小さな神たち

 記紀で興味深いのは、理解できないような異様な音のつながりをもつ言葉(神の名前など)たちである。神話体系としては主神が誰でそれに次ぐものが誰なのかというヒエラルキーが不分明だ、と指摘できる。

古事記の最初の神々を木村紀子氏の整理により記してみよう。*1

1.天之御中主、天之常立神(とこたちのかみ)、国之常立神、

  ここだけにしか名がみえない抽象観念的な独神、三神。

2.高御産巣日神(たかみむすひのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)

  別天神で「隠身」といわれながら、後に天照大神と並び高天原の神としての存在が語られる二神。

イザナギ(伊邪那岐)、イザナミ(伊邪那美)

3.ウマシアシカビヒコジ神

 ウヒジニ(宇比地邇)、イモスイジニ(妹須比智邇)

 ツノグイ(角杙)、イモイクグイ(妹活杙)

 オオトノヂ(意富斗能地)、イモオオトノベ(妹大斗之辨)

 オモダル(於母陀流)、イモアヤカシコネ(妹阿夜訶志古泥)*2

全く地上的で卑小な具象形容をもつ神名のグループ。

3のグループは名前が出るだけで何の活躍もしないのですが、高貴そうでない奇妙な名前は興味深い。

1.のグループは、3.の感覚とは全く違った高い抽象性を操る能力(中国由来のものだろうが)をうかがわせるもので、3.よりかなり後代に追加されたものだろう。富永仲基の「加上説」の好例だと思うが、そう主張したひとはいたのだろうか。

*1:p58『古層日本語の融合構造』平凡社 isbn:458240328X

*2:豊雲野神は例外とする

ブキメラ村の悲劇

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040930#p1

はてなダイアリー – 愛・蔵太の気ままな日記 の ■ 生徒会誌に掲載したかったテキストで揉めている元先生の話 というのを読んだ。

その問題自体初めて知ったのだが、高校の生徒会誌の編集権は生徒会にあり校長が介入するのは不当だと思う。

 で、もう一つ初めて知ったマレーシアに対する三菱化成の公害輸出問題というのがある(あった)らしい。そういうことがあってもわたしたちは知らない。パレスチナやイラクたまに北朝鮮に言及したりするたびに、わたしは、日本の企業とかがもっと直接的に影響を及ぼしているはずのインドネシヤやフィリピンには問題はないのか?、そちらの方が実は大事なのではというようなことも思わないではなかったのでした。

 lovelovedogさんが紹介しておられる

http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/japan/tokio16.htm マレーシアのお医者さんかなジャヤバラン・タンブヤッパさんの告発、から断片的にちょっとだけ引用してみます。

・問題の工場があるのは首都クアラルンプールから約150キロ、中北部イポー近郊のブキメラです。スズの鉱石と一緒に出てくるアマング(モナザイト鉱石およびゼノタイム鉱石)にはレアアース(希土類金属)が含まれていますが、三菱化成は現地のパートナーとともに、これを精製する事業をおこしました。

・ARE社は廃棄物の捨て場をつくらないまま操業を始めました。ダンプカーの運転手と契約し、運転手はその廃棄物の危険性を知らされないまま、いろんな場所にそれを捨てました。このスライドを見てください。捨てられている廃棄物の背景に見えているのはヤギです。ここの草を食べて育つヤギは、食用として飼われているのです。

・1984年12月、埼玉大学の市川定夫教授は、住民の依頼で現地の放射線量を測定しました。工場の周辺はもとより、池や沼にも廃棄物は捨てられ、その付近の放射線量も高いままとなっていました。彼の調査結果をもとにして、住民たちは85年2月、工場の操業停止と廃棄物の除去を求めて行政訴訟を起こしました。その翌年10月、裁判所はARE社に操業停止と暫定投棄場の改善を命じました。そして工場は11月に操業停止となり、一応の除去作業が行なわれ、毒性の放射性廃棄物はドラム缶に入れられて地面に掘った溝に納められました。しかし半減期というものを考えてみてください。その放射性廃棄物の半減期が140 億年というのに、このドラム缶はせいぜい10年くらいしか持ちそうもありません。

・また、この青年(写真・)は、工場から100メートルも離れていないところに住んでいました。彼は88年に白血病と診断され、91年7月には急激に症状が悪化して亡くなりました。当時21歳でした。

