ヘーゲルとは

滝沢克己氏が、ヘーゲルの核心を簡明に語っている。

『現象学』の数年前に書かれた『キリスト教の精神とその運命』において

  1. ヘーゲルは出会った、ほかならぬ自己そのものの成立の根底、すなわち 真に無条件に実在する基体であり同時に主体である聖なるもの、に。(ヨハネ伝に、「太初の言」といい、「われは生命なり、真理なり」と親しく語る絶対者)に。
  2. 人間各自の脚下にはこの基点が存在するが、それに気付かず、他のことに気を取られる。「無意識の自己欺瞞」
  3. それにもかかわらず、その背後から働いてくる真実の基体即ち主体の治癒的圧力によって覚醒への過程をたどる。「弁証法的運動」*1
  4. (ところで話は飛びますが)「たまたま貨幣や資本のダイナミックな交錯であるわたしたちの社会全体」というものが、マルクスの資本論で取り上げられたのは、まさにそれこそがここで言う<基体>だと思われたからだ。ヘーゲルは自己の脚下にある基体を重視したが、マルクスは自分が世俗生活を営むその関係性の総体をそれに代えた。*2

神さまが見てらっしゃるのよ!!、とそれを知らずに「絶対知への到達なんてそんなに都合良くいくものか」と言ってるのは無知。というか神がいなくてもそう考えるしかない、と(もちろん)ヘーゲルは言っている。

*1:cf白水社『ルカーチ著作集11・若きヘーゲル・下』の月報13より

*2:基体という言葉を「実体」に置き換えても良い、そうしようと思ったが、とりあえず変えないでおく。

曙と精神

 この間まで必死にヘーゲル読んでたのだがというか“必死”ではなかった。わたしは<必死に>といった情念に価値を置くマイナーグループのなかに長く身を置いた(とも言える)が、どうも<必死>は苦手である。せいぜい安吾の“あちらこちら命がけ”くらいか。さて目標をたて一応達成したのは、長谷川訳の精神現象学を「とにかく」最後まで読むことでした。ですが何が書いてあったのか分からないまま今では忘れてしまいました。それでも良い。で今日は少しだけルカーチを読みながら復習。

  1. ヘーゲルにとっては、ただ全体的精神のみが一個の現実的歴史を持つ。*1

 ここで<精神>についての見当違いの連想をはさむ。大晦日の野原日記に曙のことが出てくる。「大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。」曙では気象現象のことか何か分からないのでボブサップと書いてありますが、この文章において、ヘーゲルと曙は、知的エリートの象徴としてのヘーゲルと非知的エリート大衆娯楽の象徴たる曙という、いわば旧制高校的差別的ヒエラルキーを露骨に表現しているようにも読めます。しかしながら知的優越において大衆から自己を差異化しようとするさもしい心ほどヘーゲル思想から遠いものはない、ということを精神現象学から読みとることは十分出来ます。すなわち、理性(観察する理性/理性的な自己意識の自己実現/絶対的な現実性を獲得した個人)は否定され、<真の精神>すなわち共同体精神というものにならなければならぬのですから。日本人の何割かが同時刻に曙を見ていたということは、曙が<精神>だったということだ。ぶざまに太った巨人はどっと倒れ、そのとき共同体は歓喜する。相撲の原型は(土蜘蛛の時代)ぶざまに太った敵部族の巨人がどうと倒れるのを見て快哉を叫び共同体に同一化する儀式だった(と言われている)。なぜか日の丸を付けた曙は二千年の民族の記憶を甦らせつつ、そのとき倒れた。

*1:同書p388

労働

とにかく、精神現象学のポイントの一つは労働です。

ルカーチによれば、*1

  1. 労働の対象においては不変な自然の法則性が働いている。労働はその知識、その承認を基礎にしてのみ行われるし、また効果を持ちうる。
  2. そして、対象は労働によって新しい形式を得る。変容し他のものになる。

儒学でも格物致知といいますから、1)は理解していた。だが対象が変化するという把握がなかった。この差は大きい。(べつにヘーゲルのせいで産業資本主義が興ったわけではないが、その流れに棹さしていた。)

マルクスは『経済学・哲学手稿』でこう書いている。

「ヘーゲルは近代国民経済学の立場に立っている。彼は労働を人間の本質として、自己を確証する人間の本質として把握する。」「だがかれは労働の肯定的側面だけを見て、その否定的側面を見ない。労働は、人間が外化の内部で、あるいは外化された人間として向自的になることである。」

そして、私たちをとりまく外界、都市や住居、文化や文明を、人間の活動の総体によって人間の類的諸力が外へ作り出されたもの、と捉えます。人間とは自己とその環境を自己産出するものだ、と。(ヘーゲルは本当にそこまで言っていたのか、という疑問も少し感じるが。)*2マルクス『経済学・哲学手稿』といえば、ほどんど理解してなかったと思うが高校生の頃文庫本で持ち歩いていた思い出がある。1969年*3。<世界は私たちが作ったものだ、だから私たちが革命する>といった論理、というより論理以前の熱(fever)をわたしたちは持って歩いていた。

*1:同書p153

*2:ほとんど初期マルクスなヘーゲルをルカーチからちょっと孫引きしておこう。外化(エントオイセルング)に関わる。「(α)わたしは自分を労働において直接物たらしめる、つまり存在である形式たらしめる。(β)わたしはこのわたしの定在(ダーザイン)をわたしから同様に外化し、それをわたしから疎遠なものにし、そこにおいてわたしを保持する。」同書p168

*3:私の場合は1970年でしたが

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。

派兵の根拠無し

小泉は「市評議会などの存在により治安は安定している」と衆議院本会議で述べた。が実際には、市評議会は24日に解散している。派兵は根拠を失ったので撤回すべきだ!!

落書き

「風、強力な流れ、強大な大洋が征服され開拓される。そういうものに遠慮しないこと--個別的なものにすがりつく哀れな感傷性。」(ヘーゲル1805~06年講義録欄外の書き込み)*1

 哲学書に突然意味不明の詩的文章が出てきたので面白く思っただけ。えーと。たった一人で大洋を渡ったとすると、それは自然の合法則性、必然性、因果関係に対する人間の意志力の勝利のように思えるがそんなことはないでしょう、といっている。

*1:ルカーチ『若きヘーゲル下』p186

労働過程

 労働過程は直接的欲望から生じる。労働過程の完成は、その社会的根拠、つまりその必然的欲望を満足させようとする人間の衝動に還元される。とヘーゲルは言っている。*1

 世界が人としての自然な充足の上に乗っているという世界観が資本主義だった、かっては。

*1:というのはルカーチによるマルクス化されたヘーゲルだが。cf同書p187

暴力と哲学

 ある暴力は、国家あるいは世界の意志をここで実現するためには、Aという存在ではなくその否定が必要だとする論理によって肯定させる。私たちの世界は権力関係によって成立しており、権力関係の歪みが論理(哲学)を必要とする。哲学が嫌われるのは当然だ。

からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html