弱者の反抗可能性

前日(12/23)に書いた「弱者の最終解決」は訂正していきたい。趣旨は以下のとおりです。

「弱者の最終解決」について、ある方から論旨不明と言われた。(感想ありがとうございます) おっしゃるとおりである。短い文章に異質の多くのことを詰め込みすぎて意味不明になっている。書き直した方がよいだろうが、とりあえず、モチーフをどんどん列挙しておこう。

  1. DVで殺される日本人は毎年200人いる。
  2. 日本人が殺されてもそのほとんどは社会的にニュース価値がないとされ、わたしたちの問題意識に上がらない。
  3. DV犯罪の表をながめると一つの特異性に気づく。DV被害者=女性であるのに(例外は4%)、殺人の場合被殺害者の4割が男性になっている。
  4. これを理解するためには、ある種のゲーム理論が有効である。(B=弱者、A=強者とする)
  5. 一般にBがAに服従するとはどういうことか。(この場合服従という関係性が悪であるとも善であるとも見なさない。上司への服従はむしろ善であるが。)服従しない場合、AはBに罰を与えうる。普通は「与えうる」という理論的可能性だけで服従は継続される。二人の間における関係をゲーム理論的に考えてみましょう。
  6. http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/ にある、桜井芳生氏の「フーコー的権力論を語りたくなる状況に関する、 非フーコー的権力モデル -続・ナッシュ(ハーサニ)交渉解援用による、権力と意味の一モデル-」という長い題の文を前日読んでいたのでこういったことを考えたのでした。
  7. (モデル1)Bは常に反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗せず暴力は顕在化しない。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  8. この(モデル1)は、DVには当てはまりそうもない。DVにおいては最初から暴力は顕在化しているからだ。
  9. (モデル2)Bもひょっとしたら反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗できるとも思っていない。Aの暴力は最初から激しくBを無気力化するという効果を生んでいるから。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  10. この場合Bの反抗はAの暴行をエスカレートさせるという効果を生む。したがってBの反抗は理性的ではない。しかし反抗しないでも、暴行のエスカレートが生まれることがある。この場合反抗しないことに理性的根拠は無くなる。理不尽な暴力はBを無気力化し関係は長期化する。不思議なことに、関係から逃げることをBは望まない(らしい)。
  11. BによるAの殺害は何を意味するのか。離婚別居といった水平的な逃亡ではなく、関係自体の抹消、垂直的な道が選ばれる。(このことの意味はよく分からない)いずれにしても確かなことは、(モデル1)に比べてもはるかに希少だと思われた反抗可能性が存在したことが強力に判断できる、ということである。
  12. 前回の文章の分かりにくい原因の一つは「最終解決」という言葉に引きつけられてしまい論旨が乱れた点にある。この言葉は一旦削除する。
  13. いままで書いたことは、二人の間の人間関係の話である。したがってイスラエル/パレスチナといった固有の歴史と数千万の人々の存在が関わる話とはレベルが違う。安易な適用は慎むべきである。しかしながら、「暴行のエスカレート」といった事柄を考えようとするとやはり、イスラエルを思い出してしまう。(モデル3)を記述してみてから、ミクロとマクロはやはりレベルが違うのかどうか考えてみよう。
  14. (モデル3)Bは反抗可能性を持つ。Aの暴力は最初から激しいがBを無気力化するという効果は生まなかった。むしろ効果的だったのは「言葉の上での和平や合意」、Bの総体ではなくボスたち(アラファトたち)だけへの懐柔だった。「和平という言葉」によりAは有利な立場を得る。だがAの思いこみの中ではBはそもそも存在すべきものではない。この場所は神によってわれわれに与えられた荒れ地でなければならない。したがって、Bが存在するならそれはテロリストという呪われたカテゴリーにおいてでなければならない。AはBを挑発し、Bは反抗する。
  15. モデル1と2では、長い服従が続いた後、それでもBの反抗(可能性)が存在するのだ、というのが論点でした。(モデル3をDVに対比的に考えると、イスラエル建国からの50数年はDVであれば最初の2,3日に当たるのかもしれない。)わたしのモチーフは反抗可能性の存在を言挙げすることにあるので、その意味からは、モデル3は最も強力な傍証となる。

