教育勅語

教育ニ関スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

   御名御璽

昭和23(1948)年 国会で排除・失効確認を決議

告文

 告文(こうもん=天子が臣下に告げる文。こうぶん)

皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ

皇祖(こうそ)

皇宗(こうそう)ノ神霊(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(まう)サク皇朕(わ)レ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(ただかみ)ノ宝祚(ほうそ)ヲ継承(けいしょう)シ旧図(きょうと)ヲ保持(ほじ)シテ敢(あへ)テ失墜(しっつい)スルコト無(な)シ顧(かへり)ミルニ世局(せいきょく)ノ進運(しんうん)ニ膺(あた)リ人文(じんもん)ノ発達ニ随(したが)ヒ宜(よろし)ク

 皇祖

皇宗ノ遺訓(いくん)ヲ明徴(めいちょう)ニシ典憲(てんけん)ヲ成立シ条章(じょうしょう)ヲ昭示(しょうじ)シ内(うち)ハ以(もち)テ子孫(しそん)ノ率由(そつゆう)スル所(ところ)ト為(な)シ外(そと)ハ以(もち)テ臣民(しんみん)翼賛(よくさん)ノ道(みち)ヲ広(ひろ)メ永遠(えいえん)ニ遵行(じゅうんこう)セシメ益々(ますます)国家ノ丕基(ひき=国家統治の基礎)ヲ鞏固(きょうこ)ニシ八洲民生(やしま〈日本の美称〉みんせい=日本臣民の生活)ノ慶福(けいふく)ヲ増進(ぞうしん)スヘシ茲(ここ)ニ皇室典範(こうしつてんぱん)及憲法ヲ制定ス惟(おも)フニ此(こ)レ皆(みな)

 皇祖

皇宗ノ後裔(こうえい)ニ貽(のこ)シタマヘル統治(とうち)ノ洪範(こうはん)ヲ紹述(しょうじゅつ)スルニ外(ほか)ナラス而(しか)シテ朕(ちん)カ躬(み)ニ逮(および)テ時(とき)ト倶(とも)ニ挙行(きょこう)スルコトヲ得(う)ルハ洵(まことに)ニ

皇祖

皇宗及我カ

皇考ノ威霊(いれい)ニ倚藉(いしゃ)スルニ由(よ)ラサルハ無(な)シ皇朕レ仰(あおぎて)テ

皇祖

皇宗及

皇考(こうこう)ノ神祐(しんゆう)ヲ祷(いの)リ併(あわ)セテ朕カ現在及将来ニ臣民(しんみん)ニ率先(そっせん)シ此ノ憲章(けんしょう)ヲ履行(りこう)シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓(ちか)フ庶幾(ねがわ)クハ

 神霊(しんれい)此(こ)レヲ鑒(かんがみ)ミタマヘ

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/dainihonnkokukennpou.htm

1889(明治22)年 2月11日公布

皇室典範及憲法制定の告文

終戦の詔勅

詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syuusenosyou.htm

永久の禍根

 長々と引用したが、要は、「我カ皇祖皇宗(略)徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」の通りである。つまり、皇祖皇宗こそが徳(人間としての価値ある行為)を立てたのだ、ということ。

 さらに、教育勅語の起草者井上毅の論文「言霊」には次のようにある。「お治めになる」に相当する言葉が古事記には二つある。即ち、知らすと「うしはく」である。後者が単に領有するという意味であるのに対し、前者は占有とか支配といった意味はない。知らすとは「中の心が外物に対して「鏡の、物を照らす如く、知り明(あから)むる意」である。即ち、日本の「国家成立の原理」は「君民の約束(=契約)にはあらずして一つの君徳」にあることを示しているのが「知らす」という言葉。*1そして八木(やつき)によれば、この君徳とは単に中国風の「慈善の心」といったものをはるかに超えている。勅語の「宏遠」「深厚」ということばには人間的理解を超越するまでの原理の有り様を暗示しようとしているのだ。*2

 ところがその後天皇は戦争を始めてしまい、結果「終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スル」あるいはそれ以上ということになった。

「朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」。この文章は当然、天皇自らの退位を(許される場合には)意味しよう。したがって冒頭の木戸幸一の伝言を受け天皇が退位を決意(再決意?)したのは当然である。

ところが退位は為されなかった。わたしたちは<徳の根源>を失ってしまったのだ。

*1:以上p127による。八木公生『天皇と日本の近代・下』isbn:4061495356

*2:八木、同書p151

<皇祖皇宗>の効力

kuronekobousyuさんからいただいたコメントのうち次の部分について。

「天皇制」という言葉はもともと左翼が定義したものですがそれを保守派も現在は遣っているが、それはどうでもいいとして「千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?」という問いは(誰に対するのか?)アイロニカルな物言いですよね? 念のため確認しておきましょう。

