今何か変なことを書いただろうか。

村田さん  コメントありがとう。

「ふんふんふんっ」などについて、問題提起してみたものの自分では答えがうまく見つからず書けずにいました。

(1)

Panzaさんの「神である叙述者(作者ではなく)のナルシシズムを相対化するための自己ツッコミである。」、村田さんの「自らツッコミを入れることで語り手=主人公を相対化したり複数にしたりする力」は正しいような気がします。「叙述者-読者」という関係において、叙述者が独走し読者が付いて来れなくなるのを避け、一方読者にこれは普通の平板な小説ではないよという警告を与え小説を立体化するという効果を果たす、という感じでしょうか。

(2)

「私はヒトだ。」という文に対し、「私はヒトだ。そうだよ、ね、ね。」という文の差異を考えましょう。前者のメッセイジは文の意味がそのままききとられるであろう平静な事態を想定しているのに対し、後者は私がヒトではない充分な可能性(危険性)を持つとする冷たい聞き手を前にしているという危機感を表している。語り手と場の空気との関係を表現するものが、「ね」とか「けっ」というかいう文末の直後に付く間投詞であるわけです。「ふふんふふーん」もその類だと理解しました。『金比羅』は小説ですから“語り手と場の空気との関係”と言ったときの、「場」とは小説に描き出された場でしかないはずです。作者はどんなに変幻自在な妖怪を暴れ回らせる自由もありますがそれは作品の中のことであり、読者には1mmも近づくことができません。

結局ここでわたしは躓いているので、「ここ」とは小説の読解に必要なところではなく、わたしがインスタントにでっちあげようとした「理論」が、素人が椅子を作ろうとしたときのように足がまるまる一本足りないことに気づいたは良いがそれの是正の仕方が分からず立ち往生している、といった状況です。で上手く説明できないしそもそも説明する価値のあることでもないような気がするのですが、しないと抜けられないので、します。

(3)

つまり、(1)では「叙述者-読者」という関係が語られているのに、(2)では「作中人物-作中の場」という関係が語られている。文の構造分析みたいな視角からは、(2)しか語り得ず、(1)は飛躍があるような気がするのです。

(4)

『S倉迷妄通信』p141などでは、

「今何か変なことを書いただろうか。」という文が現れる。

実はルウルウだけが通力のある化け猫だったのだ。(略)

今何か変なことを書いただろうか。(略)p141

四日後ドーラは走り回り、日に何度もカリカリを貪り喰った。ただ自分が人を殺したという感触だけは残った。(略)でも本当を言うと、私は殺してない。--今何か変なことを書いただろうか。(略)p137

猫を愛する平凡きわまりない日常から血みどろの殺害シーンへ、という位相差を飛躍としてでなく連続として笙野は描きたかった。だが、平凡な日常から血みどろの殺害へを連続的に描くことはできてもそれでは<連続>を描くことにはならない。読者の意識の中にある日常と殺害の絶対的断絶というものに働きかけるにはどうしたらよいか。その方法の模索として、殺害シーンに読者が感じているであろう異和感を、隠蔽するふりをしてかえって励起させるために、「今何か変なことを書いただろうか。」という文が挿入される。

これは、小説は最後の頁の最後の1行まで小説の中の世界を描くという小説のルールの侵犯だ。劇中から観客に向かって物を投げてくるようなものか。

(5)

「野生の金毘羅の鳴き声」であるところの「ふんふんふんっ」はまた、劇中で観客に向かって投げられる物、とも規定できる。

ジェンダーフリーとは?

「ジェンダー」使用禁止令!!!!ノォォ━━(゜∀゜)━( ゜∀)━( ゜)━( )━( )━(゜ )━(д゜ ;)━(゜д゜;)━━━ッ!!!!

「ジェンダーフリーとは」

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html

seijotcpさんが作られた、とても分かりやすいジェンダーフリーとは?です。

近くに自民党があるのでプリントアウトして持っていってみようかと思いました!(が、・・・しないでしょう)

呑まれてしまいそうだ。

 --安く新鮮なフルーツケーキを下げて山道の埃っぽい街道を下れば、轟音のトラックの風が体に触れる。くねくねと曲がりながら幅広く光る伝播沼の水面がこちらに向かって来る。角度で果てし無くも見えるその汚れた水は、倒れ込んでくる大きな鏡のようで足元がふっと浮き、私はガード下の竹薮に呑まれてしまいそうだ。

p63 笙野頼子『S倉迷妄通信』

この文章を読んだとき、とても美しい文章だと思った。轟音のトラックが通り過ぎる一瞬は確かに、そこに世界が変化する余地があるのだ。風とともに新鮮な世界が開かれようとし向こうに光る湖が見える。わたしは足元がふっと浮き竹薮にすいこまれてしまう。