(問題点)ゲーム理論的発想とは何かについてわたしはよく分かっていない。ゲーム理論的なものは思想的に正しくないのではないか? という疑問に答えられない。

かんにんの四字

…『雲萍雑志』の原文ではこうである。 「ある人、文盲なるものを異見して、世の交はりは、他の事はいらず。唯堪忍の二字 をよく守るべしといへば、文盲の人は、頭をかたむけ、かんにんとは、四字にて侍ら ずやと、指をもてかぞへ、御許にはおぼし違へなるべし。かんにんと四字にて侍ると いへば、異見せし人云ふ。愚昧の人かな。堪忍とはたえしのぶとよみて、二字なりと いへば、またかうべをかたむけ、たえしのぶならば、又一字ふえたり。五字となり侍 るべし。何と仰せありとも、我等は四字とおもひ侍れば、四字にてかんにんはいたし 侍るなりといへるに、その人また云ふ。汝が如き愚昧の文盲は、実に諭しがたし。人に似て虫同様なり。おのれがまゝにすべしと、大にいきどほりければ、文盲の人笑て 何とも仰あるべし。我等は、かんにんの四字を知り侍れば、悪口せられても、少しも 腹立ち侍らざるなりとて、笑ひ居しとぞ。その智には及ぶべく、その愚にはおよぶべからず」裏モノ日記 2003年12月

http://www.tobunken.com/diary/diary.html にあったこの笑い話は面白い。ある!ある!いまでも、という感じがするからだ。教師といったものはとかく謙譲の美徳とかそう言ったことを言いたがるが、自身は臆病さの鎧を着た自己愛の塊であり他者のことなど全然見えてないことが少なくない。その点庶民(被抑圧階級)は自己なんてものを出そうならたちまちそれは否定されるということなど骨身に染みて分かってるわけだ。というわけでインテリは自己否定を、庶民は反抗のTPOを学ばなければならないわけだ。

弱者とはだれか?

12/25の「弱者の反抗可能性」に対して、またAJさんが「疑問」を届けてくれた。了解を得たので下記にコピーペーストします。*1

ところで、訂正文を読んで以下の疑問が又、湧いて来たので記してみます。

1)弱者とはだれか?   権力関係で、支配、服従、隷属・・を強いられる存在はたしかに、強者に対して弱い位置にいる。しかし、夫婦関係それに準ずる関係ではいくら封建社会においてでもふたりを権力関係とは呼ばないでしょう。つまり、弱そうにみえる位置をとりながら<弱い>ことを武器にして支配的になることも可能なので女性の関係技術のひとつでしょう。強い夫の方が結局は従属していることもあり、強弱は判定し難い。

2)Dvの場合、夫の暴力ははじめから、といううわけでなく、必ず蜜月があるようです。そして、それがサイクルになつていて激しい暴力の後必ずまた、蜜月が来る。ここら辺りが被害者に見える妻が逃げたりしないメカニズムとなっているのではありませんか?

3)しかし最期に妻の側から逆襲が起こる。これは「反抗」と呼ぶよりは妻からの「宣言」ではないでしょうか?と言うのは、そもそもDv的夫は関係意識の底の方で他者性に欠けており、自分と妻の区別がなくてふたりの一体化を思い込んでいて妻は自分の一部だと感じているのでは?従って妻が他者として現れてくることに耐えられずメッタ打ちをやって否定しようとする。やられる側は、場合によってはそれが気持ちいいこともある。しかし度を越せば「宣言」へ。なにのマニフェストかと言うと妻にとつて夫は不可分のもの。つまり、殺すことで自分化-永遠化させる働きを持たせるのでは?結局ふたりは共に他者性に問題がある、といえる。

4)3のスキームはイスラエルがパレスチナの地を自分のものと思い込んで先住民を差別支配するのに擬似しているが、DVと決定的にちがうのは性的関係では反発と見えて引き合っている複雑さが必ずあります。<愛憎>といえる両義性が個的な関係では必ずあります。国家レベルでは少ない。

5)従って、「弱者の反抗」というべきメカニズムはDV関係ではあり得ないのでは?

6)本来的な「弱者の反抗」はどこに存在しているか?・・はまたの機会に。(以上AJさんからのメールより)

*1:「了解を得たので」と書くと、了解を得なければコピペしないという原則を持っているようだがそうでもない。私信はともかく、ホームページや公刊された本などについての著作権侵害は緩やかに考えて良いと思う。一般人(って変なことばだが)同士の場合、この程度のサイトでも相手がサイトを持ってなければ、私の方が情報強者である場合もありうる。そういった問題への配慮は必要になるだろう。

他者

他者といっても自己と全然別のものではなく、本質的には自己と同じものなのです。*1

『精神現象学』は面白くないこともないのだが、読むのに時間がひどく掛かるのが困りもの。長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)で、読んでます。なんとか読了したい!すこしずつメモをつけてみようと思う。

