非其鬼而祭之。諂也。

02-24 子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。

子曰く、その鬼(き)にあらずしてこれを祭るは諂(へつら)いなり。義を見てなさざるは勇(ゆう)なきなり。

http://kanbun.info/keibu/rongo02.html 論語・爲政第二(Web漢文大系)

金谷治訳では、「わが家の精霊(しょうりょう)(死者の霊)でもないのに祭るのはへつらいである。【本来、祭るべきものではないのだから】」、となっている。岩波文庫p49

『礼記』では「その祭る所に非ずしてこれを祭るを、名づけて淫祠と曰ふ」とまで言われてしまいます。

どこでこの文を読んだかというと篤胤の『新鬼神論』です。*1庶民が家に宮を設けて天照大御神を祭るのが上記に該当するのでは?という意地悪な質問があったとして架空問答している。

天照大御神は人々仰ぎ奉る日神の御神霊であり、王どもの死霊(しにたま)なんかじゃないんだから、矛盾は発生しないという答。まあそれはどちらでもよい。この文を引いたのは以下が言いたかったから。

靖国神社の場合、それが神になっているにしろいないにしろ、祭ってあるのは死者(即ち、中国語では鬼)である。小泉とかは、その精霊の家族ではない。したがって小泉の靖国参拝は「へつらい」であることになります。

ところで、

諂う、を『字統』で引くと、「貧にして諂ふ無き【論語、学而】は、容易ならぬことである。」とある。短い文だが、貧しい中からひたすら己の道を貫いてこられた、白川静氏の容易ならぬ生をかいま見ることができるように思う。

*1:p158 日本思想体系50

いざとなったらこれで死になさい

『カルチャー・レヴュー』54号(2005.10.01)に、

■特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(1)として

「いざとなったらこれで死になさい」を掲載してもらいました。

http://kujronekob.exblog.jp/i9 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版

内容は、

0) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050724#p3

1) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050726

2) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050730#p2

3) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803

4) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050807

5) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050816

6) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050820#p1

 に書いたものの一部と、ほぼ同じです。

西尾幹二ってただの電波だったんだ!

馬鹿にされるために登場した八木秀次とは違い西尾幹二は高名なニーチェ研究者だと思っていたのに。びっくりした。chikiさんありがとう。

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051002/p1#seemore 成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― – 「新しい歴史教科書を作る会」会長&名誉会長コンビが出した「ジェンダーフリー・バッシング本」の面白さ。

この本は、新しい歴史教科書を作る会の会長、八木秀次さんと名誉会長の西尾幹二さんの対談です。(略)

(西尾、以下西)成人式に髪つぶてを投げる子どもの荒れぶりや十七歳の凶悪犯罪者が野放しになっていたりする放埓さも、日本を密かに壊そうとする背後の作為があるのだと思えてなりません。

(西)すべてがどこからかの指令によるもので、末端の教師の意思ではない。こうしたことが実地される背景には、フェミニストが官僚機構を抑えていると言うことがあるからでしょう。

 「われわれは語り合うということを学びたいものである。」とヤスパースは言っている。わたしは憎悪せよ!とか言う人だから、ヤスパースとは違うのだが、まあこの場合はヤスパースにおいても充分西尾を全否定できる。

(このアーティクルはフェミナチ掲示板の方に喧嘩を売るためのものですが、TBはしないので気づかないでしょう。来なくて良いよ。)

今朝の神さま

大名持神 大洗磯前社

少彦名神 酒列磯前社   以上 常陸両社*1 

大洗礒前薬師菩薩(明)神社[オホアライソザキノヤクシホサツノ](名神大)

大洗磯前神社[おおあらいいそざき]「大己貴命、少彦名命」創建は由緒書きよりもっと古く、荒吐神の姿が見える神社である。茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890 