 平衡感覚を失わせるほど色彩のゆたかな屋根の波の上で揺れる海へ背をむけて、山頂へ続くはずの坂道を登っていくと、時間的記憶からは先週までくらしていたとしか思えない首都は、まだ至るところに〈私〉たちの息づかいをとどめた十年間の疲れとして思い出される。

 傾斜したアスファルトの坂道は、〈私〉たち以外の重量は受けていないので、スラム街を越えて漂着してくる港からの汽笛に微笑したり、蝶や十字架が投げる影を、身をよじらせて捕えたりするのをやめようとしない。光を浴びる風景は、無意識のうちに、広い空地や露出した岩肌を残しており、みつめられすぎ、使用されつくした疲労感をまだもっていない。というよりは、いつまでも、まどろんでいる欲求に支えられているのかもしれない。

松下昇「六甲」序章、冒頭部分

笙野の文章を読んだときにすぐに思い出したのは松下の上記の文章。身体を使って坂道を下る/登るという身体感覚の変容が同時に、「平衡感覚を失いかけている〈私〉たちの無意識部分への衝撃を与えている」ことが、丁寧に辿られている。近く全文を<引用>したい。

 その時身体が何かの熱で、ほわつとあぶられたような感じがした。すると辺りが急に暗くなり始めた。それは太陽が没したのだ。私は丘陵公園の斜面の家並みの間にまぎれ込んでしまつて、すつかり心を奪われて足もとが浮き上がつていたので、陽が傾き、世界の色調が、あの紫の素晴らしい夕焼けで、此の街の中の甍の盛り上りを一際印象的に色どつているであろうことにすつかり気がつかないでいた。(略)

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」『島尾敏雄作品集・1、晶文社 S36』p192

ついでに島尾敏雄の「勾配のあるラビリンス」という題の短編からも少し引用しておく。何よりも題がこのテーマずばりなので!

オバサンの発見

これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちはオバサン*1としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、オバサン*2たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1

だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋の*3フェミニストの関心を脱中心化する」ことが必要になります。(同上)

コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」と名付けます。(同上)

オバサンは主婦である場合、その家庭ではインサイダーであり支配者であると言えなくもない。しかし、家族の中に要介護老人などをかかえると、彼女は労働時間と感情労働を限界なく搾取されることになる。

*1:原文:女性

*2:原文:彼女

*3:「若く知的な」が抜けている

カン・ゴンさん処刑の危機

http://d.hatena.ne.jp/claw/20051004#p1 経由

北朝鮮に拉致された脱北者、カン・ゴンさんについて、アムネスティ・インタナショナルが緊急行動を呼びかけました。彼は北朝鮮の収容所の映像を入手して日本のテレビ局に渡したことで北朝鮮の工作員に拉致されており、処刑の危機に直面しています。(kazhik)

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=124 RENK東京 – ニュース

カン・ゴンは、2000年に北朝鮮から逃れ、大韓民国の市民となった。カン・ゴンは、2005年3月に中国内で北朝鮮の工作員によって拉致され、北朝鮮に連れ去られたと思われる。彼は現在、首都=平壌にある国家安全保衛部の刑務所に拘束され、拷問または処刑の重大な危機に直面しているものと思われる。

アムネスティー緊急行動文書、UA240/05,ASA24/005/2005、北朝鮮「カンゴン氏処刑危機」和文

2004年2月にカン・ゴンは、咸鏡(ハムギョン)南道の耀徳(ヨドク)管理所(政治犯強制収容所)内部の様子をひそかに撮影した映像を日本のテレビ会社に渡し、この映像は同テレビ会社により放映された。これが、カンゴンが北朝鮮工作員によって拉致された理由の一つと思われる。

カン・ゴンは、国家安全保衛部の中堅幹部であったと思われ、上記の理由により、北朝鮮へ送還された後に、極めて厳しい処罰に直面することが予想される。(同上)

参考サイト:http://www.asiavoice.net/nkorea/ 朝鮮民主主義研究センター

「脱北者は全員難民」 国連の北朝鮮人権報告書

 北朝鮮の人権状況を改善するためには、北朝鮮当局が軍事費支出を減らして、その費用を経済的発展に使わなければならないと国連が指摘した。また、政治的迫害から逃れるため亡命した者にしろ、生活の困窮から逃れようと亡命した者にしろ、ひとまず脱北者は全て難民に分類することができるとみなし、北朝鮮の隣国に人道的措置を促した。

 国連人権委員会のビティット・ムンタルボン(Vitit Muntarbhorn)北朝鮮人権特別調査官は3日、このような内容の北朝鮮人権状況報告書をまとめ、国連総会第3分科委員会(人権・社会)に提出した。国連総会は今月下旬、討論を経て北朝鮮人権改善を促す決議文を採択するかどうか決定する。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/05/20051005000002.html

朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)