パレスチナと南京

10/2 現在の第2次インティファーダが始まって以来、ガザへの攻撃としては最悪かつ最大の侵攻が展開されているが、IMEMC Newsではここまでの死者を57人(金曜だけで12人)、負傷者240人と報じている。

http://0000000000.net/p-navi/info/news/200410021039.htm

  P-navi info : 金曜~土曜:ガザ北部の状況(追加進行中)

シャロン首相は言う「我々ユダヤ人もまた生きる権利がある。」そしてパレスチナ人には殺される権利があるわけか。

 ところで、 ヤングジャンプの『国が燃える』というマンガが南京大虐殺を扱って、一部のウヨの反発を得たようです。

http://d.hatena.ne.jp/claw/20040927

http://d.hatena.ne.jp/claw/20040929

 60年前に決定的に敗北したはずの論点(日本はアジアの解放者たり得るのか?)をなんだか訳の分からないものに変換しつつ、ヒステリックに叫びたてている連中というのは一体何を考えているのやら。

 パレスチナと南京は関係ない。あえて結びつけるとすれば、帝国主義と結びついているアジア人差別、とそれによるダブルスタンダードな認識の存在という点だろう。この文脈では【帝国主義】である【日本】あるいは【イスラエル(シオニズム)】は、権利を持ち、非帝国主義エリアの庶民より数段格上の存在であり、したがって庶民が抵抗してきたりすればその周辺の非武装民を含めて(懲罰的効果も期待しつつ)徹底的に叩くことはありうる、ということである。それは欧米の大国によって常に、なかばは許容される。

南京関係過去発言:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040520#p3

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031211#p1

http://www.eleutheria.com/philosophia/data/3037.html以下 Philosophia BBS:3037:Re4: 『証言記録 三光作戦』 南京大虐殺とは

追記:「南京大虐殺には様ざまな意見がありますが、無銘が言へることはただ一つ「ゲリラ戦に対抗するには、『大量虐殺』は正しい戦術である」、それだけです。」http://d.hatena.ne.jp/meigara/20041003#1096777890  はてなダイアリー – 無銘の銘柄♯

最近では大量虐殺肯定派も出てきたようですね!

無料のアンティウイルスソフト

 だいたいわたしはセキュリティ感覚がない方なので、アンチウイルスソフトも入れていない。(今のところ迷惑は掛けていないと思う・・・)うちのもう一台のパソコンはマカフィーを入れていたが1年の期間が切れ継続版を購入した(金をコンビニで払った)がダウンロードに失敗、返金してもらった。で頭に来てアンインストールしてしまった。ので無防備な期間があったが、やはり入れろと言うので、考えた。ある人がMLで教えてくれた、AVG Free Edition というのをダウンロードしてインストールしてみた。

http://free.grisoft.com/freeweb.php/doc/2/lng/us/tpl/v5

すると翌日、うちの子(小学生)が面白フラッシュの頁かなんかを見まくっていて見事感染。(前回は、トロイの木馬という大騒ぎするほどのこともない奴ということだった。今回のも、デスクトップがどんどん壊れていき見た目は派手だが、たぶん同じようなものだったのだろう。)(リセットしたが「ウィルス検出」という警告はでなかった。)早速、【Complete Test】を行う。半時間ほどで終わり感染ファイル1個を発見。(それだけで隔離してくれている?)ウイルスソフトのこともよく分かっていないし英語も読めないのでたよりないが現状肯定。

 チェコのソフトだそうです。無期限無料。軽いなど市販品より良い点もあるらしい。

http://airtracks.hp.infoseek.co.jp/  【AVG-JP】

日本語化パッチがある。(やってみました)

http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_avg.htm

こちらには、AVG日本語化ウィンドウ一覧 がある。

http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_sec.htm

ついでに、キプロスのファイアウォールソフトの紹介もある。

http://www10.plala.or.jp/palm84/avg_free.html

詳しい説明。AVG Anti-Virus Free Edition 6.0について

これ何の言(げん)ぞ与(や)、これ何の言ぞ与、

 『孝経』というのは儒教の教典(十三経の一つ)ですが、四書五経には入っていないので知らない人が多いでしょう。*1漢の時代の初めには既にあったのは確かという古典です。