たしかに分かりにくい表現になっているので補足します。

「千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?」という問いは右翼に対するものです。

(1)

憲法1条などの削除=天皇を憲法で規定することの否定、ですね。

歴史時間で考えると、

天皇を憲法で規定すること=明治憲法の期間(B)+戦後憲法の期間(C)

したがってその否定は=江戸時代以前的なもの(A)+未来的なもの(D) になります。

わたしの理解では、天皇制の根幹は<皇祖皇宗>という目に見えないものにあります。それが社会的に価値があるのなら、憲法から外してもそれは効力を発揮し続けるでしょう。

というかまずわたしたちの天皇は敗戦の禊ぎを済ましておらず、憲法から退くことによってその禊ぎを済ますべきなのです。話はそれからでしょう。

(2)

一方、戦前と戦後がきびしく対立しているという発想もあります。いわゆる右翼と左翼のひとはここに含まれます。

右翼というものは「千年以上(二千年以上?)続いた天皇制」を主張しながら、その千年以上に比べたらごく短い期間である明治憲法期にそれを代表させてしまうことに何の疑いも持っていないように思える。

「千年以上」続いた価値を真に考えるならば、「<皇祖皇宗>という目に見えないものが、憲法から外しても効力を発揮し続ける」という発想をとってはいけない理由はない、と思われます。

(3)

次に左翼のひと。

60年以上憲法1条を放置し、なおも護憲とかしかいわないで、なお天皇はただの羽根飾りのようなものと言い続けるのはおかしいでしょう。

人民主権なら天皇はいらない、と主張していくべきです。

黒猫さんはそういう立場だと了解しています。

(4)

アイロニカルな物言いをしているつもりはないのです。*1<皇祖皇宗>を信じているわけではないが、信じたいという気持ちもある。半分くらいかな。

<皇祖皇宗>は儒学の<理><天><民>にちょっと色を塗っただけのものですから基本的に国境は越えられると考えています。

*1:「脱構築」の試みである、と主張します。

天皇に絶対随順する道

姜信子さんの下記の文章はナショナリズムを少し深く考えようとするときに必須の幾つかの論点を、的確に浮かびあがらせており優れた文章だと思う。

http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/2004_08.html

日中戦争が始まった昭和12年に文部省が発行した「国体の本義」をひもとけば、日本という国のあり方、その臣民の徳目を語るこんな言葉。

「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立ってをり、我等の祖先及び我らは、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉體することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある」。

「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(みいつ)に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」(「国体の本義」第一 大日本国体 三.臣節より:昭和12年 文部省発行)。

まことに支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない」。(「臣民の道」文部省編纂 昭和16年 )

こういった文章に対し姜信子さんは言う。

で、私はといえば、聖なる使命を語り、大義を語り、栄光を語り、絶対的な存在(たとえばかつての天皇、あるいは神)のもとでの個の全体への一体化を語る者たちの、その誇り高い「語り口」、その「語り口」の底にある「他者」と「私」を分かつあまりに深い自己愛とでも言うべきものへの違和感をどうしてもぬぐうことができない。

わたしもほぼ同意見だ。

ただまあ、「絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。」となると自己というものは全否定しなければならないとされ、窮極のマゾヒズムになっている。朱子学においても我は否定されるべきものだがそれは哲学的存在論としてであり、日常生活の諸ベクトルを否定したものではない。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」といった諸活動を積極的に認めているのであって全く違う。

しかしながら少なくとも昭和12年以降、教育勅語の名に於いて、天皇への絶対随順が説かれていた。そこに矛盾があるという声は上がらなかった。

「わが生命と活動の源としての天皇」というものと、「天皇に絶対随順する道」との間には、わずかだが決定的な差異があると私は思うのだが。

 ところで21世紀の教育勅語愛好家はだいたい「天皇に絶対随順する道」を愛好しようとしているようでもある。悲惨な脳髄だと思う。

(姜信子さんの文章は後半が良いので読んでください。)

なぜ自決しなかったのか?

nenecoconenecoさんから二つクリップさせてもらいます。感謝。

http://d.hatena.ne.jp/nenecoconeneco/20051102

靖国にA級戦犯を合祀した松平永芳宮司について

一方で、後任の故松平永芳宮司は、同じ福井出身の故平泉澄・元東京帝大教授の皇国史観に強く影響されていたといわれる。天皇制の護持を重視し、時の天皇が誤ったら「おいさめしてでも」正しく導く---という思想だ。こうした考えは、終戦時に皇居に押し入って玉音放送の録音盤を奪取しようとした反乱軍の兵士にも強い影響を与えたといわれる。「内意」は間違っているのだから、正しくお祭りすることで天皇を「おいさめする」---。そうした倒錯した考えが、合祀を進めた松平氏の背景にあった可能性がある。