 他者が自己と同じ、だなんてそんなことを言われても日常感覚としては納得できない。だがまあ儒学では、世界は<理>であり自己の根拠も<理>であるのだから同一性が支配している。それに比べると、ヘーゲルでは他者~否定性が最後には消滅する(のだろう)が、この分厚い本を通じてずっと大活躍し続ける。というか儒学では二千年経っても、仁、理、気、性など十いくつかの言葉があるばかりで、カテゴリーのダイナミズムやドラマがほとんどない。この本は同じく同一性の勝利に終わるはずなのに、まったくそう思わせない、むしろハラハラドキドキこれでもかいわんばかりに葛藤が出てくる。これは、なまなましい他者との葛藤をあつかった戯曲、小説たちが(ある変容を施しただけで)そのまま哲学として、取り上げられていること、からくるのだろう。アンティゴネ、ヴィルヘルム・マイスター、ファウスト、群盗、ドン・キホーテ、ラモーの甥、あるいは革命、ナポレオン、イエス・・・

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p128 isbn:4480082905

食欲

 われわれが食物に面し、それをとって食べるさい、食物が自我に対立し自我から独立して絶対におかすべからざる他者性をもつと信ずるとすれば、とって食い自己化し得ないが、他者にちがいないとしても、自我に対立するだけの力をもたず、無力であると自我で確信しているからこそ、とって食べることができるのです。この意味で根底に無限性の立場をとる自己意識であってはじめて欲望を持ちうるといえます。*1

バタイユ、ラカン以後わたしたちの時代はまさに欲望の時代だ、といいうるだろう。ヘーゲルの欲望はそれとは違いそんなにギラギラしていない。金子氏のこの文章を引用したのは目の前の一切れのパンを食べることが、“根底に無限性の立場をとる自己意識であってはじめて”可能だ、という大袈裟さに落語的おかしさを感じたため。

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p129 isbn:4480082905

生命

長谷川訳のヘーゲルをちょっと引用してみよう。

まわりの生命界から栄養を奪いとって自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体は、この行為によって、自分の自立の根拠たる他との対立を克服する。自己統一を自覚することが、まさしく、他との区別を流動化することであり、形態が一般的に解体することである。が、個の自存状態の破棄されることが、逆にそれがうみだされることでもある。というのも、個の形態の本質たる生命界の全体と、自立した生命体とは、もともと単一の存在であって、生命体が自分とは別のものをとりこめぱ、この単一の本質が破れて分裂が生じるのだが、こうして、無差別の流動状態に分裂の生じることが、まさに、個が形成されることにほかならないのだから。このように、単一の生命界は、分裂してさまざまな形態をうみだし、と同時に、自存する区別を解体していく。分裂の解消がさらなる分裂と分化なのだ。運動全体のうちに区別される二つの側面--自立した共通の媒体のうちに静止して共存する形態と、生命の過程--がたがいに浸透しあっていて、過程が形をなすとともに形をこわしていき、形は形で、こわれたかと思うとまたできあがっていく。流動する場というとらえかたは生命の本質を抽象化したもので、形をなすときはじめて生命は現実の生命となる。そして、それが部分にわかれるということは、部分がさらに分裂することであり、部分の解体にほかならない。まさにこうした循環過程の全体が生命をなすのである。*1

例えば、我々自身も生物の自立した一個体でありながら、他の生物を食べることつまり、<生命界>との連続性を確認することによってしか生き延びられない。生命界は絶えざる分裂と分化でありまたそれと同時に、「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動--静止しつつたえまなく変化する無限の運動--」でもある。生命界における多様な力の葛藤が総体としてある均衡において一つの世界として語りうるものになる、という思想は儒学的だ。儒学においては生命界におけるエコロジー的絶妙なバランスがむしろ人間社会の理想モデルになる。<生命>はヘーゲルにおいては体系の最初の方に出てきて、つぎに出てくる<自己意識>によってあっさり否定される。この二つのカテゴリーは王陽明の「心即理」に似ている(もちろん「理=生命」「心=自己意識」)が、王陽明にとって「理」が最終のカテゴリーとしての権威を失うことはなく、唯一の我が心はなるほど全肯定されるのだが聖人のそれと同一として理の側に引きつけられた上で肯定されるにすぎなかった。前項「食欲」で書いたように日常生活のなかの些細だけれどえげつないと言えば言える否定性みたいなところに執着するというのは哲学者ヘーゲルの偉大なところだ。

*1:p125『精神現象学』長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)

不幸な意識は幸福な理性へ

「自己意識」の章が難解だが刺激的なのに比し、「理性」章(のはじめ)はつまらない(だがその分今までよりはだいぶ早く読める)。長谷川氏によれば、「不幸な意識がどのように分裂を克服したのかは説明されないまま、「B.自己意識」から「C.(AA)理性」に移ると、不幸な意識は幸福な理性にうまれかわっている。」*1これまで外界が、自分の独立と自由を否定するかに思っていたのに、もはや平静、「現実の一切が理性以外のなにものでもないことを確信する」に至る。まだ161ページ、1/3弱のところでそんなことを言って後が続くのか心配だぞ。この理性の勝利と「わたしはわたしだ」という命題が同義だとされる。解説によればこれはフィヒテ哲学の核心なのだと。で、「C.(AA)理性」はABCに分かれ、最初の「A観察する理性」(168~236)は当時の自然学の理論をなぞり批判しているだけでつまんないと長谷川氏も言っている。とっとと読み飛ばそう。

