ふふんふふーん・2

ところで『金比羅』図書館で借りて、もう2週間はとっくに過ぎているので明日は返さないといけない。もう少し引用しておこう。

小説冒頭部分でこの擬音語でも擬態語でもない奇妙な「ふふんふふーん」系の言葉(文字列)は次のところに集中して現れる。

(p11)

 ふふん!

 みっつというのはなんという都合のいい数でしょう。三と言っただけで愚民はもう全てを網羅し、可能性を調べ尽くしたと思ってくれるのですから。

 いやいや、しかし皆さんのような反権力・非愚民がそんな単純な事で騙されるはずはない。だって私だって別に騙そうとも思ってないんだから。へっへー--。

(p14)

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

(p23)

あなた方などは神について語ってはいけない。たかが人間がね、何も知らない癖に。おや、今むっとしましたね。はっはっはっは、ふん。だけれども私達神が聞こえる神が見えるものと、あなた達人間とは違うのですよ。ですからね、今こそね、その違うということを思い知りなさい。ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

もう一度列挙すると次の通り。

  1. ふふん!
  2. へっへー--。
  3. ふふんふふーん
  4. ふんふんふんっ。
  5. ・あーあ、ねーえ。
  6. はっはっはっは、ふん。
  7. ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

この小説は、私が私について語る一人称小説である。そしてまた私が語り手となって、読者に向かって饒舌に語りかける、というスタイルを取る。それだけなら良いのだが、この「私」は実は人間ではない。金比羅だ。私達=神が聞こえる神が見えるもの、である。当然、あなた達人間とは違う。しかし神に近いものがそこらへんのおばちゃんのように自分のことをどんどんしゃべり始めてものだろうか。神に近いものは当然人間からは高慢に見える。しかし、半神はそもそもそんなことすら気にしない者ではないのか。人間の常識の範疇を超えているはずだ。しかしそれでは人間と関係を持てない。笙野の金比羅は一面、べたべたのおばちゃんであり相手の顔色を見ながら自分のことをどんどんしゃべり続けるのだ。

と言うことは、金比羅は高慢と媚びという二面を持つ。

1.高慢 2.媚び 3.4.高慢 5.媚び 6.高慢 7.媚び。このように考えると、この種の文字列がなぜ、数個づつ固まって現れるのかの説明が付く。

しかし上記のように二面に分けるのはかなり無理矢理だ。文字列たちは、身も世もなく身をくねらせるかのように、多彩で多様である。半神とただの人間との落差を埋めるための装置であり変幻自在でなければならないのだ。

(9/26追加)

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

「けっ」でしかない私

(p15)

 なぜ、あるはずのないそんな灯を見るのか、それは当人が助かりたいと思っているから。

 普遍的私の普遍的運命、それは結局自分だけでもうまい事して助かりたいという、個別の自我を核とした普遍的希望により選び取られるのだった。そしてそういう発生故にまたこの普遍的私は、いわゆるひとつの「ひとごとではない大層なお大事な私」に、つまりは他者から見たら「けっ」でしかない私になり果ててもいるのでした。

この断片も引用しておく必要がある。ただし、この断片は上記3つとは少し違う。登場する文字列が「けっ」一つだけである。けっには「」が付いている。それだけでなくこの小説では異例の哲学的文章(普遍的が4つもある)による解説的文章である。

追加されるサンプル

 8.けっ

私は高慢たりえない?

とここまで書くとまた新たな疑問が湧いてきた。

(1)金比羅は高慢である。また長編小説作家はその限りにおいて全能なので当然高慢である。ということは一般人は高慢たりえないということであろう。

ところが、「3.ふふんふふーん」の場合はどうか。この場合、一般人が「科学の子」と自称しているだけであるのに、高慢である。

 ここで多少説明的になる。誰かが海で遭難するとき、助かりたいと思っていると海上に突然灯がともる。灯は神様の灯だ。この灯を見る人についての説明が上記の断片p15だ。ところが非常に例外的に神様の灯を否定する人がいる。それが断片p14の科学の子だ。

「あるはずのないそんな灯を見る」「当人が助かりたいと思っているから」というのが、日本人の神であり尊いことなのだ。という側に作者は立っているように思える。したがってそれを否定する「科学の子」は一般人として許されざる傲慢であると。でもそうであれば、金比羅=高慢を強調することは話を分かりにくくしているのではないか?

