昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。
世捨て人(削除予定)
入金したので「波状言論05号」、とか言うのをメールしてきた。1/4ぐらい斜め読みしたが、北田氏と東氏若いのに昔語りなんかして うーん みっともないんじゃないの。要は自分の思想の核がないんだろう、だったら学問だけしとけ。
まあ野原の如き世捨て人がこんな雑誌読むのが間違いだが。
あなたに向きあって
向かへゐて千代も八千代も見てしがな空行く月のこととはずとも
(貞信尼)
<動物化>と創造的反抗
「歴史の終焉」というコジェーヴの議論についてバタイユが解説してる文章を読んだので、ちょっとまとめてみよう。
前提としては、「人間とは否定を行う存在である」ということ(ヘーゲルのテーゼ)がある。であれば「もしも創造的反抗がなく所与がそのまま受け入れられるなら」そういった存在は果たして「人間」と言いうるのか?人間の姿をしているが動物の特徴をもってると言えるのじゃないか。*1
わたしたちがみな同質的である社会の到来が、歴史の終焉の条件である。つまり「人々が相互に対立し、様々な人間的な様態を次々に実現していた活動が停止する」ということ。*2
ヘーゲル、マルクスにおいては人間たちは承認のために互いに闘争し(階級闘争)、また労働を通して<自然>と闘争する。しかしいまや<自然>は決定的に制御されてしまっている、人間と調和してしまっている、闘争は必要ない。……戦争と流血の革命の消滅。<人間>はもはや自分自身を本質的には変化させない。認識の根底にある原則も変わらない。芸術、恋愛、遊び等々、要するに<人間>を幸福にするものはすべて、そのままに保たれる。*3
<動物化>についてははてなキーワードにあったはずと思って見るとしっかり、百行以上あった。ただ当然ながら、バタイユとはニュアンスは違う。「絶対的引き裂きのなかに自分自身を見出す*4」という契機抜きには人間は人間たり得ない、というのがバタイユの人間観。
「…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。」と東氏はいってるらしいが、あらかじめ同質化されてる他者から承認されても、バタイユ的には否定を体験したことにはならない。
また、「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練であるが、」と浅田氏の本のなかにあるらしい。軍隊という制度において目的のために駆り立てられる人間も、死つまり「否定的なものを真っ向から凝視し、その傍らに留まり続けるとき」(ヘーゲル)という体験からははなはだ遠い。
「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練である」といったセリフは近い将来薄められて大量散布される危険性がある。バタイユの言うことは、神秘的でヒロイックすぎてついていけないと思う人もあろう。ヘーゲルやバタイユがどうあろうと、「戦争のために死を賭ける」というのは普遍的に馬鹿げたことだ。でもそう言いきれるのか。植民地解放戦争などの場合は「馬鹿げた」とは言えないかもしれない。日本人が、先の支那事変の悪を承認したくないという(ひそかな)思いを持ちながらやる戦争に1ミリの正しさもないのは自明だ。
話が逸れた。現在の日本に対する「動物化」という診断は、わたしを含めた多くの人にとって切実に響く。わたしたちはすでに欲望からさえ見放されつつあるのだ。というか、欲望から自由になるのは良いことではないか。ひとは衣食住さえ満たされればよい。若い労働者の救済と男女平等のためには、労働時間半減ぐらいのワークシェアリングが必要だ。より少なく働きより少なく食べより少なく遊ぶ。人間は自己の深淵を見つめる時間を限りなく持てるようになる。医療費も半減すれば死も身近になる。
絶対零度な闇
いっさいの忘却。存在の夜の底への深い降下。無知の発する限りない嘆願。不安の河に溺れること。深淵の上の方を滑ってゆくこと。そして、完全無欠な暗闇の中で、深淵の恐怖を味わうこと。孤独の寒さの中で、人間の永劫の沈黙の中で、戦慄し、絶望すること。……私は神をもはや知らない。*1
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月〔拾遺1342〕
(和泉式部)
和泉式部とバタイユの間にはちょっと見、類似があるように思える。即ち、暗闇と絶望。でもやっぱり全然違いますね。和泉式部の場合、闇には湿度と温度があり切り裂かれた絶望につり合うだけの暗黙のアニミズムがあり、後半の救済を用意している。バタイユはただの暗闇ではなく完全無欠な暗闇を体験し打ちのめされ絶対的絶望におちいる。
*1:p89『内的体験』
デモとか好きなわけじゃないが
「私にはテロと戦う覚悟など一切ありません。万一、わたしの家族や親友がテロの犠牲になったらどんなことがあっても、小泉さんあなたに復讐します。イラク戦争はテロリズムの危険を増大させるだけだと、最初から分かっていたのに、あえて支持したのは小泉さんの責任ですから。」
http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/tentoHP-topB.htm
反戦ビラ入れで起訴、糾弾! 3月19日付で、反戦ビラ入れで弾圧を受けた3名の逮捕者が全員起訴されました。
野原でも言及したhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20040228
上記の件で、3人とも起訴というのはさすがにびっくり!! 日本はこのままいくと表現の自由とか政治活動の自由とかひょっとすると、数年でなくなる可能性もあります。皆さんも声をあげてください。
はい、デモに行って声をあげてきました。
一般経済学?
ほんとに出来が良くはないので公開したくもない。などと言い訳はよそう。デリダの「限定定経済学から一般経済学へ--留保なきヘーゲル主義--」について、今日ささやかなレポートをした。そのために作ったレジュメ。htm化したので読めるかどうか?