酒烈礒前薬師菩薩神社[サカツライソザキノ・・](名神大。) リンク 酒列磯前神社

酒列磯前神社[さかつらいそさき]「少彦名命、大己貴命」斉衡三年。

茨城県那珂湊市磯崎町4607

http://kamnavi.jp/en/hitati.htm 延喜式神名帳 東海道 常陸国hitati

ところで、平田篤胤と平行して笙野頼子『S倉迷妄通信』を読んでいるのだが、彼女の場合は神が直接夢に出てきたりするらしい。

  前の担当 ○ルタヒコ

  今の担当 ○クナヒコナ  同書p96より*2

ちなみにガイドブックみたいなもので調べた限りでは、この神は各県の一の宮などの主要神社の、どこにも「単品」では祀られていない。*3

というのは少彦名のことだが、笙野は酒列磯前社を主要神社に数えていない。しかし、延喜式神名帳の名神大社だし、篤胤も重視しているということから主要神社と言えると思う。

 私は神社訪問などもほとんどしたことはないのだが、能登半島の羽咋、気多大社に先日行って気付いたことは、岬ほど尖ってないが陸が海に向かって大きく張りだした丘があり、海が180度以上大きく見渡せる場所だ、ということだ。地図で見る限り、酒列磯前社も同じような地形の所であるようだ。ましてひたち、日立ちの国、日の出を拝むには最良の場所の一つであっただろう。神が海から来たというよりも、ひとが海を見ることの感動が神を生んだのではないかと思った。

ちなみにいまの神社から海は見えないのかもしれないが、数百年前まではそうではなかったらしい。「この古社地は、現社地の西方の海に望んだ場所(鳥居の辺り)であり、」と下記にあった。

 http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=8&target=place

*1:玉襷の解説より p655 日本思想体系50

*2:「それでも一字欠いたのはやはり国民的神話のとはまるで違う夢や何かのなかの極私的存在だから。」笙野

*3:同書p104

少名毘古那神(すくなびこなのかみ)

少彦名については、古事記より日本書紀の方が多少詳細のようだ。西郷信綱の本まだ2巻までしか読んでないので出てこないのだが、しかたないので、いつものように下記から漢字テキストをコピペし、最低限のフリガナだけつけておこう。

http://www.neonet.to/kojiki/seikai/sinkoji-set.html 『真福寺本古事記』影印

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗(なみのほより)乘(のりて)天之羅摩船(あめのかがみぶね)而、

内剥鵝皮剥(ひむしのかわをうつはぎにはぎて)爲衣服(きものにして)、有歸來神(よりくるかみありき)。

爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知(「知らず」ともうしき)。爾多邇具久(たにぐく)白言、此者久延毘古必知之、即召久延毘古、問時答白此者神産巣日神之御子少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。

故爾白上於神産巣日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣(たなまたより)久岐斯(くしき(漏れた))子也。

故、與汝葦原色許男命爲兄弟(あにおととなりて)而、作堅其國。

故自爾(それより)大穴牟遲與(と)少名毘古那、二柱神相並、作堅(つくりかためた)此國。

然後者(せてのちは)、其少名毘古那神者、度(わたった)于常世國(とこよのくにに)也。故、顯白(あらはしもうせし)其少名毘古那神、所謂(いわゆる)久延毘古者、於今者(いまに)山田之曾富騰者(そほど(カカシ))也。此神者、足雖不行(ゆかねども)盡知天下之事神也。

西郷信綱『古事記註釈・3』p166以下を参考にした。

羅摩船(かがみぶね)、かがみとはガガイモのことだそうだ。らまと書いて何故かがみと読むのか。和名抄という本に羅摩子、和名加加美(かがみ)というふうに書いてあるらしい。

オホナムジに対してスクナヒコナ。兄弟に、オホ~、スクナ~とする命名法があった。

笙野はオホナムジ(女性)に対し、スクナヒコナ(その夫)としているがなぜなのだろう。*1

*1:『金比羅』では、かな

追加情報

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/oarai.html

大洗磯前神社の近くの天妃神社は、かって水戸光圀が媽祖(まそ)を祀った神社。

大洗磯前神社の有名な海上鳥居の写真有り。中国民間信仰研究家二階堂善弘氏のサイトです。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20051004/ibaraki