*1:p135長谷川宏『ヘーゲル精神現象学入門』isbn:4062581531

人生は偶然か

・・有機体は、偶然のつながりのなかで生きているかにみえる。*1

見たところは偶然に見えるが、本当は「自己保存の必然性」という本質をもっている、とヘーゲルは言う。でもこれは現実が自分の理論に当てはまっていないのにむりやり理論を優先させて、レトリックで誤魔化しているところだ。

・・有機体が行うことは、一般的な概念の埒外にあり、その直接的内容からするとまったく法則性がないものである。だから、その行為には内容もなければ効力もなく、機械の働きにも及ばない。*2

ここはけっこうクリティカルな部分だ。一般に人間のやることは、機械や動物よりも偶然性やデタラメ性が強い。一面ヒューマニズムの代弁者であるはずのヘーゲルはしかし偶然性を許容できない。しかし機械の方がまし、と言ってしまえば、恐怖の全体主義国家主義者ヘーゲルになってしまう! フランス現代思想がjeuとかいうのはこういうところからきていたのか。ところで偶然とは何か?

ところで、AJさんへの応答と「主と奴」レジュメが遅れています、すみません。

*1:p181『精神現象学』

*2:p182

言葉の上の正義

 大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは(一応掃除とかもした後)孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。でも紅白とか覗いてみたがヘーゲルより面白くないとはどういうことだ! p262ギリシローマ時代、徳性は民族共同体にしっかり根を下ろしていた。

 近代の徳性は、共同体をぬけだした本質なき徳性であって、実質的内容を欠く、観念とことばの上での徳性にすぎないのである。世間とたたかう徳のおしゃべりの空虚さは、その意味するところがはっきりすればすぐにも暴露されてしまうので、徳のいい草にはなんの新鮮味もないのだ。で、わかりきったことをいわなければならないとなると、あらたなものいいを工夫して熱弁をふるうか、心に訴えかけて、いいたいことを内心でつぶやいてもらうしかない。(略)そうしたいい草の山や、もったいぶった口調には、だれも興味をいだかなくなっている。退屈なだけの話が興味をかきたてないのは当然のことである。*1

 で急に話は二百年後の現在に飛ぶわけですが、今年、時代の変化を観察できたのはやはり、総選挙の社民党と共産党の退潮でしょう。わたしは今憲法九条の削除に反対です。イラク派兵にも反対、つまり民社党よりも「社民と共産」に近い(といえる)。ただ、「護憲」「憲法9条」とかが絶対の正義であるかのように声高に言う人に対してはわたしも異和感を持ちます。建前としての絶対平和主義は、本音としての米軍(安保条約)と自衛隊という現実、と表裏一体のものとして戦後五十年間日本の言説空間でメジャーだった。正義派のひとはそういう風には現実を見ない。自分たちは常に正義であるが、残念なことに悪であるところの世間が正義を押しつぶそうとする。私たちは苦しいがそれでもたたかい続けるという志は失わない。シニカルに言ってしまえば彼らにとって一番大事なものはナルシズムなのだ。で、上記のヘーゲルは、わたしには(わたしだけかもしれないが)そういった正義派の人への揶揄としてそのまま受け取れるのです。

 各個人が自分の為に行為しているとしてもその行為の総和は、善を現実にもたらすことになる(はずだ)、とヘーゲルは思っている。ブルジョアの自由が歴史を前進させた時代もずっと昔にはあったのね。ということなのか。「なりゆきまかせの個人は自分だけのために利己的に行動していると思いこんでいるかもしれないが、実は思いこみの上を行く存在であって、その行為は同時に潜在的な善を実現する共同の行為でもある。」 

*1:p262『精神現象学』作品社 ページ数よりもどの部分かの方が大事ですね。「5理性」は、金子氏によれば「観察/行為/社会」と分かれる。「B行為」は「快楽/心胸/徳」と分かれる。引用は「c.徳」の終わりの方からです。

ウモジャ

 南アフリカのダンスと音楽の歴史をショーアップして再現する「ウモジャ」。NHK教育で今までやっていたがすばらしかった!わりと粗野なエロティシズムもいっぱい。ウモジャは、「TOGETHERNESS」(結束とか、みんな一緒に)という意味。共同体精神の現実のすがた??