A級戦犯の合祀がヒロヒトの意志に反することを松平が知りながらなぜ、合祀を強行しえたのか?その論理的根拠の説明である。

2千万以上ともいわれるアジア人の殺害、数百万の日本人の犠牲を仮に神が無視するとしても、戦争を始めた結果日本を焦土にしてしまった責任を、<皇祖皇宗>が問ないはずはない。平泉澄は本当に問わないと考えていたのだろうか。

被害者の名誉回復

上記のように、合祀の大義が何処にあったのか、を問おうとするのはミスリードかも知れない。

http://d.hatena.ne.jp/nachin7/20051109 には

2005年11月09日(水)の東京新聞記事「靖国神社のA級戦犯合祀」が引用されている。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051031/mng_____kakushin000.shtml

要点だけメモする。

(1)

66年2月 旧厚生省(現厚生労働省)が刑死するなどしたA級戦犯の「祭神名票」を神社側に送った。

その背景:

 旧厚生省援護局は、旧陸軍省と旧海軍省の流れをくむ第一、第二復員省がルーツだ。

ここに戦後間もない四五年十二月から六三年三月まで在籍し、強い影響力を行使したのが、終戦時の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の高級副官を務めた故美山(みやま)要蔵氏だった。

戦時中、美山氏は靖国への合祀を決める責任者だった。

(2)

 神社側は七〇年、東条内閣で大東亜相を務めた総代の青木一男参院議員(当時、故人)に「東京裁判の結果を受け入れることになる」と迫られるなどし、合祀を決めたとされる。

(3)

時期については「宮司預かり」とされ、旧皇族の山階宮家出身の故筑波藤麿宮司は在任中に合祀しなかった。

 それが七八年、一転して合祀に踏み切るのは、筑波氏が亡くなり、後任に故松平永芳宮司が就任してからだ。元海軍少佐で、陸上自衛隊に勤務した松平氏も元職業軍人。義父は、インドネシアでのオランダ軍事法廷で死刑とされた醍醐忠重海軍中将だった。

結論として東京新聞は「こうしてみると、東条氏らの合祀は、戦犯の名誉回復を望む、旧日本軍や大日本帝国の色濃い人々のリレーで進んだことが分かる。」と述べる。

例えば、“わたしは本来庶民ではなく恥じるべき出自などもっていない。だのに戦犯の娘と呼ばれ屈辱を味わった。なんとしても被害者の名誉を回復したい”、という怨念からのひたすらな一念がそこにはあったのだろうか。戦犯とよばれた人がリードした戦争が巨大な災厄をもたらしたことへの責任というものは彼らには存在しない。<皇祖皇宗>も戦争それ自体も存在しない。ただ被害者意識があるだけ。

日本人の同情を獲得できてよかったね!

1959年段階での戦犯観

http://d.hatena.ne.jp/nenecoconeneco/20051103

(仮)日記 – 木曜日

連合国によりBC級戦犯とされ刑死した旧軍幹部らの靖国神社への合祀(ごうし)をめぐり、旧厚生省(現厚生労働省)が一九五九年四月、各都道府県に公表を控えるよう求める文書を出していた

(略)

「部外(多数の一般戦没者遺族を含む)」からの神社側への投書などに表れた意見に照らし「重大な誤解を生じ、ひいては将来の合祀にも支障を起す恐れもある」との懸念が記されていた。

BC級戦犯というと、冤罪であった(と思われる)ケースが強調される。

例えば、マレー半島のネグリセンビラン州でのパリッティンギ村というところで、約600人の村民が集団虐殺された。I中尉が責任を問われた。ほか二人とともに処刑された。I中尉について冤罪説がある。*1I中尉の遺族にとっては彼の名誉に関わる大きな問題であろう。しかし、I中尉の遺族でもその軍の関係者ないものが「冤罪である」と強調するのは如何かね。われわれに関係があるのは、日本軍による村民の集団虐殺の存否という問題である。その点について否認説は存在しない。したがって冤罪云々は別に強調されるべき論点ではないはずだ。冤罪を指摘することは、BC級戦犯全体に対する同情的イメージを再確認することになるが、そのようなイメージ自体、<殺されて省みられない者たち>から見た場合犯罪的であるだろう。

