はあるが)それほどない。
「イスラエルが悪い」と思うのは簡単でも、言うのは簡単ではない、ということのようだ。それと同じように「チッソが悪い」、というのは実は簡単ではないのではないか。
「私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた。」黙っている人たちは発言すればジレンマに向きあわなければならないことを(どこかで瞬時に)察知したからこそ黙っているのではないか。
チッソにせよ戦争責任にせよ私たちを困惑させてしまうジレンマと向き合い続けることでそれを乗り越えていくしかないと、スワンさんはおっしゃっているのだと思います。(違いますか?)わたしもそう思います。
差異は糾弾というスタイルに対する好悪にあります。
ある日本人がステロタイプな殺人鬼だったこと、それは日本人には見たくない、(ともすれば)見ることができない事実である以上、殺人鬼という画像を突きつけるという行為はまず何度でも行わなければならない、とわたしは考える。しかしスワンさんは糾弾することは、世代間の連続性を切断することになると捉える。「加害者とのコミュニケーションが切断されているだけで、殺人鬼のイメージをふくらますことは非常に簡単なことは私たちは日常的に経験していることだ。」
これは難しい問題だが大事なことなので、上手く書くことはできなかったがもう一度書いてみた。