祖国に対する義務

戦友精神を体して誠実を守り、危難に臨んで動揺することなく、勇気と要を得た態度とによっておのれの真価を発揮した者は、おのれのうちに侵すことのできない何ものかが存在することを常に自覚していて良いのである。純粋に軍人的で同時に人間的な精神はすべての民族に共通である。こういう場合には、おのれの真価を発揮することは罪でないばかりでなく、邪悪な行為や明らかに邪悪な命令の遂行などのために汚されることなく実現されれば、むしろ人生の本質的な意義の礎石となるのである。p99*1

戦後日本がタブーにしてきた物、軍人精神というものを肯定的に評価している。それはもちろん、愛国心=祖国に対する義務への評価とパラレルなものだ。

祖国に対する義務はその時々の支配権に対する盲目の服従よりも遙かに根本的なものである。祖国の魂が破壊されれば、祖国はもはや祖国ではない。国家の権力はそれ自体が目標なのではない。それどころか、国家がドイツ的な本質性格を破壊する場合には、国家権力はむしろ有害である。それゆえ祖国に対する義務ということからは決して首尾一貫性をもってヒットラーに対する服従という結論が出てくるわけではなく、またヒットラー政権下の国としてもドイツはなおかつ是が非でも戦争に勝たなければならないという結論が出てくるわけではない。ここに良心の錯誤がある。p100

(略)

祖国に対する義務とは何かというに、誤った伝統の上に乗る偶像的人物からではなくわれわれの祖先のうちの最も優れた人たちから伝わってわれわれの心に呼びかける最も気高い要求のために、全人性を投入するということなのである。p101(同上)

 祖国に対する義務の存在を野原は認めるべきか。わたしは日本を捨てて海外へ移住することもできただろうにそうしなかった。文化的にも経済社会としてもわたしは日本しかしらない。それは翻って、わたしが「祖国に対する義務」を負うことを意味するだろうか。もちろん私たちは私たちの意志に関わらず納税の義務を果たし、義務教育を修めている。わたしと祖国との関係に義務と呼ばれて良い側面があるのは明らかだ。であるのになぜ祖国や義務という言葉を素直に使えないのか?

 もちろん、その理由は明らかだ。これからの時代は、靖国参拝した首相小泉純一郎が大勝したことによって画された。“生きて俘虜の辱めを受けず”とした大東亜戦争のあり方を批判せず、大量兵士を南島で餓死させた責任を取らない国家のあり方に追従していくという、<窮極のマゾヒズム>が勝利したということである。と野原は理解している。もちろん国民に聞けばそんなことはないというだろう。だが、大江健三郎提訴問題に誰も発言しないというこの状況は、自分の父親が斧で殺害されたのに笑っている<窮極のマゾヒズム>の薄められた形態以外の何物でもない。とわたしは思う。

ええー。即ち戦後平和主義の国家主義嫌悪はこのように結果した。そこでわたしのような本籍アナキズムなものが、ヤスパースの<祖国に対する義務>を評価するに至るわけである。

*1:カール・ヤスパース『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリーisbn:4582762565

「新しき古(いにしえ)」の精神

ではその古代復帰の精神とは何か?(中略)これは今日普通に唱えられている日本精神とか、国民精神とかいうような封鎖的な、排外的なものではなくて、道徳としては「直ぐな心」を第一に建て、理想としては「自然に帰る」ことを憧憬し、実際的には「洋学をもって砥石として更に日本的なもの」を磨き上げる進歩的な方向を求めるものである。これが見逃されてはならない。この道徳と、この理想と、この実際とが、具体的にどう一致するかは、半蔵においても、作者においても問題ではなく、ただそうした素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」こそ、彼らにとって「新しき古」の道なのである。

(青野季吉)

これは青野の『夜明け前』評から。上記「半蔵」とは島崎藤村『夜明け前』の主人公青山半蔵を指す。

朱子学がその社会倫理の根源とした仁をはじめとする徳目の実体を国学は否定したわけではない。徳を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。

わたしたちの現在の「右傾化」も、アサヒ*1に対する批判として形成された。平和主義を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。とも言える。

現在、祖国というものにわたしたちは、<素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」>を幻視することができるのだろうか。

私としては、ぷろれたりあ・インターナショナリズムやマルチチュードの想いを唱い上げることに異論はないのだが、・・・ 上澄みだけのプチブルの普遍主義、コスモポリタニズムより、「新しき古(いにしえ)」に魅力を感じないでもない。

*1:左翼的な物が権力になっているとする今までは多少とも存在したこと

日本人の血

ところで、小林秀雄は『夜明け前』についてこう言っている。

作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来たまた藤村自身も闘って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。

少し後に「日本的という観念」という言葉もある。小林は何を言っているのだろう?日本人はすべて狂死すべきだとでも言いたいのか。