2項目削除
昨夜酔っぱらっていたので、というのは言い訳にならない。けど削除します。
Re:届かない言葉/端的なもの
今日、SOUL for SALE というサイトを熱心に読んでいて、
http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=273
「僕が今でも各種の反対運動(戦争だって輸入権創出だっていい)に対してどうしてもコミットメントをためらわざるを得ないのは、どこかで、どうしてこの人達はこんなに元気なんだろうという疑問を持ってしまうからで、」というところを読んで、私はあーあと大きくため息をついた。“オトコノコ的心性を叩くオトコノコ”の不毛性みたいなことを書いていて、非常に鋭い方だと感心していたのに。
「動員」とか「反対運動」とかがはてな周辺でも話題になっているらしいのだが、ほとんどフォローできていない。知らないのに批判することはできない。だから偏見まじりの感じでしかないのだが、その語られ方はほとんどの場合、大きな偏差を持ったまま出発しており、そのことにあまり自覚的でない、と言えないだろうか。
このサイトの例では、
「その数ヶ月後、大学の構内で学生運動の活動家が内ゲバで殺されるという事件が起きる。」略ある活動家は「「事の非道理さ」を訴えかける演説をぶった。「人が死んでるんですよ!」とその女性は声を荒げて叫ぶ。」この場合、活動家の方が悪い、という言い方ができる。彼女が何を訴えたのかいまいちはっきりしないが、「命の大切さ」自体は自明でありメッセージを構成しない、つまり彼女はなにか政治的なメッセージを発しながら、それを政治的言説として分節化したうえで相手に売り込むという努力をあまり払わず、「命の大切さ」という否定不可能な命題を表現し本来の政治的含意をその裏側に隠したのだ。
わたしのこのページのトップにも「レイチェル・コリーの殺害を許すな」と言う趣旨が書いてある。「命の大切さ」を押し立てて他人に迫るのは卑怯なのだろうか。それは違う。イスラエル/パレスチナについては、どちらの側からも、「命の大切さを押し立てた宣伝」が為されている。しかし一人の命の値打ちをより高く売りつけることに成功しているのはイスラエルの側だ。そうであるかどうか見抜くことができるかどうかが問題である。漫然とテレビ、新聞を見ていたら分からない。
で論点は、このSOUL for SALEさんは、政治的課題をそれ自身として受け取ることができず、宣伝の質の高低という問題に還元してしまう、ということだ。
“反対運動をしている人々が元気”というのはどういうことかよく分からない。確固とした価値観に帰依しているから揺るがないというソフトスターリニストも多いが、そうした人たちばかりが反対運動をしているわけではない。
政治的メッセージはある要請を行う。「わたしの意見に反対でなければ、~~してくれ」と。それを押しつけがましいと感じる感覚はデフォルトとしては分かる。しかし、わたしたちはアプリオリに政治(強制)の中に生きているのだ。税金や保険は強制徴収される。江角マキコはそれを認めたくない奴隷たちによって過剰に叩かれるだろう。黙っていれば、それは「イラク派兵支持」であるし「テロに対して毅然とした勇気を持つ」ことにさせられてしまう。奴隷であり続けたければ自分が最初からそう望んでいた事にすればよいわけですが。
わたしのこの文章はたぶん、SOUL for SALEさんに対してはかなり(批判として)外れているだろう。似たようなことを言うひとが多いと感じたのでそれに対して書いてみた。監視カメラ云々についての感覚はよくわかります。SOUL for SALEさんどうも失礼しました。
『新潟』メモ1
金時鐘氏の長編詩集『新潟』*1の一部を読んでみよう。
この長い長い詩に作者は様々なモチーフをぶち込んでいるが、そのなかでも最も重く深い(表現不能性の方へ沈んでいく)モチーフの一つは、「1948年4月3日*2に火の手を挙げた済州島人民蜂起事件」*3だろう。その事件の無惨な敗北は、作者によって“やみくもにふくれあがった風船の中で自己の祖国は爆発を遂げた。”と言葉少なく語られるだけだ。だが祖国とは何か。祖国とは金時鐘にとって、済州島73,000人の死をその背後に張り付かせたものだ。
なぜ祖国は終戦とともにだけあったのか?!自己の少しもかかわりあわないところで生き返ったという祖国をみんなはどうしてそうもたやすく信じたというのだ?!少なくとも祖国は与えられるべきものではない。*4
確かに大日本帝国は滅んだ。しかしたちまち、アメリカとソ連という二つの新たな勢力が朝鮮半島(この作品では形の類似から食用兎(ベルジアン)と呼ばれている)を分断するに至った。われわれのものである祖国は、終戦という瞬間において、確かに存在した。存在したとわれわれは信じた。だが失われた今となっては自らの闘いによって勝ち取ったものでもない祖国が本当にそこにあったのかも少し不安になる・・・そのような意味を読みとることもできるだろう。祖国への思いは今も金時鐘を呪縛している。
*1:isbn4-651-60048-4『集成詩集・原野の詩』 p299-478
*2:1953年と誤記していたので下記の指摘を受けた
*3:「済州島 人民蜂起 事件」をグーグルすると例えば下記が出てくる。http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htm というかよくみると野原のも3つ目に出てくるのだ。間違ってはいけない(自戒)。
*4:p404同書。これらの詩行は本当は、16行に行わけされているのだが、むりやりくっつけてみました。http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/niiga04.htm に縦書きで行分けした元のかたちを(前後をちょとだけ追加して)UPしてみた。