敢へて問ふ。父の令*2に從ふのみは、孝と謂ふべけんや、と。子曰く、是れ何の言ぞや。是れ何の言ぞや。言の通ぜざるか。昔者天子爭臣七人有れば。亡(む)道(どう)と雖ども天下を失はず。諸侯爭臣五人有れば。亡道と雖ども其の國を失はず。大夫爭臣三人有れば。亡道と雖も其の家を失はず。士爭友有れば。則ち身令名を離れず。父に爭子あれば。則ち身不誼に陷らず。故に不誼に當っては。則ち子以て父と爭はざるべからず。臣以て君に爭はざるべからず。故に不誼に當っては。則ち之を爭う。父の命に從ふ又安んぞ孝と爲すを得んや。

http://www.keitenaijin.com/keikyo.htm(孝980901)から引用させていただきました。(一部変更しています。)

http://kanbun.info/keibu/kokyo.html *3

 孝経というのは、孔子が弟子の曾子と問答する形で<孝>について論じています。<孝>は親孝行の孝には違いないのですがかなり意味が広くなっています。ここでは曾子が質問しています。子供が父の命に從うべきか?当然だ、と肯定するかと思いきや孔子は、「これ何の言ぞ与(や)、これ何の言ぞ与(や)、言(げん)の通ぜず。」と、絶句するほど不本意な様子。

 中江藤樹の註釈にしたがって読んでみると、「父の命に従うとは、もっぱら父の命に従順して、不義といえども敢えて諫止しないことをいう。」「可謂孝乎」の「乎」とは疑いの辞である。つまり曾子はすでに父を不義に陥れるの不孝を知っている(のである)。だけども、諫争すると愛敬の和をやぶることがある。確かに、従順は孝子の本来であるとは言えるとしても、この場合は本当の孝には成っていないのではないか。*4藤樹先生、かなり曾子にはきびしい、深読みをされます。

 次孔子の発言。「「何言与」とは、なお、なんの心をもってかくのごときの言(コト)をなすやと云うがごとし。けだし「言」というのは心の声なり。*5」孔子は曾子の心を知っているつもりだった。だから、まさかこんなふうな発言はしないはずだと思っていた。だのにそういう発言があった。「ゆえに、何の心をもってしこうしてこの言をなすやと謂う。そしてこれを戒める。「何言与、何言与。」と重ね言うものは、もって深くこれを警戒する(いましめる)ところなり。」

 次は実例。社長の回りがイエスマンばかりだとその会社は潰れる。つまり君を諫める者がなければならない、ということを、天子、諸侯、大夫、士、父とその規模にしたがって五回繰り返して強調しております。

 結論。「父の令に従うのみなるは、また焉(いずくん)ぞ孝となすを得んや。」形式的な従順は、(大義に反する場合)不孝となるわけです。

 ところで一方、儒教には以上に書いたことに反するフレーズもあります。「君君たらずとも臣は臣たらざるべからず。父父たらずとも子は子たらざるべからず。」(6世紀ごろ作られた偽書らしいですが、孔安国の「孝経」序にある言葉です。日本では敗戦まで大いにもてはやされた。君主が絶対であるのは天の秩序の象徴であるからであり(天という言葉を使わないとしても)、生身の天皇自体には誤りもあるのが当然です。国家の命令を一切疑うことなくそれに「従う」ことだけを価値とした文化が敗北したのは当然のことだったわけです。そして戦後、絶対的権威の場に天皇に代わり「民主主義(アメリカ)」が居座ることとなり、その構造は解体されずに継続し続けている。ということなのでしょうか。最近、日の丸、君が代、愛国心といったものへの服従を強調する動きがあるようです。二千年以上前に「孔子」が絶句して嫌がった思想と共通点があるとわたしは思います。*6

追記:父がその社会で犯罪者として指弾される存在であっても、社会的能力のない飲んだくれであっても、子は父を見放さず孝を尽くさなければいけない、これは儒教の原則であり、その意味では「父父たらずとも子は子たらざるべからず。」というのは全く正しいわけです。問題は既成の権力関係における上位の者が、居直りの論理としてこれを持ち出すときですね。それは儒教の原則に全く反しているわけです。

*1:四書の一であり短いから読みやすい、大学・中庸とかでも、わたしは最近馴染みになったが知らない人が多いだろう。

*2:孝経には、古文と今文二種類のテキストがあって、ここは古文では「命」だが今文では「令」。

*3:孝經(Web漢文大系)、テキストクリティックも詳細に行っている。

*4:以上不正確な引用。p243『中江藤樹』岩波日本思想体系

*5:言の内容。シニフィエ。

*6:孝経、および中江藤樹、テキストも漢文、現代文の区別もめちゃくちゃに引用、大意表現しています、すみません。

武士道から遠く離れて

http://www.goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.cgi?menu=c032

あなたの漢(おとこ)のサムライ度チェック – 無料占い GoisuNet

  上記の占いをやって見ました。毎日(ではないが)古くさい儒学の本を頑張って読んでいるのになんて結果だ!?

