# hiyori13 『「政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?」 なに、読まずにケチをつけてるわけですか?』
# noharra 『>>なに、読まずにケチをつけてるわけですか?<<野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。ビンカーの本を読むつもりはありません。hirori13さんは読まれたのですか?』
# hiyori13 『「政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?」 なに、読まずにケチをつけてるわけですか?』
# noharra 『>>なに、読まずにケチをつけてるわけですか?<<野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。ビンカーの本を読むつもりはありません。hirori13さんは読まれたのですか?』
α.わたしたちの社会・国家は、私たち自身各自の生きること(幸せ)の総体にその権威の基礎を置いている。
β.したがって、わたしたち各自は決定に参加する平等な権利を持つ。
γ.それぞれの人は平等な「生きる権利」を持つ。
平等という前提についてもう一度考えてみました。(上記は野原の表現)
これは前提として認められていると言える。この前提の背後に、人権主義=ヒューマニズムという確固とした思想が存在する、その思想は普遍的なものだ、とするのが日本ではいわゆる護憲派だろうか。わたしはそういう思想は取らない。*1この前提をフィクションと呼ぶのは、この前提以前に遡り思想実体を求めることをしないという立場表明である。
わたしたちの近代は、平等という前提に基づいて政治、経済制度を成立させてきた。こういう意味での前提を否定するのなら、他にどういう前提が用意されるのかをまず、聞かせてもらわないといけない。
「「人は最初は白紙」というのは思い込みでなくて現代社会を形作る為のフィクションなんだよ。」で最初の論点は、白紙か遺伝か?なわけですが、わたしは興味がない。
ある性によってものの感じ方や得意な仕事がかなりな程度決定されるという思想は間違っている。「性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想」はまちがっておらず、間違っているのは山形浩生だ。
上記2行は10/21に書いたが、山形さんからの指摘もあり、とりあえず保留します。今から考えて書き直します。
*1:人権派=啓蒙派は、学校秀才的人間をモデルとして全員がそれに近づくことが善であるという発想に成っていくような気がする。批判に成っていないので突っ込んでいただけば考えていきます。
# hiyori13 『あなたホントに大丈夫? 「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの? ちなみにぼくは5回は読んでるよ。あたりまえじゃん。もとの書評を書いたのがぼくだし。さらに少しは自分のことばに責任持てよな。フィクションという言い分に「納得した」と言いつつ、その説明を求められると「わたしのことばじゃない」って、そんなら何にどう「納得」したわけ?』
・・・そんなら何にどう「納得」したわけ?・・・
については説明していますが。
・・・もとの書評を書いたのがぼくだし。・・・
山形さんでしたか。わざわざ来ていただいてありがとうございます。
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/375 『結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。
バッシャー(情報操作に引っかかった人も確信犯も含めて)達がテレビ番組や雑誌記事、記者会見、ホームページ、新聞で、あれほど人質とその家族を攻撃したのに、未だに人質を非難する内容の本を出版した人は皆無。』
「それもあるだろうけれど、前回と違って、今回は官邸からの情報操作(スピン)が無かったからね。
結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。」
スピンって何のことと思ったら上記のようなことらしい。で小林って誰よ。スピンとは、フレーバーなんかと同じ原子核物理学用語で、それを小林秀雄が検証したのかと思ったよ(??)高齢者にも分かりやすい文章を書きましょう。
男性でありながら真っ昼間から、女性もののらしいブログをのぞき見していると、なんだかゲームへの参加を呼び掛けられたので、男性でありながら初老でありながら参加してみようと思ったが、男性でありながら配偶者から急に電話が掛かってき男性でありながら息子を4時までに病院に連れて行かなければならないのに息子はいっこうに帰ってこないので男性でありながら窓から外を覗いて心配しているのだった。(昨日は2ちゃんでありながら反反ジェンダーフリーのひと発見。)男性でありながらこのブログを読むと男性でありながら「居心地が悪い」。
http://d.hatena.ne.jp/maki-ryu/20041018#p1 はてなダイアリー – あたしはレズビアンだと思われてもいいのよ のコメント欄に参加。
以下は、その後追加。
男性でありながら、小学校の門の前で息子を待ちかまえキャッチし、男性でありながら病院まで連れて行き、男性でありながら母子手帳を看護婦にさしだし、男性でありながら息子のアレルギーの有無とか細かい健康上の質問項目に答え、男性でありながらやっと終わった。自分が何をしているのかあまり分かっていなかったのだが(だって男性なんだもの)三種混合の第二期予防接種を子供に受けさせたのだった。予防接種をどう考えるのか、というのは、母の自己決定(自己じゃないんだが)を問われる重要な問題。だが、(だって男性なんだもの)野原は何も考えてなかった。今日も配偶者の指示に従っただけ。「母子手帳」というものが子供が10歳過ぎになっても大切に手元に置いておくべきものだということを初めて知った(だって男性なんだもの)。三種混合というのはなんと10年も経ってからもう一度やらないといけないので、「母であれば」その10年をしみじみ振り返ることができるのだろう。小児科には、赤ちゃんの様々な色の便のリアルな写真が18種類も立派なパネルで表示されており、そんな時期を速やかに忘れた私と息子本人はけっこう熱心に見入ってしまった(だって男性なんだもの)。雨が降ってるのに自転車に乗って息子たちは出て行ってしまい、びしょぬれになるだろう、そのくらい注意したれよ(だって男性なんだもの)!