N.Momoseさんによる大洗磯前神社ほかの巡礼日記。上記もここのリンクから知った。

今何か変なことを書いただろうか。

村田さん  コメントありがとう。

「ふんふんふんっ」などについて、問題提起してみたものの自分では答えがうまく見つからず書けずにいました。

(1)

Panzaさんの「神である叙述者(作者ではなく)のナルシシズムを相対化するための自己ツッコミである。」、村田さんの「自らツッコミを入れることで語り手=主人公を相対化したり複数にしたりする力」は正しいような気がします。「叙述者-読者」という関係において、叙述者が独走し読者が付いて来れなくなるのを避け、一方読者にこれは普通の平板な小説ではないよという警告を与え小説を立体化するという効果を果たす、という感じでしょうか。

(2)

「私はヒトだ。」という文に対し、「私はヒトだ。そうだよ、ね、ね。」という文の差異を考えましょう。前者のメッセイジは文の意味がそのままききとられるであろう平静な事態を想定しているのに対し、後者は私がヒトではない充分な可能性(危険性)を持つとする冷たい聞き手を前にしているという危機感を表している。語り手と場の空気との関係を表現するものが、「ね」とか「けっ」というかいう文末の直後に付く間投詞であるわけです。「ふふんふふーん」もその類だと理解しました。『金比羅』は小説ですから“語り手と場の空気との関係”と言ったときの、「場」とは小説に描き出された場でしかないはずです。作者はどんなに変幻自在な妖怪を暴れ回らせる自由もありますがそれは作品の中のことであり、読者には1mmも近づくことができません。

結局ここでわたしは躓いているので、「ここ」とは小説の読解に必要なところではなく、わたしがインスタントにでっちあげようとした「理論」が、素人が椅子を作ろうとしたときのように足がまるまる一本足りないことに気づいたは良いがそれの是正の仕方が分からず立ち往生している、といった状況です。で上手く説明できないしそもそも説明する価値のあることでもないような気がするのですが、しないと抜けられないので、します。

(3)

つまり、(1)では「叙述者-読者」という関係が語られているのに、(2)では「作中人物-作中の場」という関係が語られている。文の構造分析みたいな視角からは、(2)しか語り得ず、(1)は飛躍があるような気がするのです。

(4)

『S倉迷妄通信』p141などでは、

「今何か変なことを書いただろうか。」という文が現れる。

実はルウルウだけが通力のある化け猫だったのだ。(略)

今何か変なことを書いただろうか。(略)p141

四日後ドーラは走り回り、日に何度もカリカリを貪り喰った。ただ自分が人を殺したという感触だけは残った。(略)でも本当を言うと、私は殺してない。--今何か変なことを書いただろうか。(略)p137

猫を愛する平凡きわまりない日常から血みどろの殺害シーンへ、という位相差を飛躍としてでなく連続として笙野は描きたかった。だが、平凡な日常から血みどろの殺害へを連続的に描くことはできてもそれでは<連続>を描くことにはならない。読者の意識の中にある日常と殺害の絶対的断絶というものに働きかけるにはどうしたらよいか。その方法の模索として、殺害シーンに読者が感じているであろう異和感を、隠蔽するふりをしてかえって励起させるために、「今何か変なことを書いただろうか。」という文が挿入される。

これは、小説は最後の頁の最後の1行まで小説の中の世界を描くという小説のルールの侵犯だ。劇中から観客に向かって物を投げてくるようなものか。

(5)

「野生の金毘羅の鳴き声」であるところの「ふんふんふんっ」はまた、劇中で観客に向かって投げられる物、とも規定できる。

ジェンダーフリーとは?

「ジェンダー」使用禁止令!!!!ノォォ━━(゜∀゜)━( ゜∀)━( ゜)━( )━( )━(゜ )━(д゜ ;)━(゜д゜;)━━━ッ!!!!

「ジェンダーフリーとは」

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html

seijotcpさんが作られた、とても分かりやすいジェンダーフリーとは?です。

近くに自民党があるのでプリントアウトして持っていってみようかと思いました!(が、・・・しないでしょう)