>あなたの漢(おとこ)のサムライ度チェック>結果

あなたの漢(おとこ)のサムライ度を診断してみました。

あなたの漢気度は【4%】ぐらいで夜な夜な欲望のまま戯れる【フランス貴族】の血をひいています。

耽美的な享楽を何よりも愛するあなた。自分が大好きで、ちょっとナルシーな気のあるあなたから、漢気はまったく感じられません。

男くささを野蛮と思い、勇気や信念を古典的なものととらえるあなたは、現在の軟弱日本を代表するようなひ弱な男子といえるでしょう。あなたにとって大切なものは、自分自身と欲望を満たすこと。それ以外のことは、はっきりどうだっていいのです。個人主義者であり、社会にあまり興味のないあなたは、漢の世界とは正反対の位置で暮らしているのでしょう。まあ、仕方ありません。敗戦国日本はマッカーサー上陸以降、鬼畜米兵の「日本国民総白痴化計画」によってコーラとハンバーガーで骨抜きにされてしまったのですから……。

マザコン度  100%

 以上はあまりあたってないが、下記の藤樹の文章が指摘するタイプにはきっちり当てはまっているように思えた。ウウ・・・

「すでに暗処に魔を来るたしぬれば、何事も異風をこのみ、人をばいける虫とも思はず、天下に我をこすべき者なしと、人もゆるさぬ高慢を鼻にあて、親おやかたのぐち(愚知)なるをさげしみ、友達をあなどり、かりそめにも己れを是とし人を非とす。或いは世間のまじわりをいとひ、独り居ることを好み、あるいは甚だしきときは気のちがふかたもありとみえたり。」*1

「うまれつき利根無欲けなげなる人、此のやまい多し。」

さらに、高慢や孤独という現象には現れなくとも、“自分が設定した狭いチャンネルでだけ他人とつき合ってそうであることに疑問を抱かない者たち、”あるいは“自分というものを守るという動機しか持たない者たち”と言ってみれば、ほとんどの現代人はあてはまるか。

*1:p164 「翁問答」中江藤樹・日本思想体系、中央公論版p163

妊娠から遠いわたし

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 strictkさんへの応答が遅れている。今日、漫画「NANA」というのを少しだけ読んだ。続きを読もうと近のリサイクル古書店にいったら、十数冊でているはずのこの漫画だけが一冊もない。少女マンガの棚には慣れていないのでそう確認するまで数分かかった。*1準備ということもないが、「西尾幹二のインターネット日録」というのがあるのを知り読んでみると、大したことは書いてなかった。

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/ 9/9

落合恵子(作家)さんの文を批判している。

(落合)私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。

(西尾)落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

「落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。」というのは「為にする問いかけ」である。人間存在というのはマルクスを持ち出すまでもなく関係性の束とも考えることができる。存在としてのわたしが「けっして「個」ではない。」というのは正しい。

しかし、<実存としてのわたし>については「やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。」という断言が適切であろう。ところが、次の文章「このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。」を読むと少し違和感が残る。人権を考えることは普遍的政治的な立場に立つことではないか。セクシュアリティを含む困難に真正面からぶつかったとき、人権概念は役に立つこともあればそうでないこともある、と思える。*2人権という概念を最終審級とすべきではない。概念ないし言葉を大事にするのではなく、困難にあるあなたと(それに関与しなければならないわけではない)わたしという関係が当為ではないが不可避である、ことが大事であると思われる。(しかしながらたぶん)落合さんが立ち止まっている問題もそうした問題であることは間違いないであろう。したがってここでの落合さんへの疑問は、わたしとは多少言葉の使い方が違う、というだけのことになった。

一方、西尾幹二の方はいちゃもん付けをしてるだけだ。「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」この文章の多義性に、西尾氏のマジックの種が隠されている。「野原9/23」などで丁寧に触れたとおり、母ないしそれに代わる他者に依存する時間の持続がなければ、わたしたちは「ポリス的動物」になりえない。それと「独立した大人でも諸関係や国家に依存している」というのは別の問題だ。はっきり書かないのはそこに思想的弱点があるからだろう。

「彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」この二つの文章は明らかに矛盾してますね。後者はニーチェとも言えるが、芸のないニーチェはニーチェから最も遠いものだ。

追記「トラックバック」というもがよく分かっていなかったので、一度やってみようと、畏れ多くも西尾氏あてに試みたが、2回失敗しあきらめた。無難だったろう。

*1:翌日もう一度行ったらちゃんとありました。人気漫画コーナーという棚で集英社の棚とは別のところにちゃんとあるのだ!