公平な心で読んでください

 大概は漢国の事実に合わせて徴(しるし)とし、古伝説に照してその実有なる事を暁(さと)し、また因(ちなみ)にすべて神祇の事に渉る事等を、古へ意を以て論(あげつら)はむとするなり。漢学の人々、願わくは孔子の「意なく、必なく、固なく、我なし」*1てふ情(こころ)にならひ、公平(おほやけ)なるこころを持(もち)て熟(よ)く見別(みわか)ち賜(たま)ひねかし。

(平田篤胤『新鬼神論』p138 日本思想体系50)

篤胤には新鬼神論と鬼神新論があり内容は似たようなもののようだ。神と鬼を一緒くたにするのは如何なものか、と思われるでしょうが、儒教(朱子とか)の伝統では、鬼神論というテーマ設定で考えることになっていた。

朱子は「天は理のみ」と言っている。つまり理という非人格的原理が普遍的に世界を支配しているという思想だ。ここからいくと神さまだとか幽霊だとか祖先の霊などというものは無い、少なくとも限りなく無いに近いということになるのが自然だ。

しかし篤胤は神道ですから、天津神や国津神を全否定する思想は許せない。そこで孔子(論語、中庸)のなかに、鬼神の実在を語った部分があるじゃないかということを50頁くらい延々と論じたのが新鬼神論です。

 引用した文章は、ただ自分と意見が違う人でも、公平なこころを持ってよく考えて読んでください。(納得できなければ反論してください)。みたいなとても開かれた心情を感じることができると思ったので引いてみた。*2

篤胤というと狂信的国家主義ということになっているが、そのへんのプチウヨの魂がひょっとすると腐臭を発しているのとは大違いである。

*1:「勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我をはらない」金谷治訳 岩波文庫『論語』p167   

*2:別に大した文ではない。

テスト

09-04 子絶四。毋意。毋必。毋固。毋我。

子、四(し)を絶(た)つ。意(い)するなく、必(ひつ)するなく、固(こ)なるなく、我(が)なるなし。

http://kanbun.info/keibu/rongo09.html 論語・子罕第九(Web漢文大系)

Panzaさんがやっている引用部分に色を付けるというのをやってみようと、 「<table border=1 bgcolor=”#ffeeee”>

<td>」と「</td></tr></table>」の間に文章を入れてみた。最後に変な点線が入る意外は上手くいった。なぜ点線が入るのだろう?

引用は「>>」という行と「<<」という行で囲む、という簡易な方法だけでこれまでやってきた。たまに気分を変えるのも良いか。

ちょっとやり方を変えてみたが結果は同じだ。

なお、色見本はこちら:とほほの色入門・色見本

http://www.tohoho-web.com/wwwcolor.htm

老人介護問題

http://med-legend.com/mt/archives/2005/09/post_665.html 医学都市伝説: 老人介護を楽になる方法

「痴呆老人を介護する家族の苦労というのは並大抵のものではな」い。どう向きあったら良いか?

上記ブログでは、「言語的コミュニケーションを重要視するな」と提唱している。

したがって、その対応は非言語的なレベルでの受容というものが中心になるべきで、もっと簡単にいえば、「説教せずに、相手のいうことはハイハイと受け入れ、主にボディコンタクトなどを介して行動を導く」という単純な手順だけで、痴呆老人の問題行動のかなりの部分は軽減する。もちろん、しつこい非現実的要求が続くことはあるが、それを言語的説得しても意味はない。あえていえば、「とにかくその場はゆったりとごまかす」という対応で十分だ。何しろ相手はぼけているのである。このアドバンテージさえ自覚すれば、いくらでもごまかせる。

その意味では、痴呆老人への対応のエキスパートはそこらの医療福祉関係者ではなく、リフォーム詐欺などを生業にしている連中であろう。非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげれば、言語合理性のレベルでは無理とも思える消費行動に引き込むことも出来るのだ。医療福祉関係者はこのテクニックを、何としても学ぶべきであると思われる。

老人介護のことは何も分からない。ただ「非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげ」るというのは、どんな場合でも大事なことなのだろう。わたしにはできないが*1・・・

*1:居直らない!

非其鬼而祭之。諂也。

02-24 子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。

子曰く、その鬼(き)にあらずしてこれを祭るは諂(へつら)いなり。義を見てなさざるは勇(ゆう)なきなり。

http://kanbun.info/keibu/rongo02.html 論語・爲政第二(Web漢文大系)

金谷治訳では、「わが家の精霊(しょうりょう)(死者の霊)でもないのに祭るのはへつらいである。【本来、祭るべきものではないのだから】」、となっている。岩波文庫p49

『礼記』では「その祭る所に非ずしてこれを祭るを、名づけて淫祠と曰ふ」とまで言われてしまいます。

どこでこの文を読んだかというと篤胤の『新鬼神論』です。*1庶民が家に宮を設けて天照大御神を祭るのが上記に該当するのでは?という意地悪な質問があったとして架空問答している。

天照大御神は人々仰ぎ奉る日神の御神霊であり、王どもの死霊(しにたま)なんかじゃないんだから、矛盾は発生しないという答。まあそれはどちらでもよい。この文を引いたのは以下が言いたかったから。