「一般の結婚制度を利用しているヘテロのカップルはこうは行かない。本当にたいへんなことだと思う。」
「女と男が結婚制度の中でうまく行くなんてあり得るのか?とあたしは疑っている。」というフレーズを発見。うちの配偶者が「たいへんである」という事実を再確認し ました。
「私が何かを論じる」ということが大事なのでは、本質的にはない、と思っている。
「ところで、概念とは、こちらが把握したい時に把握できるのではなく、或る瞬間、否応なしに、こちらを把握してくる本質を持つのではないだろうか。*1」と松下も言っている。
論じる主体としてのわたしは、生きているわたしのごく一部の位相を占めるにすぎない。ふつうは睡眠をとり、仕事をし、食事をし、会話をし、すべて無自覚にとおり過ぎていくのだ。たまには一瞬息を止めるほど怒ったり感動したり行為したりもするだろう。いずれにしても「何かを論じる」という時間の過ごし方は、よっぽど余裕のある時にしかできないことだ。そうではない書き方もできるはずなのに、わたしはできていない。
言葉にでも女にでもわたしは振り回されたい。?
*1:松下昇『概念集・1』p2
というわけで、わたしが最近すごい!と思っている言葉たちは彼女のものだ。
何が納得いかないのだといって、言葉に納得がいかないのだ。
本当に子供だった時私は家も家族も服も靴も鞄も男も友達も何も要らないただ自分の身体を忠実に翻訳する言葉だけが欲しいと思って生きていた。
http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041019
はてなダイアリー – chimadcのサミズダット
わたしなのに。ついついごまかして普通人のふりをしてしまう。
http://bbs7.otd.co.jp/273430/bbs_plain?range=-50&base=3000 西尾幹二(日録)感想掲示板
左翼というだけで、「汚辱」と決めつける上記のようなサイトはわたしの守らなければならない<初心>を思い出させてくれる。感謝。
2985 日録の 年上の長谷川 2004/10/13 22:17
女性 広島県
トラックバックをたどっていたら
こんなところや
こんなところにたどりついてしまった。
やはり全共闘系列とジェンダーフリーと、反つくる会と、
反日自虐史観主義者?は同じ仲間であると実感しました。
「汚辱に塗れ」の(c)はミシェル・フーコー。
198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041018#p1 経由の
http://dklog.jp/u/yuuko999/#0000978507 から
「たかじん」南京虐殺、靖国参拝など(ゲスト:西尾幹二) 「たかじんのそこまで言って委員会」の発言記録をコピーさせてもらいます。
井沢元彦氏の発言。
今、テレビを見てて、西尾さんを、こいつは右翼で嘘を言ってるんじゃないか?と思ってる人に、ぜひ聞いてほしい。中国で戦後、文化大革命があったが、中国共産党は少なく見積もって数千万人を殺した。戦争でなく。20年ぐらい前にそれを言うと右翼だとか、軍国主義だとか、学問をねじまげてるとか言われた。が、今はどうか。中国ですら認めてる。中国の共産党政権は、政権の都合によって事実をすぐ変える。文革は共産党による大虐殺。数の桁が違う。南京30万人どころではない。そういうことをぜひ考えてほしい。
今、テレビを見てて、西尾さんを、こいつは右翼で嘘を言ってるんじゃないか?と思ってる人に、ぜひ聞いてほしい。中国で戦後、文化大革命があったが、中国共産党は少なく見積もって数千万人を殺した。戦争でなく。20年ぐらい前にそれを言うと右翼だとか、軍国主義だとか、学問をねじまげてるとか言われた。が、今はどうか。中国ですら認めてる。中国の共産党政権は、政権の都合によって事実をすぐ変える。文革は共産党による大虐殺。数の桁が違う。南京30万人どころではない。そういうことをぜひ考えてほしい。
http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041018#p1 では、
姫田光義ほか『中国20世紀史』(東京大学出版会、1993年)では、
公式発表だけでも「迫害で死亡した者」3万4800人、「中傷・迫害されたもの」74万2511人という犠牲者を出しながら現状を何一つ解決することなく……(241ページ)
となっているので、仮に十倍しても30万、とても数千万人にはならないと、私には思われる。
数千万という数字が勘違いして出てくる根拠として、「当代江北日記」さんは次のように書く。そうだとしても許される勘違いではないですね。
まず、考えられるのは、大躍進運動(1958~1959年)の失敗による餓死者数と混同しているのではないか、ということだ。この死者数も諸説あるのだが、大躍進運動の失敗の結果、59年から60年にかけて1500万~4000万の餓死や不正常な死が発生したと言われる。これは毛沢東による人災だと言っていいが、しかし、故意に殺害したのではないという点で文革とは異なる。
もちろん、大躍進の時に大量の死者を産みだした責任は中国当局が現在も続いている以上、(北朝鮮の場合同様)追求されるべきだと思う。だが、民衆の命に本質的慈悲を持たず、右か左か、自分のイデオロギー的立場*1だけを大事にし、事実を誠実に追求する気など無い「なかった派」は発言しなくともよい。
*1:アプリオリに普遍にたどり着けないものを普遍に置いている大笑いっぽい立場。野原の意見では。
http://d.hatena.ne.jp/milkbottle/20041018 はてなダイアリー – NEWS GARAGE【カバ式会社おばか通信】のブログでは、イスラエルによる虐殺に触れた後、「南京」にも触れている。
「 それによると、監視所からの銃撃があった後、倒れた少女に司令官の大尉が近づき、頭と腹に1発ずつ、さらに至近距離からライフルの弾倉が空になるまで銃撃を続けた。複数の兵士が同様の証言をし、少女の体からは約20発の銃弾が見つかった。」
イスラエルは決して大虐殺はしていない。ちょっとずつ注意深く殺している。日本の「なかった派」みたいに無邪気じゃない。