BC級戦犯=同情されるべき犠牲者、というイメージに同意しない人々が国民の間に無視しえない割合で存在したのだ、1959年当時は。ということを証す貴重な記録である。

*1:参考:p123『BC級戦犯』isbn:4004309522

殺す瞬間からの反転

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051108#p1

で、こう書きました。

 人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。

 で私たちの国には死刑制度があり、その国の主権者が他ならぬ私たちである以上、「わたしは人を殺す。わたしはほとんど神だ」と一度は確認しておく必要があるのではないでしょうか。

 わたしというものは時として自己の手には負えない不可能性に向きあわざるを得ず、祈りに満ちた飛躍で飛び越していくしかない存在だみたいな、言表不可能なイメージがわたしにはあります。

・・・

えっと。 http://b.hatena.ne.jp/rir6/ 経由で

布施哲氏の「デリダ ― 政治的なるものへの抵抗」というのをざっと読みました。

http://216.239.63.104/search?q=cache:n8Vx_iwOMIYJ:www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-1/fuse.pdf

デリダ

私の上記のような発想は、ここでデリダが批判しているC.シュミットの思想に近いかもしれないと思った。

シュミットは「政治的なもの」とは友と敵との関係だと言いました。

ここで重要なのは、もしも「政治的なもの」が友と敵との敵対的関係、友敵対立であるとするならば、そうした例外状況の極点である戦争こそが、最も政治的なものである、ということになりはしないか、ということです。そしてシュミットはそのとおりだ、と云います。戦争こそが政治的なものの極点であり、政治家の政治的決断が集約される最高の機会なのだ、というわけです。直截的に戦争を賛美しているわけでは必ずしもないとしても、シュミットは彼が定義するところの「政治的なもの」がヨーロッパの議会主義には決定的に欠落していると嘆いていたことは確かですし、反対に、そうした「政治的なもの」を鋭く問題化していたと彼が考えた論者、理論家たちを彼は評価してもいました。ド・メストルやドソノ・コルテスといった反革命的右翼カトリックの論客からソレル、それになんとバクーニンやプルードンといった、思想的にはまったくの正反対であるはずの無政府主義者、社会主義者、共産主義者たちに至るまで、シュミットはほとんど無節操ともいえるほどに、反議会主義ならびに現実の対立/闘争を主眼に置いた思想家たちを非常に高く買っていたわけです。

http://216.239.63.104/search?q=cache:n8Vx_iwOMIYJ:www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-1/fuse.pdf デリダ

 シュミットは例えば、真に政治的なものの発露である戦争において、自然的な死ではなく、人間が自らの存在を肯定するための、いわば生への意志がわれわれに芽生える可能性がある、ということを云っています。つまり、シュミットは政治的なものの極点としての戦争を、人間の実存(個人的、共同体的な実存)を基礎づける可能な契機、モメントとしても考えていたのでありまして、 (同上)

シュミットにとって、それはとどのつまり、生物学的な生と死を黙して受け入れるだけの自然的な存在ではもはやあり得ない人間が、自らの存在を可能な限りの意志と知性、そして(これはシュミットの大好きな言葉ですが)

“決断”によって基礎づけ得る、至高の機会だったからです。(同上)

 殺すという不可能性に向きあいその不可能を実施してしまうという存在。無惨な、という以外に直視しえない< >。そこから反転することこそが<肯定>である。と翻訳できるものであれば、シュミットと野原はだいたい同じです。

・・・

でまあこれが有名なファシズムの美学という奴ですね。困ったね。

「デリダはそれがヘーゲル的な意味において目的論的である」という言い方で批判するのだそうです。

また、そのような対立によって出来上がった法や、あるいはその法の執行にしても、ベンヤミンの『暴力批判論』などを引用するまでもなく、そこには法に従わない者、あるいはその発効を妨げようとする者の排除や禁止というものが、それが執行されるその都度必然的に含まれており、決して暴力的な敵対性、否定性の契機から自由であるというわけではありません。まさにそうした暴力的な敵対性、否定性は議会主義や議会主義的立法にとっての条件でさえあるといってもよいのです。

しかしデリダは、そのような根源的な暴力や否定性、敵対性そのもの、それ自体を政治の“本質”に据え、それが議会や法から隔絶された次元において私たちの個人的、共同体的実存を基礎づけるなどというシュミット的な発想というものが致命的に誤っていることを指摘します。

わたしは政治の本質は何か分からない。個人的実存を確認するのは、一切の共同体的なあいまいさから独立するためであるのだ。その点がシュミットとは違う。

デリダ『友愛のポリティクス』という本もそのうち読まなければ。