靖国神社の場合、それが神になっているにしろいないにしろ、祭ってあるのは死者(即ち、中国語では鬼)である。小泉とかは、その精霊の家族ではない。したがって小泉の靖国参拝は「へつらい」であることになります。

ところで、

諂う、を『字統』で引くと、「貧にして諂ふ無き【論語、学而】は、容易ならぬことである。」とある。短い文だが、貧しい中からひたすら己の道を貫いてこられた、白川静氏の容易ならぬ生をかいま見ることができるように思う。

*1:p158 日本思想体系50

いざとなったらこれで死になさい

『カルチャー・レヴュー』54号(2005.10.01)に、

■特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(1)として

「いざとなったらこれで死になさい」を掲載してもらいました。

http://kujronekob.exblog.jp/i9 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版

内容は、

0) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050724#p3

1) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050726

2) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050730#p2

3) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803

4) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050807

5) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050816

6) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050820#p1

 に書いたものの一部と、ほぼ同じです。

西尾幹二ってただの電波だったんだ!

馬鹿にされるために登場した八木秀次とは違い西尾幹二は高名なニーチェ研究者だと思っていたのに。びっくりした。chikiさんありがとう。

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051002/p1#seemore 成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN― – 「新しい歴史教科書を作る会」会長&名誉会長コンビが出した「ジェンダーフリー・バッシング本」の面白さ。

この本は、新しい歴史教科書を作る会の会長、八木秀次さんと名誉会長の西尾幹二さんの対談です。(略)

(西尾、以下西)成人式に髪つぶてを投げる子どもの荒れぶりや十七歳の凶悪犯罪者が野放しになっていたりする放埓さも、日本を密かに壊そうとする背後の作為があるのだと思えてなりません。

(西)すべてがどこからかの指令によるもので、末端の教師の意思ではない。こうしたことが実地される背景には、フェミニストが官僚機構を抑えていると言うことがあるからでしょう。

 「われわれは語り合うということを学びたいものである。」とヤスパースは言っている。わたしは憎悪せよ!とか言う人だから、ヤスパースとは違うのだが、まあこの場合はヤスパースにおいても充分西尾を全否定できる。

(このアーティクルはフェミナチ掲示板の方に喧嘩を売るためのものですが、TBはしないので気づかないでしょう。来なくて良いよ。)

今朝の神さま

大名持神 大洗磯前社

少彦名神 酒列磯前社   以上 常陸両社*1 

大洗礒前薬師菩薩(明)神社[オホアライソザキノヤクシホサツノ](名神大)

大洗磯前神社[おおあらいいそざき]「大己貴命、少彦名命」創建は由緒書きよりもっと古く、荒吐神の姿が見える神社である。茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890 

酒烈礒前薬師菩薩神社[サカツライソザキノ・・](名神大。) リンク 酒列磯前神社

酒列磯前神社[さかつらいそさき]「少彦名命、大己貴命」斉衡三年。

茨城県那珂湊市磯崎町4607

http://kamnavi.jp/en/hitati.htm 延喜式神名帳 東海道 常陸国hitati

ところで、平田篤胤と平行して笙野頼子『S倉迷妄通信』を読んでいるのだが、彼女の場合は神が直接夢に出てきたりするらしい。

  前の担当 ○ルタヒコ

  今の担当 ○クナヒコナ  同書p96より*2

ちなみにガイドブックみたいなもので調べた限りでは、この神は各県の一の宮などの主要神社の、どこにも「単品」では祀られていない。*3

というのは少彦名のことだが、笙野は酒列磯前社を主要神社に数えていない。しかし、延喜式神名帳の名神大社だし、篤胤も重視しているということから主要神社と言えると思う。

 私は神社訪問などもほとんどしたことはないのだが、能登半島の羽咋、気多大社に先日行って気付いたことは、岬ほど尖ってないが陸が海に向かって大きく張りだした丘があり、海が180度以上大きく見渡せる場所だ、ということだ。地図で見る限り、酒列磯前社も同じような地形の所であるようだ。ましてひたち、日立ちの国、日の出を拝むには最良の場所の一つであっただろう。神が海から来たというよりも、ひとが海を見ることの感動が神を生んだのではないかと思った。

ちなみにいまの神社から海は見えないのかもしれないが、数百年前まではそうではなかったらしい。「この古社地は、現社地の西方の海に望んだ場所(鳥居の辺り)であり、」と下記にあった。

 http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=8&target=place

*1:玉襷の解説より p655 日本思想体系50

*2:「それでも一字欠いたのはやはり国民的神話のとはまるで違う夢や何かのなかの極私的存在だから。」笙野

*3:同書p104