*2:ろくな体験~闘いもしてないくせに、えらそうに言っても良いのか?(陰の声)

西尾幹二はルサンチマンか?

 上記を書いてから思いついたのは、これって「大虐殺なかった派」に似ているということだ。なかった派は

1)「大大虐殺があった」とAさんは主張している。

という命題をまず立てる。そしていくつものトリビアを用意して、

2)「大大虐殺があった」という命題は成立しえない。という結論を導き出す。西尾氏も

1)「「個」が(あるいは人権が)絶対的な価値である」と落合氏は主張する(そう信じている)。

という命題をまず立てる。それに対し

2)「「個」(あるいは人権)は絶対的な価値たりえない」ことを立証する。という手順を辿る。なぜ自己を主張するのに他者(それも平板化された他者)を必要とするのか。ジェンダーフリー派の攻撃による危機なんていうありもしない状況認識が必要なのか。

「美は自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余だ、*1」とニーチェは言っている。もちろん書くことという行為もそうでなければならない。2)という主張をするために1)という前提が必要であると考え、そして1)が“わたしたちを脅かしている”という認識のもとに、やっと2)という自己主張に辿り着く。このような発想法は典型的にルサンチマンの徒のものである。“それがわたしたちを脅かしている”と警告する時点ですでに失格である。

『NANA』8巻で主人公はなんと“母性本能”という言葉にぶつかってしまう。母性本能なんて丁度ニーチェの時代に流行った言葉でもうとうにお蔵入りかと思われていた。そんなカビの生えた言葉であってもひとはそれにぶつかり血を流す。「自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余」として生きる以上そういうことも当然あるのだ。

“それがわたしたちを脅かしている”と警告するものたちは、わたしたちの生に敵対するものだ、というのがニーチェの主張である。西尾にそれが分からないはずはないのに。

*1:p105『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫

もっと不幸な子供

「うちのバンドには、ナナといい、シンといい、人様の愛情にめぐまれずに育ったやつらもいますしね*1」漫画『NANA・9』(isbn:4088565606)のこのセリフを読んで、

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/  9/9の西尾幹二の下記の文章はやっぱり問題じゃあないかな、と改めて思った。

「落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。

 もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。

「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。」

 「もっと不幸な子供がいる。」と西尾は事実を記す。しかし西尾は彼らについて何を知っているのか。この文章の上で彼らとどういう関係を結んでいるのか。「彼女は見方によれば特権者の側にいる。」というのは正しい、ただしそれは「もっと不幸な子供の立場に立てば」の話だ。不幸な子供が生きのびること、それは「「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」ということが(仮に理屈の上で分かることがあったとしても)絶対に分からない生を生きるということだろう。西尾は「もっと不幸な子供」の実像について何も興味を持っていないし知る必要があるとも考えていない。西欧中世の偉い坊さんが最も貧しい者について熱心に語りながら、その実像を知らなかったのと同じだ。(ニーチェ系のマルクス主義批判とはこうしたものなのだが。)

「お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。」

「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」

「もっと不幸な子供」はそうした生い立ちを持ったというだけで、真の「個」には辿り着かないだろう、ほとんどそう言っている。そういうつもりはなかった、と西尾はいうだろう。だが、こういうものの言い方をすれば、「もっと不幸な子供」にはそう受け止められる。こういうものの言い方をしてしまうのは、「もっと不幸な子供」のことが眼中にないからだ。眼中にないなら引き合いにだすな!

*1:「人様」と婉曲表現しているが、親に愛されずに、の意だろう。

「私」(主体)の余白に

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)

 strictkさん 応答が遅れてすみません。

ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。

『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。

「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。

もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。

さて、一番の論点は

☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。

この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、

あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。

これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。

 子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。

「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)

倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。

 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。

性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。

(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。

望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。

 性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。

*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